レム『SFと未来学』16章 メタSF/おわりに:結語って、これ出発点以前じゃん。 新たな物語構造がないって、あんたが提案しろよ!

はじめに

やったー!終わりにきた! 「メタSF的結び」と「おわりに」だ。

が、本当につまらないことしか言っていない。要するに言っているのは、SFは科学技術で変化する社会を描くための、新しい物語構造を見つけられていない、というだけ。現代は新しい物語構造を必要としている、だけどSFはそれを探してないとのこと。

 

え、それだけ?

 

……ふつうさあ、1200ページにもわたる本を書くのなら、物語構造が見つけられていない、というのは冒頭の問題設定のところだろ。第1章で、この本の基本的な仮説や問題設定として説明すべきことでしょうに。

なんでそれが結論なんだよ。議論の入り口、一丁目一番地であるべきだろうが!

そしてこれまで、彼は英米SFを罵倒するにあたって、そんな話はほとんど何もしていない。たとえば、宇宙旅行を描くに当たって必要な新しい物語構造とはどんなものなの? 既存SFはどういうふうにそこで的を外していて、仮説的にしてもどんな物語構造ならあり得るの? そういうことを論じているなら、この結末もまあ納得しよう。でも、これまでそんな話、ぜんぜんしてこなかったよね。バカだアホだ、商業主義だと罵倒してきただけだよね。

そしてSFの様々な主題を見てくる中で、そこから何か一般性ある話も示してないよね。きちんとすべてを物語構造と関連づける努力は何もしてこなかったよね。

 

それで最後にいきなりこの結論というのはひどいんじゃないの? 1200ページかけたら、その未だ見えざる物語構造のヒントがどこにあるかくらい示せないの? たとえばあなたのほめるウェルズやステープルドンの物語構造の見所は? それはいまのアホSF作家どもとはちがうんでしょう? アシモフ『鋼鉄都市』を、あなたのいう優れた物語構造に近づけるにはどういうふうにしたらいいの? バカだ商業主義だ絶望だというだけのためにこの1200ページを費やしたの? これだけ紙幅費やして何してたの? これ、何の本よ??!! 自分でも何の答えも持ち合わせず、他人を罵倒するだけで事足れりって、何だよ!

スタニスワフ・レム『SFと未来学 II』

そしてその書き方も例によって最悪。本筋の話は本当に何もない。レムが「たとえば」と言い出したら、そのたとえばは本筋の30倍くらいは続く。ちょっと科学的な比喩を出したら、その科学の知見に関するウンチクを100倍くらい散りばめないと気が済まない。でも、そういうものは本筋に何も貢献しない。読者を煙に巻くだけだ。

ということで、そうした余計な部分 (それが9割) のコメントをつけつつ、あらすじをみよう。

あらすじ

メタSF的結び / メタファンタジア

三種類のSFを考えよう!

  • 地震予防ができるようになった!
  • セックスが気持ちよくなくなって人類が子作りしなくなった!
  • 科学そのものの前提を覆す21世紀の新しい宇宙論はこれだ!

(このそれぞれのパターンについて20ページにわたる賢しらな設定解説がつくが、議論にまったく貢献しない)

最初のふたつは、普通のキャラクターが登場する従来型のお話にできる。最後のやつは、その新しい宇宙論そのものを説明したいので、キャラが活躍する余地がない。だから従来型の小説構造ではない、新しい小説構造がいる。

(本書では文学のメタ理論は構築しない、創造活動すべての統合理論も構築しない、ハッチンソンとかクローバーとかがそういのやってて〜、構造の遺伝的系統発生にも関連し〜、と20ページにわたる能書きが続くが、ここでの議論に何の関係もない。)

これまでの物語構造は、いままでの人間 (生物として、社会として) の条件を前提として成立してきた。善悪は、個人/集団/人類の存続にとってよいか悪いか、という話だ。でもこれからはその前提そのものが変わる。そうなると、これまでの物語構造では語り尽くせないものが出てくる。

さらに個人/集団/人類の存続といった明確な善悪基準もあるが、人間は文化的なルールを作って、それに照らして善悪を決めたりする。その文化的ルールが弱まると、文学がそれを疑問視したりすることで成立するようになる。文学は、素材の抵抗が必要だった。いま、そうした文化タブーがあちこちで崩れ、文学は必要な抵抗を失いつつある。

(文化とは、そこでヘンリー・ミラーが〜、文化コードが〜、ナボコフにドン・キホーテが〜、と10ページの能書き。まったくいらない)

さらに素材の抵抗に取り組むにあたり、文学には語り方のお約束があった。ヌーヴォーロマンやニューウェーブはそのお約束をも破壊しようとノイズを入れるけれど、それは破壊のための破壊でしかなく、かわりに何かを提示するものではなくわかりにくいだけ。

(またあちこち脱線してそれを解説してみせるが意味なし)

じゃあそれを受けてSFはどうしようか? これまでのSFは、三つのダメが特徴。

  1. 物語構造の選択がダメ。未来予測的なテーマを、従来の小説構造に押し込めようとしてSFは失敗してきた。それがSFの浅はかさをもたらしていた。

  2. 物語構造の変形方法の選択がダメ。そもそもいままで歴史的な前例のない現象を描くのがSF。そのための物語構造をどう変形するかをSFは考える必要があるが、やってきたのはニュー・ウェーヴの失敗。

  3. 新しい物語構造の構築がダメ。新しい問題(人工知能とかファーストコンタクトとか) のための新しい物語構造を作りあげねばならないのにサボってきた。

そういうのを考えると、SFにはまだまだ見逃しているチャンスがあるんだよ! いろいろきついこと言ったけど、そういうとこに気がついてほしいと思ってのことだからな? な?

あとがき

でもやっぱいまのSFってゴミクズだよな。立派な科学から生まれたくせに、最低の低俗小説に堕してる。複雑な問題が一気に解決されるみたいな幼稚なお話、天国と地獄の両極端しかないバカな設定、深い思索の可能性を捨ててお手軽なカタルシスに走りたがる安易さ。自己批判と改良の余地もない内輪ぼめの自己満足と、商業主義への安住。絶望的だな。(前章の最後でちょっと前向きなこと言っといて、すぐにこれかよ)

 

これでおしまい、とっぴんぱらりんのぷう。

内容についての感想

いや最初に書いた通りなんだ。SFは、新しいテーマにあわせてもっと物語構造を工夫しろ!——その主張はわかる。ごもっともかもしれない。

でもね、なぜその話がいちばん最後に出てくるわけ? そしてそれを言うにあたり、途中の話は何も関係ない知ったかぶりのウンチク開陳。

こういう議論がしたいなら、まずこの部分は本の冒頭に持ってこなきゃいけないだろ。そしてその次に、SFが対処すべき未来学的な新しいテーマについて述べて、SFはもっとやることがある、というハッパかける。

継いで、既存の物語構造の分析ってことで、第2章とかに出てきたSFとファンタジーのちがいとかいう話をしてもいいよ。でもそこで物語構造の類型に少し見通しつけるべきだろ。

そしてその後で、未来学的な関心からSFが扱うべき重要テーマを出していこうよ。その後でテーマ別の分析する中で、こういうテーマなら、こういう物語構造があり得る、これがベストフィットだろう、あるいはいまある構造をこう変えるべき、という話をしていこう。

それでやっと、この「メタSF的結語/メタファンタジア」で挙がっている主張について、自分でしっかりケリをつけたことになるんじゃないの?

それをやらずして、本としての出発点以前のところですべてが終わる——ひどいね。あまりにひどすぎ。

 

もちろんそこで、本論なんかはどうでもよくて、このほとんどを占める脈絡のない知ったかぶりの脱線こそが本書の醍醐味だよ、と言うことは可能だ。

  • 宇宙や物理法則は、実は超絶進化した文明が変えていて、そうした文明がお互いの成果を睨んで、箱庭を作るみたいに宇宙を調和させているのかもしれない
  • SFの発展は、進化の生物系統樹と似たような図に描けるかもしれない。
  • 人間は、本能を失ってそれを文化で補っているが、その文化規範が科学で否定されてきたので、価値観の根拠がなくなって根無し草になっている。
  • 創造活動は、才能だけでなくそれを受け容れる社会的環境と、その分野の成熟度によって大きく左右されるので、そういう一般理論をあらゆる創造について構築できるかもしれない。
  • タブーに反抗する文学は宗教と神聖さが消えてやることがなくなり、各種文化規範の破壊しかできなくなっている

こういう話は、つまらないわけではない。心に余裕があればそれを個別に愛でることもできるだろう。でも、それをきちんと本題とからめつつ構築するのが、物書きの腕ってもんじゃないだろうか。それをまったく脈絡なしにちりばめられても、ぼくはむしろ気忙しいとすら思う。本題8割、脱線2割。最大でも本題6割はほしい。それが本題2割で脱線8割は…… いったいレムの編集者は何をしてたんだよ。

既訳とその解説について

さてご存じの通り、この部分には既訳がある。レム・コレクション『高い城/文学エッセイ』に含まれている「メタファンタジア」だ。

まずそもそも……なんでこんなもんが含まれてんの? いま説明したとおり、中身的には何もない。これが『SFと未来学』の序章だとかいうなら、まだ価値はあるといえたかもしれない。が、これが結論ですと言われて、訳者(およびこの文学エッセイの部分の編者) は「なんじゃこりゃ」と思わなかったんだろうか?

思わなかったんだろうなあ。訳者の説明も非常にピントはずれ。構造主義とか、言葉としてちょっと出てくるけれど、そもそもの論旨とはまったく関係ないのは上をみれば明らかでしょう。長い文なので章や節に区切りました、というのはよいサービス。でも「ひとまず章題と節題を追うだけで、この複雑な論考の概要はたちどころに把握できよう」(p.248) なんてことはまったくない。だってほとんどの部分はレムのただの知ったかぶりで、議論の本題と何も関係ないんだもの。ちょっと見てみよう。

1. SFの類型学    a 三つの可能性    b 文学との対照 2. メタファンタジアの構造 3.  自然と文化と 4. 解体される記述     a 規範からの逸脱     b 禁制からの自由     c 文学的抵抗の証 5. 偶然性・多元性・不確実性 6. 美学と認識論の結婚 7. SF批評の課題
メタファンタジア邦訳の章節分け

うーん、たちどころに把握できましたか? ぼくは無理。2から6の部分は、ほとんど実質的な中身ないもんなあ (知ったかぶりはある)。あとこの章題と節題のつけかたも、個人的にはピンとこない。「解体される記述」……なんのこっちゃ。

翻訳としては、ざっと見たところ決定的にまちがっている部分はあまりなさそう。決して理系方面の話が得意なわけではないのは明らかだが、一生懸命調べている。が、それが裏目に出ている部分もある。たとえば「正規分布曲線」というのを、訳者は「通常の超関数に見られる蓋然曲線」と訳す。えー、なんですか、それは。かえってわかりにくくなっている。もとはただのnormal distributionだ。が、それで大きな実害があるわけじゃない。

ただし唯一、ナボコフの『アーダ』について(無意味に)触れた部分は、こう訳されている。

最近作『アーダ』[一九六九]においても、この書き手は「遊び」の様式によって文化集積としての禁忌(タブー)を利用しており、その際には禁忌(タブー)の領域をパロディ的に束ねられた他の諸関係——家族の血縁関係、近親相姦な恋人同士の手になるいくつかの暗号の関係、「貴族」と「平民」間の関係——へと拡張するという方法が採られている。しかしいくら経験的真理ではあっても、この近親相姦(インセスト)禁忌(タブー)の基本原理までは受け容れるわけにはいかぬ。なぜならすでに見てとれるように、近親相姦関係は不妊性のものである。ゆえに「ともあれ何ものをも生み出すことはなかったと思われる」からである。(p.230、強調引用者)

以前これを見て、「なんかいきなり『受け容れるわけにはいかぬ』とか道徳ふりかざしてるなあ」と思ってレムの道徳性についてコメントしたことがある。が訳者が準拠したというMicroworlds所収の原文は以下の通り:

Elsewhere, as in Nabokov's more recent novel (Ada, or Ardor), the author exploits the cultural arsenal of prohibitions against incest in a "ludic" mode, by extending them to other relations parodistically superimposed over one another: between blood relations of a certain family, between the signs of the code invented by the incestuous lovers, between the "'aristocracy" and the "plebeians."' Even empirical truth contradicts the postulates of the incest taboo, because, as it turns out, due to the sterility of incestuous relationship, “nothing would have come of it anyway.” (Microworlds, p.183)

まったく正反対の誤訳だなあ。山形訳は以下の通り。ドイツ語訳のほうは、原文は切れずに一文でつながっている:

そしてナボコフの最近の長編『アーダ』では、文化の武器庫から持ってきた近親相姦禁忌が「遊び心のある」形で利用され、互いに支え合うパロディ的構造の関係に拡張される(同じ家族の近親者間、近親相姦的な恋人たちが考え出したコードの記号間、「貴族」と「平民」間、そして近親相姦禁忌の主張と実証的真理の衝突も生じる。なぜなら不妊のため「近親相姦の結合からはどのみち何も生まれない」ことになるからである)(p.298)

別にレムは、近親相姦受け容れられないなんてことは一言も言っていない。実はレム、この前のあたりで、文化的なタブーとかはほぼすべて実証的裏付けがないと言っていて、近親相姦でも実証的に何ら遺伝的な害はないのだ、と得意げに書いている。ここで言っているのはそういう話。『アーダ』はいろんな関係、お望みなら昔のSF界で流行っていた「二項対立関係」と言っても良いけど、それを崩してますよ、ということで、近親相姦というコードと実証科学の知見という二項対立すら「どのみち不妊だ」という形でなし崩しにされてますよ、という話なのだ。だから、受け容れないどころか、それをお遊びとしてレムはそれなりに評価してる。

ちょっとこれ、以前書いた文にコメントつけないとなあ。こんな誤訳に基づいていたとは。論旨自体は、他のところから事例を持ってこられるから変わらないけどね。

cruel.org

あともう一つ、Microworldsの英訳は、レムがポーランドの作品とか出したところを削ってるね。全体に影響するほどではないけれど。

おまけの感想:すべてを律する一般理論!

