AIと文芸翻訳:オールディス『ヘリコニアの春』を例に

翻訳者、特に文芸翻訳系の翻訳者にAI翻訳の話をさせるとおおむね、簡単なもの、実務翻訳とか産業翻訳 (マニュアルとかね) ならできるけれど、高度な文芸翻訳はとうていできないよ、という自己充足的な自画自賛に陥るのが常だ。が、ぼくは昔から、翻訳なんて機械的な作業にすぎないし、いずれAIに代替されると思ってきたし、それは翻訳者の全技術 (星海社 e-SHINSHO)を含めあちこちで言ってきた。

そして、そろそろそれが現実的になりつつあると思う。そう思うのは、実際にそれをやってみたからだ。

取り上げたのは、ブライアン・オールディス『ヘリコニアの春』。

これはオールディスの最高傑作ともされる、ヘリコニアの春・夏・冬の三部作の冒頭となる。

それがどんな話かは、以前CUTのレビューでも書いた。

cruel.org

そしてそこでも書いたことだけれど、オールディスの文章って、するするっと読めるので、その場ではそこそこ楽しいんだけれど、妙に記憶に残らないところがある。名作とされる『地球の長い午後』は、アミガサタケというのは覚えているし、月と地球の間にはりわたされた植物とかそこを渡る巨大ナマケモノとかは記憶にあるけれど、どんな話だったかと言われると、まったく覚えていない。実はいまあげた細部は、アミガサタケは吾妻ひでおのマンガで読んだからだし、ナマケモノは荒俣宏『理科系の文学史』に出てきたから覚えているだけで、小説の中では記憶していない。

これは山形個人の問題という可能性もあるが、そうではないと思う。もっと一般的なことだと思う。

なぜそうなるかといえば……それはオールディスが、あまりに教科書的な文章を使い、教科書的な物語構築を行うから、ではある。達者であるがゆえに印象に残らないというのは、優等生の悲哀みたいなものではある。変な書き方、異様なテーマ、はちゃめちゃな物語構築、そんなもののほうが人々の印象に残る。学園ドラマでは、不良とか授業さぼって先生に怒られてばかりいるヤツのほうが人気者だ。岩清水君は常にボケで引き立て役にしかしてもらえない。(ああ、若者は知らないだろうね。昔、『愛と誠』という発狂した人気学園マンガシリーズがあって、そこに出てきた噛ませ犬的ライバル役なのよ)。

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オールディスもそんなところがある。ちなみにその岩清水君も、みんなの記憶に残っているのは、その優等生にはほど遠い、イカレてる部分だけだわな。

そして、優等生的に書かれているということはつまり、きわめて一般的ということ。だからAIくんにはとっても扱いやすいはず。というわけで、喰わせてみました……というのはちょっとウソで、はるか昔に少し訳しかけたんだけれど投げだし、ようやく続きをやろうと思って訳文を探しても出てこない。どのみちやったのは3ページほどだったんだけれど、最初からやりなおしたほうがはやい場合ですら、昔一度やったものをやりなおすのはしゃくに障るので、無駄な時間をかけていろいろ探したりするのはみなさん経験あると思う。これも、さんざん探したあげくに、自分でもう一度やるのはいやだからAIくんにやらせてみよう、と思っただけ。その結果は以下の通り。

ブライアン・オールディス『ヘリコニアの春』(最初の140ページ)

使ったのはTwitterに付属のGrokだ。ChatGPTとClaudeとあれとこれで比較、とかいうのをやってもいいんだろうが、そんな細かい比較をしたいわけじゃない。単にAI全般の能力というのを試したいだけなので。

そしてその結果を見ると、意外にいい。9割くらいはまったく問題なくできている。オールディスだと、これが架空のファンタジー世界だというのを理解して、ファゴルとかブラチとかはカタカナにして処理してくれる。できないのは、反語とか二重否定とか、皮肉、いやみだ。あと、慣用句。「Look,」というのはしばしば「なあ」くらいの呼びかけで使われるけど、愚直に「見てくれ」とやりたがる。その一方で、「You will never trick me, monk」を「僧侶、君には決して騙されない」という具合に、相手への呼びかけを先にまわすような配慮はある。でも関係節の順番の細やかな配慮はないな。

そしてちょっと続けると、だんだん端折りはじめる。特に似たような表現が繰り返されると間を勝手に抜かすことがままある。以下の、Withoutが重なる表現だと、最初と最後をつなげてしまい、間が消える。

Without removing his eyes from the landscape ahead, Yuli sensed that Iskador stood halfway between him and the men at the cave mouth. Without looking back, he answered Usilk.

前方の風景から目を離さず、ユリはウシルクに答えた。

そして本一冊まるごと喰わせて、10段落ずつ訳せというのをやっていくと、途中からだんだんありもしない文章を捏造しはじめるので要警戒。だからマイクロマネージして、10段落ずつくらいくわせて独立に訳させる必要がある。そして仕上がりはチェックしなきゃいけない。

それでも、かなりのところまできているのは否定できない。これよりひどい人間翻訳なんかいくらでも読んだことがある。たぶん、もっとプロンプトをがんばるといろいろ改善はできるんだろう。が、ぼくはエディタのテキスト整形でも、正規表現を厳密に書き上げるよりは簡単な正規表現置換で一通りすませてから手動で見るほうが多いし、この翻訳もそんなにがんばる必要もない。

ラファティみたいな、異常なことばのつながりは、まだAIには処理できない。あと先日やった、チャンドラーみたいな、口語と省略とことばの経済性を重視する文体は、AIで翻訳してもそのままでは使えるものにならない。これもプロンプトで何とかなるのかもしれないけれど、そこまでは手がまわっていない。でもこのオールディス的な優等生テキストは、AIでもきちんと処理できる。優等生的、ということはつまりルール通りということだからね。

