
- レム『SFと未来学』訳者解説
しばらく前にあげたレム『SFと未来学』全訳、訳者解説があがったのでアップ。
実際のレムの翻訳は以下にあるが、これは委員会の諸賢しか読んではいけません。
だが訳者あとがきはだれでも好きに読んでくれてかまわない……と言ったところで、どうせダウンロードして読む人もいないだろうから、長文だけれど以下に貼り付けておきましょう。
レム『SFと未来学』訳者解説
1. はじめに
本書はStanisław Lem Fantastyka i Futurologiaの全訳となる。ベアテ・ゾルガー&ヴィクトル・ツアッキ(上巻)、エッダ・ヴェルフェル(下巻)によるInsel/Suhrkamp社刊独訳 (1977/1980, 1984)からの重訳である。ポーランド語の原著は1970年に刊行されているが、最後の「あとがき」ですでに出たものに対する反応への弁明が出ていることや、1969年に出たル・グウィン『闇の左手』についての記述の付け足し感などから見て、初版の訳ではなくその後の改訂版の独訳だろう。山形が翻訳の底本としたのは、Suhrkamp版 (1984)のペーパーバックだが、どの版をもとにしたか明記されていない。1972年あたりの版だろうか? 著作権ページでは原著が1964年刊になっていて、明らかにまちがいだし、書誌的な情報ははっきりしない。

2. この翻訳の経緯
さて本書は、一部では名のみ高い伝説的な本ではある。独訳ペーパーバックの上下巻あわせて1200ページのサイコロ本というか鈍器本だ。スタニスワフ・レムが、既存の(当時)SFを徹底的に読み込んで、壮大な理論体系を構築し、それに基づいて特に欧米SFが、SFの可能性をほとんど無駄にしているゴミクズのかたまりだと罵倒しまくり、さらにはその理論分析の果てにSFが向かうべき道筋をすべて分析し尽くしてしまったため、もはや創作をする必要もないという境地に陥り、一部のシリーズ短編を除くと1987年の『大失敗』まで創作からほぼ手をひく原因になったらしい。
そう聞かされると、いったいそこに何が書いてあるのか、と好奇心がそそられるのは人情だろう。欧米SFがまったく活用していないというSFの真の可能性っていったい何? そんなものを解明できる、SFすべてを網羅する理論体系って、いったいどんなもの? そして活用されていない可能性に気がついたなら、それを使っていっぱい作品を書いてくれればいいのに、と思うんだけれどそれでほぼ絶筆してしまうってどういうこと?
ところが……これまで日本では、その中身に何が書いてあるかについては、一切紹介がない。いやホント。上で述べた周辺情報は繰り返し聞かされるが、いったい何が書かれていて何がすごいのかについては、ほぼ何も紹介がない。本書の最終章の「メタファンタジア」邦訳はあったが、あの部分は後で説明するように、本書のまとめにも紹介にもまったくなっていない。あれだけ読んでも何もわからない代物だ。そして、日本でのレム紹介の集大成になると思われたレム・コレクションにも、ろくな内容説明すら含まれないというていたらく。
ええい、もういいよ。待ちくたびれたよ。自分でやるよ。もう30年前に買ったドイツ語版、ずっと本棚の肥やしになっていたが、おりしもAI翻訳が実用レベルに達してきたことだし、やったろうじゃないの。すでに『技術大全』で、英語からの重訳ではそれが十分に可能であることは確認した。ドイツ語だってできないはずがない。
ということでできあがったのがこれだ。
ではお読みアレ……と言いたいところだが、こんな大著、手に取るだけでも勇気がいる。中身について多少の示唆が欲しいだろう。また、読まずにお手軽なアンチョコがほしい人もいるだろう。そこで段階を追って本書の中身についてまとめよう。
3. 本書の大きなポイント
本書を読もうなどという人は、たいがい上のような評判をどこかで聞きかじったんだろう。そしてその好奇心の大きなポイントは次のようなあたりじゃないだろうか。
- 本書は本当に、SFについての総合的な究極理論を構築しているの?
- その理論とはどんなものなの?
- ところでこのタイトル「SFと未来学」ってどういうこと?
これまでの紹介を読んできた人なら、まず知りたいのはそもそも本書が本当にSFについてのすごい理論体系を構築しているのだろうか、という点だろう。そしてこんな疑問を思いつく人々のほとんどは、その答えは当然YESだと思っているはずだ。だってあんた、1200ページ使って壮大な理論体系ができていないなら、何してるのよ。
そしてもちろん、YESであるなら、そのすごい理論をかいつまんで教えてくださいよ、と思うのは人情だ。厳密な理論体系そのものはおっかなそうだけれど、その大枠くらいは教えてほしいよね。そして知ったかぶりくらいはできるようになりたいところ。
そしてもう一つ、たぶん多くの人が気になるのはこの題名だろう。『SF——その理論と実践』とか『SF批判序説:ポスト構造主義の立場から』といった題名であれば、なんとなく中身もわかりそうだけれど、未来学? ほとんどの人は未来学なんて忘れた……という以前にそもそも聞いた事がないだろう。未来についての学問? つまり未来予測? でもなぜそんなものがわざわざ題名に入っているの? だってSFを未来予測の一種だと思うなんて、SF読んでない素人だけだよね? 『スター・ウォーズ』や『機動戦士ガンダム』(ましてジークアクス)が未来予測だとか思う人はいないよね? まさかあの『ソラリス』の名手、東欧から来た男レムが、そんな幼稚なSF観を持っているはずはないよね? そう思うでしょ?
