
はじめに
はい続き。スタニスワフ・レム『SFと未来学』第14章「ユートピアと未来学」。SFの定番であるユートピア/ディストピア小説。
前章はすばらしい章で、レムのやりたいこともわかったし、その鑑識眼もわかった。なもんで、この章についても期待は高まっていた。少しは欠点があっても目をつぶってあげるくらいのつもりではいた。が……ちょっとこれまでに輪をかけたひどさで、いささか頭にきてしまったよ。
まずユートピアとかディストピアというので、オーウェル『1984』とかハックスリー『すばらしい新世界』とかの話が出てくるのかな、と思うでしょう。でも、そんなのが一切出てこない。出てくるのは、まずボルヘスの話。
なんだこれは。ボルヘスは嫌いではないが、「バベルの図書館」がユートピア小説?
次いで出てくるのがステープルドンの『最後にして最初の人間』。長大な、数十億年にわたる人類史と言っていいかもわからないものを、一行数千万年の速度でぶっとばす、年表小説。これのどこがユートピア小説なの?
そしてその後もハインライン『動乱2100』の未来史年表を持ち出す。あれが何かユートピアにせよディストピアにせよ、そういうものを描いているとはまったく思えないんだが……
もう、いったいレムが何を論じたいのかさっぱりわからなくなってくる。必死でこじつけてみると、どうもレムは何か将来についてのある種の観念に沿った世界のまとまりを描けば、それがユートピアということらしい。つまり未来予測的なものがあればユートピア小説の範疇だ。
いや、それはまったく一般性のない理解だろう。そんなのユートピアじゃないよ。
そしてその後は、SFのバカどもはつまらない技術予想は多少あっても、それが社会や文化に与える影響をまったく考えていないからだめだ、と例によって罵倒が続く。特にディストピア系の小説では、すぐにみんな部族社会や中世の封建制や神権政治の復活。理想郷か地獄かの二者択一しかなくて、中間の現実性あるモデルがまったく考慮されていない。だからクズばかりだ。
じゃあ最後にオレ様が模範演技を、と言って、何やらいかにもすごそうな27世紀の科学技術の水準をめぐる設定集をあげてみせて、さあそれでこの技術に基づく社会文化の見事な考察が出るんですか、ワクワク、と思ったら……
いろいろ複雑でむずかしいよねー。完全管理と自由の板挟みでまとまらなくなる。そういうの頑張って考察しないとねー。
それでおしまい。おまえさ、人にさんざんケチつけといて、自分はケツまくるわけ? なんだよ! ひどすぎるだろう! 前の章はまぐれだったんだね。もうがっかりです。
あらすじ
14.1 序論
(正直、要領を得ないことを延々書き連ねているだけで、何も言っていないに等しい。強いていうなら……)
宗教では、昔あった理想郷みたいなのをよく出してきて、それが復活するような話をするけれど、でも多くの宗教では現在こそが神の意図にしたがった完璧な社会だってことになってるから、必ずしもユートピアは宗教起源ってわけじゃないし、だんだんそういうのから離れた世俗的な観点からのユートピアも出てきた。SFのユートピアはその系譜だ。
14.2 空想的な哲学から歴史哲学的な空想へ
14.2.1 ボルヘスとステープルドン
ボルヘスの作品は、ある存在論を小説の中で現実の存在にしているという意味でユートピア的。哲学的な理念を実現する何らかの社会を描いているからね。でもおいらの『浴槽の中で発見された手記』もそういう理念を世界として描いたので同じくらいすごいぜ。
ステープルドン『最後にして最初の人間』は、個別エピソードはでたらめでツッコミどころ満載だし、書きぶりは下手くそで文学性皆無。でも、まずそれがいい! いまの人間から見たら、100万年後の科学技術なんてトンデモにしか見えないはずだから、描かれた技術にまったくリアリティがないのが、実はその優秀さの証拠なんだよ![読者の心の叫び:それはあまりにご都合主義なひいきの引き倒しでは] 人間が興亡を繰り返しつつだんだん高見にのぼっていくのがすごい。そういう人間中心のビジョンがあるのがすごい。でも技術発展の加速を考慮していないのはだめ。でもいまのSF作家どもはステープルドンの足下にも及ばない連中。[読者の心の叫び:でもユートピア小説じゃないよなあ、どう考えても]
