宮崎義一・伊東光晴「ケインズ 一般理論(コンメンタール)」(日本評論社):ケインズを階級対立の先駆者として見ようという変な試み。

ケインズ一般理論

ケインズ一般理論

宮崎義一と伊東光晴が、ケインズの一般理論を読みながら放談するというぬるい構成の本。それぞれの章について、伊東と宮崎がかわりばんこにレジュメを書いて、それを見ながらあれやこれやと対談が進むんだが、基本的にメリハリがない。単位の話とか、なぜこんなものが必要だったのか、というのがぜんぜんない。いっしょうけんめい二人とも、いろんな名前を挙げて知ったかぶりを展開するんだが、誰はこういった彼はこういったの連続で、それが現実的にどういう意味を持つかについては考察があまり見られない。

それに誰の何とかという主張が云々というのも、ホントむかしの話ばかりでいま読んでもあまり益がない。しかもその議論自体の中身を説明せずに二人の世界で話が進むので、勉強にもならないというトホホな本。こういうのって、たぶん言ってる当人たちはわかっていたと期待したいんだが、そうでないことも多く、そしてその弟子どもは「いやあ先生、さすがに博識でいらっしゃる」と言うだけで実は読んでおらず、生意気な大学院生が「パティンキンのなんとかって何ですか〜」とか言うと「きみ、そんなことは自分で調べたまえ」とか言って、知ったかぶりを無知なケツなめがガードして、鉄壁の象牙の塔タコツボが完成するという図式。まじめな人ほど「ここでなぜハロッドが出てくるのかわからない!」と悩んでしまい、実は単なる先生の誤解やかんちがいなのに、無理な深読みをしてさらに「先生はすごい」モードに入ってしまいがち。なんかそんな動きの源を見る思い。

さらに変なのは、あちこちで二人とも、ケインズは階級対立を先駆的にモデル化したのだ、というのを強調しようとしていること。新古典派の理論は、みんなが同じくらいで競争しあった平等社会を想定しているけれど(!!)、ケインズは設備投資とかする企業と、労働者ってものを別に扱っているし、あるいは金利生活者とそうでない連中を分けている、よってケインズは階級社会を鋭くとらえているのだ、というわけ。

この本が出た一九六〇年代とか七〇年代初期だと、そんなことを言ってみたほうが世間的な受けがよかったのかなあ。議論の切り分けの問題だから、そんな階級問題とまではいかないと思うし、そうした企業のあり方について検討していた人は他にもいると思うんだけどなあ。

いまは当然絶版なので、図書館で借りて読みました。むかしの貸出票が入るポケットや、返却日のハンコとかが押してあって懐かしい感じ。コンスタントに借り続けられていて、いっしょうけんめい勉強した人がいたんだなあ、というのがわかって感慨深い。一九六〇年代で二五〇〇円の本というのは、ずいぶん高かったんだろうね。



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