レイモンド・チャンドラーの改訳、シリーズ化して次は『さよなら、愛しき女よ』を始めました。おー、映画化にはシャーロット・ランプリング様が出ていらしたのね!
最初の5章と最後の章がまずは終わっている。当然ながら、村上春樹訳と比べてるが……相変わらず下手だね。1940年の本に、1949年登場のマンガキャラが引用されているというトンデモな注とか、校閲者はチェックしなかったのか??
それとは別に、チャンドラー自身の発達がわかるのもおもしろい。『長いお別れ』では文体の特徴として「〜のような」という形容がほぼないことを指摘した。「彼女の一言は、ナイフで切りつけられたように痛かった」とは絶対書かない。「彼女の一言はナイフのようだった」とすら書かない。「彼女の一言は、ナイフだった」と書く。ところがこの『さよなら、愛しき女よ』では、まだ「〜のような」が頻出している。まだこの時点ではチャンドラーとしてのハードボイルド文体が完成していなかったことがわかる。
村上春樹は、自分はチャンドラーの文体に影響を受けた、と述べている。でも『長いお別れ』で度々指摘したように、彼は実はチャンドラーの文体に対して非常に鈍感だし、彼の文体はむしろチャンドラー的な具体性とは正反対の、ほんわかした曖昧さで成り立っている。それは『長いお別れ』の翻訳では、非常に悪い方向に作用していた。
でもこちらでは、チャンドラーのほうが文体が未完成なおかげで、村上春樹のあまりわかっていない、文体に鈍感な翻訳でもあまりその欠点があらわにならずに済んでいる。
いろんなネット上の感想分を読んでも、チャンドラーは文体がすばらしいとか、村上訳は文体が、みたいな世迷い言をたくさん見かける。みんなの言っている文体というのは、なんかフィリップ・マーロウがすかしてみせるとか、そんな話なんだよね。でもそんなのは文体じゃないから……というのは言い過ぎだが、文体の中でもごく表面的な話でしかないとは思う。
この本は『長いお別れ』より四割ほど短いので、すぐに終わるんじゃないかな、とは思う(終わった)。ヘリコニアもあるし、どんな具合に進むかはわからないけれど。あと、清水訳は、なぜか注文した中古本がまだ届かないのでコメントつけてないが、おそらく『長いお別れ』と同じで、たくさん端折ってるけれど簡潔でいい、ということにはなりそう。
