レム「グラフの中の侯爵:ゲーム理論が導出するサド」(1978)

Executive Summary

人間と世界との関係を図式化し、そこから小説のジャンル分類を行った結果、「反おとぎ話」という新ジャンルを発見した……が、そこにサド作品が見事におさまる! というレムの論説。ゲーム理論のような形式を使って己の知識を誇示するだけかと思った最後の最後にどんでん返しをもってきて、すべてが実はサド論だったという、衒学性に茶目っ気をまぜたレムの評論の真骨頂(の一つ)。

 

"アニメ調のカラフルなイラスト。18世紀の貴族服を着たサド侯爵が悪魔的な笑顔でゲーム理論の巨大な決定木グラフ(世界→好意的な偏り/悪意的な偏り→ユートピア・おとぎ話・反おとぎ話・反ユートピア・神話)を背後に、鎖で縛られた顔を赤らめ発汗する金髪女性を操り人形のように操っている。後ろでははげた小太りのスタニスワフ・レムが大慌てで汗だくになり、手を挙げてサドを必死にたしなめている。風刺的でコミカルなシーン。"
サドくん、ほどほどにしときたまえよ

訳者解説

人間と世界との関係を図式化し、そこから小説のジャンル分類を行った結果、「反おとぎ話」という新ジャンルを発見した……が、そこにサド作品が見事におさまる! というレムの論説。

世界は人間に対して基本的に無関心。だが人は、何か偏向した関心を世界が自分たちに向ける、と思い込む。宗教は、神様が人間に興味をもって干渉してくる、というのが基本的な見方。そして小説もその世界観を反映する。その関心が好意的なものならユートピア小説。ある種の教訓的な正義の宿命があれば、おとぎ話だ。一方、関心が悪意的なもので、すべてがひどい状況なら反ユートピア小説だ。すると、ここから未開拓のジャンルとして「反おとぎ話」というのがあり得るのではないか……

と思ってふと考えると、サドの小説というのは、まさに反おとぎ話として位置づけられる!

非常に図式的な説明が、最後の最後になって一行だけサドが登場するというニクい演出。サドの小説については何も語っていないのに、分類のための分類に見えたものが一気に逆転し、すべてがサド論に一変する。「いやサドとは関係なく考えてたら、そうなったんだよ」というのを額面通りにとるべきかはさておき (ホントなら題名にまでそれを出すかぁ?)、悪い形で出がちなレムの衒学趣味が最良の形であらわれた名論説、だと訳者は思う。

レムは『偶然の哲学』で、インガルテンの現象学的な文学論について、文学にたった一つの「意味」があってそのテキスト内で完結っていうけど、結局その読まれ方には外部との関係だってあるんだからそれだけですべてがわかるはずないよね、という話をして、トドロフ流の構造主義分析について、文の形式だけ見ても中身のこと言えないから、限界あるよね、と指摘。その通りなんだけど、一行ですむことを何百ページもくどくど述べ、その後に記号論だの情報理論だのであれこれこねくりまわし、結局やっぱそれではできないよね、という話をして、読んでいるほうとしては「最初にそれを言ってくれよ」と脱力感にかられる。基本、かれは真面目なんだろうね。そしてそれが、長い評論だと悪い方向に出る。

この論説も、その手なのかな、と思ったけれど、タイトルで「なんだこれ」と思っていたら最後に一大どんでんがえし。いや恐れいりました。これが本当にゲーム理論分析かといえばあれだが、このくらいざっくりした話であれば、細かいところにケチをつける気にもならない。こういうのがレムの評論の真骨頂だとおもうんだけどね。まあ生真面目なだけの文学屋さんには、こういうのはわかんないか。

初出は不明、レム『私の文学観』(2012)収録のものを翻訳。AIの訳にざっと眼を通しただけなので、細かいミスはあるはずだが、この醍醐味はわかるはず。なお、節の区切りは原文通りだが、その節見出しは訳者の追加。

スタニスワフ・レム「グラフの中の侯爵(MARKIZ W GRAFIE)(1978)」

pdfをダウンロードする手間をみんながかけないのは知ってるよ。以下に貼っておく。

グラフの中の侯爵(MARKIZ W GRAFIE)(1978)

スタニスワフ・レム

 

I. 世界が人間に向ける態度と小説ジャンル

生きている限り、人間は思考においても行為においても、絶えず決定を下し続けている。これらの決定は、決して完全な知識によって支えられるものではない。決定を下さなければならない者は、不完全な情報に基づいて行動するため、リスクを負う。これは典型的なゲームの状況である。この世に生を受けた人間は、規則が未知のゲームに投げ込まれる。しかし最も低い発達段階においてさえ、生命はすでに葛藤的な状況、すなわち死の先送りを勝利とするゲームに絡め取られている。したがって、生命のすべての現象---最も単純なものから人間的なものまで---を統一的に捉えて研究することを可能にするのが、意思決定理論、特にその葛藤的状況を扱う部門、すなわちゲーム理論である。

この理論を用いれば、原則としてあらゆる行為主体性を分析できる。たとえば国の工業化も、哲学や神学の営みも同様である。工業化とは、自然とのゲームであり、社会的生存に有利な力を増大させるためのゲームである。一方、哲学と神学をゲームとして扱えば、両者は論理的に同質であることがわかる。どちらも目的とするのは同じこと、すなわち「存在のゲームの規則」を世界が定めているものを探り出し、それに対する最適戦略を定めることである。哲学においては主に認識の戦略であり、宗教においては主に救済の戦略である。

この理論の特別な価値は、いかなる策略によってもその監督から逃れられない点にある。もしある信仰が、人間と世界の間の葛藤の不可避性を教義的に否定するならば---この葛藤こそがゲームの本質を成すものであるが---その教義は必然的に別のゲームへと人を駆り立てることを自ら露呈する。たとえば仏教は、世界をゲームのテーブルから離れ、それと調和的に一体化するよう命じる。しかし実際には、それは自分の身体とのゲームに絡め取られることを命じている。身体を次々と手練手管で調教し、世界というゲームへの食欲を完全に失わせるようにするのである。

ゲーム理論の眼鏡を通して見た存在論の首要な問題は、「非人間的なパートナー」の態度である。世界は人間の目から見て、無関心(中立)であるか、偏向的(有偏)であるかのいずれかである。第三の可能性はない。なぜなら部分的な偏向はすでに偏向だからである。偏向が事実であると認められた場合、それは人間に向けられた意図を前提としているように思われる。しかしこれは必然的な結論ではない。たとえば熱で歪んだルーレットの回転子は、ゲームを偏向的にするが、そこにいかなる意図も働いていない。偏向の有無を確定するためには、与えられたゲームを「公正(フェアプレー)」と認められた標準的なゲームと比較しなければならない。しかし我々はルーレット同士は比較できても、人類や世界そのものと比較する基準を持たない。したがって、世界がパートナーとしてどのような態度を取っているかという問いは、いかなる経験によっても解決できない。仮にいつか、地球上の人類起源の特異性が、人間を他の銀河系存在には見られない特性で縛っていることが判明したとしても、科学は「我々は敵対的な偏向の犠牲者だ」とは言わず、「それは偶然の一致の結果だ」と言うだろう。なぜなら他の存在を我々にとっての標準とする根拠はないからである。逆に、世界は我々に対しては無関心だったが、彼らに対しては好意的な偏向を示したのだと主張することもできる。我々は自分たちでルーレットを作るので、完璧なルーレットがどう振る舞うかは知っている。しかし完璧な理性存在や完璧な世界がどう振る舞うかは知らない。したがって、このジレンマは経験によって解決できない。実証主義の立場からは、これは見せかけの問題である。しかし、人々が生き、死ぬために抱くほとんどの事柄は、まさにこのような性質のものである。世界が偏向的か無関心か、という問いは、人類の歴史の黎明から最も古くに表明された問いの一つである。さまざまな文化がこれに対して規範的に異なる答えを与えてきた。なぜなら、どのような事実も、事前に想定された偏向の質と整合するように解釈できるからである。

すべての宗教的信仰の基本的前提は、世界が人間に向けられた意図的な偏向を持っているということである。もちろん、無関心な意図性、たとえば中立的な世界を創造した後二度と干渉しない人格神を想定することも可能である。しかし、世界と来世を完全に分離する神義論は例外である。信仰が世界に帰する偏向は、好意一色か敵意一色か、あるいは混合(例:マニ教的)でありうる。一方、科学は世界を人間に対して無関心であると認める。現代の自然科学者は、世界と人間はランダムに結合した変数である、と述べるだろう。ゲーム理論家はこう言うだろう:人間が世界と行うゲームは、非ゼロ和の非対称ゲームである。なぜなら世界は目的を持たない無偏向のパートナーだからだ。世界は混合戦略を取っているが、それは無秩序として現れない。なぜならその動きは、普遍的な自然法則によって制限されており、その法則が偶然性と規則性の交差によって人間を生み出したからである。しかし、普遍的に規則的なものも、ローカルに偶然的なものも、世界の偏向から生じるものではない。もし世界が自然法則の秩序を示さなければ、我々はそこに生まれることもなく、頭を悩ませる者もいなかっただろう。もし世界が偶然的な出来事をランダムとして示さなければ、無偏向という仮説は維持できなかっただろう。世界は強い目的指向の「装置」として現れ、特定の目標を達成するように機能するからである。

しかし我々の知る物理学では、世界は何の任務も持たず、全体として目的論的な体系ではない。したがって科学は、世界を人間に対して無関心であると認める。この認識は、科学的研究の単なる結論ではない。それは研究の前提条件であり、科学を支配する主要な指令の一つである。科学は、世界が生と人間に対して無関心であるかのように研究せよ、と定める。しかし、人間には世界に---しかも好意的な---何らかの偏向を帰属させたいという傾向が非常に強く、公式には否定している自然科学の内部にさえ、独特の形で現れることがある。たとえば今世紀の「精神動物学的密度」(地球外文明の数に関する仮説)に関する初期の科学的評価は、強い楽観主義に特徴づけられていた。宇宙が豊富に居住されていることが出発点の仮定であり、研究者たちは観測データをその仮定に「引き寄せよう」と、許される限り努力した。これは方法論的に正しかった。なぜなら「他者」に関する肯定的データの欠如は、無数に楽観的な解釈を許すからである。このような研究姿勢において、世界の好意的な偏向への期待は、宇宙の支配的な類型性(ランダムに点灯・消灯する星の嵐)が、理性存在の発生という類型性に伴う、という信念として現れる。この見解は容易に覆せないように思われた。なぜなら惑星形成と生命発生は天文学的に観測不可能であり、実験室的再現も、巨大な時空スケールのプロセスであるため不可能だったからである。

ところが、地球外知的生命探査者にとって最も憂鬱な知らせとなったのは、最近のコンピュータ・モデリング実験である。それらは、生命が生まれ存続するためには、恒星と惑星が満たさなければならない「極めて狭い」条件が非常に多いことを、はっきりと示した。天体・惑星形成の境界条件は、生命の進化にとってスラロームの旗門のような曲がりくねった道、あるいは連続する針の穴であり、惑星系が安定化する際のランダム性は、生命発生がこれらすべての難関をすべて通過することを、極めて稀な例外的事象にしている。銀河系内に数百万の他の文明があるという楽観的な計算は、今や急激に縮小し、すでに我々が銀河系で唯一の存在であるという仮説を維持する段階に達している。まだ不確かではあるが、すでに可能な話である。この「宇宙的普遍理性」への希望の崩壊は、科学の内部にさえ、人間が世界に対して抱く要求が現れていることを示している、と私は考える。なぜなら、死んだ空虚さは我々の運命を偶然の奇形のように見せてしまうからである。科学は直接的に「生命に好意的な偏向を持つ世界」を仮定することはできず、間接的な策略によって、自然法則が生命発生を促す広い宇宙的範囲を仮定することでそれを行っていた。

こうした迂遠な策略の困難や失敗を、宗教も芸術も知らない。そこでは直接的に仮定される偏向が、目的として人間を含意するからである。逆に考えれば、それは意図を仮定するが、その意図が必ずしも人格的に(例:神の中に)位置づけられる必要はない。たとえばショーペンハウアーの「意志」の住処である「物自体」の領域のような、到達不可能な領域をその源泉とみなすこともできる。地中海圏の信仰に典型的な、神の好意的な偏向は、人生経験から導かれたものではなく、信仰の先験的な前提である。これは、神義論が「創造物に対して無限に好意的な(したがって偏向的な)神」を、既存の世界だけでなく、想像しうるどんな恐ろしい世界にも「適切に調整」して配置できることからも明らかである。この最適化は、あらゆる怪物性を盲目的な偶然のカテゴリーから、父なる神の善意のカテゴリーへと移すことを可能にする。それは存在のゲームを延長することによって成り立つ。現世の部分を「テスト的な中盤戦(Mittelspiel)」とみなし、ゲームの終局と利得関数の実現を来世に置くのである。この数学的に単純な操作は、ランダム戦略を取るパートナーとのゲームを、延長戦付きのミニマックスゲームに変換することを可能にする。延長戦の最終局面は「こちら側」からは見えない。

科学は、先に述べたように、最後の迂遠に帰属させられた「世界の好意的な偏向」を放棄することで、自らの楽観的仮説を破綻の危険にさらしている。しかしこのジレンマは、文化の中で変わらず生き続けている。歴史的に高貴な信仰の価値が低下すると(現在のように)、粗悪な代替物が現れる。宇宙からの客人、祖先に対する好意的な援助の行為、あるいは人類を狙う宇宙の怪物などに関する、広く普及し執拗に作られ続ける即席の「物語」である。なぜなら、日常的思考にとっては、我々が生きる世界が正または負の偏向を持つことに同意する方が、その冷たい無関心を受け入れるより、はるかに容易いからだと推測される。

偏向の二分岐は、最も単純には二値グラフで表すことができる。このグラフの枝は、次の二つの分岐に達する。世界が正に偏向する場合、それは個人のみに対して好意的であるか、すべての住人に対して好意的であるかのいずれかである。文学(これから語るのは文学であるが)において、前者のタイプの世界を占めるのはおとぎ話であり、後者を占めるのはユートピアである。

"世界という言葉から2本の矢印が分岐し、左側に「好意的な偏り」、右側に「悪意的な偏り」と書かれたツリー図"

同じ二値グラフの反対側、負の分岐では、世界の負の偏向}を、個人に対する敵意か、共同体全体に対する敵意かに分ける。負の第二のタイプが反ユートピア(ディストピア)}の世界である。第一のタイプ(個人に対する敵意)を、集団的創作が埋めた例はない。民話のなかに「反おとぎ話」などというものは存在しない。

"世界から2つの枝に分かれ、左側『好意的な偏り』がさらにユートピアとおとぎ話へ、右側『悪意的な偏り』が反おとぎ話と反ユートピアへ分岐するツリー図"

ユートピアの世界とは、普遍的な善の極致である。そこでは全員が参加する。一方、おとぎ話の世界は、父親が自分の子どものために---それが最高だからではなく、ただ自分の子どもだから---勝たせてやるような振る舞いをする。おとぎ話の世界の倫理とは、その選択的な物理法則のようなものである。なぜなら、選ばれた者に対する運命の確実な好意は、物理法則の確実性と等価だからだ。この世界は極めて善良なので、概ね善良な英雄を好むが、その英雄はしばしば理想からはほど遠い。知恵も美貌も欠けていることが多い(醜い娘、愚か者のヤン、最も出来の悪いが最も正直な兄弟など)。英雄の行動はしばしば愚かしく軽率に見えるが、すぐにわかるのは、むしろそのおかげで運命の恵みをたっぷり受けられるということである。

弱者が強者に、謙虚な者が傲慢な者に、愚か者が賢者に勝つ---ただ善であればよい。この「善さ」をあまり深く詮索してはいけない。たいていは強い徳の集中というより、ただの善良さの軽いしるしに過ぎない。英雄が何をしようと、竜を殺し、王女と結婚し、王になる。全体として見れば、おとぎ話には英雄にとって負ける戦略が存在しないからである。これはこの世界の完全性を試すものとして理解できる。これこそ真に揺るぎなく完璧な好意であり、欠点すら成功の前提に変え、回り道すら目標への近道にする。英雄は、ゲームのパートナーとして無限に好意的な世界に生きている。そう考えると、英雄が特別な努力をしなくても手に入れる魔法の道具は、ゲームにおけるイカサマに相当するが、それは自分自身のためではなく、パートナーの利益のためである。おとぎ話の世界とは、最も高貴なイカサマ師のようなもので、自分の贔屓が負けることを決して許さない。同時に、ゲーム構造の対称性の原理により、負の人物には勝つ戦略が存在しない。悪い宿屋の主人は自力で動く棍棒を、黄金の卵を産む鶏をだまし取る。悪い魔神は英雄の魔法の指輪を奪い、出口のない谷底に投げ捨てる---そこは先客の骸骨で埋まっている。しかし英雄はその窮地からも脱出する。棍棒は本来の持ち主に戻り、鶏も同様。悪者には、涙ぐましいヒューマニズムなど抜きの、容赦ない罰が下される。なぜならおとぎ話は、中間を排除した二値的な絶対的倫理で動いているからだ。善良な者には善が、悪い者には悪が当然与えられる。

民話の匿名作者たちはゲーム理論の専門家ではなく、最適戦略の精緻化などに関心はなかった。おとぎ話の動機は根源的に心理的なものであった。現実の世界---そこで強くて卑劣な者が正直で善良な者に勝ち、冷徹な狡猾さが忠実な徳より報われる---に対する補償機能が目的だった。現実世界で最も無力なのは、冷徹な計算ができない善良さである。だからおとぎ話の世界は現実の完全な反転なのである。おとぎ話は道徳劇ではない。したがって敵をも好意的に包摂するような倫理はおとぎ話にはない。善良な英雄が魔女をスコップで炉に突き入れるのを、聞き手は不快に思わない。なぜならそれは彼らの正義感と一致するからだ。おとぎ話が完全に一貫しているのは、英雄に対する完璧な戦略的保護を確立する点だけである。ゆえにおとぎ話の世界を「常に勝つゲームの世界」と呼んでもよい。完璧なのは英雄たちではなく、ゲームそのものである。このゲームはそれほどまでに信頼できる。しかし英雄たちはそのことに全く気づいていない。彼らがイカサマされた有利なカードで勝っていることを知らない。知っていたら、彼らの正直さにも疑いがかけられるだろう。

おとぎ話における利得関数は、必ずしも英雄の善さの関数ではない。おとぎ話の世界は時に教育的に働き、選ばれた者の悪を善に転換させる。これはもちろん、チェス盤上の駒自体の属性の変化である。ポーンがクイーンになることもある。この(まれではあるが)変身は、好意的に偏向した世界の無限の力を示す。

悪い者が良い者に変わるのを見ても、私たちは魅了されるが、困る理由はない。しかし逆の変身---良い者が悪い者になる---はおとぎ話では決して起こらない。王女が王子を捨てて強力な魔術師を選ぶことも、王子が彼女を売春に駆り立てることもない。一般に、悪い者は自分の悪からわずかな喜びすら得られない。これは反おとぎ話になって初めて起こることである。

これまで設計してきた我々の表には、理解不能な符号の偏向世界はまだない。それが神話の世界である。神話は運命の形成において恣意的で、その恣意性の仕組みへの洞察を欠いている。この世界は、英雄にも我々にもわからない、不可解な目的のために英雄の運命を操る。ここでもおとぎ話と同じく、戦略的確実性が強調されている。英雄が何をしようと、プログラムされた運命を変えることはできない。神話には英雄にとって負ける戦略も、予定された結末から逸脱できる勝つ戦略も存在しない。神話の戦略は完全に等終局的(equifinal)である。もしエディプスが神託の言葉を逃れるために首を吊ろうとしたら、枝が折れ、烏が縄を啄み、通りかかった旅人が彼を蘇生させ、もし蛇を踏んだら、蛇は彼のサンダルのバックルで毒牙を折るだろう。神話の世界が示す巧みさはおとぎ話と同等だが、それは英雄の精神的資質によって方向づけられるものではない。神話は本質的に補償的機能とは無縁である。

神話と現実の関係は、おとぎ話と現実の関係とは異なる。おとぎ話は心を慰めるために現実を驚くほど反転させて見せる。神話は概ね逆で、現実から盲目的な運命の恣意性を抽出・凝縮する。しかし現実世界では、常に不治の楽観論者たちが「悪い幸運」を「致命的な偶然の結果」と呼んで運命の故意の残虐性を免責する手続きができるのに対し、神話はその防御の機会を奪う。それゆえ神話は明白な予定調和を持つ。すべての詳細にわたって予言された不幸は、ただ上から定められたものに過ぎない。これは必ずしも敵対的な偏向ではなく、ただ理由が理解不能なだけである。おとぎ話の断片にも時折、神話的な先験性が現れる。王女はあらゆる予防にもかかわらず紡錘で指を刺してしまう。しかしその不可避性の理由は、おとぎ話的ゲームの構造上よく理解できる。おとぎ話の世界は平衡から外れたホメオスタシスで、完璧に平衡に戻る。一方、神話の世界は平衡に向かうが、その平衡は人間を超えた、理解不能なものである。もし英雄を滅ぼさず幸福にするとしても(それもある)、それはあくまで副次的なことであり、ゲームの賭け金は幸福ではなく、別の次元の価値---通常は判読不能なもの---である。おとぎ話の世界は、善良な被告に不正に好意的な裁判官のようだ。神話の世界は、死刑を宣告し、重病の死刑囚を指定された時刻に処刑台に健康な姿で立たせるため、最も手厚く治療する裁判官のようである。

人々が神話を創作・語ることで何を互いに語り合っているのかについては、専門家の間で大きな意見の相違がある。神話解釈学・神話解釈学は、古典的解釈から民族学的・構造主義的・精神分析的解釈まで広がっているが、多様な立場そのものが、この偏向世界に付けられた符号の不定性を裏付けているだけである。

ゲーム理論の観点から見ると、おとぎ話はゼロサムゲームである。英雄の勝利は敵対者の敗北に等しい。悪い者が失うものを、良い者が得る。これはもちろん算術的な合計ではない。王女にとって醜悪な小人魔術師との結びつきが、美しい騎士との結婚と同じくらい不快かどうかは断定しにくいが、一般的な感覚ではそうであるため、等式は成立する。神話で展開するのは非ゼロサムゲームであり、この点で現実と似ている。人生における敗北が誰かの勝利である必要はない。モイラがエディプスたちを沈めることで相応の満足を得ているかどうかは、何もわからない。したがって神話では賭け金の大きさが不定であり、利得関数は未知数に依存する変数である。しかしおとぎ話から引き継いだ戦略的等終局性の原理は保たれており、それはしばしば「実現されるべきもの」を最大化する戦略の形を取る。エディプスは父を殺し母と結婚する---なぜなら父殺しと近親相姦より悪いことは人間に起こりえないからである。

こうした神話の(心理的な意味での)投影的性格は今日では陳腐なほどよく知られており、我々の感情の両義性が明らかにされたからである。確かに、エロスが密かに攻撃性と結びつき、信仰が冒涜と、精神性が動物性と、魅力が嫌悪と結びついているという所見は、自然科学的に見ても謎のままである。我々はそれがどのように・いつ生じたのかを知らない。進化的にか、人類起源的にか。我々はそれが理性を持つ存在の自然発達において普遍的に構成的な結合なのか、それとも地球特有の特異性なのかも知らない。その両義性を担う神経構造の変化が、人間にとって損傷か向上かをさえ知らない。しかし私は、これらが永遠に解決不能な問題だとは思わない。

我々の「存在論的偏向の分岐表」に神話を位置づけるには、二値グラフの明確な単純さを捨て、純粋に正の偏向と純粋に負の偏向の極の間に、無数の樹状突起によって中間状態のスペクトルを描くグラフに移行しなければならない。そのような樹状突起は無限にありうる。つまり、移行のスペクトルは連続的であり、おとぎ話と神話は任意に交配して、生命力ある子孫を生むことができる、ということである。

"『偏った世界』から3方向に分岐するダイアグラム。左側『好意的な偏り』がユートピアとおとぎ話へ、右側『悪意的な偏り』が反おとぎ話と反ユートピアへ分かれ、中央に多数の矢印が集まって『神話』と書かれた複雑なツリー図"

このスペクトル---個別的に正の偏向から負の偏向へと広がる---上の具体的な作品の位置づけは、受容者の民族中心主義の関数である。遠い文化圏のおとぎ話、たとえば日本の民話、アフリカの民話、インドネシアの民話などは、しばしば我々には神話に、さらには反おとぎ話の近似、すなわちすでに純粋に敵意的な偏向の世界に見える。これは、おとぎ話(言語によるいかなる伝達もそうであるが)が意味において強く未確定であるためである。その意味を正しく補完できるのは、そのおとぎ話を生み出した文化に参与している者だけである。ヨーロッパ人、あるいはより広くユダヤ・キリスト教的文化圏で育った人間にとって極度の不正義に見える運命の出来事が、アフリカの部族共同体に属する者にとっては必ずしもそうではない。この側面を、近年、構造主義民族学は全力で抹消しようとしてきた。構造主義は、言語的伝達の共通分母となる特徴だけを探し求めた。もちろんそうした特徴は存在する---地球上のすべての民族言語が持つトポロジー的な構造の重なりという点で。

しかしこれは、すべての脊椎動物の骨格構造にトポロジー的な対応関係が見つかったという程度の、陳腐な発見に過ぎない。骨学における同形性がすべての脊椎動物を同一視する根拠にならないのと同様に、言語生成構造の同形性が、異文化のおとぎ話・神話・伝説の同型性を仮定する根拠にはならない。なぜ文化的な差異が、人類学的類似性より無限に重要度が低いとされなければならないのか、よくわからない。構造主義民族学は、研究対象の伝達物を価値中立化し、地球上に生まれたあらゆる倫理規範を等価とした結果、この中立性を文学研究にも感染させ、かなり悲惨な結果をもたらした。一貫した構造主義民族学者が第三帝国の倫理とシャルル・フーリエのユートピアの倫理を同等と認めざるを得ないのと同様、構造主義文学研究者は、軸的対立の基本構造が一致するすべてのテクストを等価と認めざるを得ない。

