長谷川『縮む世界でどう生き延びるか?』:お気楽な成長否定の社会ダーウィニズム。ふざけんな。

生物は、個体数が増えるときもあれば、減るときもある。それぞれの時点で、そのときに応じたバランスがあって、みんな常に「適応」している。だから人間社会も、成長しているときがあればいずれは衰退縮小に向かうのは当然なので、いまの経済停滞や不景気も仕方ないことで、当然なんだからみんな我慢しろ、「適応」しろという本。

バーカ。

この人は、『働かないアリに意義がある (メディアファクトリー新書)』の人で、ぼくも前にほめた。アリの研究者としてはいいんだろう。でもそれを安易に人間社会に適用する軽薄さにはうんざり。

いろんな生物はもちろん、増加局面でも衰退局面でもバランス取れて「適応」しているだろう。でもそれを言うなら人間だってあらゆる場面でバランスは取れて「適応」しているのだ。不景気のときだって、売り手と書い手は常に同数いる。どこでも簿記の左右は一致する。従業員をクビにするのも「適応」だし、クビがまわらなくなって企業が倒産するのも経済全体の「適応」だ。そして人が夜逃げしたり自殺したりするのもね。でも問題は、そのときにその生物がどう思っているかということ。アリが幸せかどうかなんて、長谷川にだってわかるまい。でも人間はわかる。そこに人間の苦しみがある。それを無視して、アリは死ぬときには死ぬから人間も死ねばいい、アリも飢えるときには飢えるから、人間が飢えてもいい。アリだって仕事してないやつがいるから、人間だって失業してていい……そういうに等しいバカなことを平気で言える神経というのは、ちょっと信じられない。

さらに、いまの不景気は別に自然要因で起きているわけじゃない。それを逃れる方法だってある。成長余地があるときに成長しないでおこうとする生物がどれだけいるの?

それをまったく無視して、成長しないほうがいい、成長しようとするな、価値観の見直しを。バーカ。理解もできていないくせに、インフレ目標についてもきいたふうな言及。

さらに多少残っているまともな意見も、実はとっても陳腐。長谷川は、何か自分が意外な視点から新しい知見を社会や経済について述べたつもりなんだけれど、実は経済学も産業論も、長谷川が考えているくらいの進化論的知見や生態学的知見は知っていてとっくに導入しているのだ。経済学ではクルーグマンの「経済学者は進化理論家から何を学べるだろうか。」「お笑いバイオノミックス」読んでね。産業面でも、長谷川はグローバルに手を広げるだけが能ではないなどということを得意げに述べるんだけれど、そんな程度のことはどこの企業だって考えている。グローバルに手を広げるかニッチに集中するか? 汎用を狙うか専用でいくか? みんなそんなこと、日々考えているのだ。

あとがきで長谷川は、進化生物学者の存在意義は、「他の人があんまり言わないことを言うところだろう。//『お言葉ですが先生、それで幸せになれますか?』」(p.207)と述べる。

むろん著者は成長重視の人々にこれを尋ねると、みんながハッと我に返ると思っているわけだ。が、これはまさに長谷川自身にお尋ねしたい質問だ。あなたは本気でこれを考えましたか? 失業した人々、非正規職にしかつけない人々、倒産してしまった企業の人々、そんな人々は、あなたの「不景気でも成長がなくても我慢しなさい」議論で幸せになれますか?

こう言うと、この手の先生は「いや成長を否定したつもりはなくて、それで幸せならいいのだ、でもそれ以外の幸せもあると言ったまでだ」とか逃げ口上をうちたがる。でもこういう人がやっているのは、少数派の(そして多くはすでに悠々自適で安楽な)人々の幸福とやらのために、多くの人の幸福を犠牲にするということだ。そこらへん、ちょっと自覚してほしいな。こういう発想は、社会ダーウィニズムといって、非常に悪質ないろんな活動や政策を正当化するのに使われているので、気をつけなくてはいけないのだということは、生物の進化論の講義でも習うと思うんだけどなあ。通俗議論では、社会ダーウィニズムは成長局面で強者が弱者を野放図に食い物にして成長するのを正当化する、自由放任の成長翼賛論者の議論だと思われている。でも、縮小局面で強者の現状維持を「適応」と称して(つまり適者生存ってことですな)正当化するのだって、立派な社会ダーウィニズムだ。それを認識してほしいな。



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