「カテゴリー」を持ち出しても話は変わらない:西村「プラスチックの木……」書評への批判を受けて。

1. はじめに

昨日書いたものに対して、著者西村の弟子筋とおぼしき昆虫亀から反論・批判がきている。

西村清和『プラスチックの木はなにが悪いのか』への山形浩生氏の書評 - 昆虫亀

ぼくは「プラスチックの木はプラスチックであるからとにかくダメ」という西村の本の議論に対して、「それは結論ありきの循環論だから無意味、本物と人間には区別できないプラスチックの木ができたらどうするの」と批判した。

それに対して昆虫亀は、美的体験はそのモノの帰属するカテゴリーで左右されるから物理的に区別がつかなくても関係ない、と主張する。

さてぼくは、この反論・批判は、反論にも批判にもなっていないと思う。それどころか、ぼくの当初の論点をさらに強化する例示にしかなっていないと考える。

2. ちがうはさておき「まちがっている」となぜ言えるの?

まず一つ。昆虫亀はここで、問題を矮小化している。自然の木とプラスチックの木はカテゴリーがちがうから、両者の美的体験は決して同じにはならない、と昆虫亀は言う。

でも西村がもとの本でのべていたのは単に美的にちがう、ということではない。「同じでないから美的にまちがっている」ということだ。もう一度見よう。

自然の木を断念してプラスチックの木に代えることは、それがけっして自然の木の美的経験の代わりになることはないから、単に自然に対する義務や自然の断念という倫理上の問題としてではなく、まずは美的にまちがいであり悪いのである。(p.173、強調引用者)

「まちがっていて悪い」となぜ言えるのか? 西村はそれをまったく述べていない。そしてカテゴリー議論では、体験として同じではないことはいえても、それが「まちがっていて悪い」とは言えない。

2. カテゴリーと言ったからといって、トートロジーでなくなるわけではないよ。

ここでしつこく言われているのは、カテゴリーがちがうんだ、ということ。だから体験(あるいはその価値判断)がちがうのだ、という。つまり基本的には:

  • 「プラスチックの木はなぜ悪いのか?」→「プラスチックの木は「悪い」というカテゴリーに属するから」

という話だ。ぼくはこれはトートロジー以外の何物でもないと思う。

さてぼくは人がモノをカテゴリー分類して判断することは知っている。ベトナムラオスで、何も知らないときには普通に食事をしていた人が、「それはイヌ肉だ」「それはカイコのフライだ」と言われたとたんに食えなくなる例はたくさん見ている。それは、その人にとっての食ってよいもののカテゴリー分類から生じるものだ。

でも、そのカテゴリーというのはそもそもどうやって生まれるのか?

3. そもそもカテゴリーは認識に基づいて生まれる

カテゴリー分類は、基本的には認識における情報処理を簡略化するためのショートカットだ。食べ物についての禁忌(つまり何を食べていいかについてのカテゴリー分類)は、それがどのくらい食中毒を起こしやすいかという話とかなり相関がある。認識の結果を大ざっぱにまとめたものにすぎない。これについては拙訳ハーツォグ『それでもぼくらは肉を食う』を参照。

ぼくらはそれでも肉を食う―人と動物の奇妙な関係

ぼくらはそれでも肉を食う―人と動物の奇妙な関係

したがって、認識とは独立にカテゴリー分類があるかのごとき議論は倒錯だ。これがまず一つのポイント。

4. 何かをカテゴリーにふりわける仕組みは?

そして、あるモノを前にしたとき、それをどのカテゴリーに分類するか、どうしてわかるの?

通常その分類は、何らかの物理的なキューやヒントにもとづいて行われる。つまり

  • 物理的特徴の識別 → カテゴリー分類 → それに基づく意味づけ

というプロセスがある。でも、カテゴリー分類するための特徴がなければ? まったく区別のつかないものをどのカテゴリーに分類すべきかは、どうやってわかるの? その場合、カテゴリーに基づいて云々という議論自体が無意味となる

人間の解像度では区別のつかないレプリカの話は、だからカテゴリーを持ちだしても解消できない。カテゴリー識別ができない、ということなんだから。物理的にまったく区別がつかないけど、そのカテゴリー分類だけはわかる――これがあり得るのは、なんかあらかじめ解説書かレッテルでその情報が別にインプットされていた場合だ。が、その解説書やレッテルの正しさはどうやって担保されるの?