物語的原型として最も求められるのは、出来事の奇跡性を完全に剥奪された神話である。すべてが平凡に起こりながら、同時にその平凡な日常性の中で運命の先験性が正確に実現されるほど、効果は大きい。なぜなら読者は、信じがたい先験性の秘密と、それを実際に起こっていると証言する説得力のある出来事の間の、相互に排除し合う判断の分岐点に留まるからである。このように構築された作品の世界を透過して、もう一つの世界が仄かに見えるが、それを認識することは決してできず、ただ推測するしかない。これが特に顕著なのが、カフカ的作品のオーラである。こうした構造的特質を理性的に説明するのは簡単である。任意のランダムな出来事の系列にも、偶然を確定された必然性に転換するような解釈を付与できるからだ。

ユートピアは極端な至福の状態である。したがって不変でなければならない。もし悪化すればユートピアではなくなり、もしさらに完全化すれば、それ以前の不十分さを自ら暴露してしまうからである。ユートピアが完全でなければならない理由は、神が完全でなければならない理由と同じである。一度その完全性を疑えば、神義論全体が崩壊する。なぜなら神はもはや万物の十分かつ必然的な原因ではなくなるからだ---もしそうであったなら、まず自らを完全性において完成させただろう。根本的に異なり、同一の場所と時間では両立不可能な複数のユートピアの可能性を信じる者は、古典的な意味でいかなるユートピアも信じていないことになる。ユートピアとは、人間的なすべてのものが同時に最高の善であり得るという前提、価値の間でどれかを放棄する必要がないという前提から導かれる結論である。集団的生活の理想として、ユートピアは不変性を持たなければならない。だからこそおとぎ話ほど魅力的ではない。理想は驚異の冒険ではないからである。

創造神話は、しばしば遠い昔の完全な状態---黄金時代や失われた楽園---を呼び出すが、それはただ、破壊の要因を名指しするためである。本質は過去の輝きではなく、悪化の責任者を糾弾することにある。実際、どの時代も独自のユートピアを生み出せただろう---ちょうどポジティブがネガティブに対応するように。しかし、時間の変動する複雑な事情が、この創作を歴史上のわずかな瞬間にしか集中させなかった。現代人は、この創作に沈黙した時代に相応しいユートピアを補うことができない。なぜなら、すでに生まれたユートピアを今日専門家以外が読まないのと同じ理由だからである。

ユートピアとは、可能な限り最も優れた、かつあらゆる時代に典型的であるべき社会プロジェクトである。しかしこれは、切断された頭の夢想に過ぎない。なぜなら、ユートピアを生み出した時代の確定係数を完全に剥奪したユートピアなど存在し得ないからだ。要するに、さまざまな時代のユートピアは、その時代に囚われており、社会的に最重要の価値において超時間的に交換可能な通貨ではない。文学にとっても魅力的なテーマではない。その形態の類型学は、凡庸なものをすべて切り捨てているため、個別化が弱い。至福はすべての人を似たものにし、対立に基づいて物語を築くことを常とする語り手にとって、鈍い鍵盤となる。ゲーム理論の観点から見れば、ユートピアは、通常は語られることのない対局を締めくくる、主たる勝利の不断の利得である。対立がすでに解決されている以上、ゲームなど存在し得ない。これは先に述べた「ゲーム理論からは逃れられない」という命題と矛盾しない。逃れられないのは現実の行動において、あるいはそれについての思考においてのみである。ユートピアを、ゲーム理論の領域から逸脱したものとして考えるのは、三角形の車輪や白い黒を考えるのと同じくらいむずかしい。

以上は歴史的に生まれたユートピアについて述べたものである。それとは別に、最近の知見がある---過剰な幸福の飽和、すなわち社会的に喚起・増幅された潜在的な欲望と食欲の過剰実現が、フラストレーションを引き起こし、繁栄に対する反乱を招くという、かなり信頼できる知見である。したがってユートピアは文学的に不向きなテーマであり、漠然とした幻影でしかない。それを動的にできるのは、たとえばH.G.ウェルズの『神々のような人々』のように、現実社会との対決といった周辺的な出来事だけである。ユートピアそのものではなく、それへの道程が問題ならば、それは独自の変種---社会改良、すなわち社会工学的な思考の産物---となる。こうしたプロジェクトは、世界の好意的な偏向ではなく、人間自身の自律性に基づいている。

したがって我々のグラフには、別の区分を導入すべきであろう。それは、世界自体が存在論的に人間に対して偏向的であるか、それとも他の人間だけが偏向的であるか、という区分である。すなわち、存在論的偏向社会的偏向の違いである。この追加の区別は、超自然的な力の所産でしかあり得ないおとぎ話の世界には関係しない。しかしユートピアと反ユートピアでは、社会的偏向と存在論的偏向を鋭く分離することは不可能である。なぜなら、経験的にも、宗教的・哲学的な形而上学においても、疑いようのない二分法の基準を見出すことができないからである。さまざまな宗教はこれについて異なった判断を下してきた。キリスト教でさえ、「民主的な未決定性」が見られ、正統派と異端の曲折にそれが現れている。神学者たちは、存在の地図上に正と負の符号を異なる位置に置いた。正統派(聖アウグスティヌスから聖トマスへ)で許容される偏差の振幅は、教会の監視的な介入により異端のそれより小さかった。極端な逸脱はまさに異端となったのである。バチカンの権威という制限を失った異端は、さらなる分裂の振動を増幅し続けた。もしこれらの相違・修正・強制的な求心運動を時間軸上で平面に投影すれば、価値論的に局所化された神義論の揺らぎ、すなわち善と悪の影響範囲に関するその不定性が明らかになるだろう。さらにその平面投影には、地上からの救済への努力のベクトルと、超越から来る恵みの救済的援助のベクトルとの関係を考慮した立体投影を加えなければならない。聖アウグスティヌスによれば、地上のベクトルの寄与はほぼゼロであり、成功を決めるのは事実上、天上の恵み(その宛先は不可解)であった。この極端はほぼ排除され、聖トマスの診断---大まかに言えば両ベクトルの補完性---が支配的となった。

したがって我々のモデルでは、垂直方向(天---地)のベクトルの合成を定めることはできるが、教会の教義に従えば、存在論的に本来的なものと、人類学的に社会的なものとの偏向を範囲的に区別することはできない。しかも、教会内に留まる限り、この区別の不可能性を認識することすらできない。教会はこのような(地形学的な)自己認識を防いできたからである。神学の最終的な逃げ道は、矛盾を教義の位階にまで高め、その矛盾から信者に義務づけられるただ一つの結論を恣意的に定めることで、神義論を過度に詮索深い理性の腐食作用から守ることだった。これにより、教義の内部でさえ、存在論的悪と社会的悪の区別を完全に不可能にした。

ゲーム理論の観点から見ると、キリスト教はブリッジに似たゲームである。最初のコール(洗礼時のサタン拒否)は、人生を通じて続く対局への入札を開始する。切り札は徳、グランドスラムは聖性、全てのトリックを失うことは永遠の破滅である。入札し対局するのは死すべき人間であり、世界はテーブル(すなわちテーブルに置かれたカード)である。もう一組のプレイヤー(ブリッジと同様、R. Luce & H. Raiffa『Games and Decisions』1964年参照)は、同時に一つの存在でもあり、別々の存在でもある。なぜならブリッジのペアは、時折打ったカードの記憶を失う一人のプレイヤーのようなものだからである。一人のプレイヤー(神)は常に主人公を助け、もう一人(サタン)は常に邪魔をするとは言い難い。なぜならブリッジと同じく、捨てられたカードは信号ではあるが両義的だからである。主人公はテーブルに落ちたもの(すなわち現世で起こったこと)しか見えず、それに基づいてのみ相手ペアの戦略を再構成できる。違いは、一人が味方し、もう一人が敵対するはずだという点だけである。しかしサタンも神の意志の外にはおらず(「我らを試みに遭わせ給うな」の祈りはサタンに向けられたものではない)、したがって両者の寄与を範囲的に区別することはできない。このゲームは、死すべき者の徳における能力のテストであり、決算と利得は来世で待っている。このゲームのマニュアル(神学問答)は矛盾している。神は正典的な利得関数に束縛されていることもあるし、いないこともある(破滅は無限だが、恵みも無限)からである。

この救済のゲームのモデル的再構成は、ゲーム構造における不快な点を露呈する。ゲームの和はゼロではなく、しかも特殊な仕方でゼロではない。ここでのプレイヤーの行動は常に有限であるのに対し、報酬と罰は無限である。したがって、常に有限の回数しか行動できず、利得関数が常に無限であるこのゲームは、フェアプレーどころか、個々の場合において無限に不正であると言って過言ではない。これは非ギャンブルゲームとしてのみそうなのである。ギャンブルゲームとしては、賭け金に対する勝利の無限に大きな不均衡が特徴であり、有限の大きさはいかなる無限の大きさに対しても無限に小さい部分に過ぎないからである。ショーペンハウアーが辛辣に指摘したように、神は人間を無から呼び出し(全知である以上、その後の堕落を知りながら)、その罪によって永遠の破滅に突き落とす。「無から出てきた哀れな奴(Der arme Kerl aus dem Nichts)」には、少なくとも以前の唯一の所有物であったその無に戻る権利があるはずだ。

しかし正直に認めよう。このような図式は、人間の一生を現世と永遠の間に挟んで、形式的にゲーム理論へ投影しようとした結果生まれるものである。矛盾からは何でも導ける(ex contradictione, ex falso quodlibet)ように、この再構成には、ゲームの規則を好意的に修正するバリエーションを導入できる---純粋に論理的には常に完全に恣意的ではあるが。

自然科学の立場からも、存在論的成分と社会的成分をきちんと区別するのは難しい。なぜなら人間自身が自然の産物であり、同時に社会的自己形成の産物でもあるからである。人間のなかで本来的に存在論的なものと、社会的に獲得されたものを区別することには、知識がどれだけ増えても除去できない恣意性が潜んでいる。この重大な問題は注目に値する。ここで我々は、同じ種類の分離の困難に直面する---たとえば人間がいつ死ぬかを確定する困難、または生きている有機体において遺伝的に決定されたものと環境的なものを区別する困難と同じである。これらは質的に異なる二つの困難で、「禿頭のパラドックス」に異なる仕方で絡みついている。第一の困難は、死は状態であるが、死にゆくことは時間的に広がった過程であり、任意の恣意性を欠いているため、約束事的な合意なしには、苦悶が最終的な死へいつ移行するかを断定できない(これは臓器移植に関連して緊急の問題となった)。医学的経験から生命と死の決定的区別を期待する者は無駄である。苦悶の後しばらく経てば死は確実に判定できるが、その頃には体のほぼすべての臓器が不可逆的変化を起こして移植に不適格となっている。苦悶の過程では---たとえそれが全身の死に移行する場合でも---死亡判定には積極的な寄与が必要であり、それは規範的、すなわち文化的に由来するものでなければならない。

一見すると、環境由来のものと遺伝的なものは、成熟した有機体(表現型)という結果を生む力(過程)の平行四辺形の二成分のように見える。しかし実際には、卵細胞から成熟個体への発達において、このような「平行四辺形」を無限に抽出できる。それらは互いに次のものの成分となり、その相互依存は逆方向にも働く。遺伝子はある形質の可能性を定め、それを環境由来の可能性が実現し、両者の機会の集合が有機体の表現型変異の範囲を定める。発達開始時点での遺伝子型は仮想的にしか決定されていない。環境はそれにとって同時に主人公でもあり敵役でもある。要するに、ここでも我々はゲームに直面しており、ゲームそのものの最終的な姿がどちらのプレイヤーに依存するかという問いは、歩行が左足か右足のどちらによって決定的に定まるかという問いに匹敵するだけの意味を持つ。現代生物学は、予定説者にも後成説者にも正当性を認めない。問いの立て方が誤っており、代替案は架空のものである。したがって、遺伝的なものと獲得的なものの区別は、具体的事例では確率的に可能であっても、アルゴリズム化不可能な問題である。つまり、これは普遍的な解決を持たない問題である。

存在論的なものと社会的なものの区別の問題は、上記の両方の困難を含んでいる。なぜなら人間は生物的にも社会的にも同時に生きているからである。同様の融合は、その環境にも生じている---環境は物的(対象的)でもあり文化的でもある。事物(対象)なしに文化は不可能であり、環境なしに有機体は不可能であるが、これらの不可能性から、区別が全く不可能だという結論は出てこない。区別は可能であり、すでに無数に行われてきた。しかしそれらは常に経験的に証明不可能であり、おそらくこれは一時的な状態ではない。最大の不幸は、死亡判定(その他無数の類似の場合)においては、文化が上位全体として自分に従属する部分問題を判定できるのに対し、存在論的なものと社会的なものの区別の問題は、文化が自分自身について判定することを前提としている点にある。こうした場合には、パラドックスの地獄が開かれる。たとえいくつか恒星種族を発見し、比較天体民族学が生まれたとしても、この困難からは救われない。そうした種族の身体的・文明的諸能力を知ったとしても、基準とするパラメータ群に基づいてグラフを作成し、人類の位置を定めることはできるだろう。それらは、宇宙における理性的生存の典型的・最適戦略、有機体構造と個体生物学的構造の関係、文明進化の危機的閾値の特異性あるいはその典型的な規則性、すなわちそれらの閾値の同相性などについて、多くのことを教えてくれるかもしれない。さらに、自己進化過程(自然から理性への遺伝的操縦権の移行)が、長く発展した文明では典型的な現象かどうかなども知ることができるだろう。しかしそのような百科全書的な知識から、望ましい区別が自動的に導かれるわけではない。存在論的なものは経験の対象ではなく、経験的に確定可能なものは存在論的ではないからである。せいぜい、もっとよく知っている者から「それは単なる我々の幻想だった」と聞くことになるかもしれない。私はそのような判定に全く驚かないだろう。それでもこの問題は我々にとって生き生きとしていて緊急であり、それだけでも取り組む価値がある。

反ユートピアはおとぎ話やユートピアよりはるかに遅れて現れた現象である。この我々の時代の産物は、幻想文学のなかで生まれた。そこで、あらゆる(地球だけでなく)社会が陥りうる地獄の膨大なカタログが作成された---サイバネティクス的警察独裁による「自絞殺」、非文明的侵略、自然の猛威、すなわち宇宙そのものなどである。反ユートピアでは、普遍的善の偏向に対応して、普遍的悪の偏向があり、それが社会学的想像力を不可抗的に引きつける磁石となっている。ここでもまた、不幸の存在論的原因と社会的原因を区別する試みは無駄である。筆は未決定性のままにあり、それは区別問題そのものの存在への無自覚の表れである(経験的には解決できないが、文化的になら可能であり、文学はその審理の場であると我々は述べた)。近代反ユートピアにおける悪は、通常、打算なく与えられる。たとえば搾取的姿勢や階級対立から生じるのではなく、疑いようのない宿命的な状態として与えられ、社会的勢力も手段もそれに対抗できない。反ユートピアの典型的な筋書きは、悪化の進行、「普遍的存在の不気味化」の描写である。これは、ユートピア的善だけが有限性において頂点に達しうるのに対し、悪には拡大の限界がないことの証明のようである。認めざるを得ないのは、反ユートピアが今日、指数関数的に成長する自絞殺的文明の暗い未来学的ビジョンから栄養を得ていることである。

II. 新ジャンル:反おとぎ話?

我々の再構成は論理的であって歴史的なものではないため、個々の「意図を持つ世界」が生まれる時間的な巨大な差異を説明するものではない。特に目立つのは、「反おとぎ話」という名の下の空白である---民話のなかにそのようなジャンルは実際に存在しなかった。それでも我々は、近傍条件に基づいてその特徴をかなり正確に述べることができる。

反おとぎ話の世界は個別的に偏向的でなければならず、最も善良な者たちが最も不幸になる。善と悪の総和はおとぎ話と同じく一定だが、分配が逆である:善は罰せられ、悪は報われる。善良な者たちに勝つ戦略は存在せず、卑劣な者たちのすべての戦略が最適となる。利得関数は倫理の逆数の関数である: F_w = f(\frac{1}{2})(訳注:この関数、 F_wは利得(wypłaty) の関数で意味は通るが、右辺はこのままだとまったく筋が通らない。 \frac{1}{2}の2はたぶん2ではなかったはず。原著も2だが、たぶん倫理 (etyczny) の頭文字のeかなんかだったはず)。ここでもゲームの和はゼロでなければならない。なぜなら徳の敗北は悪徳の勝利に等しいからである。

しかし、ゲームの代価は何か、その戦略はいかなるもので、利得関数はいかなる分配を明らかにするのか、という問いが生じる。

おとぎ話では快楽は最後にしか得られない。魔女の檻の中や狼の腹の中、忌まわしい怪物との戦いは決して愉快ではないからだ。それは強制か自己犠牲によって行われる。善良だが弱い者は一時的に悪に屈し、強い英雄はより高い動機から助けに駆けつける。しかし、孤児を苛むことやシンドバッドの背中に乗ること自体は愉快でなければならない---さもなければその行為の説明がつかないからである。

したがって、他者を助けるのはその者のためであり、邪魔するのは自分のためであるという点で、反おとぎ話では利得関数の分配が異なる。おとぎ話は善に対する報酬を先送りするが、反おとぎ話は悪を、その実行の最中に即時的に報酬を与える。他者の苦痛が英雄の喜びだからである。これがゲームの進行を変える。

おとぎ話は通常、悪の攻撃から始まり、開局時の既存の状態を破壊し、ゲームはその修復(場合によっては上積み)を目指して展開する。善は満足のためではなく必然性から反撃し、その勝利は「超越し得ない至福」をもたらすという明白な意味で最終的である。

これによりゲームの軌道が異なる:おとぎ話では最初は悪が少なく、次に多く、最後には全くなくなる。一方、反おとぎ話では悪が絶え間なく増大する。

おとぎ話におけるゲームの代価は、善良な者たちの幸福であり、それを卑劣な者たちが奪おうとする。しかしこの定式はあまりに漠然としている。おとぎ話的ゲームの典型的なオープニングは三つある:

  1. 初期状態が完璧だが悪化する(例:眠れる森の美女---悪い妖精が来るまでは王国は極めて順調)
  2. 最初から致命的だが改善される(しばしば段階的)(例:竜退治の話)
  3. 「まあまあ」で、最後に少し良くなる(例:ヘンゼルとグレーテル、赤ずきん---魔女の家や狼の腹から無事に戻り、時には戦利品を得て豊かになる)

このいずれの場合にも、悪の戦略は常に攻撃的である。

多くのおとぎ話には「引き出し式」の「副ゲーム」があり、英雄の能力を試す。英雄は真の報酬(王女の手、王位)を得るために一連の障害を克服しなければならず、その少なくともいくつかは克服すべき悪の具現化である(ヘラクレスの難業がその典型)。この種のおとぎ話では、悪は英雄に正面攻撃を仕掛けず、挑戦を待つ。いずれにせよ、英雄が問題を解決する際に自ら悪をなす必要はない。

したがっておとぎ話の世界は、初期状態を修復することで完成させるホメオスタシスか、善良な英雄だけに主たる勝利を与える迷宮的自動機械である。悪い状態は主に除去されるべきものである。それは語りの要請ではあるが、おとぎ話的世界の本来的な存在論的性質ではない。その性質は完全な調和としての幸福に等しい。もしおとぎ話の英雄たちに「障害を克服せずに最初からその調和の中に生き、幸福を得たいか」と尋ねたら、答えは間違いなく肯定的だろう。狼の腹の中にいるより、狼や魔女に出会わずにすぐに王子に嫁ぐか王女を娶る方がずっと良い。

おとぎ話には二種類の善良な英雄がいる:弱い者(孤児、子ども、誘拐・呪われる王女など)と、助けに駆けつける強い者(時にはまず自分を助けるが、決してそれだけではない---賢い百姓の息子や親指小僧)。悪の攻撃がなければ、第一の種の英雄たちはかなりうまくやっていけるし、第二の種はすることがなくなる。物語はなくなるが、良い世界の条件は満たされる。だからこそ、語りの要請は存在論的要請と一致しないと言ったのである。

したがって、おとぎ話のパラメータを単純に反転させるだけでは標準的な反おとぎ話の原型は得られない。なぜなら善と悪の関数はおとぎ話において非対称だからである。悪なしの善は可能だが、善なしの悪は存在し得ない---悪は善を食い物にしているからだ。善は悪を攪乱として除去し、自らを最終的に確立し、その過程でさらに完成し、最適状態に達して論理的に必然的にゲームを閉じる。調和が支配すれば、それ以上良いことは起こり得ないからである。

この関係を逆転させると非対称性が露呈する。悪が善を障害として戦うなら、善が悪にとって何を妨げているのかを明らかにしなければならない。しかしそれが何なのかわからない。この問いに答えることはできない。なぜなら善は悪にとって攪乱要因ではなく、構成要因であり、しかも存在論的に構成的な要因だからである。

おとぎ話の結末に常にある「その後彼らは長く幸せに暮らしました」という句は、反おとぎ話の論理的閉鎖として対称的に再現できない。「短く不幸に暮らしました」では意味がない! 調和は超越可能だが、「理想的な不調和」や「超越し得ない不幸」などというものは存在しない。善とは異なり、悪は自己充足的ではない。これがゲームの価値、戦略、個々の役割をすべて変える。

善良な子どもは物乞いの老婆に施しをし、カエルを救う。もし意地悪に施しを拒否しカエルを踏み潰せば、物語は止まる---なぜならそれは変装した妖精であり、カエルは救いの代わりに願いを叶えるはずだったからである。したがって反おとぎ話では弱い者の役割が異なる。彼らは強い者に屈する。この世界は弱さを好まないからである。

ゲーム全体の軌道も異ならなければならない。おとぎ話では「まあまあ → 悪化 → 極めて良い」。反おとぎ話では悪の絶え間ないエスカレーションである。

論理的に再構成された反おとぎ話の世界は開いた世界、すなわち無限ゲームしか展開し得ない世界である。悪は善を破壊しなければならず、周囲の善を根絶したとき、破壊を止める---それは飽和に達したからではなく、食い物がなくなったからである。これは調和としての平衡と、燃え尽きた焼け野原としての平衡の違いである。燃えるものがなくなったので火が消えただけだ。新たに燃えるものが現れれば、再び火は広がる。

好意的に偏向した世界は、そこで停止する完全性を確立する。敵意的な世界は固有の運動において停止することができない---これはその主要指令から論理的に導かれる。これは語りの問題ではなく存在論的難問である。

したがって反おとぎ話ゲームのゼロ和性は特殊な意味で理解されなければならない。それは、反おとぎ話における悪の量は善の量と等しくなければならない、ということを意味する---ちょうど燃える材料の量だけしか火が燃え得ないのと同じ理由である。燃料の枯渇は常に偶然的な事情である。したがって敵意的な世界は、自ら善を---自分の悪党たちに---補給しなければならない。

「おとぎ話の世界も密かに自分の善良な住人たちに悪を補給しているではないか」と反論されるかもしれない。それは事実だが、我々が示したように、それは語りの必要性から来るものであり、原理的なものではない。

良い世界は悪なしで自立できる(その場合はおとぎ話は存在しないが、論理的にはその状態を想像できる)。しかし悪い世界は存在論的に善の存在に依存している。善なしでは、ただ最後の反英雄が他のすべてを食い尽くした完全な廃墟の戦場としてしか存在し得ない。仮にその状況を想像しても、その英雄が「極めて快適で、これから長く幸せに暮らす」とは到底認められない。その表現の不条理は明らかである。その英雄は次の犠牲者を探すために全力を尽くし、見つからなければ、飢えた苛立ちの状態に陥るしかない---自分が作られた目的を実行できないからである。したがって反英雄の究極的勝利は、その幸福化と等価ではあり得ない。

こうして、反おとぎ話ゲームにおける幸福の分配についての答えが得られる。おとぎ話ではゲームは最終対局まで先送りされた幸福をめぐって展開し、そこで利得が生じる。反おとぎ話では幸福は他者の不幸でなければならず、他者の不幸が消えればその幸福も消える。したがってゲーム構造に除去し得ない矛盾が生じる。

竜の餌は処女だが、すべてを食べてしまえば餓死する。魔女が騎士たちを石に変えるのは楽しいが、すべてを変えてしまえば職を変えなければならない。王国が永遠の眠りに落ちれば、悪い妖精もすることもなくなる。

おそらく、反おとぎ話を救うために、より穏やかな対局構造を探すこともできる---悪く、しかも弱い人物を英雄にする。そうした人物は善の完全な破壊ではなく、ただ苛めを求める。しかしそれでも、行為のエスカレーションか放棄かに至らざるを得ない。エスカレーションは再び飽和しない状態へ導き、放棄は独自の理由を必要とする。反英雄は自分がなした悪にすでに満足したのか? もう十分なのか? それは極めて都合が悪い---彼は自分を支持する宇宙と矛盾するからである。それは論理的ではない。弱くて悪い英雄は反おとぎ話の世界では不十分である。

おとぎ話では弱くて悪い者が困難に陥るのは、強くて善良な者が助けに来るためである(王子が竜や魔術師を退治し、眠れる宮廷を解放し、狼を殺す)。では、強くて悪い英雄が弱くて悪い者を助けるだろうか? なぜ? どこからそんな動機が生まれるのか? ベルゼブブがサタンに親切で、最後のシャツを譲り、自分を犠牲にするだろうか? 地獄の社会学---悪魔同士の倫理、堕ちた者たちとの関係ではなく---については何も知られていない。我々はここで自ら概念を構築しなければならない。

