西村清和『プラスチックの木でなにが悪いのか』:だらしない印象論と詰めの甘い議論によるトートロジーしかない本

プラスチックの木でなにが悪いのか: 環境美学入門

プラスチックの木でなにが悪いのか: 環境美学入門

情けなく空疎で無価値な本。

一応論文集なんだが、扱われている問題は表題となっている論文(そして質問)に集約される。ぼくは最初、「何が悪いのか」だから、プラスチックの木でもいいはずだ、という議論だと思ったら、この人は本当に悪いと思ってるのね。もちろんそういう考え方はあるだろう。

でも、その議論はすべてトートロジーにすぎない。たとえば一通り議論を終えたあとでのまとめのこんな文。

自然の木を断念してプラスチックの木に代えることは、それがけっして自然の木の美的経験の代わりになることはないから、単に自然に対する義務や自然の断念という倫理上の問題としてではなく、まずは美的にまちがいであり悪いのである。(p.173)

この文はつまり、美的経験の代わりにならないから美的にまちがいである、と述べている。トートロジーですな。「美的」って何? それ次第でこの文は意味があるかもしれない、ないかもしれない。

じゃあ美的って何? この人物は、ホスパースとかいう人の議論の受け売りで、「美的」には「薄い意味」と「厚い意味」があって、薄い意味はその表層だけで見る外見的な美で、厚い意味は外見だけでない質や価値、「生の価値」を表現しているものなんだって。(p.168)

でもじゃあ、その「外見だけでない質や価値」というのを、人は何によって判断できるの? 外見からではないの? もしそうでないとしたら、その価値というのは、外見ではわからない説明書の記述に存在するということになる。


「そもそもプラスチックの木は、それがプラスチックの木<である>かぎり、たとえ完全なレプリカだとしてもその非美的で形式的、感覚的な面から見ても自然の木とはまるで違っており、それがひとをぎょっとさせ狼狽させるのである」(p.172)

「まるで違っている」というのは、そのレプリカの精度の問題でもありますわな。違っているというのは、どのレベルで? 形式的、感覚的に自然の木と、人間の分解能レベルでは区別がつかないプラスチックの木ができたら? だからこの文は「とにかくちがう」というのを前提においたうえで、「だからちがう」と言っているだけ。

むろん、両者から得られる感覚はまったく同じではないかもしれない。でもかなり近くすることは可能ではないの? ところがこの著者はここでの引用部分でも常に出てくるように「まるで違って」「けっして代わりにはならない」と、全否定する。なぜ? 説明なし。著者の(そして美学屋の)思い込みだけ。

レプリカの精度が上がれば、それがどんな風に作られたかはそれを知覚する人にはわからなくなる。そうしたら? そしていまの都会人は、まともに木なんか観察したことないから、ケヤキとカシの区別もつきませんわな。人間側の精度も落ちているんだよ。

むろん、何か精密な測定器を使えばわかるかもしれない。どっかのレッテルや説明書に書いてある解説を読むことで、それを理解することはできるかもしれない。でも、実際に見ても区別がわからず、説明書を読んで判断するしかないなら、「美的体験」とやらはその測定器や説明書に宿っているわけですか? すると「浅い意味」と「厚い意味」という区別って事実なの?「厚い意味」=「浅い意味」+測定器/解説書、なの? ちがうとしたら何がちがうの? そうした議論や考察はこの本には皆無。

結局本書は、「なんか(よくしらないから)気持ち悪い」「なじみがないから違和感がある」という話をいろいろこむずかしく言い換えているだけ。結論ありきの我田引水ですな。

これは問題としては、「アンドロイドは電気羊の夢を見るのか」というのと同じ話であり、機械に心は持てるのかとか、哲学的ゾンビ問題とかとも同じ話だ。でも本書の視点は偏狭なので、素朴実在論と、「本質」や「魂」みたいなものがどこかにあって人間はそれを識別できる(はず)という根拠レスな確信/願望と、印象論から一歩も出てこられない。

ちなみに、他の「論文」も同じ。第1章「自然の概念」は、自然を観賞するのは芸術鑑賞とちがうのか人によって議論がわかれるけど、それは自然ってものが人によって意味がちがうからだよねー、という話からはじめてあれやこれやと論じたあげく、結局

自然の鑑賞とは、まずは世界の内なる当の対象がまさに人工ではない自然のカテゴリーに帰属するものとして美的に経験されることを言う。(p.30)

これまたすさまじいトートロジーね。この人はこれまでの部分であれやこれやと、人工環境だって自然の一部という考え方もあるし、かといって自然はとにかくそれ自体凄いという発想は自然崇拝の一種でよくないという考え方もあるし、とあれこれ挙げておきながら、この引用部分直前のページでいきなり「でも自然と人工とは見たときの感じ方が全然ちがうから厳然としてちがう」とそれまでの議論を完全にけっぽって断言してしまう。そしてこの結論。他の論文もそんなのばっかなんだ。

というわけで、全然ダメな本。他の論文も、印象論をこむずかしく言い換えた話ばかりで、だらしない「自然」信仰の垂れ流し。こんなものを書く人が東大の教授センセイですか。当初、ぼくはこの人個人の問題だと思っていたが、これは美学というガクモンというかサロン談義全体の性質であり、この人個人に帰するべき話ではなかったようだ。失礼しました。こんなものをガクモン扱いして、この人の給料をはじめ予算を割いている東大その他が愚かだというべきだった。

付記

これを読んだ弟子筋から物言いがついて、多少の議論があった。ぼくはここに書いた論点が一歩でも解消・発展したとは思わないが、これがこの著者一人の問題ではなく、美学という分野の相当部分の水準だということがわかった点では、まあよかった、と言うべきか。ご参考までに:「カテゴリー」を持ち出しても話は変わらない:西村「プラスチックの木……」書評への批判を受けて。(wlj-Friday)



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