
はじめに
さて、スタニスワフ・レム「SFと未来学」だ。スキャン屋からファイルがきたので、続きをやって、第2章の後半分が完了した。
そして、ますます話がわやくちゃ、としか言い様がない。
スタニスワフ・レム『SFと未来学 I』
第2章の前半「空想的なものの存在論」は、SFとファンタジーとおとぎ話などの、ずいぶん恣意的な分類論に終始していた、という話はした。そこでもいったとおり、ここでの「存在論」というのは、話をわかりにくくするだけで、単に「特徴」という意味でしかなかった。
cruel.hatenablog.com
で、後半は「空想的なものの認識論」だ。
1. 「認識論」と、本書の大きな前提
さて一般に「認識論」(エピステーメー) というのも何のことだか、ぼくにはよくわからない。日本語でこの題名がついた本や雑誌や論説と称する駄文で、何が認識論なのかわかったためしがない。
だがここでの「認識論」というのは、本当につまらないことだ。「そこから得られる知見」という意味でしかないのだ。
さらに認識論云々以前に、この部分の論理の流れが、そもそもまったく意味不明。個別の部分で何を言っているのかはわかる。そしてそれにはおもしろい部分もある。が、それが全体の構成として何を言わんとしているの? 普通は、何か前提をおいて、そこからだんだん議論を発展させ、何かその部分としての結論に到達する、というのが通常の論説文だ。が、この部分にはそれがまったくない。そのままでは何を言おうとしているのか絶対わからない。少なくとも、これを読んでいる一般のみなさんには。
さて、ぼくはレムの言いたいことはわからなくはない。が、それはぼくが頭がいいから……というわけでは必ずしもない。レムのきわめて変な前提をなんとか読み取って、それに照らせば、なんとなくわからなくもない、ということだ。そしてぼくは、一応ここまで訳してきたんで、その前提がわかるつもりだ。
その前提というのは何か?
レムは、SFっつーのは社会の発達や新技術の影響について、何か正しいきちんとした予想と知見を提供しなくてはいけない、というものだ。別にそれは正確な予測でなくてもいいが、その枠組みなり提示した仕掛けの持つ帰結の全体像なりは明確に示さねばならない、ということ。それが大前提だ。
これについては前に述べた。第1章のこんな下りがそれに相当する。
だが、いずれ未来学的に利用されると期待して我々がSFに求めるアイデアや概念構造は、見せかけのようなものであってはならない。またそれは、ある特定の読み方で引き起こされた、単なる一時的幻影のかけらであってはならない。それは読了後も、読者の不可侵かつ不変の財産でなければならない。SFには本物の情報が求められる。(p.17)
レムにとってのSFとはそういうものだ。あくまでお勉強のツールなのだ。その少し前にはこうある。
SFで求められる情報オリジナリティは、コミュニケーションの表現構造にはない。表現中でオリジナルと受け取られるが、後に平凡さが明らかになる情報は、SFでは失格だ。だがここで一つ但し書きをつけよう。私は「平均的読者」としてではなく、真の認識論的価値を求める者としてこう述べる。だから本書は、言わば今日の支配的な美的慣習に逆らうことになる。(p.16、強調引用者)
ちなみにここでも「認識論的価値」というのが何のことかわかりにくいので、たいがいの人はおそらく初読ではこの文が何のことやらわからない。でもこれは単に「知見」「知識」ということなのだ。
そしてこれで、本書の題名「SFと未来学」というのがどういう意味なのかがわかってくる。未来学というのは、この章でもぼろくそに書かれているが、ハーマン・カーンとかの一時流行った未来予測のようなものだ。繰り返すが、彼はSFというのが、そのいま出回っているインチキな未来学に比肩する、未来についての知見を与えるべきジャンルだと思っている。まさに、未来学が大風呂敷を広げていた通り。だからこの題名は、いまの(ダメな)未来学と対比させたSF、という意味だ。
本書は、それがSFの意義であり可能性なんですよ、だからそういう基準でSFをあれこれ論じますよ、というきわめて偏狭な本なのだ。
これを見て、「いやSFにそんなもの求めていないないよ」という人はたくさんいるだろうし、また作家のほうも「そんな意図で書いてないよ」という人や作品はいくらもある。だが本書のレムは、そんな軟弱なことは許さない。彼にとってそれは、SFの意義を裏切る許しがたい代物なのだ。
だから彼は、リチャード・ガイスの書き殴りSF風ポルノの設定をまじめに批判してみせる。バーチャルリアリティ (レムは「幻影装置」という) についての考察がいい加減である、といって。そんなポルノのストーリーをあれこれつつきまわすことに何の意味が? ぼくは無意味だと思う。日本AVの時間ストップものが、時間停止をきちんと考え抜いてないと言うことになんか意味がありますのん? が、レムはそれを嬉々としてやる。
(ちなみに、リチャード・ガイスのSFポルノって、何か邦訳あったんだよね。昔『SF宝石』で、鏡明が書評していて、いかにろくでもないかをおもしろおかしく述べたうえで、著者の名前がまちがってると指摘していたので覚えている。いやあ、よくオレはこんなくだらないことを覚えているもんだ)
さらにバージェス「時計じかけのオレンジ」は、精神医学の発展をきちんと勉強していないからダメで有害…… いやそんな話じゃないと思うけどなあ。
そして、ディック『ユービック』その他が大絶賛される。おお、レムさんわかってるねえ、と思って読むと、それは単に、ディックの幻想世界では、人々が自分が見ているのが幻想か現実かわからないのが徹底しているからすばらしい、というだけ。そしてそれがあれば、他のところのいい加減さは全部許してもらえる。
……あんた、そんなくだらないことでディックを評価してたの?
