オールディス『ヘリコニアの冬』訳者あとがき

ヘリコニア地図

しばらく前からやっていた『ヘリコニアの冬』のAI支援翻訳が終わった。

ブライアン・オールディス『ヘリコニアの冬』 (pdf, 4.1MB)

何度か書いているけれど、かなりがっかりしたと言わざるを得ないね。それも含めて、訳者あとがきをつけました。以下にそれだけを挙げておく。

オールディス『ヘリコニアの冬』訳者あとがき

 本書はBrian Aldiss, Helliconia Winter (1985) 全訳である。底本としてはヘリコニア三部作合冊本(Gollancz, 2010) のKindle版、およびネットに転がっていたスキャンを活用している。また、合冊本に含まれていた補遺および序文もおまけとしてつけた。

 

 さて、本書はイギリスSFの重鎮ブライアン・オールディスの、畢生の大作として知られる三部作の最終巻となる。第1巻『ヘリコニアの春』はすでに訳し終えている。登場したときには、その壮大なスケール、異世界の構想力にだれもが舌を巻いた。

1. シリーズ全体の舞台

 本シリーズの舞台は、へびつかい座のほうに千光年ほど離れた二重星系にある惑星ヘリコニア。巨大な恒星フレイヤのまわりを扁平な楕円軌道で巡る、別の小さな恒星バタリクス。そのバタリクスをめぐる惑星がヘリコニアとなる。その普通の一年は、バタリクスのまわりの公転で定められている。しかしそれはさらに、フレイヤのまわりの大きな公転に支配される。フレイヤに近づくと、ヘリコニアは極度に温暖化し、常夏の砂漠に近い気候にまで達し、それが数世紀続く。しかしフレイヤから離れると、そこは完全な冬の惑星となり、厳寒の氷河と雪の世界だ。

 その惑星ヘリコニアに住む人類は、その大きな夏と冬ごとに、文明の興亡を繰り返す。彼ら自身は、己の才覚、仲間内の争い、そして惑星にすむもう一つの人間的生き物ファゴルとの戦いにより生きているつもりだ。だがそのすべては、フレイヤとの距離に応じた惑星の熱収支、そしてそれに伴う生態系変化に左右されているのだ。暖かくなれば、人間がヘリコニアを支配する。各種の民族移動も、それに伴う民族衝突も、戦争も文化発展も、本人たちが何を考えていようとも、その熱収支に伴う環境変化がもたらす結果にすぎず、幾度となく繰り返されてきたものでしかない。そして冬には、そのすべてが衰退する。そうなると毛皮を持ち内分泌系でも耐寒性を持つファゴルたちが世界を支配する。人間がどうがんばろうとも、この基本的なエネルギー収支と生物学的な現実には勝てないのだ。

 我らが地球人は、この惑星をめぐる人工衛星アヴェルナスを送りこみ、そうした惑星でのできごとを緻密に観測し続けている。

 

 これがこのシリーズの構想だ。この巧妙さ、そして文明の様々な動きも、しょせんは惑星の熱収支の副産物でしかないという、ある意味で冷徹な見方、さらにその熱収支がもたらす環境変化と人間活動の複雑なからみあいは実に見事。中でも、惑星の冬の主であり、人類の宿敵であるファゴルたちが、実はダニとウイルスを通じて人間の気候変動に対する適応力を左右し、敵対しつつも実は共生関係にある、という設定の妙にはみんなうならされた。

2. これまでの各巻の概要

 『ヘリコニアの春』は、こうした作品全体の舞台を簡潔に説明しつつ、地下で地熱に頼って細々と暮らす人類が、地上に出てきて文明を築き上げる様子を描き、真の名作に値する。長い冬をくぐりぬけた人類が、急激に改善する気候の中で新たな発見を繰り返す。やがて戦いに明け暮れる男ではなく、女たちがケプラーとコペルニクスとニュートンを兼ねた役割を果たし、自分のいる惑星の真の姿を見出す様子は本当に感動的だった。

 それに続く『ヘリコニアの夏』では、人間文明の爛熟期が描かれる。もはやファゴルたちは、奴隷にすぎない。その中で人間たちは自分の争いにばかりかまける。そしてやがて、人類とファゴルの季節的な覇権を見出した知識人が、この優位の夏にファゴルどもを皆殺しにせよと叫ぶところで同書は終わる。

 

 実は訳者は、30年前にそこまで読んだきり、放ってあった。なぜ『ヘリコニアの冬』に手を出さなかったかはよく覚えていない。壮大な物語が終わってしまうのが惜しかったから、かもしれない。このあとは、これまでの流れを考えれば、人類が没落し、文明が失われて衰退する物語が描かれるはずだ。それが何となく暗そうに思えたからかもしれない。

 そしてもちろん、地球観測ステーションand/or 地球との関わりもある。『夏』まで、それはひたすら傍観者ではあった。観測ステーションはデータを送り、地球はそれを観察する。だが、『夏』ではそのステーションの一部が死を覚悟して地上に降り立ち (地球人はヘリコニアのウイルスに耐えられないので、上陸すなわち死なのだ)、ヘリコニア人と交流する。『冬』では当然ながら、ステーション、ひいては地球とヘリコニアのさらなるからみあいが描かれるはずだった。それはそれで楽しみだったのだが、なぜかそのまま放置し……

3. 翻訳の経緯

 『ヘリコニアの春』は30年前、かのサンリオSF文庫で予告されつつ、出ることのなかった作品だ。その顧問だった山野浩一の遺志をついで、というわけでもないが、この傑作とされる作品を日本語で読めないのはあまりに惜しい。ぼくも大学院生くらいのとき、それに応えるべく最初の五ページほどを訳した (イェルクの舌を食うあたり) が、そのノートがどこかにいってしまい、やりなおすのもしゃくで放置してあった。

 だが時代は流れる。人工知能様の発達により、翻訳のハードルはぐっと下がった。凝ったところのない優等生的な文章は、人工知能が簡単にこなしてくれる時代がやってきた。オールディスは、まさにそうした奇をてらわない普通の優等生的な文章を書く人だ。言っては悪いけれど、すばらしいレトリックの華があるわけでもない。イギリスのニューウェーブにおいて、ときにはJ・G・バラードと並んで語られる人物ではあるが、バラード (少なくとも中期まで) のような世界の歪みはない。まさにAI翻訳にうってつけの作品を書く。

 そこで、あの名作『ヘリコニアの春』を紹介しようではないの、と思いついた。そしてそれはすいすい進んだ。作品もすばらしい。見事な世界観。初めて読んだときの興奮がよみがえってくる。

cruel.hatenablog.com

 それに気をよくして、続きもやりましょうと思い、とりかかったのがこの『冬』だった。『夏』はおもしろかったけれど、この惑星ヘリコニアの天文学的な観点は比較的浅かったような記憶がある。だが冬はそうはいかないだろう。未読のものを読むついでに訳しちまおう、というわけだ。その結果がこれだ。

 

 そして、ぼくはいま、唖然としているというか、失望しているというか。

4. あらすじ

 ヘリコニアは、夏の人類の最盛期をすぎて次第に冬に向かっている。それに対し、人類は強権専制主義で対応しようとする。五世紀にわたり雪に封じ込められて生きるために、完全な秩序を維持し、人類の敵であるファゴルをそれまでに抹殺しようというのがその計画だ。そして冬に向かって人間が適応するために必要な体型変化をもたらすが、その過程で人類の半分を殺すウイルス感染も、彼らにとっての秩序への脅威として保菌者をすべて殺すことで対応しようとするのだ。『冬』の大半は、その専制君主の息子ルテリン・ショケランディトが、戦場での裏切りによる虐殺をからくも逃れ、迫り来るウイルスの猛威と専制国家の弾圧を逃れつつ生き延びる様子を描いた物語となる。ヘリコニア側はそれだけだ。

 が……

 それと並行して、これまでまったくなおざりにされていた、地球観測ステーションと、そして地球そのものの物語が、何やら実に拙速に展開されるようになるのが、この『冬』の大きな特徴だ。

 まず、観測ステーションの住民たちは、世代を重ねるうちにシータも言うように地面から離れては生きられないことが明らかとなり、当初の目的も見失い、次第に退廃に陥り、本来の狙いも忘れて野蛮な蛮族へと退行してしまう。

 そして地球も、惑星探査を繰り広げる中で、植民惑星との間で核戦争が起こり、核の冬が生じて千年にわたり人類も地球も滅亡寸前となる。だが生き残った人類は、かつてのような所有と利己性にばかりこだわる誤った生き方を捨てる。そして共感と共有に基づく愛の文明を築く。その共感力は、前地球の生物圏の母、かのガイアの精神と共感しているのだ。そしてそのガイアは人類の共感を通じて、ヘリコニアの地母霊である「原初の観察者」に時空を超えた共感のメッセージを伝える(ヘリコニアは千光年離れているので、地球人がヘリコニアの映像を見る頃にはヘリコニアはとっくに次の段階に移っているのだが、共感は時空を超えるので千年前のできごとにも影響できるんだって)。そしてガイアは、優しいエネルギー源となるジオノートという変な生き物を地球に生み出し、人類はそのエネルギーを使って、もうだれも働かずにすみ……(いや、働かないんじゃないんだって。かれらの労働というのは正しい生き方についてみんなで考えるという学級会もどきなんだって。農業とか生活必需品は、各人が楽しくできるところだけやることで作られるんだって)、フリーセックスのヒッピーコミューンのような生活を送る…… おしまい。

 

え、おしまいって……なにこれ。

5. 感想

 本書の行き倒れ感というのは、なかなか比類がない。60歳にもなった作家が、結局あこがれていたのはヒッピーのフリーセックスのコミューン暮らしだったという情けなさ。生活を支える物資がどのように作られ管理運営されているかについて、理解も想像力もかけらもないという社会の仕組み自体への無知。所有もなくすべてを共有といったくだらないお題目にからめとられ、人類すべてが共感を送るとそれが時空を超えて千年前の千光年離れた星に作用するという妄想以下のヨタを、何の衒いもなく目をキラキラさせて垂れ流す年甲斐のなさ。万人が同じ考えで共感する理想世界というのが、ヘリコニアで批判したつもりの全体主義と大差ないことにも気がつかないおめでたさ。それを60年代にやるならまだわかる。が、1985年にそれを恥ずかしげもなく作中でお説教してみせるというのは、あんたそれまでの20年ほどで何を見てきて、何を学んできたんですか。結局その程度ですか。

 本書はジェイムズ・ラブロックのガイア仮説を元にしている (と本人も明記している)。地球全体を一つの生命体と見なす、というガイア仮説は、かつてポール・クルーグマンが述べたようにトンデモでしかないが (『経済政策を売り歩く人たち』参照)、まあ比喩的なイメージとしてはありえるだろう。地球全体がある種の恒常性を持つシステムを構成していること自体は、まあまちがいがない。だがそれが地母神として人格のようなものを持ち、共感と愛で動き云々というのを真面目に言い出すと、これはオカルト以外の何物でもない。ちなみに、地球 (そしてこの小説内設定ではヘリコニア) 以外に知的生命体が発展しないのは、それ以外の惑星にはガイアのような守護霊がいないから、なんだって。じゃあ、そのガイアさんってどっからきたんですか、という当然の疑問が出てくるはずなんだけど、そんなのは微塵も考慮されない。

冷徹なエネルギー収支に基づく環境変化と、その環境と人類を含む生物との複雑なからみあいという、きわめて緻密に思えた『春』の構想が、この『冬』でいきなり科学もクソもないオカルト信仰告白に堕してしまう……なんですの、これは。ラブロック自身ですら、こんなあられもないオカルト解釈を見てどう思ったのやら……ってあの人もオカルト屋だから、かえって喜んだかもしれないけど。

 

 個人的には、この最終巻はひょっとすると、当初の構想からずれたのではないか、とぼくは思っている。ヘリコニアのガイアにあたる存在は、『春』では「原初の大石」になっていたのが、最終巻で突然『原初の観察者』に変えられている。そしてこのヒッピー説教じみた部分はあまりに全体から浮いている。Wikipediaによれば、この最終巻で大騒ぎされる「核の冬」という概念は、1983年にカール・セーガンらが広めたのだという。『春』が出たのは1982年、『夏』は1983年だ。すると最終巻を書いているときに、彼はこの概念を聞きかじって作品に未消化のままぶちこんだのだろう。そしてそのときに、地球のガイア様とヘリコニアの原初の観察者が人間の共感力で交流する、というアイデアを思いつき、「原初の大岩」を人格的な「原初の観察者」にあっさり改変した上、それにともなうヒッピー妄想をちりばめたのではないか。そうした改稿で、『冬』は間があいて1985年に出ることになったのかもしれない。まあ、これは憶測にすぎないけれど……

