『清水アリカ全集』:空疎さにこそ本質があったバブル時代のあだ花。

清水アリカ全集

清水アリカ全集

 いま清水アリカの小説を読むのは、ある意味で幸せな過去の思いでにふけるような体験だ。彼の小説には何のストーリーもない。社会の周縁部に暮らす人々が、エログロな肉体改造と変態性行為とドラッグと犯罪にひたすらふけるだけ。
 著者はデビュー作の時点で、それが意図的に薄っぺらな小説にした結果だ、とうそぶいていたという。でもこの全集を読むと、この人はそれ以外には何も書けなかっただけだとわかる。そして一見、現代社会のおきれいな表層、特にバブル期の繁栄に背を向けたように見えるこの小説は、実はどれも、それに強くよりかかっていることもわかる。どの小説でも、世界は確固たるものだ。かれは、華やかに見える表層の裏にある淀みと腐敗を描くことで、この世界と当時の繁栄を相対化し、疑問視しているつもりもあるようなのだが、でも実際には登場人物たちは(そして著者も)実は世界の不変性をまったく疑ってはいない。自分たちは生産的な活動をしなくても、表の繁栄のおこぼれにあずかることで何も考えずに暮らしていける――かれらはそう確信している。その意味で読者の神経を逆なでするような意匠をひたすら並べる小説は、実は『なんとなく、クリスタル』とやっていることは大差ない。
 本書には、原発周辺で放射能を浴びつつ生きる人々なんかも出てくる(むろん清水アリカに科学技術的な精度など要求できない。かれらはゴジラと同じく放射「能」を浴びる)。それを採りあげて、原発事故の後遺症におびえる現代日本を予見するものだ、と皮相的な見方をすることも不可能ではない。でもいま、実際に原発が事故を起こして放射性物質が漏れ人々が(かなり過剰に)それに怯えたり騒いだりしている様子を、ぼくたちは日々目にしている。その現実はいかにつまらなく、それでいて深刻なことか。それに比べれば、清水の描いた放射能世界の、なんと安心しきって楽しげであることか。どうせそんなことは起こらないとたかをくくっていればこそ書けた無責任さ。そこにあるのは、ファッションとしての放射「能」だけだ。
 その清水アリカは、2010 年に他界している。世紀が変わってから、まとまった作品を発表はしていないものの、その創作メモなどがこの全集には収録されている。が、さほど変化があるとは思えない。バブルのあだ花のような作家は、他にもいた。田口賢次とか、いとうせいこうとか。いとうせいこうの『ノーライフキング』は、ゲーム中毒小学生たちが 18 字(だっけ)のプロフで自分のすべてを表現しようとする小説だ。昔のツイッターみたいなものだと言おうか。当時はむろん、その小学生たちには、18 字以上の内実があって、そこに小説の描こうとした苦しみと現代社会(当時)の悩みがあるように思えた。でも、今にして思えば、当時の人々――いとうせいこうを含む――には 18 字で書ける程度の内実しかなかった。かれらは表現すべきものを持っていなかった。そして、夏休みの宿題の作文に悩む小学生がしばしばやるように、「ぼくは書くことが何もなかったので、書くことがないことについて書くことにしました」というのをやった。その結果がかれらの小説だ。清水アリカは、他の同世代作家よりは、書くことがないというのを書くのはうまかった。が……それをどう評価したものか。
 そして当時その連中と似たような活動をした評論家や現代批評家――ニューアカブームの尻馬で出てきたような人たち――もいた。この全集に雑文を寄せているような人々だ。かれらも、大して言うべきことをもっていなかった。そうした「批評家」の一人、陣野俊史はこの全集の書評を書いているけれど、見てごらん、このまったくの無内容さを。この人の書評――いや書評に限らず書くモノすべて――は全部そうだ。それがこの人、そしてこの人たちの本質なのだから。
 清水アリカが、去年の震災とその後の原発騒動を見たら、何と言っただろう……と夢想するのは多少はおもしろいが、実際には何も言えなかっただろう。ぼくたちは、震災後に何か意味のあることを言おうとして、まったく無内容なざれごとしか言えなかった「思想家」だの「批評家」たちをたくさん見てきた。それは清水アリカの世代の人々に限らず、あらゆる世代に見られた現象なのだけれど。意味があることを言えたのは、現場を持ち、社会と文化の意味を信じてその中で継続的に活動してきた人々だけだった。
 清水アリカの小説は、そうしたものが不要だと信じてしまった――信じることができた――ある幸福にも不幸な(いや、不幸にも幸福な?)世代の墓碑でもある。この全集を読んで、ぼくは大学時代の宴会で飲み過ぎてゲロを吐いていたときのようなさわやかさと懐かしさを覚えた。そして人にはそのゲロをいとおしく思う時期もあるのだ、ということも知っている。でもやっぱりゲロはゲロで、それをありがたがることに懐古趣味以上の意味などないことも、いまのぼくはわかる。ぼくは、かれの訳したバロウズ『トルネイド・アレイ』が好きだ。あれを読むと、清水アリカにも少し別の可能性があったのかもしれない、と思う。が、それを探し出すためにこの全集を再び手に取ることはないだろう。

コメント

これは新聞に載せようと思って途中まで書いたが、おそらくこの方向性ではOKが出ないので、別の本をとりあげた。でも書きかけでもったいないので、仕上げておいておく。



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