Tooze『CRASHED』: アメリカ一極が終わって……次がない……

Crashed: How a Decade of Financial Crises Changed the World (English Edition)

Crashed: How a Decade of Financial Crises Changed the World (English Edition)

  • 作者:Adam Tooze
  • 出版社/メーカー: Penguin Books
  • 発売日: 2018/08/07
  • メディア: Kindle

うーん。

 

まずは歴史認識の簡単なおさらい。世界が第一次世界大戦前は、金本位制をもとにしたヨーロッパ覇権みたいなものの下にあり、その中でイギリスの産業貿易的な優位性から、ポンドスターリング本位みたいなものの下にあった。でも特に第二次世界大戦を経てそれが完全に変わった。戦費のない欧州諸国に対してアメリカがばんばん物資を送ったことで、その支払いもあって世界はドル本位制となり、ブレトンウッズ会議で、ドルをトップにしたヒエラルキーが確立しました、というのは揺るぎない事実だ。

アダム・トゥーズ『ナチス 破壊の経済』は、ナチスドイツをそのアメリカ/ドル覇権に対するヨーロッパの最後の悪あがきとして解釈し、それを元にナチスドイツの一見すると支離滅裂な各種動きが、実はそこそこ整合性のあるものだということを示し、同時にそれを実現するためにドイツの国内経済がいかに無理を強いられたか、その無理が戦争活動にもホロコーストにもどう影響したかを描き出した、とってもおもしろい本だった。

ナチス 破壊の経済 上

ナチス 破壊の経済 上

ナチス 破壊の経済 下

ナチス 破壊の経済 下

さて、そのアダム・トゥーズが2018年に新作を出した。『Crashed』は、これまでナチス周辺の出来事を追っていた経済史家の著者が、2008年世界金融危機と、それがいかにしてブレトンウッズ会議以来のドル覇権を崩壊させたか、という本だと聞いていて、買ってはあった。結構評判もよくて、The Economist でも2018年の経済系のベストに選ばれていた。でも本文六百ページもある分厚いものだったし、積ん読のままだった。それを今回、いろいろあって読んでみた。

が、ちょっとがっかりした。ドル覇権が崩れた、というのはわかったけれど、その次が何もないからだ。そして、様々な側面を実に細かく見てくれるんだけれど、それが羅列に終わっていて、その細部がもたらす新しい発見や視点といういものがあまり出てこないからだ。

経済に政治的な要因がからむ、というのはまあポイントではある。その意味で、以下のアマゾンレビューはとってもよくまとまっていて、優秀だとは思う。ただ一方で、それは常識だろうとも思う。ユーロというのがいかに経済を無視して政治的な構築物としてできたか、というのはすでに嫌と言うほど言われている。そしてドル派遣によるドルの経済支配と、それがもたらした力は、アイケングリーン『とてつもない特権』などにもある通り。ある意味で、今回の金融危機はそのドル覇権の危うさが現実化したできごとではあった。

とてつもない特権: 君臨する基軸通貨ドルの不安

とてつもない特権: 君臨する基軸通貨ドルの不安

が……現実化しても、結局何か変わったか? 基本的にはドル/アメリカ覇権体制がくずれた、というなら、まずいちばん知りたいのは、それに代わるものとして何が出てきたんですか、というものだ。でも、この分厚い本をがんばって読んだんだが、かわるものが出てこない。ニクソン以前の、ドルが(黄金の裏付けの有無を問わず)すべてを仕切る特権的な状態は、一応ない、とは言えなくもないけれど、でも金融危機のとき、欧州のユーロドル市場が干上がって、ヨーロッパの中央銀行FRBに泣きついてお金を貸してもらったことからもわかる通り、やっぱりドルが強くてFRBが強いまま。

もちろん、他のプレーヤーの存在感は出てきた。でも小人が増えただけ。中国は世界的にでかい存在で、規模的にはあれこれできなくもない。ただ彼らも国内の状況を無視できるわけではないし、世界にドーンと覇権を張れる存在ではない。ロシアはEU衰退の隙を突いていろいろ立ち回るけれど、先頭にたつ気概はない。

本書はその意味で、ドル覇権が崩れたと言えなくもないけれど、でもアメリカ支配に代わって、なんか弱小プレーヤーがお互いに顔色をうかがいながら、なんとかやりくりしている体制になって、しかも弱小の中ではやっぱアメリカが結構強い、という形になっているという。金融危機は、ドル依存のやばさをはっきり示した出来事ではあったんだけれど、その後のユーロ危機で明らかになったのは、ユーロのほうがもっとやばくてあてにならないということで、だからドル依存はかえって強化されてしまった。そしてその弱小プレーヤーたちはどこも、経済の弱さが国内の不満につながり、それがポピュリズムをもたらして、したがって国際的にときに要求されるでかい行動ができず、そのために経済の弱さが続き、という国内政治と経済の悪循環に陥っている、という。だからこの状況が大きく変わることは当分なさそうで、さあ今後どうなるんでしょうねえ……(いやホントにそういうふうに本書の最後では放り出される)。

さて、これは何か目新しい話だろうか?

危機の前夜からトランプ/ブレグジットまで、非常に細かく描きだしていて、読み物としてはそこそこおもしろい。が、金融危機について書いた本はたくさんある。それらとまったくちがった解釈、まったくちがう見方が出てくるかというと、そんなことはない。分厚い本だし、経済的なことにだけこだわらず、中国の役割、ロシアの暗躍も細かく追って、それが金融危機とどうつながっていたかについて論じようとするのはおもしろい。でも、特にロシアの話は本当に一章かけるほどのものだったのかなあ。ギリシャトロイカ軍団との熾烈な戦いを逐一細かく追っても、これまでと何かちがう話にはならず、ちょっと徒労感がある。

見解の相違のせいもあるんだろう。トゥーズは前作でも、ケインズ経済学をすごく嫌っていて、ナチスが公共事業で失業をなくして人気を博したというのはウソだ、と言う。でもそのウソ、というのは失業がなくならなかったということではなくて、それがナチス公共事業の筆頭目的ではなかった、という話になる。狙いはどうあれ、実際に失業を減らしたのは事実で、ケインズ的に理解してもいいと思うんだけど。今回の本でも、彼は量的緩和とか景気刺激策とか、サマーズの長期停滞話とかを徹底的に否定する。それは効果がなく、しかも金余り状態を作って世界経済の不安定さを増し、という具合。しかも、目先の解決策としては効果があった、という部分については、あまり触れようとしない。ぼくはもっと評価すべきものだと思うんだが。

クルーグマンは、大恐慌に終止符を打ったのは第二次世界大戦で、いまだって宇宙人が攻めてきて地球防衛軍をつくらないと、という話になったら一気に不景気なんかふっとぶ、と述べている。トゥーズはこれを否定し、クルーグマンはいまの世界の政治がそんなに協調的ではないことを忘れている、と嘲笑するんだけど……いやだからウチュージンが攻めてきたらみんな立場にこだわらず強力するよー、というネタでしょ? マジレスしてどうする。

まあトゥーズは歴史家なので、こういうふうに推移しました、という記録を書ければいいのかもしれない。様々なできごとをあまり脚色せずにまとめあげるのが本領、ということかもしれない。でも、ぼくは長い本は、長くなる必然性が必要だと思っている。手早くまとめると何もないけれど、それを細かく見たらその中で別の動きが見られますよ、とかいうのがないと、せっかく長い本を読んだ甲斐がない。あーもある、こーもある、あんなことやこんなこと、でも結局は「いやあお先真っ暗でおっかないっす」としか言えない。それをわざわざ教えてもらう必要はあるのか? サミットとか、あのクソの役にもたたないダボス会議とかで、「さらなる協調をすすめマクロプルーデンスが求められ〜」と繰り返すのと変わらないのでは?

