訳者注:邦訳は、文庫版も1993年に出ており、この後書きは含まれていない。どっかの雑誌のサイード特集や独自編集の雑文集とかで訳されたことがあるかもしれないが、そこまで調べていない。が、あまりに長いので、これが全文そのまま雑誌などで出る可能性はあまりないと思う。『オリエンタリズム』が今後、何かの機会で新装版などが出たら可能性はあるかな。もとにしたのは原著のKindle版 (をスクショしてOCRしたものだがKindle版自体も見ている)
なおウェブで読むのはいやという人のために
https://cruel.org/books/SaidOrientalism/orientalism1995postnote.pdf (460 KB)
サイード『オリエンタリズム』1995年あとがき
山形浩生訳
I
『オリエンタリズム』は1977年後半に書き上げられ、その一年後に出版された。これは当時 (そしていまだに) 一息に連続して書いた唯一の本だ。調査、いくつかの草稿から最終版へと、それぞれが途切れたり大幅な中断を経たりすることなしに続いた。スタンフォード大学行動科学先進研究センターでの、すばらしく文明的で比較的負担のない一年 (1975-6) を除けば、外部の世界からは支援も関心もきわめて少なかった。友人一人か二人と、直接の家族からは応援してもらったが、欧米が中東、アラブ、イスラムをどのように見てきたかという200年の伝統における権力、学術研究、想像力のあり方についてのこんな研究が、一般読者の興味を惹くかどうかはまったくわからなかった。たとえば思い出すのが、本書についてまともな出版社に興味を持ってもらうのがとてもむずかしかったことだ。特にある学術出版社は、ずっと小規模なモノグラフについての慎ましい契約を、本当に仮の案としてのみ示唆してくれただけだった。その企画すべては、端っからあまりに見込みがないし薄すぎるように思えた。だが幸運なことに (『オリエンタリズム』の元の謝辞ページで最初の出版社との幸運について述べた通り)、脱稿してから事態はきわめて急速に良い方向に変わったのだった。
アメリカとイギリスの両方で (イギリスでは1979年に別のイギリス版が登場した)、この本は大きな関心を集めた。その一部は (予想はしていたが) かなり手厳しいもので、一部は無理解に基づくものだが、ほとんどは肯定的で熱烈なものだった。1980年のフランス語版を皮切りに、大量の翻訳が登場し、その数は今日も増え続け、その多くは論争や議論を、私が理解できない言語で引き起こしている。才能あるシリアの詩人で批評家カマル・アブ・ディーブによる、見事で未だに議論の絶えないアラビア語翻訳がある。その後『オリエンタリズム』は日本語、ドイツ語、ポルトガル語、イタリア語、ポーランド語、スペイン語、カタラン語、トルコ語、セルビア=クロアチア語、スウェーデン語に翻訳された (1993年にスウェーデンでベストセラーになったため、地元の出版社も私と同じくらい面食らった)。現在進行形か出版直前の翻訳もいくつかある (ギリシャ語、ロシア語、ノルウェー語、中国語)。他のヨーロッパ語翻訳の噂もあるし、いくつかの報告によればイスラエル語版も出る可能性があるとか。イランとパキスタンでは海賊版の抄訳が出ている。私が直接知っている多くの翻訳 (特に日本語) は複数の版を経ている。すべて絶版になっておらず、ときには執筆時に私が考えていたどんな内容をもはるかに凌駕する各地での議論を引き起こしているらしい。
こうしたすべての結果として『オリエンタリズム』は、ほとんどボルへス的な形で、いくつかちがった本になった。そして私がこうしたその後のバージョンを追跡して理解できた限りでは、ここで私が論じたいのは、あの奇妙で、しばしば不穏で、まちがいなく予想もしなかった多形性だ。私が書いた本の中に、私自身が『オリエンタリズム』以後に書いたもの (8、9冊の本と多くの論説) のみならず、他の人の発言を読み戻すということだ。当然ながら、誤読や、少数の例では意図的な歪曲については修正を試みよう。
だが私はまた、当時の自分がきわめて部分的にしか予想しなかった形で『オリエンタリズム』を有益な本だと認めてくれた議論や知的展開を繰り返すことにしよう。こうしたことの狙いは、恨みを晴らすことではなく、自画自賛を積み重ねることでもなく、自分がある作品に取り組むときの孤立した存在としてのエゴイズムをはるかに超えたところにある、ずっと拡大した著者性の感覚を描きだして記録することだ。というのも実に様々な形で、『オリエンタリズム』はいまや集合的な本となり、書いたときの予想をはるかに上回る形で私を超越したものとなっていると思うからだ。
まずは、本書の受容において私が最も残念に思い、今や (1994年) 克服しようと最大限の努力を払っている側面から始めよう。それは、この本が反西洋主義と称されるものだ。これは敵対的な人も好意的な人も含めあらゆる評論家が、誤解を招くかたちで、いささかあまりに声高に本書について語られてきたことだ。この概念には二つの部分があり、ときにはそれがいっしょに論じられ、ときには別々に論じられる。最初のものは、オリエンタリズムという現象が西洋すべての提喩法、あるいはミニチュアの象徴だと私が主張しているのだ、というもので、つまりそれが西洋全体を表していると理解すべきなのだ、と述べる。そうである以上、西洋すべてはアラブやイスラム的なもの、あるいはそれを言うなら西洋植民地主義と偏見に苦しんだイラン、中国、インド、その他非ヨーロッパ人の敵なのだ、とこの主張は続ける。
私の主張だとされている議論の第二部も、同じくらい遠大なものだ。それは、収奪的な西洋とオリエンタリズムがイスラムとアラブを侵犯した、という主張だ (「オリエンタリズム」「西洋」という用語がここでお互いの上に倒れ込んでいることに注意しよう)。そうである以上、オリエンタリズムとオリエンタリストの存在そのものが、その正反対を主張するために利用される。つまりイスラムは完璧であり、それが唯一の道 (アル=ハル アル=ワヒード) であり等々、というわけだ。私が本書でやったように、オリエンタリズムを批判するというのは、実質的にイスラム主義やイスラム原理主義の支持者となることなのだ、とこの議論は述べる。
著者も、本の中の議論も、反本質主義なのだとはっきり述べ、オリエント/東洋や西洋といったあらゆる分類的な呼称すべてについて急進的なほど懐疑的で、東洋やイスラムについて「擁護」はおろか議論すらしないように、細心の注意を払ってきた書物の、戯画化された変容についてどう理解すべきなのか、戸惑うばかりではある。だが『オリエンタリズム』は実のところ、本の中で私がはっきりと、オリエント/東洋やイスラムが本当はどういうものかなどに興味はないし、ましてそれを示す能力も持ち合わせていないと書いているにもかかわらず、アラブ世界ではイスラムとアラブ人の系統的な擁護として読まれ、そのように言及されてきた。 実は私はそれよりはるかに議論をすすめており、本のかなり最初のほうで、「オリエント/東洋」「西洋」といった言葉が、自然な事実として存在する安定した現実に対応するものではないということを述べているのだ。さらに、そうした地理的な呼称はすべて、実証的なものと創造的なものの奇妙な組み合わせだ。イギリス、フランス、アメリカで流通している概念としてのオリエント/東洋の場合、この思想は相当部分が、単に表現しようという衝動からではなく、支配して何やらそれに対して防御するような衝動から生じている。私が示そうとしたように、これはイスラムを、オリエント/東洋の極度に危険な体現として言及する場合に強力な形で成立している。
