支離滅裂で大躍進の意味すら理解できていない悲惨な本

毛沢東 (岩波新書)

毛沢東 (岩波新書)

著者は毛沢東関連資料の研究で名高く、一般向け毛沢東解説書の書き手としては適任、と思ってしまうのが人情。それだけに、本書の惨状には目を疑った。

著者は毛沢東の著作に基づいてあれこれ論を展開するが、古典文芸的うんちくに終始。発言内容と現実との対比がほとんど行われず、毛沢東著作から聞こえのいい建前論ばかりを抽出して散漫な記述が展開されるうえ、意味もなく著者の卑近な身辺雑記でお茶が濁されるのには閉口する。

そして信じがたいことに、著者は大躍進の偽装を1989年の時点でまったく見破れずにいる。1958年にどこぞの村に招かれ、石炭を地面に広げて燃やしてコークスを作るとか(そんなやり方でコークスができるもんか!)、子供が上にすわれるほど高密に植わった稲(ありえん)を見せられるが、一切疑問を呈することなく鵜呑みにする(pp.98-100)。そしてかれはこれにより、鉄鋼や穀物の生産高が実際に上がったと主張するのだ。「ここ(1956年あたりの十大関係論)で掲げられた目標は(中略)途中で「大躍進」運動のあおりをうけなければ、もくろみは予定通り実現していたであろう」(p.87)。いや、そのもくろみ自体が大躍進そのもので、あなたの見たもの自体が大躍進の悲劇につながる偽装そのものですから! そんなことも、1989年の時点でわかっていない人物に、毛沢東の評伝など書く資格はない。

さらに毛沢東は、常に言うことがぶれまくる。まず思いつきで勝手な方向性を唱え、その実現努力が足りないといっては人々を粛清し、思った通りの結果が出ないと粛清し、最後には行き過ぎだと言って粛清する。ところが著者は、これがぶれていないという。ぶれない中心があって、そのまわりでますます大きな円が描かれているだけ、なんだそうだ(p.194)。円を描いている時点でぶれてるの定義そのものだし、それがますます大きくなっているなら、どんどんブレがひどくなってるじゃないか! こうした空疎なレトリック(にもなってないもの)で、毛の方針を「ぶれていない」と強弁し、毛沢東の欠点をひたすら言い逃れた、ごまかしに満ちた一冊。もはや岩波文化などに幻想は持っていないつもりだったが、ここまでひどいとは。これを未だに出し続けている岩波書店って……



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