ルイスのサイード批判:「オリエンタリズムの問題」

先日、エドワード・サイード『オリエンタリズム』の1995年あとがきや、新装版への2003年序文を訳した。

訳しても読んだ人は、たぶんぼく自身以外はあまりいないと思う。長ったらしいし、テメーらみんな、度しがたい怠けものだから。が、読んだ人なら (そしてもちろんあの『オリエンタリズム』をまともに読んだ人なら) その中でこれまで「オリエンタリスト/東洋学者」どもが、無知と偏見まみれでイスラム世界を歪めまくり、実態とは似ても似つかないものに仕立て上げ、自分たちのイデオロギーにあうように歪曲して、植民地支配と軍事支配に都合良く描きだして列強の世界収奪と支配に奉仕してきた様子が描かれており、そしてその代表例としてバーナード・ルイスがやり玉にあがっている。特に、1995年あとがきでは、ルイスが『オリエンタリズム』やそれが引き起こした風潮に批判を述べた Islam and the West (English Edition) 所収の文に、嘲笑めいた物言いがついている。

こう言っても、君たちはその該当部分を読む手間をかけないだろう。引用しといてあげよう。

[ルイスの反論や批判] のすべては極度の一般化で宣言されており、個別イスラム教徒とイスラム社会ごと、イスラムの伝統や時代ごとの差についてはほとんど言及がない。ルイスはある意味で、もともと私の批判が向けられていたオリエンタリストのギルド代弁者を自認するようになったので、その手口についてもう少し紙幅を割く価値はあるだろう。彼の思想はやんぬるかな、その追従者や模倣者の間でかなり流行しているのだ。そうした連中の仕事はどうやら、西洋の消費者に対して怒り狂った、例外なく非民主的で暴力的なイスラム世界の脅威を警告することらしいのだ。

ルイスの冗漫性は彼の立場のイデオロギー的な裏打ちと、ほぼあらゆることをまちがって理解するという驚異的な能力をほとんど覆い隠せていない。もちろんこれらはオリエンタリストお馴染みの常套手段であり、そうした人々の一部はイスラムおよび非ヨーロッパの人々に対する積極的な侮蔑について正直になるだけの勇気を少なくとも持ち合わせていた。だがルイスはちがう。彼は真実を歪め、まちがったアナロジーを使い、ほのめかしを使うことで話を進める。そこに彼は、自分が学者の語り口だと思い込んでいる、全知の平静な権威という上辺をつけくわえてみせるのだ。典型的な例として、彼が私のオリエンタリズム批判と、古典的古代研究への仮想的な攻撃との間にあると論じるアナロジーを見てみよう。そんな攻撃はバカげた活動だ、と彼は断じる。もちろんその通りだ。だがオリエンタリズムとヘレニズムはまったく比較できない。前者は世界の地域丸ごと描き出そうとする、その地域の植民地征服の付属物であり、後者は19世紀や20世紀のギリシャの直接的な植民地征服についての話ではまったくない。加えて、オリエンタリズムイスラムへの反発を示すものだが、ヘレニズムは古典ギリシャへの共感を示すものだ。

さらに現在の政治的瞬間は、人種差別的な反アラブ、反ムスリムステレオタイプを煽るものだ (が古典ギリシャへの攻撃はない)。そのおかげでルイスは非歴史的で身勝手な政治主張を学術的な議論の形で行えるのだ。これはまさに古くさい植民地主義的なオリエンタリズムの最も信用できない側面を完全に温存する手口だ。したがってルイスの作品は、純粋に知的環境の一部というより、現在の政治環境の一部なのだ。

さて、これを読んでどう思う?

いろいろと罵倒は並んでいるんだけれど、具体的にルイスが何を言って、そのどこがまちがっているのか全然わからない。「ほぼあらゆることをまちがって理解」しているというなら、二つ三つ、例を挙げてもバチはあたらないと思うんだが、まったく何もない。これだけ長々と語る中で唯一出ているのは、比喩でギリシャが使われているが、ギリシャイスラムとでは話がちがうぞ、という主張だけ。ふーん、それではルイスの反論の中では、ギリシャや古典研究との対比が主要な論点となっているんだろうなあ、とぼくは思った。ルイスってそんなつまらない批判しかしてないの? そしてそれ以外はなにかずいぶん尊大な上から目線での言い逃れしかなかったように書かれているけど……そうなの?

というわけでその反論を訳してみました。

バーナード・ルイス「オリエンタリズムの問題」(1982/1992)

まず……

なんだ、ギリシャや古典研究の話なんて、最初のわずか一ページしか出てこないし、ただのつかみで、本論とはまったく関係ないじゃないか!