あとぼくがちょっと、この「メタSF的結語」でクスッとしてしまったのは、レムは、創造性の総合理論がもうすぐ実現すると思っているところ。あらゆる創造行為を律する一般理論……

レムというのは、そういうのが好きなのだ。彼はサイバネティックスが科学も経済学も社会学もすべてを統合する総合学になると思って舞い上がった。ここでは創造性の一般理論を思いついて、それがある種の構造分析で統合されると思って舞い上がる。

その気持ちはわかる。物理学で統一場理論とかにみんながあこがれる気分、すべてを説明するネクシャリズム、すべての一般法則を与える歴史心理学、経済学者が一般均衡とDSGEだかDGSEだかにあこがれる気持ち、すべてを律する唯一の指輪…… そういうのにあこがれるのは、本当に人間的なことだとは思う。

"暗い茶色の革のようなテクスチャーの上に置かれた、緑がかった金色の指輪。リングの外側にトールキンの「指輪物語」に登場するエルフのルーン文字(テングワール)が橙色に輝いて刻まれている。中央に光が当たって神秘的に光る、映画『ロード・オブ・ザ・リング』に登場する「一つの指輪」画像。"
One ring to rule them all

そしていまそれを笑うのは簡単なんだろうけれど、1970年頃には、そういうものがどれも実現するかもしれないという夢があったのも事実だ。レムだけが軽薄だったような言い方はフェアじゃないだろう……けれど、あちこちで言うが人生はフェアじゃないし、岡目八目は本当にある。が、微笑ましくはある。

終わっちまった悲しみに:30年越しの感想

しかしやっぱり、すべて訳し終えて、おそらく世界でも数人しかやっていない精読をやった身としては、ちょっと行き倒れを感じてしまう。

訳し始めた頃は、罵倒しつつも、そこはそれレムだから、なんかどーんとすごい視点をだしてくれるんじゃないか、とほのかな期待があった。13章のブラッドベリ/ニューウェーブ論は、最後の盛り上がりに向けた何かの予兆のような期待を抱かせてくれた。でも……

やっぱだめだったか。

そんなすごい理論がなかったことに、「そうだよな、レムといえども無理だよな」と安堵している自分と、眼の前の幻が忽然と消え失せて、呆然としつつぽっかり心に空いた穴に寂しさを感じている自分がいるよ。

SFと未来学ドイツ語版 上下巻

30年、必死で本棚に陳列してあったのは、こんなものでしかなかったのか…… あれほど期待し、恐れをなしていた本は、こんなトホホな代物だったのか。ポーランドの知の巨人だった人物の、渾身の決定版SF論だったはずのものは、実はこんなものでしかなかったのか……

 

ま、こんど全体を通した解説をまとめて書いて、訳者あとがきにしましょうか。それで自分でもこの本にケリをつけることにしましょう。30年越しの希望が、いまやっと灰になって消え去ってくれました。思い残すことがこれで一つ減ったが……それがいいのか悪いのか。

コンピュータがおっかない:スタニスワフ・レム2004年インタビュー

"書斎のぼかした本棚の前でこちらを見る、めがねをかけたスタニスワフ・レムの顔のアップ"
書斎のレム

ナイジェリア行きがキャンセルになって、いろいろ漁っているうちに見つけた、スタニスワフ・レム、最晩年2004年のインタビューの一つ。ポーランドの文芸アート雑誌のインタビューらしい。

ポーランド語で行われたものであり、おかげでポーランドの文壇その他について非常にざっくばらんな放談となっていて、外国語によるかしこまったインタビューとはぜんぜん雰囲気がちがう。他のインタビューだと、質問が羅列になって、その回答をさらに発展させるというプロセスがなかなかない。しかもその質問が「世界平和は実現するでしょうか」「人類知性の限界についてどうお考えですか」とか、インタビュアーが必死で考えたがためにつまんない公式質問もどきばっかになるうえ、「こういう回答が来たら当然つっこむだろ!」と思うのが深掘りされずにもどかしい。でもこれはやりとりがあって楽しい。レムの、それなりに文壇ゴシップも見てる俗っぽいところもうかがえる。

ポモ文学はただの軽佻浮薄な流行、ソダーバーグの『ソラリス』は最悪、ハリポタ (読んだんですか!)はひどい、等いろいろ楽しいし、ぜんぜん知らない人ばかりだがポーランド文壇ゴシップも楽しい。一時レムの英訳者としてがんばっていたマイケル・カンデルの話とか、コンピュータが怖いという話とかはまったく予想外。大喜びして遊ぶかと思っていた。あと、最後に唐突に出てくる死刑賛成というのが、なんだかわからないけどおもしろい。

ダウンロードしてまとめて読みたい人は、pdfがこちらにあります

 

「コンピュータはおっかないんだ」:スタニスワフ・レム インタビュー (2004)

スタニスワフ・レム&パヴェウ・ドゥニン=ヴァソヴィチ

独訳オラフ・キュール、山形浩生+Grok日本語訳

雑誌「Lampa」2004年4/5合併号掲載 (原文はここ)

はじめに

"茶色の長髪で少しハゲ始めた太り気味で中年にさしかかっている赤ら顔のヨーロッパ人パヴェウ・ドゥニン=ヴァソヴィチが、Gジャンをきて青いエレキギターを持ちステージに立ってマイクの前で歌っている写真" 内気なワルシャワ在住の書籍収集家であり、バンド「Meble」(家具)のギタリストであるパヴェウ・ドゥニン=ヴァソヴィチは、本人がどう否定しようと、現在、ポーランドで最も重要な出版人の一人だ。3年前、彼は若手作家ドロタ・マスウォフスカを発掘した。その小説『白赤旗の下でのポーランド=ロシア戦争』は今やポーランドの国境を越えて大きな話題となっている。雑誌「Lampa:文学・音楽・コミック」の創刊も、彼の鋭い嗅覚の賜物だ。ここでは芸術とポップカルチャーが自由闊達に扱われており、多様性に富んだポーランドの雑誌界に決定的な豊かさをもたらしている。SFの大家スタニスワフ・レムもまた、「Lampa」の常連読者である。パヴェウ・ドゥニン=ヴァソヴィチは、彼の大型プロジェクト「幻の図書館」と、いわゆる「想像力の欠如」についてレムに話を聞いた。

翻訳・執筆・物質転送機

スタニスワフ・レム: ……ジェシュフにドイツ文学の研究者がいるんだ――名前はトンチャ(虹という意味の美しい名前)――彼は私の作品のドイツ語訳、特に造語について論文を書いたんだよ。これは非常に良いネタでね。だって当時は二つのドイツがあっただろ――東ドイツと西ドイツ。だから、彼は東側の翻訳と西側の翻訳を比較したわけだ。すごく興味深い研究で、テュービンゲンでハードカバーとして出版されているはずだから、絶対に本になっているはず。原稿をプリントアウトして送ってくれ、後で本もくれた。

ロシア語訳がどうなったかも知っているけど、あれはスラヴ語族だからね。かの遠い大陸から唯一まともに翻訳してくれたのはマイケル・カンデルで、彼は私の『宇宙創世記ロボットの旅/ロボットの歌』をとても上手く訳してくれた。でもその後はやる気を失ってしまった。結局、経済的な動機がとても重要なんだよ。アメリカの作家にフィリップ・ロスがいる。彼が60年代にカンデルに言ったそうだ。「レムは数年以内にアメリカでベストセラーになるよ」とね。するとカンデルは、私のたとえで言えば「私の気球かごにぶら下がった」。私という気球と一緒に上昇するつもりだったんだ。でも実際には印刷部数は控えめで、売れ行きも鈍かった。だって私の書くものは典型的なアメリカSFとは全く相容れなかったからね。それでマイケル・カンデルは完全に手を引いてしまった。うんざりしたんだろう。でもわかってあげないとね、あいつにも家族がいたからね。

それとは別に、私は翻訳の方法や選択に一切影響力を持っていない。フランス人の女性が私の本について立派な論文を全部書いたが、出版社が見つからなかった。そういうことはよくある、まったく普通のことだ。結局、ナボコフが『ロリータ』を書いていなかったら、今頃誰も彼のことを知らないだろう?

 

パヴェウ・ドゥニン=ヴァソヴィチ: 彼にもたくさんの幻の本がありました。例えば『見てごらん(ハーレクイン)を!』。

 

レム:  ナボコフは英語で書いていて、ロシア語で書けないと文句を言ってたよな。そして自分でロシア語に翻訳したが、かなり下手だった。亡命中にロシア語が硬くなってしまったんだ。でもこの機会に言っておくが、当時ロベルト・スティラーがポーランド語訳した『ロリータ』には本当に腹が立ったよ。

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: 『時計じかけのオレンジ』も訳してますよね……

 

レム: うん、それも素晴らしい訳だった。だが『ロリータ』の新しい翻訳を開くと「彼は彼女の節くれだった手首を掴んだ」と書いてある。少女の手首が「節くれだった」だって! スティラー版では「骨ばった」となっていて、若い少女にはそちらが自然だろう。もうホントにがっかりだよ。翻訳者というのは、一度翻訳したらその翻訳の著作権を持つらしい。出版社さえ見つかれば、何度でも翻訳し直せるんだ。

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: ずっと避け続けている質問に戻りますが、なぜ小説の執筆をやめたのですか?

 

レム: SFってこと?

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: いや、小説すべて。(テーブルのタイプ原稿を指して)これがあなたの最後の短編ですよね――泰平ヨンの最後の冒険……

 

レム: でも当然ながら、すごく出来が悪いだろ! どうやら私はもう才能を失ったようだ。この年齢では、それで説明になってるんじゃないか? 親しい友人が何人もアルツハイマーになっている……

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: ヤン・ブウォンスキのことですか?