ちょうど並行して、メーリング『新ロンバード街』を読み返しているけれど、こちらはそういうでかい話ではなく、むしろ世界金融危機を、マネーマーケットや複数のレベルのお金の相互関係のきしみとして捉えようとしていて、ぼくはこのほうが金融危機の本質に迫っているようには思う。

ハーバート・サイモン『意思決定と合理性』の翻訳がひどすぎなので、訳し直してあげました。

ハーバート・A・サイモンって個人的にとても好きなんだけれど、こないだふと『意思決定と合理性』という短そうな本を手にとったら、いやあ、唖然としてその後ワナワナするくらい翻訳ひでえわ。

意思決定と合理性 (ちくま学芸文庫)

意思決定と合理性 (ちくま学芸文庫)

このひどさについては、アマゾンのレビューでさんざん書かれている通り。ちゃんと自分で読んで意味がわかるように訳せよー。

あまりに腹がたったので、原書を買って冒頭部を自分で訳しはじめてしまったわ。

ハーバート・A・サイモン『人間活動における理性』

冒頭十ページほどだけど。アマゾンレビューで具体的に挙げられている問題箇所は含まれてる。細かい話ではあるけど、そんなわかりにくい言い方は何もしていないと思うんだけどなー。

タイトルは、理性じゃなくて合理性にしたほうがいいかな。やりながら考える。最後まで続くかはわからない。また例によって、山形の大量の仕掛かり翻訳の一つになるのかもしれないけど。でも、実は各種の仕掛かり翻訳、思い出したようにチビチビ先に進んでいたりすることもあるんだよー。

 

しかしこんなことやってる場合じゃないのになあ……

追記:その後コメントで、「システムの科学」はどうだ、との意見があった。あと、アマゾン評で「経営行動」の訳が、「下手クソ」と「いや、あの逐語訳がかえってすばらしい」というレビューバトルになっていて、これまた地雷のにおいプンプン。

というわけで、ざっと見てみた。

システムの科学

システムの科学

システムの科学は、ぼくはそんなに悪いとは思わない。もちろん、ぼくがやれば改善はできるだろうけれど、読んでわけがわからないとか、そういうレベルではないし、自分も普通に読んだ記憶がある。山形が敢えて訳し直すことは、たぶんないでしょー。

この経営行動は、ぼくはアマゾンレビューを見て、すさまじい代物を覚悟していたのだけれど……かなりまともだった。理屈っぽく面倒なのは事実だけれど、それは翻訳のせいじゃない。経営の話をするのにいちいち人間の合理性にまで立ち戻るような本は、晦渋で面倒なのは当然。そんなわけで、これはまあそういうものだと思って読んで下さいな。でも、まだ見始めたばかりだけれど、いい本だと思うよ。

Ocean Blue, または安定と成長について

YouTubeに逃避をしていたら、なんとOcean Blueが今年新アルバムを出していたと知って驚愕。まだ存在していたのか! 昔のよしみで買って聞きました。

Kings and Queens /..

Kings and Queens /..

  • アーティスト:Ocean Blue
  • 出版社/メーカー: Korda
  • 発売日: 2019/06/28
  • メディア: CD

Ocean Blueは、ペンシルベニアのハーシーチョコ城下町出身のオルタナロックバンド。前世紀/全盛期MTVで、ちょうどニルヴァーナが人気を確立してカート・コバーンが方向性に苦しんで、二枚目出して自殺しちゃった頃にそこそこ流行っていた。メロディアスなオルタナカレッジロックで、奇をてらわず非常に優等生的で、常に中堅的な位置づけでドーンと一世を風靡したことはなく、ロックフェスとかでも大トリを張る存在ではないけれど、その二つ前くらいに登場してくれたらすごくうれしい感じ。当時は、いろんなバンドが、グランジオルタナロックのいろんなバリエーションを試していて、もう少しノイジーな路線を目指していたキャサリンホイールとか、いろいろいたなあ。

で、そのオーシャンブルーはなんか雰囲気的には、日本で言うならミスチルみたいなもんで、歌もほぼすべてだいたいこんな感じ:

失われた思いをよそに

あてどなくさまよう

世界をつつむ謎と輝き

はるか彼方で

きみが微笑む

その当時のシングルの一つがこれ。「オルタナティブ・ネイション」でよく聞いた。


The Ocean Blue - Sublime (Official Video)

決して嫌いなバンドではなく、かつてCDを(中古で)買うくらいには気に入っていた。そしてその後もしばらく聞いて……まったく忘れていた。それが突然出てきて、懐かしくてつい聞いてみたんだけれど……


The Ocean Blue - All The Way Blue (Official Video)

まったく変わっていない。曲調、雰囲気、歌詞の感じ、歌い方。まったく同じで、文句を言う必要もないんだが……なんというか……ある種の苛立ちというかもどかしさを感じてしまうのだ。たぶん、初めてこのバンドを聞く人はそういう感じはしないだろう。でも、昔聞いていた身としては、当時まあまあ同世代くらいだった人が、50代のおっさんになって、相変わらず当時とまったく同じことをやっているというのが、なんだかすごくアレだ。おまえ、もうあてどなくさまよう歳じゃねえだろう。はるか彼方はいいけどさあ、もう遠くを見て目をキラキラさせてる場合じゃなくて、その「きみ」ともけじめつけて、道もとっくに探し終えてそれなりに結果出してなきゃいけない歳だろう、お互いにさあ、となんとなく思ってしまうのだ。

なんかすごく初期に、すごく堅実で安全な居場所を見つけて、そこから一切冒険せずに安住した結果、そこから出られなくなってしまった感じ。そして明らかに声は衰えていて、もう後はジリ貧かなあ。もったいない気はする。もっといろいろ可能性はあったし、似たような曲に戻るにしても一回、わけのわからんヘビメタやレゲエ方面に走って「迷走してる」とか言われて、それで原点回帰で戻ってくるならまだ広がりができて、ポストロックみたいなのとつながる動きもあり得たような気がするんだけど。

まあ迷走すればいいってもんじゃなくて、スマッシング・パンプキンズ/ビリー・コーガンとかも、解散したりしてあれこれやって、結局まったく同じことの蒸し返しになってしまったけど。なんかビデオまで、90年代からまったく変わってない。


The Smashing Pumpkins - Solara

もちろん、エリック・クラプトンがいまだにレイラを演奏させられるとかいうのはある。昔惚れてた相手の歌をジジイになって歌い続けるというのは、どうなんだろうねえ。でもそれは懐メロだ。「あの頃は〜」みたいな感じでもある。いまのクラプトンが「レイラ」みたいな歌を作ったら「おまえ、いい歳してまだひきずってたの??!!」と思ってみんなドン引きすると思うんだ。NINのトレント・レズナーも子供ができて「やっぱ子供がいるとあまり fuck とかいう歌は控えたいよねー」みたいなことを言い出して、それで歌がよくなったかといえば、まあおもしろみはなくなったけど、いろいろ悩みはわかるし、音楽的な発展があるのもわかる。

先日、ギブスンについて論難して、以前はディレーニのことも論難したけど、同じテーマだと思うのだ。ディレーニ『アインシュタイン交点 (ハヤカワ文庫SF)』を先日読み返して、すごくうまいなと思うと同時に、こう、小説そのものに対するこだわりよりは、むしろ技巧的な誇示のためだけに存在している計算高い小説だな、という気もした。それは、若気の至りでもあって、それが円熟してくるともっとすごいぞ、と思っていたら、円熟しなかったんだよなー。ディレーニについて書いたとき最後に英語で「でもディレーニ、一度でいいからちゃんと就職したらよかった」と書いたけれど、本当にそう思う。