さらにイスラム世界は西洋に怒り狂ってるなんて話も一切出てこない。半民主主義だの暴力的だのいう話もない。伝統や時代ごとの差はないどころか、そうした時代ごとのヨーロッパとの関係変化を見ろ、というのが大きなポイントじゃないか。サイードが何やら文句を言っているとおぼしき話は、何一つとして登場しない。サイードはこの批判をきちんと読んだの? 雑誌版にしても単行本版にしても? なんか、最初の部分しか見なかったんじゃないか、と思われても仕方ない。

ルイスの文章は長いから、あんたらもどうせ読まないだろう。まとめておくと

  • ギリシャ人が、古典研究はギリシャを貶め支配する西洋の陰謀だと言ったらみんなバカげていると思うはず。でもサイードオリエンタリズム』一派の主張はまさにそれと同じ。
  • ヨーロッパのイスラム/アラブ研究は、イスラム帝国に脅かされていたときの防衛策が起源。だから「オリエンタリズム/東洋研究」がアラブ支配のツール、という見方はそもそも変。
  • だからイスラム研究の相当部分は、ヨーロッパを侵略したペルシャオスマントルコについての研究。ところがサイードは、まったく恣意的にそれを全部対象から外している。ヘブライ研究も完全に外す。
  • ヨーロッパのアラブ研究では、ドイツの貢献が最大。でもドイツはアラブ圏侵略をほぼ行っていない。ここからも「オリエンタリズムはアラブ侵略のツール」というのがウソなのは明らか。サイードはそれをごまかすため「ドイツは何の貢献もしていない」とウソをついてこれも対象から除外。
  • 事実関係のまちがいがあまりに多すぎていい加減だし性的妄想は異常なほど。
  • 研究者への批判も、その実際の研究は無視して言葉尻をとらえた勝手な妄想で、その判断基準は政治信条やイデオロギーだけ。学問的に無意味。
  • 現代についても「アラブ研究はすべて欧米主導でアラブ自体による研究がない」と見下すが、そんなのいくらでもある。
  • 結局、欧米の素人たちの反米イデオロギーで珍重されているだけ。本当の専門家や、擁護しているはずのアラブ圏ですらまったく評価されていない。

基本的に、異論があるとか、見方が疑問というレベルではない。すべてデタラメに等しい本、という評価だ。

さて、これに賛成するかは読者の勝手ではある。ただし、これを受けたサイードはまったく反論できなかった、という点には留意しよう。「ギリシャは比喩として不適切!」もっと本質的な批判がたくさん行われているだろうに。紙幅がないから、というにしてもこの中の一つや二つくらいは言及できるのでは? 上の引用部分は1000字以上あるんだよ。そしてそれをせずにひたすらあてこすりと罵倒だけ。中身には触れず、語り口がどうしたとか。

ちなみにこのルイスの批判の中でも、サイードは事実関係の批判にすらまともに答えず自分の文を直すこともせず、逆ギレするだけ、というのは指摘されている。その通りらしいね。そして中身に触れずに態度が〜とかしか言わない、というのもまさに指摘されている通り。

さらに……

その「ギリシャのアナロジーはまちがっている!」という部分も、よく考えると変だ。知識は権力だ、知ろうとすること自体が攻撃と抑圧の手段だ、というけれど、アラブについて知ろうとするのは権力で帝国主義の手先だけれど、ギリシャについて知ろうとするのは権力ではなく帝国主義の手先ではない、というなら、そのちがいはどこにあるの? 「反発」か「共感」か、ということだそうだけど、それならサイードのような面倒な分析はいらないのでは? さらにそれを判定するのが、結局その後 (あるいは現在) 何らかの植民地化や弾圧や武力制圧があったかどうか、という点なら (サイードは上に引用した批判でそう述べているよね)、結局その「知の権力」なんてのを見ても意味はなく、その後の具体的な行動だけが問題であって、サイード的な「読み」って単なる後知恵でしかないのでは?つまりギリシャがアナロジーにならない、というサイードの主張自体、『オリエンタリズム』的な読解の無意味さを自ら告白しているに等しいのでは?

さて、このルイスの文章、とても良いことが書いてあるし、もう少しうまくやればもっとサイードの問題点が万人にわかったと思う。ただねえ。その書き方があまりに冗長。

まず、メインの論点であるサイードの話にくるまでに、「オリエンタリズム」という用語をめぐる歴史や学問史の話が延々続き、全体の4割を占めている。国際会議や百科事典のはなしはこんな細々と語る必要がまったくないもので、「冗漫」で衒学的とみられてもしかたない。また記述も、古いイギリス式の上品な記述が多すぎ。読者にかなりの知識を想定していて、ほのめかしだけで意味が伝わると思っているらしき部分が実に多いんだけど、ごめん、このぼくを含めて読者は無知ですんで。そしてあまりに細かいところ (プリンストン大学の学部構成の歴史やら、国際会議の委員にだれがいたとか) にばかりページを割いて、本当におもしろい部分は下品だと思ったのか注にまわしてしまうとか。そしてそれが、単行本収録の加筆修正でむしろ悪化している。*1当事者として、言いたいことがありすぎて整理し切れてないんだよな。惜しい。

本当なら、まっ先に以下の部分を挙げればよかったと思うなあ。pdfのpp.16-17の注の部分。

私 [ルイス] は「革命」を指す(中略) 現代アラビア語で最も広く使われている用語を紹介した。

「古典アラビア語の語幹th-w-r は、立ち上がる (たとえばラクダに乗って)、動揺し興奮したりするという意味で、ひいては特にマグレブ用法では、反逆する、という意味となる。これはしばしば小さな独立主権領土をつくり出す、という文脈で使われる。たとえばコルドバのカリフ国解体後11世紀スペインを支配した、いわゆる党王 (party kings) などはthuwwar (単数形は tha'ir) と呼ばれる。名詞 thawra の最初の意味は興奮だ。(後略)」

この定義は、その形式も内容も、標準的な古典アラビア語辞書に従ったもので、アラビア語の語彙用法に馴染みがある人物であれば、すぐにそれとわかるはずだ。政治でラクダのイメージを使うのは、古代アラブ人にとっては自然なことだった。