ではもう少し細かく見ていこう。
2. 「空想的なものの認識論」あらすじ
一歩下がって、もう少し細かく内容を見よう。この部分は10の節に分かれている。だが、それが全然つながっていないというか、あまりに散らばっている。まず冒頭では、世間的な未来学 (発表当時、すごく流行ってました) の解説と批判が展開される。その前の部分ではSFとファンタジーのちがいみたいなことを延々と言っていたので、まずそこで「突然なんで話が変わったのか」と混乱するのが人情だ。そして、ハインラインの1940年の作品を持ち出すことで、ほらSFで未来の枠組みをきちんと考えられているじゃないですか、と述べる。そこまでは、くだくだしいが趣旨はまあわかる。が、その後からもうグダグダになってしまうのだ。
以下にそのあらすじをまとめよう。
序論
SFは未来学に近いところがあるので、そこを見ていくよ。
1. 世界への視線
未来学はかけごえ倒れ。いまや地球が狭くなってすべてがからみあっている。今後は人口爆発と環境破壊と資源の枯渇が最大の問題となり、そのため地球規模の政府統一を行って全地球的な管理が必要になるが、未来学はそうした大きな枠組みすら提示できていない。世界が様々な面で相互依存して一つとなる一方で、先進国はますます進歩し、後進国はますます停滞して格差が広がり世界は分裂する。[読者の心の叫び:岡目八目ながら、レムが鉄板と考えていたトレンドもそんなに強固ではなかったよねえ……人口はいまや停滞のほうが心配だし。するとレムの「未来学」もひとのことを言えた義理ではないのでは。]
2. 創造理論の導入
科学的な創造は概念整理からモデル構築という手法のおかげで発展し、何を目指すかという目標があることで進歩してきた。芸術的創造は似たところもあるが、実証的な検証をうけないところがちがっている。
3. 未来学のパラダイム
未来学と称するものはまともな手法もなければパラダイムもない。ハーマン・カーンもトフラーも、サルトルもフロムも思いつきのデタラメを並べ、短期のトレンドをのばすだけ。ローマクラブとかはコンピュータシミュレーションをしてゼロ成長を訴えているがパラダイムがないために妥当性がない。自分は『技術大全』でいろいろ考えて、えらかった。でも人口増とか資源枯渇は問題。[読者の心の叫び: 最初の部分を繰り返してるし、まとめたほうがよかったんじゃないでしょうか。]
4. 未来学の無力
カーンら『紀元2000年』を見ると、あれこれ粗雑だし可能性の見通しもいい加減で、物事を考える座標軸もできていないのは明らか。網羅性を重視すると称して、物理学的に不可能な重力遮断なんかまで採りあげてクソもミソもいっしょ。さらにそのほうがアメリカの政治転覆より確率が高いって、賢そうなふりして無知のかたまり。いまのイデオロギーの表明でしかない。[読者の心の叫び: 上に同じ。整理しようよ。繰り返し大杉]
5. まちがっていても意義ある予測
別に予測は当たることが重要なのではなく、きちんとした枠組みを提示することが重要。ハインラインの短編「不満足な解決」は、1940年時点でしっかりした考えの枠組みがあり、マンハッタン計画、パックスアメリカーナ、放射能汚染などを見事に予測できたし、当たらなかったところがあってもその未来シナリオとしての優秀さは際立つ。ハーマン・カーンなんかよりずっとすごい。
6. システムに依存する倫理
未来予測においては、技術の変化などが倫理に与える影響も考えねばならない。バージェス/キューブリック「時計仕掛けのオレンジ」はサイコパスの精神治療/条件付けが、個人の内面の自由に対する侵害だという描き方をしているが、これは精神治療という技術とそれが基づく精神医学の知見について無知もはなはだしい。サイコパスというもの自体が、強迫神経症の結果であり、つまり精神の自由がない状態なので、治療することは自由の侵害どころか、自由を復活させること。そんなこともわからずに小説や映画作ってまちがった認識を広めるのは無知で有害。[読者の心の叫び: ほとんど言いがかりですな。『時計じかけのオレンジ』はそこがポイントじゃないと思う]そして、倫理を相対化するうちにそれを否定しようとする、スキナーみたいな論者や、ドゥルーズ=ガタリみたいなインチキも出てくる。[読者の心の叫び: なんで倫理だけ特出しされてるんです?]