ところが恐ろしいことに、まさにレムはそういうSF観を(も?)持っている。少なくとも本書の理論は、それをベースにしている。そして本書の理論は、それをベースにした非常に幼稚で偏狭なものなのだ。理論はある。だが、それは一般に期待されるような総合的、体系的なものではない。未来予測(または未来についての考察)の手段としてのSFという非常に偏狭な見方に基づいた、偏狭な理論が構築されているだけだ。
といってもにわかには信じられないだろう。だから本邦初の、本書の中身のきちんとした紹介をここで行おうではないの。
4. 本書の好意的なあらすじ
では本書を章ごとに概説しよう……と思ったが、それは少し後回しにしよう。というのも、本書はレムの常として構成が劣悪で、やたらに長いこともあって章ごとのまとめだけでは結局これが何の本なのかさっぱりわからないからだ。 そこでまず、本書の基本的な主張を整理し直し、レムの主張の骨格を把握してもらおう。
本書は偏狭な見方に基づいた偏狭な理論が構築されているだけ、と述べた。だがレムには、レムなりにそういう偏狭な理論を延々と展開してみせる理由がある。まずは、彼の理論を最大限に好意的にとらえて説明しよう。
レムの考え方では、現代は科学技術の発展によりこれまでの文学の前提が変わってしまった時代だ。これまでの文学は、人間の死すべき運命を前提にして物語が構築されていた。人は必ず老いて死ぬ。異性と出会い、快楽を餌にセックスして子供を作る——これは生物学的な人類の使命であり、そしてそれにあわせて各種文化が構築されてきた。文化は人間の生物学的な衝動と集団生活のバランスを構築するために宗教的、社会的な規範(これはしばしば、何の根拠もない恣意的なものだった)を作り、それを通じて人々の生活を律し、それが価値観を決め、それに反抗したり従ったりするのが人間活動の本質だった。文学はそれを様々な視点で描くのが仕事だった。
ところが現代はそれが科学技術と実証主義のせいで変わった。セックスしなくても人は快楽を得られる (ポルノなどで)。子供も人工授精で培養できる。セックスを取り巻く文化規範、その他あらゆる文化や社会・宗教の規範は、すでに実証的な根拠がないことが次々に示されている。その中で、いまや価値観の基盤が次々に揺らぎはじめている。それに代わるものも生まれていない。すると、それを前提としていた (それを受け入れるにせよ反抗するにせよ)文学も、もはや立場がなくなり、やることがなくなってフリーセックスだのドラッグだの言語実験だのに走るしかなくなっている。
そこへ飛び出た救いの星がSF……のはずだった。
SFは唯一、そうした科学技術の発達による、文化社会の前提の変化を射程に入れられる未来の文学なのだ、というのがレムの主張だ。でも別にそれをやってもいいけど、やんなくてもいいんじゃないですか? いいや、そんなことではダメだ、とレムは怒る。なぜかといえば、科学技術の進歩はますます加速しているから。そして科学や各種学問の専門特化とともに、それが持つ社会文化・人間的な影響の考察も専門特化している。それが未来学で、各種未来予測をやるハーマン・カーンやアルヴィン・トフラーみたいな連中がでかいツラをして大量予算を獲得し、ランド研究所だのハドソン研究所だので未来予測をしている。が、そんな連中の予測はことごとくはずれている。それなのに、そいつらが未来の方向性を決めてしまおうとしている! そんなエリート主義、しかも当たりもしないエリートどもの手に人類の未来を任せてはならないのだ! ハインラインの未来史のほうが、実はずっと原子力や戦争の未来を当てている。つまり未来考察——そして構築——の民主化のツールとしてSFは存在しているのだ! それをくだらんスペースオペラだの意匠を変えただけのメロドラマだの、ましてもはやお先真っ暗のブンガクのまねした言語実験のニューウェーブだので浪費している暇はないのだ!
そして本の残りは、こうした重要な役割をまったく果たしていないのんきなアメリカSFの罵倒、そしてその原因として、商業主義に走るメディア、それに迎合する作家たち、粗造乱造を余儀なくする経済条件、そして批判力なしにそれを喜んで受け入れる馬鹿なSFファンどもへの罵倒がひたすら繰り返される。おしまい……
いや、おしまいではない。実は上巻の半分くらいは、もう一つの話に費やされる。それは、SFの構造分析だ。まず、レムはSF、ファンタジー、おとぎ話などの類型論に入る。さらに、既存の物語構造をどのように変形させるとSFになるか、という分析を行う。SFの多くは、おとぎ話の焼き直しにすぎないのだ! あるいは、ファンタジーに逃げて真面目な考察をしないですませている! SFは構造も、その焼き直しのやり方もあまりに単純すぎる!……でもそういう構造分析では、中身の話はまったくできないし、くだらない作品も名作文学も同じ構造を持っている。作品の優劣には構造がまったく影響しないのだ、よって構造主義に基づく分析は役に立たないからやめる、と宣言し、構造の話はすっかり消え、あとは各種テーマについてアメリカSFがいかにバカかが語られる。
……と思っていたら忘れた頃、いちばん最後の最後になって、この構造の話がちょろっと復活する。現代は科学技術で変化する社会を描くための、新しい物語構造を必要としているのだ、と述べる。だがSFはそれを探していないとのこと。おしまい。
これが本書のあらすじとなる。
5. 本書の困難
まず上のあらすじを見て、本書の頭の痛いところがすでに出ているのがわかるはず。主張に賛成するかはさておき、本書が2種類のちがった本を無理矢理いっしょくたにしているうえ、その片方——SFの構造分析の話——は、「やったけど役に立たなかった」と何百ページもあれこれ論じたあげくに放棄される、という点だ。
もちろん失敗を正直に語ってくれるのは、正直といえば正直だが、やはりそれを延々と読まされる読者としては徒労感をおぼえずにはいられない。しかも「やっぱダメでしたー」というのは第3章の最後の最後でテヘペロ状態で出されるんですよ。期待だけさせておいてそれはないでしょう。
ところがそう言っておきながら、最後の最後で結論になって、現代は新しい物語構造を必要としている、という主張が唐突に出てくる。が、物語構造と中身とは関係ないと言っていたのでは? ならなぜ新しい物語構造が必要だといえるの?
さらに構造分析が多少なりとも意味があったとしても、それと未来学的な知見 (レムはそれを「認識論的な価値」と表現するが、こんな表現をする意味はまったくない)との関係というのはどういうものなわけ? 宇宙旅行とウラシマ効果の社会的側面を検討するにあたっては、一人称の談話形式を使い、話の終わりから遡る物語構造が最適なのだ、といった話ができるなら、1200ページかけて大量のSF作品を(罵倒しつつ)検討してきた意味もあるだろう。だが、そんなものはまったく示されない。ならば、レムの言う「新しい物語構造」とはどんなもの? 本書ではその方向性や大枠すら示されない。ステープルドンやジュワフスキー、ボルヘスは誉められるが、その分析は構造ではなく物語の中身に留まる。コードウェイナー・スミスやベスター『虎よ、虎よ』は絶賛されるが、「これはSFじゃなくてファンタジーだよね」ということで、認識論的な価値とは関係ないことにされる。するとその新しい構造とは何? 結局、その「認識論的な価値」、つまり未来学的な話と、物語構造の話との関係は何も示されずに終わる。
だったらそれは別々の本にしたほうがいいのでは? 無理に一冊にしないほうが万人のためだったのでは?