 

レム: あいつだけじゃない。だがたとえばムロージェクもだ——脳出血を起こした。でもそれ以上に、彼はウィットやユーモア感覚を失ってしまった。もう天気の話しかできない。ああいう才能は消えてしまうものだ。「霊は思うところに吹く」(Spiritus flat ubi vult)というが、私の霊感も薄まってしまったのかもしれない。それに、書く意欲がなくなっちゃってね。昔は1945年から2002年まで、毎朝5時にタイプライターに向かって書きまくっていた。でも今はもう書きたくない。口述ってのは、向いてない……肘の神経が何かおかしくなって、この指(左手を指して)が言うことを聞かないんだ。アメリカの学校で学んだ息子が羨ましい。彼はキーボードを見ずに打てるし、何でもできる。

でも決定的なのは、私たちの生活の速度だよ。とうとう——一つ教えようか。最近、外国語雑誌の定期購読を減らして、英語では『New Scientist』だけにしている。最新号に、個別原子一個ずつの転送(量子もつれ?)が可能になったと書いてあった。するとすぐに「スタートレックみたいに人間をテレポーテーションで送れる!」と大騒ぎしていた。私はこれについて60年代初頭に書いた。『対話』だ。第一の対話で、パラドックスが描かれている――テレポーテーションで送られた人間は、元の人間と同じ人物なのか、それとも類似の人間なのか? 送り出した側は、複製の出現によって[訳注:オリジナルを破壊することになるから]知らぬ間に殺人を犯すことになるのか、それとも本物を本当に送ったのか? これに明確な答えはない。ドイツの哲学者グレーフラートがこれについて4冊の本を書いたし、他の人も取り組んだが……明確な答えはないんだ。

もちろんこれは抽象的な問いだ。誰も何も知らない。私はこれは慣習の問題だと思う。誰かが「パパが星から帰ってくる、ただしその過程で死ぬ」と言ってもいい。でもパパの原子プロフィールを持っているので、それを機械に入れるわけだ。するとパラドックスめいてくる。パラドックスの地獄にはまる。まともな哲学者たちはこの問題に近づかない。客観的でいるのが難しいからだ。でもこれはすごく興味深い問いだ。君は月までテレポーテーションされたくないか?

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: そんなことできるんですかねえ。

 

レム: 私はしたくない。ここで自分の椅子に座ったまま、最後までここにいたいんだ。

映画・コンピュータ

ドゥニン=ヴァソヴィチ: その話で思い出しましたが、デヴィッド・クローネンバーグの映画『ザ・フライ』。あのテレポーテーション装置の中に、ハエが一匹入り込んでしまって……

  "映画『ザ・フライ』(1986年)の公式ポスター。黒い背景の上部に緑色に光るタイトル『THE FLY』が大きく表示され、中央には暗い中に黒いまゆのような転送ポッドの入り口から光があふれ、そこから巨大な昆虫の脚のようなものが伸びている。中央右に『Be Afraid. Be Very Afraid.』のキャッチコピー、下部にデヴィッド・クローネンバーグ監督、主演ジェフ・ゴールドブラム、ジーナ・デイヴィスらのクレジットが記載されたホラーSFのクラシックポスター。"

レム: 知ってる、知ってる。

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: ……遺伝子が混ざってしまうってやつ。

 

レム: いやまあ、あれはハリウッドの大好きな子供騙しの類だよ。ソダーバーグが『ソラリス』を作っただろう——それがあのざまだ。タルコフスキーよりひどいものができるはずはないと思っていたんだが……

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: でも最初は、新作『ソラリス』を気に入ったような発言をされていましたよね!

 

レム: 気に入ったなんて一言も書いていない。不満だとも書いていない。それは話が全然ちがう。善人の泥棒と、上手な泥棒とは違う*1。明確な違いがある。

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: 本の話に戻りましょう。ソダーバーグ版『ソラリス』には、あなたの小説の物語が基盤にしていた、各種の架空の本が登場しません。代わりに伝統的な詩集ばかりが出てくる。本はそうなると思いますか? つまり実用書は形態を変える一方で、純文学は紙の本として残っていくと思いますか?

 

レム: それはねえ、こういうことだ。この書斎には、私の蔵書、約8500冊くらいがあるが、そのうち7-8割は完全に時代遅れだ。特に哲学書が多い。でもどうしても捨てられない。これは感情的なつながりの問題だねえ。私の教養は全部これらの本から得たんだから、捨てられやしないだろ? 古くなったというだけで? 非合理的な要素ではあるんだだ。理性的に考えれば、時代遅れの本は全部地下室にやって、今日もっと真実に近いとされる本に置き換えるべきなんだろうがね。個人的にデリダは全く好きじゃないが、彼のドイツ語版はここにある。それから第二に、イメージの時代――テレビやコンピューター――の話に入ると、私はコンピューターやスキャナー、そういうガジェットがおっかないんだ……

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: コンピューターが怖いのは、使い方がわからないからですか?

 

レム: その機械で書きたくないし、今となってはもう書けない。たとえ書きたくてもね……そのために秘書がいる。最近、韓国の版権契約書にサインしなければならなかったが、私の手に負えないので全部彼に任せた。彼がやってくれてそれで終わりだ。

最初の5〜6冊の翻訳を手にしたときは嬉しかったが、45冊もいろいろな版が出てくると、もうどうでもよくなってくる。ちなみにアメリカ人は、書籍だけでなく情報が多すぎると読者を混乱させると気づいたらしい。だから人々を過剰な宣伝で煩わせない方がいいと。幸い、うちのテレビは本の宣伝をほとんどしない。ほとんどゼロだ。ごくわずか。私はドイツのテレビは見るが、ポーランドのテレビは見ない。見たら卒倒しそうだからね。

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: コンピューターで書かないし、怖いとおっしゃいますが、でもハイパーテキストは予見していましたよね。

 

レム: それは別問題だよ。頼むよ、コレラを予見しても、コレラを愛さなければならないわけじゃないだろう?

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: あれは確かエク……あれ、パッと出てこないな(『虚数』をめくりながら)……エクステロペディアだ……

 

レム:  ほっほっほ、このエクステロペディアに何やら弱みをお持ちですかな。

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: はい、そうですねえ。だって、あの本はあなたが嘲笑している未来予言的な部分を別にすれば、まさにアップデートできる本じゃないですか。たとえばインターネットの百科事典はすでにあります——wiem.onet.pl ——一週間前にヤツェク・クロニが他界したら、次の日にはもう彼の項目が更新されていました。

 

レム: 息子はネットに夢中で、食事のときに私が「こんなことがあった」と言うと、もう全部知っているんだ。

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: そうですね。ぼくはもう新聞なんか買いません。『ガゼタ・ヴィボルチャ』のページをクリックすれば、知るべきことはわかっちゃいますから。

 

レム: 私は「ヘラルド」(International Herald Tribune)を読んでいる。あれが世界だ。ポーランド人はみんな自分のへそばかり見ていて、ポーランドのことしか興味がない。

架空の本・小説

ドゥニン=ヴァソヴィチ: 架空の本の話に戻りますが——あなたの架空の本を本棚に並べるとしたら、どう並べますか? 確か200冊近くありますよね。

 

レム: 特に並べたいのは、君が「幻の図書館」で挙げていない本だな。『完全な真空』と『虚数』に載っているものだ。後ろから始めると、ちゃんとしたものがある——『新しい宇宙創造説』。これはノーベル賞受賞者の講義形式で、なぜ宇宙がこうなっていて、他の形ではないのかを考察したものだ。あれは本の要約ではなく、完全に架空でありながら一貫したテキストだ。他のものについては……

ドゥニン=ヴァソヴィチ: 本棚に並べるとき、作中で単なる小道具として出てくる本と、本当に重要な本を混ぜて置きますか?

 

レム: 逸話を一つ話そう。『完全な真空』に出てくる『親衛隊少将ルイ17世』[訳注:正しくは16世]を、ベルリンにいたポーランド人の監督が映画にしたいと言ってきた。脚本作りに苦労して、結局何もできなかった。一つ目は金がない、二つ目は脚本がない、三つ目はプロデューサーがいない……という具合だ。しかし、あの本は役に分けて展開できる構造を持っていることはわかった。つまり、一部の架空の本は、実際に本を書くための「レシピ」や「雛形」として使える。他のものは無理だ。例えば、読者をただ罵倒したり唾を吐きかけたりするだけの本は、到底映画や本にはできない。

私自身はそんなことはどうでもいいんだ。架空の本から実際に小冊子を作って本棚に並べられるかどうかなんて、心底興味がないし、肝心でもない。むしろ異様なこととして、君たちが作ったこの素晴らしいもの(レムは「幻の図書館2004」*2を指して)——これはまちがいなく君たちが誇るべきものだよ。君自身が言ってたが、なぜわずか10部しか刷らなかったんだ?

 

"本の表紙。淡いベージュ色の背景に、赤い文字で著者名『paweł dunin-wąsowicz』、大きなタイトル『widmowa biblioteka』、下部に『leksykon książek urojonych』と記載されている。中央には幻想的なイラストが配置され、海辺に立つ円形の塔のような古風な建物(本棚やアーチ状の窓がある図書館風の構造物)の内部に、帽子をかぶった男性が本を読んでいる姿が描かれている。ポーランド語の書籍『幻影の図書館 ― 架空の本の辞典』表紙。" ドゥニン=ヴァソヴィチ: あなたに直接お渡ししたかったからです。

 

レム: でも価値があると思わなかったのか?

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: ただの下書きですから。

 

レム: もし出版社が来て「1万部で出版したい」と言ったら?

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: そしたら半年かけて手持ちの追加資料を整理し、次に索引をきちんと整える人を雇ってくれと頼むでしょう。

 

レム: でもそういう大量出版には徹底抗戦しないのか?

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: 初版はすでに1000部刷りましたよ!  最初の「幻の図書館」はぼくの虚栄心の産物でした。「これだけの本を読んだぞ」と自慢したくて、何冊か追加して見せびらかしたんですよ。でも今では、あの本はむしろぼくの読書歴の大きな穴を露呈していると思うんです。それから、存在しない本を「読む」のが楽しくなってきた。特にあまり知られていない本から取ったものが好きなんです。

 

レム: あまり知られていない本といえば、少年時代に『オルキシュのテレビ装置』(Telewizor Orkisza)を読んだことがある [Lampa Nr. 2, s. 91参照] 。今でもあの印象は鮮明だ。当時12歳だった。

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: クラクフで一日で2冊も見つけたときは驚きました。

 

レム:  そうだね、驚くべきことだ。

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: スムシュキェヴィチとニェヴィアドフスキの辞典はその本に言及さえしていないのに。

 

レム: ドイツ人とソ連人がすべてを破壊した。図書館も焼き払われた。ワルシャワの図書館はすべて灰になった……残ったものなど、ほとんど価値がない。もちろん他にもあったが、あの本たちの運命——ウェルズの本でさえ——が教えてくれるのは、非技術的な未来を予測するのは無意味だということだ。技術的な未来は予測できるが、政治は予測不能だ。なぜなら政治は非合理的で誤った決定の連鎖に過ぎないからだ。第一次世界大戦の宣戦布告は間違いだった。ツァーリは乗り気ではなかったが、強制された。第二次世界大戦は狂ったヒトラーのせいで、百年戦争、三十年戦争——どれも筋が通っていない。最近バチカンが「魔女の火刑の数は大げさに言われすぎていた」と発表した。だが焼かれたのが1000人であれ100人であれ、何のちがいがある? 火刑に処された事実は変わらなだろう。さらに一人のドイツ人学者が「禿げ山でのサバトの痕跡」を探したが、どの文献にも一切出てこないんだ! 邪悪な魔術とかサタンと野合しているとか言われて火あぶりになったあの女たちは皆、無実だったんだ。少し頭がおかしかったのかもしれないが、罪はなかった。

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: 『完全な真空』と『虚数』が出た後、多くの批評家があれを「文学の可能性は尽きた」という宣言や風刺と解釈しましたが、それでも10年以上にわたって小説を書き続けたのはなぜですか? それがあなたの天職だったからですか?