7. 幻影装置=VR
おれ、『技術大全』で「幻影装置」(21世紀のいまならVR) の可能性書いた。VRの真価は、完全なVRになればもう現実とまったく区別つかなくなるってところだ。ヒョーツバーグ作品は、完全なVRがあるはずなのにみんな機械から離れた「本物」の自然を求めるというナンセンス。リチャード・ガイスのSFポルノも、完璧な幻影セックス装置があるのに人間セックスを希求するという矛盾まみれだし、ポルノは完全に即物的だ。いまの主流SFってダメダメだね。[読者の心の叫び: 著者自身すら認める書き殴りのSFポルノをSFの代表にするってひどくね?]
8. フィリップ・K・ディックまたは意図せぬ幻影装置
ディックのすごさは、幻覚の中に入った人が、それが現実か幻影か区別がつかないのをきちんと描いているからだ。おいらの幻影装置のポイントをきっちり把握してるよね。[読者の心の叫び: そんだけですか??!!!]
9. パラダイムの探求
未来学って枠組みがないのがダメだよな。ところで生殖細胞と脳細胞の中間のようなものを作り、それを環境に排してインテリジェント環境を作って、そこに倫理をエクスポートできるのではないか! 情報も質量を持つので E=mc2 の情報版ができる、だから情報により物質を生み出す天地創造が可能だぜ! 片道100年の宇宙旅行が実現したら、何が真実かを確認するのにも100年以上かかるので真偽の意味合いがかわる……[読者の心の叫び: まったく関係ないでしょう!!]
3. この部分の講評
さてどう思う? いまのまとめ、ぼくはフェアにやったつもりだが、正直いって混乱しきっていると思う。
それが最もはっきりしているのは、最後の9部「パラダイムの探究」。前の部分とまったく話がつながっていないのがわかると思う。アイデアとしてはおもしろい。まあ異論はあるが、いずれもそうかもしれん。環境に知性を持たせてそちらに倫理を任せるというのは、ある意味でアーキテクチャによる規制というレッシグ的なアイデアの先取り、と言えなくもない。でもそれで? それがここの話と何の関係がある?
