スタニスワフ・レム『SFと未来学』2.1章:SFジャンルの定義……分類のための分類

はじめに

スタニスワフ・レム『SFと未来学』のドイツ語からの重訳を進めている話はした。

cruel.hatenablog.com

で、本をスキャン屋に出すことにしたんだけれど、それまでにもう1/3章を自分でスキャンしてやってみました。以下の2.1「空想的なものの比較存在論」。

スタニスワフ・レム『SFと未来学 I』

そして……壮絶なまでにひどいと言わざるを得ない。

そう言っても、実際にファイルを開いて見てくれる人すらほとんどいないのは知っている。だけれど、ちょっとそれをやってもらうと、一目見て一体何を言っているかわからない晦渋な文章なのはすぐに理解できるはず。そして、いったい何の話をしようとしているのかさえわからないだろう。

ここでレムがやろうとしているのは、SFとファンタジー、ホラーといったジャンルの定義なのだ。まずは、そのまとめを以下に。

2.1 空想的なものの比較存在論

  • おとぎ話は、超自然的なもの、空想的なもの (魔法とかドラゴンとか) がある世界を描くが、勧善懲悪、悪い魔法使いは死ぬとか、この世界の道徳観、倫理観が実現されるという世界。空想的なものが普通に存在し、そういう世界秩序なのだという前提がある。

  • ファンタジーは、空想的なものはあるけれど、必ずしもこの世界の道徳観や倫理観が実現されない。基本はこの世の世界秩序を前提としつつ、そこに超自然が世界の前提として入り込んでいる。

  • SFは、一見超自然的なものは登場する。だけれど、最終的にはそれはよく見たらやはり科学なり何なりで、共通の基盤があることが確認され、この世の秩序を追認するのが特徴。

  • ホラーは、いまの世界の秩序が前提。そこに超自然的なものが入り込んできて、いまの世界の秩序が破壊されるのが特徴。ただし、その超自然的なもの (お化けにせよ何にせよ) にはお約束事がある。

  • 神話は、この世界の(あるべき)秩序を定めるお話として機能する。それは人間がすべて作り上げたものではなく、何か神聖なものから下された、またはそういう要素を含む世界を包む物語。その神聖な部分を除くとおとぎ話になる。

これだけ。

感想

まず、おとぎ話、ファンタジー、ホラー、神話、SFのジャンル分類というお話自体が、たぶんぼくの年代の人にはあまりに懐かしいものではある。かつて大学SF研などで、SFは文学になれるかとか、ファンタジーはSFに入れて良いのか、とかアニメはSFか、とかSFの起源をゴーレムの話とかイザナギ/イザナミ話にまでさかのぼらせていいのかとか、その手の話は山ほどやった。そして、いまにして思えばだいたい不毛な話ばかりではあった。

おそらく、そうしたジャンル定義論みたいな話は、日本の大学SF研に限った話ではなかったんだろう。推理小説、SFがだんだん普及してくるなかで、二流扱いされるのに不満を抱き、文学性のあるSFとか、レイモンド・チャンドラーは文学だとか、その手の話はいっぱいあった。

そしてそうやってジャンルとして背伸びしようとする中で、いやファンタジーなんてままごとだ、おれたち高尚な未来の文学SFといっしょにすんな、みたいなくだらない虚勢は見られた。それは欧米でも同じだった。そしてその中で、じゃあその両者はどうちがうのか、みたいな話はたくさんあった。それはまあ、内輪のお話としては楽しいこともあった。でもそれ以上じゃない。

レムの話は、そういう酒場談義を一歩も出るものじゃない。

この節でレムは、空想的なものを扱う各種小説ジャンルが、作品構造の面で明確にちがっている、つまりはこうしたジャンル分類が正当だということを言いたいわけだ。まあ、いいんですけど。

でも上のことを言うのに、レムは原書で50頁もかけている。なんでそんなにかかるの?

それは、レムがなんと言おうと、そもそもこういうジャンル毎の差が、実にチマチマしてどうでもいいものだから。それぞれが重なる部分だって多い。だからその区別をすっぱりと表現するのは無理だ。それを無理矢理何か区別しようとすると、何か細かい差異をでっちあげて、それをこちゃこちゃ説明するしかない。