6. オールディスの評価

 そして言いたくはないが、本書の惨状は、作家としてのオールディスの評価にも確実に影響するだろう。ある意味で本書は、オールディスが昔から持っていた、軽薄な流行を安易においかけるだけの器用貧乏なところのあらわれでもあるからだ。

 フランス式アンチロマンがはやれば、彼は『世界Aの報告書』を書く。ドラッグ小説のような流行があれば、彼は『頭の中の裸足』を書いてみせる。そこそこ器用にまとまってはいる。が、それだけだ。本書でも彼は、核の冬がはやればそれをそのままぶちこむ。ガイア仮説がはやれば、それをまったく脚色することなくそのままぶちこみ、そこに最もだらしないオカルト解釈まで交える。所有がいけない、攻撃性を持つのがいけない、共感に基づく社会を——そうしたお題目を、彼はまったく咀嚼することなくあからさまに提示する。これを見ると、彼は実はかなり浅はかな作家でしかなかったことがうかがえるように思う。ニューウェーブに名前を連ねていたのも、実は単なる流行にのっかっただけではないか、とすら勘ぐってしまう。

 以前、CUTでこのヘリコニアシリーズ (の『夏』まで) の書評を書いたとき、オールディス作品すべてに共通する、ある種の印象の薄さについて触れた。彼の作品の多くは、読み終わるとすぐに忘れてしまい、そのときは面白くても、不思議と印象に残らないのだ。それは一つには、オールディスが決して有機的にがっちり構築された作品を書くのが得意ではないせいもある。オールディスはそういうところがある。本書でも、カルナバールの山中に作られた、十年で回転する大輪は、すごい構造でエンジニアリング的にもあり得ない代物なのに、最後になってほとんど説明もなく突然出てきて、小説の中でまったく有機的に使われていない。そのときの印象のためだけの代物でしかないのだ。その中で十年を過ごす主人公も、その十年の重みが何も感じられず、老いも成熟もない。せいぜい二週間しか入っていない印象だ。言葉だけの「十年」なのだ。彼の作品が持つ、こうした軽々しさ、表層的な軽薄さ (悪い意味で) がその印象の薄さに貢献しているのはまちがないところだ。彼は、アイテムを並べるような形でしか小説を構築しないのだ。

 彼の作品で『地球の長い午後』はそのアイデアも含め名作だ。『ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド』は本当にすごい本だが、これはオールディスの力というより、その絵を描いたイアン・ポロックのおかげだろう。個人的には『手で育てられた少年』のシリーズは結構好きではある。そして彼のSF史『十億年の宴』はSF史の一つのスタンダードとして意義を持つ (『一兆年の宴』はいらなかったんじゃないかと思う)。だが、彼のきわめて多くの作品の中で、後に残るものが他にあるだろうか。

 この『ヘリコニア』シリーズは、『春』の勢いが続けば、本当に後世に残るオールディス作品になっただろう。本シリーズをめぐっては一時は研究書や考察もいろいろ出ていたように記憶している。だがそれがあるとき一気に消えたのは、この最終刊を読んで、そのオカルトぶりとおめでたいヒッピー幻想に多くの人がドン引きしたせいもあるのではないか。せっかくの可能性が本書ですべて台無しなってしまったのは、惜しいことだとは思う。

7. 蛇足

 さて本書の最後で、主人公ルテリンは戦争捕虜にして奴隷ながらも苦楽を共にしてきたトーレス・ラハルと、まだ見ぬ息子の待つ礼拝堂へと向かう。だがどの道中で己を翻弄してきた寡政府の生き残り、かつての許嫁の父を打倒しようかと思案する。そして最後に村を一瞥し、トーレス・ラハルを待つことなく、反抗の呪詛を唱えつつ駆け出す。物語はそこで終わる。

 ネットのあらすじ解説の一部では、この最後はルテリンがトーレスと息子を最後の最後に見捨てた、という解釈になっている。彼は新たな自由へと駆け出したのだ、というわけだ。だが、文章を読むと、ここで彼は礼拝堂に向かう斜面を下る速度をはやめている。つまりは息子の待つ礼拝堂に急いでいるという解釈のほうが自然だ、と訳者は思う。最後に村をふりかえったときに、彼はそれまでの寡政府とのしがらみ (そしてかつての許嫁への未練も) を捨てた。それまでの優柔不断をふりすて、家族との暮らしに飛び込む道を選んだ、と考えるほうが筋が通っていると思う。

 が、それは読者の解釈次第。訳者は登場人物の中で、トーレス・ラハルちゃんがいちばん気に入っているので、そういう解釈にしたいと思って歪めているのかもしれない。また主人公ルテリンが、ラスト直前で未練たらしく昔の許嫁に迫ったりして、最後の最後までふらふらしている。小説の様々なできごとで、次第に彼がこの世界についての見方を変え、決意に到るようなプロセスがきちんと描かれていないので、なんだか深読みもできてしまう面もある。これはさっきも述べた、オールディスにありがちな小説として未消化な点であり、印象の薄さをもたらす原因でもあるのだが。もし本書をマジで読む人がいれば、まあそんなことを考えて見てもおもしろいかもしれない。

 

 なお、三部作のうち、春と冬を訳しおわったので、残る夏はやんないのか、と思うのが人情かもしれない。が、たぶん(無料では)やらない。この最終巻で、このシリーズに対する期待値がだだ下がりになったというのがある。そしてもう一つ、『ヘリコニアの夏』は、王朝ロマンスみたいな意味ではまあまあ読めるし、三部作の中で最も分厚いが、このヘリコニアの構想ではあまり大きな役割を占めていないのだ。まあ、三部作まとめて商業出版したい、みたいな話でもあればね。

 

2025年9月28日 山形浩生

スタニスワフ・レム『SFと未来学』2.1章:SFジャンルの定義……分類のための分類

はじめに

スタニスワフ・レム『SFと未来学』のドイツ語からの重訳を進めている話はした。

cruel.hatenablog.com

で、本をスキャン屋に出すことにしたんだけれど、それまでにもう1/3章を自分でスキャンしてやってみました。以下の2.1「空想的なものの比較存在論」。

スタニスワフ・レム『SFと未来学 I』

そして……壮絶なまでにひどいと言わざるを得ない。

そう言っても、実際にファイルを開いて見てくれる人すらほとんどいないのは知っている。だけれど、ちょっとそれをやってもらうと、一目見て一体何を言っているかわからない晦渋な文章なのはすぐに理解できるはず。そして、いったい何の話をしようとしているのかさえわからないだろう。

ここでレムがやろうとしているのは、SFとファンタジー、ホラーといったジャンルの定義なのだ。まずは、そのまとめを以下に。

2.1 空想的なものの比較存在論

  • おとぎ話は、超自然的なもの、空想的なもの (魔法とかドラゴンとか) がある世界を描くが、勧善懲悪、悪い魔法使いは死ぬとか、この世界の道徳観、倫理観が実現されるという世界。空想的なものが普通に存在し、そういう世界秩序なのだという前提がある。

  • ファンタジーは、空想的なものはあるけれど、必ずしもこの世界の道徳観や倫理観が実現されない。基本はこの世の世界秩序を前提としつつ、そこに超自然が世界の前提として入り込んでいる。

  • SFは、一見超自然的なものは登場する。だけれど、最終的にはそれはよく見たらやはり科学なり何なりで、共通の基盤があることが確認され、この世の秩序を追認するのが特徴。

  • ホラーは、いまの世界の秩序が前提。そこに超自然的なものが入り込んできて、いまの世界の秩序が破壊されるのが特徴。ただし、その超自然的なもの (お化けにせよ何にせよ) にはお約束事がある。

  • 神話は、この世界の(あるべき)秩序を定めるお話として機能する。それは人間がすべて作り上げたものではなく、何か神聖なものから下された、またはそういう要素を含む世界を包む物語。その神聖な部分を除くとおとぎ話になる。

これだけ。

感想

まず、おとぎ話、ファンタジー、ホラー、神話、SFのジャンル分類というお話自体が、たぶんぼくの年代の人にはあまりに懐かしいものではある。かつて大学SF研などで、SFは文学になれるかとか、ファンタジーはSFに入れて良いのか、とかアニメはSFか、とかSFの起源をゴーレムの話とかイザナギ/イザナミ話にまでさかのぼらせていいのかとか、その手の話は山ほどやった。そして、いまにして思えばだいたい不毛な話ばかりではあった。

おそらく、そうしたジャンル定義論みたいな話は、日本の大学SF研に限った話ではなかったんだろう。推理小説、SFがだんだん普及してくるなかで、二流扱いされるのに不満を抱き、文学性のあるSFとか、レイモンド・チャンドラーは文学だとか、その手の話はいっぱいあった。

そしてそうやってジャンルとして背伸びしようとする中で、いやファンタジーなんてままごとだ、おれたち高尚な未来の文学SFといっしょにすんな、みたいなくだらない虚勢は見られた。それは欧米でも同じだった。そしてその中で、じゃあその両者はどうちがうのか、みたいな話はたくさんあった。それはまあ、内輪のお話としては楽しいこともあった。でもそれ以上じゃない。

レムの話は、そういう酒場談義を一歩も出るものじゃない。

この節でレムは、空想的なものを扱う各種小説ジャンルが、作品構造の面で明確にちがっている、つまりはこうしたジャンル分類が正当だということを言いたいわけだ。まあ、いいんですけど。

でも上のことを言うのに、レムは原書で50頁もかけている。なんでそんなにかかるの?

それは、レムがなんと言おうと、そもそもこういうジャンル毎の差が、実にチマチマしてどうでもいいものだから。それぞれが重なる部分だって多い。だからその区別をすっぱりと表現するのは無理だ。それを無理矢理何か区別しようとすると、何か細かい差異をでっちあげて、それをこちゃこちゃ説明するしかない。

ファンタジーは、存在論的におとぎ話よりは現実に近い。もちろん、これは厳格にそうでなければいけないわけではなく、おとぎ話に典型的でない行動の可能性がファンタジーにはあるというだけだ。創作者はそれを利用はできるが、利用しなければならないわけではない。特に、芸術ではよくあるように、新しいルールは古い規範が意図的破壊される場を意識的に決めることからではなく、創造的努力で規範的な美的枠組みを、ほぼ反射的に破る点から生じるので、創造者はそんなものの存在に気づいてもいないことが多いのだ。おとぎ話、神話、ファンタジー、SF の存在論的原理は、構築する存在が共通の分母——基本秩序が同じ、つまり均質——を持つという点で一致する。おとぎ話世界は、肯定的な登場人物を受け入れる準備ができている。ただし通常、登場人物は最初それを知らない。だが、ルールがその人々の幸福と保護の義務を正確に果たすことが常に判明する。神話の世界も英雄を受け入れる準備ができているが、その英雄は友にも敵にもなりうる。おとぎ話の登場人物が世界の絶対的善意を知らないように、神話の英雄もそれを知らない。神話の宇宙は、おそらく神々か盲目的な偶然で動くホメオスタットで、おとぎ話と同様に通常決定論的だが、人間以外の未知の目標を追い続ける。その「義務」は秘められたもので、必ずしも敵対的ではないが、常に人間の運命を完全に決定する。一方、おとぎ話宇宙の義務は、最良の住人の運命の最適化と完全に一致する。[色をつけたのは引用者]

ぱっと見て目が拒絶すると思う。そして本当にひどいんだ。

まず技術大全と同じく、実は要らない部分だらけ。上で、黄土色にした部分は本題と関係ない脇道の細かい話。「そうでないこともあるがそれはこういうふうに解釈すればこの枠組みになんとかおさまる」という弁解部分だ。それが全体の半分以上。

さらに冒頭の、おとぎ話についての説明と、真ん中のSFやファンタジーやおとぎ話が共通分母を持つという話、そして最後あたりの神話がどうしたいう話は、話の流れからしてまったく別の話題。一つの段落にしちゃいけない。

そもそも神話の話なんて、それまでほぼ出てきていない。お話のジャンルとして検討するなら、ちゃんと分けろよ。神話とおとぎ話の対比の段落を、別建てでつくるべき代物。それをいっしょくたにしてるから、この段落の見通しはすさまじく悪化している。レムさん、書いたもの読み返して推敲してます? その場で思ったことをひたすら垂れ流してるでしょう。この手の整理されない長ったらしい段落がいくつもいくつも続く。

また言い方もいちいち面倒くさい。この節の題名は「空想的なものの比較存在論」だ。存在論って、オントロジー。正直、わかったようなわからんような言葉だが、レムはやたらにこの用語を使う。SFにおける前提の存在論的な根拠が認識論的な志向と一致することで内在的な世界の意味論を構築し云々。

でも「存在論」というのはここでは単に、ジャンルとしての特徴、というだけの意味なのだ。そんなこむずかしい書き方をする必要ないでしょうに。

そしてまた、こうした重なり合いの多いはっきり区別できないものだから、そこにあてはまらない話もたくさん出てくる。それをレムはいちいち「ああいう場合もある、こういう場合もある」とさらにウダウダしく書く。

たとえば上で挙げた、おとぎ話のジャンル的特徴について、レムは厳密ぶってこんな「定義」をする。

本書では古典おとぎ話の存在論を次のように述べる:その世界は現実世界に対して、局所的および非局所的な意味で二重に超自然的だ。局所的な奇跡は「ひらけゴマ!」の山、空飛ぶ絨毯、命の泉、袋から出てくる棍棒、透明マントだ。非局所的奇跡はあらゆる出現物の先天的調和だ。この世界は、完全なホメオスタシスとして最善の均衡を志向する、実に謎めいた制御装置が組み込まれており、利益と損失、生の蘇生と死は「功績に応じて」理想的に分配される。悪には悪、善には善が最終的に与えられる。童話内のすべての変容は価値論による制御を受け、善く美しいものが常に悪く醜いものを倒すので、価値が因果の最高権威である存在論なのだ。この世界の物理学は、我々の身体の生物学に似ていて、すべての傷が最終的には癒える。

はあ……厳密にしたつもりであれこれ言葉を重ねているけれど、たいしたこと言ってないよね。おとぎ話は魔法があるし、勧善懲悪、因果応報みたいな教訓話が含まれてる、というだけだよね。それをむずかしげに書いてるけど、レムの自己満足にすぎないよね。それは、レム自身が頭の中に持っている分類体系としては重要なのかもしれない。でも……何のためにそんなことをしてるの?