何も関係ないのだ。未来学とも関係ない、SFのアイデアくらいにはなるが、別にそれでどうというわけでもない。レムが単に、突然思いついたことをぶちこんだだけだ。せいぜい、いまの未来学はこういう考察できないだろー、バーカ、という自慢でしかない。
他のところも全部この調子。未来学の現状とそのダメさ加減という話は三つのセクションに分かれているけれど、まったく整理されていなくてぐだぐだ。話はあっちとび、こっちとびで、余計なものばかり。
そんな面倒な話じゃないと思うんだよね。だってこの部分の論点というのは、きわめて単純だ。いまの未来学はダメ、という話をして、ハインライン作品では未来についての枠組みをうまく予測できてる、という話をする。それをもっとやりましょう——基本はそれだけなのだ。じゃあ、その論点をきちんと展開すればいい。いまの未来学はダメなのばかり、というのはわかりました。では、未来学の目指すべきものをある程度できているSF、惜しいSF、だめなものはこういうところを重視すればいいという指摘、そういうのを積み重ねれば、レムとして何を目指したいのか、一般のSFがどこでヘマっているのかについての見方が明確になるだろう。VRとディックの話も、その一例として挙げてくれれば議論が明確になったろう。
ところがそういう話は全然ない。
『技術大全』について、脱線まみれだと述べた。それはここでも変わらない。 話の流れをまったく無視して、その場で思いついたものをとにかくぶちこむ。それが比喩や例ならまだいい。といってもレムの持ち出す比喩はまったく場違いなものや、かえってわかりにくくなるものばかりではあるのだけれど。でも、ぶちこまれるのは脈絡も何もない、単なる脱線だ。たとえばガイスのSFポルノ評の前に、西側ではやたらにセックスが重視されるのは嘆かわしいというのが延々続く(この次の部分参照)。それはそうかもしれないが、ここでの話には関係ないだろ。
さらに批判はきわめて恣意的だ。ゲイスの小説はまさにポルノとして書かれた小説だ。そこにセックス出てくるからって何を文句言ってるんだ。それはあんたが批判するような文化規範の問題胃じゃないぞ。
あるいは「時計じかけのオレンジ」は、別にいまの精神医療の問題点を指摘しようとした小説ではない (と思う)。一歩さがれば、自由というのは反社会的な自由も含まれるのかとか、管理社会はどこまで許されるのかとか、いろんなテーマが見いだせる。でもそうしたものをすべて無視して、精神医学の勉強不足だ無知をふりまく有害文書だとレムは罵る。それは有益な批評なのか? たまたま自分の注目している話が雑だからって、無意味で有害呼ばわりすることい何の意味があるの?
一方でディックについては大絶賛する。が、その評価ポイントは? 幻覚の中では自分が幻覚を見ているか確認できないというのをきちんと描いている、というだけだ。それだけ? ディックの見所はそこですか? それだけでよければLSDフラッシュバック系小説みんなスゲーってことになりますが、それでいいんですか?
さらに、そのディックについてパラレルワールドの設定がおかしいとの指摘をしている。他の作品ではそういう設定のまちがいだけで有害文書呼ばわりされる。ところがディックでは、それはあっさりスルーされる。たまたまレムが注目している部分が、レムの気に入るように描かれているだけで、他の設定がどうであろうとディックはすばらしいことにされる。一方、ポルノ作品は設定がいい加減だというだけで延々と叩かれる。
それって、フェアな批評と言えるんだろうか。ぼくは言えないと思う。そのレムは別のディック評「フィリップ・K・ディック:にせ者たちに取り巻かれた幻視者」で、「注意深くそして好意的に読むこと」(『高い城/文学エッセイ』p.423) を求めている。「批評家のすべき仕事は作品を告発することではなく、作品を擁護することである。(中略) 作品を最も好意的な視点から提示することだけである」(同 p.407)。ぼくは別にこれには同意しないけれど、でもレム自身はこれができているだろうか? 全然。少なくともフェアに見ているだろうか? ぼくにはまったくそうは思えない。
4. レムの文章のひどさ
さらにレムの文はちょっとひどすぎる。次のところを見て欲しい。ここでは彼は、完全なVR世界では、その中の人にはVRか現実かは絶対にわかりませんという話をしている。主張はそれだけだ。一行ですむ。だが彼はそれを延々と引き伸ばす。
問題は物事の実際の状態をどう確定するかという話に帰着する。原子の微視的現象には
どうしても避けられない不確定性の限界があるのはわかっている。一方で巨視的現実には