強くて悪い者は小さな卑劣漢を利用するかもしれないが、それは一時的である。用がなくなれば、彼もまた標的になる。それは普遍的敵意の主要原理が要求することである。悪い者たちの同盟は成立し得るが、常に裏切りを孕む。もちろん、この絶対的な指令を弱める試みは可能で、たとえば「悪い者たちの同盟の方が善に対処しやすい」「極端な利己計算も連帯を強いる」などと主張できる。しかしゲームが徳の破壊で終われば、同盟は崩壊せざるを得ない---残るのは犯罪退役者協会か相互賛美のサークルか? 強い悪は遅かれ早かれ弱い悪の喉を掴む。反おとぎ話の作者がそうしないと決めたなら、固有の出来事の論理と矛盾する。

我々が見るように、反おとぎ話が設定する矛盾から逃れる道はない。このやや意外な分析結果は、考察の継続を促す。我々が示したように、おとぎ話におけるゲームの戦略は主に救済的であり、反おとぎ話では追跡的である。これは善と悪の間の非対称性から来る。

まず、反ユートピアとの近接が反おとぎ話にどう影響するかを調べよう。両者は単に融合しないか? どちらも苛める者と苛められる者が、敵意的な世界に閉じ込められている。しかし苛められる者の不幸は、本当に苛める者たちの幸福なのか? そうではない。せいぜい反ユートピアでは普遍的貧困の分配の不均等が見つかるだけである。ゴロ・マンが20世紀ドイツ史で正しく指摘したように、ヒトラー時代に「優等種族」の第三帝国が大西洋からコーカサスまで支配したとき得た飽満は、今日の連邦共和国市民の飽満に比べれば惨めなものであった---当時は「生存圏 (レーベンスラウム)」を獲得したにもかかわらず、今ではその一寸の土地も残っていない。オーウェルなどの文学的反ユートピアでも同様である。支配者たちは被支配者よりはマシだが、本当に素晴らしい状態ではない。自分の地位に常に不安を抱き、それを維持するために常に緊張し、互いの陰謀に絡め取られ、階級は低いが生の良心を持たず、利益のためならいつでも裏切る用意のある同類に依存している---彼らは無憂のエリート独裁などではない。

「古典的」な、過去の世紀の独裁は、外部介入なしにも不可逆的に奴隷化された社会であり、暴君は国家と法の上に立ち、その死や敗北が独裁そのものを終わらせ得た。現代の反ユートピアではそうではない。その構造は自己締め付け式の罠として機能し、そこで生きるすべての人を---程度の差こそあれ---支配する。こうした反ユートピアでは、完全に論理的なコンピュータか、同じく非人格的な少数の寡頭制が権力を握るかもしれない。違いは本質的ではない---社会構造全体をプログラムするのは個々の人間ではなく、上位のプログラムが支配する者と支配される者を次々と従属させたからである。この状態を個人が望んだわけではない。頂点に達したとき、それは誰の利益にもならない。奇妙な地獄が生まれ、堕ちた者たちは悪魔から安息を得られず、悪魔たちは堕ちた者たちから安息を得られない。個人の意図と社会システムの法則性が完全に乖離したのである。

これをもたらしたのは、技術進化の勾配か、ユートピアとして未来を描いた当初の教義からの異端・逸脱か、あるいは敵意的に偏向した世界が人々に偽の幸福の処方箋を差し出したか、のいずれかである。

要するに、そこではかつて座ったはずのゲームではなく、その悪夢的な逆転が展開されている。今日の反ユートピアの作者たちが一致して言うのは、社会は自らの意志で---むしろ熱狂的に---そこへ向かい、万能の進歩、特に技術的・科学的進歩の幻影に誘われたということである。だからこそ、今日の反ユートピア(あるいはその作者たち)に典型的なのは、技術文明を自滅的発展の道と同一視することである。

反ユートピアが人間の希望の牢獄と断頭台である以上、そこでは看守と死刑執行人以上の素晴らしい地位はない。したがっておとぎ話は、反ユートピアとは部分的にさえ重ならない---後者では誰も自由ではないからである。一方、反おとぎ話の英雄たちは、おとぎ話の英雄たちが善を選ぶのと同じく、外部の圧力なしに主権的に悪を選ばなければならない。

反ユートピアにおける悪は拡散し、非人格的であり、人々を通じてではなく人々によって作用する。ハンナ・アーレントの『エルサレムのアイヒマン』が示すように、全体主義における犯罪官僚の機能は平凡で無個性である。反ユートピアの悪は制度化され、したがって反おとぎ話にふさわしい悪---おとぎ話に対する論理的対応条件からして「私的な」ものでなければならない悪---とは似ていない。おとぎ話の徳と悪徳はどちらも「私的」である。誰もが委託されたことではなく、自分自身の性質に従って行動する。

この点だけでも、悪の化身である悪魔は反おとぎ話の主役にはふさわしくない。彼はプロフェッショナル、地獄機関の使者であり、出来高制(非難された魂を多く獲得すれば上層部からより大きな功績を得る)で働き、義務感からであって熱狂からではない。さらに悪魔は悪を誘うが、それは手段であって目的ではなく、自分の即時的な満足のためではなく、神を困らせるためである。

したがって反おとぎ話的宇宙は、達成不可能な完全な悪の理想を永遠に追い続けるものでなければならない。善がなくなれば、敵意は宛先を失い、何もすることがなくなる。しかしその失業は、悪にふさわしい幸福の状態ではない。

善は悪に屈し、その信仰に改宗すべきか? しかしその逃げ道は状況をさらに悪化させ、犯罪的失業の到来を早めるだけである。解決策はないか? 一つだけある---奇跡である。犠牲者は死から甦らなければならない。絶えず失われる徳は不死鳥のように灰から再生しなければならない。無限増大の指数の代わりに円環を得る。反おとぎ話の終わりは始まりである。屠られた者たちが甦り、拷問者たちは再び彼らに取りかかる。しかしこれも条件を満たさない。問題は甦りの奇跡ではない---おとぎ話がそれを知っている以上、反おとぎ話にも同じ権利がある。しかし我々が取り除こうとした矛盾が、新たな形で戻ってくる。「徳を破壊するのに、それが甦るとは? それでは徳の勝利ではないか?」反おとぎ話は、まだ残党がいる限り止まらないが、悪の最終的勝利は自らの存在理由の消滅に等しい。犠牲者が甦れば、悪者の状況はシジフォスのそれに似る。「負の」エスカレーション---一人残った怪物同士が互いの喉を掴み合う---も、対局を閉じさせないので決着しない。この円環から逃れる道はない。

反おとぎ話の特徴を発見したことで、我々はそれがおとぎ話・ユートピア・反ユートピアに対して被らなければならない変化を明らかにした。これらの変化---ゲームの規則、価値、利得関数の分布、救済的戦略から追跡的戦略への置き換え---は、反おとぎ話構造のパラドックスを、ことに「悪の勝利がその敗北を伴う」という主要パラドックスを定める。悪者の幸福は状態ではなく、ただの一瞬でしかない。すべてが善良なところでは皆が良いが、すべてが悪いところでは自食が始まる。悪は完全に一貫せず、同胞に対する普遍的敵意の規則に例外を設けると止まる。完全に一貫すれば、最後に一人残った怪物が傷を舐める廃墟となる。たとえそれが悪の理想の実現だとしても、明らかに誰をも幸福にしない。つまり、主たる勝利がないか、またはそれを得る者がいないかのいずれかである。

問題は、おとぎ話の人物の行動動機が決して幻想的ではない点にある---善良な者の保護的親切、竜や魔女の嫉妬・貪欲・裏切りなど。したがって反おとぎ話における悪い者の行動動機も、同じく理解可能なものでなければならない。それを信憑化できるのは、純粋に個別的な、感受的な理由だけである。他者を助けるのはその者の利益のためだが、他者を害するのは自分の利益のためだけだからである。しかしすべてのパートナーを破壊するゲームは、長く続けば続くほど(たとえ黒い)幸福をますます少なく産む。したがってその唯一の理由---感受的理由---は徐々に消滅する。

反おとぎ話はこうして自滅的な世界を確立し、その頂点は、ついに達成された最大値から誰も利益を得られなくなった、無人の状態である。したがってここでは英雄たちの行動からいかなる一般原理も導けない。勝利する悪者に、彼らが賭けている代価を保証する戦略はない。ここでの最適戦略はまさに最悪であり、チェスの千日手に相当する状況を加速させるからである。

これは、親切の指令が対称的(「私があなたにするように、あなたも私にせよ」)であるのに対し、敵意の指令は非対称的だからである---死を与える者は自分に死を望まないからである。この論理的難問は反おとぎ話の詩学に必然的に影響する。ユートピアの勝利は全員への主たる勝利の不断の利得であることを思い出そう。反おとぎ話の勝利は、その住人たちの敗北である。

したがって反おとぎ話の詩学は、少なくとも悪の賛美を含み、最後の廃墟におけるその理由を正当化しなければならない。それは容易ではない。なぜなら普遍史は悪に満ちているが、悪は自らを最終的な理由として呼び出したことは一度もないからである。悪は常に何らかの善の名の下に、または「黒い後援」(地獄の寵愛を得るためなど)の下に行われる。人間の思想的遺産のなかに、悪そのものを普遍的推奨の力を持つものとして称賛する、中心的な(何ものにも依拠しない)弁護論は存在しない。暴力、流血、無慈悲を称える者たちは、常に自らの体系の中心に悪そのものではなく別の価値(戦いの美しさ、エリートの特権、弱者を排除して改善された世界の計画、怯えた利己主義から来る平等主義・ヒューマニズムへの言及など)を置き、悪を手段として扱った。ニーチェの痛烈な言説でさえ、悪はこのような遠心的な位置を占めている。

しかし反おとぎ話の世界はこの逃げ道を使うことはできない---その権利がないからである。その悪は、いかなる口実・見せかけ・虚偽もなく、おとぎ話における善と同じく、対称性の原理によって開かれたまま、自己完結的に、露骨に我々に迫らなければならない。ここでは徳が、そしてあちらでは悪徳が、自らの理由でなければならない。しかし普遍的指令の位階を主張するいかなる悪の賛美も、嘘の上に立たざるを得ない。我々が発見した矛盾---ゲームの価値としての感受的最大化と、勝利が保証されるはずのプレイヤーたちをも実際に消滅させること---を隠さなければならないからである。悪を一般的な存在論的指令として矛盾なく正当化することはできない。なぜならそれを許さないのは道徳の基準ではなく、論理そのものだからである。

この事態は反おとぎ話の詩学に二つの帰結をもたらす。

第一に、おとぎ話における悪は善にとっての障害であって、戦いにおける感受的満足の源ではない。竜や魔女を殺すこと自体が幸福ではなく、王位、王女の手、普遍的至福が幸福である。反おとぎ話は誰にもいかなる至福も与えられない。おとぎ話では悪は取り除かれる障害であり、さらに先を目指すが、反おとぎ話には「さらに先」などない。犠牲者の死とともに消える、はかない感受だけがある。したがってここにはその感受以外に何もない以上、それを延長する---これが拷問という不可避の結論である。言葉で苛めることもできる以上、拷問は沈黙のうちに行われることはない。

心理生理的出来事の平面のこの激化は、反おとぎ話の詩学をおとぎ話に対して強い歪曲にさらす。幻想性(この世界の約束された非現実性)と固有の犯罪の悪夢性との衝突が起こらざるを得ない。この独特の競争の結果として、幻想的約束の崩壊が生じないとは想像しにくい。反おとぎ話は、グリムおとぎ話などで時に見られる残虐性を和らげる、あの約束された無邪気さと純真さの痕跡すら保てない。これが我々が突き当たるもう一つのパラドックスである:反おとぎ話の雰囲気はおとぎ話的ではない。極めて幻想的なものでさえ、血まみれの幻覚や悪夢として受容されるだろう。

第二の帰結は、反おとぎ話が犯罪実録と自嘲のパロディの間で揺れ動くことである。おとぎ話は世代間の伝承によって極めて洗練され、磨き上げられたジャンルである。ほとんど典礼化されたリズムで流れる物語の滑らかさは、涙や血や苦痛を、恋人たちのささやきと同じく、聞こえない音楽を伴ったバレエの約束された図形に変える---その図形は自分自身の生命だけでなく、無数の主題的変奏によって動かされている。そこで起こるすべてのことは新しく起こりながら、ただ繰り返されているに過ぎない。誰も本当の意味で「初めて」を、最初の時の完全な不器用さをもって語ることはできない。

我々の新しいジャンルには、そのような節度を得る機会も権利もない。信憑化するためには、自らの声で語らなければならない。したがってそのリスクは巨大である。悪の論理は、その快楽より遠くまで達し得る---純粋に個別的な感受を超えて自らの理由を確立する必要からである。したがって反英雄は最終的に奇妙な禁欲や自己犠牲の逸脱に陥るかもしれない。負の絶対者との交わりを証明するため、美食より排泄物を選び、女王ではなく怪物と淫行を行う。しかしそれは、意図せざる滑稽さに至るほど厭わしくないか? 英雄は、その極端さゆえにすでに聖性となるような忌まわしさへの到達の意図を理解されるか? 失敗を防ぐにはどうするか---英雄が堕落の最低点との合一を宣言したとき、観客の青ざめた戦慄の代わりに、軽蔑のホメロス的嘲笑が待っているという、恐ろしい失敗を。悪の「理論」の講義は嘲笑に対する解毒剤ではない。悪から作られた世界を無力化する笑いに対する唯一の解毒剤は、血である。狂乱の屠殺は怒りと罵声を呼び、それがまさに良い---呪詛が創作の真剣さを証明するからである。ジャンルは血の洗礼を受けて定着するだろう。

実におもしろいことだが、未だ存在しない---純粋に論理的な---ジャンルをこのように構築してみると、サド侯爵の作品がそれに対応している。

III. この結論は自分でも予想外!

以上の試みについての若干の説明。

私の論述が、SFの分岐表上の空席---それがサドの著作と重なる---を示すという価値を持つなら、それは私が最初からその意図で書いた場合に限られる。しかしそんな意図はなかった。サドの創作を知ってはいたが、ゲーム理論の庇護下で空想の諸要素をグラフ上で分割しようとしたとき、彼のことは考えていなかった。私は失敗した---個々の分岐間の離散性(量子的な不連続性)を仮定したからである。その仮定は誤りだった。

民話に存在しない反おとぎ話の性質を、私は本文に示した通りに研究した。そして分析の最後の段階で、反おとぎ話とサドの著作の類似に驚かされた。私は未完の原稿を一旦置いて、今ようやく最後の二ページを書き加えて完結させた。もちろん、もはやその類似についての当初の無知には戻れなかった。それでもこのことは公刊する価値があると思う。確かに、私の出発点はサドの創作における衝動的起源のすべてをギロチンにかけ、それを極端に個別化してしまったため、性的倒錯の領域の寄与を完全に無視した彼の作品の輪郭を描くことは不可能のように思われた。しかし、実際にはそうである必要はないことがわかる。

 

クラクフ、1978年10月

レム「読者のみなさんへ :なぜ私は小説を書くのをやめたのか」(1973)

Executive Summary

なぜ自分が(『SFと未来学』の後で) 小説を書くのをやめたのかを語る、レムの読者への公開書簡。哲学とかはやめてSFもっと書いてくれという読者に対して。:

  1. 『ソラリス』の続編なんか書けないよ
  2. 同じことを繰り返すのもいやだ
  3. それにSFも文学も未来の衝撃に備えられていない
  4. 時代の変化にあわせて書き方も変えなきゃいけない。

哲学や科学からの知見を、虚構を使って延長したいんだ。文学で自閉せず外からの刺激を取り入れて新しいものに挑みたい。その結果が『完全な真空』『虚数』。今後も世界の変化にあわせて作品も変わるだろうね。がんばって世界に追いつかないと。文学はお遊びだけれど、そういう真剣なお遊びなんだ。

"スタニスワフ・レムの文学系評論エッセイ集『Mój pogląd na literaturę』(私の文学観)の表紙画像。中央に大きく『LEM』のロゴが配置され、左側に縦書きで『STANISŁAW』。黒い帯に白文字でタイトル『MÓJ POGLĄD NA LITERATURĘ』が表示され、下部に『BIBLIOTEKA GAZETY WYBORCZEJ』のシリーズロゴ。ミニマリストで現代的なブックデザイン。"
私の文学観:評論とエッセイ (2012)

読者のみなさんへ :なぜ私は小説を書くのをやめたのか(1973)

スタニスワフ・レム

 

ここ数年、読者の皆さんが、かつて(10年か12年前)とは私の書きぶりが変わってしまったのに不安を感じているのを察しています。確かに、私はもう、惑星探検の物語や、宇宙における人間の驚くべき冒険を、あの頃のような完全な真剣さで語ってはいません。『ソラリス』や『砂漠の惑星』のような作品——人間が異世界の謎と対峙する、精神的・探求的な衝突を描いたもの、あるいは物理的・軍事的な衝突を描いたもの——を書かなくなりました。また、宇宙的なミュンヒハウゼン風の、すなわち宇宙的幻想的な短編群(『泰平ヨンの航星日記』など)も、もう書かなくなりました、というか正確には、以前ほどは書いていません。

代わりに世に送り出しているのは、厚い理論的な著作(文学理論を扱った『偶然の哲学』や、モノグラフ的な『SFと未来学』)か、あるいはかなり薄い小冊子、例えば『完全な真空』や(現在印刷中の)『虚数』のようなものです。

つまり、私は厚い本では文学と人間哲学と未来学の境界領域を扱い、薄い小説作品では、以前の作風——読者の皆さんが支持してくださったもの——から内容も形式もかなり遠い実験を行っているのです。

郵便で届く手紙には、この変化に対する不安が込められています。そこで、私はこの公開状を書くことにしました。残念ながら、戸惑い、驚き、あるいは私の「古典的SFからの逃亡」に失望したすべての方々に個別にお返事することはできません。この「逃亡」については、すでに国内の批評家の方々も指摘されています。

「昔のように書いてほしい」「哲学は哲学者に任せて」「文学的実験は革新の先駆者に任せて」という要望や訴え、提案が届きます。そしてそうした手紙の行間からは、私がSFから脱走し、文学の流行や自分の新しい好みに従ったのであり、読者が望むものを書いていないという非難が聞こえてきます。そこでこの機会に、説明をさせていただきます。つまり、なぜ私の次の本はどれも、以前の——皆さんが認めてくださった——作品にますます似なくなっていくのかをお伝えします。

その理由は数多く、すべてを列挙できるわけではありませんし、自分でもすべてを知っているわけでもありませんが、私自身がこの変化についてわかる範囲でお話しします。

 

  1. 『ソラリス』のような過去の作品の「続編」を書いてほしいという要望には、たとえ書きたくても応じられません。それは不可能です。あのような本で私は、人間が地球のものとは全く異なる現象と出会う様子を描こうとしました。その現象は最後まで解明されず、宇宙は真に無限であり、人間が持つ地球的・人間的な尺度では到底測りきれないからです。私は「人類学的実験」を目指し、隠された問いを立てました——人間が自分の理解を超えたものと衝突したとき、どうなるか? それを受け入れ、折り合いをつけられるか? もちろん小説には他にも様々な要素がありましたが、この動機が主導的だったと思います。だから『ソラリス』のような、完全に解明されない惑星の謎を「続編」で解明することは、根本的前提に反します。人間は地球的事物の尺度ではあっても、全宇宙の尺度ではないからです。

  2. 私はもう、確立され試された方法で本を書かないようにしています。冒険を語るためだけに冒険を書きたくないからです。以前の物語には、たいてい何らかの思想が隠されていました(上記のもののように)。一度成し遂げたことを繰り返すべきではないと思います。たとえ強く望んでも、繰り返しは後退であり、世界への裏切りであり、現実からの逃避です。なぜなら、現実において過去への回帰は常に不可能だからです。文明は後戻りできず、人類は牧歌的な生活に戻れず、文学も今日、セルバンテスやバルザックが語ったのと全く同じように語ることはできません。もちろん文学にも生活にもエスカピズムは存在し、「良い古き時代」への回帰を信じる人もいますが、それは純粋なユートピアです。そして私の考えでは、今日、普通の市民であれ並外れた市民であれ、誰もユートピアに逃げ込む権利はありません。私たちが望むと望まざるとにかかわらず、満足するか恐れるかにかかわらず、世界は未来に向かって猛進しています。未来学者たちのあらゆる努力にもかかわらず、その未来は未知です。だからこの世界で本を書く者は、この——ますます激しくなる——変化という事実を考慮しなければなりません。自分自身や読者にただ嘘をつくだけではいけません。私にとって、文学はただ美しい、息抜きになる虚構、すなわち嘘だけではないのです。だから私は変化の必然を感じ、それに突き動かされています。「流行に合わせたい」「いつまでも好かれたい」という努力ではありません。

  3. 私は、「普通の」文学もSFも、年を追うごとにますます大きな危機に直面していると考えています。この危機は、映画やテレビ、大衆メディアという「恐るべき競争相手」が現れ、人々が本を読むより画面を見ることを好むからではありません。危機の原因は、世界で起こる出来事の洪水の中で方向感覚を失い、その現実の階層——現在の、そして将来の私たちの運命にとっての重要度や序列——を認識できなくなっていることです。私たちは、文明が強大な運動によって、伝統的・歴史的な根から引き剥がされつつあるのを感じています。だから文明は自らの未来を探らねばならず、今日の決定が子どもや孫を救うか破滅させるかを決めねばなりません。この状態は私たちの力を超えており、しばしば「未来ショック」と呼ばれます——把握しがたく、矛盾に満ち、避けがたく迫り来る未来の幻影による衝撃です。この状況は、文学もSFも準備なしのまま迎えました。今日の「普通の」文学が語ることや、派手なSFの本が語ることは、現在の世界、そして21世紀への扉の向こうに生まれる世界から、乖離し、遊離しています。「普通の」文学は自分の中に閉じこもるか、神話的変異や「偶然性」、暗く絡み合った言葉へと逃避し、SFは擬似科学的なおとぎ話に逃げ込むか、文明の未来の悪夢を単純化したビジョンで私たちを脅かします。どちらも、文学に尊厳を与えた行為——ジョゼフ・コンラッドが「目に見える世界に対する正義の執行」と呼んだもの——を放棄する方向に向かっています。しかし正義を執行するには、まず裁かれる側の理を理解しなければなりません。だから何よりも重要なのは、私たちの世界がどこへ向かっているのかを理解する努力、そしてそれに抵抗すべきか、受け入れて積極的に参加すべきかを考えることです。

  4. 作家がこの危険な状況——自分の仕事だけでなく、すべての生きる者にとって危険な状況——を理解しながら、まるで理解していないかのように振る舞えるでしょうか? 問題は、文学を他の芸術や新技術の「競争」から守ることではなく、概念的・芸術的な武装を鍛え、知的・倫理的・審美的基準を打ち立てることです。それらは歴史の次の曲がり角で塵に帰してはなりません。状況が求めているのは文学の救済ではなく、人間思想の普遍性の救済です——そして優れた文学はその思想のほんの一つの小さな面に過ぎません。私は誰かの代弁をする資格はありませんが、自分についてだけ言えば、文学は世界を救うことも変えることもできません。伝統的に書こうと革新的に書こうと、それは不可能です。それでも文学は、眠らせる手段にも目覚めさせる手段にもなり得ます。幻や夢の麻薬や栄養剤、麻酔になることもあれば、人間的事柄を包摂し、その未来の運命を予見する不断の努力にもなり得ます。「予言の手段」と言っているのではありません。そんなことではありません。文学は、精神生活において、肉体生活におけるトレーニングや鍛錬、反射や能力を鍛える運動のようなもの——つまり精神の集中——であり、最悪の場合でも、パスカルの言う「考える葦」のように、何かを守るものになり得るのです。

 

私にとっての教訓は、すでに成し遂げたものに二度と戻らないということです。読者を技術的ユートピアの約束で眠らせたり、技術が生む文明の黙示録の千の形相で脅かしたりする権利はありません。なぜなら、それはすでに無数に語られ、書かれ、なされたことだからです。優れていようと粗悪であろうと、図書館が軋むほどに。そして他に何も、新しい何も言うことがないなら、正直に沈黙する方がよいのです。海に水を注ぎ足すよりは。

では、私は実際に何をしているのでしょうか? この手紙の隣にある小冊子の例で明かします。私は未来の文化の所産を想像しようとしています。それは本気で未来を予言することではありません。文学化された予測でもありません。ただ、私たちの思考の地平を、たとえ微小でも広げる努力に過ぎません。思想、文化の所産、芸術的作品、非実在の(架空の)論文を扱う以上、私は『虚数』の中で依然として文学の領域にいます。これは「二次の虚構」、虚構の虚構です。なぜならその主人公は小説のように人間の姿ではなく、架空の作品だからです。これをSFと言うべきか? その名称がどれだけ適切かはわかりませんし、正直に言って、あまり気にしていません。いずれにせよ、これは直接に世界やその住人を描写・記述しない文学です。文学についての文学——反小説のように自分の中に閉じこもるのではなく、自分を超え出る文学です。だから未来の造形芸術(『ネクロビエ』)を装い、人間が自らの手で作り出した「恐るべき賢い機械」との未来の出会いの議事録を装い(私はそれをゴーレムと呼びました)、21世紀のコンピューターが生み出す「非人間の作者」による「ビット文学」を研究する未来の学問「ビティスティカ」を装っています。なぜなら、人間的理性と「非人間的」理性——生物学的知性と機械的知性——の「共存」は、未来の鍵の一つだと私には思われるからです。