ところがサイードはこの一節をまったく別の形で理解した。

「ルイスが thawra をラクダの立ち上がり、それも一般に興奮をもった立ち上がりと関連づけているのは (そして価値観のための闘争と関連づけていないのは) 、彼にとってアラブ人がほとんど神経症の性的な生き物以上のものではないことを、いつもよりもずっと広範な形で示唆している。彼が革命を表すのに使う単語や節のすべては、性的な意味が満ちている。乱れる、興奮、立ち上がる。だが彼がアラブ人に割り当てるほとんどは「悪い」性的な意味だ。結局のところ、アラブ人は真面目な行動など執れないので、その性的興奮はラクダの勃起なみの気高さしか持ち合わせていないというわけだ。革命のかわりに出てくるのは暴動、小さな独立主権領土 (訳注:「小さな」はpettyで、特に最近のアメリカ英語では「ケチな/セコい」という意味で使われることが多いため、サイードは勝手に悪い意味を読み込んでいる) の設置、さらに興奮、ということはつまりアラブ人どもは交合するどころか前戯、自慰、膣外射精しかできないと言うに等しい。ルイスは無邪気に研究者ぶってみせるし、何やらお高くとまった表現をしてみせるが、彼の含意しているのはそういうことなのだと私は思う」(pp. 315-316).

どこをどう読んだらこんなすさまじい解釈が出てくるんだ!特に最後あたりの自慰とか膣外射精とか、いったい何の話?

こんなおもしろいネタを、だれも読まない注に入れておくなんて、なんともったいない。これをまず出せば、サイードが明らかに欲求不満の頭おかしいヤツなのはすぐわかるだろう。そのあと、本質的な批判だけを集中させて、それ以外の話はまた別のところでやり、長さを半分にしぼれば……

(あと、文中で「反オリエンタリズム」というのが出てきて、『オリエンタリズム』という本に反対しているのか (つまりルイスの立場)、それともオリエンタリズムという思想学問に反対しているのか(つまりサイードの立場) わかりにくいんだよなー)

ちなみに、サイードが反米だから支持されたというのはかなり本当だと思う。たぶん彼は、2022年のウクライナ侵略について、チョムスキーにも増してロシアを支持したはずだと思う。

*1:イードのドイツ無視がシュワブの影響ではないかという長い仮説が加筆されているけれど、仮説にすぎないし、またそうだったとしても議論の本筋には関係ないので、話の見通しが悪くなっているだけ。またシュレーゲルに対するサイードの皮肉も、多くの読者は「えーとシュレーゲルって何した人だっけ」レベルだし、またそこで言われていることの正否も判断できない。ところがそれを説明した部分を、単行本収録時に削除してしまっている。説明しないでもわかるはず、ということなんだろうが、いや説明しないとわかりませんから。

プーチン「新千年紀を迎えるロシア」(1999)

Executive Summary

1999年大晦日プーチンの大統領代行就任直前に発表された、ロシアの今後の政策についての概要文書。ソ連崩壊とその後改革による経済的な低迷と社会的な混乱を描き、自由と民主主義に基づきつつも、ロシア的な国家重視を維持した体制の強化を進め、競争と市場原理と産業高度化に基づく経済発展と生活水準の向上を目指し、そのために国の仕組みと行政府を強化しつつ、それを監視する市民社会も重視することが謳われている。

自由と民主主義を重視している部分を重視するか、国家重視の部分を重視するかで如何様にも読める玉虫色の文書だが、出発点でのプーチンは、かなりバランスの取れた考え方をしていたことはうかがえる。


プーチンシリーズで、ついでながら1999年大晦日プーチンがロシア大統領代行に就任する直前に発表した、政策方針の文書も訳したので、座興でアップロードしておく。

1999年大晦日、大統領代行に就任するプーチン (Kremlin.ru, CC BY 4.0)

すでに翻訳は、『プーチン、自らを語る』に出ているけれど、ところどころまちがっているのと、いまは絶版で手に入らないのとで、まああっても害はないでしょう。

プーチン「千年紀を迎えるロシア」(pdf, 600kb)

連崩壊とその後改革による経済的な低迷と社会的な混乱を描き、自由と民主主義に基づきつつも、ロシア的な国家重視を維持した体制の強化を進め、競争と市場原理と産業高度化に基づく経済発展と生活水準の向上を目指し、そのために国の仕組みと行政府を強化しつつ、それを監視する市民社会も重視することが謳われている。

自由と民主主義を重視している部分を重視するか、国家重視の部分を重視するかで如何様にも読める玉虫色の文書。その後、いろんな人がこれを持ち出して、自分の好みやそのときの気分次第で、プーチンは変節したとか、変節していないとかいう議論を展開しているけれど、正直いってあまり深読みするものでもないとは思う。当然のことながら、この時点ではどっちに行く道もあって、これを見てプーチンは最初から国家主義だったとかいう話ではない。

ただ、出発点でのプーチンは、かなりバランスの取れた考え方をしていたことはうかがえる (もちろん戦争やってる現在に比べればクソでもバランスが取れて見えるのは当然ではあるが)。国家主義の要素や大国主義は出ているけれど、でもそれだけじゃない。農業の改善とか、一部の産業政策とかは、まあできたところもあるし、それはロシアにとっていい影響を持っていた。でもできなかったところもたくさんあって、そこをもうちょっと頑張っててくれたらな、と思ってしまうのは、まあグチではある。

