川床『漱石のデザイン論』:漱石は結局ダシで、ありきたりなデザイン哲学に堕すもったいない本。

漱石のデザイン論―建築家を夢見た文豪からのメッセージ

漱石のデザイン論―建築家を夢見た文豪からのメッセージ

夏目漱石はもともと建築家志望だった! 知らなかった。でも彼は、明治の日本ではセコいものしか作れない、文学のほうが世界とタメを張れるぞと言われて建築家を断念したんだけれど、ひょっとしたら辰野金吾のライバルになっていたかも……という本書のつかみはおもしろい。で、そこから漱石の建築関連、デザイン関連の発言を漁り、彼のもっていた独特な都市建築観を明らかに……と期待するんだけれど、実はあんまりそうしたネタがない。で、その後はくだらないデザイナーの現代文明批判論、西洋文明批判論が得意げに展開され、漱石もそういっていたのなんの。

そりゃ漱石は言うだろう。明治の人だもの。彼らは本当に、従来の日本文化と西洋文化の葛藤を現場で体験していたんだから。でも、それから百年以上もたった時代に暮らす人間が相変わらず同じことしかいえないって、あまりに進歩がないだろう。漱石の時代は、漱石はたぶん西洋文化を拒絶する道だってあったはず。でも、いまの川床にせよ、ぼくにせよ、そういう選択肢はない。いまはここに純粋日本文化なんてものはない。すでに西洋文化が入り込んでいる折衷文化が生まれながらにしてある。漱石の西洋文化との葛藤は、本物の葛藤だ。川床の葛藤(だと当人が思ってるもの)は、単なるままごと。ありもしない選択肢を勝手に妄想しているだけ。

大量生産文明はよくないとか、インドのいなか暮らしはすばらしいとか、アンケートをしたらモノより心を重視したい人が多いとか、ありきたりなお題目を並べる。ふーん、だったら地方に引っ込んで、あるいはそのインドにでかけて、自給自足の生活すれば? だれもそれを止めていない。でも、川床はそういう覚悟はないので「いちがいに否定するつもりはない」と弁解がましく繰り返し、でもやっぱり現代文明はダメでうだうだうだうだ。

漱石は、本当に時代と格闘していろいろ苦悶していた。彼の悩みは本当なんだけれど、それをダシに展開される川床のデザイン論(これはホントは漱石のデザイン論なんかではなく、川床のデザイン論なんだけど、自分がきちんと立論できずに漱石によりかかっているだけだ)というのは単なる百年一日の進歩のないだらしない妄想。最初の30ページくらいでは、おもしろいかと思ったが、その後どんどんダメになるのにげんなり。ほんと、百年たった現代人としての思想や進歩のあとを少しは見せろよ。書評なんかしませんわ。



クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.

長崎『革命の哲学』:左翼過激派運動の思想を、過去のものとしつつ思想史的にふりかえろうとするまじめな本。

革命の哲学――1968叛乱への胎動

革命の哲学――1968叛乱への胎動

60年代安保から70年代に至る学生運動というのは、人によっては大仰にまつりあげてしまうし、人によってはまったく笑止と切り捨てる。自分がその末席(あるいは上席でもいいけど)に名を連ねていただけで、実践闘争の荒波にもまれた革命の闘士気取りになっちゃってるお調子者も多い一方で、その挫折をあまりに真摯に受け止めすぎて、こもってしまう人もいる。もちろん、実際にはそのお調子者ほど「頼むから黙ってて」的な泡沫で、黙っている人ほどもう少しあの時代の話をしてほしい人々だったりする、というのもいろんな場面で見られることではある。そしてそのお調子者どもは、最近のジャズミン動乱だの反原発デモだので、ついに自分の時代がきたと思ってツイッターで駄弁を弄したりしている。

本書は、そのどっちにもならずに、当時の学生その他闘争を過去のものであり歴史的な興味しかないものとしつつ、そうした闘争や運動の背景にあった思想をたどりなおしている。そして純粋な思想史として見るのではなく、それが当時の自分たちに与えた影響をベースに記述することで、当時のある一派が何を考えていたかについても、ある程度は明らかにできていると思う。