そんな不確定性はない。[読者の心の叫び:ここで不確定性原理の話なんか持ち出す必要はまったくないだろ! 話がかえってわかりにくい]。ケネディ大統領暗殺を例にとれば [読者の心の叫び: 取るな! この例、何もわかりやすくなっていないので、段落のこの後すべて無駄]、その暗殺は具体的に行われた
ことはだれしも認めざるを得ない。暗殺者が2 人いたなら、それは3 人ではなく、1 人な
ら1 人だ。100% 確実に何が起きたかは分からない。その問題が決定的に解決されるかど
うかまったくわからなくても、その問題の解明を妨げるのは自然法則や超人的力、不可解
な障壁ではなく、ひたすら具体的で二次的な状況でしかないのはよくわかっている、つま
り疑問の余地はない。単一の電子の軌跡がわからないのと、ケネディ大統領の体を貫いた
銃弾の軌跡がわからないのとは、認識論的な観点からすれば、まったく別の話だ。前者に
ついての無知は根源的なものである。それは物質の性質そのものに内在しており、何を
もってしても変えることはできない。後者の事実についての無知は、観察データの不足、
観察の不確実性、調査の不十分さ、ひょっとすると暗殺者の巧妙さなど、その所与の状況
(たとえば実施された暗殺) についてどうしようもない覆いを提供する各種状況から生じ
るものだが、その状況の内在的な性質によるものではない。
だが幻影装置が実現した世界では、この区別が完全に消滅する。
その世界では、原理的には自分が「自然の現実」と接しているとはだれも完全に確信で
きない。この規則は、悪辣な犯罪者が人を睡眠中に拉致し幻影生成器に繋いで「幻影的に
誘拐する」ような社会的状況によるのではない。[読者の心の叫び:そんな変な状況を考えるやつがいるか! 持ち出すことで話がわかりにくくなってる]いいや、現実の現実の虚構とのちがいを
なくしてしまうのは、そうした状況ではない——犯罪的、警察、行政的、つまり「社会的」
性質の状況によるのではないのだ。技術自体の出現により、虚構と現実の区別が消滅して
しまう。実務的に言うなら、「幻影装置化の脅威」は実際には兆や京分の1 の確率まで減
らせるという意味で、ほぼゼロになる。正気の人なら誰もそんなことを真面目に考えない
(これは明日隕石で死ぬ可能性をだれも真剣に考えないのと同じだ)。[読者の心の叫び:!!!つまり実際にはまったくあり得ない話ってこと? だったらそんなことを考える必要はそもそもないのでは?]ここでの問題はそれ
とはちがった、超実践的な意味合いを持つ。[読者の心の叫び:これだけくだくだしく説明した後で、実はそれはすべて実務的にはまったく無意味な話で、単なる思考実験としての意味しかありません、と言い出すのかよ。では、そういう実務的にはまったく無意味なポイントが他人の小説で表現されていないといって批判することに、何の正当性がある?]幻影装置は世界との関係を歪め、幻影と現実
を分ける検証を排除する。こういうふうに言ってもいいだろう。検証が可能なら、それは幻影装置ではなく、原始的で不完全な原型でしかないのだ、と。(p.73)
とてもまともに読める文ではないので、目が拒否する人も多いだろう。レムがここで言っているのは、究極なVRの世界や幻覚の世界では、自分がVRにいるのか現実にいるのかもまったくわからなくなるよ、というだけのことだ。それは(ケネディ暗殺の謎みたいに)たまたまデータや確認手段がないからわからない、というものではない。確認そのものもVRの産物かもしれないという、その世界の本質のせいなのだ、というわけ。
そうだろうね。
でもそれだけのことを言うのに、レムの記述はどうだろうか。本筋とは関係ない不確定性原理の話。世の中解明できないこともある、というだけのために入れられるケネディ暗殺の話。あげくに実務的には区別つくから、こんな混乱が生じる可能性はゼロ、これは単なる重箱の隅、と自ら認めてしまう。
なんなんだよ。この本はすべてがこういう書き方になっている。
この段落はまだしも、一応はなんとか各種の話が本筋と関係している。単に比喩が下手クソなだけ、ともいえる。が、次のところなんかどうだ。
2) リチャード・ガイス『ロウ・ミート』はいわゆるSF風ポルノだ。『グレイ・マターズ』にもセックスはあるが、脇役だ。現代西洋の散文では、セックスが登場してもショックなど与えず、セックスがないほうががショックだというのは書き添えておこう。我々の社会からの作家は、西側の出版社、批評家、作家仲間から、エロス面でのほとんど「ビクトリア朝めいた禁欲」の理由を問われると絶句する。そんなあけすけな質問をされると、主人公の心理を描くときにセックスについての話がないと不完全と見なされるのだろうかとさえ思ってしまう。もちろんこれは慣習の問題だ。バルザックが「オルガン音楽に没頭するB侯爵夫人は痔が痒かった」と書けなかった規範倫理の残滓は、セックス方面ではことさら激しく破壊され、それをこまごまと検分するのが必須とされる。