ロッテンシュタイナー「スタニスワフ・レム:影をこする男」

長いことスタニスワフ・レムの西側世界への代弁者を務め、レム普及に尽力し、エージェントも務めたフランツ・ロッテンシュタイナーのレム評。SFマガジン2004年のレム特集に出た彼のインタビューと当然重なるところは多いはず (そっちは見損ねているのではっきりとはわからないけれど)。

レムがロッテンシュタイナーを訴えたのは1995年のこと。昨日紹介した「SEX WARS」収録の1994年エッセイでは彼を「魂の友」とまで呼んでいるのに、急転直下で何があったのやら。が、レムの変なかんしゃく持ちの部分はいろんな人が証言しているので、たぶんロッテンシュタイナーはそんなにウソは言っていないはず。当然ながら彼は、いまやレムの名前も聞きたくないとのこと。仕方ないよなあ。

しかし最後のエピソードは楽しい。他のエッセイでは、パソコンを買って三日後に壊して店だかなんだかに怒鳴り込んだとかいろいろ言われていて、『高い城』で子供時代に触ったものすべてこわした、と書いているのは、大人になっても直らなかったのね、という感じではある。そしてここの最後のエピソードは、その理由がよくうかがえるなあ。

 

スタニスワフ・レム:影をこする男

フランツ・ロッテンシュタイナー VICE (TV Magazine), 2012年11⽉21⽇号

眼鏡をかけた高齢の男性が屋外の木々の前で立ち、右腕を高く上げて人差し指を天に向かって真っ直ぐに指差している。左手に薄い上着を持ち、吊りズボンを着用した白黒写真。
スタニスワフ・レム

1970年代、フランツ・ロッテンシュタイナー博⼠は、⾃らの叢書『世界のSF』(Insel Verlag)で、フィリップ・K・ディックや安部公房、コードウェイナー・スミスといった 作家を紹介し、多くの作品をドイツ語圏で初めて刊⾏しました。その後、彼はニューヨー クでアンソロジー『異邦からの眺め』(邦訳早川書房) を出版し、欧州のSFをアメリカの 読者に近づける試みを⾏い、特にスタニスワフ・レムをアメリカで初めて本格的に紹介し ました。ロッテンシュタイナー博⼠は⻑年にわたりレムのエージェントを務め、両者は親 密でありながら必ずしも友好的とは⾔えない関係を続けていましたが、1995年にレムがオ ーストリアの裁判所でロッテンシュタイナー博⼠を相⼿取り、10万ドイツマルクの訴訟を 起こしたことで、不和のうちに終わりました。今回の特集では、ロッテンシュタイナー博 ⼠にレムとの共同作業について、そして現代でもっとも論争を呼んだ哲学者・作家の⼀⼈ の⼈⽣と思想に対するきわめて個⼈的な洞察を語っていただくよう依頼しました。これが 彼の証⾔です。(編者:トム・リトルウッド)

 

ルキアノスの『真実の物語』以来周知のこととして、⾃分が真実を語っていると強調す るのは、嘘つきにありがちな⽂学的技巧だ。そしてポーランドのSF作家スタニスワフ・ レムの愛⽤句の⼀つが「プラトンは友である、しかし真理はもっと友である(Amicus Plato, sed magis amica veritas)」だったことで、もっと警戒⼼を抱くべきではあった。だ が当時レムがアメリカ⼈翻訳者マイケル・カンデルへの⼿紙で書いたように、私は「ろく でもない単細胞」で、彼を真理を愛する⼈物だと信じていた。彼が他⼈を中傷した いときにこの句を好んで使っていたのも知っていたというのに。周知のように、嘘がもっ とも多く語られるのは恋愛と戦争——そして法廷だ。これは、私たちの関係の末期にレム がウィーン商事裁判所で私を訴えたときに、⾝をもって思い知らされた。