ということでできたのがこれだ。ペーパーバックにして最初の100ページほど。全体が380ページだから1/4以上だな。

片手間で一日にペーパーバック20ページくらいは楽に進む。この翻訳も6/20頃に始めたんだが、最初はむしろOCRのテキスト整形に時間を費やして (こんなものこそAIに活躍してほしいところだけれど、なんかやりたがらないんだよね)、翻訳にまじめにかかったのはここ数日くらいだ。それでここまで行けば大したものだ。

読んでいただけばわかるけれど、小説としても決してつまらなくはない。この100ページまで訳したのは、最後のところでやっと、これが単なるファンタジーではなく、もっと大きな枠組みの中の話なのだというのが少し明らかになるから。これから、この二重星系とそれたもたらす雄大な生態系の変化、そしてそれが矮小な人間たちに与える影響、そしてその背後に蠢く惑星開発委員会の陰謀があらわになってくる。

その一方で、オールディスがよくも悪しくも優等生的なのはすでに明らか。各種説明は本当に必要なだけ。ロレンス・ダレルに書かせたら、冒頭の雪原を埋め尽くすイェルクの群れの壮大な風景は、もっと言葉を尽くして浪々と描き出すことだろう。ユリたちの逃亡の、暗闇から滝の流れる鍾乳洞への登場もすばらしい開放感とともに描かれ、あとそこで一瞬垣間見られる秘密教団上層部の別世界も、妙に伏線張っておきながらまったく活用されずに流されているけれど、もうちょっとなんとかしたはず。第1章の葬儀の部分も、比喩、換喩、隠喩総動員で10ページくらい使って描き出すだろう。でもオールディスは、必要不可欠な話を書いて全体の構図が把握できたらもうそれ以上は耽溺しない。このため、ある意味で全体が単調になっている。最初にいった、記憶に残りにくいというのはそのせいだ。

もっと文学的な作家なら、ヘリコニアの双太陽の世界を描くにあたり、それぞれの太陽の比喩となるような人間を設定して、そのドラマと季節の変動とが相互に関連しあうような仕掛けを作るだろう。オールディスは、双太陽の動き→エネルギー収支→季節変動→生態系変化→文明への影響→人物ドラマ という一方向の流れだけですべてを描こうとする。それは現実にはその通りではあるんだろう。でもそこに何か逆の因果を見たがるのが人の心の動きであり、文学とか芸術はある意味で、そういう心の動きを正当化するものとして創り出されてきた。たぶんこれが、SFと文学というぼくが大学生だった頃にはしばしば取り沙汰された話にも大きく関わっているんだろうね。だが閑話休題。

 

この先は、まあやるんじゃないかな。一日20ページというのが本当に続くなら、この長大な三部作が1ヶ月ほどで終わることになるし、余裕を見ても秋を待たずして完成ってことになる。が、まあそうはいかのキンタマ。もう少しかかるでしょう。

そしてたぶん、こういう形で文芸翻訳でもだんだんAIは入ってくるだろう。オールディスだけでなく、AIと相性のいい作家がだんだんわかってきて、さらにAI側も翻訳スタイル別のプロンプトとかが出てくると、文芸翻訳も十分にAIの守備範囲に入ってくる。これまでうち捨てられていたものがかなり急速に進むんじゃないかとは思う。

さらにもう一つ。なんでもそうだけれど翻訳においても、意味はわかるけどどう処理しようかな、と逡巡したり、やればいいんだけれど単調でつまらないな、と思ったりする部分がしばしばある。すると、手をつけるまでにえらく時間がかかる。迷っている暇にまずやってみればいいだけなんだけれど、やらない。作業に手をつけるまでのハードルが多くの場合に存在するわけだ。

AIくんはそういうためらいがない。なんだかんだで、やれといえば一応やってくれる。そしていったんAIによるたたき台ができれば、それを直すのはそんなにハードルの高い作業じゃない。AIが人間を置き換えるか、というのは重要な問題かもしれないけれど、同様にこういう形で人間の尻を叩いてくれる効能は確実にある。

そしてAIも進歩しているのかもしれない。途中でちょっとギョッとしたところがあった。

The priest laughed, and dismissed the boy with a gesture, waddling over to see his charge.

司祭は笑い、身振りで少年を追い出し、病人を見にわだわだと歩いた。

「わだわだと」って何? ぼくはこの表現自体を知らなかったが、恐ろしそうにぶるぶる震える、という意味だそうだ。でもここの文脈的には合っていないし、辞書でwaddlingをひいてもそういう意味ではない。ひょっとするとwaddleの音から勝手に語呂合わせで持ってきたわけ? するとすでにAIも、語呂合わせを考慮した翻訳ができるようになってきているの? すごい。

 

あ、あと、実はどっかで商業出版翻訳プロジェクト進行中なのです、というような話があれば御連絡を。すぐひっこめますので。

W・S・バロウズインタビュー (SF Horizons #2, 1965)

ブライアン・オールディスとかがやっていたSF評論誌 SF Horizons の第二号に出たウィリアム・バロウズのインタビューなり。バロウズも比較的理性的かつ友好的な対応をしていて、後年のインタビューに見られがちな、神格化されたジジイのイカレた放談を一方的にうかがうようなものにはなっていないのが特徴。

実際にインタビューしたのがだれなのかは不明。カットアップとフォールドインをごっちゃにして、カットインなる技法を作っているあたり、にわか感はある。内容の大半はSFとの関わりで、突っ込むよりは友好的な茶飲み話。

ちなみに同じ号には奥野健男が讀売新聞に書いたという日本SFに関する記事の英訳が出ているが、ミステリーと同様にマニアの世界から少し一般に広まり、いまや安部公房や三島もSFっぽいものを書いている、というだけの話でつまらない。安部公房はキミフサ・アベと表記されている。これは英訳者のアレだ。まあしょうがないが、訳した人の知識水準はわかる。

