バルガス=リョサ『継母礼賛』:雰囲気の盛り上げかたは見事。計算高さも鼻につかないし、短かくてホッとする。

継母礼讃 (モダン・ノヴェラ)

継母礼讃 (モダン・ノヴェラ)

これをアマゾンで検索すると、関連書のところに継母もののエロ小説やらDVDやらがたくさん紹介されて閉口するんだけれど、基本的にはそれらとそんなにちがうわけではない。ケツのでかい継母と、その夫と息子との淫靡な関係が、各種の絵画をはさみつつ古代ギリシャっぽい王さまとケツでか王妃、そしてその家臣との関係や女神の幻想やベーコンの絵の変な顔などと重ね合わされる。

でも、もちろん凡百のエロ小説よりずっと豊かで、その性的な生暖かい夢想の感覚が、音楽や味覚やウンコやその他様々な感覚を喚起しつつ、倒錯的なひっかかりなども利用しつつ塗り重ねられて、とても濃密な雰囲気を作り出しているのは見事。三者の関係もその中で非常に危ういバランスを保っていて、全体が即物性に陥らないように貢献している。セックスそのものはほぼ描かれず、決定的な場面も直接は出てこないで、その前後の話だけで感覚を盛り立てていくことで、エロチックなのにエロじゃない小説になっていておもしろい。

『ラ・カテドラルでの対話』の後では、この短さと全体の経済性はホント救いに思える。著者も、この次の『官能の夢』の筆ならし的な気軽さで書いているようで、重すぎず楽しく読める。バルガス=ジョサは、なんというかこれまで読んできた大作はどれも、自分がすごく好きで読んでいるという気はしない。ラ米作家の重鎮だからということで義務的に読んでいる感じ。力量も技法も問題意識も小説としての完成度もわかるんだけど、でもちょっとソリがあわないのだ。それはフリア&シナリオライターのようなユーモア系のものでもそうで、なんというか、ちょっと計算高い気がするのね。頭で「こんなことやろう」と計算して、あとは体力勝負でそれを計算通りガシガシ積み重ねる感じ。詩的な輝きで小説が魔術的に、著者の計算とはまったく別のところで紡ぎ上がってしまったような軽やかさや、作者自身も意図せず異様なところにいきついてしまったような驚きはないと思うのだ(たとえばドノソ『夜のみだらな鳥』は、作者もあんな話に仕上がるとは思ってなかったと思う)。本作も、結構そういう計算高さはあるんだけれど、それがそんなに鼻につかない。

一方で、こうしたエロ官能をちりばめた高踏的な小説が、フランス書院的なエロ小説や AV がたくさんあるときに果たす位置づけというのも少し考えてしまうところ。エロを避けてエロチックだけを求めるのはなぜ? そこまで盛り上げたんなら、やれば? それが『ラ・カテドラルでの対話』でも感じたもどかしさにもつながっている。これはガルシア=マルケスが、『わが悲しき娼婦たちの思い出』なんかでやったのと似たようなところがあって、ある意味で著者自身の体力の衰えからくる不能を反映しているのかな、とうがった見方もしたくなるんだが、どうだろうね。



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