レム『SFと未来学』16章 メタSF/おわりに:結語って、これ出発点以前じゃん。 新たな物語構造がないって、あんたが提案しろよ!

はじめに

やったー!終わりにきた! 「メタSF的結び」と「おわりに」だ。

が、本当につまらないことしか言っていない。要するに言っているのは、SFは科学技術で変化する社会を描くための、新しい物語構造を見つけられていない、というだけ。現代は新しい物語構造を必要としている、だけどSFはそれを探してないとのこと。

 

え、それだけ?

 

……ふつうさあ、1200ページにもわたる本を書くのなら、物語構造が見つけられていない、というのは冒頭の問題設定のところだろ。第1章で、この本の基本的な仮説や問題設定として説明すべきことでしょうに。

なんでそれが結論なんだよ。議論の入り口、一丁目一番地であるべきだろうが!

そしてこれまで、彼は英米SFを罵倒するにあたって、そんな話はほとんど何もしていない。たとえば、宇宙旅行を描くに当たって必要な新しい物語構造とはどんなものなの? 既存SFはどういうふうにそこで的を外していて、仮説的にしてもどんな物語構造ならあり得るの? そういうことを論じているなら、この結末もまあ納得しよう。でも、これまでそんな話、ぜんぜんしてこなかったよね。バカだアホだ、商業主義だと罵倒してきただけだよね。

そしてSFの様々な主題を見てくる中で、そこから何か一般性ある話も示してないよね。きちんとすべてを物語構造と関連づける努力は何もしてこなかったよね。

 

それで最後にいきなりこの結論というのはひどいんじゃないの? 1200ページかけたら、その未だ見えざる物語構造のヒントがどこにあるかくらい示せないの? たとえばあなたのほめるウェルズやステープルドンの物語構造の見所は? それはいまのアホSF作家どもとはちがうんでしょう? アシモフ『鋼鉄都市』を、あなたのいう優れた物語構造に近づけるにはどういうふうにしたらいいの? バカだ商業主義だ絶望だというだけのためにこの1200ページを費やしたの? これだけ紙幅費やして何してたの? これ、何の本よ??!! 自分でも何の答えも持ち合わせず、他人を罵倒するだけで事足れりって、何だよ!

スタニスワフ・レム『SFと未来学 II』

そしてその書き方も例によって最悪。本筋の話は本当に何もない。レムが「たとえば」と言い出したら、そのたとえばは本筋の30倍くらいは続く。ちょっと科学的な比喩を出したら、その科学の知見に関するウンチクを100倍くらい散りばめないと気が済まない。でも、そういうものは本筋に何も貢献しない。読者を煙に巻くだけだ。

ということで、そうした余計な部分 (それが9割) のコメントをつけつつ、あらすじをみよう。

あらすじ

メタSF的結び / メタファンタジア

三種類のSFを考えよう!

  • 地震予防ができるようになった!
  • セックスが気持ちよくなくなって人類が子作りしなくなった!
  • 科学そのものの前提を覆す21世紀の新しい宇宙論はこれだ!

(このそれぞれのパターンについて20ページにわたる賢しらな設定解説がつくが、議論にまったく貢献しない)

最初のふたつは、普通のキャラクターが登場する従来型のお話にできる。最後のやつは、その新しい宇宙論そのものを説明したいので、キャラが活躍する余地がない。だから従来型の小説構造ではない、新しい小説構造がいる。

(本書では文学のメタ理論は構築しない、創造活動すべての統合理論も構築しない、ハッチンソンとかクローバーとかがそういのやってて〜、構造の遺伝的系統発生にも関連し〜、と20ページにわたる能書きが続くが、ここでの議論に何の関係もない。)

これまでの物語構造は、いままでの人間 (生物として、社会として) の条件を前提として成立してきた。善悪は、個人/集団/人類の存続にとってよいか悪いか、という話だ。でもこれからはその前提そのものが変わる。そうなると、これまでの物語構造では語り尽くせないものが出てくる。

さらに個人/集団/人類の存続といった明確な善悪基準もあるが、人間は文化的なルールを作って、それに照らして善悪を決めたりする。その文化的ルールが弱まると、文学がそれを疑問視したりすることで成立するようになる。文学は、素材の抵抗が必要だった。いま、そうした文化タブーがあちこちで崩れ、文学は必要な抵抗を失いつつある。