それが「革命の哲学」と言うべきものなのか、ぼくはわからない。当時の人々のどこまでにこれが共有されていたのかも、知るよしもない。そしてまた、この「哲学」をいまのぼくたちが読む意義がどこまであるのか、といわれれば、あまりないかもしれない。が、どうだろう。あるのかもしれない。

この本の一つの核は、ルカーチの議論であり、そして何よりも「プロレタリアート」って何、という話。マルクス主義系の本を読むと、プロレタリアートというのがずいぶんえらいものとして出てくるんだが、それって具体的にだれのことなのよ、というのがさっぱりわからない。低賃金工場労働者のことだったり、何だか心の持ちようだったり。そしてそれは長崎も本書できちんと指摘していて、プロレタリアのスペクトル分析なるものを第九章でやっている。彼はそこで、「これぞ正しいプロレタリアート像!」というのをやるわけじゃない。ただ、そのばらつきは、ある種の革命思想のあいまいなところの吸収装置ともなっていて、一方でそれがまたほころびのもとでもあったことを指摘する。それにともない「理論と実践」の一致とか疎外論とかも、一歩下がった広い視点で見直されている。そしてそこから出てくるのは、最終的には当時の学生運動のつらさであり、最終的にはその(明示的ではないにしても)批判ではある。

いまや松尾や小熊などマルクス主義の旗を振ったり学生運動の分析をしたりする論者がまた出てきているけれど、本書を読むとかれらのアプローチは一方的、一面的かもしれないという認識も得られる。そういう認識をしてどうなる、というのはやはりあるんだけれど。それが当時の活動の当事者から、ある程度冷静な形で出てきてくれたというのは、歓迎すべきことだろう。朝日新聞の紙面で紹介するような本ではないと思うけれど、でも最終章くらい立ち読みしても、バチは当たらないんじゃないか。



クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.

ゲンスラー『とてつもない宇宙』:宇宙ヤバイ。

とてつもない宇宙 ---宇宙で最も大きい・熱い・重い天体とは何か?

とてつもない宇宙 ---宇宙で最も大きい・熱い・重い天体とは何か?

いやあ、ぼくが書評を書くまでもなく、ネットですでに見事な書評があるので以下に引用。

ヤバイ。宇宙ヤバイ。まじでヤバイよ、マジヤバイ。
宇宙ヤバイ
まず広い。もう広いなんてもんじゃない。超広い。
広いとかっても
「東京ドーム20個ぶんくらい?」
とか、もう、そういうレベルじゃない。
何しろ無限。スゲェ!なんか単位とか無いの。何坪とか何ヘクタールとかを超越してる。無限だし超広い。
しかも膨張してるらしい。ヤバイよ、膨張だよ。
だって普通は地球とか膨張しないじゃん。だって自分の部屋の廊下がだんだん伸びてったら困るじゃん。トイレとか超遠いとか困るっしょ。
通学路が伸びて、一年のときは徒歩10分だったのに、三年のときは自転車で二時間とか泣くっしょ。
だから地球とか膨張しない。話のわかるヤツだ。
けど宇宙はヤバイ。そんなの気にしない。膨張しまくり。最も遠くから到達する光とか観測してもよくわかんないくらい遠い。ヤバすぎ。
無限っていたけど、もしかしたら有限かもしんない。でも有限って事にすると
「じゃあ、宇宙の端の外側ってナニよ?」
って事になるし、それは誰もわからない。ヤバイ。誰にも分からないなんて凄すぎる。
あと超寒い。約1ケルビン。摂氏で言うと−272℃。ヤバイ。寒すぎ。バナナで釘打つ暇もなく死ぬ。怖い。
それに超何も無い。超ガラガラ。それに超のんびり。億年とか平気で出てくる。億年て。小学生でも言わねぇよ、最近。
なんつっても宇宙は馬力が凄い。無限とか平気だし。
うちらなんて無限とかたかだか積分計算で出てきただけで上手く扱えないから有限にしたり、fと置いてみたり、演算子使ったりするのに、
宇宙は全然平気。無限を無限のまま扱ってる。凄い。ヤバイ。
とにかく貴様ら、宇宙のヤバさをもっと知るべきだと思います。
そんなヤバイ宇宙に出て行ったハッブルとか超偉い。もっとがんばれ。超がんばれ。
(「はてなキーワード:宇宙ヤバイ。」)

