川上『圧縮された産業発展』:台湾のIT産業発展は、歴史の偶然をモノにする意志の産物だということがよくわかる。

アセモグル&ロビンソン『国家はなぜ衰退するか』は、下巻を読んでもあまり話は変わらない。日本と中国は、19世紀から全然ちがう発展の道筋をたどった。中国は衰退して、日本は産業発展しました。なぜかというと、それは日本が包括的な発展をして、中国はそれができず支配階級独占が続いたから。なぜそうなったかといえば、日本は薩摩とか長州とか将軍家に対抗できるような強い外様がそれなりにいて、将軍家だけの独裁を許さない相互監視みたいな体制だったから、中国はそれがなくてすべて皇帝配下だったから。つまり、すべては歴史的に決まっていた、というわけですな。巻末の質問に対して「いや日本は社会体制を変えて発展した見事な例です、決まっているわけじゃないんです」って言うんだけど、本文中でしっかり決定論してるじゃん!

稲葉振一郎は、これが歴史決定論ではないという。制度決定論でないという。でも、ぼくはこれが歴史決定論、制度決定論以外の何にも思えない。

で、このアセモグル&ロビンソンが台湾のIT産業の発展を書いたらどうなるだろうか。ご存じの通り、台湾はかつて(80年代くらい)は安っちい下請け組み立てとかくらいのことしかできなかった。でもそこでラジオなどの組み立てをやっていた実績がだんだんパソコン組み立てなんかにうつっていった。そして日米のメーカーの下請けをやるうちにノウハウを身につけて、ノートパソコン製造では世界の圧倒的シェアを占めるに到り、ACERASUSなどの独自ブランドまで構築する一方で、いまや世界のメーカーに対して逆にラインナップを提案するほどの力を身につけている。

アセモグル&ロビンソン的にこれを説明すると、それは台湾が地理的に生産地として中国本土を活用できる戦略的な位置にあったこと、それにより世界のラップトップ市場拡大に対応できたこと、それ以前に日米メーカーの下請けとして製造技術を学べた一方で、インテルがセントリーノなどチップセットの標準化で日本メーカーなどが独自性を出しにくくなったこと、そしてそうしたニーズに対応できた理由としては、かつてラジオなどの組み立ての経験があり云々。台湾がラップトップ市場の雄となったのはこういう歴史的な経緯と偶然があったから、ということになる。

でも……この川上の本を読むと、これがいかに不十分な見方かがよくわかる。製造技術も、中国本土の活用も、その他ありとあらゆる変化は、別に成り行きまかせでやっていたら実現されたものではない。台湾メーカーがそれぞれの変化のときに、主体的に情報優位を確立し、メーカーやインテルから学びつつやがては逆に提案できるだけの開発力を意識的に確立し、中国本土の活用もやり方次第では、台湾を置き去りにして本土に拠点が移るようなシナリオだってあり得たのを、そうならないようにいち早い進出で己の地位を確立拡大していった。あとから見れば必然に見えることでも、その場では決して必然ではなく、台湾の業者が自分の努力と計算に基づいて選び取っていったものだ。

川上の本は、それを丹念な分析と大量のインタビューをもとに明らかにする。手法も、問題意識も、研究として自分は何を売りにするかという目的意識もまったく危なげないもので、堅い研究書ながら退屈させずに読ませる。立派。そしてこれを読むと、アセモグル&ロビンソンの本に出てくる「この国が発展したのはこういう体制だったから」というのがどこまで本当なのか、と思わざるを得ない。それは必然だったんだろうか。他の道はあり得なかったんだろうか? 川上の本は、他の道はあり得たと述べる(少なくとも台湾のIT産業については)。そして、その他の道を選ぶ/避ける条件はなんだったのかも、示唆を与える。もちろん、その条件は個別の例でまったくちがうものだけれど、でも完全に隔絶したものでもない。

で、この本はノートパソコンの話に専念している。でもその後も台湾のIT産業はさらに発展をとげて、携帯電話やスマートフォンに対応してHTCが登場し、鴻海/フォックスコンも登場し、新しい条件に対応した発展をとげている。そしてその次も一生懸命考えている。それについて書いたのが、次のThe Economist の記事。

After The Personal Computer: Taiwan's IT Industry (2013/7/6)

そろそろPCは落ち目だし、フォックスコン/鴻海はそろそろアップル依存をやめなきゃだし、タブレットも未来がないし、そこで台湾メーカーはクラウドとか医療機器、サーバー、リサイクルや都市鉱山といったあたりに注目しているみたいだよ、という記事。川上の分析は、終わった話ではなくて今なお続いている話の一環ということね。たぶんこの中で成功するものが出てくると、あとから見ればそれは歴史的必然に見えるだろうけれど、でも実はそうではない。それを忘れないようにしないと、「もし/if」の効かない歴史に分析者のほうが流されてしまうんじゃないか。もちろん、ラプラスの悪魔的にいえば、すべては決定済みでありその時点の物質配置で決まってしまうのは事実ではあるんだろう。そして、それを少しマクロな形で見ておくことは無意味ではない。またこうした川上のような分析も、実はストーリーのない単なる偶然の連続に、関係者が後付で話をこじつけて自分をかっこよく先見の明がある存在に見せようとしてしまう(そして研究者がそれに野合してしまう)恐れはあるので気をつける必要はあるのだけれど。

というような話の簡易版をcakesには書いたのでした。



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