14.2.2 SF のユートピアとディストピア
クラーク『幼年期の終わり』は、都合のいいオーバーロードが優しく地球人を導いてくれて、そしてそいつが実は悪魔のモデルで、さらに人類はそれより上のオーバーマインドになるけど、それで何をするかはわかりませんという、宗教テーマを重ねてもっともらしくするけど、でも結局何がどうなるのかは完全にごまかすインチキだよな。[読者の心の叫び:でもそもそもクラークはユートピア小説じゃないよなあ、どう考えても]
シェクリイとかバンチとか、理想郷に見えて実はよく見たらとんでもないひどい世界だった、というのを書いてるけど、人間嫌いの露悪小説。シマックやブラッドベリの世界は、科学技術否定の牧歌生活回帰の妄想。ディストピア小説は、ナチスが勝つか、第三次世界大戦で荒廃するか、コンピュータ支配の管理社会で、それを自由な個人が打破するようなものばっか。どれも、何も社会的な考察とか現実の可能性とかを考えず、極端な話をして悦に入ってる。
14.2.3 神話形成的な空想と社会学的空想
SFはユートピアを描いてもまともな構想力がない。ブラッドベリやシマックの牧歌的アルカディアは、人口が減らないと食いつなげないがまったくそんなこと考えていない。戦争があって社会が対抗するときには、中世封建制か神権政治か部族社会へ対抗。科学技術が発達したら そんな物に簡単に退行できるわけがない。アメリカのSF作家どもはリベラルで進歩的な社会観に反発する馬鹿なネトウヨどもだからそんな妄想しかできない。
みんな技術は好きだけれど、それが与える社会的な影響や文化的な影響は一切考慮していない。みんな過去の繰り返ししか社会パターンを考えられないあんぽんたんども。でもハインライン『動乱2100』は神権政治復活を予測するけれど、現代の軍事技術は技能や知性が行き渡っている必要があるから、愚民を前提にした神権封建社会なんか復活できるわけないだろ。ほんとバカだな。ポール&コーンブルース『宇宙商人』は社会風刺に見えるけど、単なるくだらない冒険小説の背景でしかなくて、真面目な考察は皆無。
ヘルベルト・フランケ『欄の檻』は、VRの遠隔操作ロボットで、お遊びで異星探検をする文明と、完全に自閉したVRポッド内存在となって外部と遮断され、欄の檻になった文明を対比させて、快楽主義追求の二つの極致を考察していてえらい。それは人間の自由、健康、長寿といった機能的合理性を追求するとたどりつく二つの極だ。そうなると、これまでの社会で重視されていた価値観とは相容れなくなる。それを指摘できていてえらい。小説としてはヘタだけれど。
ユーグロン『犬の徴』は、宇宙拡張的な文明と、それに背を向けて伝統的価値観にこもる文明の対比を描いていてえらい。ただし後者を、シャマラン『ヴィレッジ』みたいなインチキ宗教による人民支配にしてしまい、文明の方向性の対立テーマから逃げたのはだめ。
14.2.4 社会退化のモデル
ゴールディング『蝿の王』みたいに、孤立してしまうと退行して野蛮になる、という小説は多い。特に長期の多世代宇宙飛行をしている宇宙船の内部がだんだん野蛮化するのはみなさん大好き。オールディス『寄港地のない船』とか。でもぜんぜん理屈にあわない。ちゃんと宇宙船内部でお話すれば退行しないですむんじゃないの? それと、その退行が遺伝レベルに及んで退化する。遺伝には何千年もかかるだろうに。ありえんだろ。
20世紀冒頭のポーランドのジュワフスキー『月三部作』は、孤立した人類の退行を宗教的なモチーフとからめて非常に優秀だ。
14.3 技術予測と文化予測:モデル
SF作家どもはバカだから、技術の話は多少できても、その社会的影響とか一切考えられないのね。未来学は学問だから、きちんと裏付けのあることしか言えないけど、SFは確率の低いことでも、フィクションだと称していろいろ考察できるのが強みだよ。それをやれよ、それをやらないやつらなんか無価値のクズ。しょうがないから、おれが模範演技を見せてやるぜ。
27世紀の地球。海水をうちあげて殻状に凍らせて気候制御が実現。人工臓器による準サイボーグ化や遺伝子操作は実現しているけれど、その仕様には条件がつく。亜光速は実現しているし、重力制御もできなくはない。超高温を経由した反現実の利用が視野に入り云々。すっげえ科学的考察してるだろ?