そういうのをいろいろ見ると、成長ってむずかしいけど、でも必要なんだよなー、と思う。いやおまえが言うな、という声もあるだろうし、うん、こんな文章を書くのはまさに我が身を振り返っての意味もある。だけれど、ぼくがあまり成長していないからといって、成長の必要性がいささかも減るわけではない。成長といっても、おとなしく丸まる必要はないよ。でも歳食って経験積んだだけの蓄積がどこかに反映されないと。

そしてそれは、日本のサブカルが陥った罠でもある。いや、日本だけじゃない。世界的にそうだ。それを言うなら、サブカルだけじゃない。いま、リベラリズムの危機みたいなことがよく言われる。リベラル左翼が現実離れして、本当に広い問題ではなく自己満足な環境だの本当に狭いLGBTだのといった話に流れ、その結果として社会から乖離してしまい、それで逆上してあらゆる人をレイシスト呼ばわりしてさらに支持を落とす——それは成長しなかった結果だし、また成長しないでいいと思えたある時代の産物でもある。これはいつか書かないと。

そしてそれと関連して、これは特に橋本治の陥ったある種の落とし穴でもある。『革命的半ズボン主義宣言』は、高らかな宣言ではあったけれど、それは基本、ぼくは成長しませんという宣言だった。そしてそれは、昭和的な成長のモデルを拒否するという意味では正しかったんだけれど……でもそれがあらゆる成長を拒否する方向に向かってしまった(というのは言い過ぎで彼なりの成長のイメージも少しはあったんだが)のはまちがっていたし、それが晩年の橋本治の、目も当てられないひどさにつながってしまったと思う。若い頃には鋭い直感だけでやっていけたけれど、でもそれがやがて鈍重さと無知に陥る……そういえば、追悼文を書くと言っていて、年内には仕上げるつもりがずっと放ってある。だんだん話がこういう方向に向かってしまい、収拾がつかなくなってしまったから、なんだけれど、でもどこかでキリをつけないと。*1

*1:とはいえ、成長したくないというのもすごくわかるだけにねー。子供が前の保育園の同級生と集まって遊んでいたら、女の子が一人ちょっとはずれで憂鬱な感じだったから、話を聞いたら「XXちゃん、大人になりたくないなー。子供のほうが楽しいなー」とのこと。5歳にして人生の真理に目覚めてしまいましたか。「ママが、ご飯食べないで寝なければ大きくならないって言ってたよ」とのこと。うーん、いやお母さんが言ってたのはそういう意味じゃないと思うけど……仕方ない、次回、ブリキの太鼓を用意しておいてあげましょう!


Tom Waits - I Don't Want To Grow Up

格差の拡大は本当だろうか?——経済学者、格差の数字を見直す(The Economist より)

訳者口上:秋にピケティの新著が出たところで、The Economistの11/30号に格差についての議論を見直す研究についての話が出ていた。おもしろかったので勝手に翻訳。トップ層がすさまじく豊かになっているという見立ては、実はそんなに正しくないのではないか、という研究がどんどん出てきたというお話。ただし、どれも金持ちの豊かさ増大がピケティらの言うほどはすごくないかも、というだけで、金持ちが豊かになっていること自体を否定するものではないので念のため。なお、途中の見出しはオリジナル通りで、全部ある有名な曲の歌詞から。(山形浩生)

www.economist.com

2011年にニューヨークのズコッティ公園での抗議デモに何千人もが集結する10年以上前、フランスのあまり有名でない経済学者が腰を据えて、所得格差についての新しい見方を扱った論文を書き始めた。「我々の研究の焦点は、トップ10%、トップ1%、トップ0.5%などの所得推移の比較となる」とトマ・ピケティは1998年論文で書いた。昔からの共著者エマニュエル・サエズと共に、ピケティはアンケート調査よりも課税データを使う手法の先鞭をつけ、それにより最富裕層の所得をもっとうまく捕捉できるようにした。その結果「1%」が「99%」を犠牲にして大躍進していることが明らかにされた。この研究でウォール街占拠のスローガンが生まれた。

この研究に続き、先進国すべてに見られる格差拡大の原因とその影響に関する研究が爆発的に増えた。ベストセラーとなった『21世紀の資本』(2013)で、ピケティは資本主義の下だと格差拡大こそが常態なのだと論じた。

ピケティやそれに類する各種の研究は、アメリカをはじめ西側世界の相当部分で政治論争の一部となった。アメリカ大統領選で民主党候補トップの二人、エリザベス・ウォーレンバーニー・サンダースは、格差への対策として富裕税を提案した——これはサエズと、ピケティの別の共著者ガブリエル・ズックマンが指示している。ピケティは新著『資本とイデオロギー』(2019)で、格差危機があまりに大規模だからと言って資産課税90%を提案している。

Capital and Ideology

Capital and Ideology

確かに現代資本主義はいろいろ歪みが出ている。多くの国では社会移動が下がっている。あまりに多くの企業が過剰な市場支配力を持つ。住宅価格も高すぎる。こうした要因に限らず、様々な原因で富裕国の経済成長は弱いものとなっている。

だが格差についての考えがちょうど、学会から政治の最前線へと進軍を終えたまさにそのとき、研究者たちは格差の見直しを始めた。そして中には、格差は本当に言われるほど拡大したのだろうか、と疑問視しはじめている——それどころか、一部の指標を見ると、格差はまるで拡大していない。

人々が年にいくら稼ぐか、あるいはどれだけの資産を牛耳っているのかを計算するのは、発狂するほどややこしい。政府のアンケートに答えない人もいる。確定申告で所得をごまかす人もいる。そして何をもって「所得」とするかを定義するのも、驚くほどむずかしい。また、市場で取引されない株式や芸術作品といった資産の価値評価も面倒だ。大量の学者だけでなく、政府職員やシンクタンク研究者たちが、こうした問題を解決しようと群れをなして取り組んでいる。

お金なんてガスだぜ

こうした努力から生じた一般的な見方は、四つの主要論点が核となっている。まず、40-50年ほどの間にトップ1%の所得は激増した。第二に、中間層の所得は横ばいだ。第三に、生産性は高まっているのに賃金はほとんど上がっていない。つまりGDPのますます多くの部分は、利子、配当、キャピタルゲインという形で投資家たちの懐に入り、賃金として労働者の懐には入っていない。第四に、金持ちは成功の果実を再投資したので、富(つまり資産のストックからローン残高といった負債を引いたもの)の格差も高まった。

どの主張も、疑う人はそれなりにいる。だが一連の論文が既存の格差推計を疑問視するにつれて、これらの主張を疑問視する人も増えつつある。

まずトップ所得からだ。トップ所得激増という考えそのものが、アメリカ以外ではかなり危ういものではあった。イギリスではトップ1%の税引き後所得シェアは1990年代半ばと同じままだ。ヨーロッパ各地でも、トップ10%の税引き後所得を最底辺50%と比べた比率は、1990年代半ばから驚くほど安定している。これはパリ経済学スクールのトマ・ブランシェたちの研究結果だ。

アメリカでは、ピケティ、サエズ、ズックマンたちが分析した課税データから見て、元の主張はずっとしっかりしているようだった。だがアメリ財務省の経済学者ジェラルド・オーテン及び議会課税共同委員会の経済学者デヴィッド・スプリンターは、衝撃的な新しい結論に到達している。二人の研究によると、税金と移転を考慮するとアメリカのトップ1%の所得シェアは1960年代からほとんど変わっていないのだ(図1)。

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トップ層のシェアはそんなに増えていない?