当時のプーチンが、いまのプーチンを見たら何と思うのかね、とつい思ってしまうところはあるんだけどね。そして今のプーチンは当時のプーチンを見て、甘かったと思うのか、それとも自分は変わっていないと思うのか……


新千年紀を迎えるロシア *1

Россия на рубеже тысячелетий

1999年12月30日 ウラジーミル・プーチン 翻訳:山形浩生 hiyori13@alum.mit.edu

目次:

新しい可能性、新しい問題 2

ロシアの現況 3

ロシアが学ぶべき教訓 5

まともな未来の可能性 7

人類は二つの象徴的なしるしの下に生きている。新しい千年紀 (ミレニアム) とキリスト教2000周年だ。この二つの出来事に対する世間の関心と注目は、単に赤字の祭日を祝うという伝統以上の意味を持っていると思う。

新しい可能性、新しい問題

新千年紀の開始が、過去20-30年の世界的な発展における劇的な転回と同時期だったのは、偶然かもしれない——だがそうでないかもしれない。その転回とは、我々がポスト工業化社会と呼ぶもの発展だ。その主な特徴は以下の通り:

  • 社会の経済構造変化、物質生産の比重が下がり、二次産業、三次産業のシェアが増大
  • 新技術の絶え間ない刷新と素早い導入および科学集約商品の産出増大
  • 情報科学と電気通信の地滑り的な発展
  • 人間活動のあらゆる側面における組織とマネジメントのあり方と改善の極度の重視
  • 最後に、人間のリーダーシップ。進歩を導く力となっているのは、個人とその高い教育水準や専門訓練、事業および社会活動である。

新種の社会の発展はすでに十分に長く続いているから、慎重な政治家、国士、科学者、その他観察力のある人々なら、このプロセスにおける二つの懸念要素を認識できるはずだ。

最初の要素は、変化は生活を改善する新しい可能性だけでなく、新しい問題や危険ももたらすということだ。それは当初最も明確な形で、環境問題の領域にあらわれた。だが他の熾烈な問題が、社会生活の他のあらゆる側面でもすぐに見出されるようになった。最も経済的に発展した国家ですら組織犯罪や残虐性の増大、暴力、アル中、ドラッグ中道、家族の耐久性や教育的役割の弱体化などから逃れられてはいない。

そしてもう一つの恐ろしい要素は、現代経済の果実やそれが提供する新しい繁栄の水準を活用できるのが、あらゆる国とはほど遠いということだ。科学、技術、先進経済のすばやい進歩は、通称黄金の十億人と呼ばれる人々の住むごく少数の国家で起こっているだけだ。その他のかなりの国々は、いまや過ぎ去ろうとしている世紀に新たな経済社会発展の水準に到達した。だが彼らがポスト工業社会を作り出すプロセスに参加したとは言えない。そのほとんどはその出発点からすらはるかに遠い。そしてこのギャップが今後当分残ると信じるべき理由もある。

だからこそ人類は第三千年紀の前夜にあって、将来を希望と恐怖の両方をもってのぞき込んでいるのだ。

ロシアの現況

この希望と恐怖の感覚は、ロシアではことさら赤裸々な形で表現されていると言っても誇張ではない。というのも、20世紀のロシアほど多くの試練に直面した国は、世界中に他にないからだ。

まず、ロシアは現在、経済社会発展において、トップ水準を象徴する国家ではない。そして第二に、ロシアは困難な経済社会問題に直面している。 ロシアのGDPは1990年代にほぼ半減し、GNPはアメリカの10分の1、中国の5分の1だ。1988年の危機以後 、一人あたりGDPはおよそ3500ドルに下がった。これはざっとG7諸国の平均指数の5分の1だ。

ロシア経済の構造も変わり、重要な地位は燃料産業、電力エンジニアリング、鉄と非鉄金属が占めるようになった。これらはGDPの15%ほど、総工業産出の50%、輸出の70%以上を占める。

実体経済の生産性は極度に低い。原材料と電力生産の部門では世界平均近くにまで上がったが、他の産業ではアメリカ平均の20-24%だ。 完成商品の技能的、技術的水準はおおむね5年未満の設備シェアに左右される。これは1990年には29%だったのが、1998年には4.5%へと激減した。我々の機械設備の70%以上は10年以上の古さで、これは経済先進国の数字の2倍以上だ。

これは一貫して下がり続ける国内投資、特に実体経済部門への投資低迷の結果だ。そして外国投資家たちが、ロシア産業の発展に貢献しようとしのぎを削っているわけでもない。ロシアへの外国直接投資の総量は、たった115億ドルだ。中国は外国投資で430億ドルも得ている。ロシアはR&Dへの割り当てを減らし続けているが、1997年に世界最大の多国籍企業300社は研究開発に2160億ドルを投資し、1998年にはそれが2400億ドルになった。ロシア企業のうち、革新的な生産に取り組んでいるのは5%で、その規模も極度に小さい。

資本投資の不足とイノベーションへの不十分な態度の結果、価格品質比率で見て国際的に競争力を持つ商品の生産は激減した。外国のライバルたちは、特に科学集約的な民生商品の面で、ロシアをはるか後ろに置き去りにしている。ロシアは世界市場におけるそうした商品の1%に満たないが、アメリカは36%、日本は30%を提供している。 国民の実質所得は改革の始め以来、低下を続けている。最大の下落が見られたのは1998年8月の危機以後で、今年その危機以前の生活水準を回復させるのは不可能だ。国民の全体的な金銭収入は、国連方式で計算すると、アメリカの10%に満たない。健康と平均寿命という、生活の質を決める指標も劣化した。

