- 作者: カルロス・フェンテス,西沢竜生
- 出版社/メーカー: 新泉社
- 発売日: 1975
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人生において、ずっと先送りにしていたものを何の理由もなくふと思い立って清算してしまおうとする時期がある。ぼくは最近、カルロス・フエンテス(そしてバルガス・ジョサ)についてそういう時期がきているようだ。
フエンテスは、ずっと昔から積ん読だった『聖域』を読んで、これはもう見切ったという気がした。で、『空気澄み渡る地』でその認識がだいたい裏付けられて、それでもう他のも恐るるに足らず、と思い始めて次々に処理している。
で、今日は『メヒコの時間』。これは駒場の生協で買って、四半世紀も本棚で寝ていたことになるのか、と思うと感慨深い。原著は『脱皮』の後の1971年に出ていて、翻訳は1975年とえらくはやい。フエンテスがこの頃やたらに強調していた、西洋的な時間ではないメキシコ的な時間のあり方みたいな話を説明した各種のエッセイ集。
……なんだが、非常に混乱したシロモノと言わざるを得ない。というのも、フエンテス自身が自分が何を言っているのかよくわかっていない、あるいは自分の言っていることが筋が通っていないことを自覚していて、そういうところにくると、芸術や感嘆符だらけの扇情的な文でごまかしをはかるからだ。
フエンテスは金持ちインテリ左翼で、だからかれに取って第一の「敵」は(己の安楽な生活を保障してくれている)アメリカであり、それが持ち込む資本主義、物質主義、個人主義、合理主義というようなものだ。が、それに対抗するものは何かというと、はっきり出てこない。実際の今ある社会主義でもないようだし(革命やって失敗したしスターリンの惨状はわかってきていたし)、でもそれ以前のスペイン人による圧政支配がいいかというとムニャムニャだし、それ以前のアステカなんてバカな大量虐殺に血道をあげていたひどい文明だ。というわけで、何もないのだ。いや、ありがちな「真の」「理想の」社会主義、みたいなのはぶちあげられるが、まあそれはあってなきがごとし。
でも、かつての芸術を見ると実にすごくて、フリーダ・カーロもいればゴヤもあれば(フエンテスは、スペイン文化もメキシコの歴史の一部だと強弁する)パスの詩もあるし、アステカの彫刻や壁画とか精気に満ちあふれ云々。これだよこれ! そしてメキシコはそうしたものが未だに過去のものとしてではなく、現代に息づいているじゃないか! 有名な死の祭りは生と死の区別を乗り越え、それらを弁証法的に統合するものだし、人々の生の中に昔の伝統があるし、そしてそれがメキシコ革命ではいい方向に動こうとしたじゃないか!
というわけで、現在の資本主義&アメリカ物質主義(これはいい加減でときにヨーロッパなんかも含まれる)に対抗してその他いろいろを何とか根拠づけようとして、フエンテスが持ち出すのが時間だ。西洋は直線的な時間を生きているけれど、南米の連中は円環的な時間を生きているんだって。
さて、これはよく聞く物言いで、ポモ時代には頻出したんだけれど、具体的にそれってどういう意味か尋ねると答えられるやつはほとんどいない。
一つの説は、一部のインディアンなんかでは、明日と昨日ということばが同じなので、つまりこの連中は現在と過去を区別しておらず、過去と未来が彼らにとっては同じものだ、というバカな説だが、もちろんこれはヨタだ。でもフエンテスもたまにこれを持ち出して、過去を生きるのでははなく革命によって始原に戻ることができるとか言い出すんだが、自分でも意味はわかってないだろう。あるいは、実際の革命ではこれが「悪い奴らをとにかくぶち殺してきれいさっぱり出直そう」という粛正の論理になるのだ、ということも。
だがフエンテスの言いたいメインのことはさっきと同じで、メキシコの人は、英米合理主義的な部分もあるけれど、それ以前のスペイン的な部分もあり、その前のインディオ的な伝統もあり、その前のアステカ的な感性も持ち合わせていて、つまりはいろんな時代が(欧米物質主義に毒された上層階級を除けば)人々の生活の中で渾然一体となっているよ、ということ。だからそうした過去の歴史的な層を称揚することは、つまりは物質主義のブルジョワ以外の一般人の称揚にもつながり、そしてそれを称揚する手段として芸術があり、それが人々の生を讃え、革命により米帝を排除して真のメキシコのあり方を打ち立てる武器となるのだ、よって小説家は先鋭的な革命家でもあるのだ、というわけ。