ファンタジーは、存在論的におとぎ話よりは現実に近い。もちろん、これは厳格にそうでなければいけないわけではなく、おとぎ話に典型的でない行動の可能性がファンタジーにはあるというだけだ。創作者はそれを利用はできるが、利用しなければならないわけではない。特に、芸術ではよくあるように、新しいルールは古い規範が意図的破壊される場を意識的に決めることからではなく、創造的努力で規範的な美的枠組みを、ほぼ反射的に破る点から生じるので、創造者はそんなものの存在に気づいてもいないことが多いのだ。おとぎ話、神話、ファンタジー、SF の存在論的原理は、構築する存在が共通の分母——基本秩序が同じ、つまり均質——を持つという点で一致する。おとぎ話世界は、肯定的な登場人物を受け入れる準備ができている。ただし通常、登場人物は最初それを知らない。だが、ルールがその人々の幸福と保護の義務を正確に果たすことが常に判明する。神話の世界も英雄を受け入れる準備ができているが、その英雄は友にも敵にもなりうる。おとぎ話の登場人物が世界の絶対的善意を知らないように、神話の英雄もそれを知らない。神話の宇宙は、おそらく神々か盲目的な偶然で動くホメオスタットで、おとぎ話と同様に通常決定論的だが、人間以外の未知の目標を追い続ける。その「義務」は秘められたもので、必ずしも敵対的ではないが、常に人間の運命を完全に決定する。一方、おとぎ話宇宙の義務は、最良の住人の運命の最適化と完全に一致する。[色をつけたのは引用者]

ぱっと見て目が拒絶すると思う。そして本当にひどいんだ。

まず技術大全と同じく、実は要らない部分だらけ。上で、黄土色にした部分は本題と関係ない脇道の細かい話。「そうでないこともあるがそれはこういうふうに解釈すればこの枠組みになんとかおさまる」という弁解部分だ。それが全体の半分以上。

さらに冒頭の、おとぎ話についての説明と、真ん中のSFやファンタジーやおとぎ話が共通分母を持つという話、そして最後あたりの神話がどうしたいう話は、話の流れからしてまったく別の話題。一つの段落にしちゃいけない。

そもそも神話の話なんて、それまでほぼ出てきていない。お話のジャンルとして検討するなら、ちゃんと分けろよ。神話とおとぎ話の対比の段落を、別建てでつくるべき代物。それをいっしょくたにしてるから、この段落の見通しはすさまじく悪化している。レムさん、書いたもの読み返して推敲してます? その場で思ったことをひたすら垂れ流してるでしょう。この手の整理されない長ったらしい段落がいくつもいくつも続く。

また言い方もいちいち面倒くさい。この節の題名は「空想的なものの比較存在論」だ。存在論って、オントロジー。正直、わかったようなわからんような言葉だが、レムはやたらにこの用語を使う。SFにおける前提の存在論的な根拠が認識論的な志向と一致することで内在的な世界の意味論を構築し云々。

でも「存在論」というのはここでは単に、ジャンルとしての特徴、というだけの意味なのだ。そんなこむずかしい書き方をする必要ないでしょうに。

そしてまた、こうした重なり合いの多いはっきり区別できないものだから、そこにあてはまらない話もたくさん出てくる。それをレムはいちいち「ああいう場合もある、こういう場合もある」とさらにウダウダしく書く。

たとえば上で挙げた、おとぎ話のジャンル的特徴について、レムは厳密ぶってこんな「定義」をする。

本書では古典おとぎ話の存在論を次のように述べる:その世界は現実世界に対して、局所的および非局所的な意味で二重に超自然的だ。局所的な奇跡は「ひらけゴマ!」の山、空飛ぶ絨毯、命の泉、袋から出てくる棍棒、透明マントだ。非局所的奇跡はあらゆる出現物の先天的調和だ。この世界は、完全なホメオスタシスとして最善の均衡を志向する、実に謎めいた制御装置が組み込まれており、利益と損失、生の蘇生と死は「功績に応じて」理想的に分配される。悪には悪、善には善が最終的に与えられる。童話内のすべての変容は価値論による制御を受け、善く美しいものが常に悪く醜いものを倒すので、価値が因果の最高権威である存在論なのだ。この世界の物理学は、我々の身体の生物学に似ていて、すべての傷が最終的には癒える。

はあ……厳密にしたつもりであれこれ言葉を重ねているけれど、たいしたこと言ってないよね。おとぎ話は魔法があるし、勧善懲悪、因果応報みたいな教訓話が含まれてる、というだけだよね。それをむずかしげに書いてるけど、レムの自己満足にすぎないよね。それは、レム自身が頭の中に持っている分類体系としては重要なのかもしれない。でも……何のためにそんなことをしてるの?

うん、それが……よくわかんないのだ。彼はどうも、分類そのものがしたいだけ、のようではある。

分類そのものが大事?