さらに、上のあらすじは、まあ明快だ(と我ながら思う)。だが、この本を読んで、この主張の流れを抽出するのは至難の業だ。なぜかというと、レムの本の中でも、この『SFと未来学』はとんでもなく長いし、枝葉がやたらに多く、「認識論的な価値」をSFが追求すべきだという議論はバラバラになってその中に埋もれているからだ。
まず、SFにおいては認識論的な価値 (つまりは未来についての知見)こそが重要なのだ、というのは、第1章で出てくる。
だが、いずれ未来学的に利用されると期待して我々がSFに求めるアイデアや概念構造は、見せかけのようなものであってはならない。またそれは、ある特定の読み方で引き起こされた、単なる一時的幻影のかけらであってはならない。それは読了後も、読者の不可侵かつ不変の財産でなければならない。SFには本物の情報が求められる。(上p.17)
が、なぜそれが求められるのか、というのはまったく説明がない。レムがそう勝手に断定するだけだ。いやそれどころか、それが単なるレム個人の独断と偏見(←死語)でしかないことを、レム自身が堂々と述べる。
SFで求められる情報オリジナリティは、コミュニケーションの表現構造にはない。表現中でオリジナルと受け取られるが、後に平凡さが明らかになる情報は、SFでは失格だ。だがここで一つ但し書きをつけよう。私は「平均的読者」としてではなく、真の認識論的価値を求める者としてこう述べる。だから本書は、言わば今日の支配的な美的慣習に逆らうことになる。(上p.16、強調引用者)
つまり、SFに本物の情報や知見が求められるというのは別に一般性のある話ではなく、レムが個人的にそれを望んでいるだけだ、というわけだ。あんたが認識論的価値を求めている人間だから、すべてのSFをそれに基づいて評価する、ということですか。
いやそんな個人の嗜好を押しつけられましても……
そう思って、読み進むうちに、ほとんど最後近くの第13章になって、なぜSFにそんな「認識論的な価値」=科学などの知見を求めねばならないのか、という話がやっと登場する。
我々の時代には、現象を理解し評価し判断することが他の歴史的時代以上に適切で必要だと私は確信している。(中略)すでに述べたように、人間がこれまで未来を純粋に自発的に作ってきたのであれば、そして常にあらゆる職業は現在に捧げられたか過去に向けられたかのどちらかで、来るべきものに向けられた職業的方向はなかったとするなら、そして今選ばれた決定が未来を決定し、しかも不可逆的に決定してしまうことが確実なら、未来に向けられた戦線に投じられるすべての力が文化の主な予備軍となる。それを考えると、この専門分野を未来学者のようなしばしば簒奪的な専門家に任せるのは許されない。誰でも機会と能力があれば、発展変種の探求の仕事に参加すべきであり、そこで文学が果たせる役割は大きい。文学がそれに(SF のような形であっても)取り組まなければ、二重の損失を生む。文学自身の損失と、一般文化的な、あるいは文明的な損失だ。(下p.194)
ぼくのまとめたあらすじ冒頭、この本すべてを支える問題意識が、ここでやっと明確に説明される。いま、科学技術のせいで様々な変化があるから、未来を真面目に考えて決めねばならず、それを未来学者なんかに任せておけない、だからこそSFが未来考察の民主化手段として重要なんだ、よってSFは現実逃避なんかしてちゃダメだ、というわけ。そしてやっとこれで、本書の題名が「SFと未来学」というものになっている理由もわかる。まず、人類はこれから未来を考えねばならない、というでかい命題がある。そしてそれを行えるのは、人々の集合知を活かせるSFか、あるいはエリート主義でインチキな未来学のどちらかなのだ、というわけだ。その両者の対比こそが本書の主題なのだ。
それを冒頭できっちり言ってくれよ。そしたら本全体の見通しが百倍よくなっただろうに。あなた一人の偏狭なひねくれ視点ではないというのもわかり、もっと我が身や現代社会に引きつけて理解できただろうに。それが出てくるのが、原著の1000ページ目あたりになってから、ではねえ。
その他の細かい部分も、本書のあちこちに脈絡なくばらまかれているのを、なんとか拾い集めるしかない。結局捨てられる(が最後に蒸し返される)構造の話も、どうもレムは構造がその物語のジャンル——SF/ファンタジー/おとぎ話/神話——を決め、そしてそのジャンル認識が読者の受容を左右する、つまりそこに「認識論的な価値」=知見を読み取ろうとするかどうかを左右する、というような図式を考えているらしい。ファンタジーは、魔法などあり得ない設定を使う。そこを認識論的に追求しても無意味だと読者はわかる。よってそこから知見を得ようなどとは思わない、というわけだ。
ぼくはこの見方自体がナンセンスだと思う。『葬送のフリーレン』を見ることで、長命種と短命種の共存について考察はできる。『風の谷のナウシカ』は、ファンタジーだ。でもそこから生態系とその再生についての考察を読み取ることは十分に可能だ。だが、その内容についての賛否以前の問題として、レムのこの見方を把握するまでがそもそも四苦八苦。切れ切れの内容があちこちに散らばっているので、それを再構成して多少なりとも筋の通った理屈に仕立てるだけで一苦労だ。どうも、最初に結論の構想があってそれに従って書いているのではない。成り行き任せで書いているうちに、思惑とちがっちゃったのでそのまま投げ出す——そんな感じの部分ばかり。そしてその間に、本筋とはまったく関係ない余談や思いつきがあれやこれやとぶち込まれる。ぼくは訳すために一言一句読んでいったので、なんとか関連部分を拾えた。でも一般読者が普通に読んでいって、彼の主張の筋道をきちんと追えるかといえば……無理だよ。
レムの評論の脱線ぶりについては『技術大全』の訳者解説でも述べた。あらゆる部分で、本筋とまったく関係ない話が、その場の思いつきで書き殴っているとしか思えない書きぶりでバランスも何も考えずにぶちこまれる。 だが『技術大全』では、そうした脱線がおもしろさの一助にもなっていた。なんでここでそんな話が出てくるんだよ、と思いつつも変な宗教論が登場するのはそれなりに面白かった。ところがこの『SFと未来学』では、その脱線もつまらない。ポルノSFはくだらないという話をするときに、何やら最近の小説は扇情的でけしからんという話を延々聞かされましてもねえ。