現在のロシアの劇的な経済社会状況は、ソヴィエト連邦から受けついだ経済のために我々が支払わねばならない代償だ。だがそれをいうなら、他に何を受けつげただろうか? 我々はまったくちがう基準に基づくシステムに市場要素を導入しなければならず、その昔のシステムは図体のでかい歪んだ構造を持っていた。そしてこれは、改革の進捗にどうしても影響する。我々はソヴィエト経済の、原材料部門と国防産業発達に対する過剰な注力のツケを支払わされている。これは消費財生産とサービス部門にマイナスの影響をもたらした。我々はソヴィエトが、情報科学、エレクトロニクスや通信といった重要部門を無視してきた代償を支払っている。生産者と産業の間の競争がないため、科学技術の進歩が遅れ、ロシア経済は世界市場で競争力を持てなくなった。これは企業とその人員の自主性と起業精神にかけたブレーキ、いや禁止令に対する代償なのだ。そして今日、我々は物質的にも精神的にも、過去数十年の苦い果実を味わうことになっているのだ。

確かにこの刷新プロセスでいくつかの問題は回避できたはずだ。そうしたものは我々自身のまちがいや、計算ミスや経験不足の結果だ。だがそれでも、ロシア社会が直面する主要な問題を回避することはできなかったはずだ。市場経済と民主主義への道は、1990年にそこに向かったあらゆる国にとって困難だった。そうした国々はみんな同じ問題を抱えていた。とはいえ、その度合いは様々ではあったが。

ロシアは経済と政治改革のうち、最初の移行段階を終えつつあるところだ。問題やまちがいはあったが、人類すべてが旅している高速道路には入れた。ダイナミックな経済成長と高い生活水準の可能性を提供してくれるのは、この道だけだ。これは世界の経験が説得力ある形で示す通りだ。これに代わる方法はない。

いまやロシアにとっての問題は、次にどうするかということだ。新しい市場メカニズムを全面的に機能させるにはどうしたらよいのか? 社会の中のいまだに根深いイデオロギー的、政治的な分裂をどうすれば克服できるのか? ロシア社会をまとめあげる戦略目標は何か? 21世紀の国際社会でロシアはどんな地位を占められるのか? 今後10-15年でどんな経済、社会、文化的なフロンティアを実現したいのか? 我々の強み、弱みとは? そしていま持っている物質的、精神的なリソースは何だろうか?

これらは人生そのものが提起する問題ではある。万人にわかるような形でこれらに対して明解な答を出せない限り、我々は我が偉大な国にふさわしい目標に向けて、着実に前進することはできない。

ロシアが学ぶべき教訓

こうした問題や我々の未来そのものに対する答は、過去や現在から我々がどんな教訓を学ぶかによって決まる。これは社会全体として作業であり、一年ですむようなものではないが、そうした教訓の一部はすでにはっきりしている。

  1. 終わろうとしている20世紀のほぼ四分の三にわたり、ロシアは共産主義ドクトリン実施の旗印の下で暮らしてきた。そうした時代の文句なしの成果を見なかったり、ましてそれを否定したりするのはまちがいだ。だがボリシェヴィキ主義の実験のために、我が国とその国民が支払わねばならなかった、とんでもない代償を認識しないのはそれ以上にまちがっている。さらに、その歴史的不毛を理解しないのもまちがいだ。共産主義やソヴィエトの権力は、ロシアをダイナミックに発展する社会や自由な国民を持つ繁栄国にはしてくれなかった。共産主義は赤裸々に、しっかりした自律発展能力がないのを実証し、我が国を経済先進国に一貫して遅れを取る存在へと運命づけた。それは文明の本流から遠ざかる、行き詰まりの裏通りへと続く道だった。

  2. ロシアは、政治および社会経済的な蜂起、危機、急進的改革の限界を使い果たしてしまった。新しい革命などを呼びかけるのは、ロシアとその国民にまったくもって無関心な狂信者や政治勢力だけだ。共産主義、国民愛国主義、急進的リベラル、その他どんなスローガンの下だろうと、我が国、我らが国民は、新しい急進的な解体などには耐えられない。国民の、生き延びて創造的な活動を行うための余裕と能力は限界に達している。社会は経済的、政治的、心理的、道徳的にあっさり崩壊してしまう。 責任ある社会政治力は国民に、市場改革と民主改革の期間に蓄積されたあらゆる良い面に基づく、ロシアの復興と繁栄の戦略を提示すべきだ。そしてそれは、進化的な、徐々にしっかりした手法で実施されるべきだ。この戦略は政治的に安定した状況で実施されるべきであり、ロシア人の生活、その一部のセクションや集団の生活劣化につながってはならない。この議論の余地のない条件は、我が国の現状から生まれてくるものだ。

  3. 90年代の経験は、過剰な費用を伴うことのない我が国の本当の刷新は、ロシア的な条件において、外国の教科書から取ってきた抽象的なモデルや手口を単に実験してみるだけでは確保できなことを赤裸々に示している。他国の経験を機械的に真似るだけでも成功は保証されない。