 

レム: まずスープを食べ、次に肉料理を食べ、それからデザート、場合によってはコンポートを食べる。なぜデザートだけに絞らなきゃいかんのだ? 一本道を走る理由など全くない。私は幸い比較的自由な人間だ。「ティゴドニク・ポフシェフニ」、つまりではキリスト教的価値観に縛られるが、以前はマルクス主義的価値観が神聖不可侵だった。だからイソップ的な手法を使って自分の考えを表現してきたんだ。 ある人は私の作品の8割は共産主義からの逃避、宇宙への逃避だと言うが、どうなのかねえ。意識的に逃げたつもりはないし、そんなつもりもなかったんだから。

そしてなぜ『完全な真空』がもっと大著にならなかったのか? アイデアがあったんだよ。「速度の問題」という本の物語を書きたかった。歴史の加速に伴って、社会体制の寿命も加速するという話だ。舞台は精神病院で、体制が次々と入れ替わる——左が右になり、右が左になる……。当時はそのアイデアを捨てたんだが、今考えると、当時に比べてそれがばかげているとは思わない。でもあのときは気に入らなかった。ハーバートが言うように、好みの問題かもしれない。

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: あなたのウェブサイトに、ヤン・ゴンドヴィチとの対談の記録がありましたが、そこでは「私は想像力ではなく言語で作業をする」と言っていますね。

 

"2002年映画『ソラリス』の日本版公式ポスター。宇宙空間を背景に、ジョージ・クルーニー (ケルヴィン役)が右手でハリーの金髪の頭を抱きしめ、物思いにふけるような表情で上部に配置されている。下部には巨大な青紫色に輝く惑星『ソラリス』と、それを取り巻く宇宙ステーションが描かれている。中央に大きく日本語タイトル『ソラリス』と英語表記『SOLARIS』、上部に『ジョージ・クルーニー主演 スティーブン・ソダーバーグ監督』などのクレジット、下部にキャッチコピー『人類は、まだその惑星に正気を持ち込んではならない。』が記載されたSF心理ドラマのポスター。" レム: 視覚化はしない、それは本当だ。例えばソダーバーグが映画を作ってから、ようやく各種の異国情緒が見えるようになった(笑)。

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: 『ソラリス』はヴォイチェフ・ハスが撮るべきだったと思います。

 

レム: どんなもんかねえ。

結局、私は「儲かるからOKしろ」と言われたわけじゃなくて、「ハリウッドの特殊効果のすごさを知らないだろう」と言われてそれを信じたからOKを出したんだ。あの馬鹿野郎……もとい監督が、あれを恋愛物語に仕立て上げるとは思わなかった。あれにはすっごい腹が立った。宇宙での恋愛なんか、なーんも興味ないよ。あれはただ、至高の愛の背景にされちゃったんだ。

それに、私は育ちが良いから、ソダーバーグに派手に噛みついたりはしなかった。そんなことをしても意味がない。ここにアメリカの映画評の山を持っているが、みんな控えめに書いていた。ソダーバーグが有名だったし、主演俳優も超有名だったから、誰も本気で叩けなかったのだろう。アメリカの大学の成績でいうAマイナス、Bというところだ。それに作者があれこれ文句を言うのも、礼儀正しくないからね。

私は『ブッデンブローク家の人々』の映画を見たが、ひどい出来だった。トーマス・マン原作は基本的に良い小説なのにね。作者にとって映画化は運次第だ。良い映画化はめったにない。

想像力・好き嫌い・ポーランド文壇

ドゥニン=ヴァソヴィチ: 「想像力」についてお尋ねしたのは、ちょうど雑誌「Opcje」の最新号に、キングァ・ドゥニンとスタニスワフ・ベレザが6年前にヘンリク・ベレザと行った対談が載っていたからです。ベレザはこう言っています——

「レムは私にとって作家ではない。卓越した知識人だ。彼のキャリアは完全に値するものだが、芸術的な執筆において想像力がどのような役割を果たすのか、彼は全く理解していない。」

 

レム:  ああ、もちろんあいつがそう言う権利はあるよ……。私はここに英語版の本が何冊もある。表紙には書いてないが、『技術大全』や『偶然の哲学』などだ。ドイツ人も私を哲学者扱いして、哲学的に薄めた本を手すさびで書く作家だと見なしている。そういうのは止めようがないやね……

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: 想像力については? あなたはイメージで考えますか、それとも言葉で、言語で考えますか?

 

レム:  面白い話がある。最近、ロスナーが他界した親友ヤン・ユゼフ・シュチェパンスキの本を持ってきてくれたんだ。『ろうそくの光での食事』という本。見てないかい? 短編集で、とてもできがいいしそれを読むと、彼が「ポストモダニズムなどというものは全く存在しない、あれは上っ面であり、一時的な流行に過ぎない」と言っていたのが100パーセント正しかったことがわかる。彼は目に見える現実の世界に正義を果たしている。それは非常にコンラッド的だ。彼はそれに深く没頭していたが、私はどうか? 変な話だよ。彼は私の最も親しい友人だったのに、私の本の中では『高い城』——つまり私の幼年時代を描いたもの——を一番気に入っていた。SFというやつは好きじゃないというんだ。私も例えばほうれん草が嫌いだ。うちの家族は「なぜアスパラガスが嫌いなの?」と不思議がるが、嫌いなんだよ、あの白い奴が。結局、好みの問題だ。

はっきり言おう。私には約2900万人の読者がいる。そのうち「絶対に読めない」と言った人はごく少数派に過ぎない。私の作品は子供向けの本にも入っている。『世界はかくして救われた』はすべての教科書にある。だからそんなにひどいはずもない。だが、「自分はそんなものは書かない、なぜなら興味がないからだ」と言う人がいるのはわかるよ。

要するにだね、個人の恋愛のもつれ、互いに多少なりとも恋に落ちて、ついにセックスに至るかなんて話は、私には全く興味がない! 昔から興味がなかった! 完全に冷めている。むしろゾウや恐竜の交尾の方が興味を引くよ。あれは大きくて動きがあるからね。でも人間? お断りだ。

文明の歴史、社会体制の歴史、なぜある集団が他を襲うのか……マルクス主義は狂った理論だった。なぜスウェーデン人は一時期、肉食魚のように、鮫のように暴れ回ってポーランドを食い尽くしたのか(シエンキェヴィチの三部作に書いてある)——そして突然それをやめたのか? なぜある世代のドイツ人はヨーロッパを襲い、多数のポーランド人とユダヤ人を殺したのか? ところが今や、ドイツの大臣が「テロリストが死を望むなら、与えてやればいい」と言ったら、ドイツのメディアは大騒ぎだ。「我々ドイツ人は誰の髪の毛一本傷つけたこともないのに!」……どうしようもない。社会の運命の方が、個人の運命よりよほど私には面白い。誰かが幸せに恋をして、または不幸に恋をして、2階から飛び降りたか喉を掻き切ったか、それが楽しかったかどうか——私の知ったことかね?

さっきベレザの話を引用したね? あいつはベレザと話したのかな? ベレザはすでに無数の人間に「作家の叙任」を与えたという噂だ……(「Opcje」から抜粋を苦々しく読み上げる)「レムなどという人間はいない。レムは存在しない。あのアメリカのSF作家——もう死んでいるが——ディックが書いたように、レムは存在せず、KGBも皆がレムの名前を使って活動している」……だとさ。

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: それでも、あなたとディックのテーマにはいくつか重なる部分があります。例えば『泰平ヨンの未来学会議』での現実が化学的な幻覚であるというモチーフと、ディックの『われらの父たちの信仰』……

 

レム:  ああ、確かに。

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: あるいは『完全な真空』の中の「ビーイング株式会社」——すべてが課金される世界——と『ユービック』での似たような有料化のモチーフなど。

 

レム: うん、あれだってSFだろうに。別の名前を付けてもいいがね。私は批判なんか一切意に介さない。唯一意味のある批判は、本が翻訳され、よく売れるかどうかだけだ。詩人は別問題だ。詩は翻訳で失われる。翻訳は詩にとって致命的だ。数日前、ここに若いロシア人女性が二人来た。彼女たちは私が作家じゃないとは思ってなかったよ。ベレザほど情報通ではなかったらしいな。翻訳の話をしたんだ。私はプーシキンを引用した——「Я помню чудное мгновенье」(素晴らしい瞬間の記憶)と(笑)。翻訳は字義通りに正確だが、詩はその過程で消えてしまう。彼女たちが理解しているか確かめるために——片方はソ連時代を全く覚えていなかった——「Люблю грозу в начале мая」(五月初めの雷雨を愛す)という句の出典を知っているかと聞いた。すると彼女たちは喜んで「チューチェフ!(もちろん)」と言った。当然。チューチェフ。私はロシアの抒情詩をよく知っているので、その瞬間、相手がどんな人物かわかった。

私はインタビューに来てくれる人を歓迎するが——こんなことを言うのを許してほしいが——しかし馬鹿は怖い。馬鹿と話しても、何も新しいことを学べないし、向こうも賢い質問ができない。これはとてもデリケートな問題だ。

ベレザはといえば、あいつはヤルジェブスキがかつて「苔頭」と呼んだ男だ——あいつには特徴がある。あいつは何十年も同じ意見を変えないんだ。脱帽するよ。全く変わらないんだから。

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: 「Opcje」に載った対談も同じです。聴き手は彼に自分の意見を浴びせかけるんですが、戦車のように跳ね返される。

 

レム: 「Odra」誌に「Lampa」について書いたとき、フヴィン (Stefan Chwin) を少し疑問視したんだ。プシェムィスワフ・チャプリンスキと同じように——彼はもっと慎重に表現したが——フヴィンは自分の知識を振り回す虚栄心の強い教養ブルジョワだと思う。それはまだいい。しかし悪いのは、彼が点数をつけ、ランキングを作る点だ。「この作家は二流だ」と。例えばヘルリング=グルジンスキを。フヴィン本人が「自分は二流の作家だ」と認めれば話は別だが。あいつが何を書いた? どこに彼の至高の作品がある?

私たちは時間がいかにすばやく過ぎ去るかを自覚していない。スタシュークはもう年配の紳士だ。オルガ・トカルチュクも40過ぎだ。これからが散文作家が本格的に生産的になる時期だ。トカルチュクはとても良い作家だが、ポーランドの未来について書くよう頼まれたとき、彼女はパテル・バジリ神父について書いたんだ。あんな人物が何の関係がある? そんなことをしても、笑い鳩は決してナイチンゲールにはならない。

忘却・ハリポタ・死刑

ドゥニン=ヴァソヴィチ: これで「架空の本」についての用意した質問はほぼ終わりです。前半は録音できませんでしが、大事な部分は再現できます。例えば、あなたは原稿を捨ててしまうということなど。

 

レム:  その通りだ。捨てなければ、この部屋は床から2メートルまで紙で埋もれるだろう。トゥロヴィチが亡くなったとき、フィアウコフスキが後始末をしたが、部屋の中は新聞の切り抜きの山の間の細い道しかなかったという。私たちはそういう生き物だ……何か見つけたときは人生の幸運な瞬間だよ。

ちなみにあのベレザという男は、私ととても好意的な対談をしたが、その後「Puls」に中傷記事を書いた——『スタニスワフ・レムの社会主義リアリズム的(偶然の)出来事』というタイトルだった。私は彼に手紙を書いて、事実誤認だと指摘した。彼は「モスクワが命じた社会主義リアリズムがレムに大きな影響を与えた」と書いていた。私は答えた——それがモスクワで強制されたとき、私は7歳だったんだよ、と。レンベルクのブルジョワの医師の息子だった私は、モスクワで何が起きているかなどほとんど興味がなかった。私たちは完全に遮断されていた。そんな具合だ。彼はそのときは折れた。しかし後でオーストラリアでポーランド語の私の作品論集が出たとき、この忌々しいベレザは「Puls」の全文を、事実訂正を一切せずに載せてしまった。私は彼に手紙を書いて、不快だと伝え、今後私の名前を彼の名前と一緒に扱わないでほしい、真理に対する敬意がないからだと伝えた。彼は了承し、この一件は終了した。

言っておくが、こんなに多くの言語に翻訳されている作家なのに、手紙はあまり来ない。この退役したポーランド人民軍の中佐を除いて。彼は私がピウスドスキ派を公言したことに腹を立てて怒鳴ってきた。一度だけ、バルト海から来た狂人の手紙で、「どうしてヨハネ・パウロ二世が猿人間なの、よくもカトリック紙に書けるものだ」と非難された。そんな手紙ばかりだ。

ところで、ベレザはあの哀れなマレク・スウィクも重要な作家だと思っているのかね?

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ:  それはぼくにもわかりませんよ。ぼくはスウィクというと、スープをテーマにした三部作を連想するだけですが……まあ、きっとそう思っているでしょう。

 

レム: あと、別の世代の作家にシューベルトというのがいて、『Trenta tre』を書いた……

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: ……それと『パンナ・リリアンカ』ですね。

 

レム:  かつてシュチェパンスキと『ティゴドニク』で彼について議論したことがある。私はあの作品を独創的だと思った。彼はポズナン方言に対する絶対的な耳を持っていた。私たちには好みでなかったかもしれないが、それでも価値はある。聞いたところでは、今のシューベルトは野菜の行商をしているらしい。

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: 今の50歳前後の作家たちは、ぼくの世代とは全く違うので、全然知りませんよ。『Trenta tre』は読みましたが、『パンナ・リリアンカ』は噂で聞いただけです。スウィクの三部作は古本屋で買ったが、途中までしか読めなかった。

 

レム: 退屈だった。私は文学は面白くなければならないという、素朴な考えを持っているんだよ。トーマス・マンの『フェリックス・クルル』は非常に上手く書かれている。あの中に、詩人の女性とリフトボーイがベッドに入る大きなエロティックな場面があるが、ポルノの欠片もない、完全に非性的だ。あれは本物だ、残る文学だ。どうしてそうなるのか、誰もわからない。ジグニェフ・ウニウォフスキも大好きだ。ゴンブロヴィチは自分が彼を殺したと言っていた——故意ではないが、風邪を引いて見舞いに行き、感染させて肺炎で死なせてしまったと。ゴンブロヴィチは好きかね?