しかしそれらの未来の作品を装いながら、私は作品そのものを書いたのではありません——それは不可能でもあり、退屈でもあります——ただその「序文」を書いただけです。このユーモラスな手法(「序文主義」という新文学ジャンルの創出)は、ただの冗談として考えられた課題を遂行するのを容易にしました。この課題こそが、この手紙全体を規定しています。私たちは実際に何が起こるか知りませんが、論理的で首尾一貫し、明確である限り、考え得るすべてのことに備えるべきです。

科学が課されるような厳しい制約に縛られない文学は、「詩的免罪符」という係数のもとで活動する以上、科学的・未来学的な未来予測が許される範囲を超えて、もっと多くのことを許され、すべきです。

『虚数』がところどころ奇妙で、理解しにくく、そこで何かを真剣に主張しているのか、それとも嘲笑し皮肉っているのか判断しにくいとしても——私が暮らして書き活動する世界自体が、奇妙で理解しにくく、嘲笑的でありながら真剣であることに気づくことはできますが——それでも私は、これらの文章の「難しさ」についての責任を自分で負う覚悟です。私は「難しい」作家や「エリート主義」の作家になりたくありません。何を考えていても、できる限りシンプルに表現しようと努めています——残念ながら、いつも成功するとは限りません。おそらくこれらの文章に「科学性」や「科学らしさ」を過剰に負わせすぎているかもしれませんが、それは文学を更新し、文学を助け、文学を世界に適応させるには、文学の内部からではなく、外部から、その硬直した形態を打ち破ることによってしかできないと考えるからです。文学自身の中から、文学だけからは、救いは来ないのです。

だから私は、哲学、自然科学、未来学から援軍を求めますが、それら現在の現実の成果を借りるのではなく、虚構によって未来へ——あるいは私たちの前から未来を隠す不透明な幕の向こうへ——延長するのです。

いま述べたことは、弁明ではなく説明であり、私の読者への回答であり、私の実験を擁護したり称賛したりする試みではありません。私は世界の未来も現在の世界も隅々まで知っているわけではなく、自分自身、自分の可能性と限界も完全に知っているわけではないので、間違う可能性は十分にあります。だから私はこれらの新しい文章をお勧めするわけでも、万能薬と呼ぶわけでも、「唯一正しい道」と考えるわけでもありません。ただ、文学の中で、私にできることを、私にできるやり方でやっているだけです。

『虚数』の次に別の本を書けたら、おそらくそれもまた何らかの点で違ったものになるでしょう。なぜなら、世界が同じことを繰り返したがらない以上、文学も戦いなくしてその歩調に合わせることを諦めるべきではないからです。それは隠された意図を持った絵画的な遊びであり、ユーモアであり、時には劇的な教訓を帯びた遊びであり、作家の独善からではなく、死ぬほど真剣な必要性から生まれる遊びなのです。

 

1973年

訳者説明

レムの文学系評論エッセイ集『Mój pogląd na literaturę』(私の文学観) (2012) 所収のものを使用。邦訳はすでにどっかにあるかもしれないけれど、まあ別に複数あってもいいでしょ。初出が何なのかは書かれていないので不明。

これまでの晦渋な論説のあとでは、本当に神々しく見えるほどストレートでわかりやすい。そうねえ。でもレムが『ソラリス』の続編書いたら、というのはちょっとおもしろい。あれば読みたいなあ。ケルヴィンが最後に海と融合してソラリスの神皇帝になるとか。

この本は『高い城/文学エッセイ』に含まれた文学エッセイをほとんど含んでいて、その他かなりいい論説も収録している。ゲーム理論によるマルキ・ド・サド分析とか、検閲下の社会主義文学と商業主義の資本主義文学の比較とか、ステファン・グラビンスキ論 (「シャモタ氏の恋人」について) とか結構おもしろいので、グラビンスキー販促のためにも収録すればよかったのになあ。

レム『対話』:社会主義ファシストたるスタニスワフ・レムの面目躍如

Executive Summary

スタニスワフ・レムの論説『対話(Dialogi)』(1957年初版/1971年増補版)の詳細な書評・部分翻訳+解説記事。

  • 本書は対話形式で、自己・意識の複製可能性機械に意識を移植できるかサイバネティクスによる社会設計などを論じる。
  • 前半はSFファンおなじみのテーマ(原子レベルでの人間複製、意識の本質、機械意識など)が中心で、比較的穏やか。
  • 後半(第7・8章)が核心:自分が極めて強い社会主義者(準ファシスト的)であることを天真爛漫に暴露している。
    • 資本主義は景気変動で崩壊するオワコン。
    • 理想の新社会は生産手段の公有+完全オートメーション+計画経済。フィードバックを価格以外でサイバネ担保
    • 実現のためには暴力も辞さず初期段階では個人の自由を無視してもよい。
    • 理想体制完成後は、知的エリートが計画し、「バカな大衆」と共存。システムを乱す不穏分子は抑圧すべき。だから初期段階以降でも個人の自由は抑える

レムは社会主義体制の欠陥も鋭く指摘するが、それでもサイバネティクスで改良された「本物の社会主義」を信じていたことが本書では明らか。これまでの紹介はこうした面を完全に無視。

"2体のヒューマノイドロボットが古代ギリシャ風の白いトーガを着て、色とりどりの花が咲き乱れる美しい庭園の石のベンチに座り、木製のテーブルを挟んで対話している。左の銀色のロボットは青い目で巻物を手にジェスチャーし、右のロボットは緑色の目で手を頭に当てて驚いたような表情。背景には青空、白い雲、古代遺跡の柱列、緑の丘陵が広がり、蝶や鳥が飛んでいる。中央上部に大きな日本語タイトル「対話」、副題「サイバネティクスがつくる明るい専制社会主義 スタニスワフ・レム」、下部に「Dialogi (1957/1971) 山形浩生++Grok訳」と記載された、スタニスワフ・レムの書籍カバーイラスト。"

はじめに

はいはいみなさん、待望の(ってだれも待ってないだろうが)レム長編評論シリーズ。今回は、レム初の論説『対話』(1957/1971)だ.

まずは全訳から:

スタニスワフ・レム『対話:サイバネティクスがつくる明るい専制社会主義』(1957/1971)

これに手をつけようと思ったのは、これがすごく楽だから。だって、書いてあることが普通にわかるんだもの。変な脱線も少ない。議論も(同意はしないまでも)明快。対話なのでそんなに変な方向に話がいくこともない。内容も、人間の複製とか、機械は意識が持てるかとか、まあSFファンならお手のもの。そう思った。

が……

やっているうちに、これが実はそんな生やさしいものではないことがわかってきた。これは、レムが実はいかに純粋社会主義者であり、準ファシストであるかを露骨に自ら語っている、とんでもない本だ。そしてレム自身は、それがなにかまちがっているとも、隠すべきことだとも思っていない。

なんかこれが人工知能だとか意識だとかの話だと紹介しているのが見られるけれど、全然そんなんじゃない、そこは本当に生やさしい部分。これまで、「レムも社会主義国で政府にあわせるのは大変だったんだなあ」、と思っていたけれど、実は彼と社会主義の関わりはそんなものではすまないことを本書ははっきり示している。

 

どういうことか? 興味ある人は、以下の訳者解説を読んでほしい。

レム『対話』訳者解説

1. はじめに

本書はStanisław Lem Dialogi (1957/1971) の全訳となる。翻訳には2010年刊行のAgora SA社版電子ブックを利用。またその他ネット上にあったいくつかのpdf版も参照した。さらに英訳版、ドイツ語訳版も随時参照している。各対話につけたタイトルは、訳者が勝手に追加したもの。

"レム『対話』(Dialogi)ポーランド語、英語、ドイツ語版の表紙。ポーランド語は淡い黄色の背景に幾何学模様。大きく黒文字で「STANISŁAW LEM」と「DIALOGI」が記載され、手描き風のロケットのような筒状のイラストが中央に配置されている。下部には「BIBLIOTEKA GAZETY WYBORCZEJ」と出版社名が記されている。英語版は、真ん中にフリーメイソンめいた目つきの青い三角形が描かれ、左半分が黒、右半分が黄色の図版に題名と著者名、出版社MIT Press. ドイツ語版はオレンジがかった赤の表紙に文字だけ表示. 著者、題名、Edition Suhrkampと書かれている"
レム『対話』ポーランド語、英語、ドイツ語版

2. 日本におけるこれまでの紹介(の不在)

本書は日本語ではほとんど紹介されたことがない。非公式の出版としては対話第6編が、垂野創一郎氏によって全訳されている。レム『発表した仕立屋その他の抜粋』(垂野創一郞訳、ビブリオテカ・プヒプヒ6、エディション・プヒプヒ, 2006) pp.55-89。今回の翻訳でも、それを下敷きにさせていただいた。

だが内容について唯一まとまった形で言及されているのは、レム・コレクション『高い城/文学エッセイ』の巻末で沼野充義が、レムの各種ノンフィクション論説を紹介したときの、次のような言及だけだ。

フィロヌスとハイラスの間に交わされる対話という、ジョージ・バークリー風の手法によって主としてサイバネティクスを論じたものであり、社会主義圏でこのテーマを扱った書物として先駆的である。対話のテーマは「原子の復活、不可能性の理論、人肉嗜食の哲学的効用、試験管の中の悲しみ、サイバネティクス的心理分析、サイバネティクス的終末論、電子頭脳の背信、トランクの中の生」など。これらの議論の中でもレムにとって特に重要なテーマの一つは、生命そのものというよりは、唯一で交換不可能なものとしての意識であり、この問題ははるか後の短編「我は僕ならずや」(『完全な真空』所載)でもさらに掘り下げられている。1971年の増補版は500ページ、日本語に訳して原稿用紙1500枚の大著。(p.438)

 だが、この部分でのレムの論説単行本紹介のすべてと同じく、この紹介も、ほぼまちがっている。正しいといえるのは、これが二人の対話形式になっている点だけ。

まず本書は訳して27万字ほど、原稿用紙にして680枚程度でしかない。ぼくの持っている原著のページ数は確かに490ページあるが、前半は対話なので結構すかすか。そんな大著ではない。比較で言うと『技術大全』が1000枚、『SFと未来学(上下)』が1800枚というところだ。『偶然の哲学』(1967)の改訂版は邦訳すると1400枚くらいになるので、そちらとまちがえた可能性はあるがはっきりしない。

 さらに途中に出てくる「原子の復活〜トランクの中の生」というのは? こんな判じ物のような話が論じられているのか? 全然そんなことはない。実はこの部分、この『対話』初版のオリジナルタイトルの一部なのだ。本質的ではないので、ここの説明は最後にまわすが、これは文中からちょっとキャッチーな部分を引っ張ってきだだけで、内容の要約でも説明でもない。

 さらに本書が「サイバネティクスを論じた」とも言えるかどうか。サイバネティクスに言及はする。そこで扱われている概念が、本書で述べられる各種の現象の考察にも役立つような話は出てくる。だが、まずサイバネティクスそのものについての基本的な説明、たとえば「サイバネティクスはノーバート・ウィーナーが1948年に提唱し」といった説明もない。サイバネティクスの全体像のようなものも提示されない。フィードバックのある系/システムがいろいろある、それはサイバネティクスで言われていることで、それを使って分析できるかも、というだけだ。全体として、これまでの多くの知見をサイバネティクスの用語で言い直すことができる、という指摘にとどまる。

 と、こういう書き方では、本書が何の本なのかはわからないだろう。まずは例によって、章ごとの要約/あらすじから。

3. 章ごとの要約

1 複製人間はどこまで自分か?
  • 人間は物質でできているから、まったく同じ原子配列を再現すれば、自分になるか?

  • その自分は、このいま生きている自分の続きか? それとも自分とは別の存在か?

  • 元の人が死んでいたら続きだが、生きていたら別の存在になると主張するヒュラスの矛盾をフィロヌスが指摘する。

第 2 章 複製人間その 2:原子と構造が同じなら「自分」?
  • そもそも不確定性原理があるから原子を完全に同じように組み立てるのは不可能だ。

  • また意識の主観性と客観性の問題もある。

  • そうした概念をもっと詰めないと議論は堂々巡りになると指摘。

第 3 章 サイバネティクスの基礎:エントロピー、情報、フィードバック
  • 「私」というのは、環境と自分の過去の複雑なからみあいから生じたもの。まったくちがう環境にいまの自分とまったく同じ「私」が存在することはあり得ない。

  • 生命は、負のエントロピーを生じさせるものであり、ある程度以上の複雑性を備えた組織体は自己修復性を備えて自分より複雑な存在を生み出す。それが環境からのフィードバックにより進化する。

第4章 機械は意識を持てるか?
  • 機械も人間の脳に匹敵する複雑さを持てば意識を持てる。

  • 意識は、実体のある単一のものではなく、知覚や推論などのプロセスの集合体。

  • 機械もそれをこなせる。いま機械意識がないのは、進化が使えた材料が有機物だけだったから。でも今後はそうとは限らない。

第5章 サイバネティクスから見た意識と自由意志
  • 意識はネットワークの複雑性から生じる。一定水準を超えればその複雑性とともに意識は高まる。

  • しかし複雑性が高まりすぎると、全体をまとめきれなくなって分裂しかねないので、最大の複雑度もあるのではないか。

  • その複雑性の副産物で無意識が生じ、これは進化的な適応に貢献しない場合もある。

  • また自由意志は刺激への反応が決まったものにならず、過去の経験に基づき変更されるということ。機械もそれを持てる。

第6章 意識を機械に移植できるか?
  • 脳の回路を少しずつ機械に置き換え、だんだん馴らしていけば、いずれ脳のすべてを意識や記憶とともに機械に移せるのではないか。それにより、第1,2章で言ってた不死のようなものは実現できるだろう。

  • それで人間が追い越されてシステムの僕になる可能性はすでに起きている。国や社会に人間がひれふすのはまさにその一例だ。

第7章 サイバネティクスで築く理想の社会主義社会
  • 資本主義はオワコン。外部の影響で経済がどんどん振幅の大きい景気変動を起こしていずれ崩壊する。オートメーションを全面導入できないのが、私有財産に基づく限界だね。

  • 社会主義は生産手段公有だからどんどんオートメーションを導入できる。ただし、フィードバックの活用をしないので官僚主義に陥り、敵に対して使うべき暴力を自国民に使って停滞に陥り、市場フィードバックのある資本主義より生産性も低いまま。

  • 新しい理想社会は、生産手段の公有、大規模農地所有の廃止、計画経済に基づく。

  • サイバネティクスで新しい社会構築を進めよう。これはフィードバックが多いからシミュレーションじゃだめ。実際にやってみないと。

  • 新たな理想社会のために、敵には暴力だって使うべし! 最初のうちは個人の自由も無視ね!

第8章 バカとの共存
  • 知能検査やIQは非常に有意義。ただしそれは選別や階層化に使ってはいけない。適材適所を目指すための道具

  • 社会力学を抽象化して、それがどんな制度になるか図式化することもできるし、社会変化の道筋を物理や化学の相転移として理解することもできる。その中のマルクスみたいな個人の影響を考えることもできる。

  • ただし理想システムを構築したら、あとはすべては社会力学の計算で決まる。政治家だのはいらないし、変にとんがった個人による攪乱も邪魔なので抑えないと。

  • いずれ社会はオートメーションの量産で希少性を脱し、経済原理とは別の動機づけがいるようになる。「理由なき反抗」はその前兆。既存秩序の破壊でしか自己表現できない連中も出てくる。ドストエフスキー「地下室の手記」みたいなのは、ただのラッダイトな秩序への反抗。でもそれもしょせん、想定内で計算済みだよ。

  • 社会は、計画する知的エリートもいるし、それをまわすバカな大衆もいる。選別はその選り分けに使うべきだけど、これは適材適所ということで、階級分けじゃないからな! そうすればみんな共存できるぜ!

付録1−1:失われた幻想、または電子知能から情報学へ(1970?)
  • いまにして思えばサイバネティクスに期待しすぎた。理論的な基盤も弱く、情報概念もあいまいすぎた。

  • また応用面を見ても人工知能も自動翻訳も実現できなかった。複雑性をなめていた。

  • が、もう少し謙虚な情報学による可能性を地道に探ろう。

付録1−2:応用サイバネティクス:社会学からの一例(1970?)
  • 社会主義体制は、サイバネティクス的に見るとやばい。調整介入が多くてシステムの反応速度が低下し、市場フィードバックがなく、縁故主義や局所最適化が蔓延している。

  • それが中央エリートをのさばらせ、彼らは現実に目を閉ざす。そうした病理を改革せよ。

付録2-1:技術の倫理と倫理の技術 (1966)
  • 技術は自然を拡張するが、それにより人間の既存前提を破壊し価値体系を攪乱する。

  • これまでなかった選択肢が増えてしまう。LSDや避妊薬で行動と報酬のフィードバックが切れる。

  • 文化や倫理を社会という複雑系の中の調製パラメータと考え、マルコフ連鎖として把握し、安定状態を模索できるのでは?

付録2-2:生物学と価値 (1968)
  • 物理に価値観はないが生物のようなホメオスタシスを考えると目的性が生じてそこに価値が生じる。

  • 進化にもそこで目的性や価値があるように見えるし、エンジニアはある価値観を目指すのでこの両者をすりあわせられる。

  • ただし進化ではあらゆるものが現状に適応しているので、目的論から見てゴキブリも人間も等価。進歩などの価値をあまり真に受けず謙虚さを保とう。

4. あらすじのあらすじ その1:自己と意識

さてこうやってあらすじを述べてみたが、まだ見通しが悪いと思う人もいるだろう。確かに、本書はいささかバランスが悪い。スタニスワフ・レムにしてはかなり論理的に整然としていてわかりやすいし、脱線も限られてはいるが、それでもだれる部分がかなりある。ということで、このあらすじをさらに整理しよう。

 本書の話は、大きく次の三つに分かれる。

  • 1〜3章:自己は再現できるか?

  • 4-6章:意識を機械に移植できるか?」

  • 7-8章:サイバネティクスで築く理想の社会主義とは?

  • 付録:少し見通しが甘かったこと、あとは文中の話を少し論文調に詳述したもの

最初の部分では、原子レベルで人間を再構築したらそれはいまの「自分」と同じか、という議論が展開される。

 さて、そこで本書のボケ役ヒュラスくんの主張していることが、いまいちピント外れでぼくにはまったくピンとこないので、そこで延々と展開される議論もあまり意味があるとは思えないのだが、要するにそこで議論されているのは、山形という人間を原子レベルで完コピしたら、そこに登場するのはそのコピー前のぼくですか、という話だ。

 さて、ぼくにはこれは自明に思える。新しくできたコピーのぼくは、いまここにいるぼくとは、別の存在だ。向こうは「あれ、さっきコピー機に入ったと思ったら、突然こっちのベッドに寝てたんだが、どうしたんだ?」と不思議に思ってるだろう。でもコピーされたオリジナルのぼくはそのままずっとそこにいる。「あれはおまえだ、おまえが向こうにいるからいまここにいる山形は殺すね」と言われたら、やだよ。でも、おそらく第三者が見れば見分けはつかないだろう。どっちが「本物か」というのはわからん。

 二人はそれについて、同時に生きていたらだめだとか、死んだ後なら続きになるとかいろいろ言うが、その議論はいまいちわかりにくい。そしてレムの分身たるフィロヌスの話では、原子レベルでコピーしても、この自分と複製の自分はちがう、ということらしい。

結論はわかるんだが、フィロヌスはそれについて何か決定的な説明はしない。いまここにいる「自分」というのは環境との関わりの中で構築され、存在しているものだから、あっちで原子のかたまりを突然作ってもそれは「この自分」ではない、ということらしい。が、あっちでできたニセ山形だって、それまでの記憶や環境との関わりは引き継いでいるんだから、それでは説明にはならない、とぼくは思う。

あと、意識や自己というのは、システム内部からシステムについて見たときの何かだ、という言い方で、主観的な自己の感じを説明し、それでコピー存在が自分の続きでないことを言えたような書き方をするが、うーん、どうなのかね。それは言い換えであって説明にはなっていないように思う。

また次の部分は意識の話となる。ヒュラスくんは、生物以外に意識は生まれないとする。フィロヌスは、意識はある程度の複雑さを持つ系には必ず発生するという。だから、コンピュータで脳と同じくらい複雑なものを作れば、意識を持つ、という。そして脳の部分ごとに次第に機械に置き換えて、だんだん馴らしていけば、その脳全体、つまりは人間の意識全体をコンピュータに完コピできる、と主張する。

 この部分、複雑さにも限界があり、ある程度を越えると個別部分をまとめきれなくなるから、最適複雑性があるはずで、したがって究極の叡智を持つ神様とかはないだろうとか、ちょっとおもしろい考察はある。そして、冒頭で紹介した沼野充義の紹介ではここの意識の議論こそが本書の山場、ということになる。

 が……

 いまの要約でもわかる通り、この部分はそんなに大したことを言っているわけではない。普通のSFファンなら大なり小なり考えたり読んだりしたようなネタだとは思う。コンピュータが複雑さを増すうちにどこかで自意識を発達させる……よくある話だ。垂野創一郎は、この6章の最後の部分がヤバイのだと述べ、それで本書が当時ポーランドで出たこと自体が奇跡だ、という説を紹介している。だが、その部分の何がヤバイのかはよくわからない。電子頭脳の中の意識? いや別に。

本書で最もすさまじく、とんでもないのは、その次の部分、7章と8章で、サイバネティクスによる社会設計を論じた部分なのだ。そしてそれは、そこでの主張がすごいと同様に、それがスタニスワフ・レムという人物の思想について語る内容がすごいのだ。

 そこの部分では、スタニスワフ・レムが自ら、自分がゴリゴリの社会主義者であり、準ファシストだと明言しているのだ。

5. あらすじのあらすじ その2:社会主義者レム

レムを論じるにあたっての最近の流行りは、『高い城』だの『主の変容病院』だのを見て、「おお、レムはホロコーストでこんなに苦労したのですか」というような話をすることらしい。そしてまた、ベルリンの壁崩壊後のレムは、自分がいかに社会主義体制とは距離をおいていたか、いかに中央集権の計画経済を批判し、それが破綻することを予想していたか、といった話を得意げに語る。多くの論者はそれを額面通りに受け取って、レムはずっとファシズムや社会主義に反対なのだ、としたり顔で論じる。そして暗黙のうちに、だからレムは西側の自由主義の支持者にちがいない、と思ってしまう。

だが、本書の上のあらすじを見てほしい。特に第7章。彼はぜんぜん自由主義支持者なんかじゃない。西側資本主義はもうオワコンだ。確かにいまの社会主義はフィードバックを考えないからだめだ。でもそれを(サイバネティクスで)きちんと考えれば、理想社会が実現する。でもその実現プロセスでは、守旧派を暴力でブチ殺せ。新体制確立までは人権や自由もなしね。彼はそれを明言しているのだ。

確かにレムはここで、社会主義の中央集権体制と計画経済について、すさまじい批判を展開している。フィードバックの不在による非効率性、おかげでオワコンの資本主義にすら生産性が負けるという情けない状態だ。計画経済でそれ以外のものが見えない近視眼、組織の自己目的化、エリートや既得権益の専横、そして反対や不満を抑えるための暴力の行使。これはまったくもってけしからん、とレムは述べる。よくこんなものを、1950年代のポーランドで出せたものだ。そのまま収容所送りになってもおかしくない代物。スターリンの時代が終わってたとはいえ、そもそもこれが無事出たということ自体が奇跡だ。

そしてその中で彼は、個人の自由を最大限に活かして能力を発揮させるようにしないと、と主張し、自由主義を大いに支持しているような印象を与える。だが……その一方で、7章で彼は、生産手段の公有を新しい社会の大前提とする。そしてそれを完全オートメーション化せよ、と。それに反対する守旧派を排除するためには暴力は当然使うべきだし、そして新体制が確立するまで個人の権利や自由なんて踏みにじって当然だ、と公言する。さらに第8章では社会工学によって新しい理想システムが構築されたら、それを揺るがすような不穏分子の登場は抑えなくてはならない、そんな連中は想定内だけれど、単なるラッダイトにすぎないんだ、と明言する。

 つまり彼にとって、自由は大事だけれど、ほどほどのものでしかない。彼の社会は基本は社会主義だ。ただしそれは、サイバネティクスでフィードバックを十分に考慮した、新しい理想の社会主義だ。そこでは各種フィードバックは、価格システムなんかに頼ることなくサイバネ的に実現される(それが具体的に何を使うのかは明言されない)。だって、完全オートメーションであらゆるものが希少性を失ったら、価格なんて意味がなくなるものね!

 うひー。

 もちろんこの後者の部分については、それはレムの本意ではないのかも、と勘ぐることはできる。そうやってマルクス主義に叩頭しないと命にかかわる体制下で書いていたのだし、「いやマルクス主義は否定していません、その理想の形を考えただけです」と言い逃れする余地が必要だったのかもしれない。

 だが、ぼくはそれは苦しいと思う。レムは『主の変容病院』を出すとき、他に社会主義に迎合したものをでっちあげて三部作セット販売させられた。そして後に、それが意に沿わないといって再刊を拒否した。また初期の『火星からきた男』『マゼラン雲』なども同様の理由で再刊を長いこと拒否してきた。彼はそれをしばしば、自分がいかに社会主義体制とそりがあわなかったか、その協力がいかに自分の本意に反するモノだったかを示す証拠としてあげようとする。でもこの『対話』は復刊を拒否することはなかったし、また増補版を出すにあたって、上で指摘した部分を改定することもなかった。彼はもちろん、自分が中央計画経済を批判していたという証拠として本書を使いたいのだ。だが、いま挙げたヤバイ部分を隠そうとは一切していない。彼はそれをヤバイと思っていないのだ。

社会主義計算論争と管理社会

 レムがここで主張している「新しい」体制、「理想のシステム」というのは、有名な社会主義計算論争そのものだ。確かに、社会主義に市場はない。価格によるフィードバックが効かない。でも、その需給関係をすべて数値化してモデルにしたら? 産業連関表のような形で、どの産出でどの投入がどれだけ必要で、というのをすべて計算できたら? そしたら価格で需給調整なんかする必要はない。いつどこで、だれに何が必要か完全にわかるじゃないか!

