世界の将来シナリオと企業戦略


 最近読んでとてもショックを受けた本がある。一年以上前に出た本で、いま読んだのには特に理由はなく、偶然会社の隣の丸善で見つけて手に取ったんだが、リアル書店も捨てたもんじゃない。こんな拾いものがあるとは!

Shell Global Scenarios to 2025: The Future Business Environmenttrends, Trade-offs And Choices (Institute for International Economics Monograph Titles)
Shell Global Scenarios to 2025: The Future Business Environmenttrends, Trade-offs And Choices (Institute for International Economics Monograph Titles)
(※サマリーが、ここからダウンロードできる。)

 こいつは、あの石油のシェルが、自社の長期的なビジネス戦略を立案するために、2025年までの世界の展開についての分析と予測を委託した本だ。いったいシェルは、どういう世界認識のもとにビジネス戦略をたてればよいのか? 本書はそれに対する答えとなる。

 さて各種ビジネス雑誌とかでは、しばしば「企業のグローバル戦略が」とか「長期的なビジョンが云々」といった話をしたがる。「グーグルの発展ビジョンは」とか「マイクロソフトのネット覇権に向けた戦略は」とかなんとか。ぼくもときどき、そんなのを手伝ったりすることもある。でもたいがいの企業では、自分のビジネス領域はすでにはっきり決まっていて、それが上がるの下がるのという話をして、それに関係した各種の環境条件が悪化するの改善するの、という話をしておればだいたい用は足りてしまう。そういうところで「世界」というのは、たいがいは「ギョーカイ」というのと同義だったりする。

 本書のおっかないところは、そういうママゴトみたいな戦略だのビジョンだのとは比較にならない、本当の意味での世界分析と予測がまじめに行われてしまっているということだ。たかが一企業レベルで!

 その分析もおもしろい。本書が最重要視する条件とはなんだろうか。石油会社なんだから、環境とか資源、エネルギー問題なんてのが真っ先に出てきそうだ。あるいはそれを使うための経済成長とか。ところが、ぜんぜんちがうのだ。本書が何よりも重視するのは、人々の(そしてコミュニティや国同士などの)信頼関係だ。それが何より世界を規定する。

そしてもう一つおもしろい視点は、世界(の人々)が重要視するものをすべて満足させることはできない、という冷徹な認識だ。

人々が重視するのは、効率性、セキュリティ、社会のまとまり。それぞれとても広い概念ではある。効率は、まあ経済効率がいちばん大きいだろう。セキュリティは、軍事的な安全保障から対テロ、食の安全や環境、不正取引といった、人が漠然と不安と思うものからの安全すべてを含む概念。社会のまとまりは、社会格差や愛国心やコミュニティ意識(日本ではなぜか愛国心というのを、通常のコミュニティ意識や仲間意識と別の悪い物だと考える人が多いけれど、これらはまったく同じものだ)などを含む。

さて、この三つをすべて実現することはできない。よくてもどれか二つ。そして地球の人々がどの二つを選ぶかで、将来のシナリオは変わってくるのだ。

 効率とセキュリティを選んだら? 経済発展はとげる。いろんな形で安全性は確保される。ただしその代償は、セキュリティを実現するためのすさまじい規制や制約、あらゆるものをしばる契約とその裏返しの訴訟だ。そして経済発展は一方で社会の格差を生む。大きな格差で分断された社会が、厳しい規制や法律でかろうじてつなぎあわされる――そんな世界がうまれる。
 セキュリティと社会のまとまりでは? このシナリオだと、社会はもっと自警団的になる。愛国心や同胞意識が高まり、それによって社会としてのセキュリティも担保される。ただしそれは、経済効率を犠牲にすることになる。細かい集団がそれぞれ自給自足を目指し、効率の悪いブロックを構成してしまう。あるいは悪しき伝統重視によるイノベーションの阻害。そこにできるのは、ナショナリズム社会とでもいおうか。
 そして社会のまとまりと効率とでは? 市場の開放と相互依存、分配の高度化による社会のまとまりが実現され、そしてそれによりあまり思い規制がなくても社会は動き、イノベーションも高まる。これが最も高い発展を実現するシナリオだ。ただし、これは一方でセキュリティはどうしても下げる。人やモノや金の移動が自由になれば、新しい不安要因は増える。

 そしてその選択に、世界における信用のあり方が関係する。全体としての相互信頼が高ければ、あまりセキュリティに手間暇を割く必要はない。でも信頼関係がそこそこでしかなければ、法律や契約、規則ですべてをしばらないと世の中がまわらない。信頼関係が低ければ? 相互に断絶して狭いところでかたまるしかない。

 これがあなた、たかが一企業の戦略立案のために作られたシナリオですぞ。本書はそのそれぞれについて、そこで何が問題になるか、考慮すべき因子にはどんなものがあるか(たとえば中国やインドの動向等々)、それぞれが環境やエネルギーやテロといった問題にどんな影響を与えるかについて検討する。モデルによる定量的な裏付けもある。でも、たとえばソニーでもトヨタでも新日鐵でもはてなでも、この将来シナリオをわたしてこれで将来戦略をたてろと言われたら途方にくれるだろう。シェルは(どうやら)ちゃんとこれを咀嚼して有効に使えるらしい。すごいもんだ。日本では、絶対ありえん。企業も、有能な官僚ですら、こんなものを発注できないし、自前で考えることもできないだろう。そしてそれを受けてちゃんと答えを出す側もすごい。個人でなら、これくらいの構想力を持つ人はいるかもしれないけど、チームだと必ずこの水準の抽象度と漠然度に耐えられないやつが出てきて話がまとまらなくなるのに。

 すごいなあ。いま世界戦略がどうしたとかいう人は、グローバリズムとか、環境とか、アメリカの覇権がとか北朝鮮が中国がといった適当に国際ニュースに出てくる時事ネタをちりばめたヨタ話をし、短期のトレンドをまっすぐ直線でのばして話題作りだけの地獄絵図を描いて世間を驚かせようとする。でも本書を見ると、それとは全然ちがう世界が確固としてあるのがわかる。ハーマン・カーン以来の(そして「アイアンマウンテン報告」が皮肉ったつもりで見事に再現してしまった)未来学の伝統はちゃんと生きているのか。うらやましいし、またそういう連中とけんかするのはかなり怖いことだと思うぞ。ついでながら、ぼくはこの本の分析はあたっていると思うし、この三つのシナリオの中で世界がどこへ向かっているかもかなりはっきりしていると思うんだが、まあそれは皆様も読んでのお楽しみだ。



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