税と移転について補正したのは、この二人が初めてではない。アメリカの議会予算局(CBO)も同じことをしている。その統計によると、トップ所得は1980年代と90年代では急増した。通常、税と移転語の所得は支払い能力補正健康保険の提供が増えてきたことで大きく左右される。1997年に児童健康保険プログラム(CHIP)が多くの若年層に対する健康保険の連邦予算を拡大した。2014年にバラク・オバマのヘルスケア改革が、ほとんどの州でのメディケイド(貧困者向け健康保険プログラム)の受給資格を拡大した。CBOのデータによると、メディケイドとCHIPは1979-2016年で、貧困世帯に対する支払い能力補正移転の80%を占めている。

オーテン&スプリンターのイノベーションは、既存の格差推計で最も有名なものに見られる一連の誤差だと言うものを一歩ずつ補正することだった。たとえば、人々の区分を変えた。ピケティ&サエズの最も影響力の高い2003年論文は、「税区分」のトップ1%を扱っていた。これは普通、まとめて確定申告を行う世帯を指す。だがこれは偏向をもたらす。結婚率は貧しいアメリカ人では大幅に下がった。すると、貧困労働者の所得は多くの世帯に分散することになるのに、トップ1%世帯の所得はそのままの世帯に貯まってしまう。オーテン&スプリンターは、個人を区分する。

別の補正は、1986年にレーガン政権で可決された税制改革についてのものだ。この改革に伴ってトップ所得に生じたように見える変化は、ピケティ&サエズの推計でトップ1%の所得増の4割を占めている。オーテン&スプリンター論文は、これが錯覚だと言う。レーガンの税制改革は、企業が「トンネル」会社となる強いインセンティブをつくり出した。つまり企業の所有者は、利潤を企業の中に貯めておくのではなく、所有者自身の所得として計上するようになったということだ。こうしたインセンティブは1987年以前には存在しなかったので、トップ所得のシェアは1987年以前には過小に申告されていたはずだ。

ピケティ&サエズ論文の数字でも、企業の中に貯まったお金はやがて顔を出す——が、その年がちがっている。企業が内部留保をする(つまり利潤を配当として支払わない)と、企業の価値が高まる。そうした企業の株がやがて売買されると、売り手は確定申告でキャピタルゲインを申告しなくてはならない——これはピケティ&サエズ論文が捕捉しているものだ。

だがキャピタルゲインはまた、売り手が売却するタイミングや株式市場の動きにも左右されるため、変動が激しい。このため、オーテン&スプリンター論文はキャピタルゲインを無視して、むしろ毎年の企業の内部留保に注目する。そしてその利潤を持ち株比率に比例する形で、1986年税制改革の前も後も個人に帰属させた。そして課税されるキャピタルゲインは金持ちに集中しているけれど、労働者たちも免税の年金口座で大量の株式を保有しているのだ。

去年ピケティ、サエズ&ズックマンが発表した論文では、税区分を個人で見て、キャピタルゲインを企業内部保留で置きかえる新手法が採用されている。それでも、トップ1%の税引き前所得シェアが1980年代初頭の12%から2014年には20%にまで高まったとされている。これは彼らが様々な新しい所得源を計上しているからだ。この新しい手法はGDPのあらゆる金額を追跡して配分し、「所得分配による国民会計」をつくり出そうとしている——ズックマンはいずれこれが政府の統計局にも採用されることを期待している。だがこれはなかなか面倒な手法だ。というのもGDPの4割は、個人の確定申告には計上されないものだからだ。そうしたものは政府が意図的に免税にしているか、あるいは申告者が違法に申告漏れしているものとなる。

この表に出ないGDPを個人に配分するのは、科学というよりは職人技だ(だからこそピケティ&サエズのもっと保守的な以前の手法のほうがいまだに有力なのだ)。これを正しく行う方法こそが、この経済学者の2集団の間で最も重要な意見の相違点となっている。

表に出ないGDPの大きな一部は退職用の貯蓄が増えるにつれて、年金システムの中に貯まる——これは免税口座に入っていることが多い。全体として、どちら側の経済学者たちも、この所得は年金貯蓄額に比例した形で個人に配分されるべきだという点では同意している。だがその貯蓄の配分自体を推計しなくてはならない。

オーテン&スプリンター論文は、ピケティ、サエズ&ズックマン論文がこれをやるときにデータの扱いをまちがえたと主張する。そのまちがいというのは、一部のフローについて、実は年金口座の間で起こる既存の貯蓄の振替——あるいは専門用語では「ロールオーバー」——でしかないのに、それを引退貯蓄の所得だとしてしまったことにあるという。『エコノミスト』がズックマン氏に問い合わせたところ、彼はそんなまちがいは存在していない(したがってオーテン&スプリンター論文が行った補正すべてに賛同しない)という。

現金を両手でつかめ

GDPの別のかたまりは、税金逃れのせいで行方不明となる。だが経済学者たちの両サイドは、その犯人の正体について意見がちがっている。オーテン&スプリンター論文は、税金逃れの主導的な研究に頼る。この研究は、アメリ国税局 (IRS) のアンドリュー・ジョンズと、ミシガン大学のジョエル・スレムロッドが2010年に書いたものだ。これはIRSによる税務査察の結果を使い、所得集団ごとの税金逃れを推計している。当初、ピケティ、サエズ&ズックマン論文はこうした数字が金持ちによる税金逃れを過小評価していると主張していた。金持ちは賢すぎてIRSなんかに尻尾をつかまれないから、という。だがもっと最近になると、彼らも自分たちの手法がジョンズ&スレムロッドの研究と実はほとんど同じだと論文で述べている。他の経済学者たちは、ここに割り込んでどっちが正しいのか判断したがっていない。ほとんどは、計上されない所得の配分が面倒だと指摘するだけにとどめる。スレムロッド氏は、まだこの意見の不一致を調べていないという。

既存の格差理論と一貫した形で、オーテン&スプリンター論文は最終的には、課税前所得に占めるトップ1%のシェアは1960年代から上昇しているという結果をだす。ただし、その上げ幅は他の推計よりは低い。

だが生活水準の差に本当に影響するのは、税と移転後の所得格差だ。そしてこの部分では、オーテン&スプリンター論文はほとんど変化が見られないと述べる。一部の経済学者は、こうした数字がメディケイドを含めることで歪んでいると主張する。だが無料ヘルスケアを提供すると格差が減るということは否定しがたい。問題は、こうした「金銭以外の便益」がまともな所得として扱われるべきかということだ。

お金、それは大ヒット

こうした論争の多くは、格差に関する定説の二つ目に対する批判へとつながる。つまり、中産階級が停滞しているという主張だ。ピケティ、サエズ&ズックマン論文はトップ1%の稼ぎ手のシェア増大は底辺50%の犠牲で実現したと述べる。すると、もしトップ1%がそんなに大儲けしていないなら、だれかがその分だけいい目を見たはずだと言うことになる。

そして確かに、格差に関する推計は実にいろいろあるのと同様に、中産所得の長期的な成長についても、推計値にはすさまじい開きがある。シンクタンクであるアーバンインスティテュートのスティーブン・ローズによるレビュー論文は、1979-2014年のアメリカの実質メジアン所得成長について、可能な数字が6つあるという。下はピケティ&サエズの2003年論文の手法による8%下落というもの、上はCBOの手法を使う51%増大というものになる。