「とことんやれ」というこの現代性の標語からすれば、排便問題も注目されるべきだ。精神科医や心理学者は、多くの人において排便がきわめて放埒な白昼夢、特に「権力と支配の夢」を伴うことをよく知っている。寝室の振る舞いが便所より重要と考えるべき合理的理由はない。性の技法を高次の感情と同一視する者だけがこれを愛の冒涜と見る。感情の力が単なる強力な性能力で置き換えられれば、人生は簡単だが退屈になるだろう。文学はすでにそうなっている。誰が誰のどこに何をどう挿入するかを書く方が、個別で再現不能な魅力、反発、闘争、愛の乱流を描くより簡単だ。だから性の「脱タブー化」は、特に三流文学屋のための割引セールなのだ——それもごく短期的な割引だ、なぜなら誰もが常に猥褻なことを言うなら、何も猥褻ではなくなるからだ。持続的努力のポルノは異なる。『ロウ・ミート』は相当部分のポルノにSFの意匠を着せたものだが、優れたSFでもないし巧みなポルノでもない(たった2ページで眠気を誘うポルノは、私には成功とは思えない)。それでもこの作品は注目に値する。その枠組みは典型的な反ユートピアだ。過密で貧困、飢餓の未来世界で、密封ガラスドーム下、「デジタルマシン」(マザーコンピュータ)の支配下で米国文明の残滓が生きている。ドーム内は今日の米国に似ているが、もっとひどい(広告、自動化、空調など)。最大の革新は性生活で生じた。人間同士の性交は厳禁で、最も不道徳な部位はへそだ。なぜならそれはへその緒を連想させ、ひいては出産を連想させるからだ。体や頭に毛は一本たりとも許されない。性生活は完全幻影装置化している。市民はすべて任意の複雑な性的乱交を体験できる機械を持っている。これが私生活の最後の砦となっているのだ(だがここでも、だれもへそは出さず頭に毛すらない)。乱交は店で(今日のビデオテープのように)「セックステープ」として売られる。人工の性は、自然の性より完全で、パートナーは異常な美と無尽蔵の精力を持ち、性器の分泌物までコカ・コーラやオレンジの香りと味だ。だがこれほどの可能性があるのに、主人公の青年はこれら全てに背き、職場をクビになってから自殺する。隣人のティーン少女は同様に「缶詰の性」に耽る。両者の体験が小説の核心だ。二人は偶然知り合い、本物の性交(愛ではない——二人はそんな考えを思いついたこともない)という禁断の果実にあこがれてそれを試みるが、大失敗に終わる。少女は不感症、青年は半インポなのだ。二人は混乱で逃げだし、各自「Gエキサイター」(この装置がもたらす体験のマラソン的性格についてこの新語が使えるならだが)でてっとりばやく慰めを求める。(p.76)
さてこの段落の狙いは、ガイス「ロウ・ミート」のあらすじを説明することだ。つまり、必要なのは後半だけだ。ところが彼は前半の色をつけた部分で、西側では小説でセックスが珍重されすぎるというグチを垂れ流す。それはそうかもしれないが、ここでそんな話をしてどうする? しかもそうした批判を、普通の小説の説明のついでにやるならともかく、あんたがここで扱ってるのはポルノだぞ。そこにセックスが多いと文句言ってどうすんの?
さらにその『ロウ・ミート』あらすじも、なんでこんなに細かく長いの? へその話とか毛がない話とか、その後の議論に何も関係ない。みんなVRセックスにふけって、本物のセックスができなくなってる、という話さえわかれば、その後のレムの批判はすべてわかる。
ディックの作品でも、『去年を待ちながら』『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』『ユービック』のストーリーが延々と解説されるけれど、結局のポイントは、幻想が多重化されていて現実か幻想かわからなくなっているということだけ。まったくいらないでしょう。それがひたすら全体の見通しを悪くして、結局彼の論点はわかりにくくなってしまっている。
ある意味で、このひどい文章はレムには有利に働いている。『高い城/文学エッセイ』に収録されている各種の論説は、たぶんほとんどの人は、それぞれ何を言っているかわからなかったと思う。それでももっともらしく思えるのは、この脱線と下手な比喩と余計なだらだらした叙述が、読者を煙に巻くように機能しているからだ。読んだ人は、何を言ってるかわからないが、なんかいろいろあった、ということだけ印象に残る。
でも前出の「フィリップ・K・ディック:にせ者たちに取り巻かれた幻視者」を、そうした余計なものを取り除いて読んでみると、実はたいしたことは言っていない。上で述べたような、もはや幻覚と現実の区別がつかない世界を描いている、という論点を少し発展させて、それがいまや人間の環境であり、ありのままの自然はなく完全に作られた環境内で活かされているのが人間なのだ、それをディックが描きだしたのはすごい、しかもガラクタを集めるような形でそれを描きだしてるのがすごい、というだけだ。これはバラードの「テクノロジカル・ランドスケープ」と同じ観点で、その意味ではよい視点ではある。が、その論点をきちんと読みとれる人が何人いることか。