眼鏡をかけた中年男性が低アングルから見上げ、大きく目を見開いた真剣な表情で、薄暗いピンボケした本棚を背後にこちらを見つめているクローズアップ写真。

レムと初めて接触した当時、私は熱⼼なSF愛好者で、主にアメリカ作品を読んでいた が、世界中のSFにも強い関⼼を持っていた。東ドイツ(GDR)版の各種レム作品を読ん だ後、『砂漠の惑星/インヴィンシブル』がドイツ語で刊⾏されたときに、彼に書評を送っ た。それがきっかけでレムから⼿紙が届き、活発な⽂通が始まった。当時レムは⻄側 のSFについての本を書きたがっていたが、情報源にアクセスできなかった。どうやら私 を便利な供給源と⾒たのだろう。彼に⼤量のSF本を送り続けたのだが、彼はそれを返さ なかった。「当時のポーランドでは、その本の購⼊に貴重な外貨が使われたと判断するの で、返送は禁じられていた」というのが説明だった。レムはそうやって送られた本を、ポ ーランドの古書店で売却していたのだった。1970年頃、私はドイツのインゼル出版でSF を出版する機会を得た。後にズーアカンプ社でもそれをやり、私の理想とするSFに最も 近い作家としてレムを刊⾏してもらった。その本は最初から⼤成功を収めた。そのうち に、レムの⽂学エージェントになればもっとレムの役にたてると考え、1995年頃まで⻄側 諸国での彼の契約⼀切(ドイツを除く)を約300件扱った。ドイツでは私は⼀度も彼のエ ージェントになったことはない。ズーアカンプ社はレムにとって幸運だった。彼のSFは いずれ刊⾏されただろうが、『SFと未来学』や『偶然の哲学』のような⼤部の評論・随筆 作品はほとんど反響もなく、膨⼤な翻訳費⽤を正当化できるほどのものではなかったから だ。[訳注:インゼル社もズーアカンプも、レムの⻑⼤な論説を次々に出している。]インゼルやズー アカンプから本が出たことが、ドイツ語圏でのレムの注⽬度を⼤きく⾼めたのはまちがい ない。

ドイツでの成功は、裏⽬に出た⾯もあった。レムは世界中で同じくらい成功できると思 い込んでしまったのだ。だがまったくそうはいかなかった。彼がドイツで稼いだ額は、他 の⻄側諸国すべての合計額を上回っている。アメリカでの書籍刊⾏をきっかけに多くのレ ム作品が出たが、売上は控えめで、印税はもともと低い前渡し⾦をほとんど超えることは なかった。唯⼀『ソラリス』だけが、特にタルコフスキーの映画化のおかげで、控えめな がら成功を収めた。時折、ポーランドのファンがレムの「アメリカでのベストセラー状 況」を尋ねてきたが、実際の売上は⾮常に少なく、⾼い翻訳費⽤を考えると出版社ハーコ ート社が儲かったはずはない。ハードカバー版はせいぜい3000〜4000部、ペーパ ーバックも⼤してマシではなかった。

ついに決裂したとき、レムはアメリカに新しいエージェントを置きたがっていた (だが 私が⼿を引いて以来、新しいレムの書籍が⼀冊たりともアメリカで刊⾏されることはなか った) [訳注:2012年の執筆当時この後、『技術⼤全』が2014年に英訳され、その後いろいろ 出るようになった]。もっと「ダイナミックな」出版社を望むと⾔うのだ。だがアメリカで は、成功していない作家を積極的に売り込むことは稀で、ほとんどの出版社なら彼の本な どとっくに廃棄していただろう。彼はハーコート社にますます侮辱的になる⼀連の⼿紙を 送りつけて、同社との関係を断ち切った。短編集の権利を取り戻したかったからだ。翻訳 済みの短編を別の出版社に売れると考えていたようだが、今⽇に⾄るまで刊⾏されていな い。

私は⻑年にわたり何度かレムを訪ね、会っている。クラクフでは、彼は質素な⼾建て住 宅に住んでいたが、とても気配りの⾏き届いた、慇懃なホストだった。唯⼀の贅沢はメル セデスと、農夫の妻が裏の畑からこっそり定期的に運んでくるハムだけだった。後に彼は 外国からの収⼊で巨⼤なヴィラを建て、地元の⼈々の憧れの的となり、参観客が絶えない 名所となった。共産主義時代、ポーランドの裏通貨であるドルがあれば、ポーランドにな いどんなものでも⼿に⼊った。バスルームはイタリア産の⼤理⽯で造られ(ワヴェル城の 改修⼯事の余り物)、屋根のトタンは農村協同組合の余剰在庫からきたし、それを建てる 建設作業員たちは、ときどき公式の⼯事現場から「休暇」を取って機械ごとやってきてレ ムの家を建てたのだった。

