訳しても読んだ人は、たぶんぼく自身以外はあまりいないと思う。長ったらしいし、テメーらみんな、度しがたい怠けものだから。が、読んだ人なら (そしてもちろんあの『オリエンタリズム』をまともに読んだ人なら) その中でこれまで「オリエンタリスト/東洋学者」どもが、無知と偏見まみれでイスラム世界を歪めまくり、実態とは似ても似つかないものに仕立て上げ、自分たちのイデオロギーにあうように歪曲して、植民地支配と軍事支配に都合良く描きだして列強の世界収奪と支配に奉仕してきた様子が描かれており、そしてその代表例としてバーナード・ルイスがやり玉にあがっている。特に、1995年あとがきでは、ルイスが『オリエンタリズム』やそれが引き起こした風潮に批判を述べた Islam and the West (English Edition) 所収の文に、嘲笑めいた物言いがついている。
それでも、オリエンタリズム (特に私のもの) を批判するのは無意味であり、距離をおいた学術研究という発想そのものをなにやら侵犯するものだと論じる議論を持ち出そうとする、継続的な試みが一つあった。それを試みたのはバーナード・ルイスで、私が拙著で批判的な数ページを割いた人物ではある。『オリエンタリズム』刊行から15年後、ルイスは一部が著書 Islam and the West (English Edition) に収録された一連の論説を発表した。そしてその主要な部分は私に対する攻撃であり、それをとりまく形で粗雑かつ典型的なまでにオリエンタリスト的な定式化——イスラムは近代化に怒っている、イスラムは教会と国家の区別を一度も行わなかった等々——を動員する論説が配置されている。そのすべては極度の一般化で宣言されており、個別イスラム教徒とイスラム社会ごと、イスラムの伝統や時代ごとの差についてはほとんど言及がない。ルイスはある意味で、もともと私の批判が向けられていたオリエンタリストのギルド代弁者を自認するようになったので、その手口についてもう少し紙幅を割く価値はあるだろう。彼の思想はやんぬるかな、その追従者や模倣者の間でかなり流行しているのだ。そうした連中の仕事はどうやら、西洋の消費者に対して怒り狂った、例外なく非民主的で暴力的なイスラム世界の脅威を警告することらしいのだ。
定型的なイギリス古典教育と大英帝国拡張とのつながりは、ルイスが想定するよりも複雑なものだが、現代文献学の歴史においてen力と知識の間にオリエンタリズムの場合ほど露骨な並列が存在する例はない。イスラムとオリエントについての情報の相当部分は、植民地権力によって植民地主義を正当化するのに使われたが、それをもたらしたのはオリエンタリスト的な学術研究だった。多くの著者による最近の研究、カール・A・ブレッケンリッジとピーター・ファンデルフェール編 Orientalism and the Postcolonial Predicament: Perspectives on South Asia (South Asia Seminar)*4は、オリエンタリスト的知識が南アジアの植民地行政に使われた様子を大量の記録で実証している。地域学者の間では、オリエンタリスト、外務系政府部局などの地域学者の間では、かなり一貫したやりとりが未だに行われてる。さらに、イスラムやアラブの感性をめぐるステレオタイプ、たとえば怠惰、宿命主義、残虐さ、堕落、ひけらかしといった、ジョン・ブキャンからV・S・ナイポールまで多くの作家に見られるものは、学術オリエンタリズムの分野でも根底にある思いこみとなっていた。これに対しインド学や中国学と一般文化との間でのクリシェのやりとりは、指摘すべき関係や拝借は見られても、これほど華々しいものではない。また西側における中国学やインド学の専門家の慣行と、欧米で将来にわたりイスラムを研究してきたくせに、それを崇拝するどころか、どうしても好きになれない地域や宗教や文化だと考える多くの専門学者との間には、ほとんど類似性はないのだ。
要するに、イスラムやアラブのオリエンタリズムと現代ヨーロッパ文明との関係を研究するためには、別にこの世に存在したあらゆるオリエンタリストやあらゆるオリエンタリストの伝統や、オリエンタリストの書いたものすべてをカタログ一覧にして、それらをひとくくりにろくでもない無価値な帝国主義だと断じる必要はないのだ。私はそもそもそんなことをしていない。『オリエンタリズム』が陰謀だとか、「西洋」が野蛮だとか示唆するのは無知蒙昧の行いだ。どちらもルイスやそのエピゴーネンの一人、イラク報道官K・マキヤが厚顔にも私になすりつけたとんでもない愚言だ。その一方で、人々がオリエントについて書き、考え、語ってきた文化、政治、イデオロギー、制度的な文脈を抑圧するのは、学者であろうとなかろうと偽善的だ。そしてすでに述べたように、『オリエンタリズム』が実に多くの思慮深い非西洋人に反対される理由が、現代の言説が植民地時代に起源を持つ権力の言説だと正しく認識されているからだと理解するのはきわめて重要だ。これは最近のきわめて優秀なニコラス・B・ダークス編のシンポジウムColonialism and Culture (The Comparative Studies In Society And History Book Series) の主題となっている*5。この種の言説は、主にイスラムが一枚岩で変化せず、したがって強力な国内利害のために「専門家」によってマーケティングできるのだという想定に基づいているが、そこではイスラム教徒もアラブもその他の非人間化された劣った人々のだれも、自分を人間として認識できず、その観察者を単なる学者としては認識できないのである。最大でも彼らはその現代オリエンタリズムの言説やそれに対応したアメリカ先住民やアフリカについて構築された類似の知について、学術的な客観性というフィクションを維持するために、そうした思考体系の文化的な文脈を否定し、抑圧し、歪曲する慢性的な傾向を見出すのである。
かつては人々と文化の地理的な分離に基づいていた歴史的体験を再考して再定式化するという発想は、実に大量の学術批評研究の核心にある。たった三つだけ例を挙げると、 Ammiel Alcalayの After Arabs and Jews: Remaking Levantine Culture、Paul Gilroy The Black Atlantic: Modernity and Double-Consciousness, および Moira Ferguson Subject to Others: British Women Writers and Colonial Slavery, 1670-1834*11 などだ。
*2:O'Hanlon and Washbrook, "After Orientalism: Culture, Criticism, and Politics in the Third World;" Prakash, "Can the Subaltern Ride? A Reply to O'Hanlon and Washbrook," いずれも Comparative Studies in Society and History, IV, 9 (January 1992), 141-184 所収.
*7:"Notes on the 'Post-Colonial'," Social Text, 31/32 (1992), 106.
*8:Magdoff, "Globalisation-To What End?," Socialist Register 1992: New World Order?, ed. Ralph Milliband and Leo Panitch (New York: Monthly Review Press, 1992), 132.
*9:Miyoshi, "A Borderless World? From Colonialism to Trans-nationalism and the Decline of the Nation-State," Critical Inquiry, 19, 4 (Summer 1993), 726-51; Dirlik, "The Postcolonial Aura: Third World Criticism in the Age of Global Capitalism," Critical Inquiry, 20, 2 (Winter 1994), 328-56.
*10:Ireland's Field Day (London: Hutchinson, 1985), pp. Vll-Vlll.
*11:Alcalay (Minneapolis: University of Minnesota Press, 1993); Gilroy (Cambridge: Harvard University Press, 1993); Ferguson (London: Routledge, 1992).