6. 章ごとの概要
では大筋を理解していただいたところで、章別の概要をまとめよう。それぞれの部分についての細かい概要は、訳しながらブログで逐次まとめているので、そちらを参照してほしい。https://cruel.hatenablog.com/archive/category/SF%E3%81%A8%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E5%AD%A6
はじめに
- 空想的なものにもいろいろある。
- 文学は少なくとも3 つの機能を発揮する。情報提供機能、教訓機能、娯楽機能である。SF 文学は、さらに追加のサービスも提供する。予言機能だ。
第I 部 構造
第1 章 文学作品の言語
- 1.1 序論:言語は、現実を見る/描き出すための道具だ。でもその道具自体が描く現実と不可分になっており、その道具のほうが重要なことさえある。
- 1.2 空想文学の言語的問題:SFはいろんな造語を作り出す。ただそれはそれっぽい雰囲気を出すためのものだけだったりする。その作品構造とか関係なくて安易。
- 1.3 表現の構造と表現されるものの構造: 文学作品は表現自体も重要だが、SFは、未来についてのアイデアを伝えるのが仕事。余計な表現のお遊びは無用で有害。
- 1.4 表現の内在的構造:内容と表現は不可分で、曖昧さが常に残る。その曖昧さを無視する構造主義批評は無力。
- 1.5 文学作品の4 つの構造:表象構造 (どう書かれているか)、表現されたモノの構造、執筆時に作用した環境構造 (ジャンルの規範とか)、読者の受容環境の4つがある。これは外的要因も大きい。本書はおもに、表現されたモノの構造を中心に扱う。
- 1.6 小説世界の字義的機能と信号的機能:描かれたものと表現したいものはちがう。カフカの変身はカブトムシを描くが、表現したい内容はカブトムシではない。
第2 章文学作品の世界
- 2.1 SF の比較存在論:おとぎ話、ファンタジー、SF、ホラー、神話は超自然性とこの世の秩序についてのお約束ごとによりジャンルとして区分される。
- 2.2 SF の認識論:SFは未来学に近いところがあるが、いまの未来学は無力。当たることより、枠組みを提示して見方を示すのが重要。
第3章 文学的創造の構造
- 3.1 はじめに:経験と文化:技術が自然と社会を変えつつあるが、SFはそうした重要問題を扱い切れていない。
- 3.2 SF の生成構造:SFは既存物語パターンの部分的置換、反転、衝突、結合といった構造変換で作られるが、構造だけをいじると空虚なゲームに堕す。
- 3.3 世界構造と作品構造I:作者/話者の位置づけが構造主義で問題視されるが、大した話ではなく騒ぐだけ無駄。
- 3.4 世界構造と作品構造II:空想/SF:主題が構造を決める例はある。タイムトラベルものは、繰り返し型、元の木阿弥型、結局無駄だった型などパターンがある。だがSFはそれを考え抜かずにメロドラマなどに落としてしまう。
- 3.5 SF の構造的分類基準.:構造を見るとSFがいかに単純かがわかる。でも構造だけでは中身のよしあしはわからないので構造分析は無力。だからもうヤメ。
第4章 構造主義から伝統主義へ
- 作品理解には、その作品ジャンルの見極めが重要。そして使う構造パターンは、だまって借用、借用を公言、自分で考案という3種類ある。だがSFは願望充足に堕しがち。
第II部 SF の作家と読者
第5章 SF の社会学
- SFはクズばかり。それは出版社が商業主義にはしり、志の低い作家が手軽なクズを量産し、ファンどもはそれをほめそやすバカばかりで、しかも主流文学みたいな内部批評の構造がないから。
- ただし、ヴォークトやベスター作品はくだらないが妙に魅力的でおもしろい。これは構造分析ではまったくとらえられない。
第III部 SF の問題分野
- 第6章 大災厄:破滅物をSFは実に安易に扱い茶化すこともあって許せない。このジャンルの人気はある意味で既存秩序の破壊を喜ぶ幼稚な心性のせいだ。
- 第7章 ロボットと人間:『未来のイヴ』はロボットだけでなく社会的影響や人間にとっての哲学的意味まで考えたが、いまのSFは社会的影響を考えず一貫性もないお遊び。
- 第8章 宇宙とSF :宇宙旅行はごく最近の発想。スプートニクで脚光を浴びたが、深い考察はなく意匠だけ。
- 第9章 SF の形而上学と信仰の未来学:ミラー『黙示録3174年』はがんばっている。いま試験管ベビーや人工知能が宗教の前提を脅かしているが、それを扱ったSFはない。
- 第10章 エロスとセックス:セックスは特殊な文化的位置づけを持つ。それを科学が崩し、セックスがお手軽になると宇宙人との乱交みたいなSFが出る。バカだな。ル=グウィン『闇の左手』はセックスが深掘りされていない。
- 第11章 人間と超人/スーパーマン:まともな超人SFはステープルドン『オッド・ジョン』くらい。それでも結構穴がある。SFは人間の能力向上をまるで扱わない。
- 第12章 棚卸し:冷凍睡眠SFは多いがこの技術の社会的影響を完全に無視。また宇宙SFの異星人はきわめて独創性に欠ける。
- 第13章 SF の実験:ブラッドベリから「ニュー・ウェーブ」まで:ブラッドベリはSFで唯一、書きぶりで成功した作家。ニューウェーブは規制のお約束を破壊しようとするが破壊だけ。ヌーヴォーロマンと同じ。読者が勝手なものを読み取るに任せているだけ。だがいまは未来を考えて構築しなくてはならず、いまはそれを無能な未来学者が独占しようとしている。SFでそれを万人にやらせるべき。
- 第14章ユートピアと未来学:ボルヘスは架空の完結した世界を描くユートピア。ステープルドンは荒唐無稽だが未来を真剣に考えた。SF作家は何も真剣に考えていない。
第IV部 おわりに
第15章 メタ未来学的結び
- 人間は本能を失って文化を創ったが、それは虚構で不合理。