(文化とは、そこでヘンリー・ミラーが〜、文化コードが〜、ナボコフにドン・キホーテが〜、と10ページの能書き。まったくいらない)

さらに素材の抵抗に取り組むにあたり、文学には語り方のお約束があった。ヌーヴォーロマンやニューウェーブはそのお約束をも破壊しようとノイズを入れるけれど、それは破壊のための破壊でしかなく、かわりに何かを提示するものではなくわかりにくいだけ。

(またあちこち脱線してそれを解説してみせるが意味なし)

じゃあそれを受けてSFはどうしようか? これまでのSFは、三つのダメが特徴。

  1. 物語構造の選択がダメ。未来予測的なテーマを、従来の小説構造に押し込めようとしてSFは失敗してきた。それがSFの浅はかさをもたらしていた。

  2. 物語構造の変形方法の選択がダメ。そもそもいままで歴史的な前例のない現象を描くのがSF。そのための物語構造をどう変形するかをSFは考える必要があるが、やってきたのはニュー・ウェーヴの失敗。

  3. 新しい物語構造の構築がダメ。新しい問題(人工知能とかファーストコンタクトとか) のための新しい物語構造を作りあげねばならないのにサボってきた。

そういうのを考えると、SFにはまだまだ見逃しているチャンスがあるんだよ! いろいろきついこと言ったけど、そういうとこに気がついてほしいと思ってのことだからな? な?

あとがき

でもやっぱいまのSFってゴミクズだよな。立派な科学から生まれたくせに、最低の低俗小説に堕してる。複雑な問題が一気に解決されるみたいな幼稚なお話、天国と地獄の両極端しかないバカな設定、深い思索の可能性を捨ててお手軽なカタルシスに走りたがる安易さ。自己批判と改良の余地もない内輪ぼめの自己満足と、商業主義への安住。絶望的だな。(前章の最後でちょっと前向きなこと言っといて、すぐにこれかよ)

 

これでおしまい、とっぴんぱらりんのぷう。

内容についての感想

いや最初に書いた通りなんだ。SFは、新しいテーマにあわせてもっと物語構造を工夫しろ!——その主張はわかる。ごもっともかもしれない。

でもね、なぜその話がいちばん最後に出てくるわけ? そしてそれを言うにあたり、途中の話は何も関係ない知ったかぶりのウンチク開陳。

こういう議論がしたいなら、まずこの部分は本の冒頭に持ってこなきゃいけないだろ。そしてその次に、SFが対処すべき未来学的な新しいテーマについて述べて、SFはもっとやることがある、というハッパかける。

継いで、既存の物語構造の分析ってことで、第2章とかに出てきたSFとファンタジーのちがいとかいう話をしてもいいよ。でもそこで物語構造の類型に少し見通しつけるべきだろ。

そしてその後で、未来学的な関心からSFが扱うべき重要テーマを出していこうよ。その後でテーマ別の分析する中で、こういうテーマなら、こういう物語構造があり得る、これがベストフィットだろう、あるいはいまある構造をこう変えるべき、という話をしていこう。

それでやっと、この「メタSF的結語/メタファンタジア」で挙がっている主張について、自分でしっかりケリをつけたことになるんじゃないの?

それをやらずして、本としての出発点以前のところですべてが終わる——ひどいね。あまりにひどすぎ。

 

もちろんそこで、本論なんかはどうでもよくて、このほとんどを占める脈絡のない知ったかぶりの脱線こそが本書の醍醐味だよ、と言うことは可能だ。

  • 宇宙や物理法則は、実は超絶進化した文明が変えていて、そうした文明がお互いの成果を睨んで、箱庭を作るみたいに宇宙を調和させているのかもしれない
  • SFの発展は、進化の生物系統樹と似たような図に描けるかもしれない。
  • 人間は、本能を失ってそれを文化で補っているが、その文化規範が科学で否定されてきたので、価値観の根拠がなくなって根無し草になっている。
  • 創造活動は、才能だけでなくそれを受け容れる社会的環境と、その分野の成熟度によって大きく左右されるので、そういう一般理論をあらゆる創造について構築できるかもしれない。
  • タブーに反抗する文学は宗教と神聖さが消えてやることがなくなり、各種文化規範の破壊しかできなくなっている