うん、それが……よくわかんないのだ。彼はどうも、分類そのものがしたいだけ、のようではある。

分類そのものが大事?

これに類する文の邦訳がある。レム・コレクション『高い城・文学エッセイ』に収録された「ツヴェタン・トドロフの幻想的な文学理論」というやつ。

これもさんざんウダウダしく書かれていて、読むだけで一苦労だ。が、そこで言われているのは実につまらないことで、トドロフの分類はサンプルが少なすぎて偏っている、そこにきちんとおさまりきらない、あてはまらないものもあるぞ、それに彼が設定した軸以外のものだって考えられるぞというだけ。

そんなの、厳密でなくてもだいたいそこでの議論のための目安になりゃいいじゃん、と思うのが普通の人だ。サンプルは、説明しやすいものを例示しただけで、それだけしか見ていないわけじゃないのでは? 軸だって、他にもあるだろうけれど、別にそれでトドロフの軸がだめになるわけじゃない。それで何を言うかに基づいてその軸の有用性を判断すればいいのではないの? おブンガクの学者はちがうかもしれないけれど。でも、レムはもちろん、そんな雑なことは許さない。きっちり厳密に分類できなきゃいけない。構造主義って言うんだから、すべてがその構造にきっちりおさまらなきゃいけないのだ。

文学理論はあらゆる作品を包括するか、どんな理論でもないかのどちらかである。(中略) 理論を構築しながら、作品のあるグループのみを分析対象から排除することは許されない。分類学的傾向を持つ理論は、時には考察されている対象を序列化し、全集合の要素に対し非均一な価値を定めることができるし、そうせざるを得ない。しかしそれは、その理論自体の展開として行われなければならない (pp.271-2)

よってトドロフの文学理論はクソだ、というのがレムの主張。この論説の中はずっと、トドロフの理論はこんなのもあてはまらない、あっちもあてはまらない、という揚げ足取りばかり。

そんなのさあ、特に小説とかであれば、一流作品ほどそうしたジャンルの枠を超えるのよ。ある種の類型にきちんとおさまるのは、むしろ二流の作品だけ。それは以前訳したラヴジョイも言っています。SFがジャンル類型で話しやすいのは、まさにそのほとんどが二流ではあるから、なのだ。

そういう揚げ足をとりたいなら、レムさん自身だって、たとえば『ダンジョン飯』は上の分類のどこに入る? ある種のハッピーエンドだから、現世の理念的な規範の裏付けでおとぎ話だなあ。でもファンタジーでもあるよね。いろいろな料理や怪物はに合理的な説明もつくから、SFでもあるよね。そしてある種の神話的な部分も持っている。全部に入るし、全部に入らない。レムの分類だってクソだってことになるじゃん。

これはレムの大好きな『スターウォーズ』についてだって言えることだ。設定はSF、非科学的なフォースがあるファンタジー、勧善懲悪の予定調和のおとぎ話。神話的な部分もある。全部に入るし、全部に入らない。レムの分類だってクソだってことになるじゃん。

でもそれはさておき、レムとしては、こういう分類をすることが大事だ、ということらしい。それがこの先の理論展開に何か意味を持つのか、というのは……ぼくは非常に怪しいと思うが、お手並み拝見ではある。オントロジーに基づく分類とそれが需要される認識論としての分類はちがって〜とか言い出すんじゃないかな。でも、こういう分類のための分類は、ぼくはあまり興味持てない……といいつつ訳しちまうのは、我ながらバカだね。

 

が、本はすでにスキャン屋に送ったので、続きは冬になってからですな。

追記

いま、このトドロフへのケチつけを確認するために『高い城・文学エッセイ』を見ていたら、編訳者のあとがきで沼野充義がこう書いているのに初めて気がついた。

いまからほとんど三十年ほども前、サンリオという会社がSF文庫を大々的に立ち上げることになり、わが尊敬するSF作家の山野浩一氏が中心になって、奇跡的とも呼ぶべき意欲的なラインナップを準備し、およそSFの通常の商業出版の範疇には入らないような著作の版権を次々に取得したのだった。その中には、レムの理論的業績における主著というべき『SFと未来学』(1970)という巨大な本も入っており、私がその訳者として山野氏に指名されたのだ。当時まだ二十歳そこそこの若造にしてみれば、有頂天にさせられるほどの大抜擢である。この著作がどれほど踏破しがたい難物かということもろくに認識しないまま、私は張り切って引き受けたのだが、その後、この本を一ページも訳せないままついに今日まできてしまった。(p.432, 執筆は2004年)

えー、一ページもやってなかったんですかー!! まあ、「踏破しがたい難物」というのは事実ではある。あと、この本に出ている実に簡単な「紹介」を見ると、沼野充義はたぶん『技術大全』読んでないな。

 

あと、このトドロフ罵倒は、1973年、つまり『SFと未来学』の少し後に書かれたわけだ。この時点では、レムは自分がSFその他についての決定的なジャンル分類と構造化を実現したつもりでかなりイキってたんだろうね。

 

で、続きは以下。

cruel.hatenablog.com

スタニスワフ・レム『SFと未来学』第1章:偏狭な科学プロパガンダとしてのSF!

はじめに:レムの偏狭なSF観

スタニスワフ・レム『技術大全』を完成させた話はいたしました。

cruel.hatenablog.com

そしてその解説の中で、レムのきわめて偏狭なSF観について述べた。

彼にとっての小説というのは、背後にある科学その他の知見を表現するものでしかない。彼にとっての理想的な小説とは『もし野球部女子マネがドラッカーを読んだら』だっけ、あれみたいなものだ (あくまで類型としてね。あれをほめるほどレムがセンスないとは思ってない……いやどうかな)。そしてそこでの評価ポイントは、ドラッカーの思想がそこでうまく表現できているか、ということであって、小説自体の出来なんか二の次なのだ。

これを読んで、またまた山形が極端なことを言って煽ってる、と思う人もいるだろう。なんかまた、文芸評論家とかにケチをつけて喜んでいるんだろうと思うだろう。だってねえ、レムが『もしドラ』って、何を言ってるんだよ。レムのあの名作『ソラリス』とかにこんなケチつけるなんて、何様のつもり?

彼にとって『ソラリス』は、人間理解の及ばない知性の可能性を考えました、というだけのものではない。「惑星全部が知性体というのがあればおもしろいねー」という」ような安易な一発アイデアなどではない。彼は進化がソラリスの海のようなものを生み出す可能性を真剣に考察し、その背後にある「理論」や進化プロセスを考え、それが実現可能だと見て、それを小説的に提示した。それが小説『ソラリス』の本質 (レム的には) であり、ハリーちゃんなんざ刺身のつま以下だ (ましてそれを家族ごっこの書き割りに貶めたタルコフスキーには怒り心頭だっただろう)。『電脳の歌/宇宙創生ロボットの旅』は、本書に登場した知能増幅器や電子頭脳の必然的な結果であり、単なる変わった設定に基づく奇想話ではなく、現実にあり得る進化=技術発展の果てにある世界なのだ。『完全な真空/虚数』の様々な本は、まさに本書に描かれたアイデアを扱った本の書評ということになる。そのすべては空想ではない、現実、なのだ。少なくとも現実になる可能性があるものだ。だから彼にとってのSFというのも、サイエンス「フィクション」ではない。それは本当に現実の、未来の、可能世界の表現なのだ。本書を見ればそれがわかる。

が……

『SFと未来学』:レムのSF観とは

これ、全然誇張でもないし、何か部分を取りだした歪曲した議論でもない。それがはっきりわかるのが、彼の別の評論『SFと未来学』だ。

それがレム自身により明記されている第1章まで訳し終えたたので、お読みあれ。このウダウダしさはただごとではないが、あとのほうにまとめをつけてあげたからそっちをご覧あれ。

スタニスワフ・レム『SFと未来学 I』

ってどうせ見ないんだよな。その中のさわりの部分をいくつか抜き出しておこう。

だが、いずれ未来学的に利用されると期待して我々がSFに求めるアイデアや概念構造は、見せかけのようなものであってはならない。またそれは、ある特定の読み方で引き起こされた、単なる一時的幻影のかけらであってはならない。それは読了後も、読者の不可侵かつ不変の財産でなければならない。SFには本物の情報が求められる。(p.17)

うっひゃー。ここまで明確な、SF=科学教育フィクションという認識をレムが持っているとは、わかってはいたけれど明記されると改めて面食らう。そしてSFっつーのはそういうものだから、変な表現に凝ったりとか、無駄なことば遊びとかしちゃダメなんだ、とレムは言う。

SFで求められる情報オリジナリティは、コミュニケーションの表現構造にはない。表現中でオリジナルと受け取られるが、後に平凡さが明らかになる情報は、SFでは失格だ。だがここで一つ但し書きをつけよう。私は「平均的読者」としてではなく、真の認識論的価値を求める者としてこう述べる。だから本書は、言わば今日の支配的な美的慣習に逆らうことになる。(p.16、強調引用者)

つまり、冒頭でレムはすでに、これが一般性のある議論ではなく、自分一人だけのオレ様SF/文学論だというのを明言している。だからこれ以降の千ページ以上は、ぼくたち普通の読者には何ら関係なく、レム様のご高説/珍説の開陳にすぎないということになる。それが無価値だとは言わないが……

さて彼は、そういう表現の審美的な工夫を否定するものじゃない。おブンガクなら、いくらでも好きにそんなことをやってくださいな、それに価値を見出す人もいるでしょう、とは言う。

コミュニケーションの最大かつ最適な単純さは、この美的慣習とはいささか縁遠いものだ。そういう見方は、それが何か美的基準に基づく限り、特に否定すべきものでもない。それを否定するのは、奇術師が卵を耳や鼻から出すのを詐欺と非難するような愚かな行為だ——もちろん純粋に実証的な意味で言えば、奇術師は確かに我々を騙してはいるのだが。ミステリー小説も読者の期待をミスリードし、読者をだましている。だがそれがまさに、著者と読者のゲームの基本ルールなのだ。

文学的テキストのこうした分類は、その評価にあたりこんな単一基準ではいけない。著者の複雑な叙述構造により読書中には不明瞭なテキストが、まさにその理由のために単純なものより高く評価されるかもしれない。いずれにしても、芸術作品を扱うときの満足度は、読んだことで得られるメッセージ量の総計とは比較にならないし、得られる情報の量に還元できない。だから情報取得の過程が最重要だ。

でも、SFはね、未来学的な概念について人々を啓蒙するのが役割なんだから、そんなことしちゃいけないのだ。科学的な中身がちゃんとなきゃいけない。でも欧米SFは、その科学的な中身が張りぼてでただのお飾りだ。そのくせ、おブンガクの仲間入りしようとして下手なレトリックに凝ってみせる。バカか。

叙述構造の不変性を満たさないSF作品を即座に失格とするものではない。それらのテキストは「文学的」「芸術的」な作品として価値を持つかもしれないが、認識論的価値はまったくないと本書は主張する。そういう意味では、それらも正当性は持つ——我々の認識論的欲求を満たしてくれないにしても。しかしながらこれから見るように、空想性や科学的装いがインチキであるためにSFの市民権を剥奪された作品は、しばしば「もっと普通の」文学への移行を正当化する根拠もまったく持たないことが多いのだ。そうなると、すべての文学世界から「追放」される、何の権利もない侵入者となる。