- 科学はその不合理性を暴いたが、代わりのものは提示できず、文化の社会的意義の設定を切ってしまった。
第16章 メタSF 的結びの言葉/メタファンタジア
- 従来の文学構造は古くからの文化的価値観が前提 (それを破壊するときでも)
- いまその構造が科学の発展で崩れている。
- SFは物語構造の選択も、その変形も、新たな構造の構築もダメだ。もっとがんばれ
あとがき
- SFをこんなタコ殴りにするつもりはなかった。でもいまのSFは、最低の低俗小説に堕している。話は幼稚、設定は天国と地獄の両極端だけ、お手軽なカタルシスに走りたがる安易さ。自己批判もない内輪ぼめの自己満足と、商業主義への安住。絶望的だね。
7. 本書の難点
さてこうして章ごとの流れを見ると、冒頭で述べたことがご理解いただけると思う。
7.1 構築性のなさ/理論体系の不在
まず、ここには「理論体系」はまったくないことは明らかだ。
これまでの紹介、特に本書第16章「メタファンタジア」の紹介では、レムが何やら構造主義批判理論の大家のような書かれ方になっていた。しかし構造分析は、第1-3章で考察されるものの、大した深みはなく、ざっとした紹介にとどまるうえ、「こういう構造(またはその捉え方)がある」と述べつつ、その構造があるとどうなのか、というのは一切述べられず、あげくにそのほとんどはてその最後で完全に放棄される。それなのに最後になって、構造分析は無駄だったはずなのに、SFは構造的にダメだ、新しい物語構造を、と蒸し返される。なぜそんな物語構造がいるの? 何も説明はない。
何か議論を構築的に組み立てるような意識も一切見られない。普通、1200ページもあれば、何か前提があり、それを例証や演繹によって深め、展開してこれまでだれも指摘しなかった主張を行うのが常道だ。だがここにはそれはない。レムの立場は、最初と最後でまったく同じだ。レムは自分の独善的に見える主張を最初にうちたて、その後それを正当化するような議論を一切しない。「認知論的価値」=科学的知見に基づくべし、という、最初に掲げた勝手な価値観でひたすら突っ走るだけだ。そしてその大半は、英米SFはとにかくダメと言いまくるだけ。
7.2 英米SF&SF業界への異様な敵意
そして本書で度肝を抜かれるのは、その既存の英米SFに対する異様な罵倒ぶりだ。それも作品に対してだけではない。業界そのもの、作家たちやファンたち自体への人格攻撃に等しい口汚い罵倒がさんざんに展開される。その最たるものは本書の第5章のこんな部分だ。
この「狂信者」の年次大会と米国での最高SF作品のコンテストを外部の観察者が見ると、みんながお互いをヨイショしあっている、苛立たしいほどバカな家族の集いを連想してしまうこともある。悪意ある観察者なら、これが時に、せむしとびっこしか出ない美人コンテストを思わせるとさえ言うだろう。そこには醜悪さが満ち満ちているのに、みんな精神的留保を保つことで、そのカケラすら見て見ぬふりをしているのだ。アンドレイ・キヨフスキは、L・ティルマンドの著作に捧げられた批評的エッセイで、「鼻くそ坊やの天才」および「白痴の賢者と哲学者」という用語を考案した。(中略) 高位の創造的努力は低位の領域とは独立して活動する。このような関連は芸術外の領域、つまり科学的領域でも見られる。この領域では、科学の存在――属性なしの、通常の普通の研究作業として――は頑固な擬似科学を伴う。それは「平らな地球」などの協会の存在、今日アインシュタイン理論を倒そうとする宗派、昨日なら円を四角にしたり角の三等分に取り組んだりした連中などにあらわれている。実際、芸術的・認識論的に本物の価値を作成する精神的能力はないのに、偶然ある程度の才能――必ずしも狂気的ではない――で目立つ人々がいる。彼らは本物の宇宙論、物理学、哲学、または文学を営めないため、お手軽な手の届く代理物と片手間の創作で、自分の創造的不安を解消するのだ。(上p.179、強調引用者)
もちろん、個別作品についての罵倒も同じくらいひどい。レムはアメリカSF協会の名誉会員に選ばれたが、彼の英米SFに対する罵倒を見てジェリー・パーネルかだれかから物言いがつき、激論の末に名誉会員資格を剥奪されるという事件があった。ただしその激論なるものは、レムの発言内容をめぐるものではなく、レムに名誉会員となる規定上の資格があるのかという手続き論に終始して、まったく見る価値のない代物ではある。が、こんな罵倒をされてアメリカのSF作家たちがおもしろくないのはよくわかる。ちなみに、この部分の後でレムは、キャンベルやハバードがインチキ科学やエセオカルトに入り込んだのをあげつらい、SF作家がいかにバカかを嘲笑してみせる。だがこのしばらく後に、彼が天体物理学教授のグレゴリー・ベンフォードに対し、おまえは天体物理学をわかってないとイキってみせて哀れまれたのも有名な話ではある。レムの嘲笑はそういうレベルのものでしかない。
そしてこの異様な敵意は、ちょっと不思議ではある。というのも1959年に彼は論説集『軌道に乗る』に収録されたSF論で、ずっとバランスの取れた主張をしているからだ 。そこでのレムの分析では、SFはアメリカ特有の状況から誕生して盛り上がったもので、個々の作品はダメでも全体としてアメリカの抱えている問題や関心事を考察しようとする集団的な活動という側面を持ち、同時に20世紀アメリカの神話形成でもあることが指摘されている。個別作品より全体を見なくてはならない、と当時のレムは言う。
うん、それがわかっているならなおさら、本書のように個別作品をあげつらい、だめな作品ばっかだ、とけなしてみても仕方ないことくらいわかりそうなものなんだが。なぜそれが1960年代を通じて変わったのか?
その一方でレムは、その同じ第5章で、ヴォークトやベスターの作品が構造的にも未来学的にもろくでもないのに、それでもやたらにおもしろいことを認めざるを得ない。つまりレムは、自分の見方が一面的であり、他にもその作品を評価すべきポイントがあることを十分に知っている。それなのに、あらゆる作品をひたすら全否定し、無価値のクズだと罵倒してまわる——それは理屈としてもあまりに変だろう。
7.3 あるべき未来学とは?