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ:  あまり好きではありません。でもウニウォフスキのブラジル報告記を読んで素晴らしいと思った。タイトルは『Gold in...』

 

レム: うんうん、……ああ、私もタイトルを忘れてしまった。

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: あの作品には、彼のガイド役の人物が巧みに描かれています。気取った在外ポーランド人で、やっと最後になって作者が「これは複数の実在の人物を合成した架空の人物である」と明かす。あれはヴァウコヴィチがやっているのと全く同じタイプの「事実文学」ですね。

 

レム: だが君の発言からしと、やはり本を読むのがお好きなんだな。

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: あなたは「レムの法則」——誰も本を読まなくなり、読んでもすぐに忘れてしまう——を提唱していますが、あなた自身は何を本当に忘れてしまったのですか? 『完全な虚無』の序文では、あらゆる百科事典を貪り読んだ人物として自分を描いていますが、主に何を忘れたのですか?

 

レム:  私はベレザとの対談を読み返し始めて、自分が彼に話した内容をほとんど覚えていないことに気づいた。あのときはできるだけ記憶に留めようとしていたのに。人間の記憶というのは非常に頼りなく、腐食しやすいものだ。都合よく脚色されたり美化されたりする。人は一般に美化したがるし、特に恥ずかしいことは抑圧したがる。だが私は自分の恥ずべき行いなんか記憶にないから、知っている限り正直に答えたつもりだ。君が尋ねているのは、私が自分の本について忘れたことか、それとも一般的に忘れたことかい?

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: 主にご自分の本についてです。

 

レム:  『マゼラン雲』に書いたことを忘れようとしたが、うまくいったかどうか。あれはひどい本だ。あの「セサム」は全く駄目で [訳注:『火星からの来訪者』かな?]、『金星応答なし』も最悪だった。

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: でも覚えてはいらっしゃるんですね。

 

レム: 大筋はぼんやりと覚えている。徹底的に忘れさせてくれる薬があるらしいが、まだ飲んでいない。私はごく些細なことを忘れる——作家の名前などが多い。『ポーランド文学辞典』が20万部も刷られたが……

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: あの赤い二巻本ですか?

 

レム: そうだ……あれは死体愛好だ。ぞっとするよ。作家は棺の蓋が閉まったら終わりだ。君の作家たちに忠告しておきたまえ——ヴィスカ*3、つまりシンボルスカを「高齢のノーベル賞受賞者」などと呼んではいけない。「老人」と呼んでいいのは私だけだ。老人になるのは驚くほど簡単だよ! 30〜40年生きれば、もう老人だ。若者はもちろん自分の場所を勝ち取らなければならない。それは当然だ。70年前に良い本を書いた人は、今ではもう忘れられている。私は長い間、シュチェパンスキ再版のために戦ってきたんだ。結局ロスナーが了承してくれた。今はフィリポヴィチが出ているが、あいつは良い作家だった、長編だ。 こないだ片付けをしていたら、7年前の『シュピーゲル』特集号が出てきた。あの頃「傑作」と呼ばれた本が、今では誰も知らない。そして今や『ハリー・ポッター』旋風——読んでみたが、読めたもんじゃない。

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: 『ハリー・ポッター』の話が出たついでに、あの小説には非常に多くの架空の本が小道具として出てきます。そして驚くべきことに、J.K.ローリングは後になって、その中のひとつ(ニュート・スキャマンダー『幻の動物とその生息地』)を実際に書いてしまいました。そして2年前にポーランド語訳が出ました。最初は幻の本だったものが、現実になったわけです。

 

レム: やればできるってことだな。

 

ドゥニン=ヴァソヴィチ: それに、小説に出てくるお菓子も実際に売られているんですよ。フィクションの現実への侵入です。

 

レム:  それはよくわかる。私も尖った魔法の帽子をかぶった子供たちが走り回るのを見たよ。私の時代のカール・マイの『ウィンネトゥ』——赤肌の紳士——と同じだ。当時はどのショーウィンドーや露店にも羽根飾りとカール・マイの本があった。今ではマイを読む人なんかいるかね?

あれは流行だ。いずれ消える。パンタ・レイ(万物は流転する)だよ。Mundus vult decipi, ergo decipiatur(世は欺かれたいと望む、ゆえに欺かれる)。

そして最後に書いておいてくれ——レムは死刑の熱心な支持者である、と。拷問はまだだが、死刑は支持している。

*1:独訳者:ここ、ドイツ語に訳せません。許せ <--邦訳者:許さん。がんばれ。ポーランド語がどうなっているのかわからないが、文脈的に「良い泥棒」と言う時、その人が善良だという意味なのか、腕のたつ泥棒という意味なのかはちがう、ということでしょ。映画として達者にできているのと、それが自分の意にそったよい映画というのとでは別、ということじゃないかと思う

*2:Justyna Jaworska, Jan Sobczak, Krzysztof Varga, Paweł Dunin-W. Sowicz (eds.): Widmowa Biblioteka 2004, Lampa I Iskra Boza, Warszawa 2004, 610 pp. 他の本に「つきまとう」架空の本の不完全にして拡大を続けるカタログ.

*3:いささか余計な説明だ。というのもレム『虚数』でビット文学 (コンピュータが作った文学) の歴史のついての本の序文で、「ウィシュカ」という単語(邦訳では「垂れ電」)は機械生成の新語でケーブルカーを指すと書かれているからである。<--日本語訳者にはちょっと意味がわからないが、ノーベル賞作家のヴィスワヴァ・シンボルスカの愛称と、参照された文献の一致を示しているだけで深い意味はない模様。

スタニスワフ・レム『SFと未来学』15章 メタ未来学:何のためにある章なの?

はじめに

はい、最後のパート、結論部分……と思うでしょ? ちがうのよ、これが。言い残したでかい話を落ち穂拾い的にしときますよ、というだけで、本全体のまとめとか総括とかでは一切ない。

この最初の部分は「メタ未来学的結び」なんだけれど、同じことを狂ったように繰り返している。

  • 文化は虚構であり、必ずしも合理的な根拠はない
  • 科学は文化的な規範が根拠レスだと暴くけれど、かわりのものは提供しない
  • 虚構の文化が果たしていた社会的役割、価値設定、充足感の提供といった役割を果たすものがなくなってやべーぞ

これだけなの。でも、未来学はどこに出てくるの? 未来学は、その科学の一つだ、というだけ。

スタニスワフ・レム『SFと未来学 II』

あらすじ

  • 人間は、本能を失った不完全な動物なんで、かわりに文化を創りその中で生きる。
  • 文化は虚構であり、必ずしも合理的な根拠はない
  • 科学は文化的な規範が根拠レスだと暴くけれど、かわりのものは提供しない
  • 虚構の文化が果たしていた社会的役割、価値設定、充足感の提供といった役割を果たすものがなくなってやべーぞ
  • 未来学は、新しい価値観とか新しい理念を要求するけど無理。価値観や文化って「こう感じるべき」といわれて「はいそうですか」と受け入れられるようなものじゃないから。

感想

はあ、そうですか。その通りですねえ。それで? この話はいったいここで何の役割を果たしてるの? SFと何の関係あるの? 話の流れの中でどんな役割果たしてるの?

短い章なのに、その中で上の話が狂ったように繰り返される。別にそんな突拍子もない話ではないし、細かく説明する必要もないと思うんだが……

SFがそうした文化の役割を補えるとか、科学と文化の橋渡しできるとか、そういう剛毅な話になるのかと思ったけど、そういう議論の連続性を考えることなく、話はあっさり放り出される。なんですの?

次で最後!

さて、次は最後「メタファンタジア」こと「メタSFについての結び」なんだが、レムの主張はこのメタ未来学と同じでつまらん。そしてそれだけでなく、日本語の翻訳「メタファンタジア」が、それをさらにわけわからなくしていることについても言及せざるを得ない。

最大の問題は特に最後の部分で、批判/非難をすべて、「批評」にしてしまっていること。これまでずっと本書でレムは、英米SFを罵倒し非難してきたでしょ。最後の部分は、そういう罵倒や非難に何の意味があるのか、という弁明なのね。SFが文明の問題や未来の考察をしてない、という非難のことだ。

ところが巽孝之の訳はこれをすべて「批評」にしてる。クリティークだから批評、というわけ。でもそれはレムのやったこと、本書のコレまでの文脈を完全に歪めてしまっている。そういう話じゃないんだよね。

あと、以前レムの変に道徳的なところの話として、ナボコフの『ロリータ』はタブー破りですばらしいといいつつ、『アーダ』は近親相姦で不妊だから受け入れられない、と述べているのを引用したことがある。

cruel.org

でも、該当するところ読むと、ちがうじゃん。そんなこと書いてないじゃん。ちょっとこれが巽孝之の訳のせいか英訳のせいかも調べないと。面倒だなあ。

が、もうすぐ終わるぞ!

レム『SFと未来学』第14章:ユートピア論……なのか、これ???

はじめに

はい続き。スタニスワフ・レム『SFと未来学』第14章「ユートピアと未来学」。SFの定番であるユートピア/ディストピア小説。

前章はすばらしい章で、レムのやりたいこともわかったし、その鑑識眼もわかった。なもんで、この章についても期待は高まっていた。少しは欠点があっても目をつぶってあげるくらいのつもりではいた。が……ちょっとこれまでに輪をかけたひどさで、いささか頭にきてしまったよ。

まずユートピアとかディストピアというので、オーウェル『1984』とかハックスリー『すばらしい新世界』とかの話が出てくるのかな、と思うでしょう。でも、そんなのが一切出てこない。出てくるのは、まずボルヘスの話。

なんだこれは。ボルヘスは嫌いではないが、「バベルの図書館」がユートピア小説?

次いで出てくるのがステープルドンの『最後にして最初の人間』。長大な、数十億年にわたる人類史と言っていいかもわからないものを、一行数千万年の速度でぶっとばす、年表小説。これのどこがユートピア小説なの?