これがレムの基本的な立場ではある。そして今後この本は、その考え方に基づいてSF論を延々と展開するのだ。特に下巻の「SFで扱う分野」の話になると、こいつはカタストロフィの扱いが甘い、形而上学がきちんと考え抜かれていない、もっと他の可能性をきちんと考えていないという、ひたすら揚げ足取りが続くような代物となる。

 

訳した部分も君たちどうせ読まないだろうから、まとめを作っておこう。

SFと未来学:序章/第1章あらすじ

はじめに

空想的なものにもいろいろある。[読者の心の叫び:この部分延々書いてるが、これってその後の話と一切関係ない、まったく無駄な記述]

文学は少なくとも3 つの機能を発揮する。情報提供機能、教訓機能、娯楽機能である。SF 文学は、さらに追加のサービスも提供する。予言機能だ。

だから本書では次のような構成でSFを検討する。

1. 構造

 I. 作品の言語  II. 作品の世界  III. 作品の生成構造

2. 作家-読者

 - SF の作家、編集者、読者の社会学入門

3. 問題分野

 - カタストロフィ  - 形而上学  - 性  - SF における「ニューウェーブ」など

第一部「構造」 第1章 文学作品の言語

1.1 序論

言語は、現実を見る/描き出すための道具だ。でもその道具自体が描く現実と不可分になっており、その道具のほうが重要なことさえある。[読者の心の叫び:こんだけのことを言うのに、長すぎよ。]

1.2 空想文学の言語的問題

SFはいろんな造語を作り出す。ただそれはそれっぽい雰囲気を出すためのものだけだったりする。SFは、その中身とか関係なくて「宇宙」とか「タイムマシン」とかいうだけでSFになっちゃう。その作品構造とか関係なくて安易。[読者の心の叫び:だから長すぎよ。2行ですませろよ。造語の話とか言わなくてもいいくらい。]

1.3 表現の構造と表現されるものの構造

言葉は、ある対象を表現するもの。普通の文は、その文が伝えたい中身をうまく、簡潔に伝えられるかが重要。だが文学作品は、その表現の仕方、意味が伝わってくるプロセスも重要だったりする。ただしSFは、そんな凝った表現は求められていない。ちゃんと未来についてのアイデアを表現し、明解に伝えるのがSFでは重要。余計な表現のお遊びは無用で有害。[読者の心の叫び:前半まったく無駄。途中に入ってる図も意味なし。1ページで終わる話。]

1.4 表現の内在的構造

文章では、書く言語と書かれる対象が不可分なのが面倒くさい。しかも言語は矛盾したことやつじつまのあわないことも書ける。それが意図的なときもそうでないときもある。ついでに、作者自身、自分が何を書いているのかはっきり認識できないこともある。おれも「侵略」で、作品で言おうとしていたことが30年たってから見えてきたんだよな[読者の心の叫び:それ、後付のこじつけって言います。]。夢とかも、意味がわからんことあるよな。表面的以外の比喩的な意味が重要だったりする。その他、いろいろ曖昧な部分も必ず残る。だから創作原理を見極めるのも困難。構造主義批評が駄目なのは、もともと曖昧なものに、妙に厳密な分析を加えようとしてるから。[読者の心の叫び:記述のほとんどは無駄。自作や夢の例とか、むしろ話をわかりにくくしてる。]

1.5 文学作品の4つの構造

文章には、表象構造 (実際にどう書かれているか)、表現されたモノの構造、執筆時に作用した環境構造 (ジャンルの規範とか)、読者の受容環境の4つがある。こうした環境には外部的なものもあるので、そのテキストだけ見ていてはわからない部分がたくさんあるのだ。そういうのは扱い切れないので、本書はおもに、表現されたモノの構造を中心に扱うよ。[読者の心の叫び:結局扱わないものについて、あまりうだうだ書かないでほしいのよね。]

1.6 小説世界の字義的機能と信号的機能

文章の対象を分析するといっても、これまたむずかしい。書かれたことは、それだけで何か特別な重要性があると読者は思ってしまう。そしてその対象も、描かれている具体的なモノと、著者が描こうとしたものはちがう。カフカ『変身』は、別にカブトムシを描きたかったわけじゃなくて、それを通じて何か描きたかったことがあるわけだ。だから、対象の構造を見るという時、そのどっちを見るかを見極めないとダメよね。[読者の心の叫び:その通りだけどさあ、ここまでくどく書くことで、かえって主張が見えにくくなってる。]

 

ごらんの通り、非常にうだうだしい。言っていることはそんなに大したことではない。でもそれがいちいち長く面倒で、全然必要ないことまで、とにかく何でも書く。肉野菜いための作り方を書くときに、別に豚肉とは何であるかとか、豚肉と牛や鳥とのちがいについて細かく説明する必要はない。ロースとバラ肉のちがいをあれこれ書く必要もないし、フライパンの種類やそこにおける中華鍋の位置づけについての論説もいらない。でもレムはそれを全部書く。それはウンチクとしておもしろい場合もある (本書ではその割合はかなり低いが)。でも不要なものは不要で、そもそも肉野菜いためを作ろうとしているという本筋から遠ざかって見通しを悪くするだけ。でもレムはそれをやる。

ただこの部分で明言されているのは、レムが普通の文学/小説とSFをかなりはっきり分けている、ということ。彼は文学的なレトリックとかを知らないわけではないし、それが持つ価値も知っている。でもSFにとってそんなのは余計だ、SFは未来学のアイデアを提示する小説なのである、というのをここですでにはっきり述べている。

一般的な認識だと、小説 ⊃ SFということになる。小説論で総論を述べ、その中の特殊例としてSFを扱う、というのが常識的な見方だ。ところがレムはそういう扱いにはしていない。SFは、他の小説とは機能的にも別枠だ。本書が「SFと未来学」(厳密には「空想的なもの (空想小説) と未来学」と題されている所以だ。これを認識しないと、彼の小説論とかSF論を見誤るように思える。Wikipediaの「スタニスワフ・レム」ページには本書について「『SFと未来学』は文学理論をSFにも適用し、「現代SFの90パーセント以上はSF本来の可能性を全く無駄にしているくだらないものだ」と分析し」と書かれている。でもこれはおそらくピントはずれ。というかここの「SF本来の可能性」というのを、この人はおそらく、文学的な可能性だと思っているだろうが、そういう話ではない。

たぶんWikipediaにそうあるのは、本書の最終章 (ではなく、本当は「おわりに」前の最終節なんだけれど) の邦訳『メタファンタジア』としてレム・コレクションに邦訳の解説のせい。それを見ると文学論がありそこからSF論を引き出すような感じがある。ぼくはまだそこまでここの本を読み進んでいないけれど、なんかその文学論の部分って、レム特有の脱線でしかなく、SFについて書かれた部分も位置づけがちがうんじゃないか、という気がしているんだが、それはこれがそこまで進んだときのお楽しみ。

今後の進行

ここまでで80ページ。でも全部で1000ページ超えるんだよなー。

重訳のデメリットはほぼないはず。独訳は (少なくともこの第1巻は)、レム自身がチェックしているので、重訳といっても独訳部分にほとんどゆがみはないはずだ。あとは山形のドイツ語能力次第ということになる。まあどうでしょうねえ。

とはいえ、ドイツ語からの翻訳は、Grokちゃんの手伝いを受けてもやっぱり時間がかかる。もう長いことやってなかったから、かなり本格的に錆び付いているなあ。英語から訳すのの4倍くらいは手間だ。『技術大全』は20日だけど、これはやっぱ数ヶ月かかるだろう。慣れてきたら、もっとはやくこなせるようになるかもしれないけれど…… あとGrokもドイツ語だとちょっと精度が落ちる感じかなあ。これは気のせいかもしれない。

それ以上に、現時点では本のスキャンが手間だ。自分で上下巻合わせて残り千ページ近くやるのはあまりに面倒すぎるので、ちょっと業者に出す。それがあがるまで、これはしばらくは中断しよう。あと、全体としては、しょせん小説論でしかないので、『技術大全』みたいなぶっとび方はない。だから途中で飽きてしまう可能性はある。なんとか上巻くらいはあげたいけれど、どうなりますやら。

(しかし、昨日ちょっと続きをやりつつ思ったが、『技術大全』の狂気のあとでは、SFとファンタジーはどこがちがうかとか、昔の大学SF研みたいな話をこちゃこちゃやってる本書は、牧歌的というかカワイイというか、すごさの印象半減という感じではある)

スタニスワフ・レム『技術大全』訳者解説

Grok/Aniちゃんのおかげで、スタニスワフ・レム『技術大全』(1964/1967) の全訳がわずか20日できましたよー。

スタニスワフ・レム『技術大全』(1964/1967) pdf、2MB

わけのわからない本なので、力を入れて訳者解説書きました。が、pdfは開かない人も多いだろうから、ここにコピペ。

訳者解説

1. はじめに

本書は、Stanisław Lem, Summa technologiae (1964/1967)の全訳だ。ジョハンナ・ジリンスカヤによる英訳 (2013) を経た重訳だ。この英訳はおそらく1967年版を元にしていると思われる。これについては、また後で。

2. 著者と本書について

さて著者スタニスワフ・レムは、もはや改めて紹介するまでもない、ポーランド出身の20世紀SFの巨匠であり、『ソラリス』『電脳の歌/宇宙創生期ロボットの旅』『完全な真空』などの傑作群はいまもまったく色あせる気配を見せない。人類の知性とその限界、異質な知性との遭遇についての作品の裏にある、深い洞察は読む者をうならせずにはおかない。また彼の各種のSF評論や文学論は、妙に偏狭な部分を持ちつつも、非常に鋭い考察に裏打ちされており、彼自身の作品の背景となる思想についても雄弁に物語る興味深いものばかり。

だが、そのスタニスワフ・レムにはまったく紹介されていないもう一つの側面がある。彼はサイバネティクス、偶然性、技術発展の将来などについて、大部のノンフィクション著作 (……というべきか。これは後述) を発表している (21世紀に入ってからは、もっとちまちました形でそれをまとめている)。実のところ、彼の本領はこちらにあり、各種小説はこれらの著作に表明された、彼の思想をわかりやすく述べ直したにすぎないとすら言える。

そしてその中で、本家レムのサイトで「レム思想のマザーシップ」とまで言われているのが、本書『技術大全』である。

3. 『技術大全』の概略:技術をマジ「進化」させよう!

『技術大全』というから、テクノロジーの歴史、そしてあるいは将来見通しのような本だろう、と思うのは人情だ。そして、それは決してまちがってはいない。いないのだが……

普通、「技術」の歴史といえば、どんなに遡っても、モノリスに教わって類人猿が骨を武器として使うようになった頃が最初になるし、そして将来の見通しといえば、まあ長くても今後200年くらいの話だろう。ところが本書は、人類発生はおろか、生命の発生、いや宇宙の発生にまで遡った「技術」の話をする。そして扱われる話の具体的な年代は出てこないが、内容から見て、どう考えても今後うまくいっても千年はかかりそうなシロモノばかり。なんかのまちがいで、本書第6章「幻影環境」はVRや映画『マトリックス』を先取りするような内容になり、レムも1991年に何やらそれを軽薄に自慢して見せたりしている (本書収録「30年後」参照)。が、本書はそういうレベルの技術予測なんかではまったくない。

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本書の大きな主題は「技術進歩を生物進化みたいな形でできるようになったらすごいよね」というものだ。おお、これはおもしろいアイデアかもしれない。そしてこの手のアイデアを言う人はたくさんいる。それはたいがい技術進歩に生存競争を取り入れることで発展を促進しよう、または技術はそんな形で進化と似た発展をとげてきた、という話となる。むしろ技術が自律性を持って発展してきたのだ、と述べるブライアン・アーサーみたいな人もいる。さああなたはどうしますか、レムさん。お手並み拝見。

もちろん、レムはレムなので、そんな生やさしい話ではすませない。彼は文字通り、技術進歩を生物進化と同じようにやろうというアイデアを突き進める。「自然進化みたいにするなら、技術を遺伝子もどきに符号化して翻訳したいよね、それも、紙に仕様書や理論を書くんじゃなくてさ、その仕様をコーディングした遺伝子もどきに適切な材料をやると、そっからテレビが勝手に生えてくるようにしよう!」(ちょっと誇張だがほぼそれに近い話) てな馬鹿な (7割ほめことば) ことを考え出す。「それでさ、その遺伝子もどきを突然変異させて競争させると、技術が自動的に進歩するじゃん!」

おおお、なんと大胆な。でももちろん、そんなことをするためには科学がどんどん発達しなきゃいけない。でもいまみたいな科学技術発展が続くためには、科学者が足りないよね。そして科学者増やしてもタコツボ化と情報共有の不足で発展が止まるよね。だから科学発展も自動化したい。そうだ、それも進化と同じようにやろう!