ちなみに沼野充義は巻末の解説でレムの批評について「一般的な理論の枠組みで作品を切り取らず、あくまでも作品のコンテクストに即した論理的な読解を試みる (本書所収のディック論や『ストーカー』論に顕著)」(同書p.441) と評する。ぼくはこのディック論についてはそうは思わないし、本書のこの部分のディック論はコンテキストあまり見てないじゃん。まして書き殴りポルノSFの思いつきの設定部分をあれこれマジレス論評することのどこに、コンテクストに即した読解があるんだろうか。
5. 本書の紹介についての文句
『技術大全』の解説で、その紹介が少ないのは内容的に仕方ない面もあるし、特にレムの紹介者の多くが文系だからだろう、という話を書いた。あの本の中身について多少なりとも触れているのは、ツイッターその他で見る限り大野典宏や円城塔くらいだ。あと垂野創一郎が一部翻訳している。そのくらいだ。どれも理系的な素養をある程度は持っていそうな人ばかり。
だけれど他の文系紹介者も、『技術大全』は無理でも、他の文学っぽいものはきちんと紹介してくれてるんだと思いたいところ。たとえば『高い城/文学エッセイ』で論説を選ぶときには、 この『SFと未来学』の議論を踏まえたうえで、そうした議論の特徴を示すようなものを選んでいるんですよね? ぼくはそう思っていた。
が、なんかそうじゃないのかもしれない、という疑惑がだんだん沸き起こりつつある。同書で『SFと未来学』は次のように紹介されている。
『SFと未来学』 (1970年)全二巻、原著で計千ページを越える大著。現代SFを理論的に扱った研究書。方法論としては『偶然の哲学』で練り上げたものを発展させ、読破した数万ページの現代欧米SFにそれを具体的に適用する。その分析の結果はきわめてネガティヴで、現代SFの九十パーセント以上はSF本来の可能性をまったく無駄にしているくだらないものだ、ということになる。こうしてSF理論を体系化したレムは、その一方では自分自身も「家としての成長過程でSFというジャンルそのものの進化の大筋を繰り返してしまった」ことに気づき、創作の面では一種の行き詰まりの状態に陥る。(p.439)
これを読むと、なんだかすごい包括的なSF論が実現したような印象があるだろう。そしてレムが、何かすばらしく広い豊かなSFの未踏のフロンティアを描きだしてくれたんじゃないか、という期待が広がる。現代SFの9割は、そのSFの本来の可能性とやらを無駄にしている、と言われると、何かレムがSFについて非常に壮大なビジョンを持っていたのだろうと思うのは人情だ。SF理論を体系化! つまりすべてのSFを包含する何かすごい理論を構築したわけか! その高い理想に比べれば、まだまだですなというわけ。じゃあ、その壮大なビジョンをみんなが学べば、もっともっとすごいSFがたくさん出てきそうじゃないか!
レムの日本語Wikipediaにも「『SFと未来学』は文学理論をSFにも適用し、「現代SFの90パーセント以上はSF本来の可能性を全く無駄にしているくだらないものだ」と分析」なんて書いてあるから、それが高度な文学理論ともつながるんじゃないか、とも期待しちゃうよね。
だが、この第2章まで読んできたところでわかるのは、これがブンガク理論をSFに適用、などというものではまったくない、ということだ。そしてSFの9割が否定されるのは、彼の使うの基準が偏狭だからでしかない、ということもわかる。レムが言っている「SF本来の可能性」というのは、ここで言っている未来学、つまりは未来予測と科学知識・考察ということだ。
そんな基準を適用するなら、スタージョンの法則を待つまでもなく、当然ながら9割はクズということになるだろう。だって、ほとんどの作品はそんな目的で書かれているのではないのだもの。そんなビジョンを学んだところで (というかそういう考え方が一つの選択としてあることは、みんなとっくに知っている) 何も御利益はありませんがな。SF理論なんか体系化してないよな。自分の狭い基準をふりかざしているだけだ。
さらに、狭い了見でも厳密に適用することで見えてくるものはあるだろう。だがここで見た通り、彼は自分の「理論」の適用には厳密さのかけらもなく、自分の思いこみだけをもとに、独善的な理屈をこね、それを恣意的に適用しているだけだと思う。レムというのはそういう作家だし、その頑固さが彼の作品の独自性につながっているのは事実だ。が、その基準を他人に押しつけて、SFすべて論じ尽くた、SF見切ったぜ、と言われてもねえ。