 レムのサイバネティクス、特に本書で描かれている理想システムというのは、まさにそういうものではある。価格なしのフィードバック。そしていったんそれができたら、それは死守せよ。個人の自由とか理由なき反抗とか、そういうくだらないものは認めない。自由もほどほどにね。

 その前提になるのも社会主義経済理論だ。いずれあらゆるものがオートメーションでいくらでも作れるようになる。そこにもはや希少性はない。ヤマメを三匹食べても、太郎のお母さんは龍になるコストを払う必要はない。そうなったら価格というシグナルは意味を失う。でも、そこで経済が完全なワルラス均衡/一般均衡を実現できているなら、そんなシグナルはいらない。全部計算すればいい。そしてランゲやマルシャックの言うように、その経済の発想は政治や社会統治にも使える。レムはこの発想を「サイバネティクス」に置き換えているわけだ。もうちょっと後なら線形プログラミングとかの話をしたかもね。

さらにその大前提となるのは、史的唯物論に計画経済。暴力革命肯定、一時的とはいえ個人の自由制限の正当化、さらに理想システムの確立後も社会のパラメーターをいじることで、武力使用はほどほどに抑えつつ個人の自由は穏健なあたり、体制の害にならない程度におさえておいてね。自由ってのは、各人がその能力に応じて自分の適性にあった職業選択ができる、という意味だよ。そこらへん、はきちがえちゃダメだよ。頭のいい人は社会の指導役、バカはその歯車として働くという役割分担を、知能検査でしっかりやろう。あ、これは別に、差別とか階級とかそういうことじゃないよ。適材適所ってことだからね! そうやってバカとも共存する社会もできるんだよ!

 ……いやあ、それって絵に描いたような強権社会主義&準ファシズムだと思うんですが。サイバネティクスによるスーパー管理社会だと思うんですが。でも、レムはそれをまちがいなく支持している。

 だからレムが社会主義を批判していました、という単純な見方はたぶん不十分だ。彼は当時の現実に存在した、鈍くさい頭の悪い粗雑な社会主義は否定しており、ダメだと思っていた。だが、根っからの社会主義者ではある。1950年代の粗雑な社会主義のあり方には批判的ではあった。でも、サイバネティクスを通じてそれを合理化し、理想的な社会主義が実現できるということをまったく疑問視していなかった。というか、たぶんレムがサイバネティクスに飛びついたのはまさにそのせいだ。もちろん資本主義なんてのがオワコンなのは確信していた。アメリカなんてのがいずれ潰れるのは必然だった。

 本書は、レムのそうした恐ろしい思想を、本当にまったく隠すことなく天真爛漫に述べた、とても恐ろしい本ではある。そして彼は、それを隠す必要があるとすら思わなかった。16年後の反省と称する文章でも、その部分については一切触れない。

 レムは狡猾なので、そこらへんをうまくごまかす。ベルリンの壁崩壊によって、彼が本書で主張した話はほぼ崩壊したけれど、彼がその思想をどこまで捨てたのかはわからない。彼は現実の話がヤバイと、なんか理論的、思弁的な話にすりかえ、科学や超越論的な話をしようとする。2026年6月には、彼の長編インタビュー『スタニスワフ・レムかく語り』が出るそうで楽しみだ。そしてそこでの楽しみの一つは、そこで彼がこうした自分の思想についてどこまで正直に語るか/言い逃れるか、ということでもある。

 レムの社会主義支持については、かつてブログでも指摘して、その翼賛文を訳したことがある。本書の内容は、それとあまり変わっていない。そしておそらくレムは、その後もあまり思想を変えなかったようだ。別にそれがいけないわけではない。実際の社会主義のていたらくを目の当たりにしながらも、ここまで社会主義を信じていたというのは、むしろある意味で爽快なくらいだ。ただし、作家および思想家としてのレムを考えるにあたって、おそらくこれは避けて通れない話だとは思うし、本書はそのための基本的な資料となるはず。それを黙殺してきたこれまでの日本のレム紹介は……

cruel.hatenablog.com

6. おまけ:オリジナルの題名について

さて冒頭で、沼野充義が本書の初版のフルタイトルを一部つまみ食いして、本書の内容紹介の手を抜こうとした、という話をした。それをちょっと説明しよう。

そのオリジナルタイトルはDialogi o zmartwychwstaniu atomowym, teorii niemożności, filozoficznych korzyściach ludożerstwa, smutku w probówce, psychoanalizie cybernetycznej, elektrycznej metempsychozie, sprzężeniach zwrotnych ewolucji, eschatologii cybernetycznej, osobowości sieci elektrycznych, przewrotności elektromózgów, życiu wiecznym w skrzyni, konstruowaniu geniuszów, epilepsji kapitalizmu, maszynach do rządzenia, projektowaniu systemów społecznych、訳すと「原子による復活、不可能性の理論、人肉食の哲学的メリット、試験管の中の悲しみ、サイバネティック精神分析、電気的輪廻、進化のフィードバック、サイバネティクス終末論、電気ネットワークの人格、電気頭脳の倒錯、箱の中の永遠の生命、天才の構築、資本主義のてんかん、統治機械、社会システム設計をめぐる対話」となる。

 これは実際に読めばわかるが、対話の中からキャッチーなネタを拾い出して並べただけであり、本書の内容のあらすじでもない。紹介というにはあまりに不適切だし、これだけ読んでも何を言っているかわからない。そして最後の社会構築に関する部分を割愛したことで、本の最後の三分の一、おそらく本書で最も重要な部分についてはまったく触れないことになってしまう。

 それぞれ説明しておくと、原子による復活とは、原子とその配列を完全に再現すれば自分を再現できるのか、という話、不可能性の理論は具体的に何を指すか不明、人肉食の哲学的メリットというのは、自分の完全な複製を作り、その複製が自分を食べてしまったとしたら、その複製が(以前の自分と同じ分子で構成されることになるから)新たな「自分」と言えるか、という議論だ。試験管の中の悲しみは、該当部分がはっきりしないが (試験管という言葉は文中に一度も登場しない)、試験管ではなく真空管と言いたいのかもしれない。電子頭脳 (当時は真空管の時代)の悲しみは、機械に感情や意識が持てるか、という話。サイバネティク精神分析は、精神分析がサイバネティクス的にはナンセンスという話、電気的輪廻は、おそらく電気頭脳に自分を転写できるかという議論のこと。進化のフィードバックは文字通り。サイバネティクス終末論は、人間以上の知能を持つ機械ができたら人間お先真っ暗という議論、資本主義のてんかんとは、資本主義が好況と不況の波をくりかえして崩壊する話、残りは文字通りの話だ。大きなテーマもあれば、一瞬出てくるだけのネタもあり、内容のまとめではない。

 「対話」というだけでは中身がわからないと思ったのかもしれない。が、これでもあまりわからないよなあ。とはいえ、そういう中身ではある。

7. 翻訳について

この翻訳は、ポーランド語からAIを使って翻訳している。が、英訳、独訳ともつきあわせており、内容的にまちがっているところはないはず。ただし、対話部分はきちんと見たが、その後の付録部分は、そんなに真面目に見ていないのでまだまちがいがいろいろ残っているはず。

内容的に、神経ネットワークだの複雑系だのという話から意識のあり方、そして社会主義と社会工学に経済理論まで実に多岐にわたるこの本をまともに翻訳できる人は、他にあんまりいないんじゃないかと思う。

そしてレムが、当時のポーランドという環境の中で、おそろしいほどに勉強をしていたのは実によくわかる。ケインズ理論の非常に的確な説明とか、ちょっと驚いた。複雑系と線形・非線形システムのちがいといった、当時としてはかなり先駆的な話もいろいろあるのは驚きだし、なんだかジェームズ・ディーン『理由なき反抗』まで先取りされているのには唖然としてしまう

そして他のノンフィクション論説著作に比べて明快だし、その論理や主張もたどりやすい。その意味ではとても読みやすく、レムのこうした評論/論説入門としても最適だろう。他の本は、こんなもんじゃすみませんからね。

ということで、委員会諸賢は是非お読みあれ。

 

あと残るは『偶然の哲学』だけかぁ。あれは面倒なんだよなー。そのわりに報われない。まあ気が向けば。では。

 

2026年5月28日 ラゴス&アブジャにて

山形浩生 hiyori13@alum.mit.edu

レム『SFと未来学』訳者解説

"「SFと未来学」第1巻・第2巻の表紙が並んだ画像。左側は第1巻「構造と社会」で、機械的で幾何学的なオレンジ・青の円形アートワーク。右側は第2巻「テーマ別分析」で、青とオレンジの可愛らしいロボットが両手を上げたイラスト。どちらも作者スタニスワフ・レムの名前が記載され、日本語訳は山形浩生+Grokと記されている。"
SFと未来学 上下巻
"

しばらく前にあげたレム『SFと未来学』全訳、訳者解説があがったのでアップ。

レム『SFと未来学』訳者解説

実際のレムの翻訳は以下にあるが、これは委員会の諸賢しか読んではいけません。

スタニスワフ・レム『SFと未来学 I』

スタニスワフ・レム『SFと未来学 II』

だが訳者あとがきはだれでも好きに読んでくれてかまわない……と言ったところで、どうせダウンロードして読む人もいないだろうから、長文だけれど以下に貼り付けておきましょう。

レム『SFと未来学』訳者解説

1. はじめに

本書はStanisław Lem Fantastyka i Futurologiaの全訳となる。ベアテ・ゾルガー&ヴィクトル・ツアッキ(上巻)、エッダ・ヴェルフェル(下巻)によるInsel/Suhrkamp社刊独訳 (1977/1980, 1984)からの重訳である。ポーランド語の原著は1970年に刊行されているが、最後の「あとがき」ですでに出たものに対する反応への弁明が出ていることや、1969年に出たル・グウィン『闇の左手』についての記述の付け足し感などから見て、初版の訳ではなくその後の改訂版の独訳だろう。山形が翻訳の底本としたのは、Suhrkamp版 (1984)のペーパーバックだが、どの版をもとにしたか明記されていない。1972年あたりの版だろうか? 著作権ページでは原著が1964年刊になっていて、明らかにまちがいだし、書誌的な情報ははっきりしない。

"木製デスクに乗った Lem "Phantastik und Futurologie I/II" ドイツ語ペーパーバック版、I巻が薄い紫、II巻が濃い紫、どちらも表紙の下1/3にレムの斜め前からの顔の白黒版がついている。"
使った原著 Lem "Phantastik und Futurologie I/II" ドイツ語

2. この翻訳の経緯

さて本書は、一部では名のみ高い伝説的な本ではある。独訳ペーパーバックの上下巻あわせて1200ページのサイコロ本というか鈍器本だ。スタニスワフ・レムが、既存の(当時)SFを徹底的に読み込んで、壮大な理論体系を構築し、それに基づいて特に欧米SFが、SFの可能性をほとんど無駄にしているゴミクズのかたまりだと罵倒しまくり、さらにはその理論分析の果てにSFが向かうべき道筋をすべて分析し尽くしてしまったため、もはや創作をする必要もないという境地に陥り、一部のシリーズ短編を除くと1987年の『大失敗』まで創作からほぼ手をひく原因になったらしい。

 そう聞かされると、いったいそこに何が書いてあるのか、と好奇心がそそられるのは人情だろう。欧米SFがまったく活用していないというSFの真の可能性っていったい何? そんなものを解明できる、SFすべてを網羅する理論体系って、いったいどんなもの? そして活用されていない可能性に気がついたなら、それを使っていっぱい作品を書いてくれればいいのに、と思うんだけれどそれでほぼ絶筆してしまうってどういうこと?

 ところが……これまで日本では、その中身に何が書いてあるかについては、一切紹介がない。いやホント。上で述べた周辺情報は繰り返し聞かされるが、いったい何が書かれていて何がすごいのかについては、ほぼ何も紹介がない。本書の最終章の「メタファンタジア」邦訳はあったが、あの部分は後で説明するように、本書のまとめにも紹介にもまったくなっていない。あれだけ読んでも何もわからない代物だ。そして、日本でのレム紹介の集大成になると思われたレム・コレクションにも、ろくな内容説明すら含まれないというていたらく。

 ええい、もういいよ。待ちくたびれたよ。自分でやるよ。もう30年前に買ったドイツ語版、ずっと本棚の肥やしになっていたが、おりしもAI翻訳が実用レベルに達してきたことだし、やったろうじゃないの。すでに『技術大全』で、英語からの重訳ではそれが十分に可能であることは確認した。ドイツ語だってできないはずがない。

 

 ということでできあがったのがこれだ。

 

ではお読みアレ……と言いたいところだが、こんな大著、手に取るだけでも勇気がいる。中身について多少の示唆が欲しいだろう。また、読まずにお手軽なアンチョコがほしい人もいるだろう。そこで段階を追って本書の中身についてまとめよう。

3. 本書の大きなポイント

本書を読もうなどという人は、たいがい上のような評判をどこかで聞きかじったんだろう。そしてその好奇心の大きなポイントは次のようなあたりじゃないだろうか。

  • 本書は本当に、SFについての総合的な究極理論を構築しているの?
  • その理論とはどんなものなの?
  • ところでこのタイトル「SFと未来学」ってどういうこと?

これまでの紹介を読んできた人なら、まず知りたいのはそもそも本書が本当にSFについてのすごい理論体系を構築しているのだろうか、という点だろう。そしてこんな疑問を思いつく人々のほとんどは、その答えは当然YESだと思っているはずだ。だってあんた、1200ページ使って壮大な理論体系ができていないなら、何してるのよ。

そしてもちろん、YESであるなら、そのすごい理論をかいつまんで教えてくださいよ、と思うのは人情だ。厳密な理論体系そのものはおっかなそうだけれど、その大枠くらいは教えてほしいよね。そして知ったかぶりくらいはできるようになりたいところ。

そしてもう一つ、たぶん多くの人が気になるのはこの題名だろう。『SF——その理論と実践』とか『SF批判序説:ポスト構造主義の立場から』といった題名であれば、なんとなく中身もわかりそうだけれど、未来学? ほとんどの人は未来学なんて忘れた……という以前にそもそも聞いた事がないだろう。未来についての学問? つまり未来予測? でもなぜそんなものがわざわざ題名に入っているの? だってSFを未来予測の一種だと思うなんて、SF読んでない素人だけだよね? 『スター・ウォーズ』や『機動戦士ガンダム』(ましてジークアクス)が未来予測だとか思う人はいないよね? まさかあの『ソラリス』の名手、東欧から来た男レムが、そんな幼稚なSF観を持っているはずはないよね? そう思うでしょ?

ところが恐ろしいことに、まさにレムはそういうSF観を(も?)持っている。少なくとも本書の理論は、それをベースにしている。そして本書の理論は、それをベースにした非常に幼稚で偏狭なものなのだ。理論はある。だが、それは一般に期待されるような総合的、体系的なものではない。未来予測(または未来についての考察)の手段としてのSFという非常に偏狭な見方に基づいた、偏狭な理論が構築されているだけだ。

といってもにわかには信じられないだろう。だから本邦初の、本書の中身のきちんとした紹介をここで行おうではないの。

4. 本書の好意的なあらすじ

では本書を章ごとに概説しよう……と思ったが、それは少し後回しにしよう。というのも、本書はレムの常として構成が劣悪で、やたらに長いこともあって章ごとのまとめだけでは結局これが何の本なのかさっぱりわからないからだ。 そこでまず、本書の基本的な主張を整理し直し、レムの主張の骨格を把握してもらおう。

本書は偏狭な見方に基づいた偏狭な理論が構築されているだけ、と述べた。だがレムには、レムなりにそういう偏狭な理論を延々と展開してみせる理由がある。まずは、彼の理論を最大限に好意的にとらえて説明しよう。

レムの考え方では、現代は科学技術の発展によりこれまでの文学の前提が変わってしまった時代だ。これまでの文学は、人間の死すべき運命を前提にして物語が構築されていた。人は必ず老いて死ぬ。異性と出会い、快楽を餌にセックスして子供を作る——これは生物学的な人類の使命であり、そしてそれにあわせて各種文化が構築されてきた。文化は人間の生物学的な衝動と集団生活のバランスを構築するために宗教的、社会的な規範(これはしばしば、何の根拠もない恣意的なものだった)を作り、それを通じて人々の生活を律し、それが価値観を決め、それに反抗したり従ったりするのが人間活動の本質だった。文学はそれを様々な視点で描くのが仕事だった。

ところが現代はそれが科学技術と実証主義のせいで変わった。セックスしなくても人は快楽を得られる (ポルノなどで)。子供も人工授精で培養できる。セックスを取り巻く文化規範、その他あらゆる文化や社会・宗教の規範は、すでに実証的な根拠がないことが次々に示されている。その中で、いまや価値観の基盤が次々に揺らぎはじめている。それに代わるものも生まれていない。すると、それを前提としていた (それを受け入れるにせよ反抗するにせよ)文学も、もはや立場がなくなり、やることがなくなってフリーセックスだのドラッグだの言語実験だのに走るしかなくなっている。

そこへ飛び出た救いの星がSF……のはずだった。

SFは唯一、そうした科学技術の発達による、文化社会の前提の変化を射程に入れられる未来の文学なのだ、というのがレムの主張だ。でも別にそれをやってもいいけど、やんなくてもいいんじゃないですか? いいや、そんなことではダメだ、とレムは怒る。なぜかといえば、科学技術の進歩はますます加速しているから。そして科学や各種学問の専門特化とともに、それが持つ社会文化・人間的な影響の考察も専門特化している。それが未来学で、各種未来予測をやるハーマン・カーンやアルヴィン・トフラーみたいな連中がでかいツラをして大量予算を獲得し、ランド研究所だのハドソン研究所だので未来予測をしている。が、そんな連中の予測はことごとくはずれている。それなのに、そいつらが未来の方向性を決めてしまおうとしている! そんなエリート主義、しかも当たりもしないエリートどもの手に人類の未来を任せてはならないのだ! ハインラインの未来史のほうが、実はずっと原子力や戦争の未来を当てている。つまり未来考察——そして構築——の民主化のツールとしてSFは存在しているのだ! それをくだらんスペースオペラだの意匠を変えただけのメロドラマだの、ましてもはやお先真っ暗のブンガクのまねした言語実験のニューウェーブだので浪費している暇はないのだ!

そして本の残りは、こうした重要な役割をまったく果たしていないのんきなアメリカSFの罵倒、そしてその原因として、商業主義に走るメディア、それに迎合する作家たち、粗造乱造を余儀なくする経済条件、そして批判力なしにそれを喜んで受け入れる馬鹿なSFファンどもへの罵倒がひたすら繰り返される。おしまい……

いや、おしまいではない。実は上巻の半分くらいは、もう一つの話に費やされる。それは、SFの構造分析だ。まず、レムはSF、ファンタジー、おとぎ話などの類型論に入る。さらに、既存の物語構造をどのように変形させるとSFになるか、という分析を行う。SFの多くは、おとぎ話の焼き直しにすぎないのだ! あるいは、ファンタジーに逃げて真面目な考察をしないですませている! SFは構造も、その焼き直しのやり方もあまりに単純すぎる!……でもそういう構造分析では、中身の話はまったくできないし、くだらない作品も名作文学も同じ構造を持っている。作品の優劣には構造がまったく影響しないのだ、よって構造主義に基づく分析は役に立たないからやめる、と宣言し、構造の話はすっかり消え、あとは各種テーマについてアメリカSFがいかにバカかが語られる。

……と思っていたら忘れた頃、いちばん最後の最後になって、この構造の話がちょろっと復活する。現代は科学技術で変化する社会を描くための、新しい物語構造を必要としているのだ、と述べる。だがSFはそれを探していないとのこと。おしまい。

これが本書のあらすじとなる。

5. 本書の困難

まず上のあらすじを見て、本書の頭の痛いところがすでに出ているのがわかるはず。主張に賛成するかはさておき、本書が2種類のちがった本を無理矢理いっしょくたにしているうえ、その片方——SFの構造分析の話——は、「やったけど役に立たなかった」と何百ページもあれこれ論じたあげくに放棄される、という点だ。

もちろん失敗を正直に語ってくれるのは、正直といえば正直だが、やはりそれを延々と読まされる読者としては徒労感をおぼえずにはいられない。しかも「やっぱダメでしたー」というのは第3章の最後の最後でテヘペロ状態で出されるんですよ。期待だけさせておいてそれはないでしょう。

ところがそう言っておきながら、最後の最後で結論になって、現代は新しい物語構造を必要としている、という主張が唐突に出てくる。が、物語構造と中身とは関係ないと言っていたのでは? ならなぜ新しい物語構造が必要だといえるの?

さらに構造分析が多少なりとも意味があったとしても、それと未来学的な知見 (レムはそれを「認識論的な価値」と表現するが、こんな表現をする意味はまったくない)との関係というのはどういうものなわけ? 宇宙旅行とウラシマ効果の社会的側面を検討するにあたっては、一人称の談話形式を使い、話の終わりから遡る物語構造が最適なのだ、といった話ができるなら、1200ページかけて大量のSF作品を(罵倒しつつ)検討してきた意味もあるだろう。だが、そんなものはまったく示されない。ならば、レムの言う「新しい物語構造」とはどんなもの? 本書ではその方向性や大枠すら示されない。ステープルドンやジュワフスキー、ボルヘスは誉められるが、その分析は構造ではなく物語の中身に留まる。コードウェイナー・スミスやベスター『虎よ、虎よ』は絶賛されるが、「これはSFじゃなくてファンタジーだよね」ということで、認識論的な価値とは関係ないことにされる。するとその新しい構造とは何? 結局、その「認識論的な価値」、つまり未来学的な話と、物語構造の話との関係は何も示されずに終わる。

だったらそれは別々の本にしたほうがいいのでは? 無理に一冊にしないほうが万人のためだったのでは?