そして本書で非常に不思議なのは、題名にすら含まれる未来学の扱いだ。2.2節でレムは、現在(つまり執筆当時の1960年代末)のハーマン・カーンらに代表される未来学がいかにダメかを論じる。あらすじで述べたとおり、SFがそれに変わる民衆の未来学となるべきだ、と本書は主張する。が、SFを使った未来学的考察の優位性をきちんと指摘する部分はまったくない。このため、SFが未来学に対抗できるのだ、という本書の題名にすら明示された主張が、まったく詰められていない。かろうじて、SFはフィクションだから未来学のような事実に囚われずにスペキュレーションを行う余地がある、と最後近くで述べられるだけだ。
実際のSFの分析では、未来学的な考察ができていない、と罵倒はするけれど、ではその可能性を本当に示すSF作品とはどんなものか、という点についてはほぼ指摘がない。ステープルドン『最後にして最初の人間』の数百億年にわたる人類史は、常に新たなカタストロフで人類が新段階を迎えるというのが見事な知見らしい。が、あれは興味深いながら、思いつき以上のものではないでは? はっきり言って整合性も何もないトンデモだよね? だがレムは、千年先の科学はいまの常識から見ればトンデモに見えるのは当然だから、むしろそれはよいことだ、とうそぶく。他の作品については、整合性がないなんてありえないと罵倒するくせに……結局、SFが果たすべき優れたよい未来学的な考察というのが何であり、それにより何が実現できるのかについてはまったく語られない。
これについては、おもしろいポイントがある。この『SFと未来学』発表の少し前の1968年、スタニスワフ・レムはポーランド共産党の機関紙の一面に「ウェルズ、レーニン、世界の未来」なる論説を寄稿し、SFは未来学的考察を行うものだが、その開祖たるH・G・ウェルズは『霧のなかのロシア』でレーニンと対話して未来についてピントはずれな主張をしている、なぜなら元祖未来学とも言うべきものは、マルクスの史的唯物論だからだ、それに従ったレーニンのほうが鋭いのは当然なのだ、というとんでもない主張をしているのだ。つまり、レムの考える正しい未来学は、史的唯物論である、ということになる 。
この文章がどういう事情で書かれたものなのかはわからない。これがレムの本心なのか、あるいは何らかの政治的事情で仕方なくでっちあげたものなのか。だがこの論説が本気だったなら、多少は欧米の読者を意識する中で『SFと未来学』で史的唯物論こそ未来学の理想とは言えなかったかもしれないし、もしこの論説が苦肉の作だったら、それに露骨に反する理想の未来学を語るわけにはいかなかったのかもしれない。
が、いずれにしても、『SFと未来学』に、あるべき未来学的SFの姿が明記されていないのは事実であり、そしてそれが本書の大きな主張のポイントを完全に理解不能にしているのも確かだ。おかげで本書はさらにわけのわからないものとなっている。
8. 『SFと未来学』の現代的価値
ではSFと未来学に現代的価値はないのか?
1200ページすべて精読して訳した人間として言わせてもらうと……ない。全体としての価値はまったくない。本書の主張に多少なりとも価値を認めるためには、レムがおいた前提に多少なりとも賛同しなくてはならない。SFは、そこらの文学とはちがって、人類の未来シナリオを考えるという重要な仕事を担っているので、お遊びSF、楽しいだけのSF、既存のお話の設定を入れ換えて、現代の人間の価値観を相対化してみせるようなSFは全部だめ——この主張に賛同する人は、当時ですら一人もいなかっただろう。いわんやこの21世紀においてをや。これはSFの理論としても評価の枠組みとしても、あまりに偏狭だ。
そしてその理由が、SFは商業主義に侵されて、馬鹿な作家と馬鹿な読者がはびこり、まとも批評も存在しないからだ——こんなものがSFの社会学的分析として通用するはずもない。SFのおもしろさにも一切触れられず、かつてレム自身が述べていた集団的な課題検討や神話構築の働きにも触れられない。これはSFについての総合的理論はおろか、限られた理論としてすら成立しないだろう。
さらに何も理論面での構築もない。ちょっとやった構造分析は「やっぱ役にたちませんでした」と放り投げる。それはないでしょう。
では、まったく無価値かといえば……そうでもない。レムは、調子がいいと、見事な筆の冴えを見せる。そうした個別部分は、実にすばらしい。
その最たるものは第13章「SF の実験:ブラッドベリから「ニュー・ウェーブ」まで」だ。ここで展開されるレイ・ブラッドベリ論は、他で類を見ないレベルの高さだ。そしてそれに伴うフランスのヌーヴォーロマン批判。これはアメリカSFに対する罵倒とはまったくちがう。冷静で公平な読み、それが持つおもしろさの源泉、文章へのノイズの導入という手法面の分析、さらにはまさにそのおもしろさの源泉のためにヌーヴォーロマンが抱える限界の指摘。これは実に見事なものだ。途中であまり脈絡なく出てくるサド論やドストエフスキー論、ボルヘス論なども、こうした著者について書かれたどんな論説にもひけをとらないすばらしいものとなっている。
また本から離れてレム自身の抱える、ある種の矛盾も非常によくあらわれている本でもある。それがよく出ているのは第15章だ。レムはもちろん、科学の進歩をよいことだと思っている。その一方で彼は、科学により人間社会の価値観の基礎、価値観そのものが破壊されるのを大いに懸念している。人間は本能がなくなったので、文化的なお話を創って価値観を維持し、それにより生物学的な衝動を抑えつつも再生産可能なくらいには維持するのに成功してきた。だがいまや、セックスしなくても子供ができる、不老不死も夢ではない、各種の宗教規範も欺瞞が暴かれたとなると、そうした社会の根幹となる価値観が消えてしまい、人間はそれに対処できずにいる。科学は、従来の文化規範の根拠を破壊はするが、それにかわるものを提供できない。これは社会の全面崩壊にすらつながりかねない——
この、科学に対するアンビバレントな態度がしばしば本書の非常にどっちつかずの混乱した物言いに影響している。そしてそれとほぼ同じことだが、レムは言わば自由の増えすぎを懸念している。本書では明記はされていないけれど、彼はある種のサイバネティクス的な管理と社会統制を何となく求めている。「アルジャーノンに花束を」みたいにみんなの知能が高まったら、ブルーカラー職がいなくなるから問題だ、なんか職業統制がいる、というわけだ。彼はそこで、市場原理に基づく価格での調整を考えない。ある種の中央集権的な管理を彼は求める。そしてそれに基づいて、優生学も支持する。彼のそうした側面は、本書のそこかしこに断片的な形で登場する。これはレムという作家そのものの理解において、とても重要なものだ。
そうした様々な断片的な情報や記述は、特にスタニスワフ・レムという作家&人物を理解するうえで重要だし、それが本書に価値を与えているのは事実だ。この技術の発展と価値観の関係は、普遍的な重要性を持つ。