だがこうしたすべてにおける中心的なポイントは、ヴィーコが教えてくれたように、人類の歴史は人間が作っているということだ。領土の支配をめぐる戦いはその歴史の一部だから、歴史や社会的意味をめぐる戦いも歴史の一部なのだ。批判的な学者の役割は、ある闘争と別の闘争を区別することではなく、それらをつなぐことだ。前者の圧倒的な物質性と、後者の一見すると浮世離れした洗練ぶりにもかかわらず、両者はつながっているのだから。私がそれをやる方法は、あらゆる文化の発展と維持は、別のちがった競合するアルターエゴの存在を必要とする、というのを示すことだった。アイデンティティの構築は——というのもアイデンティティは、東洋だろうと西洋だろうと、フランスだろうとイギリスだろうと、明らかに明確に集合的な体験の貯蔵所ではあるが、最終的には構築物だと私は考えているからだ——反対の存在や「他者」の構築を伴うものであり、そうした存在の実体性は「我々」との差についての絶え間ない解釈と再解釈に曝されているのだ。それぞれの時代と社会は独自の「他者」を作り出す。つまり自己や「他者」のアイデンティティは、まったく静的なものなどではなく、大いに工夫され続けている歴史的、社会的、知的、政治的なプロセスであり、あらゆる社会の個人や制度機関が関与するコンテストとして展開されるものなのだ。今日のフランスらしさやイギリスらしさをめぐる論争や、エジプトやパキスタンといった国におけるイスラムについての論争は、同じ解釈プロセスの一部であり、それはちがった「他者」のアイデンティティが関与するものだ。その「他者」は部外者だったり難民だったり、背教者だったり異教徒たちだったりする。あらゆる場合において、こうしたプロセスはただの頭の体操などではなく、移民法や個人行動の法制化、正統教義の構築、暴力や蜂起の正当化、教育の特性と内容、しばしば公式な敵の指定と関連した外交政策の方向といった具体的な政策問題にかかわる緊急の社会的な対立なのだ。要するに、アイデンティティ構築は各社会において権力と無力の性質に絡め取られており、従ってただの学術的な妄想どはほど遠い代物なのだ。
こうした流動的で驚異的に豊かな現実性を受け入れにくくしているのは、ほとんどの人がその根底にある考えに抵抗するということだ。その考えとは、人間のアイデンティティが自然で安定ではないというだけではなく、構築されたものであり、ときには完全なでっちあげであることさえある、というものだ。『オリエンタリズム』や、その後の『創られた伝統』『ブラックアテナ/黒いアテナ』*1のような本が生み出す抵抗や敵意の一部は、それがある文化や自己、民族的アイデンティティの積極的に不変な歴史性についての無邪気な信念を否定するようにお見えることから来ている。『オリエンタリズム』は、私の議論の半分を無視しなければイスラムの擁護には読めない。その半分で私が述べているのは (その後の著書『イスラム報道 増補版・新装版』でも述べたことだが) 出自によって属している原始的なコミュニティですら、解釈による反論を逃れられるわけではないし、西洋から見ればイスラムの台頭、回帰、復権に見えるものは、実はイスラム社会におけるイスラムの定義をめぐる闘争なのだ。その定義について、どんな個人、権威、制度機関も完全な統制力を持ってはいない。原理主義の認識論的なまちがいは、「原理」が非歴史的なカテゴリーで、したがって本物の信徒たちの批判的な検討の対象とはならず、したがってそこから逃れていて、信徒たちはそれを信仰により受け入れるべきだと考えることだ。初期イスラムの復権または再興されたバージョンを信奉する人々にとって、オリエンタリストは (サルマン・ラシュディのように) そのバージョンを侵犯し、疑問視し、それをインチキで神聖ではないと示すから危険と思われてい。したがって彼らにとっては、私の本の美徳は、オリエンタリストたちの悪意ある危険性を指摘し、その掌握からイスラムを何やら救い出したことにある。
さて、これは私自身がやるつもりだったことではまったくないが、その見方はそれでもしつこく続いている。その理由は二つある。まず、人間の現実が絶えず創られては解体され、安定した本質のようなものはすべて絶えず脅かされているという理論に基づき文句も言わず恐れもなく生きるのが簡単だと思う人はだれもいないからだ。愛国主義、極度の排外主義的なナショナリズム、まったくもって不愉快な排外主義はこの恐怖へのありがちな反応なのだ。だれしも、依って立つ基盤が必要だ。問題は、その基盤についての我々の構築がどれほど極端で不変か、ということだ。私の立場は、本質的なイスラムやオリエント/東洋について言うなら、こうしたイメージはイメージでしかなく、敬虔なイスラム教徒と (この対応は重要なものだが) オリエンタリストのコミュニティの両方によりそれが報じられているというものだ。オリエンタリズムと呼んだものに対する私の反対は、それが単なる懐古的な東洋の言語、社会、人々の研究ではなく、オリエンタリズムという思考体系が異質性を持ち動的で複雑な人間の現実に対して無批判な本質主義的立場からアプローチしているということだ。これは持続的な東洋の現実と、それに対するが同じくらい持続的な西洋の本質の両方があると示唆している。その西洋はオリエントを遠くから、そして言わば上から観察しているということになる。この偽の立場は歴史的な変化を隠す。私の立場からしてもっと重要なことは、それがオリエンタリストの利害を隠すということだ。これらは、無垢な学術探究としてのオリエンタリズムを、帝国の幇助役としてのオリエンタリズムの微妙なちがいを隠そうという試みにもかかわらず、決して一方的に、1798年のナポレオン侵略からグローバル期に入った全般的な帝国の文脈から切り離すことはできない。
私が念頭に置いているのは、ヨーロッパと、それがオリエント/東洋と呼ぶものとの遭遇の当初から明らかだった、弱い側と強い側との衝撃的な対照性だ。ナポレオン『エジプト誌』——その巨大な何巻にも及ぶ大著は野蛮人の大群丸ごとの系統的な労働が、植民地征服の近代的軍に支援されていることを裏付けている—— が持つしっかりした荘厳さと壮大な身ぶりは、アブダル=ラフマーン・アル=ジャバルティのような個人の証言 (彼は3巻にわたり、侵略された側からの観点でフランスの侵略を描いている) を矮小化してしまう。『エジプト誌』は単なる科学的、つまりは客観的な19世紀初頭エジプトの記述なのだと主張する人もいるだろうが、ジャバルティのような人物の存在はそうではないことを示す。ナポレオンのものは、エジプトをフランスの帝国主義的な軌道に抑え込むだけの権力を持った人物の観点からは「客観的」な記述だ。ジャバルティのものは、その代償を払わされ、言わば囚われて打倒された側の記述だ。
言い換えると、『エジプト誌』とジャバルティの記述は、永遠に対立する東洋と西洋を証明する不活性な文書にとどまるどころか、この両者は歴史的な体験を構成し、そこから他者が発達し、他者が存在する前の体験を示しているのだ。こうした体験の集合における歴史的な力学を研究するのは、「東洋と西洋の紛争」といったステレオタイプに対抗するよりも手間がかかる。だからこそ『オリエンタリズム』は、秘かに反西洋を唱える研究なのだと誤読されてしまい、そしてこの読解は (安定した二項対立と称されるものに基づくあらゆる読解と同様に) 何の根拠もなく意図的ですらある遡及的な供与によって、無垢なのに侵犯されたイスラムというイメージを称揚することになる。
私の議論における反本質主義がなかなか受け入れられない二番目の理由は、政治的で緊急性を持つイデオロギー的なものだ。この本が出て一年後に、イランがとんでもなく遠大なイスラム革命の現場となるなどというのは、私がまったく知るよしもなかったことだ。またイスラエルとパレスチナ人の戦いがあれほど残虐で長期化した形を採り、1982年のレバノン侵略から1987年インティファーダまで続くなどとは思いも寄らなかった。冷戦の終わりは、一方のアラブやイスラムと、反対側のキリスト教西洋との一見果てしないように見える紛争を終わらせることはおろか、抑えることさせできなかった。もっと最近ながら、切迫度ではひけをとらないものとして、ソ連のアフガニスタン侵略の結果として対立が生じた。またアルジェリア、ヨルダン、レバノン、エジプト、占領地域といった多様な地域におけるイスラム集団が示した、1980年代と1990年代の現状に対する挑戦と、それに対する欧米の対応もある。パキスタンの拠点からロシアと戦うイスラム旅団が結成されたこと、湾岸戦争。イスラエルの支持継続。警鐘に満ちた、必ずしも正確とも情報豊かとも言えないジャーナリズムや学術研究の主題としての「イスラム」の台頭。こうしたすべては、自分が西洋人か東洋人かをほとんど毎日のように宣言強制されている人々の感じる糾弾の感覚を煽るものとなった。だれも「我々」「ヤツら」との対立からは逃れられないようで、これは強化され、深められ、硬直化したアイデンティティの感覚をもたらしたが、それは決して有益なものではなかった。
こうした波乱含みの文脈で『オリエンタリズム』の運命は、幸運でもあり不運でもあった。アラブとイスラム世界で、西洋がじわじわ入り込んで来るのを不安とストレスを持って感じていた人々にとって、これは東洋的であることについて東洋に耳を貸したり許したりすることは一度もなかった西洋に対する、初の真剣な反駁のように見えた。本書について初期のアラビア語書評では、その著者がアラブ主義の支持者とされ、虐げられ迫害された者たちの擁護者とされ、その使命は西洋の当局に対してロマン主義的な一対一対決を迫ることなのだ、と述べられていたのを思い出す。その誇張にもかかわらず、それはアラブが感じる西側の持続的な敵意の感覚をある程度伝えるもので、また多くの教育水準の高いアラブたちが適切と考える対応をも伝えるものとなっていた。
