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『社会を変えるには』評への批判を受けて

社会を変えるには (講談社現代新書)

社会を変えるには (講談社現代新書)

Executive Summary

kamayanによる山形の小熊『社会を変えるには』批判への論難は、その想定読者に関する主張も妥当性を欠き、また処方箋を読み取れていないとの批判も不当で、知ってることしか書いてないから批判したはずという勘ぐりも当たっていない。そしてそれ以上に、山形バーカと書くよりも、本のよさをストレートに自分なりに訴えたほうがあらゆる関係者にとってよい結果をもたらすんじゃないか?

はじめに

ぼくがしばらく前に小熊『社会を変えるには』という本についてかなり厳しいことを書いた。この本は、反原発デモとかに行こうか迷ったりしている人々を鼓舞する本で、ためらわずに発言し行動することで社会は変わるんだとさとす。でも、その全段として非常に怪しげな社会分析やまったく笑止な科学観、おそらく読者の多くにはまったく関心のない安保学生運動の歴史を延々と並べ立てていた。だから前置きがインチキだしそれが結論に貢献していない、というのがぼくの主張だった。

それに対して、最近kamayanが反論を書いている。「『社会を変えるには』のメモ」という文だ。(webcite)その論旨は、ぼくが見る限り以下の通り:

  • 『社会を変えるには』の想定読者は明確であり、その人々に対してあの本はきわめて有効である。(山形はそれを理解できないバカである)
  • 山形は、本書を読んで処方箋が書いてあるのに理解できていない(よって山形はバカである)
  • 山形は、本書に自分の知ってることしか書いてないと思ってバカにしたんだろう(よって山形はバカである)
  • よって山形はダメダメである

さて、ぼく自身のバカさ加減については、個人的に思うところがないでもない。かつて柳下毅一郎はぼくのことを、パペッティア星人のよう(にバカ)なやつ(追記:ちがった。ナンとか人のプロテクター、だって。リングワールド読んだのずいぶん昔だから……)、と述べていて、非常に的確な指摘だと思う。でも、この文に書かれた指摘に関する限り、ぼくはちょっと不当だと思うし、またネット上の文章ということでちょっと前から少し考えていたこともあるので、書いてしまおう。

1. kamayan議論への疑問

1.1. 本書の想定読者は明解である。

kamayanは、本書の想定読者が明確だという。ネトウヨ予備軍と、昔のシュプレヒコールの波や第七旅団の歌を忘れたジジババどもだそうな。山形はそれを理解し損ねたので、この本の意義も捉え損ねている、というわけだ。

が……ぼくはそんな想定読者が明確だとは思わない。それどころかまったくピントはずれだと思うのだ。

まずネトウヨ予備軍は、この本を読んでどのように改心するんだろうか? ぼくはネトウヨ予備軍は、自分の生活のうっぷん――失業や、それに伴う社会や政治への不満――がゆがみ、自分より優遇されているように見える在日朝鮮人生活保護受給者や役人にぶつけている人々だと思っている。それが現代社会のとんちんかんな分析やら、ベ平連革マルの失敗やらを読むことで、どう改心するんだろうか?

安保世代ジジイたちへの まだわからないでもない。とはいえ、そんな必要はないようにも思う。かつての学生運動の残党どもは、言われるまでもなくいまの反原発デモやジャスミン動乱で自分の時代が来たと舞い上がっている。でも彼らは自分のかつての失敗をきちんと反省していないようだし、あの本を読んでかれらの失敗を理解させるのはいい考えかもしれない。が……ぼくは彼らにそれほどの理解力があるとは思わないので、無駄だと思うし、彼らがいまさら小熊の教えを請うとでも思うの? ぼくは彼らが読者としてはまったく想定できないと思う。

だとすればあの本はだれを想定読者にしているんだろうか。それはあの本自身にはっきり書いてある。あれは、デモに行こうかナー、でもそんなことしても無駄だと言ってる人もいるし、どうしようかなー、と迷っている人を対象にしている。自分なりに思うところがあるんだけれど、それを声にするのをためらっている人々が相手だ。これまで学生運動や社会に対して関心を持ったことのない、ノンポリ一般人だ。なぜそれがわかるか? あの本の結論がそれだからだ。デモに行け、声を出そう、というのがあの本の結論だ。

したがって、kamayanの主張はまず最初の点でぼくはピントを外している。あの本の想定読者は、彼が考えているようなモノではあり得ない。もしネトウヨ予備軍やら安保残党が対象だというなら(しかも彼のいうようにそれが自明なら)あの本がそうした層に対して何を訴えかけ、彼らがどう改心するのかをkamayan は説明できるはずだ。

でも無理だろう。ぼくが提示した想定読者像のほうが、ぼくは説得力があると思う。

よって、kamayanの主張は妥当ではないし、この部分については山形はバカと言われなくてもいいんじゃないかな?

1.2. 処方箋が読み取れていない

上にあるとおり、そしてもとの文にも書いた通り、ぼくはあの本の最終的な処方箋、社会の変え方は理解したつもりだ。繰り返すけれど、声を出そう、デモにも行け、というのがあの本の結論だ。

そしてぼくは、その結論自体にはまったく異論はない。みんなもっと発言すべきだし、デモに行くのがいいと思えばいってほしい。なぜkamayanが、ぼくが処方箋を読み取れていないと判断したのかは不明だ。ここに書いたのではない別の処方箋があるんだろうか? ぼくはないと思うけれど、でもあるなら是非説明してほしいところ。