さて……これがとても間抜けな言い分であることは、ちょっと考えればすぐわかる。確かに、メキシコ人の暮らしや発想には、いろんな時代の残滓はあるかもしれない。でも……それと同じことは日本についてだって言えるでしょ。いろんな歴史的伝統の残滓はいまもぼくたちの中にある。いや、それを言うならフエンテスが直線的だとかいう英米社会だって、その英米社会を形成してきたいろんな時代の積み重ねじゃないか。そこでメキシコ人だけでかいツラされましてもねえ。
でも、この理屈でフエンテスは、社会主義と伝統主義とエリート小説家と民衆支持とナショナリズムとあれやこれやと、いろいろ立場的に相容れないはずのものを「とにかくメキシコにおいて、アメリカ資本主義以外のものとして存在しているんだから」ということでごっちゃにしようとする。
そして、それ(というのが何なのか不明なんだけど)を推進すれば自由と理想と心の豊かさと国民主権と革命と情熱と芸術といろんなものが実現されて、されなくてもその過程でみんな死んだってかまわないのだ、といった勇ましいことをフエンテスは言い出す。だからアステカの虐殺も、かまわんわけですな。あれは自殺ではなく他殺だったけれど。笠井潔が『テロルの現象学』で、集団自殺は集合観念だか共同観念だかの発露の結果であればよいことなのだ、と強弁していたのと同じですね。
さてその理屈は結構だが、そんなものはメキシコの過去の歴史を見たとき、一度でも存在していたんでしょうか? 個別にはいたし、個別には小さなコミューン運動もあったかもしれない。フエンテスはカルナデス将軍のお供をしたのがえらく自慢で、ケツナメ回想録と、彼が参加していた第三世界運動への期待みたいな文も本書には収められている。が、実際にはどうだったか? 彼が本書で期待を表明している「ナセル、チトー、ネルー、スカルノ、エンクルマ」、そしてカルナデスのその後は? もちろんフエンテス的には、それはアメリカ的資本主義がよい意図をゆがめた、ということになる。が……21世紀から見ると、岡目八目ではあるんだが、そうした信仰はあまり有意義とは思えない。
そしてここまでの話を見直してみれば、結局それは、近代主義と伝統の矛盾、というのをむずかしく言い換えているにすぎない。フエンテスの中心テーマとされる「メキシコ人とは何か」という問いも、結局はそういうことだ。もちろん、これは小説というものの存在意義ではあって、その意味でフエンテスは文体や技巧面での目新しさにも関わらず、むしろ古典的な作家ではあるのだ。が、資本主義がだんだん根付いてくるにつれて、「それ以外のもの」の持つ意義は失われてくるし、伝統主義も息苦しくあまりよいものに思えないとき、この図式や問いの意味はますます薄れていく。
もちろん、さっきも言ったけれど、これは岡目八目だ。ぼくがいまフエンテスを清算できる時期にきたのは、たぶん時代がかわって、かつてはどう転ぶかわからなかった問題――特に世界における資本主義のあり方と、それ以外の道がどのくらい現実性を持つかという問題――に1970年代よりはずっと明確な答が出せるようになったからだろう。そして1970年代当時にこういうことを考えていたことで、フエンテスを愚かだと言ってはならない。いや、その論理展開は強引で身勝手で、都合が悪くなると美文と感嘆符で逃げる技法は、当時もダメダメだろう。でもその基本的な方向性は、たぶんいまより説得力があったはずだと思う。
が、それを今読むことに意義があるだろうか、というとどうだろう。本書は理屈をまとめようとしたと同時に、インテリたちに対する檄文でもあるので、論理に欠ける部分も大きい。そして、その全体の構図や主張は、実は上に書いた通りとても単純で、すでにほとんど破綻している。こうした彼の理屈をいままともに受け取る理由は、ぼくはないと思う。
フエンテスは1990年代になっても、『埋められた鏡』で同じ試みの変奏を続けていた。さて、それが上のような単純な図式から逃れられているか? 『老いぼれグリンゴ』を見ると、あまり期待できない一方で、もう少しアメリカを受け容れようとする感じは出てきているようにも思うんだけど……
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