さらに、上のあらすじは、まあ明快だ(と我ながら思う)。だが、この本を読んで、この主張の流れを抽出するのは至難の業だ。なぜかというと、レムの本の中でも、この『SFと未来学』はとんでもなく長いし、枝葉がやたらに多く、「認識論的な価値」をSFが追求すべきだという議論はバラバラになってその中に埋もれているからだ。

まず、SFにおいては認識論的な価値 (つまりは未来についての知見)こそが重要なのだ、というのは、第1章で出てくる。

だが、いずれ未来学的に利用されると期待して我々がSFに求めるアイデアや概念構造は、見せかけのようなものであってはならない。またそれは、ある特定の読み方で引き起こされた、単なる一時的幻影のかけらであってはならない。それは読了後も、読者の不可侵かつ不変の財産でなければならない。SFには本物の情報が求められる。(上p.17)

が、なぜそれが求められるのか、というのはまったく説明がない。レムがそう勝手に断定するだけだ。いやそれどころか、それが単なるレム個人の独断と偏見(←死語)でしかないことを、レム自身が堂々と述べる。

SFで求められる情報オリジナリティは、コミュニケーションの表現構造にはない。表現中でオリジナルと受け取られるが、後に平凡さが明らかになる情報は、SFでは失格だ。だがここで一つ但し書きをつけよう。私は「平均的読者」としてではなく、真の認識論的価値を求める者としてこう述べる。だから本書は、言わば今日の支配的な美的慣習に逆らうことになる。(上p.16、強調引用者)

つまり、SFに本物の情報や知見が求められるというのは別に一般性のある話ではなく、レムが個人的にそれを望んでいるだけだ、というわけだ。あんたが認識論的価値を求めている人間だから、すべてのSFをそれに基づいて評価する、ということですか。

いやそんな個人の嗜好を押しつけられましても……

そう思って、読み進むうちに、ほとんど最後近くの第13章になって、なぜSFにそんな「認識論的な価値」=科学などの知見を求めねばならないのか、という話がやっと登場する。

我々の時代には、現象を理解し評価し判断することが他の歴史的時代以上に適切で必要だと私は確信している。(中略)すでに述べたように、人間がこれまで未来を純粋に自発的に作ってきたのであれば、そして常にあらゆる職業は現在に捧げられたか過去に向けられたかのどちらかで、来るべきものに向けられた職業的方向はなかったとするなら、そして今選ばれた決定が未来を決定し、しかも不可逆的に決定してしまうことが確実なら、未来に向けられた戦線に投じられるすべての力が文化の主な予備軍となる。それを考えると、この専門分野を未来学者のようなしばしば簒奪的な専門家に任せるのは許されない。誰でも機会と能力があれば、発展変種の探求の仕事に参加すべきであり、そこで文学が果たせる役割は大きい。文学がそれに(SF のような形であっても)取り組まなければ、二重の損失を生む。文学自身の損失と、一般文化的な、あるいは文明的な損失だ。(下p.194)

ぼくのまとめたあらすじ冒頭、この本すべてを支える問題意識が、ここでやっと明確に説明される。いま、科学技術のせいで様々な変化があるから、未来を真面目に考えて決めねばならず、それを未来学者なんかに任せておけない、だからこそSFが未来考察の民主化手段として重要なんだ、よってSFは現実逃避なんかしてちゃダメだ、というわけ。そしてやっとこれで、本書の題名が「SFと未来学」というものになっている理由もわかる。まず、人類はこれから未来を考えねばならない、というでかい命題がある。そしてそれを行えるのは、人々の集合知を活かせるSFか、あるいはエリート主義でインチキな未来学のどちらかなのだ、というわけだ。その両者の対比こそが本書の主題なのだ。

それを冒頭できっちり言ってくれよ。そしたら本全体の見通しが百倍よくなっただろうに。あなた一人の偏狭なひねくれ視点ではないというのもわかり、もっと我が身や現代社会に引きつけて理解できただろうに。それが出てくるのが、原著の1000ページ目あたりになってから、ではねえ。

その他の細かい部分も、本書のあちこちに脈絡なくばらまかれているのを、なんとか拾い集めるしかない。結局捨てられる(が最後に蒸し返される)構造の話も、どうもレムは構造がその物語のジャンル——SF/ファンタジー/おとぎ話/神話——を決め、そしてそのジャンル認識が読者の受容を左右する、つまりそこに「認識論的な価値」=知見を読み取ろうとするかどうかを左右する、というような図式を考えているらしい。ファンタジーは、魔法などあり得ない設定を使う。そこを認識論的に追求しても無意味だと読者はわかる。よってそこから知見を得ようなどとは思わない、というわけだ。

ぼくはこの見方自体がナンセンスだと思う。『葬送のフリーレン』を見ることで、長命種と短命種の共存について考察はできる。『風の谷のナウシカ』は、ファンタジーだ。でもそこから生態系とその再生についての考察を読み取ることは十分に可能だ。だが、その内容についての賛否以前の問題として、レムのこの見方を把握するまでがそもそも四苦八苦。切れ切れの内容があちこちに散らばっているので、それを再構成して多少なりとも筋の通った理屈に仕立てるだけで一苦労だ。どうも、最初に結論の構想があってそれに従って書いているのではない。成り行き任せで書いているうちに、思惑とちがっちゃったのでそのまま投げ出す——そんな感じの部分ばかり。そしてその間に、本筋とはまったく関係ない余談や思いつきがあれやこれやとぶち込まれる。ぼくは訳すために一言一句読んでいったので、なんとか関連部分を拾えた。でも一般読者が普通に読んでいって、彼の主張の筋道をきちんと追えるかといえば……無理だよ。

 

レムの評論の脱線ぶりについては『技術大全』の訳者解説でも述べた。あらゆる部分で、本筋とまったく関係ない話が、その場の思いつきで書き殴っているとしか思えない書きぶりでバランスも何も考えずにぶちこまれる。 だが『技術大全』では、そうした脱線がおもしろさの一助にもなっていた。なんでここでそんな話が出てくるんだよ、と思いつつも変な宗教論が登場するのはそれなりに面白かった。ところがこの『SFと未来学』では、その脱線もつまらない。ポルノSFはくだらないという話をするときに、何やら最近の小説は扇情的でけしからんという話を延々聞かされましてもねえ。

6. 章ごとの概要

では大筋を理解していただいたところで、章別の概要をまとめよう。それぞれの部分についての細かい概要は、訳しながらブログで逐次まとめているので、そちらを参照してほしい。https://cruel.hatenablog.com/archive/category/SF%E3%81%A8%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E5%AD%A6

はじめに

  • 空想的なものにもいろいろある。
  • 文学は少なくとも3 つの機能を発揮する。情報提供機能、教訓機能、娯楽機能である。SF 文学は、さらに追加のサービスも提供する。予言機能だ。

第I 部 構造

第1 章 文学作品の言語

  • 1.1 序論:言語は、現実を見る/描き出すための道具だ。でもその道具自体が描く現実と不可分になっており、その道具のほうが重要なことさえある。
  • 1.2 空想文学の言語的問題:SFはいろんな造語を作り出す。ただそれはそれっぽい雰囲気を出すためのものだけだったりする。その作品構造とか関係なくて安易。
  • 1.3 表現の構造と表現されるものの構造: 文学作品は表現自体も重要だが、SFは、未来についてのアイデアを伝えるのが仕事。余計な表現のお遊びは無用で有害。
  • 1.4 表現の内在的構造:内容と表現は不可分で、曖昧さが常に残る。その曖昧さを無視する構造主義批評は無力。
  • 1.5 文学作品の4 つの構造:表象構造 (どう書かれているか)、表現されたモノの構造、執筆時に作用した環境構造 (ジャンルの規範とか)、読者の受容環境の4つがある。これは外的要因も大きい。本書はおもに、表現されたモノの構造を中心に扱う。
  • 1.6 小説世界の字義的機能と信号的機能:描かれたものと表現したいものはちがう。カフカの変身はカブトムシを描くが、表現したい内容はカブトムシではない。

第2 章文学作品の世界

  • 2.1 SF の比較存在論:おとぎ話、ファンタジー、SF、ホラー、神話は超自然性とこの世の秩序についてのお約束ごとによりジャンルとして区分される。
  • 2.2 SF の認識論:SFは未来学に近いところがあるが、いまの未来学は無力。当たることより、枠組みを提示して見方を示すのが重要。

第3章 文学的創造の構造

  • 3.1 はじめに:経験と文化:技術が自然と社会を変えつつあるが、SFはそうした重要問題を扱い切れていない。
  • 3.2 SF の生成構造:SFは既存物語パターンの部分的置換、反転、衝突、結合といった構造変換で作られるが、構造だけをいじると空虚なゲームに堕す。
  • 3.3 世界構造と作品構造I:作者/話者の位置づけが構造主義で問題視されるが、大した話ではなく騒ぐだけ無駄。
  • 3.4 世界構造と作品構造II:空想/SF:主題が構造を決める例はある。タイムトラベルものは、繰り返し型、元の木阿弥型、結局無駄だった型などパターンがある。だがSFはそれを考え抜かずにメロドラマなどに落としてしまう。
  • 3.5 SF の構造的分類基準.:構造を見るとSFがいかに単純かがわかる。でも構造だけでは中身のよしあしはわからないので構造分析は無力。だからもうヤメ。

第4章 構造主義から伝統主義へ

  • 作品理解には、その作品ジャンルの見極めが重要。そして使う構造パターンは、だまって借用、借用を公言、自分で考案という3種類ある。だがSFは願望充足に堕しがち。

第II部 SF の作家と読者

第5章 SF の社会学

  • SFはクズばかり。それは出版社が商業主義にはしり、志の低い作家が手軽なクズを量産し、ファンどもはそれをほめそやすバカばかりで、しかも主流文学みたいな内部批評の構造がないから。
  • ただし、ヴォークトやベスター作品はくだらないが妙に魅力的でおもしろい。これは構造分析ではまったくとらえられない。

第III部 SF の問題分野

  • 第6章 大災厄:破滅物をSFは実に安易に扱い茶化すこともあって許せない。いまは核戦争一歩手前だから冗談のネタにするな! このジャンルの人気はある意味で既存秩序の破壊を喜ぶ幼稚な心性のせいだ。
  • 第7章 ロボットと人間:『未来のイヴ』はロボットだけでなく社会的影響や人間にとっての哲学的意味まで考えたが、いまのSFは社会的影響を考えず一貫性もないお遊び。
  • 第8章 宇宙とSF :宇宙旅行はごく最近の発想。スプートニクで脚光を浴びたが、深い考察はなく意匠だけ。
  • 第9章 SF の形而上学と信仰の未来学:ミラー『黙示録3174年』はがんばっている。いま試験管ベビーや人工知能が宗教の前提を脅かしているが、それを扱ったSFはない。
  • 第10章 エロスとセックス:セックスは特殊な文化的位置づけを持つ。それを科学が崩し、セックスがお手軽になると宇宙人との乱交みたいなSFが出る。バカだな。ル=グウィン『闇の左手』はセックスが深掘りされていない。
  • 第11章 人間と超人/スーパーマン:まともな超人SFはステープルドン『オッド・ジョン』くらい。それでも結構穴がある。SFは人間の能力向上をまるで扱わない。
  • 第12章 棚卸し:冷凍睡眠SFは多いがこの技術の社会的影響を完全に無視。また宇宙SFの異星人はきわめて独創性に欠ける。
  • 第13章 SF の実験:ブラッドベリから「ニュー・ウェーブ」まで:ブラッドベリはSFで唯一、書きぶりで成功した作家。ニューウェーブは規制のお約束を破壊しようとするが破壊だけ。ヌーヴォーロマンと同じ。読者が勝手なものを読み取るに任せているだけ。だがいまは未来を考えて構築しなくてはならず、いまはそれを無能な未来学者が独占しようとしている。SFでそれを万人にやらせるべき。
  • 第14章ユートピアと未来学:ボルヘスは架空の完結した世界を描くユートピア。ステープルドンは荒唐無稽だが未来を真剣に考えた。SF作家は何も真剣に考えていない。

第IV部 おわりに

第15章 メタ未来学的結び

  • 人間は本能を失って文化を創ったが、それは虚構で不合理。
  • 科学はその不合理性を暴いたが、代わりのものは提示できず、文化の社会的意義の設定を切ってしまった。

第16章 メタSF 的結びの言葉/メタファンタジア

  • 従来の文学構造は古くからの文化的価値観が前提 (それを破壊するときでも)
  • いまその構造が科学の発展で崩れている。
  • SFは物語構造の選択も、その変形も、新たな構造の構築もダメだ。もっとがんばれ

あとがき

  • SFをこんなタコ殴りにするつもりはなかった。でもいまのSFは、最低の低俗小説に堕している。話は幼稚、設定は天国と地獄の両極端だけ、お手軽なカタルシスに走りたがる安易さ。自己批判もない内輪ぼめの自己満足と、商業主義への安住。絶望的だね。

7. 本書の難点

さてこうして章ごとの流れを見ると、冒頭で述べたことがご理解いただけると思う。

7.1 構築性のなさ/理論体系の不在

まず、ここには「理論体系」はまったくないことは明らかだ。

これまでの紹介、特に本書第16章「メタファンタジア」の紹介では、レムが何やら構造主義批判理論の大家のような書かれ方になっていた。しかし構造分析は、第1-3章で考察されるものの、大した深みはなく、ざっとした紹介にとどまるうえ、「こういう構造(またはその捉え方)がある」と述べつつ、その構造があるとどうなのか、というのは一切述べられず、あげくにそのほとんどはてその最後で完全に放棄される。それなのに最後になって、構造分析は無駄だったはずなのに、SFは構造的にダメだ、新しい物語構造を、と蒸し返される。なぜそんな物語構造がいるの? 何も説明はない。

何か議論を構築的に組み立てるような意識も一切見られない。普通、1200ページもあれば、何か前提があり、それを例証や演繹によって深め、展開してこれまでだれも指摘しなかった主張を行うのが常道だ。だがここにはそれはない。レムの立場は、最初と最後でまったく同じだ。レムは自分の独善的に見える主張を最初にうちたて、その後それを正当化するような議論を一切しない。「認知論的価値」=科学的知見に基づくべし、という、最初に掲げた勝手な価値観でひたすら突っ走るだけだ。そしてその大半は、英米SFはとにかくダメと言いまくるだけ。

7.2 英米SF&SF業界への異様な敵意

そして本書で度肝を抜かれるのは、その既存の英米SFに対する異様な罵倒ぶりだ。それも作品に対してだけではない。業界そのもの、作家たちやファンたち自体への人格攻撃に等しい口汚い罵倒がさんざんに展開される。その最たるものは本書の第5章のこんな部分だ。

この「狂信者」の年次大会と米国での最高SF作品のコンテストを外部の観察者が見ると、みんながお互いをヨイショしあっている、苛立たしいほどバカな家族の集いを連想してしまうこともある。悪意ある観察者なら、これが時に、せむしとびっこしか出ない美人コンテストを思わせるとさえ言うだろう。そこには醜悪さが満ち満ちているのに、みんな精神的留保を保つことで、そのカケラすら見て見ぬふりをしているのだ。アンドレイ・キヨフスキは、L・ティルマンドの著作に捧げられた批評的エッセイで、「鼻くそ坊やの天才」および「白痴の賢者と哲学者」という用語を考案した。(中略) 高位の創造的努力は低位の領域とは独立して活動する。このような関連は芸術外の領域、つまり科学的領域でも見られる。この領域では、科学の存在――属性なしの、通常の普通の研究作業として――は頑固な擬似科学を伴う。それは「平らな地球」などの協会の存在、今日アインシュタイン理論を倒そうとする宗派、昨日なら円を四角にしたり角の三等分に取り組んだりした連中などにあらわれている。実際、芸術的・認識論的に本物の価値を作成する精神的能力はないのに、偶然ある程度の才能――必ずしも狂気的ではない――で目立つ人々がいる。彼らは本物の宇宙論、物理学、哲学、または文学を営めないため、お手軽な手の届く代理物と片手間の創作で、自分の創造的不安を解消するのだ。(上p.179、強調引用者)

もちろん、個別作品についての罵倒も同じくらいひどい。レムはアメリカSF協会の名誉会員に選ばれたが、彼の英米SFに対する罵倒を見てジェリー・パーネルかだれかから物言いがつき、激論の末に名誉会員資格を剥奪されるという事件があった。ただしその激論なるものは、レムの発言内容をめぐるものではなく、レムに名誉会員となる規定上の資格があるのかという手続き論に終始して、まったく見る価値のない代物ではある。が、こんな罵倒をされてアメリカのSF作家たちがおもしろくないのはよくわかる。ちなみに、この部分の後でレムは、キャンベルやハバードがインチキ科学やエセオカルトに入り込んだのをあげつらい、SF作家がいかにバカかを嘲笑してみせる。だがこのしばらく後に、彼が天体物理学教授のグレゴリー・ベンフォードに対し、おまえは天体物理学をわかってないとイキってみせて哀れまれたのも有名な話ではある。レムの嘲笑はそういうレベルのものでしかない。

 そしてこの異様な敵意は、ちょっと不思議ではある。というのも1959年に彼は論説集『軌道に乗る』に収録されたSF論で、ずっとバランスの取れた主張をしているからだ 。そこでのレムの分析では、SFはアメリカ特有の状況から誕生して盛り上がったもので、個々の作品はダメでも全体としてアメリカの抱えている問題や関心事を考察しようとする集団的な活動という側面を持ち、同時に20世紀アメリカの神話形成でもあることが指摘されている。個別作品より全体を見なくてはならない、と当時のレムは言う。

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 うん、それがわかっているならなおさら、本書のように個別作品をあげつらい、だめな作品ばっかだ、とけなしてみても仕方ないことくらいわかりそうなものなんだが。なぜそれが1960年代を通じて変わったのか?

 その一方でレムは、その同じ第5章で、ヴォークトやベスターの作品が構造的にも未来学的にもろくでもないのに、それでもやたらにおもしろいことを認めざるを得ない。つまりレムは、自分の見方が一面的であり、他にもその作品を評価すべきポイントがあることを十分に知っている。それなのに、あらゆる作品をひたすら全否定し、無価値のクズだと罵倒してまわる——それは理屈としてもあまりに変だろう。

7.3 あるべき未来学とは?

そして本書で非常に不思議なのは、題名にすら含まれる未来学の扱いだ。2.2節でレムは、現在(つまり執筆当時の1960年代末)のハーマン・カーンらに代表される未来学がいかにダメかを論じる。あらすじで述べたとおり、SFがそれに変わる民衆の未来学となるべきだ、と本書は主張する。が、SFを使った未来学的考察の優位性をきちんと指摘する部分はまったくない。このため、SFが未来学に対抗できるのだ、という本書の題名にすら明示された主張が、まったく詰められていない。かろうじて、SFはフィクションだから未来学のような事実に囚われずにスペキュレーションを行う余地がある、と最後近くで述べられるだけだ。

実際のSFの分析では、未来学的な考察ができていない、と罵倒はするけれど、ではその可能性を本当に示すSF作品とはどんなものか、という点についてはほぼ指摘がない。ステープルドン『最後にして最初の人間』の数百億年にわたる人類史は、常に新たなカタストロフで人類が新段階を迎えるというのが見事な知見らしい。が、あれは興味深いながら、思いつき以上のものではないでは? はっきり言って整合性も何もないトンデモだよね? だがレムは、千年先の科学はいまの常識から見ればトンデモに見えるのは当然だから、むしろそれはよいことだ、とうそぶく。他の作品については、整合性がないなんてありえないと罵倒するくせに……結局、SFが果たすべき優れたよい未来学的な考察というのが何であり、それにより何が実現できるのかについてはまったく語られない。

これについては、おもしろいポイントがある。この『SFと未来学』発表の少し前の1968年、スタニスワフ・レムはポーランド共産党の機関紙の一面に「ウェルズ、レーニン、世界の未来」なる論説を寄稿し、SFは未来学的考察を行うものだが、その開祖たるH・G・ウェルズは『霧のなかのロシア』でレーニンと対話して未来についてピントはずれな主張をしている、なぜなら元祖未来学とも言うべきものは、マルクスの史的唯物論だからだ、それに従ったレーニンのほうが鋭いのは当然なのだ、というとんでもない主張をしているのだ。つまり、レムの考える正しい未来学は、史的唯物論である、ということになる 。

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この文章がどういう事情で書かれたものなのかはわからない。これがレムの本心なのか、あるいは何らかの政治的事情で仕方なくでっちあげたものなのか。だがこの論説が本気だったなら、多少は欧米の読者を意識する中で『SFと未来学』で史的唯物論こそ未来学の理想とは言えなかったかもしれないし、もしこの論説が苦肉の作だったら、それに露骨に反する理想の未来学を語るわけにはいかなかったのかもしれない。

が、いずれにしても、『SFと未来学』に、あるべき未来学的SFの姿が明記されていないのは事実であり、そしてそれが本書の大きな主張のポイントを完全に理解不能にしているのも確かだ。おかげで本書はさらにわけのわからないものとなっている。

8. 『SFと未来学』の現代的価値

ではSFと未来学に現代的価値はないのか?

1200ページすべて精読して訳した人間として言わせてもらうと……ない。全体としての価値はまったくない。本書の主張に多少なりとも価値を認めるためには、レムがおいた前提に多少なりとも賛同しなくてはならない。SFは、そこらの文学とはちがって、人類の未来シナリオを考えるという重要な仕事を担っているので、お遊びSF、楽しいだけのSF、既存のお話の設定を入れ換えて、現代の人間の価値観を相対化してみせるようなSFは全部だめ——この主張に賛同する人は、当時ですら一人もいなかっただろう。いわんやこの21世紀においてをや。これはSFの理論としても評価の枠組みとしても、あまりに偏狭だ。

 そしてその理由が、SFは商業主義に侵されて、馬鹿な作家と馬鹿な読者がはびこり、まとも批評も存在しないからだ——こんなものがSFの社会学的分析として通用するはずもない。SFのおもしろさにも一切触れられず、かつてレム自身が述べていた集団的な課題検討や神話構築の働きにも触れられない。これはSFについての総合的理論はおろか、限られた理論としてすら成立しないだろう。

 さらに何も理論面での構築もない。ちょっとやった構造分析は「やっぱ役にたちませんでした」と放り投げる。それはないでしょう。

 では、まったく無価値かといえば……そうでもない。レムは、調子がいいと、見事な筆の冴えを見せる。そうした個別部分は、実にすばらしい。

その最たるものは第13章「SF の実験:ブラッドベリから「ニュー・ウェーブ」まで」だ。ここで展開されるレイ・ブラッドベリ論は、他で類を見ないレベルの高さだ。そしてそれに伴うフランスのヌーヴォーロマン批判。これはアメリカSFに対する罵倒とはまったくちがう。冷静で公平な読み、それが持つおもしろさの源泉、文章へのノイズの導入という手法面の分析、さらにはまさにそのおもしろさの源泉のためにヌーヴォーロマンが抱える限界の指摘。これは実に見事なものだ。途中であまり脈絡なく出てくるサド論やドストエフスキー論、ボルヘス論なども、こうした著者について書かれたどんな論説にもひけをとらないすばらしいものとなっている。

 また本から離れてレム自身の抱える、ある種の矛盾も非常によくあらわれている本でもある。それがよく出ているのは第15章だ。レムはもちろん、科学の進歩をよいことだと思っている。その一方で彼は、科学により人間社会の価値観の基礎、価値観そのものが破壊されるのを大いに懸念している。人間は本能がなくなったので、文化的なお話を創って価値観を維持し、それにより生物学的な衝動を抑えつつも再生産可能なくらいには維持するのに成功してきた。だがいまや、セックスしなくても子供ができる、不老不死も夢ではない、各種の宗教規範も欺瞞が暴かれたとなると、そうした社会の根幹となる価値観が消えてしまい、人間はそれに対処できずにいる。科学は、従来の文化規範の根拠を破壊はするが、それにかわるものを提供できない。これは社会の全面崩壊にすらつながりかねない——

この、科学に対するアンビバレントな態度がしばしば本書の非常にどっちつかずの混乱した物言いに影響している。そしてそれとほぼ同じことだが、レムは言わば自由の増えすぎを懸念している。本書では明記はされていないけれど、彼はある種のサイバネティクス的な管理と社会統制を何となく求めている。「アルジャーノンに花束を」みたいにみんなの知能が高まったら、ブルーカラー職がいなくなるから問題だ、なんか職業統制がいる、というわけだ。彼はそこで、市場原理に基づく価格での調整を考えない。ある種の中央集権的な管理を彼は求める。そしてそれに基づいて、優生学も支持する。彼のそうした側面は、本書のそこかしこに断片的な形で登場する。これはレムという作家そのものの理解において、とても重要なものだ。

そうした様々な断片的な情報や記述は、特にスタニスワフ・レムという作家&人物を理解するうえで重要だし、それが本書に価値を与えているのは事実だ。この技術の発展と価値観の関係は、普遍的な重要性を持つ。

ただ……それであるなら、1959年のSF論でレムが挙げていた、アメリカSFが全体として20世紀の神話を構築しようとしているという機能についてもう少し重視してもよかったのではと思う。もちろんSFに表明される多くの価値観は、何やら古くさい単純化された価値観の焼き直しだ。それでも、全体として何かちがうものが生まれる可能性にもう少し注目できなかったのか——そうしたことを考えつつ本書を読むのは、必ずしも無駄なことではないだろう。とはいえ、それをもうちょっと整理した明確な形で論じてくれれば、と思ってしまうのは人情だろう——特にそのために1200ページもの翻訳をした人物の気持ちにもなってくれよ、とは思う。

9. 日本での本書の紹介

 冒頭で述べたように、これまでの本書の紹介はひどいものだった。中身に一切ふれることなく、周辺的なゴシップでお茶を濁すだけ。紹介した人(というと沼野充義くらい) は、これを実際に通読はおろか、流し読みすらしたのか??  その沼野充義が、おそらくは長年にわたるレムとの取り組みの集大成、国書刊行会のレム・コレクション『高い城・文学エッセイ』に書いた、本書の紹介は以下の通り:

『SFと未来学』Fantastyka i futurologia(一九七〇年) ——全二巻、原著で計千ページを越える大著。現代SFを理論的に扱った研究書。方法論としては『偶然の哲学』で練り上げたものを発展させ、読破した数万ページの現代欧米SFにそれを具体的に適用する。その分析の結果はきわめてネガテイヴで、現代SFの九十パーセント以上はSF本来の可能性をまったく無駄にしているくだらないものだ、ということになる。こうしてSF理論を体系化したレムは、その一方では自分自身も「作家としての成長過程でSFというジャンルそのものの進化の大筋を繰り返してしまった」ことに気づき、創作の面では一種の行き詰まりの状態に陥る。それを打開する―つの道が『完全な『虚数』といったメタフィクション系列の作品だった。(p.439)

本書のあらすじを読んだ方なら、この紹介がいかにピント外れかはわかるだろう。ここにはそんな系統だった方法論など一切ないからだ。ちなみにここで「方法論としては『偶然の哲学』で練り上げたものを発展させ」とあるので、『偶然の哲学』については具体的な方法論が説明されているのかな、と思う人もいるかもしれない。が、もちろんそんなことはないのです。『偶然の哲学』については、同じ紹介で「文学研究者に強い(必ずしも肯定的ではない)反応を引き起こした著作でレムは構造主義の文学理論に論争を挑み、それに対して「読者の受容を前提条件とするようなある種の伝達過程としての文学作品」というテーゼを提出」(p.439)としか書かれていない。これ、何を言ってるのかわかります? 普通はわかんないと思う。書いた人もわかってるのかな。

 実のところ、『偶然の哲学』は、平たくいうと文学のアイデア→文章→読者というプロセスのそれぞれの段階が、確実な情報伝達ではなく、不確実な確率=偶然に左右されますよ、というだけの話を延々と書いたものだ。彼はこれがマルコフ過程であり云々と、得意げに語るのだけれど、マルコフ過程になっているかどうかは怪しいし、さらにマルコフ過程だったらどうなるのか、というのはまったく説明がない。ついでに、アイデアと文章の関係を、生物学の遺伝における遺伝子型と表現型の関係になぞらえ、生物学の知見を延々と披露してみせるんだけれど、それがどうしたの? そういう理解をすることで、創作過程についてどんな理解が深まるの? 何もなし。

そして『偶然の哲学』たまにみせる見事な分析、たとえばエーコ『薔薇の名前』論に続いて出てくるのは、なぜその作品がベストセラーになったか、エーコはベストセラーを意図していたか、というくだらない物欲しげな勘ぐり。レムとしては、読者の受容というのを、売れたかどうか、というので判断しているわけですな。つまり、優れた作品はそのマルコフ過程の結果として読者に受容され、売れねばならない……そんなわけないでしょう。そんな「分析」がまともなものにならないことくらい、言うまでもないと思うんだが。

 ただ確かにその意味で、この『SFと未来学』では、いま述べた『偶然の哲学』の理論が応用されてはいる。が、それはむしろ、SFがオレの理論通りになっていないという苛立ちだ。レベルの高いものは、売れるべきだ、というのが『偶然の哲学』の理論だが、それに対してアメリカSFはクズみたいなものが売れていて、レベルの高いものが一向に出てこない。彼が当たり散らしているのは、どうもSFが自分の思うような、内容のレベルの高さと売れ行きとの相関を見せていないという苛立ちのせいなのかもしれない。正直いって、ぼくはレムがほめそやす他の文芸ジャンル、たとえば純文学ですら、別に中身が優れていれば売れる、というような幸せな状態にはなっていないと思うんだが。

 が、閑話休題。

結局のところ、『SFと未来学』は『偶然の哲学』の理論を具体のSF作品に適用して分析したなどとはまったく言えない。SF理論を体系化なんかしていないのも、すでに見たとおり。つまりここで沼野充義が書いていることは、実際に『SFと未来学』を読んだとは思えない。やっぱ紹介するなら、一応は中身を読んで把握してからのほうがいいんじゃないかと思うんだ。

蛇足ながら「『作家としての成長過程でSFというジャンルそのものの進化の大筋を繰り返してしまった』ことに気づき、創作の面では一種の行き詰まりの状態に陥る。」というのもかなり疑問ではある。SFというジャンルの進化、というのがそもそもよくわからないし、『SFと未来学』にそんなものは書かれていない。だが『SFと未来学』がレムの創作行き詰まりの原因になったというのはありそうなことだ。第14章に、さんざん他の作品を罵倒してきたレムが「それではオレ様が模範演技を見せよう」とSFのアイデアを得意げに語るところがある (下p.269以降)。だが、アイデアを語っただけで結局仕上げられずに投げ出している。要するに、自分だって他人に要求するような作品を書けなかったわけだ。そしてとてもおもしろいことだが、そこに挙げられた物語の設定は、かの『大失敗』に使われている。つまり彼は20年近く、『SFと未来学』で自分で勝手に上げてしまったハードルに見合う作品を書こうとして悪あがきをした挙げ句、できたのはあの愚作『大失敗』でした、というわけだ。『大失敗』はつまり『SFと未来学』の答合わせであり、その結果がでっかいバツでした、という情けない代物という解釈もできる。

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「作家としての成長過程でSFというジャンルそのものの進化の大筋を繰り返してしまった」というのはカッコに入っているので、レム自身がどっかでこう言ったんだろうが、まあ彼はプライドが高い人で自分のヘマを認めるわけもない。が、苦しいねえ。

もう一つ本書の紹介めいたものが出たのは、『SFの本』5号レム特集に、本書の第16章が「メタファンタジア」なる題名で紹介されたときであり、それが20年後にレム・コレクション『高い城・文学エッセイ』に収録されたときだ。おお、最終章ってことはこの本全体のまとめになっているんですよね? やっと本書の理論がわかるんですね?