1.3. 山形は本書に自分が知ってることしか書いてないと思い込んで批判している

あのねえ……

書評というのは、第三者のために書く。したがって、ぼくは本を評価するときには、そこに書かれていることが自分にとって目新しいか、などという基準は使わない。いやそれどころか、ぼくは、自分のまったく知らないことしか書いていない本なんか書評できない。それが正しいかどうか見当つかないもの。知っていることが書いてある部分を見て、そこの書き方が納得いくモノかどうかを見ることで、知らない部分についての信用もできる。あらゆる知識は既存の知識をベースに進むからだ。

そしてぼくがこの本について文句があったのは、「そんなこと知ってる」という部分が多かったからじゃない。その知っている部分について、変なことがいろいろ書いてあったからだし(科学がらみの話)、また重要なポイントも矮小化されていたからだ(経済の話)。そしてその基本的な社会観自体が変だと思える理由も持っているからだ。

さて、ぼくは実はこの本の主張自体にはそんなに反対ではない。みんなもっと、思っていることを言うべきだし、それを行動で示すのもよいことだ。

でも、その主張の評価と本としての評価とは別なのだ。この結論は、あの分厚い本のそれまでの主張と有機的にからみあっているだろうか? これを言うのに怪しげな現代社会の変遷論みたいなのが必要なんだろうか? あるいはベ平連がなぜ失敗し安田講堂の攻防がなぜダメだったか、という話をする必然性があったんだろうか?

ぼくは、必然性はないと思った。特に、ぼくが考えた本書の想定読者は、そもそもベ平連中ピ連中核派もきいたことがない人々だ。携帯とコンビニとインターネットを支える科学物質文明そのものにも、あまり本気では反対していないだろう。つまり前半のむずかしい歴史のおさらい(しかも疑問点多し)は、結論を引き出すのに貢献していない。むしろあの本の本来の狙いを邪魔したかもしれない。真の想定読者たちは、最初の50ページでうんざりしてあの本を放り出しただろうから。

まとめると、ぼくは知ってることしか書いてないことに苛立ったんじゃない。まずインチキなことが書いてあるのに苛立った。そしてそれが、ぼくの考える想定読者や本書の結論と有機的に関連付いていないことに苛立った。

つまり、kamayanの言っていることはここでもピント外れだと思う。

2. 余談:本の評価について

さて、ぼくは結構度量が広く理解力もあるので、なぜkamayanがあのような判断を下したのか、というのは想像がつかないわけじゃない。kamayanは、個人的ないろいろな事情から、あの本をいい本だと思った。そして、それを批判している山形は、あの本の中身について文句をつけているので、結論も否定しているにちがいない、よって山形はバカである、という怒りにまかせてあれを書いたんだろう。

だが、それを書いた人や訳した人が嫌いだ、ということと、その本がいいか悪いか、というのはまた別の話だ。さらにその本の最終的な主張に賛成かどうか、ということとその本自体がいいか、というのもまた別物なのだ。

多くの人はここらへんが区別できない、あるいは区別しない。そして……困ったことに、多くの場合には、それは必ずしも悪い戦術じゃない。というのも、往々にして、バカの本は、立論も結論もバカだからだ。「アポロは月にいっていない! NASAの陰謀だ!」という結論の本があったら、おそらくそこに至る立論もダメダメで、それを書いた人もダメだろう。どれか一つがダメなら、立論も結論も作者も三点セットでダメ、というのは簡便法として通常は決して悪くない判断だ。どこかを批判していたら、たぶん残りの部分も批判されているんだろうと思ってしまうのも人情だ。

でも、そうでない場合もある。立論はいいのに結論がダメな本、結論はいいのに立論がダメな本、ダメな人が書いたけれどなぜかいい本。全二者は、いいところはあってもダメな本として論難する必要がある。一方、後者は慎重に拾ってあげたほうがいい。ぼくはそれは明確にしているつもりだったんだけれど……ちょっとわかりにくかったかもしれない。

3. 結論と提言:本を紹介したいなら本のことを書こう!

さて、ぼくの考えよりも重要なことが一つある。もとのkamayanの文は、「『社会を変えるには』のメモ」と題されていた。ところが……実はこの本についてのきちんとした説明がほとんどない。

もしkamayanの文章に、なぜあの本の想定読者がネトウヨ予備軍だと思われるのか、かれらがどうやってあの本に折伏されるのかという明確な説明があれば、ぼくのこの文章は不要だ。ぼくがあの本における世界観や科学像の誤りとして指摘したものが、なぜ本当は正しいのか――あるいは本質的には関係ない、あるいは簡便法として容認できるのか――が書かれていれば、これまたぼくはこんな文章の必要はなかった。そして、そういうことをきちんと説明できていれば、彼があの文でしつこく繰り返す、山形はバカだなんてことは言うまでもなかっただろう。両者の文を見比べた人は、自然にそういう結論に到達するはずだ。そして、この愚かな山形ですら、何かしら学ぶところがあったかもしれないじゃないか。

でも、彼がやったように山形についてあれこれ勘ぐりを入れることで、ぼくはそんなに有益なことが達成されたとは思わない。こんな風に逆襲されるし、まただれもあの本から何を読み取るべきかという新しい視点も得られない。山形が嫌いな人は、あれを読んで「やっぱ山形はバカだ」と溜飲を下げるかも知れない。でも、同じバカぶりを指摘するなら、あれとかこれとか、もっと突っ込むべきところがあるんじゃないか。そしてそれが世に広まったところで、そんなにいいことがあるわけじゃないと思う。それより、小熊の本が読まれるようになったほうがkamayanとしても本望じゃないの? あの文ではそれが実現できていない。

つまり、彼が山形の駄文についてあれこれ突っ込まず、山形なんぞについて勘ぐったりせずに、なぜ自分が『社会を変えるには』がよい本だと思ったのかをストレートに書いてくれれば、そのほうが世のため人のため、そして山形のためにもよかったはずなんだ。できれば、今からでもそれをやってほしいと願うものではあるんだけれどね。



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