とまあ、まさにそういう本です。宇宙ヤバイ。宇宙そのものだけじゃなくて、そこにあるいろんな天体がヤバイ。やたらにでかい。やたらに熱い。やたらに黒い。もうやばすぎ。そんなのだらけで宇宙とにかくヤバイ。これをこのまま書評欄で使えたらなあ。楽しい本。拾い読みに最適。ただブルーバックスとかにして値段を下げてほしい本ではあるんだよなあ。1900円、ちょっとヤバイ。



クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.

日置/中牧編『会社神話の経営人類学』:企業アイデンティティ形成過程を分析した面白い本。

会社神話の経営人類学

会社神話の経営人類学

最近ではスティーブ・ジョブスとアップルの話に顕著だけれど、会社は発展成長の過程でいろんな神話を紡ぎ出して(時には捏造して)、それをアイデンティティ構築に使いブランディングや企業のまとまりを生み出す。本書は、いろんな日本企業(または外資日本法人)についてそうした神話がいかに造り上げられたかを、神話学、民族学的に分析検討したもの。

とってもおもしろい。多くの人は、ジョブスの伝記とかを思いっきり真に受けて本気で感動するくらいバカで、そこに書かれている「製品哲学」が目の前の製品と露骨にちがっていることにすら気がつかない。(たとえば、ジョブスがジョナサンアイブと、一件かっこよさげな製品を見つけて喜んだが、それがネジ止めではなく糊付けされているのを見て許せんと怒った、とかいう話が伝記には書かれているが、ipodをはじめ最近のアップル製品の醜悪な糊付けぶりを知ってる人なら失笑するはず)。また、ぼくの勤め先を含め、ビジネス系のコンサルや雑誌はそんなフィクションを「企業DNA」とか聞いた風なことを言ってみせてもっともらしげなことを言ったりする。でも実際には、それはいろいろな意図や思惑で造り上げられたものだ。本書はそれを三笠会館、近江兄弟社サントリーなど具体的な会社、あるいは日紡バレー部(東洋の魔女)とかの分析を通じて示し、神話形成として神話学的な見地から分析する。

そして、フィクションだから悪い、というわけではない。ときに優れたフィクションは本当に人々をまとめあげ、本当の意味での神話として機能する。しかも既存の宗教とちがい、企業の神話はその形成過程までちゃんとわかる。本書をまとめたのは国立民族博物館の人々で、ふだんは人類学的に神話分析をしたりしているけれど、そうした知見が企業分析にも役立つことを示せたという点でとってもおもしろい。何がどう役立つかなんてわかりませんな。既存の経営学とかの分析は往々にして、出来合いの神話やフィクションをだらしなくなぞるばかりだったりして、また研究対象に変な遠慮をしてヨイショするばかりだったりするけれど、これはそういうのがなくて、距離を置いたよい分析になっていて見事。他との兼ね合いでとりあげる余裕はないけれど、試みとしてもおもしろくて、成功していると思う。どんどん続けてバカなビジネス書の鼻を明かし続けることを期待したいところ。



クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.

ショルカル『エコ資本主義批判』:バーカ。

エコ資本主義批判―持続可能社会と体制選択

エコ資本主義批判―持続可能社会と体制選択

エコロジー社会主義なんだって。バーカ。もはやエコロジー的にも経済成長は持続不可能なので、そこから撤退してエコロジー的な社会主義にすればいいんだって。バーカ。社会主義は資源開発の国有化で資源開発による公害その他外部性を内部化していたから環境問題は起きえないし、自然保護も重視していたんだって。バーカ。どこに目をつけてるんだよ。