ただ……それであるなら、1959年のSF論でレムが挙げていた、アメリカSFが全体として20世紀の神話を構築しようとしているという機能についてもう少し重視してもよかったのではと思う。もちろんSFに表明される多くの価値観は、何やら古くさい単純化された価値観の焼き直しだ。それでも、全体として何かちがうものが生まれる可能性にもう少し注目できなかったのか——そうしたことを考えつつ本書を読むのは、必ずしも無駄なことではないだろう。とはいえ、それをもうちょっと整理した明確な形で論じてくれれば、と思ってしまうのは人情だろう——特にそのために1200ページもの翻訳をした人物の気持ちにもなってくれよ、とは思う。
9. 日本での本書の紹介
冒頭で述べたように、これまでの本書の紹介はひどいものだった。中身に一切ふれることなく、周辺的なゴシップでお茶を濁すだけ。紹介した人(というと沼野充義くらい) は、これを実際に通読はおろか、流し読みすらしたのか?? その沼野充義が、おそらくは長年にわたるレムとの取り組みの集大成、国書刊行会のレム・コレクション『高い城・文学エッセイ』に書いた、本書の紹介は以下の通り:
『SFと未来学』Fantastyka i futurologia(一九七〇年) ——全二巻、原著で計千ページを越える大著。現代SFを理論的に扱った研究書。方法論としては『偶然の哲学』で練り上げたものを発展させ、読破した数万ページの現代欧米SFにそれを具体的に適用する。その分析の結果はきわめてネガテイヴで、現代SFの九十パーセント以上はSF本来の可能性をまったく無駄にしているくだらないものだ、ということになる。こうしてSF理論を体系化したレムは、その一方では自分自身も「作家としての成長過程でSFというジャンルそのものの進化の大筋を繰り返してしまった」ことに気づき、創作の面では一種の行き詰まりの状態に陥る。それを打開する―つの道が『完全な『虚数』といったメタフィクション系列の作品だった。(p.439)
本書のあらすじを読んだ方なら、この紹介がいかにピント外れかはわかるだろう。ここにはそんな系統だった方法論など一切ないからだ。ちなみにここで「方法論としては『偶然の哲学』で練り上げたものを発展させ」とあるので、『偶然の哲学』については具体的な方法論が説明されているのかな、と思う人もいるかもしれない。が、もちろんそんなことはないのです。『偶然の哲学』については、同じ紹介で「文学研究者に強い(必ずしも肯定的ではない)反応を引き起こした著作でレムは構造主義の文学理論に論争を挑み、それに対して「読者の受容を前提条件とするようなある種の伝達過程としての文学作品」というテーゼを提出」(p.439)としか書かれていない。これ、何を言ってるのかわかります? 普通はわかんないと思う。書いた人もわかってるのかな。
実のところ、『偶然の哲学』は、平たくいうと文学のアイデア→文章→読者というプロセスのそれぞれの段階が、確実な情報伝達ではなく、不確実な確率=偶然に左右されますよ、というだけの話を延々と書いたものだ。彼はこれがマルコフ過程であり云々と、得意げに語るのだけれど、マルコフ過程になっているかどうかは怪しいし、さらにマルコフ過程だったらどうなるのか、というのはまったく説明がない。ついでに、アイデアと文章の関係を、生物学の遺伝における遺伝子型と表現型の関係になぞらえ、生物学の知見を延々と披露してみせるんだけれど、それがどうしたの? そういう理解をすることで、創作過程についてどんな理解が深まるの? 何もなし。
そして『偶然の哲学』たまにみせる見事な分析、たとえばエーコ『薔薇の名前』論に続いて出てくるのは、なぜその作品がベストセラーになったか、エーコはベストセラーを意図していたか、というくだらない物欲しげな勘ぐり。レムとしては、読者の受容というのを、売れたかどうか、というので判断しているわけですな。つまり、優れた作品はそのマルコフ過程の結果として読者に受容され、売れねばならない……そんなわけないでしょう。そんな「分析」がまともなものにならないことくらい、言うまでもないと思うんだが。
ただ確かにその意味で、この『SFと未来学』では、いま述べた『偶然の哲学』の理論が応用されてはいる。が、それはむしろ、SFがオレの理論通りになっていないという苛立ちだ。レベルの高いものは、売れるべきだ、というのが『偶然の哲学』の理論だが、それに対してアメリカSFはクズみたいなものが売れていて、レベルの高いものが一向に出てこない。彼が当たり散らしているのは、どうもSFが自分の思うような、内容のレベルの高さと売れ行きとの相関を見せていないという苛立ちのせいなのかもしれない。正直いって、ぼくはレムがほめそやす他の文芸ジャンル、たとえば純文学ですら、別に中身が優れていれば売れる、というような幸せな状態にはなっていないと思うんだが。
が、閑話休題。
結局のところ、『SFと未来学』は『偶然の哲学』の理論を具体のSF作品に適用して分析したなどとはまったく言えない。SF理論を体系化なんかしていないのも、すでに見たとおり。つまりここで沼野充義が書いていることは、実際に『SFと未来学』を読んだとは思えない。やっぱ紹介するなら、一応は中身を読んで把握してからのほうがいいんじゃないかと思うんだ。
蛇足ながら「『作家としての成長過程でSFというジャンルそのものの進化の大筋を繰り返してしまった』ことに気づき、創作の面では一種の行き詰まりの状態に陥る。」というのもかなり疑問ではある。SFというジャンルの進化、というのがそもそもよくわからないし、『SFと未来学』にそんなものは書かれていない。だが『SFと未来学』がレムの創作行き詰まりの原因になったというのはありそうなことだ。第14章に、さんざん他の作品を罵倒してきたレムが「それではオレ様が模範演技を見せよう」とSFのアイデアを得意げに語るところがある (下p.269以降)。だが、アイデアを語っただけで結局仕上げられずに投げ出している。要するに、自分だって他人に要求するような作品を書けなかったわけだ。そしてとてもおもしろいことだが、そこに挙げられた物語の設定は、かの『大失敗』に使われている。つまり彼は20年近く、『SFと未来学』で自分で勝手に上げてしまったハードルに見合う作品を書こうとして悪あがきをした挙げ句、できたのはあの愚作『大失敗』でした、というわけだ。『大失敗』はつまり『SFと未来学』の答合わせであり、その結果がでっかいバツでした、という情けない代物という解釈もできる。
「作家としての成長過程でSFというジャンルそのものの進化の大筋を繰り返してしまった」というのはカッコに入っているので、レム自身がどっかでこう言ったんだろうが、まあ彼はプライドが高い人で自分のヘマを認めるわけもない。が、苦しいねえ。
もう一つ本書の紹介めいたものが出たのは、『SFの本』5号レム特集に、本書の第16章が「メタファンタジア」なる題名で紹介されたときであり、それが20年後にレム・コレクション『高い城・文学エッセイ』に収録されたときだ。おお、最終章ってことはこの本全体のまとめになっているんですよね? やっと本書の理論がわかるんですね?