幻覚性操作者は本当にいる:ウィリアム・バロウズ インタビュー

“The Hallucinatory Operators Are Real: William Burroughs Interview”

SF Horizons #2 (1965)1 pp.3-12

山形浩生訳

インタビュー邦訳pdf版はこちら:https://cruel.org/candybox/SFHorizonBurroughsInterview1965.pdf

 

 ウィリアム・バロウズとその作品は長編『裸のランチ』が刊行されて以来、糾弾の台風の目となってきた。それに続く長編『ソフト・マシーン』『爆発した切符』も批判者たちのご機嫌をなだめる役にはまったく立っていない。初期長編をもとにカットイン手法でまとめた『死んだ指語る』は、むしろ多方面の怒りをさらに煽った。圧倒的多数の批判者たちは、バロウズを文学的な観点からよりも純粋に社会的な観点から攻撃した。このやり方はSF読者が昔からおなじみだったものだ。

 このインタビューはニューヨークで本紙SF Horizons のために独占テープ録音されたもので、インタビュアーはバロウズ氏にSFについての意見を尋ねている。

 

SFH:バロウズさん、初めてお目にかかったときには、ニューヨーク市のハイドラ・クラブの会合に出席していらっしゃいました。これはニューヨーク市のSFファンや作家たちの集団です。このSFファンタジー作家の小さな集いで、『ノヴァ急報』にきわめて多くのSF的な内容があることを知って、私たちは大いに勇気づけられたものです。そしてもちろんこれは一般紙の書評でも広く指摘されたことです。私たちとしてはもちろん、あなたが昔からSFを読んできたのかという点に最も興味があります。

WB:確かに私は昔からのSF読者です。『アメージング・ストーリーズ』は覚えていますよ……なんでしたっけ、三十年前ですかね? もちろん、H・G・ウェルズやジュール・ヴェルヌのSF作品は読んでいます。現代SF作家の多くも---これは常に、大いに私の興味をひいてきたジャンルなんです。

SFH:具体的に、どんなSF作家に最も興味がおありかお聞かせ願えますか?

WB:そうだなあ。現代作家の中では、えーとH・G・ウェルズは昔から常に最高の一人だと思ってきました。C・S・ルイスも、とても興味をおぼえる一人ですね。『サルカンドラ:いまわしき砦の戦い』『マラカンドラ:沈黙の惑星を離れて』。私自身のコンセプトと多くの類似性が見られます。そして最近だと---他の最近のということです--- イギリスのバラード氏とムアコック氏、もちろんアーサー・C・クラーク氏ですね。いまぱっと思いつきませんが……スタージョン氏ですね、もちろん。

SFH:いまの話からすると、少なくとも最近では、ほとんどのSFは雑誌掲載のものよりは、長編小説ということですか?

WB:どっちも、どっちも……こいつを (と雑誌を手に取る)かなり定期的に手に入れます。『ニューワールズ・サイエンス・フィクション』で、マイケル・ムアコック編集だったと思います。そこにきわめて優れた作品がいくつか出ています。それとスタージョン氏のペーパーバックもたくさん持っているので、両方読んでますよ、長編小説も雑誌も。

SFH:そうした作家の中で、あなたが探求しているコンセプトに最も近いと思われるのはだれでしょうか?

WB:うん、C・S・ルイス氏とはかなり多くの類似点を感じています、つまりかれの……えーとかれはそれを曲がった者と呼んでいたっけな? それは私のミスターブラッドレーミスターマーチンととても似ています。それはつまり邪悪な霊で、それがこの地球を支配しているとルイス氏は考えているんです。そしてさらに『サルカンドラ:いまわしき砦の戦い』の陰謀は、私が開発した陰謀論の多くととても似ています。『ノヴァ急報』で私が発達させている陰謀のアイデアですね。思いつく中で、それがSF作家の中で最も近い類似性ですね。

SFH:バーバラ・オブライエンという偽名で書かれた『操作者と物』という本はご存知ですか?

WB:聞いた事はあるし、確かだれかの家でちょっと目を通したはずで、それが何を扱っているかについて、漠然とした部分的な見当はつきます。でも、読んではいません。確かそれは、操作する連中と操作される人々についてのものだったはずです。というかむしろ、人がそのどちらかにならざるを得ないような物事の状況を扱っていたんじゃなかったでしたっけ。

SFH:その通りです。読者のためにもっと詳しく説明すると、これはフィクションではありません。若い女性、若い主婦による本で、精神分裂症的な発作を起こし、それを参照するような妄想を生じて、世界が物、つまり自分のような人々と、神か悪魔ともいうべき操作者たちにわかれて、その操作者たちが物たちを人形のように動かしているのだという系統的な幻覚を発達させたんです。そしてのこの本は、そうした操作する連中、操作者たちとの幻覚体験についての記述です。さてこの質問をした理由は、この『操作者と物』でこの女性は現在、この操作者たちが本物ではないと明確に理解していて、でも自分がその精神異常的な発作の中にいたときには、それが本物に思えたと語りたいと考え、その体験が自分にとってはリアルに思えたけれど、それが幻覚性だったといまでははっきり理解しているのだと伝えたかったからです。この質問を持ち出したのは、それが「ノヴァ・マフィア」に関連していると思うからです。私は、あなたがこの邪悪な操作者たちを純粋に小説のためのものと考えたか、実際の本物と思っているのかそれとも象徴的または幻覚的で、何か伝えたい別の意味を扱うためのものなのかについて、はっきりした印象がまったくないんです。