エコ社会主義は、経済の収縮を目標にかかげ、政府が欲求の削減と単純化という政策を意識的に一貫して追及するんだって。バーカ。第三世界も成長させずに低い生活水準のまま持続可能な状態に移行させるんだって。バーカ。恥知らずのバーカ。そして民主主義的に著者のいうまぬけなエコ社会主義を実現したいんだけれど、軍がそこに協力してもいいし、必要ならエコロジストによる独裁が樹立するかもしれないんだって。でもエコ社会主義は国際主義でもあるのでいずれ全世界がエコ社会主義になり、戦争もなくなるんだって。バーカ。

移行期のエコ社会主義では、「計画に基づく秩序だった撤退を保障するために強力な国家が必要」なんだって。でも「その強力な国家が具体的にはどのようなものであり、その民主主義の原理との関係がいかなりものであるかについては、今日の我々は問題にすることができないし、してはならない。この問題について正しい答えを見つけることは、遠くはないにしても、将来の世代の課題である」(p.282)。バーカ。

言ってることは、ほんと古くさいレーニン/トロツキー/スターリン時代の社会主義理論とほぼまったく同じ。プロレタリアのかわりにエコロジストを入れればいい。お手軽ですね。で、ただそこに経済成長ではなくエコに基づく経済縮小を意匠として入れただけ。さらにだれもそれを望んでいないことを認めつつ、でもそうするべきだと主張する高慢ぶり。それを実現するには、必要なら民主主義も蹴倒して強力な独裁国家権力により人々の財産を没収して経済を収縮させ、欲求まで削減させて単純化させるという、唖然とするような専制主義の肯定を平然と行う恥知らずぶり。ただし、それを言うと人気が出ないとわかっているから、具体的な姿は考えるなと逃げをうつあさましさ。ひどいね。

タイトルを見て、ありがちな資本主義見直しとエコロジー礼賛のバカ本かと思ったが、予想のはるか上をいく壮絶な代物。予想はしていたので、選書でもいちばん低い希望しか出さなかったんだけれど、それでもぼくにまわってきたということは、他の委員はもっと賢くてだれも読みながらなかったってことか。柄谷行人なら本書をほめたかもしれないが、彼は本書に手を挙げなかった模様。結構なことです。メキシコで、ディエゴ・リベラの単純きわまる社会主義礼賛壁画をたくさん見てきたあとでこれを読むと、すっごい既視感がある。当然書評なんかにとりあげません。




クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.

松橋『モダン東京の歴史社会学』:うーん、いろいろやったのはわかるが、それで?

東京都心、丸の内あたりについての歴史社会学的な研究。ぼくは都市計画屋くずれだし、学生時代に藤森照信の研究が出て東京ブームであれこれいろんな研究が出たのを見てきたので、興味ある分野ではある。というわけで、ふんふんと言いつつ読んだんだが……最後まできて、「へ? これで終わり?」となってしまった。

まず第一章は、バージェスの同心円がどうしてルフェーブルがなんたらで、そこでサッセンの手法が云々でカステルはどうたらこーたらフロリダのクリエイティブクラスがどうしたと、あれやこれやの都市社会学理論をひたすら並べるんだけど、その後の理屈に全然貢献していない。それが70ページも続いて、東京がいつまでたっても出てこないのは堪忍。既存の東京に関する分析のレビューをするならまだしも、いっしょうけんめい偉い(と著者が思ってる)名前を並べて箔をつけたいだけですか、と思えてしまう。

で、第二章からやっと本題。まず江戸から東京に至る都市発展の歴史をまず見て、都市計画っぽい話で丸の内れんが街の成立をまとめる。次にモダン都市的な文化論っぽい話で丸の内地区の発展を扱う。で、美観景観論争を通じて、バブル前、バブル期、その後現在までの丸の内近辺の形成を見て、最後にいまの丸の内の利用者に対してアンケートして因子分析して、丸の内のいまのイメージと人々の評価ポイントをまとめている。だけれど各章、各時代の分析において、使っている手法や視点がかなりちがう。このために、あまり全体に一貫性が感じられず、寄せ集めっぽくなっている。これがまず一読しての難点。

さらにこの読者の個人的な問題ではあるんだが、江戸からの発展を経て都市計画と戦後の再開発の話は、都市計画屋としてはあまり目新しくない。天皇の役割をやたらに強く出そうとするのは、まあそういう見方もあるけれど、そんなに重要だったのかなとは思う。が、皇居との関係で高さ制限が取りざたされたのは事実だから、それはそれでいいんだろう。