執筆時点で自分が、本のエピグラフで引用したマルクスの小文でほのめかされている主観的な真実 (「彼らは自分を代表できない。だれかに代表してもらわねばならない」) を認識していたことは否定しない。つまり、自分が言い分を語る機会を否定されてきたなら、その機会を手に入れようと極度にがんばる、ということだ。たとえば二十世紀の解放運動の歴史が雄弁に示すように、サバルタンは語れる。だが私はそれが、自分が記述してそのひどい影響を減らそうとしている負たっつの競合する政治的、文化的な一枚岩のブロック間の敵対を永続化させているのだと感じたことはなかった。それどころかすでに述べたように、東洋対西洋の対立は、誤解のもとだしきわめて望ましくないものだ。それが解釈と対立する利害のおもしろい歴史以外のものを表現していると認められる度合いが小さければ小さいほどよいのだ。欧米の多くの読者や、アフリカ、アジア、オーストラリア、カリブ海の英語話者たちの多くは、本書を排外主義や攻撃的な人種的ナショナリズムよりも後に多文化主義と呼ばれるものの現実を強調しているのだと見てくれたとここに書けるのは嬉しいことだ。
それでも『オリエンタリズム』は、権力が知識を使って己を強化していることに対する多文化的な批判よりは、むしろサバルタン的地位の証言——この世の虐げられた者たちの反駁——と思われてきた。だからその著者として、私は与えられた役割を演じているものと見られてきた。つまり、かつては東洋人だけでなく他の西洋人も読むもように明確に設計された言説の学術文献において、これまで抑圧され歪曲されてきたものの自己表現的な良心の役割、というものだ。これは重要な点で、私の本がかなり明確に捨てているのに、パラドックス的な話だがそれが前提として依存している、永続的な分断をはさんで固定されたアイデンティティが戦っているという感覚を強めることになっている。私が描いているオリエンタリストはだれ一人として、東洋人を読者として意図することはなかったようだ。オリエンタリズムの言説やその内的整合性と厳密な手順はすべて、都会的な西洋の読者や消費者に向けて設計されていた。これは、私が心底崇拝する、エジプトに魅了されていたエドワード・レーンやギュスターヴ・フローベール にもあてはまるし、謹厳な植民地行政官のクロマー卿や、アーンスト・ルナンといった見事な学者や、アーサー・バルフォアなどご立派な貴族にもあてはまる。その全員が、自分の支配したり研究したりする東洋人を見下して嫌っていた。彼らの各種の宣言やオリエンタリスト同士の議論に、招かれざる形で聞き耳をたてたてるのにある種の招かれざる喜びを感じたこと、そして自分の発見をヨーロッパ人と非ヨーロッパ人の両方に報せることにも同じ位の喜びを感じたことは告白せねばならない。これが可能になったのは、私が帝国の東西分断を横断し、西洋での生活に入りつつも、自分がもともと生まれ出た場所とのある種の有機的なつながりを維持できたおかげだという点を、私はまったく疑っていない。これがまさに障壁を維持するのではなく横断する手順なのだということは繰り返しておく。私は本としての『オリエンタリズム』がそれを示していると思う。特に人文研究が、恫喝的な制限を超えて、非支配的で非本質主義的な学習を目指すのが理想なのだと語る瞬間にはそれが示されているはずだ。
こうした配慮は確かに私の本に対する、傷の証言や苦しみの記録を代弁しろという圧力を増した。それを繰り返すのは、西洋に対するとっくに行われるべき反撃だというわけだ。私は各種の人々や各種の時代、各種のオリエンタリズム様式について——ここで遠慮ぶって見せるつもりはない——きわめて繊細かつ細やかに発言している作品を、これほど単純に描いて見せるやり方は遺憾だ。私の分析はすべてがオリエンタリズムに関わるとはいえ、それぞれが様相を変え、違いや差別を増し、著者や時代をお互いに引き離すのだ。シャトーブリアンやフローベールの分析、あるいはバートンやレーンの分析を、まったく同じ力点の置き方で読んで、同じ「西洋文明への攻撃」という凡庸な定式からの同じ還元主義的なメッセージを導くのは、単純主義に陥って誤ることだと私は信じる。だが最近のオリエンタリスト権威、たとえばほとんどコミカルなまでに一貫したバーナード・ルイスは、その愛想のよい語り口や、説得力のない学習のひけらかしが隠そうとはするが、政治的に動機づけられて敵対的な承認として読むのはまったく正しいことだと考える。
するとここでも、本書の政治的、歴史的な文脈に話は戻ってくる。それがその中身と無関係だというふりをするつもりはない。この一派の最も好意的な洞察を持ち知的に傑出した主張を述べたのが、バシム・ムサラームの書評 (MERIP, 1979) だった、彼はまず、私の本をレバノン学者ミカエル・ルスタムの1895年著書 (キターブ・アル=ガリーブ フラル ガルブ) におけるもっと前のオリエンタリズム解明と比較するところから始めるが、両者の主要な差は私の本が喪失についてのものだがルスタムの本はちがう、と指摘する:
ルスタムは自由社会に属する自由人として書く。シリア人で、言語的にはアラブで、まだ独立していたオスマン国家の市民だったミカエル・ルスタムとちがってエドワード・サイードは一般に受け入れられるアイデンティティはなく、その民族自体が紛争の対象となっている。エドワード・サイードとその世代はときに、自分がミカエル・ルスタムのシリアの破壊された社会の残骸程度の確実性しかないものに立っているだけで、それもその記憶だけの上に立っているという気分になるのかもしれない。アジアやアフリカの他の人々はこの民族解放の時代にあってそれなりに成功してきた。ここでは、痛々しくも対照的に、圧倒的な不利の中での絶望的な抵抗ばかりで、しかもいままで敗北しかない。これを書いたのはそこらの「アラブ」ではなく、特定の背景と体験を持ったアラブなのだ。(22)
ムサラームは、アルジェリア人はこのような全般的に悲観的な本を書かなかっただろうし、特に拙著のように北アフリカ、特にアルジェリアとフランスの関係をほとんど扱わなかったりすることはなかっただろうと正しく指摘する。だから『オリエンタリズム』が個人的な喪失と国民的解体という極度に具体的な歴史から書かれたという全体的な印象は受け入れるものの——『オリエンタリズム』を書いたほんの数年前にゴルダ・マイアはパレスチナ人などいないという悪名高く根深いまでにオリエンタリスト的なコメントを行った——本書でも、あるいはそれにすぐ続く二冊『パレスチナ問題』(1980)『イスラム報道 増補版・新装版』(1981) でも、アイデンティティ回復とナショナリズム再興の政治プログラムを示唆したいだけではなかったことは付け加えておきたい。もちろん、後の二冊には『オリエンタリズム』で欠けていたものを供給しようという試みはあった。つまり、オリエントの一部——『パレスチナ問題』ではパレスチナ、『イスラム報道』ではイスラム——があり得た別の形がどんなものだったかを、個人的な観点で描くことだ。
だが私はすべての作品において根本的に、自画自賛の無批判なナショナリズムに対しては批判的だ。私が代弁するイスラムの図式は、押しつけるような言説やドグマ的な正統教義のものではなく、むしろイスラム世界の内外に解釈のコミュニティが存在し、それが対等な対話関係として相互にやりとりしているというものだ。私のパレスチナ観は、もともと『パレスチナ問題』でまとめたものだが、今も変わっていない。ナショナリスト的なコンセンサスの呑気な土着主義や武闘派的な軍事主義については各種の留保を表明している。むしろ私が示唆したのは、アラブ環境、パレスチナ史、イスラエルの現実についての批判的な見方であり、明示的な結論は、苦しんでいる二つのコミュニティ、アラブとユダヤとの交渉に基づく解決だけが、果てしない戦争からの猶予を与えてくれるというものだ (ついでに言っておくと、パレスチナについての著書は1980年代にイスラエルの出版社ミフラスにより見事なヘブライ語翻訳が出たが、いまだにアラビア語翻訳はない。この本に関心を持ったあらゆるアラビア語出版社は、各種のアラブ政権 (PLOを含む) を公然と批判した部分を変更または削除してくれと求めたが、私は一切応じてこなかった)。
