メネセス『フィデル・カストロ』:ごく初期の独自取材に基づく批判的なカストロ論

Executive Summary

メネセス『フィデル・カストロ』は、パリ・マッチ記者のメネセスによる独自取材のカストロ伝。シエラ・マエストラの山で、通訳なしで直接取材もしていて、非常にしっかりしたもの。彼はソ連系の社会主義団体シンパであり、必ずしもそれに与しないカストロにはきわめて批判的。

カストロは口先だけで、実際に動いているのはまわりの連中だ、というのがメネセスの評価。その後、カストロが南米に勝手に自分の勢力圏を広げようとしている点にもきわめて批判的。

親ソ的な主張がときどき鼻につくし、内容的には古びているものの、独自の視点がありプロパガンダから外れているという点ではおもしろいカストロ伝。


図書館にあって検索でヒットしたが、1969年の本だし、まあ大して期待していなかった。ところが、意外にもなかなかおもしろかった。他と視点がまったくちがうから。これはソ連系の共産主義者/共産党を支持する立場から、カストロなんてダメダメで大口叩きのろくなもんではなく、自分では何もできないくせに、他の南米諸国にちょっかいだそうとしてて、まったくどうしようもないぜ、と主張する本なのだ。

著者エンリケ・メネセスは、『パリ・マッチ』の記者。マシューズと同じく、シエラ・マエストラにカストロたちを訪ねて取材し、4ヶ月にわたって滞在してかなりヤバい従軍までした模様。マシューズなど、やってきた他の記者たちはスペイン語ができなかったし、またすぐに帰ってしまったけれど、この人はそれなりに密着取材をして、通訳も使わずやりとりできたので、そこらへんの記述はおもしろい。

また、革命にしてもピッグス湾の侵攻にしても、ちゃんと地図にして示してくれるのは本当にありがたい。他の本はいっさいこういう工夫がないんだー。

そして特におもしろいのは、このメネセスが、カストロは社会主義・共産主義者ではないと断言していること。でも、その根拠は? それは彼が次のように叫んでいたから。

私はソヴィエト帝国主義を、ヤンキー帝国主義と同じように憎んでいるのだ! 一つの独裁制と闘ってもう一つの独裁の手に落ちるために、首を賭けているわけではない!(p.68)

このようにソ連を否定しているから、彼は共産主義者ではない、というわけね。要するに、メネセスにとって「共産主義か」というのは「ソ連支持か」という意味なのだ。

でも実際にカストロが主張していた話は、もとから結構共産主義的なものだった。それは本書にも登場する。カストロが、エジプト (メネセスはこの前にエジプトのナセル改革の取材をしていた) についてえらく興味を持ち、そこの農地改革について聞いて土地の公有共有制を目指していたとか、カストロが明らかに共産主義思想に傾倒している部分はいくらも出てくる。

要するに、カストロが社会主義/共産主義か、という問題設定は、実は人によってまったくちがう意味合いを持つ。

  1. 彼が共産主義思想/マルクス主義思想を抱いていたか?

  2. 彼が共産党員または関連組織の一員だったか?

  3. 彼が親ソだったか?

これは全然ちがう話だ。そしていまぼくたちが、カストロが共産主義だったか、というときは、通常は最初の話だと暗黙に思っている。でも、当時の文献や論者、有識者は、二番目や三番目の意味で話をしている。カストロたちは、これをおそらくは意図的に混同させて使っている。

キューバに元からあった共産党はソ連の手下で、カストロ一派とは非常に仲が悪く、カストロが気に食わない共産党のヤツを密告して殺させたとかいうきな臭い噂まである。これはカストロが、自分が反政府の旗手として目立ちたかったから、と言われる。でもカストロが共産主義者ではないというのは、これのおかげで何やらもっともらしくなった。「正統派」の共産主義者は当然、自分たちに敵対するカストロなんて共産主義者だと見なさないものね。