でも、バブル期になぜ丸の内は再開発されなかったのか、という話で、なにやら文化人どもの景観保全反対運動が起きたから、ということにしちゃうんだけれど、本当かなあ、と思う。三菱地所が本気でやりたければ、そんなのすぐ蹴倒せたんじゃないかな。当時、うちの研究室にもそのマンハッタン計画の計画書がきてみんなで見ていたけれど、当時は都心の開発そのものに対して、そんな景観運動なんか比べものにならないほど強い抑制がかかっていたはず。それは、特に当時の地価問題に顕著にあらわれていた、一極集中に対する批判というもの。

当時は都心部の地価上昇が大きな問題になっていて、大規模な開発をするのはその上昇に拍車をかけるものとされていた。オフィス足りないという国土庁の無責任なレポートがあったのは事実。でもそれをどう処理するかという考え方だと、すでに都心はいっぱいでインフラも負担しきれない、一極集中いくない、地価が上がるのダメ、だから八王子、幕張、横浜みなとみらい、お台場をはじめ機能分散をして、都心はあまり開発するなというのがかなり強い雰囲気として官民の両方にあったはずなんだけどな。景観なんてそのホンの枝葉の話でしかなかったと思う。汐留の開発が遅れたのも、地価を顕在化させてはいけないとかいう話であちこちもめて、そのうちバブルがはじけるとお台場あたりと競合で云々とかいう話があって(お台場の話はちょっと触れられている)、それでまとまらなくてあれやこれや。美観論争だけで開発の進捗をまとめようとする話は、ぼくはかなり偏ったものじゃないかと思うんだが。

さらにバブル以降の現代の開発については、三菱地所が根回ししたから開発できたという話にしたがるんだが、そうかなあ。地方部の賃料がダダ下がりになって、三菱地所として賃料取れそうなところが丸の内くらいしかなくて、それなのに森ビル系の開発や汐留が出てきて鈍くさい丸ノ内からは最先端のテナントも取られ(当時丸ノ内に会社がきたときに、駅で降りる男女の高齢ぶりとくたびれた鈍くささにはみんな泣きそうだったし、なんとか「ビルヂング」がいっぱいあって唖然としたもん)、もはやのんきに構えてられなかったからじゃないの?
さらにそれが「徹底して経済のグローバル化の文脈、すなわちグローバル資本やグローバルエリート向けの「外部」のまなざしを意識し、それに適合したライフスタイルの提供と担い手の発掘を行うことで成立している」(p.282) という。たぶんサッセンの真似して「グローバル」と言ってみたかったんだろうけど、あの本のダメなところはぼくがアマゾンの書評で述べた通り、まさに東京の没落を説明できないこと。それを理解せずに、グローバル都市論を東京にあてはめてしまうのはどうよ。バブル期以降東京はもはやグローバル都市としての存在意義を激減させていて、バブル期にはアジア拠点を東京に置くのが当然だったけれど、いまは東京は見向きもされない。仮にもグローバルを口走るなら、東京の世界的な地位も少しは考えるべきじゃないだろうか。丸の内はグローバルなんとかに対応したのだ、と言いたいなら、なぜグローバル都市としての地位がガタ落ちになった頃に(つまりニーズが減ってから)わざわざそんなものに対応せねばならなかったかを説明する必要がある。でも本書はそういうの考えてない。

そして、その後で現在の利用者(社長さん、店長さんたち)にアンケートをして丸の内らしさをつきとめようとするんだが、それまでの話とぜんぜん関係がない。たとえば丸の内は皇居とつなぐ天皇の軸が重要で、というような話をそれまでにしているんだから、アンケートでもそういう要素が入っていればまだわかるんだが、そういうのまったくなし。グローバルなんとかに適したライフスタイル、というのも特に質問しない。古い/新しい、便利/不便、明るい/暗いを採点してもらうというありがちなイメージ調査をもとに、非常にうだうだしい話を散々繰り広げたあげく、人によっていろいろですねえ、という話になってしまう。そして6章最後の結論:

イメージプロフィールを見る限り、双方とも現状の丸の内に対してそれほどポジティブな評価を与えておらず、双方の場所イメージを規定する「丸の内らしさ」のゆらぎと隔たりが表面化する結果となった。これはフェイストゥフェイスによる情報交換や企業イメージの向上といった場所がもたらす付加価値が最大限に評価されるビジネスエリアにおいてこそ、企業や組織文化を含めた社会文化的要因が場所の構築に対して大きな影響を与える可能性が高まることを示唆するものとして、考えることが出来るだろう。


……えーと、どうして考えることが出来るんでしょうか? いや、文化的要因が影響するのはたぶん当然だけど、現状が高く評価されていないというだけでそんな結論出せないでしょ? 本書のいろんなところで、こういう強引な本当につながっているかわからない主張が出てきて、いちいち考えるのも疲れる。結局、因子分析したけどあまり大した知見は得られませんでした、ということにすぎないんだよね。

そんなこんなで、興味ある分野なので一通り読んだけれど、感銘は受けなかった。最終章で本書の意義なんてのを述べているけれど、何かがわかったというより、ある手法を適用しました、ある考え方を使いました、という話ばかり。でもぼくは、手法を使ったというだけでは、不十分だと思う。それで何か新しいことがわかったのか? その手法が何か有意義なこれまでない知見をもたらしたのか? それがないと。著者は最後に、「都市類型論との接続を模索する形で、世界規模での比較歴史社会学的な研究モデルを構築すること」が今後求められるというんだけれど、たぶん求められてないと思う。構築すればいいってもんじゃない。構築したら何が得られそうか、という見通しが重要なんじゃないの? それがないと手法に耽溺した自己満に終わってしまうように思う。

というわけで、せっかく読んだが不満が多く、書評欄に取り上げるべき本とは思えなかった。熱意は買うし、練り直せばなんか出てきそうな気もするので今後に期待したいところ、と一応は書いておくけど……

追記

本書もやはり、このブログで何度も指摘してきた、研究としての目的意識の希薄さが最大のネックだと思う。ナントカ手法を丸ノ内に適用した例がないからやってみました、というのが最大の研究としての売りになってしまっているんだけど、そんなんでいいなら、類型論と歴史社会学的な手法をサンマ塩焼きに適用した例はありません、やってみました、というのだっていいことになる。丸ノ内の何を解明したいのか? 何のために? 従来の研究はどういうことをやっているわけ? なぜそれがこれまで採りあげられなかったの? 手法が不十分だったから? それともそのテーマ自体がこれまではあまり重要性がなかったから? 何が変わったためにそれをいまやるの? それを解明するために、どんな手法の選択を行ったの? 具体的にどう調査を進めたの? そして結果は何がわかったの? それは従来の知見を変えるものなの、追認するものなの? 研究だというなら、こういうのをカバーしてほしい。いまの流れで、本書とかは前半部がまったくない。やってみました、すごいでしょうと言うだけ。それで許されるのは修士論文までだと思うぜ。修士くらいなら、研究室で追究しているテーマがあってその一部をやりました、というので教授には許してもらえるし、研究室としてはなぜ自分がそんなテーマをやっているかという背景は共有されているだろうから。でも博士では……「都市社会学」という業界の中では、丸ノ内でアンケートして因子分析しました、というだけで何かすごい成果だと思われるような背景があるのかもしれない(たぶんないと思うけど)。でも、そういうのにだらしなく依存するのはダメだと思うぜ。