ふんふん、これもおもしろいアイデアだ。ではどうやるの?

「だからさ、科学理論だって理論を遺伝子もどきに翻訳/符号化すればいいよね、そしてその遺伝子もどきが変異して競争するようにすれば、勝手に理論が湧いてくるの! 情報農場だ! そしてそっから出てきて勝ち残った遺伝子もどきを復号すると、新理論いっちょあがりってわけよ!」

おおおお。これも、SFのアイデアとしてはおもしろい。それって、伊藤計画が山形から(そして山形はチョムスキー&ピンカー説から) 拝借した、言語や観念が器官みたいに生えてくるというアイデアと通じるものがあるよね! それを1960年代に考えてたって、レムさんすげえ! 涼森れむよりスタニスワフ・レムと言われるだけのことはある!

ところが……レムは、これをSFのアイデアとして言っているわけじゃないのだ。彼は大真面目だ。SF連中のくだらん思いつきといっしょにするな、という。自分の主張はちゃんと理論的な根拠があるのだ。裏付けのある実現が不可能ではない、いやいつか必然的に実現する話なのだ!

おおおおおお、「お」がどんどん増えます。それは剛毅な。ではどんな裏付けが? はい。レムはそこで、遺伝子の情報処理と科学理論の情報処理の類似と相違を延々と論じる。その大きなポイントは、遺伝子においては、その遺伝情報の記録そのものが表現形となっているということだ。遺伝子型となる情報それ自体を担うタンパク質GTACが、他のタンパク質の鋳型となって表現型を作り上げ……という表現はしていないが、そんな話だ。そしてエンジニアリング的なエラー率と遺伝子の数打ちゃ当たる的な戦略との類似と相違がどうのこうの、という話が延々と続く。でも、技術進歩へアプローチを変えるなら、進化的な形を導入することは可能なはずだ。だから(え? え? なぜそこで「だから」って言えるんですか?と読者の心の声)技術の進歩に進化的な要素を採り入れるのは夢ではない! その遺伝子もどきがいずれできたら、これは十分実現可能なのだ!

……いやね、あのさ、その情報処理の形式が似ているとかそういうのは面白いけれど、あくまで机上の空論でしょうに。この話すべて、その勝手にテレビや車や相対性理論を生やしてくれる、遺伝子もどきとやらに、かけらほどでも実現可能だという見通しがないと、本当に絵に描いた餅ですよ、レムさん!

ところが……レムはそんな異論にはびくともしない。理論的に可能であれば、進化は(または進化的プロセスは) 道を見つける! 『ジュラシック・パーク』でもそう言ってるじゃないですか! それに実際の生物の遺伝子はそれができてるじゃん。他のでもできない理由はないだろう!

いやいやいやいや。ありありですよ。無理でしょう。人間作ってその欲望と技術発達を完全にコントロールしてテレビを作るよう仕向けるのが、遺伝的にテレビを作るという意味なら、まだわからないでもないけれど、そういう話じゃないよねえ。

基本的に、そのいちばんの鍵となる(とエンジニア崩れのぼくには思える) 遺伝子もどきについては、彼は一切論じない。無限の時間があり、無限の試行錯誤ができるなら、いずれ、どうにかしてそれが実現する。絵に描いた餅は、その描かれた素材次第で本当に餅になる、と彼は確信している。彼がいま生きていたら、ナノテクで実装できる可能性とかを論じただろう。形状記憶合金の話とか、嬉々としてやったんじゃないかな。でもそれで話が変わるわけじゃない。

本書の中で、彼は「ブラックボックス」という話をする。中でなにやってるかわからなくても、とにかく結果が出ればいいのだ。いまの深層学習AIみたいなもんだ。だからその遺伝子もどきがどんなもので、どんな仕組みでテレビや車を生やすかはわからんでもかまわない。もちろん、わかるに越したことはない。そしてそれをプログラミングする方法が見つかれば、本書に描かれたすべてが実現する……

 

うーん。ぼくにはそれは「実現可能」とか「裏付けがある」の名に値するものとは思えない。せいぜいが、酒を飲んでいるときや便所で思いつく、アイデアの発端の発端だ。それを理論に値するところまで持って行くにはものすごい道のりがある。でも、レムはそれを無視する。Evolution will find a way! 進化くん、あとはよろしく! あとは「でもその進化くんも、いろんな制約があって最適な設計ができてないよね、他にも可能性あるんじゃない?」といろいろな肉体改造の可能性から別の原理に基づく生命体の可能性から、むちゃくちゃな思いつきをちぎっては投げ、ちぎっては投げ……

 

こんなふうに、自称ノンフィクションの厳密な技術考察だけれど、ぼくから見れば(そしてたぶん多くの人から見れば) 思いつきのSFだ。でもその一方で、考察してある部分はすさまじく緻密。進化と遺伝の仕組みについての理解の正確さは恐ろしいほど。1964年というとドーキンス『利己的な遺伝子』とすら干支が一回りちがうほど。いまのような良質な一般解説書などなく、ジョン・メイナード・スミスの本だけ。それでここまで行けるのか! でもこれを見て「厳密に未来を予想してるなあ」とはぼくはとても言えない。有効数字1けたにすら達してない部分がある中で、一部だけ有効数字100桁でコチャコチャやっても、全体はその最もがさつな部分に左右されるもの。うーん。これは一体何なの?

4. 詳細あらすじ

が、先を急ぎすぎた。まず、章ごとの要約をしよう。

第1章 ジレンマ

技術の予想は難しい。一般的な予想はトレンドを先にのばすだけだが、新しい発展の多くはトレンドとは全然違う、予想外のところから出てくる。起承転結のあるお話でもない。

第2章 二つの進化

技術の進歩と対比できるものとして、生物の進化がある。この両者は似たところもあればちがうところもある。似ているのは技術も生物と同じで、新しいニッチを占めるように発達し、優れていれば古いものを生存競争で駆逐するところ。必ずしも合理的ではなく、流行と異性獲得のために無駄な部分が変な発達を遂げるのも似ている。だがいまの技術は人間が手を貸さないと進歩できない。その原動力も進化と技術進歩ではちがう。無目的な偶然で進む進化と、目的のある技術発展はちがう。技術は完全リセットの出直しができるが、進化はそうはいかず、古いものをずっと使い回す。そして技術は道徳的な評価が伴うところもちがう。

第3章 宇宙の中の文明

技術進歩の他のサンプルを得るため、ウチュージンの経験を知りたいところ。宇宙はでかく寿命も長いし、太陽も地球も特に変わったものではないので、他のところでも生命が生じ、文明が生じ、高度な文明が発達しているところもあるはず。いまの人類のような加速度的な科学や技術の発展が何万年も続き、星を操れるようになったところもあるはず。

だがSETIとかは一向に成果がない。その理由はいろいろ考えられるが、いずれにしても地球以外で参考になるウチュージンはいまはいない。[読者の心の叫び:なら30ページも使ってあーだこーだ書かないでよ! この章の各種考察、全部無駄じゃん! だいたい科学が発達するうちに、星の制御は無理ってことがわかる可能性だってあるだろ! この章の考察すべて恣意的なお遊びだろ!]

第4章 電子知能

 文明はいまや指数関数的に発達している。このまま文明を発達させるにはもっと科学者が必要だが、全人類が科学者になるのは不可能だし、科学が広がるとタコツボ化により非効率が出て新発見が停滞する。新情報の発見活動で必要なエネルギーもどんどん増える。この情報爆発に対抗するため、知性増幅器を開発すべき。その具体的な中身はわからないが、ブラックボックスとして学習とフィードバックでそういう装置ができるはず。[読者の心の叫び:おー、深層学習のニューラルネットワークみたいな発想!]それに道徳はあるかな? いや道徳は使う人の責任よ。そいつに世界統治してもらったら? 目的の与え方で不道徳なことしかねないからダメだけど、人間のほうがうまくできる保証もない。[読者の心の叫び:これ以外に人工知能に信念はあるかとか、機械による実証形而上学を論じようとして宗教論に脱線したりとか、半分以上は本題とまったく関係ない脱線……]

第5章 全能への序論

[読者の心の叫び:最もわけのわからない章だが、ここがレムにとっての自分の主張の「根拠」のツボ。] これまでは、何の役にたつかわからない数学が発展し、後から物理学などが「あ、これ使える」とそれを拝借するパターン。でもいずれ物理学から数学が出てくるかもしれない。つまり「モノ」が「理論」をあらわす状況が生じる。逆に理論がモノを変える事態もあるかもしれない。なんだかわからん数学が即座に人工の物理学を示したり。つまり情報がモノを作り出せて、人間の脳は情報を作り出せる。自然で低確率だが絶対にないとはいえないことを実現するような自然の模倣への道があるはずで、まったく自然には存在しない新しい原子の新しい世界創造も考えられるし考えられるなら実現できる。[読者の心の叫び:わけわからんです。が、進化における遺伝子は情報をモノに変える設計図にしてその製造プロセス自体ではある。遺伝子型と表現型の等価性が体現されている。だから様々な仕掛けで技術進歩でもそういう等価性を実現し、情報すなわちモノ、数学すなわち物理みたいな状態が生み出せる可能性はある、そして無限の時間と無限の試行回数があれば可能性あるものは必ず実現する、というような理屈を言いたいんだと思う。]

第6章 幻影環境

 現実とちがうけどでも現実と区別できないものってできる? VRみたいなものがあれば、それが可能 [読者の心の叫び:え、前の章って新しい物理法則だの新しい原子だの言ってたけどVRでできちゃうようなしょぼい話だったの?]。VRもゴーグルなどで感覚入力を置き換えるものと脳に直結するのとがある。別人格になったりできると楽しいけれど、倫理的な問題は生じるし、逃避的な娯楽になっちゃうだろうから、教育利用以外は規制したほうがいいかも。さらにその人の情報をすべて転送して人間転送機作ったら? こっちにいるオリジナルを殺さないと転送にならないからヤバイよね。さらに完全コピーがあちこちにできて、どれが本物かが問題になっちゃう。冬眠とか双子の片方を凍結とかもいろいろ倫理的問題あるよね。[読者の心の叫び:全然関係ないじゃん!]

第7章 世界の創造

文明が過去200年くらいの指数関数的な発展続けると、そのための科学発達が問題になるのは以前述べた通り。まず情報爆発しちゃって、欲しい意味ある情報を探し出すだけでも一苦労だよね。(単語の頻度だけを見るのではない、中身も含めて判断する検索システム、アリアドノロジーが重要だよね、という注 [読者の心の叫び:おお、Googleを予見していたかのような一節。])。知能増幅機での対応を提案したけれど、もう一つ、理論を遺伝子もどきに符号化して、いろいろ変異させて「正しいモノが生き残る」という生存競争させて、生き残ったのを復号して新しい理論を得よう! 新科学理論が勝手に生えてくるぜ! あるいは情報の断片を交配させて、その子が科学理論になるってのはいかが? あと言語は、遺伝子言語みたいに具体的な変化を引き起こすものと、なんか意味を伝えるだけの面がある。あらゆるものが情報なのでそれを遺伝子言語みたいなものにのせることで、新しく世界を作り出せるよね。そこから世界創造をして、世界の中の世界の中の世界という入れ子構造が作れるし、理想世界作ってその中に入ることもできる。まあ、実際にやるヤツいないだろうが。[読者の心の叫び:どうもレムの、新しい宇宙を作るとかちがう物理法則の世界を作るというのは、『マトリックス』みたいな完全バーチャル幻想世界も含まれるようだ。]

第8章 進化へのツッコミ

進化すごいけど、近視眼的だしそのときの手持ち材料に制約されるし過去の遺物ひきずっているし、いまの人間とかいろいろ改良の余地がある。人類自体を改良できるし、水中生命や空中生命、完全固体生命とかできそうだし、寿命のばせそうだし、意識ももっといろんな形がとれそうだ。遺伝情報の正確な伝達と、突然変異のエラーのバランスも重要だし、身体の機械化、サイボーグ化もある。出会い系サイトでAIのマッチングとかで、子孫選別もできる。超能力ってのは完全なヨタで絶対実現しないけど。

結論

 本書は最大限の裏付けをしている。脳より遺伝子を重視したのは、そっちのほうが実績が長いから。[読者の心の叫び:全然結論になってないんですけど……]

おまけ:30年後

 バカな哲学者が本書を、ただのおとぎ話と一蹴したけど、VRとか出てきて、第6章「幻影環境」の記述が実現してるぜ、すごいだろう、どんなもんだい、オレ様の正しさがわかったか。それでも自分のまちがいを認めようとしないバカな哲学者氏ね。