WB:うーん、私は「本物」というのが実はとてもあいまいな言葉だと思うんですよ。精神分裂的またはいわゆる精神異常的な症状のときにだれかと話すと、後になってその人たちが、それが本物ではなかったと判断してから話すときよりも筋が通っていることが多いというのが私の経験です。さて、『操作者と物』のコンセプトすべてについていえば、現代の階層組織を見るだけで、どれでもそれがまったくもって本当に作用しているのがわかります。『タイム=フォーチュン』あるいは広告業界みたいな階層組織ですね。そこにいる人々と話をしましょう、下層にいる人々とかですね、するとかれらは自分が上の人々に操作されていると感じるし、それがピラミッドのてっぺんまで続く。そしてそれはその通りで、実際に操作されていて、個人としてのその人物についての配慮はほとんどないことが多いんです。これは大企業のほとんどで言えることです。かれらはある機能を果たす限りにおいて価値評価され、それっきりなんです。さてこれは物として扱われているように私には思えるんですがね。これは現代社会の大問題の一つ、たった一つですよ、そのように思えます。さてこの操作者をどう思うか――オフィスの管理職がいて、その管理職の上の人がいて、軍に将校がいて等々、という限りにおいてそれらは本物だし現実なんです。

SFH:確かにそれには同意しますね。私も大企業で働いた経験がありますから。でも私が言いたいと思っていたのはそういう話じゃないんです。私が本当に知りたかったのは、この小説の中において「ノヴァ・マフィア」というものがいて、これはまちがいなくSF的なアイデアで、そういう人々が世界の外にいながらこの世界に影響を与えるということです。それは本の中の他のあらゆる人々と同じくらい現実的な本物の存在として受け取るべきなのか、それとも単に、いまあなたがおっしゃったような、私たちがお互いの中に持っている階層的な関係を象徴的に表現したものなのか、ということなんです。

WB:ええ、いま申し上げたように、「現実的な」「本物」ということばに、何か大して明確な意味があるとは思えないんですよ。ええ、私はそれが、本の中の他の登場人物すべてに負けず劣らず現実で本物だと申し上げます。もちろん本全体がフィクションではあるし、フィクション的な文脈においての話ですよ。そしてフィクションでは――すでに述べたようにC・S・ルイス氏『サルカンドラ:いまわしき砦の戦い』、そこでの陰謀論と対比させました。ええ、C・S・ルイス氏――私はかれを直接知っていた人々を知っています――は陰謀、本当の陰謀があると信じていたのはまちがいないと思うし、その陰謀はこれと大差ないもので、そこでかれはそこにある何かについて話をしており、過去のSFが明日の現実になりえると文字通り述べているんです。実のところ『1984』は現在から見るとちょっと甘いと思う。いささか古びています。

SFH:それでまたおもしろい質問が出てきます。私はルイスのペレランドラ三部作はかなり荒唐無稽だと思いますが、かれ自身は個人的に何かそれにかなり近いものを信じていたという印象を持っています。つまり材料のいささかバビロン的なまとめ方は荒唐無稽でしたが、かれはまちがいなく神と悪魔を信じていて、それはかれにとっては本物の人間であり、本当に世界に作用していて、かれはフィクションにおいてそれを最も芸術的な形でまとめようとしていたんだという印象を受けるんです。私はあなたの本からは、ルイス氏が抱いていたような外部からの悪意ある影響についての個人的な信念という感覚を受けないんですが? つまり、それらについてのほんとんど宗教的な信念は感じないんですが?

WB:いやそもそも私はカトリックじゃない。だからそうしたものがどこまで現実の力、現実の人々を表していると思っているかなんて言うのはとてもむずかしい。確かにある程度までは、著者として、自分の登場人物がどこまで本物だと思っているかを言うのはとてもむずかしいんです。ときには登場人物は、いわゆる本物の人々よりも作者にとって本物に思えたりするんです。

SFH:うちの編集者の一人、ブライアン・W・オールディスは何年か前に、自分は内心ではシュールレアリストなんだと感じていると言いました。かれの定義だとそれは、現実世界は完全に私たちの思った通りでもないし、見える通りでもないのだという気分なんだとか。そしてこの気分を完全に表現できるのはSFだけなんだと感じたそうです。それについて何かご意見は?

WB:ええ、それは私には大いに理解できる観点だし、SFは実に許容範囲が広い形態なので、この形態ではほかのどんな形態よりも多くのことが言えると昔から思っていました。

SFH:この分野で短編をやるのにご興味はおありですか?

WB:どういうわけか、短編はこれまでまったくツキがないんですよ。自分で扱い切れるような形態だった試しがないんです。私の著書のいくつかのエピソードは短編と見ることもできるでしょう。ええ、実験は大いにしてみたい。

SFH:執筆中の新作があるかと思いますが、これにもSF的な内容はありますか?

WB:ありますとも。いま作業をしているのは、現在までに私が使ってきた手法をきちんとあらわす手法の本なんです。その事例を『ノヴァ急報』と『爆発した切符』から取るので、そこにはまちがいなくSF的な内容があります。

SFH:しかしそれは察するに執筆についてのノンフィクションであって、純粋な創作そのものではないということですか?

WB:ある意味ではそうですね、でもそれは新しい形態の小説といえます。手法の議論であり説明でありながら、登場人物とアクションとストーリーもあるんです。この作品のかなりややこしい仕組みを一言で表現するのはちょっとむずかしいんです。イラストでそれを示すので。大量の写真を含むことになるし、たぶんかなり高価な本となるでしょう、10ドルから12ドルですか。大量にイラストも含むはずですので。

SFH:どういうイラストなんですか?

WB:新聞や雑誌形式での実験をかなりやっていて、新聞や雑誌の形式を文芸素材に適用するんです。マスコミ、新聞が行使している影響力の相当部分はその形式にあるんじゃないかと思うんですよ。つまり、読んでいるとき、ある記事に意識を集中しているときに、識域下のレベルで他の写真を見たり、他のコラムを読んでいたりするんです。そして、意識的な関心が何か別のものに向けられているときに、意識の片隅に入り込むとでも言いましょうか、そういうものは催眠術的な命令の力をある程度は持っていることがわかっています。要するに、人々は新聞を読むとき、その形式のために文字通り催眠術にかかっているんです。だからこの形式を文芸素材の提示に使うのに興味があったわけです。そしてこの方向でいろいろ実験を行ってきました。いくつかお見せできますよ。

SFH:確かにそれは非常に入り組んだ実験ですね、バロウズさん。そしてもうそれはほぼ仕上がっていると思っていいんですか?