残念ながら『オリエンタリズム』のアラブでの受容は、カマル・アブ=デーブの見事な翻訳にもかかわらず、私のオリエンタリズム批判から一部の人が読み取ったようなナショナリスト的な熱狂を抑えるような側面を無視しおおせている。私はそうした熱狂を、帝国主義にも見られる支配と統制の衝動と関連づけているのだ。アブ=デーブの苦労に満ちた翻訳は、アラビア語化された西洋表現をほぼ完全に避けていた。言説、シミュラクラ、パラダイム、コードといった専門用語は、アラブ伝統の古典的レトリックから構築されていた。彼の発想は、私の作品をある完全に形成された伝統の中に置くことだった。まるでそれが、文化的な適切性と平等性の観点から別の伝統に語りかけているかのようにしたのだ。こうすることで、認識論的な批判を西側の伝統の中から行えるのと同様に、アラビアの伝統の中からも行えるのだと示せる、と彼はその理由を述べている。
だがしばしば情緒的に定義されたアラブ世界と、それ以上に情緒的に経験された西洋世界との重たい対立の感覚のため、『オリエンタリズム』が批評の研究を意図したものであって、争いあい絶望的なほど対照的なアイデンティティの追認ではないという事実が覆い隠されてしまう。さらに、同書の末尾で私が描きだした現実性、ある強力な広範囲のシステムが別のシステムに対する覇権を維持しているという現実性は、アラブの読者や批判者を刺激してもっと決然とオリエンタリズムの仕組みにと陸ませるような、論争の皮切りとして意図されていたのだ。私は、思考体系が彼自身の明らかな偏見を超越した存在となったとされるマルクスにもっと注意を払わなかったと吊し上げられるか——たとえばマルクス自身のオリエンタリズムをめぐる一節は、アラブ世界とインドにおける教条主義的な批判者たちにもっともあげつらわれた部分だった——あるいはオリエンタリズム、西洋等々のもっと大きな成果を認めていないと批判される。イスラムの擁護の場合と同じく、一貫性ある総合的なシステムとしてのマルクス主義や「西洋」への依拠は、私から見ると、ある正統教義を使って別の正統教義を打破しようとする例に見える。
アラブと他の地域での『オリエンタリズム』に対する反応のちがいは、たぶん何十年にもわたる喪失、苛立ち、民主主義不在がアラブ地域の知識人や文化生活に影響したかを正確に示すものだと思う。私は拙著を既存の思想の一部として意図し、知識人たちをオリエンタリズムのような体系の軛から解放するのを狙いとしていた。読者には私の作品を使って、アラブや他の人々の歴史体験を、鷹揚でエネーブリングな様式で明らかにする新たな研究を生み出したりしてほしいと思っていた。そしてまさにそういうことが、ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリア、インド亜大陸、カリブ海、アイルランド、南米、アフリカの一部では起こった。アフリカ主義やインド学言説の研究は活性化した。サバルタン史の分析、ポストコロニアル人類学や政治学、美術史、文芸批評、音楽学の再定式化、さらにフェミニスト言説やマイノリティ言説の莫大な新しい発展などがみられる——こうしたすべてについて、私は『オリエンタリズム』がちがいを生み出したことが多いのを嬉しく思うし、名誉に感じる。どうやら (少なくとも私に判断できる限りでは) アラブ世界ではそうならなかったようだ。そこでは、一部は私の研究が正しくそのテクストにおいてヨーロッパ中心主義と受けとられていること、そして一部はムッサラームが述べるように、文化サバイバルの戦いはあまりに負担が大きく、拙著のような本は生産的に言えば、あまり有用な形では解釈されず、むしろ「西洋」に賛成または反対の擁護的な身ぶりとして解釈されるからだ
だが明確に厳密で妥協無き英米の学者たちの間では『オリエンタリズム』や、それどころか私の他の研究すべては、そこに「残余している」人文主義や、理論的な不整合や、主体性の不十分で感傷的とすら言える扱いのために、不満だと攻撃されることになった。こうした攻撃はありがたい! 『オリエンタリズム』はゲリラ的な本であり、理論的な機械ではないのだ。個別の努力が何か深遠に教えがたい水準において、エキセントリックでもあり、ジェラルド・マンレー・ホプキンスの言う意味で独創的でもあることはできないなどということを説得力ある形で示せた者はだれもいない。これは思考体系、言説、覇権が存在してもそうなのだ (とはいえそのどれ一つとして実はシームレスで完璧で不可避だったりはしないのだが)。私が文化現象としてのオリエンタリズムに脅威を抱いたのは (1993年の続編となる拙著『文化と帝国主義1』で語った帝国主義のように) その可塑性と予測不可能性から来ているのであり、このどちらの性質もマシニョンやバートンのような作家に、その驚くべき力と、魅力すら与えるものだ。オリエンタリズムについての私の分析で保存しようとしたのは、その整合性と不整合性の組み合わせ、言わばその戯れであり、それは作家兼批評家としての自分自身に、ある種の情緒的な力や、感動し、怒り、驚き、喜ぶ権利を温存することによってのみ描き出せる。だからこそ、一方ではガヤン・プラカシュと、他方ではロザリンド・オハンロン&デヴィッド・ウェストブルックの論争において、プラカシュのもっと可動性を持つポスト構造主義的な主張に軍配を挙げねばならないと思うのだ *2。同じ主旨からして、ホーミ・バーバやガヤトリ・スピヴァック、アシス・ナンディの研究は、植民地が生み出すときにはめまいがするような主観的関係に根差していて、オリエンタリズムのような仕組みが敷いた人文主義的な罠の理解への貢献として否定できないのだ。
『オリエンタリズム』の批判的変容のサーベイの最後に、拙著に対して最も血気流行った攻撃的な形で反応を示したある人々の集団、まあ予想できないことではないが、当のオリエンタリストたちについて言及しておこう。彼らは私が意図した主要な聴衆ではまったくなかった。私の念頭にあったのは、彼らの手口に少し光を当てて、他の人文学者たちにある分野の得意な手順と一般化を認識してもらうことだった。「オリエンタリズム」という言葉自体が、あまりに長いことある特殊な専門分野に押し込められてきた。私が示そうとしたのは、その応用と存在が政治的態度だけでなく文学、イデオロギー、社会文化全般に見られるということだ。オリエンタリストたちがやったように、だれかを東洋人だというのは、単にその人物が、言語や地理や歴史が学術論考の対象になっっているというのを示すだけではない。それはしばしば、人間として劣った血筋を示す侮蔑的な表現を意図されている。これはネルヴァルやセガレンのような芸術家たちにとって、「オリエント/東洋」という言葉がすばらしく、見事にエキゾチズムや魅惑、謎、約束と結びついていたのを否定するものではない。だがそれはまた、粗雑な歴史的一般化でもあった。こうしたオリエント、オリエンタル、オリエンタリズムといった用語の使用に加えて、オリエンタリストという言葉は東洋の言語や歴史についての博識で、学者的で、主に学術的な専門家をあらわすようになった。だが1992年3月にアルバート・ホウラニが、その速すぎたあまりに惜しまれた死の数ヶ月前に私に手紙で書いたように、私の議論の力 (これについて私をとがめるわけにはいかないと彼は述べた) のため、拙著は中立的な意味で「オリエンタリズム」という用語を使うのをほぼ不可能にしてしまうという不幸な影響ももたらした。それがあまりに濫用される用語になってしまったからだ。彼は最後に、それでもこの単語を「限られた、いささか退屈ながらも有効な学術研究文化」をあらわすために温存したいと述べている。
その全体としてバランスのとれた1979年の『オリエンタリズム』書評で、ホウラニは私がオリエンタリストたちの著作の多くに見られる誇張、人種差別、敵意を特だししている一方で、その無数の学術的、人文学的な成果について言及していないという示唆により、反論の一つを構築している。そこで挙げられた名前としてはマーシャル・ホジソン、クロード・コーエン、アンドレ・レイモンなどがある。彼ら (さらに死後に挙げられたドイツ人著者たちも) の成果は、人類の知識への真の貢献として認知されるべきだ。だがこれは、私が『オリエンタリズム』で述べていることと対立するものではない。そのちがいはと言えば、私は言説そのものの中に、単純に一蹴したり軽視したりできない態度の構造が広まっているのだと固執するという点にある。また私は、オリエンタリズムがあらゆるオリエンタリストの研究すべてにおいて、邪悪だとか、粗雑だとか、すべて同じだとか論じたことは一度もない。だがオリエンタリストの軍団たちが、帝国権力と共謀してきたという固有の歴史を持っていたとは主張しているし、それがどうでもいいと述べるのはひいきの引き倒しだ。