昆虫亀、そして西村の議論には、それはまったく出てこない。あるものの「カテゴリー」は、アプリオリに決まり、人々に事前に与えられている。でも、実際にはそんなことは起きない。

そしてあらかじめカテゴリー分類はわかっている、あらかじめそれがどういう扱いを受けるかは(その実体とは関係なく)決まっている――それはまさに、結論ありき、ということだ。ぼくの最初の書評の通り。

5. カテゴリー議論の倫理性

以上のような話から、最初にぼくが指摘した通り、本書の議論はトートロジーでしかなく結論ありきの議論だ。昆虫亀の反論は、それをさらに裏付けてくれるものでしかない。カテゴリーなるものを経由したところで、それは変わらない。そのカテゴリーなるものこそ、まさに結論ありきの「結論」なんだから。

そして、カテゴリー云々なんてことを改めて言う必要があるのは、まさにそのカテゴリー分類がいま揺らぎつつあるからだ。そして、カテゴリーというとニュートラルな気もするけれど、これは基本は、ステレオタイプのレッテル貼りだ。それでよいのか? それはあの西村の本で言っていた、「枠組みの倫理性」というやつなんじゃないの?

6. 結論

だから、カテゴリーでそうなっちゃうんだから、というのをふりかざして、それで事たれりとするような議論は、ぼくはまともなものだとは思わない。カテゴリーありきで話がすみ、そのカテゴリーの根拠や振り分けプロセスを無視するのであれば、それはトートロジーであり、結論ありきの議論であり、したがってぼくの最初の書評は正鵠を射ていたわけだ。

ぼくは最初、それが西村の本だけの問題だと思っていた。だが、それに対する擁護論として出てくるのがこんなものだとすれば、ぼくはそれが美学とかいう分野そのものの抱える問題なのかな、と思いたくもなる。そうでないことを祈りたい気分もある……が、ぼくはこんな分野は認知科学の進歩で50年後には無用となるだろうと思ってるので、あまり真剣に祈るつもりはないのだけれど。

付記:うんこ&カレーの話について

さて、ぼくがあの反論・批判で本当にがっかりしたところがある。うんこ味のカレーと、カレー味のうんこ、という小学生じみた話をまじめに持ち出してきたところだ。

昆虫亀はたぶん、これを気の利いた、でも絶対に反論されない一例だと思ったんだろう。が、この事例の提示の仕方に、昆虫亀の基本的な考えの足りなさが露呈しているんだ。


おそらくこんな例を挙げる昆虫亀は、本物のうんこがどんな味だか知らないだろう。ぼくは残念ながら知っている。別にスカトロ趣味があるからじゃない。ぼくはインフラ屋で、下水処理施設や使用中の下水管もときどき見る。その際に不本意ながら口に入ってしまうことも、ままあるのだ。

だからぼくははっきり知っていることがある。うんことカレーの味はまったくちがう。したがって、うんこをカレー味にするには、ものすごい加工が必要だ、ということ。あるいは昆虫亀が言うように、「そのうんこはあたしがさっきひりだしてきた」と言えるような人間を作るためには、その人間はものすごい人体改造が必要だということ。

さて、それだけの加工を経て出てきたものは、すでにうんこのカテゴリーに入るのか?