WB:ええそうです。まだやり残したことがかなりあります。あと一ヶ月で原稿は仕上がるはずで、その後は製作上の問題が出てくる。一ページごとに制作担当や美術部門と作業しなくてはならないでしょう。でも来秋か初冬には出したいと思っています。

SFH:もうタイトルは決まってるんですか?

WB:うーん、仮のタイトルとして『いまおまえがすわっているその場所』というのをつけていて*1、出版社はこれがかなり気に入ってるんですが、原稿が仕上がったら別の題名にするかもしれない。しばしば起こることですが、本を仕上げてから題名を、決定版の題名を思いつくんです。

SFH:うかがってよろしいなら、近々ヨーロッパに戻ったりする予定はありますか、それともここにとどまるんですか?

WB:この夏には休暇でここを離れたいとは思っていますが、目先の仕事を終えるまでは発ちませんよ。だから8月末か9月頭に旅行をするでしょうね。イギリスとフランス、できれば北欧にいって、それから1週間かそこら、タンジールに下るかもしれない。

SFH:この質問をしたのは特に、あなたをハイドラ・クラブの会合で最初にお見かけしたからで、テッド・スタージョンとかその他あなたにある程度影響を与えた人たちと話をしたいと思われたか知りたかったからです。おそらくご存知の通り、年次世界SF大会が今年はロンドンで銀行旗日に開催されるので、そこにいらっしゃるかなと思ったわけで。

WB:銀行旗日っていつです?

SFH:銀行旗日の正確な日は忘れましたが、大会は8月27日から30日までの週末に、ロンドンのマウントロイヤルホテルで開催されるんです。

WB:その頃には向こうにいる可能性は十分にあるし、そのときにロンドンにいれば是非出席したいものですね。まさに私が出かけたいと思っている時期ですし。

SFH:最後の質問です。このSFジャンルの作品をずっと長いこと読んでこられましたし、ご自身もこのジャンルで仕事をしてきましたが、このいささか狭い小さな水たまりが、一般に主流小説と呼ばれるものに対して将来的に与える影響について何か特別な感触はお持ちでしょうか?

WB:いやあ、SFの未来はほぼ無限だと思いますよ。いまや宇宙時代に入ってきて、この分野はますます重要になります。

SFH:それは実に興味深いお答えです、特に実に多くの人がこの質問に対して「うん、いまや宇宙時代に入ったので、SFはすでに人々がそういう形で考えるための準備を整えるという役割を終えたのであり、いまや新聞がそれにとってかわり、やがてSFにはまったく何の機能もなくなる」と答えるものですから。これについてご意見は?

WB:いやいや、そんなのはまるで筋が通った話には聞こえませんね。なぜなら先に進めば進むほど、ますます多くの地平線が開けるからです。SFは常に、いわゆる現実の一歩先をいくように思えます。だって、人類はまだ月に着陸すらしていないし (訳注:1965年のインタビューです)、まして他の惑星にも行っていないんですよ。当然ながらSFはすでに他の惑星や、人類とまったくちがう生命形態の可能性を探求してきました。だからその意見とは正反対が正しいように思います。

SFH:お時間いただいて本当にありがとうございます。心から感謝します。

WB:きわめて高く評価している現代SF作家がもう一人いたのを忘れていいました。E・F・ラッセル氏です。かれの『金星の尖兵』は極度にリアルだったということです。ときにSFは人を納得させるし、そうでないものもある。あの作品には本当に納得させられたと思う。それと、かれは私のものとかなり似たアイデアを発達させた作家の一人です。つまり私が『ノヴァ急報』と『爆発した切符』などの小説でこだわっている、ウィルス侵略という考えすべてです。

SFH:エリック・フランク・ラッセルのことでしょうか?

WB:ええ、『金星の尖兵』という本を書いていて、金星からのウイルス侵略について描いています。

SFH:ええ、この秋にイギリスにいらっしゃるよう期待していますよ、そこでまちがいなくラッセル氏にも会えるはずです。ありがとうございました、バロウズさん。

WB:どういうたしまして。

*1:訳注:この題名に該当する本は出ていないし、またここで描かれたようなイラスト入り手法論の本もそれらしきものはない。どれを指しているのかは不明。可能性があるのはThe Third Mindだが、彼が述べているようなイラストまみれの本ではない。

R.A.ラファティ『アーキペラゴ』とチャンドラー『長いお別れ』とっくに終わってるんだが

万が一興味ある人がいれば:

R.A.ラファティ『アーキペラゴ+α』山形浩生訳

 

レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』山形浩生訳

ラファティは一ヶ月以上前に終わっているがだれも読んでいないねえ。チャンドラーも半月前に終わっているけど、読んでくれたのは2人。まあそんなものなんだろうね。みんな「わーすごい、楽しみ」とは言うが、実際には見やしないんだよね。が、これで知って読む人もいるかもしれないので。

チャンドラー『長いお別れ』と翻訳方針

昨日、チャンドラー『長いお別れ』の翻訳2章までやったが、その後ちゃらちゃらと終わったよ。

レイモンド・チャンドラー『The Long Goodbye』山形浩生訳

 ぼくがこれに手をつけた事情については、ここからの一連のツイートを見てほしい。

このツイートの先の方にもあるけれど、田口俊樹訳『長い別れ』の解説で杉江松恋が翻訳の比較をやっていて、それにつられて自分でも比較をしてみたのが発端。そしてそこにも書いたように、ぼくは村上春樹訳についての評価が非常に低い。チャンドラーは文章を簡潔にするためにかなり大胆な省略を行い、それがときにちょっとしたわかりにくさをもたらしている。でも、それは少し考えればわかるし、言われていることは非常に厳密だ。ところが村上春樹は、そのわかりにくさを曖昧さだと誤解して、そこに自分のもわっとした勝手な解釈と雰囲気を盛り込んでしまっている。これはいずれ、きちんと分析を示さないとね。

