スタニスワフ・レム『SFと未来学』第10章「エロスとセックス」

はじめに

はい続き。スタニスワフ・レム『SFと未来学』第10章「エロスとセックス」。まあ楽しいエロ話が展開されるわけがないのは百も承知ではあったが、ここまで無味乾燥とは予想しておりませんでした。

スタニスワフ・レム『SFと未来学 II』

あらすじ

10.1 序論

セックスは、ヒトという種の存続には不可欠なんだけれど、セックスしなけりゃ死ぬってわけじゃない。これは料理と同じ。食べなきゃ死ぬし、食べると喜びを感じるけれど、そのための料理というのは、必要ではあるがいろんなやり方があるので、そこに文化がいろいろ入り込む。セックスもそれと同じ。セックスの喜びは、このためにいろんな文化的な意味づけが行われてきた。

10.2 文化とセックス

文化におけるセックスは、一方では宗教的な崇高な儀式としてセックスを位置づける発想がある。真ん中に一般人の普通のセックスがあって、その下に各種変態セックスが位置づけられる。

この中でキリスト教文化は、セックスを最小限にしようとして、それを結婚の中に位置づけ、快楽を制限しようとした。その一方で、キンゼイ報告に見られるように、セックスを生殖と切り離して単なる快楽を得る手段とする動きが出てきた。でも、それは一方で文化的な意味づけを殺す方向性でもある。

10.3 ポルノとSF

ポルノというのは、いくら見ても実際のセックスにはかなわない。そのため、どんどん過激化して言葉がインフレを起こすしかない。サドはそうなっているし、それを自覚的にやっている。現在の文化を前提にして、それを否定してみせることばを紡ぐ。だがそれはいくらやっても、文化そのものを破壊はできないし、サドはそれをわかってやっている。一方、ポーランドのレシュミアンは、何もないところに言葉を紡いで、何も生み出せないのを知りつつ、それでも何かできるかも、という希望をつなぐものとなっている。

10.4 宇宙の性生活

しばらく前は、SFはやたらにおきれいでエロがなかった。あっても、ただのお飾り。でも最近になって、セックスをテーマにするようなものが出てきた。だがひどいものばかり。女がひたすら宇宙人と乱交してすぐに宇宙人の子供を宿すようなバカな話が乱立。しかもその宇宙人の性生活は、地球の動物たちの変な性生活に比べれば想像力のかけらもない。

フリッツ・ライバー『銀の知識人たち』は、ロボットたちが奔放なセックスにふける様子が描かれていてちょっとおもしろいが、セックスについて何ら深い洞察はない。一方、フリーセックスに影響されたニューウェーブ派の作品では、登場人物がやたらにセックスするけれど、まったく意味なく唐突で、ただヤッておしまい。従来の規範に反抗してみせるが代わりに何も生み出せない。ファーマー『恋人たち』は、オルガズムを受精の条件にするという、意味のない設定をつけたけれど、これはオルガズムに進化的意味を持たせる意図があった。バラードとかのセックスはそれもなく、セックスがニヒリズムに堕している。

そしていまやセックスがお手軽になってしまったので、それをかつてのような崇高な位置づけにする試みはむずかしい。それが次第に義務的な機械的なものとなり、そうなればアンドロイド相手だろうと何も変わらないことになる。イドリス・シーブライト「胸の中の短絡」はそれを軍事化社会とからめてなかなかよい。

SFはそういうのをまったく扱わない。スタージョン作品は、あらゆる身体接触を恐れて一夫一婦制にばかりこだわる、お上品な道徳観のかたまり。それを指摘できない(できてもそれが広まらない)SF産業ってろくでもないね。

試験管ベビーにより、種の再生産も完全にセックスとは切り離される。ハックスレー『すばらしき新世界』はそういうのを考えていて、それが管理社会的に悪用される可能性も考えている。でもそれで試験管ベビーを否定してはいけない。また優生学もナチスのせいで全面否定されているけれど、でも病気を治したりする、よい優生学の可能性を否定してはいけない

