
はじめに
はい続き。スタニスワフ・レム『SFと未来学』第8章「宇宙とSF」。
あらすじ
これまでの章と同じく、何か体系だった考察が行われているわけではなく、いろいろ読んで思いつきを並べるだけ、という感じ。
8.1 はじめに
宇宙は、これまで文学でまともに扱われることがなかった。そもそも人類史において、宇宙というのが具体的な場所だ、という認識が出てきたのもごく最近だし、そこに人類が、農機具のような道具の延長にある乗り物で行ける、という発想自体もきわめて最近のものにすぎない。そして実証的な科学が出てきてその中で宇宙を捉えるようになったのも、ごく最近のことだ。
文学というのは人間的なものを扱うのがこれまでの常で、宇宙とか星とかいう、非人間的、非人格的なものは扱えない。だからそれを全部科学に背負いこませた。そして、宇宙を扱うSFは、文学の扱う話を扱っていないとして排除され、二流扱いされるようになってきた。
それがスプートニク打ち上げで、急に先見の明があったとしてもてはやされるようになったのがSF。ただしそのSFも、宇宙の持つ可能性をまともに考えていないし、ファンタジーは寓話の一種となって現実からの逃避になっている。
8.2 宇宙SF
宇宙SFでも、ブラッドベリはただの寓話的なおとぎ話の焼き直しだ。他の宇宙小説は、科学っぽいジャーゴンを多用してそれっぽい雰囲気を作るが既存のお話の使い回しか、あるいはA・C・クラーク作品のような単なる頭の体操パズルのようなもの。別に舞台が宇宙である必然性はまったくないし、ハインライン『人形つかい』のように、設定に説得力がないものも多い。
8.3 宇宙論ファンタジー
ステープルドン『スターメイカー』はむちゃくちゃだし、説明調でほぼ小説とは呼べない。失敗作なのはまちがいないが、そこに詰め込まれたアイデアはすごい。唯物論的な科学に対し、汎心論/汎神論みたいなところにまでぶっとんでいる。全能の神がなぜ不完全な世界を作るかという点での矛盾はある。そうした内部矛盾がこうした作品の欠点。でもオレ様は「かくて世界は破滅を免れた」で内的矛盾のない形でそういうアイデアを小説化してるのよねー。
8.4 宇宙SFと物語の構造
多くのSFはできあいのパターンを取ってそこにSFっぽい意匠を加えるだけ。ファンタジーやおとぎ話はそれに乗りやすい。吸血鬼を、どうしても血がいる病気とか、インチキな理由で人間の血からタンパク質をとる宇宙人とか言い換えればいいだけ。この意味で、SFとファンタジーは境界線が引けるものではない。あ、でも第2章とかでやった分類は、あくまで存在論的な話だからオッケーね。
その拝借されたお話の構造がSFの内部でどこまで改変されるかで、そのSFの善し悪しも決まる。宇宙小説は、かつてある種の職能を持つ職業人を扱った小説の生き残りでもある。船員が宇宙船乗りとなったり。現代小説は、人間の内面にこだわるので、職業を軽視し、職業が人を規定するとは考えない。SFは、そういう空白を補うものでもある。ベスター『虎よ、虎よ!』は『モンテ・クリスト伯』の焼き直しだが、絢爛豪華だし、独自の工夫もある。二流通俗小説ではあるが、その中では一流だ。
こう、ダメなものにもこうやってきちんと価値を見つけ出そうとするオレって偉くね?