そしてメネセスは、その後キューバの革命政権が明確に共産化したときも、カストロがそれを仕組んだわけではないと思っている。彼に言わせるとこうだ。

その結果カストロは、朝の小時間に放送されるテレビで話していたあの陶酔の数ヶ月間に、一にぎりの人間たちが自分のまわりにシエラ・マエストラにおける反乱軍たちの夢見たものとはちがった体制を築いているということに気づくことができなかったのだ。 (p.120)

カストロは口先だけのバカで、実際の革命政権が骨抜きにされていることさえ気がつかなかったというわけだ。で、その「一握りの人間たち」というのは、ラウル・カストロとチェ・ゲバラに後押しされた共産党(と訳されているけれど、その後から見て共産主義者、ということだと思う)なんだという。

メネセス的には、カストロは目立つけれど有能な人間ではない。彼のカストロ評は以下の通り。

シエラ・マエストラでわれわれが見たように、フィデル・カストロは自分の考えを実行に移すことのまったくできぬ理論家である。彼の自己中心主義とメシア的使命観と名声への渇望は、彼をして一切の建設的な対話や批判をはねつける、公開の場における独白者に変えてしまっていた。彼と論争しなかったのは、ただ共産主義者たちだけだった。(中略) チェ・ゲバラは、これまたシエラ・マエストラにおいて見たように実際的な男で組織者だった。フィデル・カストロはその気質からして、演説の中で述べたてた夢を現実に点火してくれる陰の存在なしには生きることが出来なかった。彼は自分の独白をさえぎる人びとを(中略) まったくの厄介者とみなした。(中略) 結局、カストロの信頼を享受したのは、彼の誇大で熱烈な長弁舌にけちをつけずに好きなだけ話させる連中だけなのだった。 (p.120)

この観察はなかなかおもしろい。チェ・ゲバラがメキシコで初めてパーティーでカストロに会ったとき、カストロはなぜキューバにいないのかとイルダ・ガデアにからかわれたのに対し、丸四時間ぶっ通しで弁解演説を続け、チェ・ゲバラは (珍しく) それをじっと聞いていて、それで二人は分かちがたい同志になった、といわれる。ゲバラはまさに「好きなだけ話させる」人物だったから、信頼を獲得できたわけだ。

つまりメネセスにとって、カストロなんか口先だけで、戦闘も実際はチェ・ゲバラが黙々とこなしたおかげで勝てた、ということになる。

そして彼はその後のキューバ共産化は、共産党の工作ということになる。キューバ政府の共産主義化に反対したマトスやカミロ・シエンフエゴスの粛清/暗殺は、共産党がカストロを操ってM26運動(カストロ派)の中でカストロと反共主義者を仲違いさせた結果となる。もちろん、彼はシエンフエゴスは明らかに暗殺されたと考えていて、その側近がその直後に「偶然」死んでしまったことも指摘する。

で、最終的にこの本は、ゲバラのボリビアでのテロ活動からもわかるとおり、キューバ=カストロがソ連と仲違いして(中国と接近する中で) 自分のあやしげな思想や活動を南米全体に広げようとしているのだと主張する (そしてそれは決してウソではないし、最終的にはこの見方が妥当だったことは、ゲバラがボリビアなんぞでゲリラ活動をして死んだことからも明らか)。それはカストロ自身の誇大妄想的な思想に基づくものだ。今後アメリカは、援助をもっと有効な形で使うことで、そうしたキューバの軍事・覇権的な野心を抑えこむ必要がある、とのこと。

この本は、伝記ではない。いまのカストロの行動だけに注目したもので、だからカストロの幼少期の話とかは一切ない。が、そんなのは別にどうでもいい話ではある。軍事的な展開とか食べ物とか、現場の細かい話はとてもていねいで、実際に4ヶ月従軍した成果がでている。こうして見ると、数日前にほめたラフィ『カストロ』の元ネタや基本路線の多くは本書に触発されているようだ。

ときどきちらつく、親ソ的な雰囲気は、当時のヨーロッパ左翼にはありがちだったのかなあ。でもそれで議論が歪む感じはない。もちろん半世紀以上前の本で、情報は古いけれど、でも独自取材と観察に基づく記述は貴重で、いま読んでもそんなに悪くない。