 ところが……それを読んでみると、中身はあっち飛びこっち飛びの、要領を得ない迷走した書き殴りで、話としても全然まとまっていない。しかもSFの話は最後にとってつけたように数ページあるだけ。なんだこれは。さらに訳者の巽孝之の説明は例によって、名前とキャッチワードを並べるだけで何一つまともなことを言っていない。構造主義だポスト構造主義だ、その概念を縦横に駆使しているというだけ。だから、それを駆使して何がわかったわけ? ポスト構造主義を導入することで、レムはSFの、あるいは文学の何を指摘したの? それを説明すべきじゃないのかな。

そもそもこの章は、本全体の中でとっくに棄却されたはずの「物語構造」なるものがいきなり蒸し返される変な章ではある。何か本書の主張を総括するものではないし、その結論を何か述べるものですらない。これまでの文学が、既存の人間の生物・社会的なあり方を前提として成立してきたが、それが技術で変わりつつあるという主張は書かれており、レムがSFに対して求める、技術で破壊された規範や価値観の再建という役割について一応述べられてはいるが、決して明解ではない。この章だけでは何もわからないのだ。訳者もわからなかったようだし、またそれを読んだ人々もおそらくわからなかっただろう。つまりあまり意味のある紹介ではなかった。ホント、ここでも沼野充義が『SFと未来学』を実際に読んで、この最終章の位置づけをきちんと説明してくれていれば……

10. 個人的な思い出

 さてここまでお読みの方は、山形はこんなに罵倒してるくせに、なんだって全訳なんていう面倒きわまることをやったんだろう、と思うかもしれない。

 いやその通り。我ながら物好きだとは思う。が、人生にはいつかケリをつけねばならないことというのがあって、これもその一つだったのだ。ということで、ちょっと思い出話を。

 ときは1980年代。ひねくれたSFファンとしてNW-SFなんかに出入りしていた身としては、SF評論が重要だなんてことを思っていた。山野浩一がそういう主張をしていたことでもあるし。

だからサンリオSF文庫の刊行予告にこれが、レムの他のサイコロ評論本といっしょに挙がっていたときには興奮した。なんかすげえ本らしいぞ! だが……その後まったくなしのつぶて。だがドイツ語訳があることを知ってそれを苦労して入手し(当時は洋書の購入は大変だったのだ)、第二外国語で学んだ知識ではりきって読み始めると、おお、空想的なものの種類と階層の話がはじまって、本当にSFのすべてについての理論を基礎から構築しようとしているらしい……と思ったが、あまりに面倒くさく、5ページで挫折。

当時、沼野充義の研究室に一度話をききにいったときそれを見せたら「あれは絶対に訳さないといけないんだが、とても手がまわらない。ドイツ語からの重訳でもあれば、それをもとに完成させられると思うんだがなあ(チラッ)」と言われて、それならばとその後さらに5ページほどがんばったが、それが限界だった。

そうこうするうちに、『SFと未来学』を出すはずだったサンリオSF文庫が廃刊になってしまい、本書の邦訳が出る希望も消えてしまった。あーあ。

だが「ドイツ語からでも下訳があれば、それをもとに仕上げられる」と言われたことで、この本の邦訳が出ない責任の1%くらいは自分にもあるような、少し後ろめたい想いをずっと抱いてきた部分もある。ブツブツ言いつつも本書を全訳してしまったのは、ある意味でその後ろめたさを解消したかったせいもあるのだ。沼野充義もおそらく、忙しい合間をぬいつつ本書を少しずつでも訳していたはずだし、ぼくがもうちょっと頑張っていればサンリオ廃刊までに間に合ったかも……

 いま、こうしてドイツ語から全訳を終えて、あの駒場の沼野研究室で言われたことをやっと果たせたような感じがする。30年もかかったし、別に約束したわけでも何でもないけど、でもやりましたからね……

 と思っていたら。こんな文章に出くわしたんだよ。

いまからほとんど三十年ほども前、サンリオという会社がSF文庫を大々的に立ち上げることになり(中略)、レムの理論的業績における主著というべき『SFと未来学』(1970)という巨大な本も入っており、私がその訳者として山野氏に指名されたのだ。当時まだ二十歳そこそこの若造にしてみれば、有頂天にさせられるほどの大抜擢である。この著作がどれほど踏破しがたい難物かということもろくに認識しないまま、私は張り切って引き受けたのだが、その後、この本を一ページも訳せないままついに今日まできてしまった。(沼野充義「レムにおける人生と批評と創作」、レム『高い城・文学エッセイ』p.432, 執筆は2004年、強調引用者)

 ……なんだい、全然やってなかったのかよ。じゃあぼくはずっと、ありもしない枯れススキ相手に後ろめたさを抱いていたのかよ。サイテー。

が、牛に引かれて善光寺参り。なんだかんだで、できてしまったので委員会諸賢はお楽しみください。これを元に沼野充義やその周辺の人々が、ポーランド語とつきあわせて決定版ポーランド語直接訳を仕上げる——なんてことはあり得ないが(あり得ないでほしいよ。そんな体力があればもっと有効なものに使ってほしい。これをポーランド語から直接訳したところで内容的に大きな差が出るはずがない)、ぼくとしては自分の心にわだかまっていた疑問、知りたかった内容がやっと(いささか失望をこめて)わかったことで、十分満足だ。他にもそういう方が少しでもいれば幸甚。

11. 翻訳について

 本書は、ドイツ語からのGrokによるAI翻訳をベースに、山形が全文をチェックして完成させた。AI翻訳なんか信用できないという人もいるだろう。だが、この種のノンフィクションであればいまやほとんど問題のない水準となっており、特にレムのややこしい晦渋で要領を得ない文章には大いに実力を発揮してくれた。また山形のドイツ語も久方ぶりでかなりさび付いてはいるが、チェックくらいはこなせる。大きくまちがえているところはないはずだが、何かお気づきの点があればご指摘ください。

ドイツ語版には、ドイツ語編者がまとめた、文中で言及されている作品の一覧索引がついているが特に必要ないと思ってこれは訳していない。言及された作品は、邦訳のあるものは邦題を雨宮孝氏の労作「ameqlist翻訳作品集成」https://ameqlist.com/ に基づいて採用し、ないものはそのまま訳して原題を併記した。こうしたインフラを整備してくれている雨宮氏には伏して感謝する。

 

2026年5月 レイゴス(ラゴスじゃなくてこう発音するそうな)にて

山形浩生 hiyori13@alum.mit.edu

レム『主の変容病院・挑発』:どちらも凡作

はいはい、どんどんレムの積み残しを消化しましょう。

で、これはレムの処女作の純文学作品『主の変容病院』と、晩年というほどではないが1980年代末、前回の『大失敗』と同じ頃に書かれた短編小説もどきをいっしょにしたもの。

主の変容病院:ナチ支配時代の精神病院を舞台にした連作短編集的な作品だが凡作

まずは処女作の『主の変容病院』。新人医師が精神病院にやってくるが、そこで患者なのに偉そうな詩人とかがいて、それと文学論や文明論を戦わせたり友人や同僚と政治や神学議論するうちに、何か裏がありそうな変電所に迷い混んだりして、それが反ナチ集団らしいことがわかり、時代が迫ってくるなか、ある日突然ナチスがやってきて、病院からも兵を出せ、それと精神病者は処分しちまえということになる。患者の一部に白衣を着せてごまかそうとするが、偉そうだった詩人が浅はかな考えでそれを垂れ込んだら真っ先にバレて銃殺されてしまい、医師たちもてんでに逃亡するしかなくなった、という話。

レムの処女作だというから我慢して読んだが、つまらない。SF作家としてのレムに関心ある人にはまったくといっていいほど読みどころがない。解説などによると、最近ではレムをおブンガク的にあれこれ解釈して、ナチス配下やホロコーストの影響をあちこちにこじつけたりというのがはやってるそうで、そういうお遊びをしたい人は、まあストレートに出てくるので読めばいいけど、それだけですねえ。

「挑発」「21世紀叢書」:架空書の書評スタイルだが形式を活かしきれずまとまりもない

挑発1:「ジェノサイド」書評:ジェノサイドを論じたければ普通に書けば?

「ジェノサイド」という架空の本の書評という形式をとっている。ジェノサイドは昔から存在し云々という本だとのことなんだが、結局ナチスのホロコーストのことをあれこれ言いたくて、それを歴史的に位置づけました、という本らしい。その本ではこう論じられ、ああ論じられ、と語るんだが、なぜそれを架空の本の書評として書かねばならないのか、よくわからない。ジェノサイドは、何らかの集団に悪のレッテルを貼り、それを殲滅することを正当化するとか、普通に書けばよいのでは? ナチスは悪の倫理学とキッチュの美学のあわせ技だという主張は、ちょっとおもしろいかもしれない。ならそれをそのまま書けば? そして結局、ジェノサイドやナチスについて、あーもある、こーもあると思いつきを書き散らして、その本は「これからどんなジェノサイドが出てくるでしょうねー」という疑問で終わっています、と書いておしまい。つまり結局あれこれ書いたけれど、何かまとまった結論があるわけではなく、思いつきの羅列に終わっている。技術が発達したことで、死の位置づけが変わりつつあるとか

挑発1:「人類の一分間」書評:世界の一分間に起こる現象の統計データ集だそうだが……それで?

世界で一分間に起こる現象をあれこれ統計で示した本の書評で、出生数、死亡数、その分類、犯罪、交通、その他あれやこれやが出ているそうなんだが……それで? 死因では感電死が多いけど電線にしっこかけて感電死するのは少ないとか、それが何か? いわば「世界が百人の村だったら」の時間版みたいな話だけれど、あの程度の知見も特に得られなさそう。

雰囲気として、前に紹介したつまらないジジエッセイ集と同じで、思いつき書きなぐってまとまらずに放り出した、という感じ。

21世紀叢書:「創造的絶滅原理;ホロコーストとしての世界」:宇宙はカタストロフの連続により進歩するというお話。

いやホント、それだけ。地球はたとえば、恐竜が安泰の王者だったのが、隕石だかプルームだかで地球がカタストロフに陥り哺乳類の時代が来て人間が栄えた。生物進化でもそういうのが繰り返されるし、あと宇宙論でもそうなるよね、というだけの話。宇宙でも、様々な大きなショックが起こることで生命が生まれ、文明が生まれて発展するのだ、というわけだ。SETIで宇宙人が見つからない理由を考えたのを敷衍させて、星雲の物質密度から見た生命や文明発生条件をあれこれ考察するが、知ったかぶりは多いわりに、ほぼすべてが憶測と思いつきの域を出ない。内容的にも、これまでレムの他の科学っぽい論説を読んでいれば何度も繰り返されていた同じ話の蒸し返しだが、まあそういうのがあまり紹介されていないので、この文章をレム・コレクションに入れておいても、バチは当たらないかも。単に大惨事の繰り返しで進歩するというのに、「ホロコースト」と入れる理由はまったくもって不明。

21世紀叢書:「21世紀の兵器システム」:兵器自動化でインテリジェント化に逆行する動きが出る

この表題の通り。だんだん「砂漠の惑星」みたいな群生システムになり、さらに機密システムが発達して兵器かどうかもわからないものがだんだん主流になるのではとのこと。これ、読んで思い出したが、昔ドイツ語から頑張って訳して東大SF研の会誌に載せた!

翻訳について:この異様な訳注は何?

翻訳は、この一冊同じ人がやっているけれど、愚直。そして訳注の入れ方が異様。割り注と脚注の使い分けとかまったくわからないし、訳者としてだまって自分で判断すればいいことをいちいちいいわけするし、さらに本文とほとんど同じ訳注がわざわざ入るし。

後半の特に科学っぽいのが出てくるのは大野典宏とかがやったほうがよかったんじゃないかな、とは思う。

レム『大失敗』:残り物をぶちこんだ支離滅裂なゴミため小説

以前、ずっと本棚に鎮座していたカルロス・フエンテスやトマス・ピンチョンやウィリアム・ギブスンにある日一気にケリをつけたように、いま自分がスタニスワフ・レムに一気にケリをつける時期にさしかかっているのは明らかだと思う。そしてずっと本棚にあったドイツ語訳の各種論説にだんだん目鼻がついてきた。『技術大全』は、ぶっ飛んでいて頭おかしいレムの面目躍如。『対話』は非常に明快で、レムの明晰な理解がわかるけど、『SFと未来学』に『偶然の哲学』はずいぶんとおかしくなってる。これについてはきちんとまとめないと。

そしてその一環として、これまで読んでいなかったレムの最後の長編小説『大失敗』をやっと読んだ。腐ってもレムの最後の小説だし、心して読まねばと身構えていたけれど、そろそろそんな身構えも解けてきたこともある。

そして、かなりがっかりしたと言わざるを得ない。話として破綻しているうえ、読み物としてもまったくつまらないし、自分がこれまでの評論で他人を罵倒してきたことが、自分でもまったくできていないからだ。

まず、本書はえらく読みにくい。というのもレムが、彼のいう「認知論的価値」を提供しようとしてなのか、あらゆるものに下手な説明をつけようとする。とってつけたような疑似科学的説明で、言わばハードSF的な雰囲気を出そうとしているんだが、そこにさらにあまりうまくない文芸的な比喩も取り混ぜてまったく要領を得ない。そして科学工学的な素養のまったくない翻訳も、それに拍車をかけている。また登場人物は一言半句に、ここぞとばかり大演説による背景説明を繰り返す。そのため話にメリハリがなくて、いったい何がメインで何が副次的な話なのかがきわめてわかりにくい。一方で、東西冷戦と軍拡競争への懸念(少なくとも人間が持つそうした思いこみ)みたいな、非常に紋切り型な背景があまりに透けて見えて、かなり浅はかだ。

で、お話は?

あらすじ

詳しいあらすじは、こちらを読んでほしい。よくぞあんな読みにくい小説のあらすじを、ここまで適確にまとめてくれました。すばらしい。

ブックレビュー:レム追悼ブックレビュー『大失敗』編その1

ブックレビュー:レム追悼ブックレビュー『大失敗』編その2

が、これはちょっとていねいすぎる。もう一段簡単にしよう。

まず冒頭、どこかの星にちょっとした手違いで着陸したある人物が、その星の地下洞窟ネットワークの探索に行って戻らない人の中にかつての教官ピルクスがいるのを知って、自分もその探索に乗り出したが二次遭難、間際に己を結晶化することで仮死状態になる。

それから200年後、その洞窟の遭難者が発見されて復活されるが、そいつは自分がだれか覚えていない。ちょうど、これまで何の成果もなかったSETIが初めて何やら知的生命の痕跡をつきとめて、その惑星クウィンタに向けて探検隊が出発し、その復活した遭難者もそこに乗り込む。

そのクウィンタについて、いっしょうけんめい大量の放送を浴びせて平和使節だとアピールするけど、何もない。そこで無人探査プローブをたくさん発射したら、うち二つが破壊された。そして本船もシールドを突破されて攻撃される。

そこで人間様たちは、「平和アピールしたのに攻撃してくるとはけしからん、おれたちの力を見せてやる」と言って、惑星クウィンタの月を破壊する。

え? いま何て言った? 相手の月を破壊???!!

……相手のところにいきなり乗りこんで、プロトコルも何もわからずに勝手な思いこみの変調で自分勝手なメッセージいっぱい送って、さあこっちの意図は伝えたぞ、プローブ送りこむぜと一方的に領空侵犯やっといて、反撃受けたら、おおてめえらやんのか、といって、相手の月を破壊する???!!

これはただこちらの力を見せるためであって攻撃の意図はないことはわかるだろうって、わかるかよ、そんなの。月を破壊したらどんな口実つけようと、立派な攻撃だよ。

その後、探検隊は、こいつらは二大勢力が戦争しててそれが機械完全防衛システムとなって、外部からのものは否応なく攻撃されることになってるんじゃないかとか、何も根拠のない邪推と憶測を展開する。呑気ですねえ。

それでまた何度か攻撃されて、今度はさらにクウィンタ星の防衛シールド (海の一部を衛星軌道に挙げて凍らせて氷のバリヤーにしてる)を破壊したりする。

んでもって、「あー、電波でメッセージ送ったのが伝わってないんじゃないですかねえ、うちらの進化プロセスや文明プロセスを示す、紙芝居を向こうの上空に表示したら、お互いの共通性を理解してもらえて話し合いになるんじゃないですかねえ」という、小学生みたいなトホホなアイデアが真面目に検討される。レムさん、あんた本気? 自分で書いててバカ臭いと思わなかった?

……と思っていると、これまで一切コミュニケーションの取れなかった相手が、いきなり人間の言語で高度な外交メッセージを送って寄越す。こう、コミュニケーションの基盤となる共通理解を一切確立しないまま、なんでそんなメッセージがくるの? ご都合主義すぎない? 安全を保証するとか中立の云々とか。人間同士でもなかなかむずかしい代物。さらにおめーらが月を破壊したから都市が1個壊滅したプンプン、と言われても人間は平然としてる。そして着陸許可が出たけど用心のため囮を派遣したら、案の定破壊された。ほら信用ならネエ、さあ報復だってんで地球人は一斉攻撃に出ようとする。冒頭の、復活遭難者がクウィンタ星の地上におりて、相手の本体らしきものを見つけて、あーこれは、と思ったとき一斉攻撃が始まり、彼も死んでしまいました。おしまい。

 

なんなの、これ。

つっこみ

まずさあ、冒頭では、かの宇宙飛行士ピルクスを助けなきゃと勇んででかけるパイロットの話が何章か続く。でもこの挿話に何か意味あるのか? 200年後にそいつが再生されて、このクウィンタ星の探索と最後の地上探検にでかけるけど、そいつが200年前からの復活者だということは、話の展開に何か関係するのか? 繊細になりすぎた未来人に比べ、過去の価値観を持つ復活人間が何かちがう視点を出すとかそういうのは?

何もないんだ。

つまり、冒頭の遭難と復活にいたるいろんな話は、このストーリー展開の中で何の役目も果たさない。

じゃあ、そこで何章もかけるのやめようよ。そいつは最後で、クウィンタ星人の姿をどうしても見たいと暴走するんだけど、それが何か冒頭のエピソードと有機的につながるかといえば、そうでもない。

そしてこの本は、何やら『ソラリス』のような、理解不能な相手に遭遇したときのファーストコンタクトの失敗がテーマ、といった話だと聞いていた。が、上のストーリーを読めば分かる通り、そういう悲劇的な相互理解の失敗とかいう話じゃないんだよ。人間が勝手なことして、クウィンタ星の領域に入り込んであれこれちょっかい出して、向こうが普通に防衛したら、いきなり月を破壊するという暴挙に出る。

ひたすら人間がバカなだけじゃん。レムはそれを半分AIのせいにしつつ、AIは人間を学習データにしていたから人間の攻撃性を相手に読み取ってしまって過剰反応を引き起こした、と主張するんだが、それでも人間バカすぎ。いきなり月を破壊するだ? 相手に本土爆撃くらわしたあとで、お空にでっかく紙芝居見せましょうだと? AI使おうと軍人だろうと、それはそいつがバカなだけだ。

レムは『SFと未来学』でさんざん、アメリカSFは登場人物がバカな行動とバカな選択しかしないと嘲笑して見せる。でもあんたのこの作品は何よ。人が何らかの力関係でバカな選択に追い込まれるとか言うんじゃないんだよ。「攻撃されちゃったよ〜」「よし、月を破壊してやろうぜ。報復と力の誇示としか思わないだろう、攻撃とは思わないだろう」って、思うよバカ。

なんとなく米ソ冷戦構造と軍拡競争についての危機感を反映して、誤解に基づくエスカレーションみたいなのを描きたかったのはあまりに露骨ですぐわかる。でもそのエスカレーションだって、お互い誇示はしたけれど、そこから先は必死で抑えただろうに。月を破壊って、これはキューバのミサイル危機でアメリカがいきなりキューバに原爆10発くらいぶち込むに等しい暴挙だろう。

その後に「あ、うちらの文明についての映画を無理矢理見せましょう」って、それで双方矛がおさまると思うわけ?

そして、いきなり相手が中立地帯だの安全保障だのと長文のメッセージを寄越す。バカ映画「グレート・ウォール」で古代中国人がいきなり英語しゃべるよりひでえわ。どんなアメリカのクズSFだろうと、ファーストコンタクトではまずコミュニケーションのプロトコル確立から入って「ミー、ターザン、ユー、ジェーン」だが、そういうの一切なし。それが許されるのはスタートレックくらいだろう (ちなみにレムはスタートレックもTNGも見ている)。相互理解の不能/失敗が十八番のSF作家がやっていいことじゃないだろ。

そしてラスト、その最初に出てきた復活パイロットが地上におりて、クウィンタ星人の「歓迎」を勝手に突破して何やら蟲の巣みたいなクウィンタ星人を暴いて……すると地球人が攻撃始めましたって、味方が地上にいるのに攻撃すんの?? 地球人、ホントどうしようもなくない?