感想
この章は、おもしろい指摘はいくつかある。冒頭の、宇宙が舞台となること自体が人間の歴史において目新しいことで、内面ばかりを重視したがる従来の人文学や文学はそれを自分たちの扱う範囲外としてしまい、SFはそれを補うものだとか、現代小説は職能とか職業人をきちんと扱わないという指摘とか。
しかし、全体として何か体系立ったことを言っているわけではない。非情に散漫な思いつきでしかない。途中で、ジャンルSFがよくやりたがる宇宙SFの分類のような試みを馬鹿にして見せるところがあるが、うーんそれで? 『虎よ、虎よ!』が絢爛豪華なワイドスクリーンバロックで、既存の下敷き話の焼き直しだけどおもしろいよ、というのは事実なんだが、なぜそのために十ページにわたり『虎よ、虎よ!』を引用し、あらすじ解説をしなければならなかったの? 必要だったと言うんだが、さっぱりわからない。
結局言っていることは
SFは人文学や文学が排除してきた、宇宙というものを描いているのでそれなりにえらい。
ブラッドベリは、うまく書いているけれどあまり中身はない。その他SFは自閉しているし、百万年たっても人間はいまと同じ価値観だったりしてステープルドンの足下にも及ばない。
そのステープルドンはめちゃくちゃだがすごい。でも神の完全性と不完全な世界という問題を抱えている。
SFは既存の話の焼き直しが多いが、それを徹底するとベスター『虎よ、虎よ!』みたいな、二流通俗小説ながらもその中で第一級のものができる。
ほぼこれだけなのだ。
そこでの主張に賛成しないわけじゃないけど、『宇宙とSF』という章題の下で、数十ページにわたりページをかけて、言っていることがこれだけというのは、いささかがっくりすると言わざるを得ない。なんかもうちょっと、構築的な議論とか、新しい視点とか出してもらえないのだろうか。
ステープルドンも、ほめたと思ったら、冒頭1/3だけで、あとは彼の汎神論の話が整合性がないという脱線を得意げに延々と続ける。そこの主旨は、神の全能性とこの世の不完全性という、ラヴジョイの話でやったようなことで、それをどうやら自分で思いついて書いていたりするのは大したものかもしれないが、ここでの話にはあまり関係ないうえ、自分の思いつきを語るために結局ステープルドン下げに終始しているのはどうよ。
結局のところ、レムとしては読者がこれを読んで何を理解してくれる/理解してほしいと思っていたのか、ぼくにはよくわからない。いまのアメリカSFは、他の可能性もあるのにもっとガンバレ、というくらいの話しかまとまった主張は引き出せないと思うんだが。
もうちょっと構成をきちんと考えて、きっちりした論旨を作れると思うんだよね。
SFは人文学や文学が排除してきた、宇宙というものを描いているのでそれなりにえらい。
また宇宙飛行士を筆頭に、現代文学で無視されている職業/職能的な人間描写の可能性も追求している。そういう作品としてはこんなのがある。決してうまくないが、新しい可能性追求は評価すべき。
ただし、多くの作品は安易に既存の話の置き換えに終わっている。おとぎ話の「おばけ」や「吸血鬼」に宇宙からきたナントカと称して合理的な説明を与えたり。それがSFの持つ可能性を生かしきれていないのは残念。
そうしたやり方でも、徹底してSFという枠組み内で変形を加えることで非常におもしろいものも作れる。ベスター『虎よ、虎よ!』はそれを見事にやっている!
さらに宇宙と人類の関わりについて、従来の文学じゃ扱えない壮大な取り組みをすることもできる。ステープルドンはめちゃくちゃで、汎神論に陥っているけれど、でも従来の小説にはまったくできないことをやっているのはすごい。それに刺激を受けたような意識進化の話とか、一部の作家が萌芽的に触れてはいるし、もっと頑張れ。ということで、形而上学の話を次の章でやろうぜ!
といった具合にすれば、宇宙SFに何が期待できて、どこがレム的に不満だと思っているのかが、もっと明確に出ると思うんだが。そしてこれを整理すれば、いまの1/4のページでおさまると思うよ。
レムの(本書の) 違和感について
なんか、だんだんこの本についての違和感がわかってきたような気がする。
あらゆる評論・論説は、「他人の気がついていないところに自分は気がついた」「他人の思いこみを自分は裏付けた/否定した」がないと成立しない。そこには絶対に「どうだっ!」という自負はある。それがなきゃ、手間掛けて研究だの評論だの論文だの書かないだろう。つーか、書かないでくれ。「いろいろ見てみたけど、なんかおもしろい結果出ませんでした、いろいろですね、ハッハッハ、やったことに意義がある」とかいうのは本当にうんざりするので。ひがみっぽい人はそれを見て「上から目線」だの「押しつけ」だの被害者意識に浸りたがる。そういうバカは相手にする必要はない。その自負が強すぎてカチンとくることはある。でもそれは、そいつが見出した論点とのバランス次第ではある。恐れ入りました、と言わざるを得ないこともあれば、くだらんことを何威張ってやがる、と思うこともある。
でもレムは、頭良いのはわかるんだが、あらゆるところでそれを前面に出したくてたまらない。だからステープルドンの宇宙SFとしての特質を論じるはずのところで、それをまったくそっちのけにして、ステープルドンの汎神論についてあれこれケチをつける。形而上学の話は次の章でやると述べてるんだから、ここでその話をしなくてもいいじゃん。でも彼は、ステープルドンすごい (でもオレのほうが頭良いぜ) と言いたいのだ。そしてその脱線が終わったら、結局ステープルドンのすごさについてはろくに語らずに終わってしまう。
ベスターだってそうだ。『虎よ、虎よ!』がすげえと思った。わかるよ、それは。十ページ以上もあらすじを丸写ししたいくらい好きだ。うんうん、むちゃくちゃだけどおもろいよねー。ナカーマ。でもさ、この章は宇宙SFの話ではありませんか。そうしたベスターのワイドスクリーン・バロックとしての価値が実現されるにあたって、宇宙というモチーフがどう有効に作用しているか、というのを論じないといけないんじゃありませんか? ところがそれがほとんどない。『モンテ・クリスト伯』を、宇宙モチーフ付け加えて換骨奪胎しました——うん、それはわかる。でもその換骨奪胎のために宇宙は不可欠だった、という話が少しでもないと、宇宙SFの章でそれを論じる意味があるの? ミクロの決死圏で人体内で換骨奪胎もできるんじゃない?