これに類する文の邦訳がある。レム・コレクション『高い城・文学エッセイ』に収録された「ツヴェタン・トドロフの幻想的な文学理論」というやつ。

これもさんざんウダウダしく書かれていて、読むだけで一苦労だ。が、そこで言われているのは実につまらないことで、トドロフの分類はサンプルが少なすぎて偏っている、そこにきちんとおさまりきらない、あてはまらないものもあるぞ、それに彼が設定した軸以外のものだって考えられるぞというだけ。

そんなの、厳密でなくてもだいたいそこでの議論のための目安になりゃいいじゃん、と思うのが普通の人だ。サンプルは、説明しやすいものを例示しただけで、それだけしか見ていないわけじゃないのでは? 軸だって、他にもあるだろうけれど、別にそれでトドロフの軸がだめになるわけじゃない。それで何を言うかに基づいてその軸の有用性を判断すればいいのではないの? おブンガクの学者はちがうかもしれないけれど。でも、レムはもちろん、そんな雑なことは許さない。きっちり厳密に分類できなきゃいけない。構造主義って言うんだから、すべてがその構造にきっちりおさまらなきゃいけないのだ。

文学理論はあらゆる作品を包括するか、どんな理論でもないかのどちらかである。(中略) 理論を構築しながら、作品のあるグループのみを分析対象から排除することは許されない。分類学的傾向を持つ理論は、時には考察されている対象を序列化し、全集合の要素に対し非均一な価値を定めることができるし、そうせざるを得ない。しかしそれは、その理論自体の展開として行われなければならない (pp.271-2)

よってトドロフの文学理論はクソだ、というのがレムの主張。この論説の中はずっと、トドロフの理論はこんなのもあてはまらない、あっちもあてはまらない、という揚げ足取りばかり。

そんなのさあ、特に小説とかであれば、一流作品ほどそうしたジャンルの枠を超えるのよ。ある種の類型にきちんとおさまるのは、むしろ二流の作品だけ。それは以前訳したラヴジョイも言っています。SFがジャンル類型で話しやすいのは、まさにそのほとんどが二流ではあるから、なのだ。

そういう揚げ足をとりたいなら、レムさん自身だって、たとえば『ダンジョン飯』は上の分類のどこに入る? ある種のハッピーエンドだから、現世の理念的な規範の裏付けでおとぎ話だなあ。でもファンタジーでもあるよね。いろいろな料理や怪物はに合理的な説明もつくから、SFでもあるよね。そしてある種の神話的な部分も持っている。全部に入るし、全部に入らない。レムの分類だってクソだってことになるじゃん。

これはレムの大好きな『スターウォーズ』についてだって言えることだ。設定はSF、非科学的なフォースがあるファンタジー、勧善懲悪の予定調和のおとぎ話。神話的な部分もある。全部に入るし、全部に入らない。レムの分類だってクソだってことになるじゃん。

でもそれはさておき、レムとしては、こういう分類をすることが大事だ、ということらしい。それがこの先の理論展開に何か意味を持つのか、というのは……ぼくは非常に怪しいと思うが、お手並み拝見ではある。オントロジーに基づく分類とそれが需要される認識論としての分類はちがって〜とか言い出すんじゃないかな。でも、こういう分類のための分類は、ぼくはあまり興味持てない……といいつつ訳しちまうのは、我ながらバカだね。

 

が、本はすでにスキャン屋に送ったので、続きは冬になってからですな。

追記

いま、このトドロフへのケチつけを確認するために『高い城・文学エッセイ』を見ていたら、編訳者のあとがきで沼野充義がこう書いているのに初めて気がついた。

いまからほとんど三十年ほども前、サンリオという会社がSF文庫を大々的に立ち上げることになり、わが尊敬するSF作家の山野浩一氏が中心になって、奇跡的とも呼ぶべき意欲的なラインナップを準備し、およそSFの通常の商業出版の範疇には入らないような著作の版権を次々に取得したのだった。その中には、レムの理論的業績における主著というべき『SFと未来学』(1970)という巨大な本も入っており、私がその訳者として山野氏に指名されたのだ。当時まだ二十歳そこそこの若造にしてみれば、有頂天にさせられるほどの大抜擢である。この著作がどれほど踏破しがたい難物かということもろくに認識しないまま、私は張り切って引き受けたのだが、その後、この本を一ページも訳せないままついに今日まできてしまった。(p.432, 執筆は2004年)

えー、一ページもやってなかったんですかー!! まあ、「踏破しがたい難物」というのは事実ではある。あと、この本に出ている実に簡単な「紹介」を見ると、沼野充義はたぶん『技術大全』読んでないな。

 

あと、このトドロフ罵倒は、1973年、つまり『SFと未来学』の少し後に書かれたわけだ。この時点では、レムは自分がSFその他についての決定的なジャンル分類と構造化を実現したつもりでかなりイキってたんだろうね。

 

で、続きは以下。

cruel.hatenablog.com