だからホウラニの訴えに共感はするものの、適切に理解されたオリエンタリズムの概念が、実のところ完全にそのいささか複雑で必ずしもご立派ではない状況と完全に切り離せるのか、私は深刻な疑念を抱いている。たぶん極端な話としては、オスマン時代やファーティマ朝の文献の専門家はホウラニの言う意味でのオリエンタリストなのかもしれない。だがそうした研究が今日において、いつ、どこで、どんな支援制度機関や主体においてそれが行われるのかをまだ問わねばならないのだろうか? 拙著の登場後に執筆した実に多くの人々は、極度に難解で浮世離れした学者についてすらまさにこの質問をして、とくにはひどい結果を引き起こしたのだった。
それでも、オリエンタリズム (特に私のもの) を批判するのは無意味であり、距離をおいた学術研究という発想そのものをなにやら侵犯するものだと論じる議論を持ち出そうとする、継続的な試みが一つあった。それを試みたのはバーナード・ルイスで、私が拙著で批判的な数ページを割いた人物ではある。『オリエンタリズム』刊行から15年後、ルイスは一部が著書 Islam and the West (English Edition) に収録された一連の論説を発表した。そしてその主要な部分は私に対する攻撃であり、それをとりまく形で粗雑かつ典型的なまでにオリエンタリスト的な定式化——イスラムは近代化に怒っている、イスラムは教会と国家の区別を一度も行わなかった等々——を動員する論説が配置されている。そのすべては極度の一般化で宣言されており、個別イスラム教徒とイスラム社会ごと、イスラムの伝統や時代ごとの差についてはほとんど言及がない。ルイスはある意味で、もともと私の批判が向けられていたオリエンタリストのギルド代弁者を自認するようになったので、その手口についてもう少し紙幅を割く価値はあるだろう。彼の思想はやんぬるかな、その追従者や模倣者の間でかなり流行しているのだ。そうした連中の仕事はどうやら、西洋の消費者に対して怒り狂った、例外なく非民主的で暴力的なイスラム世界の脅威を警告することらしいのだ。
ルイスの冗漫性は彼の立場のイデオロギー的な裏打ちと、ほぼあらゆることをまちがって理解するという驚異的な能力をほとんど覆い隠せていない。もちろんこれらはオリエンタリストお馴染みの常套手段であり、そうした人々の一部はイスラムおよび非ヨーロッパの人々に対する積極的な侮蔑について正直になるだけの勇気を少なくとも持ち合わせていた。だがルイスはちがう。彼は真実を歪め、まちがったアナロジーを使い、ほのめかしを使うことで話を進める。そこに彼は、自分が学者の語り口だと思い込んでいる、全知の平静な権威という上辺をつけくわえてみせるのだ。典型的な例として、彼が私のオリエンタリズム批判と、古典的古代研究への仮想的な攻撃との間にあると論じるアナロジーを見てみよう。そんな攻撃はバカげた活動だ、と彼は断じる。もちろんその通りだ。だがオリエンタリズムとヘレニズムはまったく比較できない。前者は世界の地域丸ごと描き出そうとする、その地域の植民地征服の付属物であり、後者は19世紀や20世紀のギリシャの直接的な植民地征服についての話ではまったくない。加えて、オリエンタリズムはイスラムへの反発を示すものだが、ヘレニズムは古典ギリシャへの共感を示すものだ。
さらに現在の政治的瞬間は、人種差別的な反アラブ、反ムスリムのステレオタイプを煽るものだ (が古典ギリシャへの攻撃はない)。そのおかげでルイスは非歴史的で身勝手な政治主張を学術的な議論の形で行えるのだ。これはまさに古くさい植民地主義的なオリエンタリズムの最も信用できない側面を完全に温存する手口だ*3。したがってルイスの作品は、純粋に知的環境の一部というより、現在の政治環境の一部なのだ。
彼のように、イスラムやアラブを扱うオリエンタリズムの一派が、古典文献学と比較できるような学問分野だとほのめかすのは、ヨルダン川西岸地区やガザの占領当局のために働いているイスラエルのアラブ学者やオリエンタリストたちを、ウィラモウィッツやモムゼンのような学者と比較するのと同じくらい不適切なことだ。一方ではルイスは、イスラムのオリエンタリズムを、無垢で熱意ある学術部局の地位に還元したがる。その一方で彼は、オリエンタリズムがあまりに複雑で多様で専門的だから、非オリエンタリスト (たとえば私をはじめ多くの人々) が批判するのは無理だというふりをしたがる。ここでのルイスの戦術は、大量の歴史を弾圧することだ。私が示唆するように、イスラムに対するヨーロッパの関心は、好奇心ではなく、一神教の文化的・軍事的に侮れないキリスト教の強豪に対する恐れという形で生まれてきた。イスラムについての最初期のヨーロッパでの学者たちは、無数の歴史家たちが示したように、イスラムの軍団や異教の脅威を防ごうとする中世の煽動者たちだった。あれやこれやの経緯で、その恐怖と敵意の組み合わせは今日まで、イスラムに対する学術的、非学術的な関心の中に居残り、イスラムは、想像的にも地理的にも歴史的にも、ヨーロッパと西洋に対立するものと思われた世界の一部——オリエント——に属していると見られるようになったのだった。
イスラムあるいはアラブのオリエンタリズムをめぐる最も興味深い問題は、まず中世的な痕跡の形態がこれほど執念深く残っていることと、第二にオリエンタリズムとそれを生み出した社会との間のつながりに歴史と社会学だ。オリエンタリズムと文芸的な想像力の間には強い親和性があるし、また帝国意識の間にも親和性があるのだ。ヨーロッパ史の多くの時期で驚異的なのは、学者や専門かたちが書いたことと、詩人、小説家、政治家、ジャーナリストがイスラムについて語ったこととの交流なのだ。それに加えて——そしてこれはルイスが決して扱おうとしない決定的な論点だが——現代のオリエンタリスト学術研究台頭と、英仏による莫大な東洋帝国の獲得との間には驚くべき (だがそれでもはっきり理解できる) 並置があるのだ。
定型的なイギリス古典教育と大英帝国拡張とのつながりは、ルイスが想定するよりも複雑なものだが、現代文献学の歴史においてen力と知識の間にオリエンタリズムの場合ほど露骨な並列が存在する例はない。イスラムとオリエントについての情報の相当部分は、植民地権力によって植民地主義を正当化するのに使われたが、それをもたらしたのはオリエンタリスト的な学術研究だった。多くの著者による最近の研究、カール・A・ブレッケンリッジとピーター・ファンデルフェール編 Orientalism and the Postcolonial Predicament: Perspectives on South Asia (South Asia Seminar) *4は、オリエンタリスト的知識が南アジアの植民地行政に使われた様子を大量の記録で実証している。地域学者の間では、オリエンタリスト、外務系政府部局などの地域学者の間では、かなり一貫したやりとりが未だに行われてる。さらに、イスラムやアラブの感性をめぐるステレオタイプ、たとえば怠惰、宿命主義、残虐さ、堕落、ひけらかしといった、ジョン・ブキャンからV・S・ナイポールまで多くの作家に見られるものは、学術オリエンタリズムの分野でも根底にある思いこみとなっていた。これに対しインド学や中国学と一般文化との間でのクリシェのやりとりは、指摘すべき関係や拝借は見られても、これほど華々しいものではない。また西側における中国学やインド学の専門家の慣行と、欧米で将来にわたりイスラムを研究してきたくせに、それを崇拝するどころか、どうしても好きになれない地域や宗教や文化だと考える多くの専門学者との間には、ほとんど類似性はないのだ。
ルイスやその模倣者たちが述べるように、こうした指摘が単に「流行の大義」を掲げようとしているだけだというのは、たとえばなぜ実に多くのイスラム専門家たちが、当時もいまもしょっちゅう、イスラム世界を経済的に収奪し、支配し、露骨に攻撃しようとする政府に相談を受け、積極的にそこで働くかという問題や、なぜ実に多くのイスラム学者——たとえばルイス自身——が自発的に現代のアラブやイスラムの人々に攻撃をしかけつつ、「古典的」イスラム文化はそれでも距離をおいた学術検討の対象になれるのだというふりをするのか、といった問題に十分に取り組んだことにはならない。中世イスラムギルドの歴史についての専門家が国務省のミッションに派遣されて、地域のアメリカ大使館にペルシャ湾の安全保障面の利害の説明を行うといった光景は、古典文献学といった同質な分野と称するものにルイスが割り振るヘラスへの愛に似たものを一切自発的に示唆するものではない。