ところがレムは、そこで行われている換骨奪胎を細かく論じるんだけど、その宇宙との関わりは何も語らない。そして挙げ句の果てに、この章の最後では
しかし批評家の仕事は、価値がほとんどないか、アポロ的、ディオニュソス的な価値の貧しい親戚となる価値しかない場所でも、価値を探すことなのだ。
アポロ的な価値は、学問的、芸術的な価値ってことで、ディオニュソス的な価値ってのはつまり享楽的な価値ということ。つまり、『虎よ、虎よ!』は芸術的にも無価値で娯楽としても大したことないと言っているに等しい。だからベスターについての賞賛は、「こういうクズの中にもオレ様は価値を見出してやったぜ、批評家はつらいねー」という話にですよ、という自慢だ。
そんな無理して価値を探し出していただく必要もないんじゃないの? 積極的におもしろいぜと認めて、そこから出発できませんか? あらゆるところに「でもオレのほうが頭良いしすごいんだけどね」「クズだけどサルベージしてやったからありがたく思え」と言わないといけませんか? そこらへんが、この本のうんざり感の大きな源泉の一つだとは思う。
一読者、視聴者として「ぐわーっ、ろくでもないもの読まされちゃったぜ、なんだこれわー!」という怒りの評論は当然あっていいよ。ダメなところを冷静に指摘するのは当然ありだ。でもそれが自分の小才を誇示する手段になってしまうと、見られたものじゃない。
オールディス他『一兆年の宴』でのレム評はこうだ:
スタニスワフ・レムは、この作家の真価を歪めかねない一種の強烈な仲間褒めに浴する一方で、自作に対する本人の声高な擁護が、おおぜいに不快感を与えた。(中略) レムの作品はめったに退屈におちいらず、しばしば滑稽であり、賞賛すべき多くの要素がある。しかし、公平な視点からすれば、彼は(ダルコ・スーヴィンがくりかえし主張しているような)「今世紀で最も重要な作家のひとり」ではない。レムの反SF 的な姿勢に賛成するSF 界外部の知識人たちが、いかに彼を礼賛しようとも。(pp.204-5)
ホントなら、もっとストレートにほめられてしかるべき作家なのに、こんな言われ方をされちゃうのも、そういうことではある。ちなみに、注には多少の同情をこめつつこうある:
七〇年代中期には、レムに関する論争が荒れ狂った。アーシュラ・ル・グィンは、〈ヴェククー〉73(一九七六年三月号)でレムの二冊の著書を書評するにあたって、こう述べている——「最近、アメリカSF 界でレムの名が話題にのぽるときには、苦々しい口ぶりと、ときには憎しみをこめた冷笑がつきまとう。その理由 のごく一部は純粋な羨望にあり、また一部は無理からぬ反感にある。なぜなら、レムは不器用で論争好きな批評家であるからだ。そして、あとの大部分はフランツ・ロッテンシュタイナー(ウィーンに住むレムの代理人)が、熱心にレムを賞賛するあまり、この巨匠に比べればほかのすべてのSF 作家は無能なクズだ、と しばしば主張したことにあるー|この主張は事実でもないし、好感も持てない。しかし、羨望や、反感や、ロッテンシュタイナー氏を差し引いても、依然としてレムを(だれも本人に会っていないのに)酷評しようとする謎めいた根強い偏見がある。彼の著書は無視されている。彼は汚名を着せられている」(p.218)
が、本書を見ると、これはロッテンシュタイナーのせいではなく、レム自身の身から出た錆びだというのははっきりわかる。
つづく
これで、SFと未来学下巻の三分の一ほど。次の章は、形而上学とSF。SFと宗教とか神様とか。やっぱり、整理されない思いつきの書き殴りが続くみたい。ウォルター・ミラーJr『黙示録31xx年』が引き合いに出されるみたいだけど、すごく啓発的な視点や総合的な議論が展開される希望はいまやほぼない。

