で、それが社会文化をどう変えているかって話ね! うん、それって条件多いし予想外の影響もいろいろでむずかしいよな。不確定要素があるから完全な管理制御は不可能だもんな。でもいろんなもの制御しないわけにもいかない。あと、文化とかは完全に制御はできないけれどでいたとしてもみんな制御されるのがいやがるよな。自由な自発的発展が文化の信条だもんな。この制御と自由の板挟みとかむずかしいねえ。[読者の心の叫び:他人の作品については、あれ考えてない社会的影響のモデルがない社会発展の考察がないとさんざんケチつけておいて、自分はくだらない科学設定だけ並べて、「社会文化はむずかしいですねー、ハッハッハ」とさじ投げてお茶を濁すつもり? ひどくね?]
ところでアメリカのインチキな精神分析好きって、ほんとどうしようもないね。[読者の心の叫び:なんも関係ないだろ!]
感想
とにかく、ユートピアの話がまったくない! なんなんだこれは? この最後の模範演技のはずの「モデル」が何のお手本にもなってないのは何事?
ボルヘスの話は、まあまあよい分析だ。これはレムコレ『高い城/文学エッセイ』収録の「対立物の統一」というボルヘス論と中身は同じですな。でもそれがここにある必然性は? ユートピアの話がないまま、単なる未来予測の話になってしまうのは何? 社会や文化への影響をきちんと考えないSFはだめと言いつつ、自分はそれがまったくできていないのは何?
だいたい、昔書いた通り、レムって社会をまったく描けないんだよね。『ソラリス』『エデン』『砂漠の惑星』でも、人間たちが属する社会の状況は実に希薄。宇宙飛行が存在して技術発展があっても、その宇宙飛行士たちや学者たちは、いまと大して変わらない社会に暮らしている。レム自身、ここで他人をけなすけど、社会や文化の考察はできていない。『浴槽の中で発見された手記』が、スパイのだましあいを描いているから社会を描いてるって、それは単なる一状況で、社会を描いているなんて言えないよ。
あと、社会退化のところで、部族社会だの中世封建制への退行や宗教の台頭について、ありえない、そんなモデルに逃げるのは怠慢で手抜きのバカども、というけれど、フェゴ島の住民の退行を見るとそうした退行が実はかなり簡単に起こることはわかる。フェイクニュースにみんながだまされている現状、アメリカやロシアの個人崇拝政治への退行を見ると、1970年代のレムが信じていたような啓蒙進歩の方向性の不動性は、実はそんなに確固たるものじゃなかったのではないかない。レムがそれを予見できなかったのを責めるのは、岡目八目でフェアではない。が、レムはそれをもとに、他のSF作家どもがバカだ、あり得ない、そんなの社会観としてインチキだと言い続けてきた。でも実は、彼が馬鹿にしていた作家たちのほうが、意外とポイントをついていたのではないかな? 部族社会は実に長いこと安定的に成立してきた。封建制も千年以上の歴史を持つ。現代の科学進歩文明社会なんてせぜいぜい200年かそこらだ。ピケティも、軍事、宗教、平民という三層構造の社会がきわめて一般的でどこにでもあることを『イデオロギーと資本』で書いている。宇宙時代でも何かの拍子でそこに回帰するのは、十分あり得ることかもしれない。そして、少ない可能性でもフィクションとして考察するのがSFの特権であり、義務だとレムは書く。だったらその安定したパターンの可能性をあれこれ検証するのも、十分正当化できるんじゃないかな。
結局これで第三部おしまい。ここまでテーマ別の「分析」をやってきたわけだが、いったい何がわかったのか、といえば……何もわからないとしか。レムは認識論的価値といって、勝手なときには科学的な整合性を求め、勝手なときにはこの章のステープルドンみたいに「トンデモなのがいい」と言い出す。社会分析がいると言いつつ、自分はできない。そしてその社会についても、自分の偏狭なリベラル知識人的思い込みにあうかどうかで善し悪しを決めつけ、そうでないSFはゴミクズよばわりして、その作者たちを無知なネトウヨ呼ばわり。うーん。
つづき
というわけで、あとは結論部分。メタ未来学とメタファンタジア。でも『技術大全』でもそうだが、レムって別に、最後の結論部分で話をまとめたりするわけじゃなくて、また何も考えずに書き散らすだけなんだよなー。
メタファンタジアは、邦訳とも比較することになるが、どうなるかねえ。ただ、これを読んで本書について(およびレムの文学観、SF観について)何かがわかるわけではない。これまでの紹介で書いたように、いまや未来についてみんなで考察すべきで、SFはそれに奉仕しなきゃいけない、それ以外はクズ、なんていう価値観がベースになっているというのがわからなければ……呼んでもちんぷんかんぷんだわな。それもあわせて言及しないとなあ。
が、あともうちょい! ガンバレ、おれ!