そしてその後もハインライン『動乱2100』の未来史年表を持ち出す。あれが何かユートピアにせよディストピアにせよ、そういうものを描いているとはまったく思えないんだが……

もう、いったいレムが何を論じたいのかさっぱりわからなくなってくる。必死でこじつけてみると、どうもレムは何か将来についてのある種の観念に沿った世界のまとまりを描けば、それがユートピアということらしい。つまり未来予測的なものがあればユートピア小説の範疇だ。

 

いや、それはまったく一般性のない理解だろう。そんなのユートピアじゃないよ。

 

そしてその後は、SFのバカどもはつまらない技術予想は多少あっても、それが社会や文化に与える影響をまったく考えていないからだめだ、と例によって罵倒が続く。特にディストピア系の小説では、すぐにみんな部族社会や中世の封建制や神権政治の復活。理想郷か地獄かの二者択一しかなくて、中間の現実性あるモデルがまったく考慮されていない。だからクズばかりだ。

じゃあ最後にオレ様が模範演技を、と言って、何やらいかにもすごそうな27世紀の科学技術の水準をめぐる設定集をあげてみせて、さあそれでこの技術に基づく社会文化の見事な考察が出るんですか、ワクワク、と思ったら……

いろいろ複雑でむずかしいよねー。完全管理と自由の板挟みでまとまらなくなる。そういうの頑張って考察しないとねー。

それでおしまい。おまえさ、人にさんざんケチつけといて、自分はケツまくるわけ? なんだよ! ひどすぎるだろう! 前の章はまぐれだったんだね。もうがっかりです。

スタニスワフ・レム『SFと未来学 II』

あらすじ

14.1 序論

(正直、要領を得ないことを延々書き連ねているだけで、何も言っていないに等しい。強いていうなら……)

宗教では、昔あった理想郷みたいなのをよく出してきて、それが復活するような話をするけれど、でも多くの宗教では現在こそが神の意図にしたがった完璧な社会だってことになってるから、必ずしもユートピアは宗教起源ってわけじゃないし、だんだんそういうのから離れた世俗的な観点からのユートピアも出てきた。SFのユートピアはその系譜だ。

14.2 空想的な哲学から歴史哲学的な空想へ

14.2.1 ボルヘスとステープルドン

ボルヘスの作品は、ある存在論を小説の中で現実の存在にしているという意味でユートピア的。哲学的な理念を実現する何らかの社会を描いているからね。でもおいらの『浴槽の中で発見された手記』もそういう理念を世界として描いたので同じくらいすごいぜ。

ステープルドン『最後にして最初の人間』は、個別エピソードはでたらめでツッコミどころ満載だし、書きぶりは下手くそで文学性皆無。でも、まずそれがいい! いまの人間から見たら、100万年後の科学技術なんてトンデモにしか見えないはずだから、描かれた技術にまったくリアリティがないのが、実はその優秀さの証拠なんだよ![読者の心の叫び:それはあまりにご都合主義なひいきの引き倒しでは] 人間が興亡を繰り返しつつだんだん高見にのぼっていくのがすごい。そういう人間中心のビジョンがあるのがすごい。でも技術発展の加速を考慮していないのはだめ。でもいまのSF作家どもはステープルドンの足下にも及ばない連中。[読者の心の叫び:でもユートピア小説じゃないよなあ、どう考えても]

14.2.2 SF のユートピアとディストピア

クラーク『幼年期の終わり』は、都合のいいオーバーロードが優しく地球人を導いてくれて、そしてそいつが実は悪魔のモデルで、さらに人類はそれより上のオーバーマインドになるけど、それで何をするかはわかりませんという、宗教テーマを重ねてもっともらしくするけど、でも結局何がどうなるのかは完全にごまかすインチキだよな。[読者の心の叫び:でもそもそもクラークはユートピア小説じゃないよなあ、どう考えても]

シェクリイとかバンチとか、理想郷に見えて実はよく見たらとんでもないひどい世界だった、というのを書いてるけど、人間嫌いの露悪小説。シマックやブラッドベリの世界は、科学技術否定の牧歌生活回帰の妄想。ディストピア小説は、ナチスが勝つか、第三次世界大戦で荒廃するか、コンピュータ支配の管理社会で、それを自由な個人が打破するようなものばっか。どれも、何も社会的な考察とか現実の可能性とかを考えず、極端な話をして悦に入ってる。

14.2.3 神話形成的な空想と社会学的空想

SFはユートピアを描いてもまともな構想力がない。ブラッドベリやシマックの牧歌的アルカディアは、人口が減らないと食いつなげないがまったくそんなこと考えていない。戦争があって社会が対抗するときには、中世封建制か神権政治か部族社会へ対抗。科学技術が発達したら そんな物に簡単に退行できるわけがない。アメリカのSF作家どもはリベラルで進歩的な社会観に反発する馬鹿なネトウヨどもだからそんな妄想しかできない。

みんな技術は好きだけれど、それが与える社会的な影響や文化的な影響は一切考慮していない。みんな過去の繰り返ししか社会パターンを考えられないあんぽんたんども。でもハインライン『動乱2100』は神権政治復活を予測するけれど、現代の軍事技術は技能や知性が行き渡っている必要があるから、愚民を前提にした神権封建社会なんか復活できるわけないだろ。ほんとバカだな。ポール&コーンブルース『宇宙商人』は社会風刺に見えるけど、単なるくだらない冒険小説の背景でしかなくて、真面目な考察は皆無。

ヘルベルト・フランケ『欄の檻』は、VRの遠隔操作ロボットで、お遊びで異星探検をする文明と、完全に自閉したVRポッド内存在となって外部と遮断され、欄の檻になった文明を対比させて、快楽主義追求の二つの極致を考察していてえらい。それは人間の自由、健康、長寿といった機能的合理性を追求するとたどりつく二つの極だ。そうなると、これまでの社会で重視されていた価値観とは相容れなくなる。それを指摘できていてえらい。小説としてはヘタだけれど。

ユーグロン『犬の徴』は、宇宙拡張的な文明と、それに背を向けて伝統的価値観にこもる文明の対比を描いていてえらい。ただし後者を、シャマラン『ヴィレッジ』みたいなインチキ宗教による人民支配にしてしまい、文明の方向性の対立テーマから逃げたのはだめ。

14.2.4 社会退化のモデル

ゴールディング『蝿の王』みたいに、孤立してしまうと退行して野蛮になる、という小説は多い。特に長期の多世代宇宙飛行をしている宇宙船の内部がだんだん野蛮化するのはみなさん大好き。オールディス『寄港地のない船』とか。でもぜんぜん理屈にあわない。ちゃんと宇宙船内部でお話すれば退行しないですむんじゃないの? それと、その退行が遺伝レベルに及んで退化する。遺伝には何千年もかかるだろうに。ありえんだろ。

20世紀冒頭のポーランドのジュワフスキー『月三部作』は、孤立した人類の退行を宗教的なモチーフとからめて非常に優秀だ。

14.3 技術予測と文化予測:モデル

SF作家どもはバカだから、技術の話は多少できても、その社会的影響とか一切考えられないのね。未来学は学問だから、きちんと裏付けのあることしか言えないけど、SFは確率の低いことでも、フィクションだと称していろいろ考察できるのが強みだよ。それをやれよ、それをやらないやつらなんか無価値のクズ。しょうがないから、おれが模範演技を見せてやるぜ。

27世紀の地球。海水をうちあげて殻状に凍らせて気候制御が実現。人工臓器による準サイボーグ化や遺伝子操作は実現しているけれど、その仕様には条件がつく。亜光速は実現しているし、重力制御もできなくはない。超高温を経由した反現実の利用が視野に入り云々。すっげえ科学的考察してるだろ?

で、それが社会文化をどう変えているかって話ね! うん、それって条件多いし予想外の影響もいろいろでむずかしいよな。不確定要素があるから完全な管理制御は不可能だもんな。でもいろんなもの制御しないわけにもいかない。あと、文化とかは完全に制御はできないけれどでいたとしてもみんな制御されるのがいやがるよな。自由な自発的発展が文化の信条だもんな。この制御と自由の板挟みとかむずかしいねえ。[読者の心の叫び:他人の作品については、あれ考えてない社会的影響のモデルがない社会発展の考察がないとさんざんケチつけておいて、自分はくだらない科学設定だけ並べて、「社会文化はむずかしいですねー、ハッハッハ」とさじ投げてお茶を濁すつもり?  ひどくね?]

ところでアメリカのインチキな精神分析好きって、ほんとどうしようもないね。[読者の心の叫び:なんも関係ないだろ!]

感想

とにかく、ユートピアの話がまったくない! なんなんだこれは? この最後の模範演技のはずの「モデル」が何のお手本にもなってないのは何事? 

ボルヘスの話は、まあまあよい分析だ。これはレムコレ『高い城/文学エッセイ』収録の「対立物の統一」というボルヘス論と中身は同じですな。でもそれがここにある必然性は? ユートピアの話がないまま、単なる未来予測の話になってしまうのは何? 社会や文化への影響をきちんと考えないSFはだめと言いつつ、自分はそれがまったくできていないのは何?

だいたい、昔書いた通り、レムって社会をまったく描けないんだよね。『ソラリス』『エデン』『砂漠の惑星』でも、人間たちが属する社会の状況は実に希薄。宇宙飛行が存在して技術発展があっても、その宇宙飛行士たちや学者たちは、いまと大して変わらない社会に暮らしている。レム自身、ここで他人をけなすけど、社会や文化の考察はできていない。『浴槽の中で発見された手記』が、スパイのだましあいを描いているから社会を描いてるって、それは単なる一状況で、社会を描いているなんて言えないよ。

あと、社会退化のところで、部族社会だの中世封建制への退行や宗教の台頭について、ありえない、そんなモデルに逃げるのは怠慢で手抜きのバカども、というけれど、フェゴ島の住民の退行を見るとそうした退行が実はかなり簡単に起こることはわかる。フェイクニュースにみんながだまされている現状、アメリカやロシアの個人崇拝政治への退行を見ると、1970年代のレムが信じていたような啓蒙進歩の方向性の不動性は、実はそんなに確固たるものじゃなかったのではないかない。レムがそれを予見できなかったのを責めるのは、岡目八目でフェアではない。が、レムはそれをもとに、他のSF作家どもがバカだ、あり得ない、そんなの社会観としてインチキだと言い続けてきた。でも実は、彼が馬鹿にしていた作家たちのほうが、意外とポイントをついていたのではないかな? 部族社会は実に長いこと安定的に成立してきた。封建制も千年以上の歴史を持つ。現代の科学進歩文明社会なんてせぜいぜい200年かそこらだ。ピケティも、軍事、宗教、平民という三層構造の社会がきわめて一般的でどこにでもあることを『イデオロギーと資本』で書いている。宇宙時代でも何かの拍子でそこに回帰するのは、十分あり得ることかもしれない。そして、少ない可能性でもフィクションとして考察するのがSFの特権であり、義務だとレムは書く。だったらその安定したパターンの可能性をあれこれ検証するのも、十分正当化できるんじゃないかな。

 

結局これで第三部おしまい。ここまでテーマ別の「分析」をやってきたわけだが、いったい何がわかったのか、といえば……何もわからないとしか。レムは認識論的価値といって、勝手なときには科学的な整合性を求め、勝手なときにはこの章のステープルドンみたいに「トンデモなのがいい」と言い出す。社会分析がいると言いつつ、自分はできない。そしてその社会についても、自分の偏狭なリベラル知識人的思い込みにあうかどうかで善し悪しを決めつけ、そうでないSFはゴミクズよばわりして、その作者たちを無知なネトウヨ呼ばわり。うーん。

つづき

というわけで、あとは結論部分。メタ未来学とメタファンタジア。でも『技術大全』でもそうだが、レムって別に、最後の結論部分で話をまとめたりするわけじゃなくて、また何も考えずに書き散らすだけなんだよなー。

メタファンタジアは、邦訳とも比較することになるが、どうなるかねえ。ただ、これを読んで本書について(およびレムの文学観、SF観について)何かがわかるわけではない。これまでの紹介で書いたように、いまや未来についてみんなで考察すべきで、SFはそれに奉仕しなきゃいけない、それ以外はクズ、なんていう価値観がベースになっているというのがわからなければ……呼んでもちんぷんかんぷんだわな。それもあわせて言及しないとなあ。

が、あともうちょい! ガンバレ、おれ!