白黒写真。サングラスと半袖シャツ、短パン姿の男性が巨大な岩の頂上に腰を下ろしている。低角度から撮影され、空を背景に男性がカメラを首にかけ、片足を曲げて座る姿が力強く捉えられている。岩肌の質感が詳細に写った登山・探検的な雰囲気。
1955年、ザコパネ近くのタトラ⼭脈の⼭頂のレム

私は彼の著書⾒本が積まれた地下室で寝た。クラクフで初めて本気で怒るレムを⾒た。 だれか役⼈が電話をかけてきて、彼はただ「No, no!」と叫んでいた。その後、彼の奥 さんがいつもみんなをなだめようとしていた。ウィーン滞在の前、レムは何度かオースト リアで休暇を過ごしたが、旅⾏は好きではなく、「不動産」と⾃称していた。ポーランド⼈ のローマ法皇が初めて祖国を訪れたときも彼はオーストリアにおり、奥さんが敬虔なキリ スト教徒だったため、私は彼⼥が教皇のウィーン訪問を⾒られるようにするためだけにテ レビを買ってあげた。

レムとの関係で私が犯した最⼤のまちがいは、おそらくレムが戒厳令のポーランド[1981- 83]を離れたとき、オーストリアに招いたことだろう。彼は表向きは、科学知識だけに興味 を持つ優れた知性であるかのように振る舞いたがる。初期の『シュピーゲル』誌のエッセ イでは、「論理の奴隷」を名乗り、論理的にしか考えられないと述べていた。そして 必要とあれば、彼は⾮常に魅⼒的に振る舞えた。だが1980年代にウィーンで数年間暮ら し、ほぼ毎週会って⾝近で観察したときのレムは、⼤⼈物ではなく、⾮常に不安まみれ で、疑⼼暗⻤に苛まれ、それを傲慢な態度で覆い隠そうとする⼈物で、気まぐれと偏⾒ま みれだった。会話は繰り返しばかりのモノローグだらけで、反論されるとますます⽀離滅 裂になる。

⽭盾に満ちた⼈物ではあって、ある⾯では気前が良いのに、別のときには死ぬほどセコ く、知らない⼈でも盲⽬的に信頼するかと思えば妄想的なほど疑り深い。⾦には執着する が、合理的な計算⾼さはない。ウィーンでの⼝癖は「⽖に⽕を点すような暮らし」だっ た。ズーアカンプ社出版⼈のウンゼルト博⼠は、必要ならウィーンの弁護⼠を紹介すると申し出た。レム は弁護⼠など必要なかったのに、わざわざ⾃⼰紹介にでかけ、数年後にそれで⾼額の請求 書が来た。相⼿の弁護⼠は挨拶しただけだったのだが。

時には⾦などまったく気にしない ⼤作家を装ったかと思えば、⼩銭単位まで値切る。そしてこの両者の間で逡巡があれば、 マンモン(富の神)が芸術家に勝つ。 要求を通したいときは「国交断絶」で脅す。交渉を始める際にはまず、こんな⽬に あわされたと蒸し返して激怒してみせ、要求が通ると徐々に落ち着くという⼿⼝が好みだった。