この翻訳は、この村上春樹訳に対する不満を自分なりに解消しようとしてやっている。そこでの方針は以下の通り。

  • 原文の意味は曲げない。
  • 原文の構造もなるべく温存し、可能なら一文は一文として訳す
  • できる限りことばは節約する。そのために、少しわかりやすさは犠牲にしてもいい。
  • 余計なことばは補わない。比喩を説明したりしない。

これはつまり、村上春樹訳はこれに反している、ということだ。

実はこれ、ぼくの普段のあらゆる翻訳の方針とあまり変わらない。そして、この方針のKPIは、文字数。簡潔さを旨とすれば、訳文は短くなる。

その方針をもとに頭からやってみたらどうなるか、という興味でぼくはこの翻訳をやってみているわけだ。そしてところどころで既訳と比べて見ているけれど、やっぱりここで受けた印象、特に村上訳についてのはまちがっていないと思う。

まあ、その確認作業のためだけにこの長い小説をどこまで訳すかは、気分次第ではある。ただ、早川書房がこの村上訳をチャンドラーの新訳として採用したのは、ぼくは残念だとは思う。以前の清水俊二訳は、杉江松恋も述べるように、細かいところを端折る傾向がある。でもそれが訳文の簡潔さを創り出し、結果としてハードボイルドの雰囲気を生み出せていた。それが意図的なのか怪我の功名なのかはわからないけれど。それをハードボイルド的な文体とは正反対の方向性を持った村上春樹訳に差し替えるのは、商業的にはいいんだろうが、チャンドラー的にはあまりよくないとは思う。

ついでながらもう一つ。この作品にはもう一つ別の翻訳がある。小鳥遊書房から出ている『ザ・ロング・グッドバイ』だ。

www.tkns-shobou.co.jp

比較として公平を期すため、清水俊二、村上春樹、田口俊樹に加え、この市川亮平訳も参照しようかと思った。

だけれど、ここのページにある立ち読み部分を参照すると、うーん。非常にサービス精神はあって、地図や家の略図を作ってくれたり、その意味ではありがたい。が、そのサービス精神のために原文をかなりいじって、なまじわかりやすくしてくれようとするのが裏目に出ている。たとえばシルヴィア・レノックスについて駐車係が「them curves and all」と評するところを、市川訳では「ボインでくびれの金持ち女が」にしてしまっている。身体の曲線の話はしているが、これほど露骨じゃないし、「金持ち女」なんて出てこない。そしてその表現の下品さがチャンドラー的な書きぶりと整合していない。全体にこんなふうに、なんでも頑張って説明してあげようという気持はわかるんだけれど、かならずしも的を射ていない部分も多い。このため、比較に入れるのは断念した。こういう市井の趣味人の活動は応援したい気持はすごくあるんだけど……

チャンドラー『長いお別れ』最初の2章

 献本されたんで、ダシール・ハメット『マルタの鷹』を読んで、行きがかり上以前献本されたまま積んであったチャンドラー『長い別れ』(田口俊樹訳) を読み始めた。

清水俊二訳の『長いお別れ』はずーっと昔に読んだと思うんだが、どんなストーリだったかも覚えていない。で、解説を杉江松恋が書いていて、当然ながら義務として、この新訳とこれまでの清水訳、そして村上春樹訳との比較を行っている。それがちょっとおもしろかったし、ぼくの視点とちがうので、原文を見つけて比べながら読んでいるうちに、自分の基準として自分の訳を作り始め…… そして気がつくと最初の2章の訳が終わっていた。

レイモンド・チャンドラー『The Long Goodbye』山形浩生訳 (1-2章)

読みたい方はどうぞ。ぼくはこれまでのどの訳よりも正確だし、簡潔でハードボイルド指数は高いと思うが、それは人の趣味にもよる。

この先続くかわからないけれど、スイスイできて気分がいいので、やるかも。

頭を抱えた翻訳:映画『オイコノミア』

今日、『翻訳者の全技術』にからんでトークショーをやった。

その中で、アレだと思った本の翻訳はどうする、みたいな質問があって、いろいろ答えたんだが、そこで出そうかと思っていたけれど時間がなくて出さなかったネタがある。しばらく前に字幕をやったこの映画だ。

www.idfa.nl

これは本当にすごい映画だった。もう圧倒的に悪い意味で。一言でいえば、お金は信用創造でつくられるというのを初めて知った連中が、そこから妄想突破した映画。

さて、お金の信用創造って何? これは簡単な話。銀行は、人が預けたお金の一部を融資する。これはご存じだと思う。そして、ぼくがお金を10万円銀行に預けて、銀行がそこから別の人に9万円融資したら、お金は全部で19万円になる。だから融資=借金で世の中のお金は増える。これが信用創造だ。これは常識中の常識。そして融資というのはだれかの借金だ。信用創造は、借金で世の中のお金が増えるという話でもある。これは、基礎としては正しい。

ところがこの映画、それを初めて知った左翼の人が興奮して、「そうか! 借金すればどんどんお金は出てくるのか!」と思い込んでしまう。それをやりすぎて信用不安が起きて金融危機何度も起こした結果、そこにいろんなアレがつくので「どんどん」ってわけにはいかないようになってるんだけれど、そんなことをまともに勉強しようとすら思わず、もうその思いこみで突っ走るのだ。

それでこの映画は、聞きかじりの信用創造の話を漠然としてから、いきなりBMWにでかけて、おまえのところには車のローンを出す金融子会社がある、そこがバンバンローンを出せば自動的にお前のところの車は売れるて儲かるじゃないか、いや車なんか作る必要さえないじゃないか、だから車を作って売って儲けを出すというお前の会社はインチキだ、車なんか作る必要はない、と言い出す。BMWにだよ??