ロシアを含むあらゆる国は、独自の刷新方法を探さねばならない。我々はこの面で、いまのところあまり成功していない。自分たちの道筋と変化のモデルを求めてもがきはじめたのは、過去一年か二年ほどのことでしかない。我々にふさわしい未来の希望を掲げるためには、市場経済と民主主義の普遍的な原理を、ロシアの現実と組み合わせられるのだと証明してみせねばならない。

まさにそれを目指して、我々の科学者、分析家、専門家、あらゆる水準での公僕たちや、政治的、公的組織はすべて動くべきなのだ。

まともな未来の可能性

これが過ぎ去ろうとしている20世紀の主要な教訓だ。これにより、我々が歴史的な基準でいえば比較的短期間で、現在の長期化した危機を克服し、我が国のすばやく安定した経済および社会の前進のための条件を創り出すための、長期戦略の概要を大まかに述べることが可能となる。ここで肝心な用語は「すばやく」だ。というのも我々には、ゆっくりした出発をしている暇はないからだ。

専門家による計算を引用しよう。今日のポルトガルやスペイン並みの一人あたりGDP水準に到達するためにさえ、GDPを年率8%で今後約15年にわたり成長させ続けねばならない。ポルトガルやスペインは、世界の工業化先進国には含まれていない。もしその同じ15年で、GDP年率10%成長を確保できたら、イギリスやフランスに追いつける。 こうした集計があまり正確でないと考え、経済的な立ち後れは大したことがなく、もっと早めに克服できると考えるにしても、何年にもわたり頑張る必要がある。だからこそ長期戦略をまとめて、それをなるべく早く実現し始めるべきなのだ。

すでにこの方向で第一歩は踏み出している。政府のイニシアチブにより、その最も積極的な参加を受けた戦略研究センターは12月末に作業を開始した。このセンターは、我が国最高の頭脳を結集して、政府への提言や提案や理論・応用プロジェクトを起草し、それが戦略そのものの練り上げと、その実施プロセスで生じる課題に取り組むための効率的な方法の考案に役立つはずだ。

私は必要とされる成長の力学を実現するのは、単なる経済問題ではないと確信している。それはまた政治的な問題でもあるし、敢えて言わせてもらうが、イデオロギー的な問題でもある。もっと厳密には、それはイデオロギー的で、精神的で、道徳的な問題なのだ。私が見るに、ロシア社会の一体性を確保するという観点からすると、現段階においてはこの最後の点が特に重用に思える。

(A) ロシアの思想

我が国があまりにひどく必要とする有意義で創造的な仕事は、分断して内的にばらばらな社会では不可能だ。主要な社会部門や政治的な力が、別々の基本的価値観とちがった根本的なイデオロギー上の指向を持つ社会では、そんな仕事は無理だ。

過ぎゆく20世紀に、ロシアはそうした状況に二回直面した。1917年10月以後と、1990年代だ。

最初の例では、市民の合意と社会の一体性は、当時「イデオロギー教育作業」と呼ばれたものよりはむしろ、強引な手法で実現した。政権のイデオロギーや政策に合意しない者たちは、各種の訴追から弾圧まで様々な圧迫をかけられた。

実のところ、この理由から私は、一部の政治家や広報屋や学者たちが提唱する「国家イデオロギー」という用語は、必ずしも適切ではないと思うのだ。これはある種の近い過去との結びつきを作り出す。国家が祝福して支持する国家イデオロギーがあるところでは、厳密に言えば、知的、精神的な自由やイデオロギー的複数性、報道の自由、ひいては政治的自由の余地はないも同然だ。

私は公式国家イデオロギーの復活にはどんな形であれ反対だ。民主ロシアでは強制された市民的合意などあってはならない。社会的合意は自発的なものでしかあり得ない。 だからこそ、ロシア人の圧倒的多数にとって、望ましく魅力的となるような、狙い、価値、発展の方向性といった基本的問題について社会的合意を実現するのが重要となる。市民的な合意と団結の不在は、我々の改革が実に遅く痛々しい原因の一つだ。力のほとんどは政治的ないがみ合いに費やされ、ロシア刷新の具体的な作業に取り組むのに使われていない。

それでも、過去一年または一年半で、この領域に有望な変化が生じた。ロシア人の大半は、多くの政治家よりも叡智と責任を示している。ロシア人は安定性、未来への安心、その未来を自分と子供のために計画する可能性を求めている。それも数ヶ月先ではなく、何年、何十年も先まで計画したいのだ。平和、安全保障、しっかりした法治秩序の中で働きたい。所有形態の多様性、自由な事業と市場関係が拓いた機会や見通しを活用したがっている。

これを根拠として、ロシア国民は超国家的な普遍的価値観を認識し、受け入れるようになってきた。それは社会や集団や民族的利害を超える価値観だ。ロシア国民は、表現の自由、海外旅行の自由など、各種の基本的な政治権利と人間の自由を受け入れた。人々は、自分が財産を持てて、自由な事業に取り組めて、自分の財産を構築できる等々といった事実を大切だと考えている。