入るという立場もある。どんなに加工してもうんこはうんこだ、という立場もある。昆虫亀が主張するのは、そういう立場だ。だが世の有機物の多くは、物質循環の中でうんこの再生品であり、死体の再生品(または死体そのもの)だ。でも、だれでもそれを食べる。うんこが食品にまで至るプロセスはピンとこないかもしれない。汚泥を直接食うこともないし。でもぼくは下水の二次処理、三次処理を経てでてきたうんこ汁やションベンはたくさん飲んでいる。下水処理場の見学にきた人の中には、カテゴリー分類にこだわって、飲みたがらない人もいる。でも、それまでの加工処理についてある程度の説明プロセスを経たら、そういう人でもほとんどはちゃんと飲めるようになる。カテゴリー分類なんて、ほんのすこしのことで変わるのだ。ちなみに本稿の読者諸賢も飲んでいる。

ションベンの味のする水と、水の味のするションベンとどっちがいい? 三次処理まですれば、この質問は、実はまったく意味が無いのだ。そしてうんこカレーの質問だって、正しい答は「加工の度合いによるんじゃね?」というものだ。だってきみたち、日々何らかの形で加工されたうんこのなれの果てを、平気で喰ってるんだもん。くだらない二者択一を迫られる場合というのは、たいがいがその問題設定自体に無理があるんだ。

ここでも昆虫亀は同じまちがいをしている。「うんこ」というカテゴリーが、どんな加工をしようとまったく不変に存在し続ける、という考え方だ。でも、そんな絶対不変のカテゴリーはない。とすると、昆虫亀の議論は成立しないか、したとしてもある程度限られた期間や加工についてのみしか成立しないものとなる。その「程度」がどのくらいかを見極める作業には、ぼくは意味があると思うけれど、たぶん美学の人がそれをやることはないだろうねえ。


さらに付記 (1/22)

なんかこれに対してまた反論がきた。あの本のあの論文は、ある個別の事例だけに限られた議論であって、それを一般性を持たせた議論に展開してはいけないとのこと。

ではあの書評に、この本の議論はまったく一般性がないので個別事例に感心ない人には関係ないからとりあげない、というのを加筆しておくべきだったね。その点は失礼しました。

が、相変わらず展開される議論は、上で(そしてもとの書評で)論難しているものを一歩も出ていない。いやもっとひどくなっている。

自然樹木をプラスチックの木に代えると、「悠久」とか「生気がみなぎっている」とかいった美的性質が失われるのですね。

さて、中央分離帯に植える木なんて、植樹時点でせいぜい樹齢2年かそこらだ。あまりでかくなったら(ならない木を選ぶが)すぐ切り倒す。だってそんなの木がでかくなったら邪魔じゃん。そこに「悠久」という美的性質があるというのは、勝手な思い込みだ。中央分離帯の木はよく枯れる。生気はみなぎっていない。これまた勝手な思い込みだ。

  • 「美学」は、何を根拠にまったく事実に反する「美的性質」があると断言できるの?
  • これまでの議論からすると、美的性質とは実際の性質とは関係ない、人々の妄想的な「カテゴリー」の中にあるのかもしれないね。ヘロヘロの街路樹 --> 樹木一般 --> 樹齢千年の屋久杉、というような連想があったりするかもしれない。でもそれは少しでも検証されているの? そしてそうした妄想を根拠に何かを崇めたり断罪したりしていいの?

結局話は、物理的な性質とカテゴリーに基づく人の思い込みの関係、という話になる。ぼくはこれが当初の書評からまったく変わっているとは思わない。

ついでに

  • むろんそう思い込んでいる人が(この一件のあったアメリカの自治体で)政治的に重要なほどいたことも考えられるんだが、それはちゃんとアンケートその他で検証したの?
  • たぶん検証してないだろう。「悠久」とか「生気がみなぎっている」とかいう「自然の木」カテゴリーに何が含まれるかは、美学者の勝手な思い込みだね。するとあなたたちの議論は、抽象論を離れて個別具体例の話だ、と言い出したときに本当に内実があると言えるものなの?

ちなみに個別例に注目したいのであれば、ぼくは PIARC のメンバーでもあって、街路樹を人工樹木にした例はいくつか知っているけれど、かれらが許し難い邪悪な行為をしたとはまったく思わない。が、美学的には、それは大いなるまちがいなんだよね? それともそれがその地では特に文句も言われず使われている以上、美学的にもオッケーなのかな? いろんな疑問はわくが、ぼくは西村も昆虫亀も、個別の事例の話といいつつ、きちんとその事例を検証する気があるとは思えない。やったら教えてくださいな。

というわけで、このくらいで読者の判断材料はそろったと思う。あとはお任せ。



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