なお、ある方からメールをもらったんだが、目的意識というのはもちろん実用性のことではない。リーマン・ゼータ仮説が証明できますとか、円周率の最後の桁がわかりますとか、中国の古代都市は天円地方の理念で作られていますとかゴルバチョフが反キリストである確率とか(こういう研究は本当にある)、ピンの頭で踊れる天使の数とかいうような、それがわかっても何ら現実生活に役立たないものを追究する研究はありだろう。業界外ではわからない、その領域特有の問題意識というのはあるはず。それでも、何かしらそこには解明したい問題があるはず。やっぱり、ある程度の人数が不思議に思っていることや、解明したいと思っていることに貢献するものであらまほし。これをやると、こんなことがわかるかもしれない、こんなことにつながるかもしれないという夢でもいいよ。たぶん研究者として少し慣れてきてしまうと「私はヘミングウェイを研究してます」とか「都市社会学研究してます」と言うのになれてしまって、その分野でありがちなテーマに、ありがちな手法を適用していればその分野の研究者っぽい顔ができて、それに安住しちゃうのかもしれない。でも、ときにはそこから出てきて、それが何のためなのか考えないと。そんな分野になんで興味を持ったのかという初心にも関係してくると思うんだけど、それにたちかえってみれば……

……と書きつつ、一部の研究者は別にそんな何かしたいという興味があったわけではなく、漫然と大学院にいって教授に「XXくん、こんどちょっとどこそこ地方の農村民家のフィールド調査してみないか」と言われて漫然と特に問題意識も無くあーなってますこーなってます、というのをひたすら並べるだけでなんか業績がたまっていって、就職するのも面倒でそのうちその分野の研究者になって、それについては専門家だけど特にすごい興味があるわけでもなく、とはいえその分野以外にいくのも面倒なのでそこでのいろんな組み合わせをあれこれやってみせて、そこに他人が入ろうとするとシマを荒らされた気分になってあれこれ政治的にたちまわり邪魔したり足を引っ張ったりしつつ、なんでそれを調べるんですかと言われても答がないから、素人にはわからんとうそぶいて、むしろ変な目的意識があると研究にバイアスがかかるのだから虚心にデータを集めて解釈しようとはしないほうがいいのだと胸を張ったりするというような例がいっぱいあるのは知っていて、だから目的意識とか研究の意義とかを言ってほしいというのは部外者としては当然でも部内者としてはそれ自体が自分のレーゾンデトールを否定されるようなことになっちゃってる人も少なからずいるというのも、悲しい事実だというのも知っているんだけど。



クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.

ナポリオーニ『マオノミクス』:中国を歪んだダシに使って欧米憎しをがなりたてた変な本。

マオノミクス: なぜ中国経済が自由主義を凌駕できるのか

マオノミクス: なぜ中国経済が自由主義を凌駕できるのか

いつの時代も、もう欧米自由主義はダメだ、新しい経済モデルが今後は出てくる、という本はたくさんある。社会主義経済は資本主義を効率性で上回りそれを凌駕する、というフルシチョフ「We will bury you!!!」社会主義優勢論があり、日本式経営が資本主義を超えるというジャパン・アズ・ナンバー・ワンがあり(そんな時代があったんですよ、若者たちよ)、EUができたときもそんな話があったっけ。その流れで、欧米自由主義はダメで、中国がいいんだ、という本。資本共産主義、なんだってさ。

まあそういう主張はあってもいいとは思う。「これからは中国の時代だ」なんて『24』ジャック・バウアーのお父さんですら口走ることだし。でも、本書はその議論があまりにひどすぎ。資本主義と民主主義の組み合わせはダメと言いつつ、でも中国は昔は(五百年前とか)ヨーロッパより民主的だったとか言ってみたり、ああそうそう、中国共産党全人代も中国式のすばらしい民主主義の発露なんだって! 欧米は金融危機でもうダメで破綻した、これで資本主義はもうだめだといいつつ、中国は(まさにその資本主義導入で)どんどん成長していていい、さらに交通渋滞への対策を見ても、ロンドンは混雑課金制で金持ち優遇になっていてダメだが、上海や北京は貧乏人も使える地下鉄つくってるから中国のほうが民主的で平等だとか(すいません、世界初の地下鉄ってどこでできたかご存じですか?)、支離滅裂な理屈としかぼくには思えないんだが。中国は人権状況も今後改善されて、新しい民主主義を作り上げるとかいうんだが、そうかなあ。人権状況が少しずつ改善されてきているのは事実。でもそれが、この人のいう資本主義化の部分と、共産党独裁の部分とでだんだん摩擦を生じてきていて、その危ういバランスが今後どうなるかわからない、というのが中国の将来についての一般的な懸念だと思う。本書のように、いまそこそこ経済的にはのびているというだけで、これが安定したESSな状態だと言いつのるのはあまりにおめでたい。