ロシア社会の一体性の別の足がかりは、ロシア人の伝統的価値観とでも呼べるものだ。こうした価値観は今日でもはっきり見られる。

愛国心。この用語はときに、皮肉な形で、果ては悪口としてさえ使われる。だがロシア人のほとんどにとって、これは独自の完全によい意味合いを維持している。それは自分の国とその歴史や業績に誇りを持つ感覚だ。自分の国を改善し、豊かで幸福にしようと努力する気持だ。そうした気持がナショナリズム的な傲慢や帝国主義的野心に汚されていなければ、そこには何もいけないものはないし、偏狭なものもない。愛国心は人々の勇気と辛抱強さと強さの源泉だ。愛国心と、そこに結びついた国の誇りや尊厳を失えば、偉大な成果を実現できる国民としての己を失うことになる。

ロシアの偉大さについての信念。ロシアはこれまでもこれからも大国であり続ける。それはその地政学的、経済的、文化的なあり方の不可分な性質による前提となっている。それがロシアの歴史を通じて、ロシア人の性格と政府の政策を決定づけてきたのであり、現在もそれは変わりようがない。

だがロシア人の性格は新しい思想で拡張されるべきだ。現代世界において、大国としての国の力は軍事力よりはむしろ、先進技術の開発と使用でのリーダーシップ、国民の高い厚生水準の確保、安保の確保、国際的な舞台で自国利益を守ることで表現されるのだ。

国家主義。ロシアがリベラルな価値観の深い歴史的伝統を持つ、たとえば英米のような国の二番煎じになるなどということは、当分起きないし、決して起きない可能性すらある。ロシアの国家と制度や構造は常に国とその国民の生活において、突出して重要な役割を果たしてきた。ロシア人にとって強い国家は、排除すべき異常ではない。その正反対で、彼らはそれを秩序の源にして保証者、あらゆる変化の創始者にして主要な原動力と見なすのだ。

現代ロシア社会は強く有効な国家を全体主義国家と同一視はしない。民主主義、法治国家、個人と政治の自由を重視するようになっている。その一方で、人々は明らかな国家権力の弱体化に危機感を覚えている。人々は、必要に応じた国家の導きの力と規制する力の回復を大望しているし、それはこの国の伝統と現状から生まれたものだ。

社会的連帯。ロシアでは、集団的な活動形態への希求が常に個人主義より重視されてきたのは事実だ。父権主義的な感情はロシア社会に深く根づいている。ロシア人の大半は、自分自身の状態改善を、自分の努力や主体性や事業的才能よりは、国や社会からの支援のおかげと考えるのに慣れている。そしてこの習慣がなくなるにはかなりの時間がかかる。

それが良いとか悪いとか言うつもりはない。重要なのは、そうした気持が存在するということだ。そしてそれ以上に、それが未だに力を持っている。だからこそ、無視はできない。これは何よりも社会政策で考慮されるべきだ。

新しいロシアの思想は、普遍的な一般人道的価値観と、歴史の試練 (激動の二十世紀の試練を含む) に耐えてきた伝統的なロシアの価値観の融合、有機的な組み合わせとして生まれるのではないかと思う。この決定的に重要なプロセスは、強制してはいけないし、邪魔をしたり、阻止したりしてもいけない。政治的なキャンペーンや、あれやこれやの選挙の熱気の中で、市民的合意の萌芽が踏みにじられるのを防ぐ必要がある。 この意味で、最近の国家院選挙結果は大いに希望が持てる。ロシア人の圧倒的多数は、急進主義、過激主義や、革命主義的色合いを持つ野党候補にノーをつきつけた。行政府と立法府の間に建設的な協力関係にこれほど有利な条件が作り出されたのは、おそらく改革が始まって以来、初めてのことだろう。

新生の国家院に代議員を持つ政党や運動の、真剣な政治家たちは、この事実から結論を是非とも引き出してほしい。国民の運命に対する責任感のほうが重視されるものと私は確信しているし、ロシアの政党、組織、運動やその指導者たちは、偏狭な党派や日和見的な利益のために、ロシアが持っている共通の利益や未来を犠牲にしたりはしないと信じている。ロシアのためには、あらゆる健全な勢力の連帯した努力が必要なのだ。

(B) 強い国家

我々は、持っても正しい経済社会政策ですら、国家権力や行政機関が弱いために不発に終わるという段階にきている。ロシアの回復と成長の鍵は、国家政策の領域にある。ロシアは強い国家権力が必要なので、是非それを手に入れねばならない。これは全体主義を主張するものではない。歴史はあらゆる独裁主義、あらゆる専制的な統治形態が短命だということを証明している。一時的に終わらないのは民主主義体制だけだ。いろいろ欠点はあっても、人類はこれ以上のものを編み出せていない。ロシアにおける強い国家権力は、民主的、法治的で、有能な連邦国家なのだ。

その形成の方向性としては以下が考えられる。

  • 国家当局機関やマネジメントのしっかり整理された構造、高い専門性、公務員の規律と責任の改善、汚職に対する戦いの強化
  • 最高の職員を選抜するという考え方に基づく国家公務員政策の再編
  • 当局とバランスを取り監視する十全な市民社会が国の中に生まれやすい条件を作り出す
  • 司法の役割と権威を高める
  • 連邦関係を、予算や財政の領域も含めて改善
  • 犯罪に対する積極的な戦い

プーチンにロシア憲法を渡すエリツィン。1999年大統領代行就任式にて(Kremlin.ru, CC BY 4.0)

憲法改正は、緊急の優先度の高い作業には思えない。いまある憲法は悪くない。個人の権利と自由を扱った条項は、世界でこの種のものとしては最高の憲法的な道具として見られる。国のために新しい基本法を起草するのではなく、現在の憲法と、それを根拠にした法律を、国や社会やあらゆる個人の生活の規範とするのは、きわめて真剣な作業となる。

