ルッツァット「反ファシズムの危機:現代イタリアの修正主義」

反ファシズムの危機―現代イタリアの修正主義

反ファシズムの危機―現代イタリアの修正主義

ファシズムへの批判に対する痛烈な反批判、と見返しには書いてあるが、全然そんなふうには読めなかったんですけど。

ファシズムに対して戦後のイタリアでは、当然ながらファシズムを絶対的な悪として批判する反ファシズムが強かったんだけれど、もうリアルタイムで第二次大戦を経験した連中はみんなロートルになってきて、もうかつてのような強い反ファシズムは維持できない。それどころか、その反ファシズム連中がネコもしゃくしも気にくわないものすべてをファシスト呼ばわりしたもんで、いまの多くの人はファシズムって何だかよくわかんなくなってきた。そしてまた反ファシズムは、(実はあまり活躍してない)パルチザンをまつりあげたりして、かえって正しい反ファシズムをつぶしかねないこともしていて……

で、だんだんもう、バカみたいにファシズム批判してても仕方ないじゃん、という立場が出てくる。その今のポスト反ファシズムは、まずあまり気楽&無意味に人をファシスト呼ばわりしないところから入る。で、安易に対立図式をあおらないようにしようという話。これは歴史修正主義と呼ばれて批判されているんだけれど、ホロコーストはなかったとかいう連中の議論とはちがう(むろん、ちがわないという人もいるけど、本書の著者はそこまでドグマチックではない)。著者は、そうした記憶の風化は残念だと思いつつも、反ファシズム側も必要以上の単純化をしてこういう下地を作ってしまったこともあって仕方ないなとは思っている。著者としては、ファシズム批判はちゃんと続くべきで安易に妥協なんかしてはいけないと思ってはいるんだけれど、皮肉に嘆くばかりで、ちょっと煮え切らない議論。

で、最後はベルルスコーニの話になる。一応、ベルルスコーニの党は反ファシズムの路線とは別の動きから出てきた政党ではあって、これまでの戦後イタリア政治の中ではちょっと異質なんだけど、それは反ファシズムの没落とは直接関係あるとは言えないが云々。というわけで、途中までの「ファシズムの記憶の風化」を嘆くような話が、最後のベルルスコーニ批判で単なるポピュリズム批判(それも結構情けない感じ)になっているのはあまり歯切れがよくない。

ところが北原敦という人の解説は、本書の中でもたしなめられているパルチザン神格化を平然とやっていて唖然。で、勇ましく歴史修正主義批判の旗をふっておしまい。本書は、むしろそれではダメ、というか不十分と言ってるんだけど。ちょっとびっくり。

もう一つ、非常になじめないのは、政治研究だの実際の政治だのの話と、テレビドラマとかの設定(パルチザンナチス兵の恋とか)がいっしょくたで、後者までがファシズム容認の風潮のあらわれとか言っていて、まずそういうレベルの話が並列で出てくることと、そんなところにまで目くじらたてるのか、というところでこれがどこまで真剣な分析なのか、それとも時評レベルのエッセイなのかよくわからなくなる。



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