いやあ、その理屈がまったくわかりませんです。軍事的な心根で宇宙に進出したことが誤解につながる、というのがテーマの一つのはずなんだけれど、軍事とかあまり関係ない。そういう選択をしなきゃいけない背景とか、全然見えてこない。

本作はレムのごみため

実は本作は、レムの論説とか読んでいると、彼の言わばゴミためだというのがわかる。いろんなところに描かれた思いつきを、あれやこれやと詰め込んだだけなのだ。

さっき、無駄だと言った冒頭のパイロット遭難と復活の話。あれは半分くらいは、レムが人格復活再生の問題についてあれこれ語って見せたいという理由だけのために存在している。

クウィンタ星は、海の一部を衛星軌道まで上げて氷のバリヤーを作っている。さて、この設定というのは、ぼくのこのブログを真面目に読んでいる人なら、実はすでにご存じだ。『SFと未来学』第2巻14章「ユートピアと反ユートピア」の章最後に出てくる、レムの模範演技……のはずが設定だけで逃げた代物の使い回しだ (pp.269-272)

あちこちで登場人物が滔々と語る理論や背景も、おおむねかつての論説の焼き直しだ。宇宙人と出会えないかもしれない、という話は、彼が『技術大全』その他で述べていたSETIの失敗の説明の蒸し返しだ。

もちろんぼくはエコロジストなので、こうした廃物利用自体は歓迎だ。でもそのためには、そうした廃物が集まって、ある種の一貫性ある全体を作る必要がある。『SFと未来学』で、やるといってやらなかった技術の社会的影響は? 高度技術を持ち恒星間飛行までできると社会がかわる、とレムは言っていた。でも、地球人側の宇宙船の組織、その背後にある軍や地球の社会はどうも相変わらずらしい。それでいいの? クウィンタ星の状況についての推定は、冷戦対立をそのまま安易に伸ばしただけ。それでいいの? よくないって『SFと未来学』でさんざん言ってませんでした? 地球人が勝手にそのパターンを妄想しているだけだよ、という逃げ口上も可能だけれど、

そしてそれぞれの要素は、その一回だけの登場でおしまい。二度と登場しない。つまりはお話と有機的に関連していないってことだ。

本書は、英訳でカットされた部分がある。乗組員の一人が、宇宙開発への男女共同参画とか言った世迷い言に怒る、という場面だ。それがそのキャラの人格描写貢献するのであれば、それについて一ページにわたって描く意味があっただろう。でも、まったく意味はない。彼が古い価値観の持ち主だったとか、なんかそれで表現したいことがあるなら——そしてそれがストーリーに関係するなら——それを入れる意味はある。でも何もない。レムが気まぐれで入れただけ。

AIの判断を信用していいのか、と登場人物が思案する部分では、レム的なAI史が延々と展開されてAI論みたいなのを出してくるが、その細かい歴史はストーリーに何も関係しない。まったくなくていい。以前どこかでAIとかについて彼が論じたものを流用しただけだ。

そういうのをいちいちありがたがることはできる。ぼく以外の日本人はレムの評論とかほとんど読んでいないので初見でそれぞれが新鮮に見える部分もあるのかもしれない。が、やはりそういうご高説がストーリーやキャラ描写に何も関係ないというのは、たぶんだれが読んでもあまりありがたいものではないはずだとは思う。

翻訳の下手さ

翻訳はかなりひどい。これは出た当初もあちこちで言われたのを目にしたように思う。

まずレムは一応がんばって「認知的な価値のあるもの」、つまり実際の科学的知見っぽいものを入れようとしている。つまりは、もっともらしいハードSF的なものにしようとしている。でも翻訳では、それをほとんどはずす。それは、訳がまちがっている、ということじゃない。が、「ああ、わからないで字面だけで訳しているな」というのが露骨に透けて見える訳語や注ばかりなのだ。そしてそのために、レムががんばってハードSF調にしているのがほぼ死んでいる。

たとえばレムの翻訳で、サイバネティクスを「人工頭脳学」と訳していいの? ダメでしょ。でも訳者はそれをやる。ガントリークレーンを、門形起重機、と訳されたら港湾/物流関係者は失笑するだろう。作中のAIコンピュータは第16世代コンピュータなんだそうだ。そこに訳者は「当時は第5世代コンピュータが開発中だった」と注をつける。日本の第5世代コンピュータってのは、それまでの使った素子に基づく世代とは関係ないインチキなイメージ命名なので、それをいちいち注で言われてもねえ。インダクタンスには注をつけるが、リアクタンスは抵抗に「リアクタンス」とルビをふるだけ。ああ、たぶんなんだかわかってないなあ、という感じ。確率的に有意な、というのは確率的に「有意味な」なる訳語。リーゼ・マイトナーがいなくても原爆は実現した、という部分で、著者はマイトナーに「ドイツの女性科学者」とだけ注をつける。ここで注をつけるなら、マイトナーが原爆実現にどんな貢献したか、というのじゃないかなあ。

それ以外の注の付け方もイースターエッグには注をつけるが、シュヴァルツシルト半径は注がない。ついている訳も、ことごとくピントはずれ。

そしてさらに、continental breakfastは原文のままにして(大陸式朝食)なる訳をカッコに入れてつけて、そこにそれがどんな朝食であるかの注が出ている。が……

まさに全編、そういうやり方になる。表面的な言葉の意味だけ説明するけど、その文が持つ意味はについては何も説明がない。ここは、AIが発達して、いずれ人間と子供を作ったり、いっしょに朝ご飯を食べたりするようになれば、といった思索のところで出てくる。いっしょに朝ご飯を食べたら、というのはつまり、夜をともにする、セックスするという意味だ。それを無視して「大陸式朝食」そのものの説明してどうすんの? 「なぜ消防士は赤いズボン吊りを使うのか」というナゾナゾと同じで、どうでもいいところに意識が行ってしまっている。おそらく訳者自身、わかってないんだと思う。あるいは、周知の事実、とでも言えばいいところが「だれにとっても秘密ではない」。原文の完全な直訳だ。

arbitraryということばがある。「恣意的な」と訳されることが多いけれど、文脈によってちがう。恣意的=おまえが勝手に決めた=任意の=どうでもいい=好きに選んだ、などいろんな意味合いになる。それをきちんと読み分けて訳し分ける必要がある。

ところが訳者はこれを「任意」と全部訳す。恣意的な選択、としてほしいところで「任意的な選択」と訳す。トランプの家は好き勝手な高さにはできず、自ずと上限がある、無限に高くはできませんよ、という意味の部分を、任意の高さにできないと訳す。

訳者は巻末で、本書の成立事情をいっしょうけんめい年譜にしてみせる。そして何やら文芸的な解釈をあれこれ加えてみせるんだが、そういう分析をする以前に、この訳者がこのお話を字面を追う以上に理解できているかどうか、ぼくはこの訳文からはあまりうかがえない。途中の注で、「この単語はピンチョン『重力の虹』に出てきて云々」とか、それはレムと関係ない。でも訳者は、そういうおブンガクの知ったかぶりが読者になにか意味があるものと思っているらしい。

まったくありませんから。

まとめ

本書はこのように、長いけれど実はこれまでのいろんな書き損じの寄せ集め。無理矢理お話を創ろうとしたけれど、支離滅裂で話として有機的にきちんと構築されず、肝心なところで人間がどう見てもバカなことをやるだけ。それも、そうしたバカな選択をせざるを得ない理由もない。ある種の力学の作用でそういう選択肢しかなかった、というわけでもない。どうもレムは、その選択が明らかに馬鹿げているとすら思っていないふしがある。

記述はいっしょうけんめい凝ってみせる。でも、通路を出て偵察機に乗るプロセスの説明と(手を伸ばして手すりをつかんで脚をあげて敷居を超えてブーツで踏み出して云々)、本当に重要な部分とがまったく差別化できていない。つまり記述にまるでメリハリがなく、無駄に細かいだけ。

ストーリーも必然性がなく、レムが重視していた「認識論的意味」もあまりない。それを出そうとして、あまり意味のない細かい背景の説明ネームが続くが、しょせん架空なので読者にとって意味もない。新技術がもたらす社会的な考察もない。

よってぼくは、これはどうしようもない愚作だと思う。ネットにある感想文を読むと、レムだから深読みして感激しなきゃいけないという義務感にかられている人が多い。無駄にあれもこれもぶちこんでいるから、一つくらいは琴線に触れるものもあるかもしれない。

が、ぼくにはなかった。

ちょっと最近、レムのノンフィクションいっぱい読んで呆れることがあまりに多くて、それが本書の評価にも悪影響を及ぼしている可能性はある。が、それを確認するために2度目を読むことは……たぶんないだろう。

ロッテンシュタイナー「スタニスワフ・レム:影をこする男」

長いことスタニスワフ・レムの西側世界への代弁者を務め、レム普及に尽力し、エージェントも務めたフランツ・ロッテンシュタイナーのレム評。SFマガジン2004年のレム特集に出た彼のインタビューと当然重なるところは多いはず (そっちは見損ねているのではっきりとはわからないけれど)。

レムがロッテンシュタイナーを訴えたのは1995年のこと。昨日紹介した「SEX WARS」収録の1994年エッセイでは彼を「魂の友」とまで呼んでいるのに、急転直下で何があったのやら。が、レムの変なかんしゃく持ちの部分はいろんな人が証言しているので、たぶんロッテンシュタイナーはそんなにウソは言っていないはず。当然ながら彼は、いまやレムの名前も聞きたくないとのこと。仕方ないよなあ。

しかし最後のエピソードは楽しい。他のエッセイでは、パソコンを買って三日後に壊して店だかなんだかに怒鳴り込んだとかいろいろ言われていて、『高い城』で子供時代に触ったものすべてこわした、と書いているのは、大人になっても直らなかったのね、という感じではある。そしてここの最後のエピソードは、その理由がよくうかがえるなあ。

 

スタニスワフ・レム:影をこする男

フランツ・ロッテンシュタイナー VICE (TV Magazine), 2012年11⽉21⽇号

眼鏡をかけた高齢の男性が屋外の木々の前で立ち、右腕を高く上げて人差し指を天に向かって真っ直ぐに指差している。左手に薄い上着を持ち、吊りズボンを着用した白黒写真。
スタニスワフ・レム

1970年代、フランツ・ロッテンシュタイナー博⼠は、⾃らの叢書『世界のSF』(Insel Verlag)で、フィリップ・K・ディックや安部公房、コードウェイナー・スミスといった 作家を紹介し、多くの作品をドイツ語圏で初めて刊⾏しました。その後、彼はニューヨー クでアンソロジー『異邦からの眺め』(邦訳早川書房) を出版し、欧州のSFをアメリカの 読者に近づける試みを⾏い、特にスタニスワフ・レムをアメリカで初めて本格的に紹介し ました。ロッテンシュタイナー博⼠は⻑年にわたりレムのエージェントを務め、両者は親 密でありながら必ずしも友好的とは⾔えない関係を続けていましたが、1995年にレムがオ ーストリアの裁判所でロッテンシュタイナー博⼠を相⼿取り、10万ドイツマルクの訴訟を 起こしたことで、不和のうちに終わりました。今回の特集では、ロッテンシュタイナー博 ⼠にレムとの共同作業について、そして現代でもっとも論争を呼んだ哲学者・作家の⼀⼈ の⼈⽣と思想に対するきわめて個⼈的な洞察を語っていただくよう依頼しました。これが 彼の証⾔です。(編者:トム・リトルウッド)

 

ルキアノスの『真実の物語』以来周知のこととして、⾃分が真実を語っていると強調す るのは、嘘つきにありがちな⽂学的技巧だ。そしてポーランドのSF作家スタニスワフ・ レムの愛⽤句の⼀つが「プラトンは友である、しかし真理はもっと友である(Amicus Plato, sed magis amica veritas)」だったことで、もっと警戒⼼を抱くべきではあった。だ が当時レムがアメリカ⼈翻訳者マイケル・カンデルへの⼿紙で書いたように、私は「ろく でもない単細胞」で、彼を真理を愛する⼈物だと信じていた。彼が他⼈を中傷した いときにこの句を好んで使っていたのも知っていたというのに。周知のように、嘘がもっ とも多く語られるのは恋愛と戦争——そして法廷だ。これは、私たちの関係の末期にレム がウィーン商事裁判所で私を訴えたときに、⾝をもって思い知らされた。

眼鏡をかけた中年男性が低アングルから見上げ、大きく目を見開いた真剣な表情で、薄暗いピンボケした本棚を背後にこちらを見つめているクローズアップ写真。

レムと初めて接触した当時、私は熱⼼なSF愛好者で、主にアメリカ作品を読んでいた が、世界中のSFにも強い関⼼を持っていた。東ドイツ(GDR)版の各種レム作品を読ん だ後、『砂漠の惑星/インヴィンシブル』がドイツ語で刊⾏されたときに、彼に書評を送っ た。それがきっかけでレムから⼿紙が届き、活発な⽂通が始まった。当時レムは⻄側 のSFについての本を書きたがっていたが、情報源にアクセスできなかった。どうやら私 を便利な供給源と⾒たのだろう。彼に⼤量のSF本を送り続けたのだが、彼はそれを返さ なかった。「当時のポーランドでは、その本の購⼊に貴重な外貨が使われたと判断するの で、返送は禁じられていた」というのが説明だった。レムはそうやって送られた本を、ポ ーランドの古書店で売却していたのだった。1970年頃、私はドイツのインゼル出版でSF を出版する機会を得た。後にズーアカンプ社でもそれをやり、私の理想とするSFに最も 近い作家としてレムを刊⾏してもらった。その本は最初から⼤成功を収めた。そのうち に、レムの⽂学エージェントになればもっとレムの役にたてると考え、1995年頃まで⻄側 諸国での彼の契約⼀切(ドイツを除く)を約300件扱った。ドイツでは私は⼀度も彼のエ ージェントになったことはない。ズーアカンプ社はレムにとって幸運だった。彼のSFは いずれ刊⾏されただろうが、『SFと未来学』や『偶然の哲学』のような⼤部の評論・随筆 作品はほとんど反響もなく、膨⼤な翻訳費⽤を正当化できるほどのものではなかったから だ。[訳注:インゼル社もズーアカンプも、レムの⻑⼤な論説を次々に出している。]インゼルやズー アカンプから本が出たことが、ドイツ語圏でのレムの注⽬度を⼤きく⾼めたのはまちがい ない。

ドイツでの成功は、裏⽬に出た⾯もあった。レムは世界中で同じくらい成功できると思 い込んでしまったのだ。だがまったくそうはいかなかった。彼がドイツで稼いだ額は、他 の⻄側諸国すべての合計額を上回っている。アメリカでの書籍刊⾏をきっかけに多くのレ ム作品が出たが、売上は控えめで、印税はもともと低い前渡し⾦をほとんど超えることは なかった。唯⼀『ソラリス』だけが、特にタルコフスキーの映画化のおかげで、控えめな がら成功を収めた。時折、ポーランドのファンがレムの「アメリカでのベストセラー状 況」を尋ねてきたが、実際の売上は⾮常に少なく、⾼い翻訳費⽤を考えると出版社ハーコ ート社が儲かったはずはない。ハードカバー版はせいぜい3000〜4000部、ペーパ ーバックも⼤してマシではなかった。

ついに決裂したとき、レムはアメリカに新しいエージェントを置きたがっていた (だが 私が⼿を引いて以来、新しいレムの書籍が⼀冊たりともアメリカで刊⾏されることはなか った) [訳注:2012年の執筆当時この後、『技術⼤全』が2014年に英訳され、その後いろいろ 出るようになった]。もっと「ダイナミックな」出版社を望むと⾔うのだ。だがアメリカで は、成功していない作家を積極的に売り込むことは稀で、ほとんどの出版社なら彼の本な どとっくに廃棄していただろう。彼はハーコート社にますます侮辱的になる⼀連の⼿紙を 送りつけて、同社との関係を断ち切った。短編集の権利を取り戻したかったからだ。翻訳 済みの短編を別の出版社に売れると考えていたようだが、今⽇に⾄るまで刊⾏されていな い。

私は⻑年にわたり何度かレムを訪ね、会っている。クラクフでは、彼は質素な⼾建て住 宅に住んでいたが、とても気配りの⾏き届いた、慇懃なホストだった。唯⼀の贅沢はメル セデスと、農夫の妻が裏の畑からこっそり定期的に運んでくるハムだけだった。後に彼は 外国からの収⼊で巨⼤なヴィラを建て、地元の⼈々の憧れの的となり、参観客が絶えない 名所となった。共産主義時代、ポーランドの裏通貨であるドルがあれば、ポーランドにな いどんなものでも⼿に⼊った。バスルームはイタリア産の⼤理⽯で造られ(ワヴェル城の 改修⼯事の余り物)、屋根のトタンは農村協同組合の余剰在庫からきたし、それを建てる 建設作業員たちは、ときどき公式の⼯事現場から「休暇」を取って機械ごとやってきてレ ムの家を建てたのだった。

白黒写真。サングラスと半袖シャツ、短パン姿の男性が巨大な岩の頂上に腰を下ろしている。低角度から撮影され、空を背景に男性がカメラを首にかけ、片足を曲げて座る姿が力強く捉えられている。岩肌の質感が詳細に写った登山・探検的な雰囲気。
1955年、ザコパネ近くのタトラ⼭脈の⼭頂のレム

私は彼の著書⾒本が積まれた地下室で寝た。クラクフで初めて本気で怒るレムを⾒た。 だれか役⼈が電話をかけてきて、彼はただ「No, no!」と叫んでいた。その後、彼の奥 さんがいつもみんなをなだめようとしていた。ウィーン滞在の前、レムは何度かオースト リアで休暇を過ごしたが、旅⾏は好きではなく、「不動産」と⾃称していた。ポーランド⼈ のローマ法皇が初めて祖国を訪れたときも彼はオーストリアにおり、奥さんが敬虔なキリ スト教徒だったため、私は彼⼥が教皇のウィーン訪問を⾒られるようにするためだけにテ レビを買ってあげた。

レムとの関係で私が犯した最⼤のまちがいは、おそらくレムが戒厳令のポーランド[1981- 83]を離れたとき、オーストリアに招いたことだろう。彼は表向きは、科学知識だけに興味 を持つ優れた知性であるかのように振る舞いたがる。初期の『シュピーゲル』誌のエッセ イでは、「論理の奴隷」を名乗り、論理的にしか考えられないと述べていた。そして 必要とあれば、彼は⾮常に魅⼒的に振る舞えた。だが1980年代にウィーンで数年間暮ら し、ほぼ毎週会って⾝近で観察したときのレムは、⼤⼈物ではなく、⾮常に不安まみれ で、疑⼼暗⻤に苛まれ、それを傲慢な態度で覆い隠そうとする⼈物で、気まぐれと偏⾒ま みれだった。会話は繰り返しばかりのモノローグだらけで、反論されるとますます⽀離滅 裂になる。

⽭盾に満ちた⼈物ではあって、ある⾯では気前が良いのに、別のときには死ぬほどセコ く、知らない⼈でも盲⽬的に信頼するかと思えば妄想的なほど疑り深い。⾦には執着する が、合理的な計算⾼さはない。ウィーンでの⼝癖は「⽖に⽕を点すような暮らし」だっ た。ズーアカンプ社出版⼈のウンゼルト博⼠は、必要ならウィーンの弁護⼠を紹介すると申し出た。レム は弁護⼠など必要なかったのに、わざわざ⾃⼰紹介にでかけ、数年後にそれで⾼額の請求 書が来た。相⼿の弁護⼠は挨拶しただけだったのだが。

時には⾦などまったく気にしない ⼤作家を装ったかと思えば、⼩銭単位まで値切る。そしてこの両者の間で逡巡があれば、 マンモン(富の神)が芸術家に勝つ。 要求を通したいときは「国交断絶」で脅す。交渉を始める際にはまず、こんな⽬に あわされたと蒸し返して激怒してみせ、要求が通ると徐々に落ち着くという⼿⼝が好みだった。

共産主義は⼤嫌いで、私的な場ではそれを隠さなかったが、「殉教者」になる気はない と強調していた。公の場では、政治的に微妙な問題に直⾯したら⾔葉巧みにかわした。彼 の共産主義嫌悪は、私の⾒たところ、政治的信念からというより、主に共産主義の幹部た ちがバカだと思っていたせいだと思う。それにレムは、⾃分の意志より上の権威など認め なかったのだ。国家指導部に抗議の⼿紙を送りはしたが、それは純粋なポーズでしかなか った。それらの⼿紙は棚上げされるだけで、公然とそれを表明しなければ、⾃分に害が及 ばないことを彼は⼗分に承知していたはずだ。そのくせ、彼は体制が⾃分を⽀援するのは当然だと考えていた。政治局員のシュラフツィ ツが⼀度彼を訪ね、ノーベル賞候補に推薦するなど便宜をはかりたいと約束した。だが実 現する前に失脚してしまった。レムは⾝の危険を感じると沈黙したが、強い⽴場にあると思 えばかなり攻撃的になった。たとえば構造主義に対する論争では価値判断を排除する構造 主義に反発し、「⽂化」の擁護者として論争の渦中に⾶び込んでいった。ただの⽇和⾒主義 だ。

彼は他⼈を、⾃分の役に⽴つかだけで判断した。ヴェルナー・ベルテルはレ ムが本当に感謝すべき編集者で、ウンゼルトにレムとの契約 を奨めた⼈物だ。ベルテルがインゼル社を辞めて編集⻑としてS.フィッシャー社に移る と、レムはベルリン科学コロギウム滞在中に⼩説『⼤失敗』を95,000マルクで彼に売っ た。ウンゼルト博⼠にはかなりの恩義があるわけで、お礼の電話⼀本くらいはあってしか るべきだろう。だがレムはこれを⾃分の「独⽴の証」と⾒なした。「⾦がウンゼルト博⼠の 懐から出たものではない」からであり、ウンゼルド博⼠の60歳誕⽣⽇を祝った「おべっか使いのズーアカンプ社の作家たち」とは⼀線を画したいからだとのこと。だが実際にはな んともけち臭いだけだ。だが、ドイツのペーパーバック出版社の編集⻑となったベルテル は、バルトシェフスキの本へのレムの序⽂を不適切だと判断したことで、レムの不興を買 った。出版社はベルテルの判断を覆してレムの序⽂を採⽤したが、それ以来レムはベルテ ルの名前を出すだけで顔をしかめるようになった。彼は敵となったのだ。

白黒写真。二人の男性が木製のベンチに腰掛けている。右側の男性は眼鏡をかけ、髪が薄くサスペンダー姿で腕を組み、横を向いている。左側の男性はサングラスをかけ、白いシャツ姿でカメラを持っている。背景は木々や街の風景が見える屋外の桟橋やデッキのような場所。
シェーンブルン宮庭園の著者とレム

レムが私に対して10万ドイツマルクの訴訟を起こしたのは、私がその費⽤を負担できな いと思い(『泰平ヨンの現地検証』には、裕福な⼈物が相⼿を訴訟で死ぬまで追い詰める 場⾯がある)、私が彼を怖がっていると思ったせいだろう。以前にも彼は弁護⼠を通じて⼿ 紙を寄越し、「何らかの形で」彼を侮辱した場合(およびその他奇妙な条項いくつか)、⽰談 なしに約7万マルクを⽀払うことに合意せよ、と⾔ってきた。彼は敗訴したが、その裁判 は何ら意味のあるものについてではなく、単に私に費⽤をかけさせるためでしかなかっ た。レムは控訴もしなかった。

だが、私が仲介した契約については「当然」合意した⼿数料を引き続き受け取れると保 証しておきながら(彼は当然のことを強調したがり、そしてすぐにそれを破るのだった。 私は真に受けたことはなかった)、その後すぐに出版者に対して契約の更新を要求し、⾃分 に直接⽀払いをしろとか、その他⼿数料を免れるためだけの⼯作を仕組んだ。当然、⼿数 料の精算は⼀切しなかった。おそらくそんな少額について訴訟する意味はないし、ポーラ ンドの裁判所で「ポーランド最⾼の息⼦」に対して勝訴する可能性は低く、英語書類をポ ーランド語に翻訳する費⽤も⾼額になると踏んでいたのだろう。

レムは⾃分の⾔葉は真実であり、少なくともそれを他⼈が疑問視してはならないと思っ ていたらしい。だが、「⾃然の法則」がいつも彼のしばしば気前の良い約束を守るのを妨 げた。私はかつてレムを「クラクフの弁証法的賢者」と呼んだが、これは⼤まち がいだった。レムは確かにきわめて頭がよかった(南ポーランドで最も賢い⼦供だったと ⾃慢したがった)。とはいえ数学⾳痴という⽋点も抱えてはいたが。しかし頭はよくても 「賢者」ではなかった。ある意味でいつまでも⼦供のままで、しかもかなり意地の悪い⼦ 供だ。⼈間性についての理解は極めて浅く、社会性も未熟だった。彼の最も親しい(おそ らく唯⼀の)友⼈である⽂学理論家のヤン・ブウォンスキと作家のヤン・ユゼフ・シェパ ンスキが、彼の作品に全く興味を⽰さなかったことは、彼にとって⼤きな打撃だったろう。シェパンスキは短い⽂章で「想像⼒がある」と認めただけ、ブウォンスキ はSFに関する論説を一本書いただけで、いかにそれになじめなかったかがはっき り述べられていた。

SFにおけるレムの業績は確かに傑出していたが、彼は背伸びをしたがった。「科学⽂献 なしでは⽣きられない」という主張もその⼀つだ。実際には『サイエンティフィック・ア メリカン』ですら流し読みする程度のくせに、それを「SF屋ども」向けのゴミクズ呼ばわ りしていた。⽴派な物理学教授でエドワード・テラーらと共同研究もした著名なSF作家 グレゴリー・ベンフォードに対してさえ、宇宙論の問題について書く資格がないと⾔い放 つ始末だ。本物の科学者で⼤衆科学誌に頼らなくても書けるSF作家は⼤勢いるのだが。 彼は⼥性を蔑視していた。アーシュラ・K・ル・グウィンが、『ニューヨーカー』誌に載っ たレムの⾃伝的エッセイ[邦訳「偶然と必然の間で」『⾼い城・⽂学エッセイ』所収]で⾃分に触れ なかったと不満を述べたとき、彼は「私の作家としての成⻑にあなたは何の役割を果たし ていない」と(正当にも)答えた。だがその際に彼は私相⼿に、⼥は想像⼒が ⼆流だから男性ほど上⼿く書けないとご託宣を垂れた。『⼤失敗』では、⼥性は出産する 存在だから宇宙にくるなと書いた(アメリカ版ではこの部分は削除された[邦訳には入っていて解説で説明あり])。

作家としては驚くべき創意⼯夫に満ちたレムだが、観察⼒の完全な⽋如を⽰すエピソー ドとして、ヤツェク・ジェショトニクが掘り起こした話がある。クリスティアン・グラー フ・フォン・クロコウが『三つの世界の客』の中で、このクラクフの作家仲間について次 の短い逸話を語っているのだ。

1982年から1983年にかけて、私は彼と⼀緒にベルリンの科学コロギウムで⼀年を 過ごした。到着して間もなく、彼が私のところに来た。

「フォン・クロコウさん、申し訳ないが、ここをすぐ去らなければなりません」

「いったいどうしてですか、レムさん?」

「私の前に泊まった奴がブタだったんですよ。ええ、ブタ野郎です。浴槽がないとやっていけない。そのことで頭がいっぱいだ。でもそれが使えないんです」

「何で使えないんですか?」

「浴槽の中の⿊い丸い汚れです。前の野郎がきれいにしていか なかったので、それがもう完全に染みついてしまっている。この三⽇というもの、街 で⼿に⼊る最も強⼒な洗剤でこすり続けているのに、全く落ちないんです」

私はすぐに処理すると約束し、管理⼈を呼んだ。そしていっしょに浴室に向かった。

「ほら、あの⿊い縁——あのブタ野郎め!」とレムは再び憤慨した。

管理⼈と私は顔を⾒合わせ、私は こう⾔った。「レムさん、失礼ですが、照明具を動かしてもいいですか?」

照明具は動いた——そして同時にその影、つまりその浴槽の⿊い輪も。かの⾼名なSF作家は 三⽇にわたり、影をこすり続けていたのだった。

 

(“Der Mann, der den Schatten scheuerte” by Dr. Franz Rottensteiner ⼭形浩⽣訳)