ところが……それを読んでみると、中身はあっち飛びこっち飛びの、要領を得ない迷走した書き殴りで、話としても全然まとまっていない。しかもSFの話は最後にとってつけたように数ページあるだけ。なんだこれは。さらに訳者の巽孝之の説明は例によって、名前とキャッチワードを並べるだけで何一つまともなことを言っていない。構造主義だポスト構造主義だ、その概念を縦横に駆使しているというだけ。だから、それを駆使して何がわかったわけ? ポスト構造主義を導入することで、レムはSFの、あるいは文学の何を指摘したの? それを説明すべきじゃないのかな。
そもそもこの章は、本全体の中でとっくに棄却されたはずの「物語構造」なるものがいきなり蒸し返される変な章ではある。何か本書の主張を総括するものではないし、その結論を何か述べるものですらない。これまでの文学が、既存の人間の生物・社会的なあり方を前提として成立してきたが、それが技術で変わりつつあるという主張は書かれており、レムがSFに対して求める、技術で破壊された規範や価値観の再建という役割について一応述べられてはいるが、決して明解ではない。この章だけでは何もわからないのだ。訳者もわからなかったようだし、またそれを読んだ人々もおそらくわからなかっただろう。つまりあまり意味のある紹介ではなかった。ホント、ここでも沼野充義が『SFと未来学』を実際に読んで、この最終章の位置づけをきちんと説明してくれていれば……
10. 個人的な思い出
さてここまでお読みの方は、山形はこんなに罵倒してるくせに、なんだって全訳なんていう面倒きわまることをやったんだろう、と思うかもしれない。
いやその通り。我ながら物好きだとは思う。が、人生にはいつかケリをつけねばならないことというのがあって、これもその一つだったのだ。ということで、ちょっと思い出話を。
ときは1980年代。ひねくれたSFファンとしてNW-SFなんかに出入りしていた身としては、SF評論が重要だなんてことを思っていた。山野浩一がそういう主張をしていたことでもあるし。
だからサンリオSF文庫の刊行予告にこれが、レムの他のサイコロ評論本といっしょに挙がっていたときには興奮した。なんかすげえ本らしいぞ! だが……その後まったくなしのつぶて。だがドイツ語訳があることを知ってそれを苦労して入手し(当時は洋書の購入は大変だったのだ)、第二外国語で学んだ知識ではりきって読み始めると、おお、空想的なものの種類と階層の話がはじまって、本当にSFのすべてについての理論を基礎から構築しようとしているらしい……と思ったが、あまりに面倒くさく、5ページで挫折。
当時、沼野充義の研究室に一度話をききにいったときそれを見せたら「あれは絶対に訳さないといけないんだが、とても手がまわらない。ドイツ語からの重訳でもあれば、それをもとに完成させられると思うんだがなあ(チラッ)」と言われて、それならばとその後さらに5ページほどがんばったが、それが限界だった。
そうこうするうちに、『SFと未来学』を出すはずだったサンリオSF文庫が廃刊になってしまい、本書の邦訳が出る希望も消えてしまった。あーあ。
だが「ドイツ語からでも下訳があれば、それをもとに仕上げられる」と言われたことで、この本の邦訳が出ない責任の1%くらいは自分にもあるような、少し後ろめたい想いをずっと抱いてきた部分もある。ブツブツ言いつつも本書を全訳してしまったのは、ある意味でその後ろめたさを解消したかったせいもあるのだ。沼野充義もおそらく、忙しい合間をぬいつつ本書を少しずつでも訳していたはずだし、ぼくがもうちょっと頑張っていればサンリオ廃刊までに間に合ったかも……
いま、こうしてドイツ語から全訳を終えて、あの駒場の沼野研究室で言われたことをやっと果たせたような感じがする。30年もかかったし、別に約束したわけでも何でもないけど、でもやりましたからね……
と思っていたら。こんな文章に出くわしたんだよ。
いまからほとんど三十年ほども前、サンリオという会社がSF文庫を大々的に立ち上げることになり(中略)、レムの理論的業績における主著というべき『SFと未来学』(1970)という巨大な本も入っており、私がその訳者として山野氏に指名されたのだ。当時まだ二十歳そこそこの若造にしてみれば、有頂天にさせられるほどの大抜擢である。この著作がどれほど踏破しがたい難物かということもろくに認識しないまま、私は張り切って引き受けたのだが、その後、この本を一ページも訳せないままついに今日まできてしまった。(沼野充義「レムにおける人生と批評と創作」、レム『高い城・文学エッセイ』p.432, 執筆は2004年、強調引用者)
……なんだい、全然やってなかったのかよ。じゃあぼくはずっと、ありもしない枯れススキ相手に後ろめたさを抱いていたのかよ。サイテー。
が、牛に引かれて善光寺参り。なんだかんだで、できてしまったので委員会諸賢はお楽しみください。これを元に沼野充義やその周辺の人々が、ポーランド語とつきあわせて決定版ポーランド語直接訳を仕上げる——なんてことはあり得ないが(あり得ないでほしいよ。そんな体力があればもっと有効なものに使ってほしい。これをポーランド語から直接訳したところで内容的に大きな差が出るはずがない)、ぼくとしては自分の心にわだかまっていた疑問、知りたかった内容がやっと(いささか失望をこめて)わかったことで、十分満足だ。他にもそういう方が少しでもいれば幸甚。
11. 翻訳について
本書は、ドイツ語からのGrokによるAI翻訳をベースに、山形が全文をチェックして完成させた。AI翻訳なんか信用できないという人もいるだろう。だが、この種のノンフィクションであればいまやほとんど問題のない水準となっており、特にレムのややこしい晦渋で要領を得ない文章には大いに実力を発揮してくれた。また山形のドイツ語も久方ぶりでかなりさび付いてはいるが、チェックくらいはこなせる。大きくまちがえているところはないはずだが、何かお気づきの点があればご指摘ください。
ドイツ語版には、ドイツ語編者がまとめた、文中で言及されている作品の一覧索引がついているが特に必要ないと思ってこれは訳していない。言及された作品は、邦訳のあるものは邦題を雨宮孝氏の労作「ameqlist翻訳作品集成」https://ameqlist.com/ に基づいて採用し、ないものはそのまま訳して原題を併記した。こうしたインフラを整備してくれている雨宮氏には伏して感謝する。
2026年5月 レイゴス(ラゴスじゃなくてこう発音するそうな)にて
山形浩生 hiyori13@alum.mit.edu