レム『技術大全』ロシア語版序文 (1967)

レム『技術大全』、ロシア語版を見ている中で、ついでにロシア語版の序文も訳して(というかAIに訳させて)みました。ついでに翻訳では、外国語版序文はおまけのところにまとめて、ポーランド語版初版の序文を最初にもってきました。

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別に大したことが書いてあるわけではないけれど、ドイツ語版の序文よりは中身についての見通しがいいとは思う。そしてもう一つのみどころは、レムがマルクス主義唯物史観への労働価値説にこびへつらっているところ。

私は現代を例外的な時代だと考えているが、それは次のような意味である。よく知られているように、マルクス主義唯物史観の根本命題は、人間は労働によって創られ、人間史を形作る変化は最終的に労働用具の変化に依存するというものである。新しい用具は、社会の生産力を新たな形で変革するからだ。

その後延々と続く、労働がどうしたという話もずっとそれを無理してこじつけようとしたもの。うっひっひ、いやあ、レムでも当然東欧ブロックの人間として、こういうリップサービスをしなくてはならんのですね。いやはやたいへんです。そして冒頭部のソ連様へのケツなめ。

なぜなら、この本——遠い未来についての本——が、世界の未来を他国以上に決定づける国で出版されるからである。

(いやちょっと意地悪い言い方でしたな。1967年なら、お世辞とかなしでソ連は確かにでかい存在でした。必ずしもケツなめではなく、本当にそう信じて書いていても不思議ではないし、決してそれが無理な考え方でもない)

そして最後の翻訳者への感謝。そうそう、あなたの言っていた自動翻訳機がほぼこうやって完成していますよ! それに自動翻訳機は、本体にくっつけた初版への序文にロシア語訳者たちがくっつけたみたいな、意地悪い突っ込みをしないのがありがたいですね! (ご興味があれば、そちらもご参照あれ)

レム『技術大全』ロシア語版序文 (1967)

外国で刊行される本の序文を書くとき、どの作者も満足と喜びを感じるものだ。しかし今回の場合は、これらの感情に特別な責任感が加わっている。なぜなら、この本——遠い未来についての本——が、世界の未来を他国以上に決定づける国で出版されるからである。この事情から、私は本文を再検討し、いくつかの変更を加えることにした。

本書の末尾には、生物学的および技術的——したがって文明的——な複雑な進化現象をモデル化する将来の見通しに捧げた結論を収録した。ただし、これはごく簡略な概要に留まっている。なぜなら、このような時空間的スケールの過程に対するさまざまなアプローチを概観するには、別の一冊の本が必要になるからである。

今回提案する本は、ポーランドで二版を重ね、さまざまな専門家の議論と論争をくぐり抜けてきた。この本は、ある意味で、それ自身が語っている「漸進的進化」の過程を経たと言える。結局のところ、最良の学習手段は、明確に浮き彫りにされた自らの誤りである。本書が現在、一切の誤りから完全に解放されていると言いたいわけではない。未来についての本が高度な完成の域に達するのは、一般に不可能なことのようである。

私が『技術大全』の初稿を書いた当時、いわゆる未来学に関するモノグラフは手元になかった。その後読んだトムソンやクラークらの著作は性質が異なる。私はそれらを見て、『技術大全』とはやや性格が違うことを知った。それらの本の著者たちは、主にまだ知られていない新発明や科学的発見を想定し、それらが現れる「日付を概算」する。つまり、科学と技術の未来発展についての「カレンダー」を作るのである。

私が惹かれたのは、少し異なる問い——発明と発見の両方、そして人間の思考によるすべての創造的行為(たとえば数学的行為)の「生成器」そのものについての問いであった。比喩的に言えば、私が遠くに見ていた目標は、物質的世界におけるすべての理性的創造を包含する「最も普遍的な最終アルゴリズム」のある形象であった。同時に、私は文明現象について可能な限り完全な概観を提供しようと努め、「サイコゾア(psychozoa)」の現象を、まるで地球外、銀河的、あるいは単に汎宇宙的な視点から捉えようとした。

もちろん、この試みを行うにあたって、私は自分が負うリスクの大きさを十分に自覚していた。このような試みは大胆であればあるほど、滑稽に終わり、社会と科学の実際の発展によって打ち破られる可能性も大きくなる。しかし、それでも私は、現在の時代においては、この大きなリスクを取る価値があると考えた。

私は現代を例外的な時代だと考えているが、それは次のような意味である。よく知られているように、マルクス主義唯物史観の根本命題は、人間は労働によって創られ、人間史を形作る変化は最終的に労働用具の変化に依存するというものである。新しい用具は、社会の生産力を新たな形で変革するからだ。

人類生成の過程において、人間は基本的な欲求を満たすための活動としての肉体労働によって形成された。一方、精神労働は肉体労働の派生物であり、それを強化するために奉仕した。数世紀にわたり、完成された機械は、物質的財の生産者としての人間の同盟者となった。しかし、思考の領域では、人間は同様の援助を一切受けられなかったばかりか、そのような援助の考え自体が非現実的だと見なされていた。さらに、人間はこの考えを誤りであり、さらには「有害」であるとさえ考えていた。これは、「合成理性」の亡霊に対して、極めて多様な思想家の間で呼び起こされる抵抗を見れば容易に理解できる。この合成理性は、人間的価値や人間存在そのものに対する本当の脅威だとされる。

この見解は、まず第一に、何世紀にもわたる伝統の圧力によって生まれた偏見と見なすべきである。しかし、それゆえにこの見解を無視すべきだという意味ではない。私たちは今、道具の歴史における転換点に立っている。その道具は、肉体労働の領域で生まれながら、その境界を超えて人間の精神労働の領域に侵入しつつある。私たちが語っているのは、未来に向けた巨大な過程の初歩的な始まりであり、同時に、数世紀にわたって蓄積されてきた科学の累積的成長の必然的結果である。

この意味で、この「新しさ」は、私たちの文明の止まることのない前進の帰結である。ただし、この最新の技術革命が、極めて困難で、時には脅威さえ伴う課題や問題をもたらさないという意味ではない。文明に対するいかなる脅威も、社会システムを掌握できないことか、自然の力を掌握できないことのいずれかに還元される。どちらの場合も、問題の種類は同じである——脅威の源泉は無知、すなわち社会的な発展法則であれ自然的な発展法則であれ、それらについての無知である。

無知に対する最良の対処法は新しい知識である。そして特に注意を払うべきは、事物の原初的秩序の変化である。史前時代には実践が当然理論に先行していたが、今や理論は実践の道筋を予見する義務を負っている。なぜなら、今示されるどんな無知も、人類は後になって高く支払わなければならないからである。

明らかに、より完全で、したがってより優れた知識は、部分的または単に貧弱な知識に対する最も完璧な対処法であり続けてきた。しかし今や、かつてないほど、そのような知識の欠如がもたらす費用、損失、さらには損害の総量が巨大な規模に達している。この理由から、科学的・技術的発展の法則についての情報——発見と発明のカレンダーについての情報ではなく(それは私たちには閉ざされている)、その源泉、すなわち生成器についての情報——が、最も価値があり、生命的に必要なのである。

本書は、主にその特性、その認識可能性、その作用、そしてそのさまざまな形態についての考察に捧げられている。

この機会を利用して、MIR出版社に心から感謝したい。同社は本書をソビエト読者の批判的注意に供するために私を招いてくれた。また、『技術大全』の中で言及されているような完全な翻訳機械を持たずに、本書に含まれる思想をロシア語の衣にまとめるために多大な労力を払ったすべての人々にも感謝する。

 

クラクフにて 1968年4月1日

スタニスワフ・レム

( S・ペレスレギン& N. ユタノフ露訳より)

レム『技術大全』付録「20年後」

レム『技術大全』はすでに全訳したし、委員会諸賢のみなさんはもちろんお読みだろうね。そうでない人はよもや読んだりしてはおるまいね。

cruel.hatenablog.com

さて、レムはこれを書いてから30年たって「30年後」というフォローのエッセイを書いた。これは『技術大全』のpdfに入れておいた。が、これはすでに書いたように、「おれ、VRを予見したんだぜどうだ、すげえだろ!」というくだらない自慢で、「だから『技術大全』はすごいんだ」という話。

でも、『技術大全』でVRの話というのは、全然メインの話じゃない。メインの話でできあがった新技術やまったくちがう物理体系の世界をどうやって体験しましょうか、というだけの話であって、それがあたったからってはしゃがれても困りますわねえ。

そしてこの「30年後」以前に「20年後」というエッセイがあるというのは聞いていたけれど、これまでどこでも見つけられなかった。 まあ「30年後」があんな惨状なら、「20年後」も大したことあるまいよ、とは思っていた。

だがふとロシア語訳を見ていると、収録されていた。そして中身を見ると「30年前」よりずっといいじゃないか! 『技術大全』の本論ときちんと関係して、そのうまい更新とまとめになっている。だから、グーグル翻訳とGrokの力を借りて訳してみました。

スタニスワフ・レム『技術大全』あとがき:20年後 (1982)

ロシア語からのAI&機械翻訳なので精度はほどほど。が、中身はきちんとわかるはず。以下はその訳者解説:

レム「20年後」訳者解説

技術大全』が 1964 年に書かれてから約 20 年後の 1982 年にレムが書いた、その後のフォ ロー。ポーランド語のこの頃の版に収録されたはずだが、ここではロシア語版からの重訳。原文 は以下にある archive.org のものを使っている。ザンクトペテルスブルクの AST 出版が 2004 年に出したもので、ロシア語訳は S・ペレスレギン& N. ユタノフによる。1967 年版をもとに していて、元々の露訳もその年らしく、著者のロシア語版序文にはミール出版への謝辞が書かれている。この版はそれにこの「20 年後」をつけている。

https://archive.org/details/summatekhnologii0000stan

ただし山形はロシア語は読めないので (キリル文字もかなり忘れてる)、GrokにやらせたのとGoogle翻訳をつきあわせる形で確認しているが、キリル文字のOCRの信頼性もイマイチだし、いろいろミスはあるはず。が、何が書かれているかわかるだけでもありがたい。

いつもながらレムは例によって、自分はすべて正しかった、先見の明に満ちていたと述べる。ここらへんの妙な自負はいささか辟易させられる面はある。そしてそれを正当化するために、歴史改変まで試みるのはいささか鼻白む。『技術大全』で、異星文明とは当然出会っていいはずだというのが基本だった。そして実際にSETIが成功していないのを受けて、その理由を後付けであれこれ憶測していた。ところがこの文章では、自分はもともと異星文明との出会いに懐疑的だった、自分は正しかった、と言いつのる。

だがこの論の見所は第2節で、ここでは生物進化と技術進化の類似性について改めて論じ、半導体の集積密度などに目配りしつつ、技術進化がいずれDNAなどとは比べものにならない素粒子レベルで起こり『技術大全』のビジョンが実現される可能性を語る。そこでの書きぶりは、本文よりも落ち着いていてわかりやすく、『技術大全』の中身の概略がよくわかる。

このさらに十年後に、レムは『30年後』という文章を書いている。これは山形のやった『技術大全』日本語訳につけた。こちらは、なんかVRが当時盛り上がっていたので、レムもすっかり舞い上がり、どうだおれは正しかった先見の明があったと威張りくさるばかり。『技術大全』って、そんなのはぜんぜんメインじゃなくて、せいぜいがそのメインコースの技術進歩をこの人間たちがどんな形で体験するか、というアイデアにすぎないんだけどなあ。それに比べると、この『20年後』はいいわけがましいところもあるが、特に後半は『技術大全』の本道についてきちんと再整理とフォローを行っていて、ずっと有益な文章になっている。

あともう一つの見所は、随所でロシア語版編集部がつけた注。レムの自信たっぷりな断言に細かくつっこみを入れて、そのまちがいや根拠のなさを容赦なく指摘。これを見る限り、ロシア語訳者/編集部も山形と同じように、レムの妄想をおもしろがりつつもかなり眉につばをつけつつ受け取っていたことがわかる。おそらく『技術大全』本文にも、この手の注がたくさん入れられているのでは、と思うけれど、さすがにそこまではフォローしきれない。

では、お楽しみあれ。

スタニスワフ・レム『SFと未来学』第13章 SFの実験:本書でいちばんすごい章!

はじめに

はい続き。スタニスワフ・レム『SFと未来学』第13章「SFの実験」。SFにおける文章、ブラッドベリとニューウェーブについての章だ。

さてこれまで、章ごとにぼくが訳しながらずっとうんざりしていたのは、非常に明らかだと思う。ワンパターンの罵倒にウンチク開陳に自慢。はいはいわかりましたよ、すごいですね。

青空の前に茶色がかったグレーのアニメ少女が茶色オレンジの服を着て画面上60%のこちらを見た顔で描かれ、吹き出しが「お前がそう思うならそうなんだろう」「お前のなかではな」と向かって右側に出ている。
「お前の中ではそうなんだろう」

が、この章はうってかわって見事。バラードの濃縮小説などに見られる実験小説が持つ意味と限界の分析も、きわめて的を射た鋭いもの。そして下巻の三分の二がすでに終わったこの章にきてやっと、レムは自分の本当の問題意識と、そもそもこの本で採用したテーゼ(「SFは科学的知見をきちんと提供するものでなければいけない」) の背景、および、この本でなぜ『SFと未来学』なんてのが並置されなくてはならないのか、というのを、きわめて明解に説明している。

すごい。まだこの先はあるけれど、この『SFと未来学』を代表し、その(問題意識部分の) 総括となる章を挙げるとすれば、この章になるだろう。お決まりの上から目線の罵倒もなければ、無意味なウンチクに流れることもなく、そして全体としての構成もまともで、段階を追って真摯に論点に取り組んでいる。そうだよスタニスワフくん、やればできるじゃないか!