こういう話は、つまらないわけではない。心に余裕があればそれを個別に愛でることもできるだろう。でも、それをきちんと本題とからめつつ構築するのが、物書きの腕ってもんじゃないだろうか。それをまったく脈絡なしにちりばめられても、ぼくはむしろ気忙しいとすら思う。本題8割、脱線2割。最大でも本題6割はほしい。それが本題2割で脱線8割は…… いったいレムの編集者は何をしてたんだよ。

既訳とその解説について

さてご存じの通り、この部分には既訳がある。レム・コレクション『高い城/文学エッセイ』に含まれている「メタファンタジア」だ。

まずそもそも……なんでこんなもんが含まれてんの? いま説明したとおり、中身的には何もない。これが『SFと未来学』の序章だとかいうなら、まだ価値はあるといえたかもしれない。が、これが結論ですと言われて、訳者(およびこの文学エッセイの部分の編者) は「なんじゃこりゃ」と思わなかったんだろうか?

思わなかったんだろうなあ。訳者の説明も非常にピントはずれ。構造主義とか、言葉としてちょっと出てくるけれど、そもそもの論旨とはまったく関係ないのは上をみれば明らかでしょう。長い文なので章や節に区切りました、というのはよいサービス。でも「ひとまず章題と節題を追うだけで、この複雑な論考の概要はたちどころに把握できよう」(p.248) なんてことはまったくない。だってほとんどの部分はレムのただの知ったかぶりで、議論の本題と何も関係ないんだもの。ちょっと見てみよう。

1. SFの類型学    a 三つの可能性    b 文学との対照 2. メタファンタジアの構造 3.  自然と文化と 4. 解体される記述     a 規範からの逸脱     b 禁制からの自由     c 文学的抵抗の証 5. 偶然性・多元性・不確実性 6. 美学と認識論の結婚 7. SF批評の課題
メタファンタジア邦訳の章節分け

うーん、たちどころに把握できましたか? ぼくは無理。2から6の部分は、ほとんど実質的な中身ないもんなあ (知ったかぶりはある)。あとこの章題と節題のつけかたも、個人的にはピンとこない。「解体される記述」……なんのこっちゃ。

翻訳としては、ざっと見たところ決定的にまちがっている部分はあまりなさそう。決して理系方面の話が得意なわけではないのは明らかだが、一生懸命調べている。が、それが裏目に出ている部分もある。たとえば「正規分布曲線」というのを、訳者は「通常の超関数に見られる蓋然曲線」と訳す。えー、なんですか、それは。かえってわかりにくくなっている。もとはただのnormal distributionだ。が、それで大きな実害があるわけじゃない。

ただし唯一、ナボコフの『アーダ』について(無意味に)触れた部分は、こう訳されている。

最近作『アーダ』[一九六九]においても、この書き手は「遊び」の様式によって文化集積としての禁忌(タブー)を利用しており、その際には禁忌(タブー)の領域をパロディ的に束ねられた他の諸関係——家族の血縁関係、近親相姦な恋人同士の手になるいくつかの暗号の関係、「貴族」と「平民」間の関係——へと拡張するという方法が採られている。しかしいくら経験的真理ではあっても、この近親相姦(インセスト)禁忌(タブー)の基本原理までは受け容れるわけにはいかぬ。なぜならすでに見てとれるように、近親相姦関係は不妊性のものである。ゆえに「ともあれ何ものをも生み出すことはなかったと思われる」からである。(p.230、強調引用者)

以前これを見て、「なんかいきなり『受け容れるわけにはいかぬ』とか道徳ふりかざしてるなあ」と思ってレムの道徳性についてコメントしたことがある。が訳者が準拠したというMicroworlds所収の原文は以下の通り:

Elsewhere, as in Nabokov's more recent novel (Ada, or Ardor), the author exploits the cultural arsenal of prohibitions against incest in a "ludic" mode, by extending them to other relations parodistically superimposed over one another: between blood relations of a certain family, between the signs of the code invented by the incestuous lovers, between the "'aristocracy" and the "plebeians."' Even empirical truth contradicts the postulates of the incest taboo, because, as it turns out, due to the sterility of incestuous relationship, “nothing would have come of it anyway.” (Microworlds, p.183)

まったく正反対の誤訳だなあ。山形訳は以下の通り。ドイツ語訳のほうは、原文は切れずに一文でつながっている:

そしてナボコフの最近の長編『アーダ』では、文化の武器庫から持ってきた近親相姦禁忌が「遊び心のある」形で利用され、互いに支え合うパロディ的構造の関係に拡張される(同じ家族の近親者間、近親相姦的な恋人たちが考え出したコードの記号間、「貴族」と「平民」間、そして近親相姦禁忌の主張と実証的真理の衝突も生じる。なぜなら不妊のため「近親相姦の結合からはどのみち何も生まれない」ことになるからである)(p.298)

別にレムは、近親相姦受け容れられないなんてことは一言も言っていない。実はレム、この前のあたりで、文化的なタブーとかはほぼすべて実証的裏付けがないと言っていて、近親相姦でも実証的に何ら遺伝的な害はないのだ、と得意げに書いている。ここで言っているのはそういう話。『アーダ』はいろんな文化的な規範を崩してますよ、そして近親相姦がいけないという文化的コードを、文中では自然科学までが否定してますよ (不妊だからと称して) という話なのだ。ここ、別に近親相姦が不妊ってことはないんだけど、文中ではそういう生物学的なこじつけになっているってことね。だから、受け容れないどころか、それをお遊びとしてレムはそれなりに評価してる。

ちょっとこれ、以前書いた文にコメントつけないとなあ。こんな誤訳に基づいていたとは。論旨自体は、他のところから事例を持ってこられるから変わらないけどね。

cruel.org

あともう一つ、Microworldsの英訳は、レムがポーランドの作品とか出したところを削ってるね。全体に影響するほどではないけれど。

おまけの感想:すべてを律する一般理論!

あとぼくがちょっと、この「メタSF的結語」でクスッとしてしまったのは、レムは、創造性の総合理論がもうすぐ実現すると思っているところ。あらゆる創造行為を律する一般理論……

レムというのは、そういうのが好きなのだ。彼はサイバネティックスが科学も経済学も社会学もすべてを統合する総合学になると思って舞い上がった。ここでは創造性の一般理論を思いついて、それがある種の構造分析で統合されると思って舞い上がる。

その気持ちはわかる。物理学で統一場理論とかにみんながあこがれる気分、すべてを説明するネクシャリズム、すべての一般法則を与える歴史心理学、経済学者が一般均衡とDSGEだかDGSEだかにあこがれる気持ち、すべてを律する唯一の指輪…… そういうのにあこがれるのは、本当に人間的なことだとは思う。

"暗い茶色の革のようなテクスチャーの上に置かれた、緑がかった金色の指輪。リングの外側にトールキンの「指輪物語」に登場するエルフのルーン文字(テングワール)が橙色に輝いて刻まれている。中央に光が当たって神秘的に光る、映画『ロード・オブ・ザ・リング』に登場する「一つの指輪」画像。"
One ring to rule them all

そしていまそれを笑うのは簡単なんだろうけれど、1970年頃には、そういうものがどれも実現するかもしれないという夢があったのも事実だ。レムだけが軽薄だったような言い方はフェアじゃないだろう……けれど、あちこちで言うが人生はフェアじゃないし、岡目八目は本当にある。が、微笑ましくはある。

終わっちまった悲しみに:30年越しの感想

しかしやっぱり、すべて訳し終えて、おそらく世界でも数人しかやっていない精読をやった身としては、ちょっと行き倒れを感じてしまう。

訳し始めた頃は、罵倒しつつも、そこはそれレムだから、なんかどーんとすごい視点をだしてくれるんじゃないか、とほのかな期待があった。13章のブラッドベリ/ニューウェーブ論は、最後の盛り上がりに向けた何かの予兆のような期待を抱かせてくれた。でも……

やっぱだめだったか。

そんなすごい理論がなかったことに、「そうだよな、レムといえども無理だよな」と安堵している自分と、眼の前の幻が忽然と消え失せて、呆然としつつぽっかり心に空いた穴に寂しさを感じている自分がいるよ。

SFと未来学ドイツ語版 上下巻

30年、必死で本棚に陳列してあったのは、こんなものでしかなかったのか…… あれほど期待し、恐れをなしていた本は、こんなトホホな代物だったのか。ポーランドの知の巨人だった人物の、渾身の決定版SF論だったはずのものは、実はこんなものでしかなかったのか……

 

ま、こんど全体を通した解説をまとめて書いて、訳者あとがきにしましょうか。それで自分でもこの本にケリをつけることにしましょう。30年越しの希望が、いまやっと灰になって消え去ってくれました。思い残すことがこれで一つ減ったが……それがいいのか悪いのか。