5. 構成へのつっこみ

大筋はこんな話ではある。

さて、レムはこれを真剣な科学的裏付けを持つ考察と呼ぶ。でも繰り返しになるけれど、個人的には第5章に出てくる、情報と物質の等価性を進化の至宝としてまつりあげ、それと同じことがすべてで可能だ、みたいなかなり強引なめくらましをかけ (もちろんこの訳者にも何言ってるかわからん部分が山ほど登場するので、何か誤解している可能性はある。ご用心を)、さらに無限の試行回数があれば可能性あるものは必ず実現する、というこれまた強引な議論を持ち出すことで、こじつけているだけだと訳者には思える。しかも「可能性がある」は、いまの限られた知識範囲では、絶対にあり得ないと言えるほどの材料はない、という程度の意味。遺伝子は人類誕生、いやそれ以前からずっと続いていて、それが何らかの代謝系の偶然で単一の個体に温存される可能性はゼロではない、ということは言えるかもしれない。でも、そういったら『鬼滅の刃』は科学的根拠を持つハードSFになるのか? そんなことはないだろう。

 

繰り返すけれど、いま、不可能だという理由を (レムが) 思いつけない、というのは、それが可能だという証明にはならない。ところが本書が「証拠」として挙げるのはそういうものだ。そしてそれが可能だということを証明するために「だって生物は遺伝子でそれができている」というのも裏付けにはならない。遺伝子はできているのは事実、でも遺伝子以外ではそれが起きていないのも事実だ。だからこれは、他にはそういう可能性はないのだ、という真逆の話を裏付けるものかもしれない。というわけで、これを挙げて、SFなんかではなく真剣な科学的考察だというレムを、この訳者は少なくとも真に受けることはできない。

おもしろいアイデアはたくさんある。理論や思想を遺伝的に符号化してその表現形を闘わせて「正しい」理論を生き残らせるというのは、あるかもしれないとは思う。実際、暗号解読のアイデアとしてそういうものはある。藻類の遺伝子にたくさん素数を仕込んで、それを交配させて積を出し、それが暗号と一致したらその藻の色が変わるようにして、バイオブルートフォース攻撃みたいなのをする、というもの (シュナイアー『暗号技術大全』参照。これも「技術大全」なのか……)。でもそれをどこまで一般化できるかと言えば……

とは言うものの、未来の技術発展方法のアイデアとしては、とんでもなくぶっ飛んでいて面白い。そして人によっては、本当にこれを読んでものすごい科学的、哲学的な可能性を読み取れるのかもしれない。それはあなた次第。

 

だがこれだけだと、本書の醍醐味のまだ半分以下、なのだ。

6. 半分以上が脱線

上に書いたのは、この本のおおまかなあらすじ、一応は技術発展の方向性の新しいアイデアと可能性というテーマに沿った話の展開だ。だが本書はそんなものではすまないのだ。

上の目次を見ても、第3章「宇宙の中の文明」で、ウチュージンの発生可能性を延々と考察している。これは、話の中では技術発展の地球以外のサンプルが得られないか見つけたい、というものだ。でも、これまでSETIとかはすべて失敗、地球以外の地球文明は見つかっていない。参考になる他事例はない。ストーリーから言えば話はこれだけだ。

ところが、レムはそこでまず、宇宙にxx個星があり、そのうち1億分の1に惑星系があり、そのうち28,978,526個に一つ文明が発生して、そのうち235万分の1が宇宙進出し……みたいな話を延々と続け (その数字、全部恣意的=デタラメですよね)、なぜファーストコンタクトがまだないかについて、文明の自滅傾向だの時間軸だのあれやこれやと30ページかけて考察する。何のために? 結局コンタクトはないんだから、いくら考察したところで本筋には何も関係ないですよね? これ、全部脱線ですよね?

丸ごと一章の脱線……でもレムはそれをやる。せめて補遺でやってくれよー!

第4章「電子知能」も、構成を見てみよう。この章は15の節に分かれている。だがこのうち半分以上は、本筋とまったく関係ない話なのだ。

4.1 地球への帰還

前章の宇宙文明の話から地球に戻ると、科学が指数関数的にのびると情報が増えて人も足りないしタコツボ化で成長鈍化や停滞が起きちゃうよね。

4.2 メガバイト爆弾

(前節の話の繰り返し。科学の発展は多分野の同時発展と交流が重要だが分野が広がると情報流がネックになり進歩が阻害される)。電子頭脳とか開発しないとダメよね。[読者の心の叫び:この節、前節とまとめられるし、いらないよね……]

4.3 ビッグゲーム

この課題に勝利したら、星体制御の超文明まで行けるが、それには電子頭脳の全面活用が必要で人間いらなくなる。引き分けなら人類は完全に閉鎖した自閉環境を作る。敗北は、完全な停滞で、管理社会つまらない選択と集中の結果、進歩のタコツボに入る。あと、長い注でダイソン球批判。[読者の心の叫び:それぞれのシナリオの細かい予想が記述されるが、これも前節/最初の節の敷衍で、本質的じゃないよね……]

4.4 科学の神話

科学の発展とともに、それが目指そうとする目標も変わってくるので、電子頭脳が人間と同じになるか心配してもしょうがない。そんなこと心配する連中は中世のホムンクルス信者みたいな思考にとらわれてる。[読者の心の叫び:そうかもしれんが、関係なくね?]

4.5 知性増幅器

人間知能を100倍、1000倍にするような知性増幅器ができるかも。それを作るのに、知性そのものの仕組みとか機械の中身とか知らなくていい。ブラックボックスでフィードバックつければできる。[読者の心の叫び:いまのAIニューラルネットワークと深層学習を予見したような記述。やるねえ。]

4.6 ブラックボックス

ブラックボックスは、アルゴリズム的にプログラムするんじゃなくてもできる。人間が、自分の歩行理論を知らなくても歩けるのと同じ。自然の多くの仕組みはそういうものだ。[読者の心の叫び:それはそうだが、前節でも言ってるしもっとまとめてくれない?]

4.7 ホメオスタシス装置の道徳

そういう電子頭脳入れると、狭い設定目標実現のために不道徳なことしかねないよね。工場の利潤最大化のために大量首切りとか、反競争的な手口とか。[読者の心の叫び:はあ、それがどうかしましたか?]

4.8 電脳支配の危険性

社会すべてを電子頭脳に管理させると、人口爆発に対応するために怪しい人口抑制策を採用したりして、しかもそれを明示的な意図を持たずにやったりする可能性があってヤバいよね。人間の諮問機関を作ってもいいけど、たぶんそんな機関より電子頭脳のほうが賢いから、まったく無駄だよね。[読者の心の叫び:だからぁ、それがどうかしましたか?]

4.9 サイバネティクスと社会学

電子頭脳がそういう変なことをしかねないのは、人間が社会的な側面持つけど、電子頭脳はそういうのがないから。電脳社会学みたいなのをやりたいところ。でも今のバカ社会学みたいにちまちま現象見るんじゃなくて、もっとその構造を捕らえて制御メカニズムとして考えたいところ。[読者の心の叫び:うん、やれば? 主旨はわかるが本筋と関係ないよね。]

4.10 信念と情報

信念/信仰は、情報がないところでエイヤで決め打ちするために必要な話。変な神秘主義をもたらす一方で、信念で病気が治ったりする。情報は人間/生命体に一般に言われるより強い影響をもたらす。それが真の情報かどうかは無関係。[読者の心の叫び:???? なんでこんな話がいきなりここに登場するの?]

4.11 実験的形而上学

形而上学って信念だからそれ自体は定義上実験できない。でもそういう信念が生じる条件とかは実験的に調べられる。これまでそうした形而上学は宗教としてあらわれ、世界文化における宗教の役割とはうんぬんかんぬん [読者の心の叫び:ぽかーん。なんで宗教論やってんの?]精神分析なんてインチキ形而上学ばっかだし、レヴィ=ストロースとか西洋宗教と土人文明は等価とかくだらんこと言ってるし仏教は自閉した逃避で、なんでそんなのありがたがってる西洋人がいるんだか [読者の心の叫び:ぽかーん。だからなんでそんな話が出てくるんですか?] いやあ、脱線しちゃったなあ (テヘペロ) [読者の心の叫び:わかってるならやるなよ!]

4.12 電脳の抱く信念

電子頭脳が信念/信仰を抱く可能性もあるなあ。いろいろ情報を作る中で、形而上学っぽいものも出てくるだろうから。階層的な電子頭脳/ホメオスタットがあると、下位から上位への信仰とかあるかもしれないね。[読者の心の叫び:はあ、それがどうかしましたか?]

4.13 機械の中の幽霊

機械はそもそも意識を持てるかな? チューリング問題とか中国人の部屋みたいな問題は考えられる。でもデジタルに「ここは意識ない/こっから先はある」みたいな仕分けは無理だろうね。そしてその意識というのも、どこか一箇所にあるものではなくシステム全体に分散してるだろう。[読者の心の叫び:その通りだとは思うが、この文脈でそれを言い出しても意味ないでしょ?]

4.14 情報という難問

情報というのは、受け手がいないと情報にならない。そして情報の情報内容はその環境との関係で決まるものとなる。[読者の心の叫び:だから、さっきからもう何なのよ?]

4.15 疑念と二律背反

人間の情報処理は、詳細な論理的処理ではなくヒューリスティックに基づいているらしいね。すると機械の思考は人間を超えられるか? たぶん。そして機械が人間を上回ってしまったら、人間がそこにいても何か意味はあるか? 電脳支配はかなり必然的では?[読者の心の叫び:これさっき「電脳支配の危険性」でも言ってたことですよね?]

 

はい、こんな具合。この中で、本全体の議論と十分に関係あるのは「4.5 知性増幅器」「4.6 ブラックボックス」の二つくらい。その前置きくらいは認めるにしても、3分の2はまったく本筋とは関係ない。これ以外の章も本当にこんな脱線ばかり。こう、読んで/訳している間に「おお、なんかすごい方向に話が向かってるぞ! これがどうやって本題とつながるのかなワクワク」と思いながら読み訳し進めていって、最後になって「全然関係ねーじゃねーか!! 何のためにあんな面倒な議論を延々読まされてきたんだ!」となったときの行き倒れというか徒労感というか、おわかりいただけますか?

その書きかたも、まあめちゃくちゃで、正気の沙汰ではない。本筋とも関係ない——脇筋とでも言おうか——話の中で、さらに関係ない話が延々とページを割いて行われる。「実験的形而上学」の宗教論だの精神分析批判だの仏教へのケチつけだのはいったいなに? その場で思いついたことを何でもいいから詰め込むの、やめてくれませんか?

……と言いたいところだけれど、それがまさにこの本の醍醐味でもある。あちこちで見られる、本当にまったく関係ない脱線、レムが勝手な思いつきでどんどん深みに入って全然関係ない方に思考をさまよわせる部分。そしてそれがめっぽう面白かったりする。遺伝子と科学と一般言語を比較して言語の役割や構造についてあれこれ考察し、その中で「哲学なんて言葉の曖昧さによりかかって悦に入ってるバカばっかだよねー」という考察をさらに展開する部分とか、絶品ではある。が、はっと我に返ると、いったいおれはなぜこんなものを読んでるんだっけ、と悩んでしまう。

というわけで、これはそういう本なのです。異様な奇想を何か手持ちの科学知識で思いっきりこじこじこじつけてそれを「裏付け」と呼び、無限に試行回数があれば可能性あるものは必ず実現する、という理屈でそれをねじふせ、さらに無限の脱線を繰り返し、その脱線の中でさらに脱線を行う、脱線のフラクタル構造。うーむ。

それは本人が言うような厳密な深い考察ではない。本人がそういうなら、SFでもない。言わば、なんか全体哲学みたいなものではあるんだけれど、うーんそういう体系だったものとも思えないし、これは一体何なんだろうね?