格差に関する第三の定説——生産性増大が所得増大を上回っているというもの——は、ピケティ氏のベストセラー『21世紀の資本』の中心的な議論だった。それが本の題名になっているほどだ。その主張によると、所得分布のてっぺんに新しい金利生活者階級が生じていて、そうした人々は働くよりも投資や相続によりほとんどのお金を得ているのだという。これは、先進国のあらゆるとこれおで見られる、GDPのうち労働者ではなく資本に向かう比率が増えているというデータとも整合しているように見えた。だがこうしたデータもまた、ますます精査されつつある。

21世紀の資本』から間もなくして、現在ノースウェスタン大学のマシュー・ロンリーはアメリカの資本シェア増大は住宅の収益が増えていることで説明がつき、アメリカ世帯のトップ1%が突出して保有している株や債券では説明できないと論じた。

2019年2月に発表された別の論文で、別の経済学者たちがアメリカのトップ1%の稼ぎ手たちについて、どこから収入を得ているのか調べた。その所得の大半は、トンネル会社からやってくるものだった。こうした利潤は、投資収入とまちがわれやすい。だがこの論文の著者たち——アメリ財務省マシュー・スミス、カリフォルニア大学バークレー校ダニー・ヤガン、プリンストン大学オーウェン・ジダー、シカゴ大学エリック・ズウィック——は、トンネル会社の利潤はその所有者が引退したり死亡したりすると四分の三が消えることを発見した。つまりそうした稼ぎのほとんどは労働に依存していることになる。多くの医師、弁護士、コンサルタントはトンネル会社を運営している——そうした人は、本当は自営業と判断されるべきだ。その所得を資本シェアに含めることで、資本シェア増大が過大になっていたわけだ。

最近になって経済学者たちは、こうした批判を国際的に広げた。近年のワーキングペーパーで、フランス銀行のジルベール・セテ、ニューヨーク大学(NYU) トマ・フィリポン、フランスINSEEのロレイン・ケールは自営と不動産所得が引き起こす歪みを補正した。すると労働シェアはアメリカでは2000年から下がっているが、先進国すべてで見られるような普遍的な低下は見られなくなった。NYUのゲルマン・グティエレスイングランド銀行ソフィー・ピトンも同じ結果を得ている(図2)

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アメリカ以外では格差拡大はそんなにはっきりしない

格差に関する定説の最後、4番目も攻撃されている。これは富の格差に関するものであり、昔から最も判断のむずかしい種類の格差だ。どんな格差指標でも、個人を追跡するのではなく、人口のある塊を追うにすぎないという事実でかなり歪んでしまう。そうした塊は、見る時点が変われば構成員も変わってしまうのだ。個人にとって、将来の所得増大が高まるという予測因子として最も優れているのは、貧しいということになる。というのも統計的に、平均回帰という現象が見られるからだ。

たとえば、2013年のオーテン氏と、アメリ財務省の同僚ジェフリー・ジーおよびニコラス・ターナーは1987年に35-40歳だった個人の所得を20年以上にわたり追跡した。1987年の最下位4分位の平均稼ぎ手は、この期間に実質所得が100%以上も増えた。トップ4分位の平均稼ぎ手は実質所得が5%低下している。2002年のトップ1%の稼ぎ手のうち、5年後にトップ1%に残っていたのは半分に満たない。コーネル大学トマス・ハーシュルの研究によると、アメリカ人の11%は25歳から60歳の間に少なくとも一年はトップ1%に入るという。

オレの札束に手を出すな

富の格差の場合、この構成員の問題はさらに大きな問題となる。富は人々が引退に備えて貯金することで貯まる。つまり、富は高齢になれば、特にまだ働いているうちに増える傾向があるということだ。だから多くの人は、人生のどこかで全人口でみれば相対的に金持ちに見えるようになるはずだ。さらに貧困個人が貯金して富を蓄積するニーズは、年金や公共サービスがあれば低下する。すると、社会民主的なスウェーデンで富の格差が極度に高い理由はなぜか、さらにほとんどだれもそれを問題視していないのはなぜかという謎も説明がつく。

2016年のサエズ&ズックマン論文は、アメリカ世帯のトップ0.1%が持つ富のシェアは1978年に7%だったのが2012年には22%、ほとんど1929年の水準に上がったと述べている。サエズ&ズックマン論文はてっぺんでの富について自分の推計値を使い、ウォーレン候補やサンダース候補が提案している富裕税が毎年どれだけ生み出すかを予想している。ウォーレン候補の富裕税は、当初は5千万ドル以上の財産にかかるもので、最も豊かな世帯3%に適用され、年にGDPの1%に相当する歳入を生み出す、という(ウォーレンはその後、最高税率を2倍にした)。

この推計は広範な批判を招いた。サエズ&ズックマン論文も検証を受けた。彼らの富の推計は、一部は確定申告に見られる投資収入を調べることで得た物だ。ある所得カテゴリー、たとえば株式や、「確定利回り」投資 (債券など) については平均の収益率を想定し、それを使って個人に富を帰属させている。たとえば、ある投資の想定収益率が5%なら、所得額を20倍することで投資規模が推計される。

スミス、ジダー&ズウィックのワーキングペーパーはこの手法を拡大した。だが収益率の想定にもっと幅を持たせた。特に確定利回り投資の収益率が大幅にちがっているというアンケート調査のデータを挙げている。たとえば底辺99%は、確定利回り資産の70%近くを銀行預金で保有していると言う(銀行預金の利息はゼロかきわめて小さい)。だがトップ0.1%の数字は20%以上ではない。

最もたくさん確定利回り資産を持つ人々は社債を持つ可能性が高い。高リスクだが収益率も高いからだ。利回りが高いということは、資産推計を行うときに掛ける数がもっと小さくなるということだ。近年のように利子率が低いとこれは大きなちがいをもたらす。たとえば収益率を1%で想定したら、0.5%で想定した場合にくらべて推計資産額は半分にしかならない(これが4.5%と5%のちがいならそんなに大きな差にはならない)。

こうした変更に、トンネル会社をきちんと考慮するなどその他の補正も加えることで、スミス、ジダー&ズウィック論文は富の世帯ランキングを新たに作り直し、トップ0.1%のシェアはわずか15%だとしている。もっと重要な点として、1980年代以来のトップ層の富のシェア増大も半減する。サエズとズックマンは、この前提に反論している。だが最低でもこの論争は、資産推計がいかに面倒なものか、そしてその推計値が不確実な要因についての想定の変化に対してどれほど敏感かを示している。そしてこれは、各種の富裕税がもたらす歳入額も同じくらい不確実になるということを意味する。

アメリカで、トップ層の資産シェアが増えたことについては、ほとんどだれも異論がない。さらにその増大が、本当にエリートと呼べる人びとの中でも最頂点の人々の財産に左右されていることもみんな認める。むしろはっきりしないのは、その増大がどれほどか、ということだ。

おれの取り分を奪うな

国際的には、この構図はずっと不明確だ。ストックホルムにある工業経済学研究所のダニエル・ワルデンシュトレムによると、資産分布のよいデータはアメリカ以外だと参加国にしかない——イギリス、デンマーク、フランスだ。こうした国々では、過去数十年にわたり格差にはっきりしたトレンドを指摘するのはむずかしい(図3)。コペンハーゲン大学のカトリン・ヤコブセンら (ズックマン氏も含む) の研究によれば、デンマークのトップ1%の資産シェアは1980年には上がったが、その後はほぼ横ばいだ。フランスで富の格差が広がっているように見えるかどうかは、資本収入を見るか相続を見るかで変わってくるとワルデンシュトレム氏は語る。

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他の国でもトップは豊かになってはいるが……

この大量の新研究は、格差についての人びとの見方を変えるだろうか? これは最終的には、経済学者たちが各種の論争に決着をつけるなかで、どの学者たちが生き残るかで決まってくる。データの改善余地はいくらでもあるので、ピケティ、サエズ&ズックマンの批判者たちも結局まちがっていたということになるかもしれない。そして格差が多くの人の思っているほどは広がっていなくても、貧困者と金持ちとのギャップはいまだにがっかりするほど大きい。

