垂水『進化論の何が問題か:ドーキンスとグールドの論争』:グールドに甘すぎると思うし、結局「どっちもえらいんです」でなあなあに丸め込むのはつまらなすぎ。

進化論の何が問題か―ドーキンスとグールドの論争

進化論の何が問題か―ドーキンスとグールドの論争

ドーキンスとグールドは対立することもあったが、どっちも進化論を重視し、創造論に反対し、論争も切磋琢磨しあうものだったんですよ、という本。垂水の訳した、ステレルニー『ドーキンス対グールド』(失敬、これは別の訳者だった)でだいたい話は尽きていたと思うし、あれでもやたらにグールドに甘いと思ったんだけれど、本書はそれに輪をかけて激アマ。

たとえば9章では、グールドがきわめて悪質な議論で社会生物学を潰しにかかった話が挙がるんだけど、結局「アメリカではまあ優生学とか遺伝とか人種差別話に結びつきやすいから」という話をするだけ。で、それでグールドのやり口はオッケーとされるべきなの? 本書はそこらへん明言せずにお茶を濁す。かのBell Curveを巡る騒動も、全然そんな差別的な本じゃないのにグールドとかが無用に煽っているんだが、そういうのにはお咎めなし。

またドーキンスとグールドが切磋琢磨しあう関係でお互いの問題提起に応える形で著作を展開したという議論は、ぼくには我田引水に思える。ドーキンスやメイナード=スミスから見れば、グールドなんてどうでもいいしできればいっしょにされたくないが、まあ天地創造説との戦いではああいう売れた通俗ライターも役にたつからいじめないでおこうと我慢してあげていた、という説のほうがぼくにはすんなり入ってくる。まあこれはぼくのバイアスも当然あるわけだけど。

しかし、そうやってあたりさわりのない、進化論すごい、リベラル思想いい、創造説反対、なんてところに話を落としたところで、なにが実現されるの? 丸く収めるのがお好きな日本人的感性は結構なんだけれど、ぼくはそこで重要な論点が明らかになるようには思えない。両者の差にこだわるあまり、進化論のすごさを忘れたり、創造説に走ってしまったりする人がいるの? いないなら、この本にはぼくは存在意義はないと思う。書評しません。



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