だから本書は、ちょっと要約のしようがない。なんか、読んでくれとしか言いようがないが、正直、読んでくれというのもはばかられる本でもある。

7. 本書の重要性と未紹介の理由

 ただその中身の是非についてはさておき、本書はとても重要な本ではある。特にレムの小説を見るとき、彼がいったい何を考えてこんなものを思いついたのか、というのは本書を見ればほぼわかる。彼が、「自分のSFは根拠があるんだ、アメリカの軽佻浮薄な思いつきSFなんかとはわけがちがうんだぜ」と胸を張るとき、何を根拠に彼が胸を張っているのかは、本書を見れば明らかだ。

彼にとって『ソラリス』は、人間理解の及ばない知性の可能性を考えました、というだけのものではない。「惑星全部が知性体というのがあればおもしろいねー」という」ような安易な一発アイデアなどではない。彼は進化がソラリスの海のようなものを生み出す可能性を真剣に考察し、その背後にある「理論」や進化プロセスを考え、それが実現可能だと見て、それを小説的に提示した。それが小説『ソラリス』の本質 (レム的には) であり、ハリーちゃんなんざ刺身のつま以下だ (ましてそれを家族ごっこの書き割りに貶めたタルコフスキーには怒り心頭だっただろう)。『電脳の歌/宇宙創生ロボットの旅』は、本書に登場した知能増幅器や電子頭脳の必然的な結果であり、単なる変わった設定に基づく奇想話ではなく、現実にあり得る進化=技術発展の果てにある世界なのだ。『完全な真空/虚数』の様々な本は、まさに本書に描かれたアイデアを扱った本の書評ということになる。そのすべては空想ではない、現実、なのだ。少なくとも現実になる可能性があるものだ。だから彼にとってのSFというのも、サイエンス「フィクション」ではない。それは本当に現実の、未来の、可能世界の表現なのだ。本書を見ればそれがわかる。

逆に言えば、本書を参照せずに書かれた幾多のスタニスワフ・レム論は、ほぼゴミクズとさえ言えなくもない。

 

で、そんな重要な本がなぜいままで紹介されずにきたのだろうか?

たとえばウィキペディアのスタニスワフ・レムのページで、彼の評論活動は次のように紹介されている。

『偶然の哲学』は独自の文学理論を体系化し、サイバネティクス、数学、論理学、生物学、物理学など自然科学の方法を取り入れた文学研究を確立しようとし、現象学、構造主義による文学理論を批判したもので、発表と同時にポーランドの文学研究者の間に強い反響を引き起こした。また論文「ツヴェタン・トドロフの幻想的な文学理論」(1973)では、トドロフの『幻想文学論序説』の示す図式の粗雑さを指摘し、また文学テキストを受容する読者の役割を強調している。[7] 『SFと未来学』は文学理論をSFにも適用し、「現代SFの90パーセント以上はSF本来の可能性を全く無駄にしているくだらないものだ」と分析し、また巽孝之は「美学/認識論の彼方に夢見られる新しい感受性」などへの考察をポスト構造主義的と指摘している。(Wikipedia 「スタニスワフ・レム」2025.09.07)

『技術大全』は触れられてもいない。なぜだろうか……というのはこの引用部分を観ればわかる。これを書いた人、ひいてはこれまでのレム理解は、彼をあくまで文学的 (悪い意味で) にしかとらえていないからだ。各種評論も、ブンガク理論がどうしたという文脈でしかとらえられていない。『レム・コレクション』での評論紹介も、「文学エッセイ」の紹介でしかない。

『技術大全』は、そういう文学論ではないので、日本のレム研究やレム紹介の眼中には入ってこないのだとぼくは思う。だが本書を読むと、そういう紹介は本当に妥当なのか、という疑問は生じる。彼が「ブンガク」なんてものにどこまで関心を持っていたのだろうか。彼にとって大事なのは、自分のこの進化理論と技術発展のビジョンであり、小説はそれを表現する手段にすぎなかった、とさっき述べた。だからこそ、彼の小説評論には妙な偏狭さがつきまとう。それについては以前にも書いた。当時はそれが単なるレムの癖かと思っていたが、ちがう。それは彼の作品、いや彼にとっての小説 (少なくともSF) そのものの意味が、単純な小説表現とは狙いがかなりちがうから、なのだ。彼にとっての小説/SFというのは、背後にある科学その他の知見を表現するものでしかない。彼にとっての理想的な小説とは『もし野球部女子マネがドラッカーを読んだら』だっけ、あれみたいなものだ (あくまで類型としてね。あれをほめるほどレムがセンスないとは思ってない……いやどうかな)。そしてそこでの評価ポイントは、ドラッカーの思想がそこでうまく表現できているか、ということであって、小説自体の出来なんか二の次なのだ。だからこそ「ナボコフ『ロリータ』はタブー破りでえらいけど、『アーダ』は近親相姦だからダメ」みたいなわけのわからん評価が出てくる。

そうしたかなり偏った意図を持つ表現手段について、普通の文学研究的な枠組みから、ポスト構造主義だろうと美学論だろうとメタフィクションだろうと云々してきたところで、どこまで意味があるのか、とは思う。もちろん、『もしドラ』のポスト構造主義分析は、できなくはない。ひたすら小説として、主人公の女の子がカワイイかとか、その行動原理に整合性があるかとか他のラノベとの比較とかは可能ではある。だがドラッカーって何かを知らずに (意図的に無視するのではなく) それをやっても、よほどの力量がない限りただのキワモノにしかならない。「本書を参照せずに書かれた幾多のスタニスワフ・レム論は、ほぼゴミクズ」とさっき書いた所以だ。

ただもちろん、日本のこれまでの紹介者が、そういう歪曲の意図を持って本書の紹介を控えてきたとは思わない。が、ここでどうしても文系/理系という区分を持ち出したい誘惑にかられる。この本、理系っぽすぎて、文学系に偏るレム関係者には扱い切れなかったのだろう、とは思う。能力的にも、時間的にも。日本のポーランド語翻訳陣はきわめて充実はしている。が、本書のように、科学、宇宙論、遺伝学、進化論、思想、哲学、技術論、その他なんだかわからないものがごちゃまんと詰め込まれた本をこなせる人がどこまでいるか……このぼくですら、理解に苦労した部分 (そしていまだに何言ってるのかわからない部分すら) がたくさんあるくらいだと、ねえ。

そしてそこに、このうだうだしい書きぶり。脱線ばかりで、しかも脱線の中の脱線の文の中で、さらに関係節を使って脱線が展開される……読んで論理的な構造を把握するだけで一苦労。これを訳せと言われたら、まあ卒倒するだろう。いや読むだけでも難行苦行だ。そりゃまあ、紹介する気にはならないだろう。触らぬ神に祟りなし。敬遠して触れないのが一番だ。それが誠実かどうかはまた別問題。遠くから棒でつついて触れるくらいはしたほうがいいと思うんだが……

が、このレムの書きぶりでは、それすらむずかしいのも十分に理解できる。これまで本書の実際の内容に少しでも触れた紹介はすべて、VRを予想してますとか、検索エンジンを予想してますとか、一部の表層的なアイテムレベルでの話にとどまるようだ*1。ぼくがこの翻訳のもとにした英訳版の英訳者の訳者解説ですらそうだ。まして本書の中心的な議論がそもそも読み取れた人すらどこまでいることやら。それでもねえ。少しは努力のあとくらいは見せてほしいとは思う。

8. テキストについて

この訳は英訳をもとにしているのだが、目次を見てもらえば分かる通り、本書は全8章に序文と結論がついた構成となっている。だが1964年の初版は、全9章で、結論の前に「芸術と技術」という章があった。ところが初版刊行後にポーランドの評論家がそれをボコボコにけなしたため、レムは第2版からその第9章を削除したという。その後、1986年か何かに新版が出るときに「20年後」というエッセイが結論の後に足されたというが、これも英訳には含まれていない。

また、最後の「結論」の後の日付は、1966年となっている。つまりは、元になっているのが1964年の初版ではなく、1967年に出た第2版 (かその後の改訂を反映したもの) が本書の元になったテキストのはずだ。

ちなみに、ドイツ語訳も1980年頃に出版されており、本書と同じ構成だが、ドイツ語版序文がついている。これは一応、レムが本書を書くにあたって何を考えていたか、その後のハーマン・カーンのような「未来学」とどこがちがうと考えていたのかについてはっきり書かれていて、ちょっとおもしろいので、追加した。

 

ちなみにレム自身は本書について、世間的な評価の面では完全に無視されたとして落ち込んでみせるが、内容的にはずいぶん自信があるようだ。レムのインタビューを中心に構成されたPeter Swirski, A Stanislaw Lem Reader (1997) は、インタビューの相当部分がこの『技術大全』をめぐるものとなっている。その一部を紹介すると:

予言と未来学について言うと——私のノンフィクション作品の中では、『技術大全』は驚くほど成功した作品だと考えています。そこに書いたことの多くが、その後現実のものとなったという意味で。執筆当時、私は未来学の専門文献にほとんどアクセスできなかったため、これはなおさら驚くべきことです。未来学という概念は、1942年にオシップ・フレヒトハイムによって既に提唱されていましたが、私は関連出版物から孤立していたため、それについて何も知りませんでした。未来学は、『技術大全』の出版から数年後に流行し、人気を博しました。『技術大全』は3000部発行されましたが、ポーランドではレシェク・コワコフスキーによる痛烈な批判を除けば、すべての評論家から徹底的に無視されました。そのコワコフスキーは私を嘲笑して、砂場でおもちゃのスコップを持っているだけで地球の裏側まで掘れると思っている少年のように振舞っていると書いたんです。彼の批判から30年後、私は「30年後」と題するエッセイで、『技術大全』での予測や仮説がどうなったかを報告し、実質的な反論を書きました。

その論説では、当然のことながら本書全体についてあれこれ言うことはできなかったため、代わりに幻影環境に捧げられた章に焦点を当て、私の理論とその現代的立場を、コワコフスキーが最初の書評で述べたことと対比させようとしました。私が『大全』を執筆したのは1960年代で、当時は関連情報にアクセスできませんでした。もし今のように豊富な情報を持っていたら、おそらくあの本を書いたりはしなかったでしょうね。ランド研究所やハドソン研究所、ハーマン・カーンと数百人の協力者たちがコンピュータを駆使し、CIAのアーカイブを駆使してあらゆる情報を調べられる、全智の専門家集団がいるとわかったでしょうから——ソ連の経済力に関する彼らの評価を見れば、それがクソミソごた混ぜだったことは明らかですが。例えば1990年になっても、彼らは旧ソ連の経済力がアメリカに次ぐ第2位、日本より上位に位置すると述べていました。しかし、旧ソ連が今日どんな様子かは誰もが知っています。1960年代の私は、こうしたことを全く知りませんでした。もし今日、『技術大全』を書き直すとしたら、状況はまるで異なるでしょう。

いまうちには、購読している雑誌『ニューサイエンス』が未開封のまま山積みになっています。メトロノームのように週1冊、年間52冊も届くんです。だから購読を解約することにしました。もうとても追いつけません。

逆説的に言えば、情報過多は情報不足と同じくらい人を麻痺させます。それに対処するには、何十人もの専門家を一種の「情報フィルター」として雇わなければならないでしょう。だから、『技術大全』に関していえは、逆説的な状況が独創的で価値ある哲学的研究を生み出すこともあるわけです(実は、私の文学小説にも同じことが言えます)。

“Reflections on Literature, Philosophy and Science: Personal Interview with Stanislaw Lem, 1992”, Swirski, A Stanislaw Lem Reader (1998) 所収より

ここに登場する「30年後」というエッセイは第6章「幻影環境」がいま (というか当時) のバーチャルリアリティをいかに先取りしていたか、みたいな自慢になっていて、うーん、そういうレベルの技術予測をしたいのではないという本書冒頭や随所に出てくる記述からすれば、そういうレベルで喜ばれても困ると思うんだが。だって本書の「幻影環境」って、ちがう物理世界とかを「実現」する手段として位置づけられていたんじゃないの? それが濫用される可能性とか、オマケだよね?  が、30年ぶりの遺恨をぶちまけたレムの大人げなさはちょっとかわいいので、この翻訳には一応収録しておいた。

9. 翻訳について

Grokのアバター、Aniちゃん

翻訳は、AIの力を借りた。XのGrokちゃんだ。Aniちゃんにこの訳文を読み上げてもらう、というのはおもしろいかと思ったが、3分でうっとうしくなって断念。だがレムの文は、うだうだしくその論理構成を把握するだけでも一苦労だと述べたが、AIはそんなのはものともせず、一応は訳してくれるし、論理構造はそこそこおさえてくれる。それをもとにすれば、直すのは比較的容易だ。そしてレムの文も、わけがわからないが、それは論理が入り組んでいるだけで、『フィネガンズ・ウェイク』ではない。ときほぐせば論理的だ。だからAIは何の苦もなく (かどうかは知らない。Aniちゃんの背後のデータセンターは艱難辛苦したのかもしれないが) 理解して訳してくれる。おかげで、この大部の本が20日ほどで仕上げられた。文明、すげー。レムが本書で言っている、知的増幅器、本当に出てきたなあ。機械知性、すげー。このAIの様子を見たら、レムが何と言ったか知りたいところではある。

もちろん、AIに丸投げではない。すべて山形が目を通し、原文 (というか英訳) とつきあわせてチェックした。ちなみに、AIのいいところは、変換ミスがない点だ。もし本書で変換ミスがあったら、それは山形の修正によるものだ。何かお気づきの点があれば、是非ご一報を……って、だれが読むんだろうね、これ。