この長く血みどろの学者バトルが続く間、政策担当者としては慎重に歩みを進めるほうがいい。高所得者への税率を激増させたり、純資産に課税したり、あるいはピケティの新著に見られるようなはるかに過激な提案などは、まだ部分的にしか理解されていない問題への対応となるのだから。

スノーデン暴露の背景解説書……その前に各種スノーデンインタビューの不思議。

スノーデンがらみで、さらに関連書を読んでいる。スノーデンが直接登場した各種の本を離れて見ると、土屋大洋『サイバーセキュリティと国際政治』はスノーデンを手がかりに現代のサイバー環境、国際政治、監視社会と自由のジレンマまで、広範な内容をきわめて手際よくまとめた、ぼくが読んだ中でベストの本だと思う。

サイバーセキュリティと国際政治

サイバーセキュリティと国際政治

が、その前に、これまでに採りあげたもので首を傾げるところがあって吐き出しておきたいので、まずはその話から……

日本の各種スノーデンインタビューは、なんだかずいぶん不思議な代物ばかり。

その首を傾げるところというのは、スノーデンのインタビューだ。ポイントは二つある。どの本でも、スノーデンはとってもサービス精神旺盛でいっぱいしゃべってくれたようだ。が、そのいずれでも、スノーデンが日本の事情に詳しすぎる。しかもその詳しさは、やたらに特定の方向に歪んだ詳しさになっているのだ。どうしてだろうか?

さらにスノーデン文書の中で日本について触れたものがNHKの協力などで公開されている。でもその中身について、当然疑問に思うはずの中身をだれもつっこまない。どうしてだろう?

スノーデンインタビューの不思議 :スノーデンは日本の事情に詳しすぎるのでは?

どのインタビューも、そこそこ分量はある。監視社会の恐ろしさ、自分の暴露に到る過程、ロシアでの亡命について、といった定番の話をどれでもやっている。というか、定番の話しかしない。そしてその定番の話の一つが、日本も監視社会だ、政府を信用するな、という話だ。それも、一般論や理念の話ではない。スノーデンは自ら、秘密保護法はやばい、共謀罪はやばい、日本政府=安倍政権はいろいろ隠そうと画策しているのだ、と述べる。

さて、そういう見解はあり得るだろう。でも、ロシアに亡命中のアメリカ人が、日本の状況についてそこまで詳しいものだろうか?秘密保護法に何が書かれているか、共謀罪がどんな規定か、英語できちんと説明する資料がそんなにすぐに手に入るんだろうか?

スノーデンは、日本ではテロはないから共謀罪いらないとか、秘密保護法なくても秘密は保護できる法体系があるとか言う。でもそう断言する割には、彼が具体的に念頭においているのはどういう規定なのか、その規定をどう適用すれば秘密保護法と同じ保護がすでに実現できていたかについて、具体的なことは何も言わない。通常、ぼくが開発援助なんかの現場で相手国の制度や法案の不備についてあれこれ論じる場合には、向こうの法体系についてそれなりに知る必要がある。社債法案のこの規定はいらないだろう、と主張する場合には、おまえたちの既存の債券法の何条にコレコレの規定があってこれと矛盾するとか重複するとか具体的に主張する。そうしないと、ガイジンが印象や思いこみでモノ言ってると思われかねないもの。ぼくでなくても、普通はそういう配慮をする。しなければ突っ込まれる。でもスノーデンのインタビューには、そういう具体的な話がないまま、なんか日本の一部勢力とまったく同じ発言が並ぶ。

さらにはどこかワイドショーのアナウンサーが反アベで辞めさせられたとかいうヨタまで知ってて、それがジャーナリズムの弾圧とか言ってる。さてそうだっけ?そもそもキャスターと称する連中なんてジャーナリズムじゃないじゃん。それにアベ憎しで不勉強なヨタ飛ばしている三百代言がいまも昔もテレビにたくさん出てるけど、一向に弾圧されてないじゃん。スノーデンは本当に日本の状況を見て、言論弾圧が行われていると考えたのか?

さらにスノーデンは、日本のマスコミ事情にも詳しい。スノーデン暴露による監視問題がマスコミに採りあげられないのは、そういうのを採りあげると政府ににらまれて、ソフトな弾圧にあうからなんだって。役所の人が質問に答えてくれなくなったり、情報をくれなくなったりするんだとか。本当かなあ。政府に限らず、人が自分たちに都合の悪い質問には答えたがらなかったり、必要最低限の情報しか出さなかったりするのは、どこでもあることじゃないか? よいことかどうかはともかく、政府の言論弾圧と言えるものではないだろう。

またこうした法制に、国民みんなが反対してるというんだけど、そうだっけ? ぼくの知る限り、とうてい国民がみんな反対しているという状況ではなかった。賛成している人、秘密法が必要だと主張している人も結構いたぞ。なぜスノーデンは、それが反対一色だと言えたんだろうか?

さらにはモリカケ問題まで知っていて、政府が情報を隠してる証拠だと言う。が、そうだろうか? モリカケはほぼすべて、政府はおおむね説明資料を出し、野党その他が勘ぐっているような首相が無理矢理いろんな規定を強権的に曲げたような事実は一向になかったように記憶している。だからこそ、首相の意図が証明できず、周囲が勝手に配慮したという「そんたく」とかいう変な用語が流行語にまでなった。籠池という人物も、怪しさ全開で安部首相とのつながりなんかろくにない。学校に名前をつけるとかいう話もヨタだった。出てきた「資料」と称するものは、フォントや書式その他がいろいろ怪しい正体不明の文書だった。そして、野党は自分たちの期待どおりのものが出てこないと「疑惑は一層深まった」と言うだけ。全体として国会の時間を無駄にしたバカな話だったと思う。資料の破棄はあったけれど、それはどう見ても、財務省が入札をしなかった自分たちのヘマを隠すためのものだった。けしからんことだけれど、枝葉の話にすぎない。カケのほうは、獣医学部の創設の申請すらさせない文科省の変な利権が浮き彫りになって、そもそもそれを乗り越えるための特区だろう、というのがはっきりしただけだったように思う。

さて、スノーデンはホントにそのモリカケ問題を見て、その中身を理解し、それが問題だと言ったのか? 本当に自分でそこまで日本の事情を調べていたのか? そこまでモリカケ問題について報道されてたの?

(付記:日本の新聞の英字版を読んでいたら、そんな印象を受けたのかもしれない、という気はしないでもない。その一方で、いずれの事件もかなりセコイどうでもいい話で、それをもって政府の隠蔽が大問題だ、と主張するほどのものではないことはわかりそうなもんだとも思う。そういう事件が日本各地で10件も20件も出てきました、というならシステミックな問題と言えるだろう。トランプなら、あっちでサウジにトランプタワー建て、こっちで自分の施設に軍を泊まらせ、あっちで規制を曲げ、と次々に出てくるから政権全体の隠蔽と利益誘導の問題と十分に言える。でも無数にある国有資産売却で1件、各種の新設案件のなかで1件、しかも何も決定的なものがないとなると、どうよ)。

ホントの発言が聞きたいと思ってニコニコ動画にお金払ったけど、同時通訳の声しか聞こえず当人の発言が聞こえない。でも本人が言ったにしても、外国の法規制の体系や事情をそこまで細かく理解しているとはにわかには信じられないし、がんばって予習した結果だとしても、それがスノーデン自身で行ったものならば、招聘者たちの主張とここまで細かく一致するってホントだろうか? どうしても、スノーデンが何か事前のブリーフィングを受けて入れ知恵されてるのではと勘ぐりたくなってしまう。そうでなければ、よほどサービス精神旺盛で、ホスト役の意向を完全に把握してそれに合わせてくれたのかもしれない。が、その場合であっても、ここまで細かく一致するものだろうか?