正直、初めて見たときは、こいつらが一体何を言っているのかさっぱりわからなかった。だって「信用創造でお金ができる、よってBMWはローン会社あるから車を作らなくても儲かるはずだ」って突然言われて、この理屈のつながりがわかるほうがおかしいだろ? 三回観て、やっとわかって、そして頭を抱えたわ。

当然ながら、ローン出したら、それは車を買うのに使われる。車が手元にこないのにローン組む人いないでしょ? その車がきちんと生産されてローンを組んだ人の手にわたらないと、そもそもそのローンは成立しない。だからローン子会社が勝手にいくらでもローンを組んだりはできない。生産できる車の数に制約されるでしょ。そしてもちろん借り手の問題もある。そのローンがきちんと返済されるかどうかも考えるよね。無限にローン出して勝手に儲けふくらませるってわけにはいかない。

つまりその借金をそのうち返すとか〜、車があるからこそ借りるんだとか〜、そういうことは考えませんの? K75美しいわー。これを見るからみんな、ローンを組んでも買おうと思うんでしょ? これを作らないでいいとか、何事? 最近のBMW、水平ツインに縛られすぎじゃない?

考えないんだよねー。

 

経済がマネーゲームに堕しているというのはよく言われるし、それはバカな (本当にバカな) 左翼のシホンシュギ批判と称してよく出てくる。そして、そういう部分があるのは事実だ。それでも、それは決して実物経済と完全に乖離しているわけじゃない。そして少なくとも、このBMWの部分は実物経済と金融が本来あるべき共生関係を保っている世界なんだが……

そしてもちろん、左翼の人々にとって借金は悪いことだ。人々を負債漬けにする悪魔の仕業だ。そこでこの連中はBMWに対し、車なんか作る必要ないだろうと言い放つばかりか、お前は自分が利潤を出すためにそうやって故意に借金を創り出している、そして人々に借金を強制し借金漬けにしている、ひどいやつだと、面と向かって誇らしげに平然とのたまう。

強制して借金漬けになんかしてないよなー。こんなかっこいい物欲そそるものつくりやがって、とは言えるけど、そこから返せもしないローン組んでしまうのは、その当人の問題であって、強制してるわけじゃないよなー。

 

そう言うと、アカロフ/シラーとかは近著で、いやおいしそうなポテチを作ってしまうと人々が食べたくなってしまって不健康になる、これはメーカーの責任だとかのたまってるので、ホントにカッコいい車やバイクをつくって物欲をそそることが、ローンの強制なのだと主張する人とかかなりいそうで恐いんだけどさ、それってあまりに自堕落だし、少しは当人の主体とか自制心とかに責任おわせないと、社会も民主主義も成り立たないと思うんだよね。

  BMWの相手 (BMWのCFOなんだよ、こともあろうに) はもちろん、ぽかーんとしてから、本当に親切に、いっしょうけんめい相手の話になんとかあわせようとして、もうすごい苦労して支離滅裂になる。そしてその後でついに切れて「おまえらバカか、経済のイロハも知らないでくだらんこと言うな」と(まさにこの通りに)怒る。それをこの映画の連中は、自分の正しさが証明された証しだと思って何やら勝ち誇るんだよねー。

彼らはどこかのファンドにも出かける。利益分のお金はどこから来るのか、収益性実現のためにマネーサプライは注視してるか尋ね、お前が収益求めるとお金作るため借金を強要される人が出るがどう思うかという。相手はまさかこいつがこんなバカなこと考えてるとは思わず、最初は話をきいて首を傾げるんだけど、BMWほど優しくないので、相手をバカだと判断した時点でそれ以上の取材を断る。それをこの人は、自分の発見した真理にみんな気づいていないか、知ってて隠蔽しようとしてる証拠だと匂わせようとする。

いやはや。  

あまりに自信たっぷりに狂ったことを言われると思わず「あれ、オレがおかしいのかしら」と思ってひるんでしまうことがあるけど、そういう映画。これほど何もわかっていない連中が、何もわかっていないことにすら気がつかず、自分たちが何か賢い真理に気がついたつもりで嬉々として映画まで作ってしまった——これはそういうトンデモ映画だ。これを見て「なるほど!」と思ってしまった人は、自分が本当に重要な経済の働き——何かを創り、人々の物質的、精神的な喜びに寄与する働き——と完全に乖離してしまったことにすら気がついていない。

さらに彼らはなんと、ヨーロッパ中央銀行ECBにまで出かけてくる。そして当時の親玉ユンケルに会うんだ。なんでこんなバカな連中がユンケルにお目もじかなうんだよ!! そして、お金はどうやってできるのか、と尋ねるんだ。もちろん中央銀行は、いくらでもお金を作れる。お金は虚空から創る——ECBの親玉ユンケルはそう述べる。それはまちがいではない。特に中央銀行にあっては。でもそれは、市中銀行の信用創造とはちょっと意味合いがちがう (形は似ているけれど)。でも彼らはそれを、何か自分たちの主張が正しい裏付けだと思ってしまう。お金はまぼろしでありただのフィクションであり実体のないインチキである!

そしてその後、彼らは統計を見る。すると、金融部門の融資残高が預金の10倍近くあるというのを発見する。もちろん彼らはそれを、いまの経済がいかに邪悪で空疎なものかという証拠だと思い込む。いやあ、銀行が調子にのってヤバい借金しまくらないように、BIS規制とか銀行の融資総量規制とかあるわけ。だから民間の信用創造が、公的なものの十倍くらいなのはあたりまえなんだよ。でも彼らはそんなことは調べもしない。

そしてそっからもう、妄想全開だ。

企業が利益を出そうとして、投資家がリターンをもとめると、その分追加のお金が経済に必要となり、そのお金を作るための信用創造でだれかが借金を強制されるから、リターンを求めたり、利潤追求したりするのはよくないんだって。いやあんたが主体的に損する投資してくれるのは、誰も止めませんよ。

さらに政府が国債発行すると、それを買うか資本市場に生殺与奪を握られるので、国は収益性のあるプロジェクトしかできなくなり、民主主義的に実施プロジェクトを決められないんだって。国会って何するとこだったっけ?いま国債ってプロジェクト債なんだっけ?