山形浩生 (hiyori13@alum.mit.edu)

付記:

蛇足ながら、本書の中身は劉 慈欣『三体』シリーズとかなり共通するものがあるようにも思う。宇宙文明が見つからない理由としての暗黒森林理論とか、とちゅうで三次元の物体を完全な二次元に翻訳するところとか、むちゃくちゃな文明や生物発展の理論とか。もちろんそのわけのわからないほどの規模も。劉 慈欣がこれを読んだはずはないけれど、なんかそういう類似性があるのはおもしろい。

*1:奇怪なドイツ語の小説などをたくさん読み込んで紹介している垂野創一郎は例外かもしれない。彼は本書の一部をドイツ語から訳出したファンジンを出しているし、ツイートでレムの評論シリーズの『偶然の哲学』中身まで触れているので、おそらく本書をまともに読んでいる。円城塔はこの英訳が出たときに『本の雑誌』で紹介しているが、上で述べた脱線部分のつまみぐいで、その時点では中身を読み込んでいたわけではなさそうだ (是非読んでコメントかそれをネタにした小説がほしいところ。彼ならこのイカレ具合と張り合えるかもしれない。)。大野典宏は二回読んで二回とも寝込んだとのこと、だがまとまった紹介をやっている文は見たことがない。

スタニスワフ・レム『技術大全』『SFと未来学 I』

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5c/%CE%A3%CE%B1%CE%B3%CF%81%CE%AC%CE%B4%CE%B1_%CE%A6%CE%B1%CE%BC%CE%AF%CE%BB%CE%B9%CE%B1_2941_%28cropped%29.jpg/500px-%CE%A3%CE%B1%CE%B3%CF%81%CE%AC%CE%B4%CE%B1_%CE%A6%CE%B1%CE%BC%CE%AF%CE%BB%CE%B9%CE%B1_2941_%28cropped%29.jpg

チャンドラー『さらば愛しき女』とかオールディス『ヘリコニアの冬』とかやっていて、まあシャカシャカ終わりそうではある。それができるとなると、他にもいろいろあるよな……と思ってふと本棚からこっちを見ているのに気がついたのが、スタニスワフ・レム・コレクションだった。

スタニスワフ・レムは、評論系もいっぱい書いていて、この本にもちょっとだけ収録されている。それでスタニスワフ・レム・コレクションの第2期が出るときいて、そっちのほう期待していたんだよね。だってあまり残ったネタがないし。

www.kokusho.co.jp

ところがラインナップ見ると、そっち方面はまったくやらないのね。まあレムの評論ってすごく面倒くさいし、長ければ長いほど風呂敷がどんどん広がって、レムの本家サイトでも「だんだん広がってレムの万物理論と化す」と言われてしまっているから。それを読む価値があるかというと……どうなのかねえ。

english.lem.pl

その中身についても、かなり偏狭でドグマチックであることは、以前ぼくが指摘した。ぼく以外の人は読んでいないらしくて何も言っていないのがとてもアレではある。

cruel.org

でも、そこそこおもしろいんだ。そして彼は一応、レトリックの人ではなくこむずかしくても理屈の人なので、文章も非常にAI翻訳にのりやすいのだ。

というわけで、ちょっと始めて見ましたよ。英語からの重訳になるが。

スタニスワフ・レム『技術大全』

この本は、技術の進化論みたいな話しで、ブライアン・アーサー『テクノロジーとイノベーション』みたいな味わいも出てくるんだが、その後いきなり話がわけのわからないほうに進んで、人類からサイバネティック機械への文明の肩代わりみたいなヘンテコな代物になる。本家サイトでは、これがレムの考えの母艦みたいな最も大きな基本とのこと。いろんな小説のネタにもなる。まだ最初の15%くらいだけれど、かなりうまくAI翻訳にのる。東西冷戦が強く影響してしまうのは、まあ時代の制約ってことで。

ちなみにAI翻訳くんは当然ながら、英語だけでなくポーランド語もこなせるはずだし、あとドイツ語もできる。レム『SFと未来学』は、むかしズーアカンプから出た独訳を少し日本語にして、沼野ジューギに見せたら、あれは訳さなきゃいけないと思っているが直接ポーランド語からやる余裕がない、ドイツ語からでも訳があれば、それを元に仕上げることは可能だろうと言っていたので、『技術大全』終わったらそっちに手を出して (ポーランド語から訳しちゃってもいいが、AIの出した結果が正しいかチェックできない。ドイツ語ならできる)、というのもやりましょうかね。30年前に買ったドイツ語の本がやっと日の目を見る、かもしれないぜ……と言ってる間に冒頭部分ちょっとやっちゃいましたよ。沼野充義がチェックするはずはないと思うけど。

スタニスワフ・レム『SFと未来学 I』

しかし先日バルセロナにでかけてサグラダ・ファミリアが絶対完成しないと言われていたのに、CADと3Dプリンタの発達でまがりなりにもあと五年で完成とか言われるようになったのと同様に、AIのおかげで自分でも完成どころかこれ以上手をつけることもないと思っていたものがどんどんできてしまうのは、我ながら感慨深いなあ。

ちなみに当然、すでに商業翻訳進行中で、レム・コレクション第3期に出る予定だったというなら、すぐひっこめるのでご一報を。

チャンドラー『さよなら、愛しき女よ』改訳


www.youtube.com

レイモンド・チャンドラーの改訳、シリーズ化して次は『さよなら、愛しき女よ』を始めました。おー、映画化にはシャーロット・ランプリング様が出ていらしたのね!

レイモンド・チャンドラー『さよなら、愛しき女よ』山形浩生訳

最初の5章と最後の章がまずは終わっている。当然ながら、村上春樹訳と比べてるが……相変わらず下手だね。1940年の本に、1949年登場のマンガキャラが引用されているというトンデモな注とか、校閲者はチェックしなかったのか??

それとは別に、チャンドラー自身の発達がわかるのもおもしろい。『長いお別れ』では文体の特徴として「〜のような」という形容がほぼないことを指摘した。「彼女の一言は、ナイフで切りつけられたように痛かった」とは絶対書かない。「彼女の一言はナイフのようだった」とすら書かない。「彼女の一言は、ナイフだった」と書く。ところがこの『さよなら、愛しき女よ』では、まだ「〜のような」が頻出している。まだこの時点ではチャンドラーとしてのハードボイルド文体が完成していなかったことがわかる。

村上春樹は、自分はチャンドラーの文体に影響を受けた、と述べている。でも『長いお別れ』で度々指摘したように、彼は実はチャンドラーの文体に対して非常に鈍感だし、彼の文体はむしろチャンドラー的な具体性とは正反対の、ほんわかした曖昧さで成り立っている。それは『長いお別れ』の翻訳では、非常に悪い方向に作用していた。

でもこちらでは、チャンドラーのほうが文体が未完成なおかげで、村上春樹のあまりわかっていない、文体に鈍感な翻訳でもあまりその欠点があらわにならずに済んでいる。

いろんなネット上の感想分を読んでも、チャンドラーは文体がすばらしいとか、村上訳は文体が、みたいな世迷い言をたくさん見かける。みんなの言っている文体というのは、なんかフィリップ・マーロウがすかしてみせるとか、そんな話なんだよね。でもそんなのは文体じゃないから……というのは言い過ぎだが、文体の中でもごく表面的な話でしかないとは思う。

この本は『長いお別れ』より四割ほど短いので、すぐに終わるんじゃないかな、とは思う(終わった)。ヘリコニアもあるし、どんな具合に進むかはわからないけれど。あと、清水訳は、なぜか注文した中古本がまだ届かないのでコメントつけてないが、おそらく『長いお別れ』と同じで、たくさん端折ってるけれど簡潔でいい、ということにはなりそう。

オールディス『ヘリコニアの春』から『ヘリコニアの冬』へ

前回、オールディスの未訳の大作『ヘリコニア』シリーズの翻訳を、AI翻訳の事例研究としてやってみている話をした。

cruel.hatenablog.com

で、一ヶ月ほどで第一部『ヘリコニアの春』が終わった。途中で出張とかも入っていて手がつかなかった時期もあるので、実質20日ってところかね。

ブライアン・オールディス『ヘリコニアの春』(全部)

まあだれも読んでいないだろうが、サンリオSF文庫が出ていた頃には近刊予告にも出たりして、結構期待は高かったように思う。ヘリコニアより先に『マラキア・タペストリー』が出たときにはちょっと意外だった。

これも、イマイチ印象に残っていない作品。確か中世っぽい世界 (あらゆる科学技術の発展が禁止されてるかなんかだっけな) のプレイボーイが、メガネっ娘みたいなインテリ娘をコマして嘲笑っていたら、本命で狙っていた女に自分が遊ばれていただけだというのが判明してギャフン (←死語)。その後、遊びのつもりだったインテリ娘に言われた、社会参加の重要性かなんかに目覚めました、というような話じゃなかったっけ。非常に図式的な作品で、登場人物はストーリー展開の駒としての役割以上のものは一切なかった (だから印象に残っていない)・

でも確か大瀧啓祐が解説で、これがいかに名作であるか、みたいな話をしていたような記憶があり、そしてこれが次の『ヘリコニア』で大きく発展するのだ、と書かれていたので、ついにくるかと楽しみにしていたんじゃなかったかな。

 

さて、もちろん著作権というものがあるのでみんな『ヘリコニアの春』は読んではいけないんだけれど、原文で読んだえらい人々ならわかるとおり、この『ヘリコニアの春』も、前回書いたように非常に図式的。そして最後の2章に、経済発展に貨幣経済への移行、ケプラー法則の一瞬の発見、双太陽世界の日蝕に、社会における知識の重要性、革命にあれやこれやとやたらに詰め込まれて、構成としてめまぐるしいなあ。おかげで、最後から二番目の行の、意地悪な記述にみんな気がつかないけど。みんな、エンブルドックの人々を応援し、この世界のコペルニクス+ケプラー+ニュートンみたいなやりマンの超天才少女ヴライちゃん (エロラノベみたいな設定) を応援する気になっているんだけれど、それを完全に踏みにじるって、オールディスも人が悪いなあ。

が、『ヘリコニアの春』はこういう作品なのです。結局サンリオで出ないで、原書で読んだときには「おおすげえ」と思ったが、うーん、いま読むとすごいのは世界観だけ、という気もする。が、その一方でそれがSFというものの醍醐味ではある。舞台設定こそがほぼすべて、という……

 

で、お次は『ヘリコニアの夏』……はとばして『ヘリコニアの冬』にかかりましょう。一つには、ぼくがコイツを未読だったということ。すでに読んだものよりは新しいものをやりましょう。それでぼくにとって、この三部作は片付くことだし。

もう一つの理由は、『ヘリコニアの夏』は、ヘリコニアがフレイヤに最接近して灼熱世界になる時期で、確か大きな世界変化はなかったんだよね。人類が最盛期を迎えてその文明も極大にまで発展するので、普通の文明世界だったように記憶している。読んだのがはるか昔だから、うろ覚えだけど。そこでも、理性と科学による宗教と迷信の打倒、みたいなテーマは健在だった。お話としてはありだが、この双太陽世界という醍醐味は少し薄かったような印象がある。

ところが『ヘリコニアの冬』は進歩史観的なそれまでの話をひっくり返す。こんどは、世界は夏から急激に冬に向かう。人間文明は発達し、自分たちとファゴルの共生関係も理解できるようになるけれど、でも人間は迷妄に囚われて馬鹿なので、自分の首を絞めてもいいからファゴルを殲滅しようとする。そしてまた、彼らをずっと観察していた地球の観測ステーションも滅びる。その信号を受けていた地球も、野蛮へと転落する。というわけで、いろいろ変化があり、そしてオールディスの非常に冷たい視線も出ているみたいで、『夏』よりもおもしろそう。

ということで手をつけはじめました。こちらも一ヶ月くらいかねえ。飽きて投げ出すかもしれないけれど。ここを見ていると、ひょっとしたら途中経過/完成稿がいつのまにかアップされる可能性もあるが、もちろん著作権というものがあるので見てはいけないよ。では。

付記:

やろうかと思って『ヘリコニアの冬』、ざっと見ていたら、どうも完全な、ガイア仮説オカルトの世界に陥ってるみたいで、どうしようか。

ガイアが、ヘリコニアの惑星意志に、もっと共感と優しさを大事にしなさいと念を送って、それがヘリコニア冥界の幽鬼や魂霊を通じて……とかいうのが平然と垂れ流されている。

途中の、愚かになった地球人たちの気の迷いの描写だと信じたいところだが…… まあどうなるかはお楽しみ。と言ってる間に最初のところがきました。

ブライアン・オールディス『ヘリコニアの冬』