スノーデン関連本の不思議 2:XKEYSCOREの日本提供にどうしてだれも突っ込まない?

もう一つ、これはちょっとマニアックな話ではあるんだけど、スノーデンの日本関連文書では、XKEYSCOREが日本に提供されている、というのが(ほぼ唯一の)大きな話ではあった。日本でスノーデンを担いだ各種の本も、それをここぞとばかりに叩いている。当のスノーデンも、それを繰り返し指摘する。

さてXKEYSCOREは、NSAのソフトで、そこに名前その他を入れるだけで、その人に関する過去のあらゆる通話、メール、ウェブの閲覧暦、SNSなどがずらずらっと表示され、その人のすべてがわかってしまう、というおっかないソフトだ。それが日本に提供されている、となると、いまやぼくの名前を入れただけでぼくのアダルトサイト鑑賞履歴からツイッターの裏アカから何か全部わかってしまうのかな、というふうに思ってしまうのは人情だ。

でも、まずXKEYSCOREが提供されたというとき、どこまで提供されたの? つまり、NSAが抱えているそのあらゆる通話通信の完全保管データベースに日本がアクセスさせてもらえるということ? それとも、そのフロントエンドだけなの? あるいはNAMAZUみたいな検索のインデックス作成部分だけ? それで話はかなり変わってくると思うんだけど、聞いている人はだれもそこに突っ込まない。

その収集データは、ある意味でNSAの虎の子だと思うんだが、それを完全に使わせてもらえるならすごい話で、純粋に技術おたく的な感覚からするとすごいお得感があるようにさえ感じてしまうけれど(もちろん監視という点ではおっかない)、ホントにNSAはそんなものを好き勝手に日本にアクセスさせるの? スノーデンによると、日本は同盟国の中で「サードパーティー」と呼ばれてあまりランクが高くないそうなんだけど、そんな下っ端に、そんなすごいデータをすべて提供するんだろうか。

テッキーでない人々はもちろん、「ソフトウェア」というものに具体的なイメージがないから、「すべてをコントロールするソフト」「すべてを監視するソフト」みたいな話を特に疑問も抱かず受け入れてしまう。でもキャットウーマンですら『バットマンダークナイトライジング』で「そんなもんあるわけないだろ」と悪玉に嘲笑されてしまうのだ。以下の1:50あたりからね。


The Dark Knight Rises The Clean Slate Scene

(まあこれは映画だから、最後にバットマンがそのあり得んソフトを持ってきてくれるんだけどさ)

でもそんな単純なものではないはず。もちろんスノーデンも、細かいところまではわからないだろうけれど、これを他国に提供するという場合にどんなやり方が考えられるのか、くらいの話は確認してもいいんじゃないだろうか。

さらに、XKEYSCOREと並んで日本に提供されたと書かれているソフトが他に二つあるんだけど (WEALTHYCLUSTERとCADENCE)、それって何なの、という質問をだれもしていない。みんなXKEYSCOREやばい、というだけでおしまい。うーん、あなたたち、本当に日本とNSAなどの諜報活動の実態に興味あるんですか?

スノーデン文書の中身に本当に興味あるんなら、だれかしらそういうことを聞いてもいいんじゃないかとは思う。もちろん、インタビューした連中がみんな技術的にタコでそういう方面に頭がまわらなかったという可能性はある。その一方で、どのインタビューを読んでも、スノーデンはほぼ同じことを聞かれて、同じ事を答えてるだけ。なんだろう、これは?

だからいくつか出ているインタビュー本を読んでも、やたらに重複が多くて突っ込みが浅く、あまり読んだ甲斐がないように感じられる。

土屋『サイバーセキュリティと国際政治』:スノーデンを手がかりにもっと広い背景まで扱うベストな副読本

サイバーセキュリティと国際政治

サイバーセキュリティと国際政治

いくつか読んだ中で、これが最も優れた本だと思う。スノーデンの暴露について、その背景を押さえつつ、もっと広いいまの情報環境全般と、その中での監視社会と自由との相克、国際政治における諜報活動の役割の中での位置づけまで説明してくれる。

この本は、スノーデンの暴露についてはそれなりに評価している。そして、それがまったく目新しいわけではない一方で、なぜ画期的だったのかについてもきちんと書く。一方で、スノーデンの主張を鵜呑みにするわけではない。スノーデンによると、政府/NSAはとにかく9.11に便乗して自分たちの活動を徹底的に広げて権益を確保したかっただけだ。確かにそういう面もあるだろう。でも一方で、むしろ情報機器や通信量が莫大になったために、ピンポイントの監視においてすら従来のやり方では困難になっているという状況は確かにある。そして監視そのものより、保存と分析のほうがボトルネックになっていることを本書は指摘する。かつての信号諜報は、手紙と電報電話だけ押さえればよかった。いまはそうではない。だから、監視能力が拡大していることだけを取り沙汰するのは、必ずしもフェアではない。監視されるほうも拡大しているのだから。

スノーデンですら、きわめて制約された形でピンポイントで行うなら、盗聴、監視は正当化されると述べる。でもその正当化される監視も、現状の情報環境ではかなり広い捕捉を行う必要が出てきてしまう。スノーデンは、オバマが当初は透明性の高いオープンな政府を公約しつつ、実は大量監視に加担していたことを失望とともに語る。でもオバマが聖人だとは思わないけれど、「これで国民のやること全部わかるぜ、うっひっひ」とダークサイドにいきなり転向したとも思わない。土屋は、それを現在の自由と安全とのジレンマの中でオバマが下さざるを得なかった苦渋の選択の結果だろうと考える。少なくとも、そう見ることは十分に可能だ。それに賛成するかどうかはともかく、そういう見方が決して完全なナンセンスではないことは、念頭においておく必要がある。

そもそも、サイバー空間の中で何が容認されるのか? そこは本当に、完全にだれが何でも自由にできる、プライバシーの確保された空間であるべきなのか? それですら合意があるわけではない。この本は、その点についても述べる。そもそも、プライバシーとは何だろうか? そういう根本的な話も本書はきちんとしてくれる。

そして最後に本書は、安全保障という問題に立ち戻る。ぼくたちは、自由と民主主義こそが安全と繁栄をもたらすのだ、と考えがちだ。でも実際には……安全が保証されているからこそ、みんな自由にふるまえて、民主主義も栄えるというのが実態のようにも見える。その場合、優先すべきなのは何なのか? スノーデンを担いだ日本の他の本みたいに、とにかく政府信用できない、監視社会あー恐ろしい、というような本ではまったくない。スノーデンの話をもとに、それをもっと広い視野で見直させてくれる、極めてすぐれた本で、副読本としてベストだと思う。

その他

他の本として、ライアン『スノーデン・ショック――民主主義にひそむ監視の脅威』は、やはりスノーデンの話をもっと広い文脈の中に置こうとした本だけれど、その「広い文脈」は実はそんなに広くなくて、監視社会よくない! 民主主義の敵! というだけ。つまりは、題名以上のことはわからないということだ。そしてそれを言うのに、どうでもいい小説や哲学の話をいろいろちりばめてみせるけれど、全体にとっちらかっていてぼくはあまり感心しなかった。この人、小笠原みどりの先生なの? 彼女とスノーデンの橋渡し役でもあったようだ。彼女の、いろんなものが整理されない書きぶりと非常に似ていて、この師匠にしてあの弟子あり、という感じはする。

また三宅『監視社会と公文書管理――森友問題とスノーデン・ショックを超えて』は、森友問題とスノーデンの話を無理につなげようとして成功していないように思う。上に書いたような理由で、ぼくは森友問題はまともな「問題」と思っていないので、それを題名に掲げる時点でかなり色眼鏡で見てしまうというのもあるだろう。確かに公文書管理をもう少しきちんとすべきだ、というのはあるし、森友話で多少それが関係してきた部分はある。でもそれは役所の保身と、統計調査資料破棄に見るような予算をケチった問題でもある。監視社会という話とは遠く、スノーデンを持ち出す理由もないのでは?