だがそうなったときのセックスの位置づけはどうなる? 人体改造で性感帯をどんな形にもしたりできるだろう。そうなると変態セックスとか、意味がなくなる。するとどうなるかはまったくわからない。

[注: ここからの『闇の左手』(1969)の話は、後の版での加筆ではないかと思われるが、はっきりしない]

ところで、最近ル=グウィン『闇の左手』が話題になっている。ある星にいったら、そこの人たちは月に一度だけ発情期になって、そのときに完全に偶然で男か女になってセックスして、あとは性をもたないだけの普通の人間として暮らすという設定。

よく書けてるけど、セックス/性のはなしが全然深掘りされていない。その月1の発情期以外は人間と文化も何もすべて同じという設定だけど、そんなわけないじゃん。自分が毎月、男になるか女になるかという自由とそれに伴う未知は、それをめぐるまったくちがった哲学や社会性を生み出すはずだろ。

ル=グウィンは単に、いまの人間に対するゆがんだ鏡が欲しかっただけで、まじめに性のことを考えるつもりじゃなかったのはわかるけど、せっかくの機会が無駄遣いされて惜しいね。ただし、そうしたゆがんだ鏡により人間自身を見直すというのは、リアリズム文学でな不可能なSFの可能性であり強みでもあることがこの作品を見るとわかる。

感想

結局レムとしては、セックスそのものを即物的に描くだけじゃだめで、それが種の再生産との関わりの中で文化的に持つ意味合いをもっと真面目に考えろ、と言いたいわけですな。

その主張はわかるし、確かにごもっとも。SFはそういう可能性は十分にある。それが活用されていないというのは、その通りかもしれない。生殖と切り離された快楽だけの重視がセックスの意味を変え、そして試験管ベビーがそれを完全に裏付けるというのはおっしゃる通り。1970年当時は人口爆発が最大の問題だったのでレムはまったく考えていないけれど、いまや人口減が深刻な問題になっている中で、種の存続のために試験管ベビーの大規模導入を考えねばならなくなるかもしれないし、いろんな可能性はある。

が、それを言うときに、まずSFはバカ、幼稚、ヴィクトリア朝時代の道徳観に浸りきってる、と罵倒する意味があるのかね。

そしてレムのこの主張、セックスそのものについての熱意みたいなものがきわめて希薄。なんだかんだ言いつつ、ポルノ読みたいよね、ちょっとその話したくなるよね、というような普通の人間的な好奇心がまったく見られない。エロって言っておいて、出てくるのはサドの話だけで、エロのすべては文化侵犯との関わりで語ればすむような書きぶり。セックスと言って、「生殖」と「快楽」とだけ言えばすむような書きぶり。セックスが持っている、肌の触れあいを通じた人間関係の確認とかそういう意味合いについての言及は一切なし。この酷薄さは、本当にレムの人間嫌いを露骨に反映しているとは思う。そういうの考慮すると、初期バラードとかに出てくるセックスの持つ虚無感とか、もう少しまともなことが言えるのでは? でもレムは、そういうの考慮できないんだよね。以前書いた通りだ。

cruel.org

だから、ル=グウィン『闇の左手』について、ゲセン人の性的なありかたが文化や社会に与える影響について考慮していないと言い始めたときには、ひやひやしましたよ。このまま「だからル=グウィンなんてまったくどうしようもない軽薄なバカ」で終わらせる気じゃないかと思った。でも最後の最後で、「でもあれはいまの人類を映し出すための仕掛けだからね、それができるのはSFの強みだよね」と無理矢理落としてくれたのにはほっとしました。いろいろ初版で、罵倒しすぎと言われて反省したのかもしれない。

 

あと、レムはこの本のあちこちでイドリス・シーブライト「胸の中の短絡」をやたらに持ち上げるんだけど、悪くないけどそんな大傑作とも思えない……

次回は!

次回は、人間と超人。どうせ、SFは馬鹿なスーパーマン妄想にふけっていてアホ、ステープルドンはすごいと言うんでしょ。もうだいたい読めてるんだよね。が、まあお手並み拝見。