共産主義は⼤嫌いで、私的な場ではそれを隠さなかったが、「殉教者」になる気はない と強調していた。公の場では、政治的に微妙な問題に直⾯したら⾔葉巧みにかわした。彼 の共産主義嫌悪は、私の⾒たところ、政治的信念からというより、主に共産主義の幹部た ちがバカだと思っていたせいだと思う。それにレムは、⾃分の意志より上の権威など認め なかったのだ。国家指導部に抗議の⼿紙を送りはしたが、それは純粋なポーズでしかなか った。それらの⼿紙は棚上げされるだけで、公然とそれを表明しなければ、⾃分に害が及 ばないことを彼は⼗分に承知していたはずだ。そのくせ、彼は体制が⾃分を⽀援するのは当然だと考えていた。政治局員のシュラフツィ ツが⼀度彼を訪ね、ノーベル賞候補に推薦するなど便宜をはかりたいと約束した。だが実 現する前に失脚してしまった。レムは⾝の危険を感じると沈黙したが、強い⽴場にあると思 えばかなり攻撃的になった。たとえば構造主義に対する論争では価値判断を排除する構造 主義に反発し、「⽂化」の擁護者として論争の渦中に⾶び込んでいった。ただの⽇和⾒主義 だ。

彼は他⼈を、⾃分の役に⽴つかだけで判断した。ヴェルナー・ベルテルはレ ムが本当に感謝すべき編集者で、ウンゼルトにレムとの契約 を奨めた⼈物だ。ベルテルがインゼル社を辞めて編集⻑としてS.フィッシャー社に移る と、レムはベルリン科学コロギウム滞在中に⼩説『⼤失敗』を95,000マルクで彼に売っ た。ウンゼルト博⼠にはかなりの恩義があるわけで、お礼の電話⼀本くらいはあってしか るべきだろう。だがレムはこれを⾃分の「独⽴の証」と⾒なした。「⾦がウンゼルト博⼠の 懐から出たものではない」からであり、ウンゼルド博⼠の60歳誕⽣⽇を祝った「おべっか使いのズーアカンプ社の作家たち」とは⼀線を画したいからだとのこと。だが実際にはな んともけち臭いだけだ。だが、ドイツのペーパーバック出版社の編集⻑となったベルテル は、バルトシェフスキの本へのレムの序⽂を不適切だと判断したことで、レムの不興を買 った。出版社はベルテルの判断を覆してレムの序⽂を採⽤したが、それ以来レムはベルテ ルの名前を出すだけで顔をしかめるようになった。彼は敵となったのだ。

白黒写真。二人の男性が木製のベンチに腰掛けている。右側の男性は眼鏡をかけ、髪が薄くサスペンダー姿で腕を組み、横を向いている。左側の男性はサングラスをかけ、白いシャツ姿でカメラを持っている。背景は木々や街の風景が見える屋外の桟橋やデッキのような場所。
シェーンブルン宮庭園の著者とレム

レムが私に対して10万ドイツマルクの訴訟を起こしたのは、私がその費⽤を負担できな いと思い(『泰平ヨンの現地検証』には、裕福な⼈物が相⼿を訴訟で死ぬまで追い詰める 場⾯がある)、私が彼を怖がっていると思ったせいだろう。以前にも彼は弁護⼠を通じて⼿ 紙を寄越し、「何らかの形で」彼を侮辱した場合(およびその他奇妙な条項いくつか)、⽰談 なしに約7万マルクを⽀払うことに合意せよ、と⾔ってきた。彼は敗訴したが、その裁判 は何ら意味のあるものについてではなく、単に私に費⽤をかけさせるためでしかなかっ た。レムは控訴もしなかった。

だが、私が仲介した契約については「当然」合意した⼿数料を引き続き受け取れると保 証しておきながら(彼は当然のことを強調したがり、そしてすぐにそれを破るのだった。 私は真に受けたことはなかった)、その後すぐに出版者に対して契約の更新を要求し、⾃分 に直接⽀払いをしろとか、その他⼿数料を免れるためだけの⼯作を仕組んだ。当然、⼿数 料の精算は⼀切しなかった。おそらくそんな少額について訴訟する意味はないし、ポーラ ンドの裁判所で「ポーランド最⾼の息⼦」に対して勝訴する可能性は低く、英語書類をポ ーランド語に翻訳する費⽤も⾼額になると踏んでいたのだろう。