それが見えてくると、さっきの沼野充義の紹介には強い不満をおぼえてしまう。なんか、重要なことを何一つ説明してないじゃん。そのレムの言っている「SF本来の可能性」ってどんなものなのかくらい、説明してくれてもいいんじゃないだろうか。そこをネグって、なんかすげえ理論を構築したんだぜ、現代SFを理論的に扱った千ページの大著だぜ、とふわふわした期待だけあおる——それは商業的にはいいのかもしれない。文学では答が出るだけでは市が栄えない、と石川淳も言っている。が、研究者としてどうよ。だめな部分をわざわざ指摘する必要はない、という見方はある。でもさ、なぜ「SFと未来学」という題名で「未来学」がフィーチャーされているのかくらいは説明して、彼が何を目指していたのかくらいは紹介してよ。何も新しい情報がなくて、すごい、大著、問題作、壮大な、と形容詞つらねて悦に入っているだけじゃ、何も進歩がないじゃないか。依頼されたのに本書を1ページも訳してないというのは、これだけやってきた身からすればよくわかるよ。面倒過ぎるもんね。でもさ、訳さないまでも、少しくらい中身の紹介しようよ。
それを沼野や他の研究者・紹介者が少しでもやってくれていたら、ぼくがこんな面倒な作業をあれこれやらんでもいいはず (まあ自分で頼まれもせず好きにやってるんだけど、レムとか研究してるはずの人が主著の紹介せずに、シロウトがしびれをきらして手すさびでやってるって、バランスおかしいと思いません?) なんだけど……
6. 翻訳について
乗りかかった船だから、まあこの先も続けるでしょうよ。これまでなら数十年がかりだけど、AIは偉大だから年単位で終わるんじゃないかな。これで上巻の半分くらいだ。この後でSFの社会学とか出てきて、作家とファンダムの関係みたいなのも出てくるのかしらー、とかちょっと期待はある。それとこの未来学の話ってどうなるの? さらに下巻に入るとテーマ別のあれこれが出てきて、J・G・バラード論とかもあるんだが『結晶世界』について、美文だが世界の破滅や主人公の死を作品が肯定するように描いているのでダメとか、なんか根本的にセンスのないこと書いてあって、戦々恐々。コードウェイナー・スミスをちょっと扱ってみたり、どういう話になるんだろう。これはまあ、怖いもの見たさではある。なんだか、レイ・ブラッドベリが延々と論じられているところがあって、その最後のところをちらっとみたら「美しいけれど無内容」とか書かれていて、あんたブラッドベリに何を期待してるのよ、という感じで、レムさんわかってねえだろ、というのがいっぱい出てきそうでアレなんだが。
その翻訳は、AIのAniちゃんの協力を得てやっているのは言った通り。全部一応チェックはしている。が、今後はちょっとそのチェック方針を変えるつもりだ。
どういうことか? レムは同じことをくどくど繰り返し、うまくもない比喩をまぜてそれを細々解説して見せることで、かえって話の流れをぶった切ってわかりにくくしてしまう部分ばかりというのはすでに述べた。AIはそういうのをすかさず端折ることが多い。
これまではそういうのを全部忠実に直してきた。原文の段落切りを完全に踏襲し、つまらない繰り返しであっても律儀に訳してきた。しかしながら、AIが端折ったやつ=整理したやつのほうが、文章がずっとわかりやすいところが多いのを、だんだん認めざるを得なくなってきた。AIがすっとばすところは、レムが同じ事をくどくど繰り返しているところだ。それを忠実に元にもどすと、かえって意味不明でわかりにくくなるのだ。
あと、レムの原文のせいなのか独訳のせいなのかわからないけれど、段落の切り方もひどい。中身のまとまりを無視して、何か小説のあらすじを、二行だけ前の段落の末尾にくっつけ、残りを二ページにわたる長大な段落に入れるとか、意味不明のことをやる。AIはそれを直す。えらい。本来、レムの編集者がやるべき作業だ。
ぼくも、忠実に訳したい一方で、万が一読む人がいたら、その人たちに多少なりとも理解してほしいと思っている。そういう理解のほうがぼくは重要だと思う。だからこれから先の部分では、AIによる端折りその他の提案はもっと採用することにする。
(レムの基本的な主張を理解してもらうのにいちばんいいのは、昔ケインズ『一般理論』でやったみたいに、各段落1行ずつでまとめることなんだよなー。ただそれやると、醍醐味の7割が脱線と寄り道にあるので、この本のおもしろいネタを完全に潰してしまうんだよね)
次の章もなー。少しはおもしろいといいんだけどなー。
付記
期待は裏切られた…… いやまあ、そんな期待してたわけじゃないのだけどね。
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