スタニスワフ・レム『SFと未来学 II』

あらすじ

これまで罵倒してきたSFは、大した文章力はなかった。だから内容だけの話に集中して罵倒していればよかった。でも最近になってニューウェーブ一派が騒ぎ始めた。こいつらは内容よりも表現形式に凝るのが特徴だ。そういう書き方が重要となるSFについてここでは語る。

1. ブラッドベリのすごさ

その源流ともいうべき存在がレイ・ブラッドベリ。その書きぶりで初めてゲットーSFの枠を超えたという意味で、ニュウェーブの先駆 (当人たちはブラッドベリなんか無視したがるけど)。

そのブラッドベリの書きぶりはすごい。中身はまったくないんだけれど。中身の点で言えば、『華氏451度』とか、本焼いただけで言論弾圧とかファシズムとか言われるけど、ホントにナチスの圧政を経験したワシに言わせりゃ甘ちゃんもいいとこだよ。本があっただけありがたく思えよ。こんな話に感動するって、アメちゃんってホント何の苦労もしてねーんだな。[訳者の心の叫び:そういうこと得意げに書かなくていいじゃん。体験者として言いたい気分はわからんでもないが]

でも『火星年代記』や『よろこびの機械』の、幻想ともリアリズムともつかないその書き方は、懐かしさと牧歌性と恐怖がすべて渾然一体となり、作品ごとにリアリズムと空想の配合もちがう。それなのに彼は火星とアメリカ中西部の田舎と、宇宙船の中と、その他あらゆる環境をまったく同じ世界にしてしまう。そこではロケットすら田舎の小屋のような懐かしさを帯びた物体となり、死も核戦争も美しく牧歌的になる。

作品ごとのテーマや書きぶりの差があっても、それを貫く一貫性があって、その作品ごとの変動が意外性をもたらし、作品集全体を貫く独特の雰囲気を作り出す。なんか、本人も意図的にやってるわけじゃないのかもね。その雰囲気こそがブラッドベリの強みであり、一方でエリートに見下される弱みでもある。

2. ニューウェーブ/バラードのだめなところ

ニューウェーブは、ほぼバラード一人のような運動ではある。が、インタビューを読むとバラードって、クラークやアシモフに比べて自分が科学的なつもりなんだね。でもフロイトみたいなインチキを科学だと思ってる時点で、バラードの科学理解のお粗末さは明らか。

そして彼は『結晶世界』とか「溺れた巨人」とか「時の声」とかで、内容面でもますます破滅の美学みたいな、ろくでもない方向性に走りたがる。その上に最近は、形式面でも濃縮小説とかいうつまらない実験に走っている。が、そういう実験って無意味なのね。それはフランスのヌーヴォーロマンとかと同じ。

3. ヌーヴォーロマンのだめなところ

この手の実験小説というのは、基本的にわかりにくい、多義性をもった、つまりどうとでも取れる文章というのがその本質。それはこれまでの書き物のお約束を破りました、というのがポイントになる。そして、それだけ。破ることで何を表現したいわけではない。破ることが自己目的化している。

そして、ああいう作品って意味がわからないでしょ? でもそれは、わかんなくて当然なの。だって、あれは何も書く中身がないという小説なんだから。既存の文学に反抗して、「ぶっこわす!」というだけの代物なんだから。

その作者がなぜいろいろな断片の中からそれを選んだか、みたいな作者の何かを描くものとしてその作品を解釈することはできるだろう。さらにそれはロールシャッハ試験の絵と同じ。あの絵がはっきりしてたら、みんな「これは丸です」と同じ答えをするだけで、役に立たないだろ? まったく意味がなくてどうとでも解釈できるからこそ、読む側がそこに勝手なものを投射できる。つまり評論家とかがそこに「読み取っている」意味ってのは、実はその読者が自分の好きなものと勝手に投射してるだけなの。

でもなんか評論家が聞いた風なこといってうなずきあうよね。でもあれはただの内輪のお約束事を確認し合ってるだけで、実際に元の文にその意味があるわけじゃない。別の集団がまったく別の「意味」を読み取ることだってできてしまう。

だからそこに何が描かれているのか、ヌーヴォーロマンの意味は、と問うのは無意味。それは読む側が勝手に何でも押しつけられるのが本質なの。でもなんか意味があるように思えるよね。それは言葉の出現頻度に基づく読者の連想から出てくるだけなの。その連想が生み出す雰囲気で作品世界を作っている。それ自体は何も言ってないの。彼らは文学にノイズを入れて、あいまいさを増やしているだけなの。

バラードの濃縮小説も同じ。そして、それはまったく見当違いの方向性で何も生まない。バラードはうまいのにそんな方向を目指しているというのは先が思いやられる。

4. なぜそれがダメなのか? 文学、特にSFが目指すべきもの

さて、そういうお遊びはあり得る。でもね、いまそんなのやってちゃダメなの。なぜかを教えよう!

なぜかといえば、現代世界はそんなお遊びをやっている暇はないから。これまでの人類は、過去と現在のことだけ考えていた。でもいまや、未来をどうするか、という問題が重要となっているので、それをみんなで考えなくてはいけない。文学、ましてSFはそれを目指すべき。そうでないと、未来学者とかいうろくでもないエリートどもが未来を勝手に形成してしまう。そんな連中に任せちゃだめだろ?

文学は架空の話を扱うよ。でもね、その架空の話を通じて、人間やその環境が持つ実際の課題、悩みを考え、人間活動の不変量を見極めるのが一つの仕事だ。どんな時代にも人は死すべき運命、老いる運命にあり、NTRがテーマになったりする。

でも現代というのは、そこに技術が入ってくる。技術のおかげで、死ななくなったり、老いなくなったりする可能性が見えてきたわけじゃん! すると、文学で扱ってた昔ながらの「死は悲しいが雄々しく立ち向かうぜ」とかそんなのが、これから変わるじゃん! それに向けていろんなことを考えるのが文学、特にSFの急務だろ! あほな言語実験にうつつぬかしてる場合じゃないだろ!

ニューウェーブでは、他にオールディスが実験っぽいのやってるけど、頭でっかち。バラードとオールディスの中間がいればねえ。

SFは、宇宙からいきなり毒ガスが降ってくるとか、ほぼないが一兆分の一の確率ではありえるような設定を考え、その影響を最大限の知見をもとに考察する、というようなことをしなきゃ。それはちゃんと知見を増やすということになる。あるいは、まったくあり得ない状況 (人間の背中に翼が生えるとか) を扱うなら、それな何らかの仮説検証としてのものだ。いずれの場合も、この現実、人間がどういう影響を受けるかというのを真剣に考察しないと。言葉遊びで自足してちゃいけないんだよ。

感想

いやはや。

1. SFの「認識論的評価」と未来学の関係

冒頭でぼくは、本書においてレムが実に偏狭な自分だけのSF評価軸を打ち出している点について論難した。

cruel.hatenablog.com

その中でレムは、こう断言していた。

SFで求められる情報オリジナリティは、コミュニケーションの表現構造にはない。表現中でオリジナルと受け取られるが、後に平凡さが明らかになる情報は、SFでは失格だ。だがここで一つ但し書きをつけよう。私は「平均的読者」としてではなく、真の認識論的価値を求める者としてこう述べる。だから本書は、言わば今日の支配的な美的慣習に逆らうことになる。(p.16、強調引用者)

いったい、なんでこんな「真の認識論的価値」なんか求めたがるの? なぜそうでないお気楽なSFをレムは否定するの? これまでの千ページ以上で、レムはそれを一切示さなかった。

さらにこの本は「SFと未来学」とされている。でも、なんでタイトルで、この二つが対比されているの? 未来学について扱った章で (いや章ですらない、節でしかない)、レムは「未来学はやたらに金使ってるけど、全然だめではずれっぱなし、みじめーwww」と嘲笑するだけで、そもそもなんでそんなものを問題にしなきゃいけないのか、なんでそんなことを論じているのかについてはまったく説明していなかった。

cruel.hatenablog.com

さらにこの短い「未来学」嘲笑以外の部分では、未来学について、明示的には一切触れてこなかった。「SFと未来学」というんだから、全体の半分くらいは未来学の議論になるんだろうと思ったら、まったく議論がない!

でもそれがやっと、ここで問題意識としてまとまってくる。

レムはSFというのを、人類全体として未来について考察するための手段であり、真剣なシミュレーション構築だと理解しているわけだ。要するに彼にとっては、未来学を民主化する手段としてのSFというのが重要ってことね!

そしてこれまで既存のSFにケチをつけていた嘲笑部分、たとえば「冷凍睡眠が実現したら、金持ちの遺族予定者たちが真っ青になるよね」なんていうつまらんチャチャ入れは、実はレム的には真摯な未来学的な考察だったってことね!!!

やっとここまできて、レムが何をしようとしていたのか、わかりましたよ。

ぼくはまったくこのレムの見方には賛同できない。そういう側面もあるのは認める。そして、レムがそっちをもっと強化すべきだ、というのもわかる。だけど、それしかやっちゃいけません、それ以外の安易なことやるやつは全員無能なバカ、というレムの論調は? そんな狭苦しい考え方をする必要はまったくない。

一方で、最近になってSFを未来予測に使おうとかSFシナリオなんとかとか、インチキな旗を一部のSF関係者が掲げているのは、苦々しく思っている。もちろん、一部のSFにまさにそうした未来を真面目に考える意味があり、それ故に価値があることも十分認める。藤井大洋の作品にそういう意義があることは否定しがたい。

でも、「あたしはSF関係者、よって精緻な未来予測ができる」なんて威張っちゃいけない。さらにSFと科学は、抜きつ抜かれつの関係で、どっちが先行しているかで、そうした未来予測や仮説検証の果たせる役割も変わってきて……が、閑話休題。

2. 最高のブラッドベリ評

そしてこの章前半の、ブラッドベリ評の見事さはちょっとただごとではない。ぼくはスタニスワフ・レム的に、ブラッドベリをあまり評価するとは思っていなかった。感傷的で、別に科学仮説をきちんと検討しているような小説でもないし、中身のなさをレトリックでごまかしている、というような評価になると思っていた。

が、まず短編集の主要作品を一篇ずつ解説するという丁寧な扱いには驚く。そしてその叙述が生み出す雰囲気、日常と非日常が自然に融合する不思議な語り口の魅力に、レムがここまで敏感だったというのも驚愕させられる。ぼくはここまで的確で詳細なブラッドベリの分析をこれまで読んだことがない。他のブラッドベリ評のほとんどは、ブラッドベリの叙情性に流されてしまい、評者自身の勝手な感傷を垂れ流すだけの感想文に堕している。ここでの評論は、ある意味で、あまり感傷のないレムだからこそ書けた評論ではある一方で、逆にあれほど感傷がない人間がここまでブラッドベリに反応できるということ自体が驚きではある。

3. ヌーヴォーロマン/言語実験への的確な評価

そしてバラードを論難する過程での、ヌーヴォーロマンや言語実験作品に対する厳しいが正確な評価。何も言っておらず、読者に下駄をあずけ、作者自身とその読者の持つ連想に任せて雰囲気を作っているのだという評価。卑近ながら、これはまさにぼくが『たかがバロウズ本。』でバロウズについて論じたこととまったく同じ。

そしてこうした実験小説と言われる代物に対する、辛辣で正確な分析と評価。いやはや、おそれ入りました。

まとめ

これまでもう、本当にうんざりしていたんだけれど、この章のおかげで俄然、レムの評価も復活したし、そしてこの本全体の見通しもよくなった。こういう全体的な見通しをまず最初にもってきてよ。そしたら、これまでのオレ様評価も少し意味合いがちがってきたでしょうに。

敢えてケチつけるなら、冒頭のブラッドベリ分析が、後半でまったく活用されない。だけど、その分析自体がすごすぎて完結してるので、それが浮いてるからって文句言う気にもならない。

そしてレムコレクションの「文学エッセイ」で挙げられた、「メタファンタジア」という本書最終章にあたるつまらない評論があるんだけど、あれはおそらく、『SFと未来学』の内容紹介のかわりのつもりなんでしょ? でもあんな中身のないものを挙げてもしょうがないじゃん。あれでは何もわからないよ。この章を紹介してくれると、彼の文学観もわかるし、SFにレムが期待しているものもわかるし、そしてその鑑賞眼の鋭さもわかったんじゃないかねー。

お次は……

さて次は、ユートピアを扱った長い章。本章を読んだ後で、少しはレムを見直して好意的に見るようにはするんだが、ぱっと見ると半分くらい、「ステープルドンえらい」になっていそうでちょっとおっかなくはある。

が、それでもあと3章だ! はやめにやっつけるぜ!