レムは⾃分の⾔葉は真実であり、少なくともそれを他⼈が疑問視してはならないと思っ ていたらしい。だが、「⾃然の法則」がいつも彼のしばしば気前の良い約束を守るのを妨 げた。私はかつてレムを「クラクフの弁証法的賢者」と呼んだが、これは⼤まち がいだった。レムは確かにきわめて頭がよかった(南ポーランドで最も賢い⼦供だったと ⾃慢したがった)。とはいえ数学⾳痴という⽋点も抱えてはいたが。しかし頭はよくても 「賢者」ではなかった。ある意味でいつまでも⼦供のままで、しかもかなり意地の悪い⼦ 供だ。⼈間性についての理解は極めて浅く、社会性も未熟だった。彼の最も親しい(おそ らく唯⼀の)友⼈である⽂学理論家のヤン・ブウォンスキと作家のヤン・ユゼフ・シェパ ンスキが、彼の作品に全く興味を⽰さなかったことは、彼にとって⼤きな打撃だったろう。シェパンスキは短い⽂章で「想像⼒がある」と認めただけ、ブウォンスキ はSFに関する論説を一本書いただけで、いかにそれになじめなかったかがはっき り述べられていた。

SFにおけるレムの業績は確かに傑出していたが、彼は背伸びをしたがった。「科学⽂献 なしでは⽣きられない」という主張もその⼀つだ。実際には『サイエンティフィック・ア メリカン』ですら流し読みする程度のくせに、それを「SF屋ども」向けのゴミクズ呼ばわ りしていた。⽴派な物理学教授でエドワード・テラーらと共同研究もした著名なSF作家 グレゴリー・ベンフォードに対してさえ、宇宙論の問題について書く資格がないと⾔い放 つ始末だ。本物の科学者で⼤衆科学誌に頼らなくても書けるSF作家は⼤勢いるのだが。 彼は⼥性を蔑視していた。アーシュラ・K・ル・グウィンが、『ニューヨーカー』誌に載っ たレムの⾃伝的エッセイ[邦訳「偶然と必然の間で」『⾼い城・⽂学エッセイ』所収]で⾃分に触れ なかったと不満を述べたとき、彼は「私の作家としての成⻑にあなたは何の役割を果たし ていない」と(正当にも)答えた。だがその際に彼は私相⼿に、⼥は想像⼒が ⼆流だから男性ほど上⼿く書けないとご託宣を垂れた。『⼤失敗』では、⼥性は出産する 存在だから宇宙にくるなと書いた(アメリカ版ではこの部分は削除された[邦訳には入っていて解説で説明あり])。

作家としては驚くべき創意⼯夫に満ちたレムだが、観察⼒の完全な⽋如を⽰すエピソー ドとして、ヤツェク・ジェショトニクが掘り起こした話がある。クリスティアン・グラー フ・フォン・クロコウが『三つの世界の客』の中で、このクラクフの作家仲間について次 の短い逸話を語っているのだ。

1982年から1983年にかけて、私は彼と⼀緒にベルリンの科学コロギウムで⼀年を 過ごした。到着して間もなく、彼が私のところに来た。

「フォン・クロコウさん、申し訳ないが、ここをすぐ去らなければなりません」

「いったいどうしてですか、レムさん?」

「私の前に泊まった奴がブタだったんですよ。ええ、ブタ野郎です。浴槽がないとやっていけない。そのことで頭がいっぱいだ。でもそれが使えないんです」

「何で使えないんですか?」

「浴槽の中の⿊い丸い汚れです。前の野郎がきれいにしていか なかったので、それがもう完全に染みついてしまっている。この三⽇というもの、街 で⼿に⼊る最も強⼒な洗剤でこすり続けているのに、全く落ちないんです」

私はすぐに処理すると約束し、管理⼈を呼んだ。そしていっしょに浴室に向かった。

「ほら、あの⿊い縁——あのブタ野郎め!」とレムは再び憤慨した。

管理⼈と私は顔を⾒合わせ、私は こう⾔った。「レムさん、失礼ですが、照明具を動かしてもいいですか?」

照明具は動いた——そして同時にその影、つまりその浴槽の⿊い輪も。かの⾼名なSF作家は 三⽇にわたり、影をこすり続けていたのだった。

 

(“Der Mann, der den Schatten scheuerte” by Dr. Franz Rottensteiner ⼭形浩⽣訳)