だからイスラムとアラブのオリエンタリズム分野は、常に国家権力との野合を否定しつつ、ごく最近まで私がいま描いてきたつながりについて内的な批判を生み出すことはなく、ルイスがオリエンタリズムの批判は「無意味」だという驚くべき発言ができるというのは、驚くべきことではない。またごく少数の例外を除いて、私の作品に対して引き出された「専門家」の否定的な批判が、ルイスのもののように、粗雑な不法侵入者によって侵犯された王国の退屈な記述以上のものではなかったのも驚くべきことではない。私が論じているもの——これはオリエンタリズムの中身だけでなく、その関係性、提携、整形高、世界観を含む——に取り組もうとした唯一の専門家たち (ここでも少数の例外はいるが) は、中国学者、インド学者、中東学者の若い世代だった。彼らは新しい影響を受けやすく、またオリエンタリズム批判が持つ政治的な議論にも影響されやすいからだ。その一例はハーバード大学のベンジャミン・シュウォーツで、1982年のアジア研究学会の会長演説で私の批判の一部に異論を唱えると同時に、私の議論を知的に歓迎したのだった。
多くの年配のアラブ学者やイスラム学者は、不満たらたらの怒りで応えたが。これは彼らにとっては自己反省の代替物なのだ。その多くは「悪意」「不名誉」「訴訟的」といった言葉を使い、批判そのものが彼らの聖別された学術的保存地区に対する容認しがたい 侵害だとでも言うようだ。ルイスの場合、提出された擁護論は明白な詐術行為だ。というのもオリエンタリストのほぼ全員が、アラブ (その他) の大義に対して情熱的な政治的敵対の党派性を、アメリカ議会、コメントなどで示してきたからだ。従って、彼に対する適切な対応には、彼がその分野の「名誉」を擁護しているというふりをするときに、彼が政治的かつ社会学的にどんな存在なのかという記述を含めざるを得ない。その擁護は、十分に明らかとなることだが、イデオロギー的な半分だけの真実で非専門家読者を誤解させるように設計された入念なでっちあげでしかないのだ。
要するに、イスラムやアラブのオリエンタリズムと現代ヨーロッパ文明との関係を研究するためには、別にこの世に存在したあらゆるオリエンタリストやあらゆるオリエンタリストの伝統や、オリエンタリストの書いたものすべてをカタログ一覧にして、それらをひとくくりにろくでもない無価値な帝国主義だと断じる必要はないのだ。私はそもそもそんなことをしていない。『オリエンタリズム』が陰謀だとか、「西洋」が野蛮だとか示唆するのは無知蒙昧の行いだ。どちらもルイスやそのエピゴーネンの一人、イラク報道官K・マキヤが厚顔にも私になすりつけたとんでもない愚言だ。その一方で、人々がオリエントについて書き、考え、語ってきた文化、政治、イデオロギー、制度的な文脈を抑圧するのは、学者であろうとなかろうと偽善的だ。そしてすでに述べたように、『オリエンタリズム』が実に多くの思慮深い非西洋人に反対される理由が、現代の言説が植民地時代に起源を持つ権力の言説だと正しく認識されているからだと理解するのはきわめて重要だ。これは最近のきわめて優秀なニコラス・B・ダークス編のシンポジウムColonialism and Culture (The Comparative Studies In Society And History Book Series) の主題となっている*5。この種の言説は、主にイスラムが一枚岩で変化せず、したがって強力な国内利害のために「専門家」によってマーケティングできるのだという想定に基づいているが、そこではイスラム教徒もアラブもその他の非人間化された劣った人々のだれも、自分を人間として認識できず、その観察者を単なる学者としては認識できないのである。最大でも彼らはその現代オリエンタリズムの言説やそれに対応したアメリカ先住民やアフリカについて構築された類似の知について、学術的な客観性というフィクションを維持するために、そうした思考体系の文化的な文脈を否定し、抑圧し、歪曲する慢性的な傾向を見出すのである。
II
だが、ルイスのような見方が主流とはいえ、それが過去15年で登場したり強化されたりした唯一のものだと示唆したくはない。だがソ連崩壊以来、アメリカの一部学者やジャーナリストたちの間には、オリエンタル化されたイスラムに新しい邪悪の帝国を見つけようとするせっかちな動きが見られるというのも事実だ。結果として、電子メディアも印刷メディアも、イスラムとテロリズムをいっしょくたにしたり、アラブと暴力をひとくくりにしたり、オリエントと圧政を同一視したりする悪意あるステレオタイプだらけとなっている。そして中東や極東の多くの部分では自国主義的な宗教や原始的ナショナリズムへの帰還が見られ、中でも特に不名誉な側面は、サルマン・ラシュディに対するファトワの継続だ。だがこれがすべてではないし、この論説の残りでやりたいのは、学術研究、批評、解釈における新しいトレンドをについて語ることだ。それらは拙著の基本的な主張は受け入れるものの、ある面でそのはるか先に進み、思うに歴史的体験の複雑性の感覚を豊かにしてくれるのだ。
もちろんこうしたトレンドはどれ一つとして、いきなり現れてきたものではない。また、どれも完全に確立した知識や慣行の地位を獲得してはいない。現世的な状況は相変わらずめまいがするほど混乱していて、イデオロギー的にややこしく、変わりやすく、緊張していて、変動しやすく、殺人的ですらある。ソ連が解体され東欧諸国が政治的な独立を実現しても、権力と支配のパターンは困惑するほどはっきりしている。かつてはロマンチックかつ情緒的に第三世界と呼ばれていたグローバルサウスは 債務の罠にからめとられ、何十もの分断化されたり理解不能だったりする存在へと解体され、過去10年、15年にわたり増した貧困、病気、低開発の問題に囚われている。脱植民地と独立を実現した、非連合運動やカリスマ的な指導者は消えた。民族紛争と局地戦争の警鐘的なパターンは、ボスニア人の悲劇的な例がしめすようにグローバルサウスにとどまらない形であちこちで登場するようになった。そして中米、中東、アジアのような場所ではアメリカがいまだに支配的な権力となっており、不安かついまだに統一されていないヨーロッパがその背後によたよたと付き従っている。
現在の世界状況の説明と、それを文化的、政治的に理解しようという試みが、いくつか驚くほど劇的な形で登場した。すでに原理主義については述べた。それに世俗的に対応するのはナショナリズムへの回帰と、各種の文明や文化の過激なちがいを強調する理論——すべてを包含するとでも言いたげなニセのものだと私は考える——などだ。たとえば最近ではハーバード大学のサミュエル・ハンチントン教授が、冷戦の二極状態がその後「文明の衝突」と彼が呼ぶものに取って代わられたという、あまり説得力のない議論を提示している。この理論は、西洋、儒教、イスラム文明その他いくつかが、水も漏らさぬ地区分類となり、その支持者たちは根っこのところではその他連中を排除するのにだけ関心があるのだ、と述べるものだ*6。
これはとんでもない話だ。というのも現代文化理論の大いなる進歩は、文化がハイブリッドで、異質であり、私が『文化と帝国主義1文化と帝国主義〈2〉』で述べたように、文化と文明はあまりに相互関連していて相互依存しているので、その固有性について統一的または単純に仕分けできるような記述はできないというほとんど普遍的な認識だからだ。今日「西側文明」について語るのは、おおむねイデオロギー的なフィクションとして、いくつかの価値観や思想 (そのどれも征服、移民、旅行、人々の混合など現在の西側諸国に入り混じったアイデンティティを与えたものの外側では大した意味を持たない) の現実離れした優位性という以外では不可能ではないか? これは特にアメリカについて言える。それは今日では、ちがった人種や文化の巨大なパリンプセストとして、問題ある征服、絶滅、そしてもちろん大量の文化政治的な業績を共有するものとして以外には間島に記述できない国なのだ。そしてこれは『オリエンタリズム』で含意されたメッセージの一つだ。文化や人々を別々のちがった種類の本質に無理に押し込めようとする試みはすべて、そこから生じるまちがった表象や誤謬を曝露するだけでなく、「オリエント/東洋」「西洋」といったものを生み出す権力と野合した理解を曝露するものなのだ。