挙げ句に、豊洲市場移転の話まで隠蔽だなんだと(いまだに)言うんだが、あれはすべて言いがかりで経緯も問題なかったし、構造的にも何ら疑問はなく、汚染物質が基準の〜とかいうのも、飲むわけでもない湧水に飲料水の基準を適用したピントはずれの全然無問題な話でしかなかく、むしろ騒いだ側が小池百合子の無知なメディアパフォーマンスに踊らされ (あるいは小池のほうが乗せられたとも言えるが、同じことだ) 豊洲地区に風評被害をもたらしただけだった。むしろ豊洲市場の騒ぎ、さらにはモリカケの一見で明らかになったのは、情報の隠蔽とか正しさとかいうものを問題にする場合、情報を出す側だけでなく、それを受け取る側の理解力 and/or integrity が問われるということだ。きちんと情報があっても、それが理解できない、あるいは理解しないふりをして情報がないない、隠蔽だと騒ぎ立てる人が何やら政治力をもってしまう——ぼくはこちらのほうが大きな問題だという気さえする。この受け手側の能力不足という問題を抱えた人が、政府の公文書管理の適切さを判断できるのだろうか?

ウルーソフ『遠い蟻たちの叫び』

以下の本に収録。

当時のソ連ならではのテーマを、当時のソ連において唯一可能だった文学という形式でしか書けないやり方で書いた異様な傑作。必然性もなしに社会問題にすり寄り、必然性もなくそれを小説化してみせて悦にいるいまのほとんどのブンガクに比べ、書かずにはいられないことを、小説にしかできないために小説にしたすごい作品。他にこの人の作品は知らないけれど、この一作だけでもぼくはペーター・ハントケの10倍は価値があるとは思う。

OCRしてみたが、昔の活字は機械可読性が低く、かなり打ち直す羽目になった。

アレクサンドル・ウルーソフ『遠い蟻たちの叫び』

誤字などお気づきの方はご一報いただければ幸い。OCRのありがちなまちがいは、濁点と半濁点、「こ」と「と」、「米」と「来」、「闇」「間」「聞」で、つぶしたつもりだけれど見落としあると思うので。

スノーデンの公表した日本関連文書

昨日、スノーデン関連の本をざっとレビューしたとき、小笠原みどりの『スノーデン・ファイル徹底検証』についてかなり論難した。

これはほとんどが、 Interceptが出したスノーデン文書をネタにしたものだった。でも、そもそもこのInterceptの出した文書というのはどういうもので、どんな文脈だったのか? 小笠原本があまりにひどかったので、好奇心にかられて見てみました。そして、そっちがあまりにまともだったのでおどろいた。というわけで、勝手に翻訳したからみなさんも読んでね。

cruel.org

(原文はこちら)

小笠原本は、この記事と開示文書をもとに、一言一句に自分語りと自分のイデオロギーをまぶして本一冊にふくれあがらせたものだった。そしてとにかく日本はNSAと協力してる、陰謀に加担して、あーおそろしい、いやいや、秘密保護法いくない、アベガー、という話になっていた。

でも、この記事を読んでみて、みなさんはどう思っただろうか? ぼくはそんなに日本やべー、という印象は受けなかった。むしろ、日本がんばってるじゃん、という印象だった。なんでもアメリカの言いなりかと思ったら、そうじゃないよね。自分の立場も保って、おかげでアメリカ側もかなり気を使っている。大韓航空機事件から諜報の提携が始まっているというのも興味深いところ。

それ以外の話はどうだろうかNSAが日本に拠点を持っている——まあ持ってるだろうねえ。日本がその施設建設費とか運用費用とかを負担させられている——日米安保思いやり予算とかあるからなあ。その範囲内ではそういうこともあるだろう。諜報だって軍事活動の一環なんだから。小笠原本は、日本の三沢基地でのSIGINTがアフガンとかの爆撃など作戦行動に使われるといって、人殺しの片棒担ぎだと騒ぐけど、ぼくはそれがそんな騒ぐことだとは思えない。建前やお題目はどうあれ、軍事基地なんだし、そこにある戦闘機や銃器が戦闘で殺傷に使われないはずがない。そこで集めた情報がその支援に使われることだってあるだろう。そしてその細かい内容がわからないのは、日米安保という枠組みで国の基本機能である防衛の一部を委ねている代償としてのお約束事だ。その仕組みを受け入れるなら、ぼくはここに書かれたような内容はそれほど衝撃だとは思えない。

それを衝撃だと言いたい人たちはもちろん、日米安保という仕組み自体を受け入れたくない、ということなのかもしれない。が、それは話の次元がちがってくる。

一方、NSAは日本に対しても諜報活動を行っているとか、アメリカにいる日本人に対して盗聴を行ってるとか、まあ気分はよくないけど、でもそれはそういうもんだろう。日銀なんて盗聴するだけ無駄だとは思うけど。ぼくの一家ですらやられたし。

cruel.hatenablog.com

捕鯨委員会でNSAが盗聴してじゃましくさって、モラトリアム継続になったって、テメーら許せん! と日本人のプライドがうずく面はあるけれど、国際会議はそういうかけひきだしなあ。

唯一アレなのは、日本にXKEYSCORE提供しているという話。どういう使い方してるんだろうね。これは興味ある部分ではある。

でもそれ以外は、小笠原本のように、とにかくやばい、まずい、監視国家、日本も加担、ろくでもない、という話にはぼくは感じられなかった。日本は自分で各種の諜報活動をしているし、その中には当然ながら自国民に対するものもあるだろう。でもそれはNSAともスノーデンともほとんど関係ない話だ。それを無理にからめたために、小笠原の本は話が本当にわけわからなくなっている。

この文書はNHKのクローズアップ現代との協力で公開されたものなんだけど、小笠原本は丸一章かけて、その番組の中で共謀罪の話が出なかった、というのをウダウダ言い続け、それが政府へのソンタクだ、国家の情報統制だとわめきたてる。でもこの記事を見ると、単にほとんど関係ないから、というだけの話にしか思えない。土屋大洋が番組内で、むしろ公表資料は日米間の協力ができている話と見るべきでは、とコメントしたのも偏向発言であるかのように言うのだけれど、彼の言う通り、一方的に指図されているのではない関係が十分に見える資料だと思う。

さらに小笠原本は、人工衛星受信用の巨大アンテナについて、近隣住民が電波で健康被害を訴えて〜とかいうヨタを平気で垂れ流す。この記事にもあるとおり、アンテナが巨大なのは微弱な人工衛星の電波を受信するためであって、送信してるわけじゃないんだから、電波で健康被害なんてあるわけないじゃん。

有益な議論をしたいなら、きちんと話を切り分けないと。まずこの記事くらいの中身をきちんと紹介し、歴史と文脈を考えたうえで、それをもとに自分の主張をからめるならいいけど、とにかく思いつきでなんでもくっつけるだけでは、まったくお話になりません。