チャンドラー『長いお別れ』と翻訳方針

昨日、チャンドラー『長いお別れ』の翻訳2章までやったが、その後ちゃらちゃらと終わったよ。

レイモンド・チャンドラー『The Long Goodbye』山形浩生訳

 ぼくがこれに手をつけた事情については、ここからの一連のツイートを見てほしい。

このツイートの先の方にもあるけれど、田口俊樹訳『長い別れ』の解説で杉江松恋が翻訳の比較をやっていて、それにつられて自分でも比較をしてみたのが発端。そしてそこにも書いたように、ぼくは村上春樹訳についての評価が非常に低い。チャンドラーは文章を簡潔にするためにかなり大胆な省略を行い、それがときにちょっとしたわかりにくさをもたらしている。でも、それは少し考えればわかるし、言われていることは非常に厳密だ。ところが村上春樹は、そのわかりにくさを曖昧さだと誤解して、そこに自分のもわっとした勝手な解釈と雰囲気を盛り込んでしまっている。これはいずれ、きちんと分析を示さないとね。

この翻訳は、この村上春樹訳に対する不満を自分なりに解消しようとしてやっている。そこでの方針は以下の通り。

  • 原文の意味は曲げない。
  • 原文の構造もなるべく温存し、可能なら一文は一文として訳す
  • できる限りことばは節約する。そのために、少しわかりやすさは犠牲にしてもいい。
  • 余計なことばは補わない。比喩を説明したりしない。

これはつまり、村上春樹訳はこれに反している、ということだ。

実はこれ、ぼくの普段のあらゆる翻訳の方針とあまり変わらない。そして、この方針のKPIは、文字数。簡潔さを旨とすれば、訳文は短くなる。

その方針をもとに頭からやってみたらどうなるか、という興味でぼくはこの翻訳をやってみているわけだ。そしてところどころで既訳と比べて見ているけれど、やっぱりここで受けた印象、特に村上訳についてのはまちがっていないと思う。

まあ、その確認作業のためだけにこの長い小説をどこまで訳すかは、気分次第ではある。ただ、早川書房がこの村上訳をチャンドラーの新訳として採用したのは、ぼくは残念だとは思う。以前の清水俊二訳は、杉江松恋も述べるように、細かいところを端折る傾向がある。でもそれが訳文の簡潔さを創り出し、結果としてハードボイルドの雰囲気を生み出せていた。それが意図的なのか怪我の功名なのかはわからないけれど。それをハードボイルド的な文体とは正反対の方向性を持った村上春樹訳に差し替えるのは、商業的にはいいんだろうが、チャンドラー的にはあまりよくないとは思う。

ついでながらもう一つ。この作品にはもう一つ別の翻訳がある。小鳥遊書房から出ている『ザ・ロング・グッドバイ』だ。

www.tkns-shobou.co.jp

比較として公平を期すため、清水俊二、村上春樹、田口俊樹に加え、この市川亮平訳も参照しようかと思った。

だけれど、ここのページにある立ち読み部分を参照すると、うーん。非常にサービス精神はあって、地図や家の略図を作ってくれたり、その意味ではありがたい。が、そのサービス精神のために原文をかなりいじって、なまじわかりやすくしてくれようとするのが裏目に出ている。たとえばシルヴィア・レノックスについて駐車係が「them curves and all」と評するところを、市川訳では「ボインでくびれの金持ち女が」にしてしまっている。身体の曲線の話はしているが、これほど露骨じゃないし、「金持ち女」なんて出てこない。そしてその表現の下品さがチャンドラー的な書きぶりと整合していない。全体にこんなふうに、なんでも頑張って説明してあげようという気持はわかるんだけれど、かならずしも的を射ていない部分も多い。このため、比較に入れるのは断念した。こういう市井の趣味人の活動は応援したい気持はすごくあるんだけど……