ハンチントンや、その背後の意気揚々とした西側伝統の理論家や弁明者たち、たとえばフランシス・フクヤマなどが、世間の意識をかなりしっかり掌握していることを否定するものではない。かつては左派知識人だったのに、いまや社会政治扇動家へと退行したポール・ジョンソンの症例的な例を見ればそれは明らかだ。1993年4月18日号の『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』(決してどうでもいい刊行物ではない) で、ジョンソンは「植民地主義の復権:それも一瞬たりとも遅滞なく」と題した論説を発表した。その主要な発想は、「文明化した国家」は「文明化生活の最も基本的な条件が崩壊した」第三世界諸国を再植民地化する仕事を引き受けるべきであり、そのためには信託制度のシステムを課すべきだというものだ。彼自身の発言によれば、このモデルは明示的に19世紀植民地主義的なものだ、そこではヨーロッパ人たちが儲かる形で貿易するために政治的秩序を押しつけねばならなかったのだという。
ジョンソンの議論は、アメリカ政策担当者たちの成果、メディア、そしてもちろんアメリカ外交政策そのものと無数の水面下でつながる響きを持つものだ。アメリカ外交政策は、中東、ラテンアメリカ、東欧では介入主義的なままで、その他あらゆるところ、特にロシアと旧ソ連共和国に対しての政策についていえば、正直いって伝道的なものとなっている。だが重要な点は、西洋覇権という古い思想 (その一部がオリエンタリズムだ) と、広範な知識人、学者、アーティストたちの広い部分のサバルタン的で恵まれないコミュニティの中で根付いたもっと新しい思想との間に、ほとんど検討されていないが深刻な分断が、世間の意識の中で生じつつあるということだ。いまや、劣った人々——かつて植民地化され、奴隷化され、抑圧された人々——が年配の欧米男性を除けば考慮されないということはもはやないというのは驚くべきことだ。女性、マイノリティ、周縁化された人々の意識には革命が生じ、それがあまりに強力なので世界的な主流の思考にも影響しつつある。1970年代に『オリエンタリズム』の執筆をしていたときには、少しはそれを感じてはいたが、いまやそれがあまりに劇的なまでに明確となっていて、本気で文化の学術理論的な研究に関わる人々はだれしも注意を払わざるを得なくなっているのだ。
二つの広い潮流が区別できる。ポストコロニアリズムとポストモダニズムだ。どちらも「ポスト」とついているのは、それを超えるという意味よりはむしろエラ・ショハトがポストコロニアルに関する重要な論説で述べるように「連続性と非連続性を示唆するが、その力点は古い植民地主義的な手口の新しいモデルにあり『超える』ことにあるのではない」*7。ポストコロニアリズムもポストモダニズムも、どちらも1980年代に関連した取り組み対象として台頭し、『オリエンタリズム』のような作品などを先例として考慮しているようだ。ここでそれぞれの単語を取り巻く大量の用語をめぐる論争に深入りするのは、その一部はこうした用語で「ポスト」の後にハイフンが入るべきかどうか、といった話に延々とこだわったりしていることもあって、不可能だ。ここでの論点はしたがって、過剰だったりお笑いだったりする専門用語の孤立した事例について語ることではなく、1978年に刊行された本の観点から見て、ある程度までそれが1994年に関わりを持っていると思われる、潮流と活動を見極めることだ。
新しい政治経済的秩序をめぐる最も説得力ある研究の大半は、最近の論衡でハリー・マグドフが「グローバル化」と呼んだものに関連している。これは小規模な金融エリートが全地球にその権力を拡大し、商品やサービスの価格をつり上げ、富を低所得部門 (通常は非西洋世界) から高所得国に再分配するシステムだ*8。これと共に、マサオ・ミヨシとアリフ・ディルリクが厳格な用語で論じているように、国家がもはや国境を持たず、労働と所得はグローバルなマネージャだけに左右され、植民地主義が南の北に対する従属としてあらわれた新しい超国家的な秩序が登場している *9. ミヨシとディルリクはどちらも、多文化主義や「ポストコロニアル性」といった主題における西洋の学者たちの関心が実はグローバル権力の新たな現実からの文化知的な退却かもしれないことをさらに示している。ミヨシ曰く「我々が必要としているのは、厳密な政治経済的な検討であって」、カルチュラルスタディーズや多文化主義といった新分野に含まれる「リベラル派の自己欺瞞」が示すような「衒学的ご都合主義ではない」(751).
だがこうした命令を深刻に受けとるにしても (そして受けとるべきだ)、ポストモダニズムとそのかなりちがった相方たるポストコロニアリズムへの関心が生じたことには、歴史的体験のしっかりした基盤がある。まず前者にはずっとつよいヨーロッパ中心主義的なバイアスがあるし、地元と制約されたもの、さらにはほとんど装飾的な歴史性の軽さ、パスティーシュ、そして何よりも消費者主義を強調する理論的かつ審美的な強調の過多がある。
ポストコロニアルの最初期の研究は、アンワール・アブデル・マレク、サミール・アミン、C・L・R・ジェイムズといった立派な思想家によるもので、そのほとんどすべては完成した政治的独立や、不完全な解放主義者的プロジェクトの観点から行われた支配と統制の研究に基づいていた。だが、ポストモダニズムはその最も有名なプログラム的表現 (ジャン=フランソワ・リオタールのもの) が解放と啓蒙の大きな物語消失を強調しているとはいえ、第1世代のポストコロニアルアーティストや学者たちが行った研究の背後にある力点は、その正反対だ。大きな物語は残っているが、その実装と実現は現在は中断、先送り、または迂回されている、というものだ。この、ポストコロニアリズムの緊急の歴史的、政治的な課題意識と、ポストモダニズムのかなりの超然ぶりとの決定的な違いは、両者の間にある程度の重なり合い (たとえば「魔術的リアリズム」の技法) などの共通点はあるものの、まったくちがったアプローチと結果を生み出している。
1980年代初頭から実に劇的に繁殖してきた最高のポストコロニアル研究の大半においては、極致的、地域的、制約を受けた者たちにあまり力点が置かれていないと示唆するのはまちがっていると私は思う。力点はある。だが私から見ると、それが最も興味深い形でつながっているのは、普遍的な懸念事項群に対する全般的なアプローチにおいてであり、そうした懸念事項のすべては解放、歴史と文化に対する修正主義敵態度、何度も登場する理論的モデルやスタイルの広範な使用と関連している。主導的なモチーフは、ヨーロッパ中心主義と父権主義の一貫した批判だ。1980年代の欧米の大学キャンパスでは、学生と教授陣が共に、中核カリキュラムと呼ばれるものの学術的な焦点を広げて、女性、非ヨーロッパアーティストや思想家、サバルタンたちの作品を含めるように熱心に活動してきた。これに伴い、地域研究のアプローチに重要な変化が生じた。それは長いこと古典的オリエンタリストやそれに相当する人々が掌握していたものなのだ。人類学、政治学、文学、社会学、そして何より歴史学は、情報源の後半な批判、理論の導入、ヨーロッパ中心主義の観点解体の影響を実感した。最も見事な修正主義的研究は、中東研究ではなく、サバルタンスタディーズの台頭に伴いインド学の分野で生じたものかもしれない。ラナジット・グーハ率いる驚異的な学者や研究者の集団が実施したものだ。彼らの狙いは、歴史記録学の革命としか言い様のないものであり、その目先の目標はインド史の記述を、ナショナリスト的エリートの独占から救済して、そこに都市貧困者と地方大衆の重要な役割を回復させるというものだ。こうしたほぼ学術的な研究について、それが簡単に懐柔されて「トランスナショナル」なネオコロニアリズムに奉仕させられるとだけ述べるのはまちがっていると私は思う。後の落とし穴については警告しつつも実績については記録して認めるべきだ。
