- 作者: 大田俊寛
- 出版社/メーカー: 春秋社
- 発売日: 2011/03
- メディア: 単行本
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先日、オウム関係者の死刑判決で、遺族は「なぜ」がわからず不満顔だったという報道について、ぼくはなぜなどと問うべきではない、どうせ答えなんか出ないんだから、という話を書いた。が、本書はその「なぜ」をまがりなりにも分析して一応の答を出した本であり、またオウム事件に対してこれまでまともな対応を見せてこなかった宗教学の学者が、そうした現状を真摯に反省して宗教学的な取り組みからオウムを切ってみせた点でもきわめてえらい本。
読んでいて、まさに上で出てきたリアリー『神経政治学』(そしてぼくのあとがき!)が引用されていてびっくりしたんだが、オウムがどんな宗教・思想的な系譜につながるのかを明確に述べ、その過程で現代社会における宗教の意味を位置づけることで、オウムが決して偶発的なものではなく、ある必然性をもっていたことをきわめてすっきりと述べる。
これをやるため、五章までは延々と、国家と宗教の関係から近代世界のはらむ危うさ、ロマン主義やTMやユングといった思想的な流れと全体主義の連結などが展開され、いつまでたってもオウムが出てこないのでもどかしいかもしれない。が、その下地があることで、五章以降が一気に爆発する。そして中沢新一や宮台批判と同時に、なぜそうしたポモ思想がオウムと親和性を持ったのかについてもきれいにまとめ(要は、ポモ思想はかっこつけた反近代思想でしかないということ)、他の教団や全体主義体制の興亡との対比の中で見事にオウムの展開、興隆、暴走と崩壊をまとめきる。一応ここでは「なぜ」がある程度描かれてはいる。
もちろん、これは後から見ての話であって、これを知っていれば事前にオウム事件が防げたとかいう性質のものではない。でも、ぼくはオウム事件について、あれはある種の確率で必ず出てくるものだと書いたけれど、その確率がなぜオウムという部分にあらわれたのかについては説明になっている。もちろん、なぜそんな確率が存在するのか、というのはわからないわけだけれど。でもそれはないものねだりだ。もう少し早めに読んでいれば、去年のベストに入れたかもしれない。
ところでぼくは、大田の専門であるグノーシス的な思想が(ディック『ヴァリス』などにも見られるように)ポモ的な発想と親和的であることに少し興味を持っているのだ。数年前にでた『ユダの福音書』も、この世はアレだからポアしちゃいましょう、的な教義をもっていたこともあり、オウムと妙に親和性を持っていそうだ。大田が本書を書けたのもそういう専門分野との親和性があったんじゃないかと思うんだが、そっち方面にはあまり言及がない。前著を見れば書いてあるのかな。いずれ暇なら読んでみよう。
なお、この中でオウムの普及に大きく貢献し、その後もそれについてろくに反省も行っていない中沢新一について、厳しい批判が述べられているが、これに対して中沢の弟子筋たちが行っていた卑しい陰口と、大田がそれについて真面目に問いただしたときの醜態も是非ともご一読を。あの師匠にしてこの弟子ありという感じ。
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