スタニスワフ・レム「軌道に乗る」所収のSF論(1959):ずっと冷静でまとも

"スタニスワフ・レムの著作『Wejście na orbitę』(軌道への進入)のブックカバー。オレンジと黒を基調とした幾何学的なモダン・デザイン。大きくスタイリッシュに配置された「LEM」の文字、中央にタイトル「WEJŚCIE NA ORBITĘ」、上部には月齢の変化を示すアイコン列、下部には「BIBLIOTEKA GAZETY WYBORCZEJ」の文字が入る。"
レム『軌道に乗る』ポーランド語電子書籍表紙

『SFと未来学』終わって、かなりがっかりしたというのは書いたとおり。こんなのかよ〜

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でもってその周辺の話を少し漁っていて、出てきたのが『SFと未来学』の十年前に書かれたSF論。彼の論文コレクション『軌道に乗る』(1962) 収録の「SF」という論説。

そして…… これがまともなの。いや、きわめて優秀。社会的な要因、その特質、そして個別の作品はレベル低いのが多いけれど、集合的にアメリカ社会とその希望に応えるものになっているのだ、という分析。長編はくだらなくなりがちだけれど、短編でそのパワーを発揮するという分析も鋭い。

そして、一言半句ごとに知ったかぶりや罵倒をちりばめる、あのうんざりする傾向もない。ときどきダレるが、全体として論旨が通っていてポジティブ。ほめる人はちゃんとほめている。

そうそう、やればできるじゃん。どうしてこれをふくらませてSF論にできなかったのよ。

全訳は面倒なので、要約だけ作ってみました。そして、ベースとなった調査やあちこちの論旨を見ると、『SFと未来学』とほぼ同じなんだよね。あの本に出てくる各種モチーフも入っている。

そうなると不思議なのは、1960年代に何があったのか、ということではある。同じ材料、ほぼ同じ発想を使って、なぜ『SFと未来学』はあんなろくでもない書きぶりになってしまったのかは謎だ。同じ思想的な内容を扱っても、『対話』(1957) はきわめて明快でユーモアもある書きぶりだし、60年代が諸悪の根源ってこと? つまり『偶然の哲学』がダメへの道だったってことになりそう。まあわからんけど。

それともう一つ、『SFと未来学』ではしばしば、SFが社会的な考察がないという罵倒が述べられる。でもその社会というので何を想定しているのかは、きわめてわかりにくい。この論考だと、それが明確。社会主義になってない、という話なのだ。これは昨日書いた、レムの社会主義すり寄りときわめて深く関係している。『SFと未来学』がわかりにくいのは、その社会主義への言及を全部落としたのに、その批判の前段の罵倒だけは残しているから。だから罵倒しただけで何も建設的な指摘がないように見える。

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こう見ると、『SFと未来学』の不思議な部分がだんだん見えてくる感じではある。きちんとまとめないと。

スタニスワフ・レム「SF」(1959) 要約

1. SFブームの状況(1950年代アメリカ)

1956年頃、アメリカではSF専門月刊誌が13誌に急増し、出版ブームが起きた。作家数・発行部数・新刊タイトルが爆発的に増え、一人の読者では到底読みきれない量となった。これは明らかにアメリカ特有の現象であり、欧州では生活様式の模倣に過ぎず、本物の大衆需要はアメリカにしかない。欧州SFは大衆化・低俗化し、野心ある作家が少ない。

レム自身はこのジャンルの位置づけに確信が持てず、文学批評の沈黙とファンたちの無批判な礼賛の狭間で葛藤しながら、「海から掬った一滴」(約17,000ページ)をもとに論を進める。

2. SFの特質と文学的意義

SFは最弱の作家から最高の作家までが参加した集合的想像力の産物であり、個々の傑作よりはるかに広大で注目すべき現象である。推理小説とは根本的に異なり、無数の作品が集まって一つの巨大な「建造物」を形成し、現代(特にアメリカ)の重要問題を映し出す。

作者たちは技術発展や機械時代の終末論に暗黙の合意をしつつ、「集団的カッサンドラ」として20世紀の脅威を予言しているが、ジャンル自体が作者たちを凌駕している逆説がある。

3. SFとファンタジーの違い

レイ・ブラッドベリによると:

  • SF:法を守る従順な文学市民。物理法則・社会法則に従い、予測可能。
  • ファンタジー:文学においてはルールを破る犯罪者。法を破壊し、宇宙を粉砕・変形させる。SFは岩の頂上でバランスを取らせるが、ファンタジーは突き落とす。

両者の境界を厳密に定義しようとする試みはスコラ哲学的で不毛。合理性と想像力は混在し、ポーやウェルズにも両面が見られる。

4. SFは「合理化された昔話」

SFはおとぎ話・哲学的寓話・ユートピア・技術崇拝が融合した産物。「原子力時代の童話」と呼ばれるが、本質は合理化された昔話である。

  • 昔話:超自然を一時的に信じ、説明不要。
  • SF:すべてに科学的(または擬似科学的)説明を求め、因果関係を明確にする。

魔法の要素はすべて技術的に置き換えられる(例:魔法の杖→新発明、透明マント→力場、 etc.)。フレドリック・ブラウンの例のように、どんな昔話もSFに変換可能。

しかし決定的な違いは「現実性」。昔話の恐怖はゲームとして捨てられるが、SFの恐怖(原爆・電子頭脳・自動化)は実際に存在し、拒否できない。「it could happen to you(君にも起こりうる)」という心理的現実性がSFを「成熟」させ、読者層を大人に変えた。

5. 形式・テーマの分析

  • 短編(short story)を好む:単一のアイデアが生きる。長編は往々にして冒険小説の延長で陳腐。
  • 例外としてオラフ・ステープルドン『最後にして最初の人間』を高く評価(20億年にわたる人類史の壮大な社会学的ビジョン)。
  • テーマは多岐にわたり、技術の狂気・機械文明の自律化・原子力の恐怖・ロボット・ミュータント・超能力・時間旅行・宇宙侵略・未来社会などが中心。
  • ユーモア・グロテスク・風刺も発達。特にシェクリイ、ブラウン、マシスンらが秀逸。

アメリカSFの弱点:商業主義による繰り返し・陳腐化、文学的平坦さ、社会学的想像力の貧困(資本主義の枠を超えられない)。

6. 結論:SFの文化的意義

SFは伝統文学の枠を超えた20世紀アメリカの神話であり、集合的予言である。芸術的完成度は低くとも、その大量性と大衆性によって、技術時代への不安・希望・世界観を広く浸透させた功績は大きい。

個々の作品は取るに足らないものが多くとも、全体として見ると、技術文明の「アポカリプス」と人類の未来を映す鏡となっている。将来的には、より大きな才能の登場により、真の文学的深みを獲得する可能性を秘めている。

(1959年執筆)