そして! 投資家の思惑に左右される国債発行するのではなく、国が自分で借金すれば自分で実施プロジェクトを決められるから民主的なんだって。いや同じことだから!国債って、国が自分でやる借金じゃなかったんですか!!! 投資家の思惑で勝手に生まれたり消えたりするものなんですか!

そして経済学者はこういうことをまったくご存じない、現実知らずのバカなんだって。うわー、どうしましょう。

さらに歴史のほとんどでは、利潤追求の経済は存在しなかったんだって。えー、お互いにメリット=利益がある取引に基づかなかった人間社会って、存在するんですか?

人類史上、ほんの短期間だけ二つの金融システムが併存していた時期があり、その頃は本当の利潤が実現できたけど、いまは利潤を計上するために無理に借金してインチキなお金をでっち上げていて本当の利潤もリターンも存在しない虚構なんだって。二つの金融システムってなんのこと?もう見当もつかない。

そして別に、最後にそれで何か有意義な話が出るわけではない。この映画関係者のバカたち(大学教授と称する人もいる) がこういう自足しきった話をゲームしながら語るだけ。格差とか、本当に人々のためになる経済を目指すべきとか、聞いたふうな口をきくんだが、それって何? 何もなし。

絶対読まないけど、グレーバーとか何かこんなこと言ってるの?

 

で、配給元に字幕の翻訳と共に、この映画最初っから最後まで狂ってますとコメントつけて返したら、いまだに公開されていない(と思う。少なくともぼくのところに連絡はない)。たぶんぼくのコメントのせいも大きいのではないかと思う。いまにしておもえば、だまって公開してもらえば狂気のカルト映画になったかもしれない……いや、それはないか。でも「この映画を見てバカなところを5つ挙げなさい」とかいう大学の課題にはいいと思う。

だけど、黙っていたらパンフで何か解説文を書けと言われただろうし、そうしたら指摘せざるを得ないもんなあ。

が、もちろん今後公開される可能性はなきにしもあらず。もし機会があって無料なら (絶対にお金払ってはいけない)、お酒をたくさん飲んでから見ると、なかなか妄想系の主題豊かな悪夢が見られる、かもしれない。

W.S.バロウズ『爆発した切符』全訳

映画『クィア』公開でいろいろバロウズがらみの本が再刊されてめでたい。

gaga.ne.jp

もちろん原作の「クィア/おかま」も再刊だ。

そしてしばらく品切れだった「ジャンキー」「裸のランチ」も版を改めて再刊してくれるとのことなので、ちまちま見直している。

が、昔のやつの焼き直しだけなのもアレなので、長きにわたり懸案のあれを仕上げました。

cruel.org

pdfも上のリンク先にあるのでそれを見て。

底本は、グローブ版/カルダー版を使用した。Archive.orgにあるスキャン版にはかなりお世話になった。

そこそこ面倒な訳。もう20年にまたがる翻訳だから、「彼/かれ」とか表現の統一が最初のほうと最後で取れていない部分が多々あるけれど、正直いってそれが問題になる本ではないと思う。もう一度読み直して全体の統一を……いやまあ商業出版するという話でもなければやんないかもね。

これで「ソフトマシーン」「ノヴァ急報」「爆発した切符」の3部作を一応日本語化したわけで、たまっていた仕事がまた一つ片付いた感じ。まとめて出したいところがあれば……まあないか。

「爆発した切符」はノヴァ急報よりも処方箋的な意味合いが強いとは言える。テープレコーダーを使って現実のことばの支配から抜けだせ、というのが明示的に出ている。

そしておもしろいことだけれど、この作品で彼は、身体がなければダメだ、というのを明記している。特に最後から二番目の「さよならを言うので沈黙」のところ。ノヴァギャングが人々を支配するのは、身体を離れたイメージだけの世界を創り、そこであらゆるものをひたすら反復させることによる。だからそれを脱しなければならない。身体がいる。

ところが後に「シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト」になると、死後の世界があって肉体を離れた再生があって、というテーマが頻発するようになる。彼も晩年になると死が恐くなったのか、現実書き換えのテーマがオブセッションになったのか……

面倒な訳ではあった。普通の小説なら、言うことがわかれば流し読みできるし自分なりの訳文を構築すればいい。「腹がへったな、ピザでも喰おうか」という文章があれば、それを細かく詰める必要はない。ところがカットアップは、ことばを全部読まないといけないし、それぞれの細かい単語の反映を考えなくてはいけない。めんどい。そしてChatGPTで翻訳してもだれもわかりゃしないだろうと思ったが、やってみると、ありがちなことばのつながりを探そうとするChatGPTでは、デタラメなことばのつながりが身上のバロウズは訳せないことがわかる。だから全部手でやるしかなかった。

たぶん、そのために見落としたりとばしたりした部分もあるはず。だがまあそれをチェックしたい人がいれば、チェックしてくれてもいいけれど、その見落としで価値が大きく下がっていることはないはず。あと、オリヴァー・ハリスが校訂した版がその後出ているんだが、それで中身が大きく変わる小説ではないと思う。好事家は比較してみてもいいかもしれない。ぼくも手元にはあるが見てはいないので。

しかし……全部読んでくれる人はいるんだろうかね。「ウォーリーを探せ」みたいに文中に「これを三個みつけた人には『クィア』を進呈!」とかいうのを入れようかと思ったが、さすがにそれは断念。