精神分析医たちは、無意識をあつかったフロイト理論という檻さながらの枠組みから抜け出すことに成功した。それができたのはカール・グスタフユングの研究に負うところが大きい。(p.27)

いやあ……そんなことないと思うけどなあ。ちなみに著者に言わせると、マルクスは経済学におけるユング、なんだって。たぶん著者は、ほめてるつもりなんだろうけど、マルクス主義者は「あんなのといっしょにするな!」と怒ってほしいところ。

この二〇年間、アメリカ連邦準備制度理事会のデフレ政策は、金融版プロザックのような役割を果たしてきた。デフレ政策のおかげで西側はうつのきざしはあってもその症状を抑え、経済危機を無視し続けることができたのである。

えー、FRBの政策が(特にグリーンスパン時代)緩和的すぎたという話はよくきくが、デフレ政策、ですって??? それがうつの症状を抑えた?? あんたデフレ政策ってわかってるんですか? サプライサイダーもネオコンも、レーガンサッチャーも、英米はすべていっしょくた扱い。議論乱暴すぎ。

上海や北京を訪れれば、未来都市がどのようなものであるのかも、中国の新しい近代化がなにを意味するのかもわかるはずだ。こうした都市のダイナミズムは、麻薬さながらに、外国人をはじめあらゆる人々を魅了してやまない。(中略)
 いまなおポストモダニズムにどっぷり浸かった西側諸国の主要都市は、上海や北京とはまったく趣を異にしている。退廃的な気運が満ち、政治機構は歳月の経過と規制緩和の影響で機能不全に陥ってしまった。混雑するばかりで効率の悪い交通システムを利用して毎日通勤する人々は、我が身の老いを痛感しているような表情をしている。

いやあ……上海や北京の退廃を感じられないんですか? 「ポストモダニズム」って、建築の話ならいま世界でいちばんポモってるのがその上海や北京だし、そうでないにしても、西側諸国が退廃って……あなたの考えてる西側諸国の主要都市って、いったいどこの話ですの? ニューヨーク、結構元気ですよ。ベルリンもロンドンもアムスも東京も、そんな退廃してどんよりしてるわけじゃないですけど? 

とにかく英米憎し、資本主義憎しが出てくると、議論が完全に感情的で粗雑で変ちくりんになり、それを裏付けるために中国がすごくひいきの引き倒しみたいに歪んだ形に持ち出され、目が点になるところが多々ありすぎ。英米の民主主義なんかたいしたことないよ、と言いたいがために、いまの中国の民主主義が「いきすぎていない」と持ち上げてみたりするのはどうよ? いきすぎてないって、党がそうしようと思えばなんでも高圧的に通してしまえるということね。専制主義と開発独裁万歳ってこと? ぼくはそういう議論はありだと思っている。でも著者は、そうはっきり主張するほど腰もすわっておらず、その舌の根も乾かないうちに中国だって民主主義だと言いたがる。でもその議論というのは、中国は一党独裁だけど、共産党はだれにも強制されない自発的な組織にすぎず、自由に参加できて、そもそもが民衆蜂起の産物だから民主主義を体現するものなんだという、ちょっと苦しいにもほどがある議論とか、もういい加減にしてくれという感じ。かつてエドガー・スノーが中国の公式発表丸呑みにした中国翼賛を書いたり、クリステヴァが文化大革命翼賛書いたり本多勝一ベトナム提灯持ちやったりするのは、提灯持ちだからわかるけど、頼まれもしないで何やってんの、あなた。あ、それとベルスコーニ罵倒に割いた1章とか、なくてもいいんじゃね? そうでないところでは、たとえば中国ギャングの議論とか模造品の現場の話とか、そこそこおもしろいんだけど……

結局、中国についての本じゃないんだよね、これは。中国を歪んだダシにつかって英米批判したいだけだが、もう少しまともにやろうよ。こんなのダメー。書評しません。こんど梶谷先生にきつく叱っていただきます。



クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.