私にとって特に興味深かったのはポストコロニアル的な懸念を地理の問題に拡張したことだった。結局のところ、オリエンタリズムというのは何世紀にもわたり、東洋と西洋とを分ける、乗り越えられない亀裂と思われていたものの再考に基づく研究なのだ。私の狙いは、すでに述べた通り、ちがいそのものを否定することではない——というのも人間たちの関係における国民的、文化的なちがいの建設的な役割をだれが否定できようか——むしろその差が敵意を含意した、対立した本質の実体化され凍結されたものだと考え、そうしたものから構築される対立的な知識丸ごとに異議を申し立てるのが私の狙いだ。『オリエンタリズム』で主張したのは、何世代もの敵意、戦争、帝国支配を刺激してきた分離や紛争を捕らえる新しい方法だった。そして実際、ポストコロニアル研究における最も興味深い展開は、正典とも言うべき文か作品の再読だ。それらをひきずりおろしたり、汚物を投げつけたりすることではなく、その想定の一部を再検討し、何やら主人と奴隷の二項対立のバージョンがそうした作品をおさえつけている状態を超えることだ。これは驚くほど豊穣な、ラシュディ『真夜中の子供たち』のような小説、C・L・R・ジェイムズのナラティブ、エメ・セゼールやデレク・ウォルコットの詩などに比肩する影響を持っていた。こうした作品においては、大胆な新しい形式面での業績が実質的に植民地主義の歴史的体験の再奪取であり、再活性化されて、共有としばしば超越的な再定式かの新しい美学に変換されているのだ。
そうしたものは、1980年にフィールドデイという集合体を結成した傑出したアイルランド作家たちの作品にも見られる。彼らの作品集の序文は彼らについてこう述べる。
[こうした作家は] フィールドデイが、[アイルランドと北部の] 現在の状況の症状でもあり原因ともなった、確立された意見、ウソやステレオタイプについて分析を提供することで、現在の危機の解決に貢献できるし、そうすべきだと信じていた。憲法的、政治的な取り決めの崩壊と、それらが抑え阻止するよう設計されていたはずの暴力の復活は、これを共和国よりも北部でもっと緊急の要件にした。(中略) したがってこの集団は、一連のパンフレット [それに加えてシームス・ヒーニーの見事な一連の詩、シームス・ディーンの論説、ブライアン・フリエルとトム・パウリンの戯曲] を刊行し、そこでアイルランド問題の性質が検討できるようにして、結果としてこれまでよりももっとうまい形で取り組めるように乗り出すことに決めたのである *10
かつては人々と文化の地理的な分離に基づいていた歴史的体験を再考して再定式化するという発想は、実に大量の学術批評研究の核心にある。たった三つだけ例を挙げると、 Ammiel Alcalayの After Arabs and Jews: Remaking Levantine Culture、Paul Gilroy The Black Atlantic: Modernity and Double-Consciousness, および Moira Ferguson Subject to Others: British Women Writers and Colonial Slavery, 1670-1834*11 などだ。
こうした作品では、かつてある人々、ジェンダー、人種、階級だけのものと思われていた領域が再検討されて、その他の人々が慣用していたことが示された。長きにわたりアラブとユダヤ人の戦場として示されてきたレバントは、アルカレイの本では両方の人々に共通の地中海文化として立ち現れてくる。ギルロイによれば、似たようなプロセスが、これまでは主にヨーロッパの海路と思われてきた大西洋の認知をも変え、それどころか二重化する。そしてイギリスの奴隷所有者とアフリカの黒人との対立関係再検討においてファーガソンは男女を分けるもっと複雑なパターンを突出させ、その結果としてアフリカでは新しい降格や断絶が生じたことを示す。
こうした例はいくらでも挙げられる。ここでは最後に簡潔に、文化政治現象としてのオリエンタリズムに対する私の関心が始まった敵対関係や不平等はいまだに存在するとはいえ、いまや少なくともそれらが永遠の秩序をあらわすものではなく歴史的な体験を示すものでありその終わり、あるいは少なくとも部分的な是正が手の届くところにきている、ということが全般的に受け入れられるようになっているとだけ述べておく。15年にわたる華々しい年月が与えてくれた距離感と、思考や人間関係に対する帝国主義的な軛の影響を減らす、大量の新しい解釈的、学術的な事業が出回るようになったことで、『オリエンタリズム』は少なくとも、おのれを公然とその闘争に参加させるという利点は得られた。その闘争はもちろん「西洋」と「東洋」の両方で継続するものなのだ。
E.W. S.
ニューヨーク、1994年3月
*1:Martin Bernal, Black Athena (New Brunswick, NJ: Rutgers University Press, Volume I, 1987; Volume II, 1991) 邦訳マーティン・バナール『ブラック・アテナ―古代ギリシア文明のアフロ・アジア的ルーツ〈1〉古代ギリシアの捏造1785‐1985 (グローバルネットワーク21“人類再生シリーズ”)』(新評論)、『黒いアテナ 2 〔上巻〕―古典文明のアフロ・アジア的ルーツ 考古学と文書にみる証拠 上巻』(藤原書店); Eric J. Hobsbawm and Terence Rangers, eds., The Invention of Tradition (Cambridge: Cambridge University Press, 1984 ) 邦訳ホブスボウム&レンジャー編『創られた伝統 (文化人類学叢書)』(紀伊國屋書店, 1992).
*2:O'Hanlon and Washbrook, "After Orientalism: Culture, Criticism, and Politics in the Third World;" Prakash, "Can the Subaltern Ride? A Reply to O'Hanlon and Washbrook," いずれも Comparative Studies in Society and History, IV, 9 (January 1992), 141-184 所収.
*3:あることさら雄弁な例として、ルイスの悪意ある一般化の習慣は法的トラブルを引き起こしたらしい。Liberation (March 1, 1994) とThe Guardian (March 8, 1994) によると、ルイスはフランスでアルメニア人組織と人権組織の提訴による刑事訴訟と民事訴訟に直面しているとのことだ。彼は、フランスにおいてナチスのホロコースト否定を犯罪としているのと同じ法文の下で起訴されており、彼に対する起訴内容は (フランス紙によると) オスマン帝国の下でアルメニアでの大量虐殺が起きたのを否定しているというものだ。
*4:Philadelphia: University of Pennsylvania Press, 1993.
*5:Ann Arbor: The University of Michigan Press, 1992.
*6:"The Clash of Civilizations," Foreign Affairs 71, 3 (Summer 1993), 22-49.
*7:"Notes on the 'Post-Colonial'," Social Text, 31/32 (1992), 106.
*8:Magdoff, "Globalisation-To What End?," Socialist Register 1992: New World Order?, ed. Ralph Milliband and Leo Panitch (New York: Monthly Review Press, 1992), 132.
*9:Miyoshi, "A Borderless World? From Colonialism to Trans-nationalism and the Decline of the Nation-State," Critical Inquiry, 19, 4 (Summer 1993), 726-51; Dirlik, "The Postcolonial Aura: Third World Criticism in the Age of Global Capitalism," Critical Inquiry, 20, 2 (Winter 1994), 328-56.
*10:Ireland's Field Day (London: Hutchinson, 1985), pp. Vll-Vlll.
*11:Alcalay (Minneapolis: University of Minnesota Press, 1993); Gilroy (Cambridge: Harvard University Press, 1993); Ferguson (London: Routledge, 1992).