この点で重要な問題は、既存の法律の合憲性だ。ロシアは現在、千本以上の連邦法と、数千にわたる各種共和国、地域、自治領の法律がある。そのすべてがさっき述べた基準を満たしているわけではない。司法省、検察局、裁判所が今日のように、この問題への対処で手をこまねいているなら、怪しげな、あるいは明らかに憲法違反の大量の法律が、法的にも政治的にも致命的となりかねない。国家の憲法的な安全性は、まさに連邦中心の正当性そのもの、国の統治可能性とロシアの正真性が阻害されるおそれさえある。

もう一つ深刻な問題は、政府が所属する三権の部門に内在するものだ。人権や自由、民主主義に対する主要な脅威は、行政府からやってくるという結論がグローバルな経験から導かれる。もちろん、ダメな法律を作る立法府も害はもたらす。だが主要な脅威は行政府からのものだ。それは国の生活をまとめ、法を執行するし、必ずしも悪意がなくても、政令の発行によりそうした法律を客観的に、かなり本質的な形で歪曲しかねない。

行政府の権限を強めるのがいまや世界的なトレンドだ。従って、社会としては恣意性と濫用をさけるために行政府に対する統制を強める方向が求められている。だからこそ私は個人的にも、行政府と市民社会とのパートナーシップ確立をきわめて重視している。市民社会の制度や構造を発達させて、腐敗に対する積極的でタフな戦いを実施したいのだ。

(C) 効率の高い経済

すでに述べた通り、改革の時代のおかげで国の経済と社会の領域には大量の問題が山積みとなった。実に困難な状況ではある。だが穏健な言い方をするなら、大国としてのロシアを葬り去るのはまだ時期尚早だ。いろいろ問題はあれ、我々は知的な可能性と人的資源をまだ維持できている。各種の有望な研究開発、先進技術は失われてはいない。天然資源も残っている。だからロシアにはまだ立派な未来が残されているのだ。 その一方で、1990年代の教訓を学び、市場経済転換の経験を理解しなくてはならない。

  1. まず大きな教訓だと考えているのは、世界における発展し、繁栄した大国としてのロシアの地位を確保してくれるような、国としての目標や進歩についての明確な理解がないまま、この長い年月を暗闇の中での手探り状態で進んできてしまったということだ。今後15-20年かそれ以上にわたる長期開発戦略がなかったことで、特に経済分野は大きな痛手を受けている。

政府は戦略と戦術の一体性という原理に基づきその活動を構築しようと決意している。それなしには、目先の穴を塞いで火消しモードで働くしかなくなる。これは真剣な政治や大規模なビジネスのやり方ではない。ロシアには長期的な国の開発戦略がいる。すでに述べた通り、政府はそれを編み出しつつある。

  1. 1990年代の二つ目の重要な教訓は、経済と社会部門の国家規制について、ロシアが一貫性ある仕組みを形成しなければならないということだ。

これは計画経済や統制経済システムへの復帰という話ではない。かつては全能の国家が、あらゆる事業の作業を上から下までこと細かに統制していた。私が述べているのは、ロシア国家を国の経済社会的な勢力の効率的な調整役にするということだ。国はそうした勢力の利害を調整し、社会開発の狙いやパラメーターを最適化して、その実現に向けた条件や仕組みを作り出すのだ。

これはもちろん、経済における国家の役割を、試合のルール考案とその実施監督にだけ限定するという、一般的な定式化を超えるものとなる。いずれは、ロシアもこうした仕組みに発展することだろう。だが今日の状況では、社会経済プロセスに国家がもっと深く関与する必要がある。国家規制システムの規模と計画の仕組みを設定するにあたり、我々は次の原理に基づかねばならない:国家は必要に応じて存在し、自由は必要な限りにおいて与えられる。

  1. 第三の教訓は、我々の条件に最適な改革戦略への移行だ。これは以下の方向で進められるべきだ:

3.1. ダイナミックな経済成長の促進。まっ先にここで挙げるべきなのは投資促進だ。まだこの問題は解決できていない。実体経済への投資は1990年代には5分の1となり、固定資本への投資は3.5分の1だ。ロシア経済の物質的基盤が脅かされている。

純粋な市場メカニズムと国家がそこに影響力を及ぼす手法を組み合わせた投資政策が望ましい。

同時に、外国投資家にとって魅力的な投資環境を作るための作業も続ける。はっきり言って、外国資本がないと成長は長く苦しいものとなる。そんな暇はないのだ。だから、外資をロシアに惹きつけるために精一杯頑張らねばならない。

3.2 積極的な産業政策の実施。国の経済、21世紀ロシア経済の性質は、何よりもハイテクに基づき科学集約的商品を生み出す分野の進歩にかかっている。現代世界においては、経済成長の90%は新しい知識と技術の導入によって実現している。政府は研究と技術開発の面で先進的な産業の優先的な発展狙った経済政策を実施するつもりだ。このために必要な手段としては以下のようなものがある。

  • 先進技術や科学集約製品の予算外の国内需要発達を支援し、輸出指向のハイテク生産を支援する
  • おもに国内需要を満たすための非原材料産業を支援する
  • 燃料、電力、原材料複合体の輸出能力を強化する
  • この政策を実施するための資金を動員すべく、世界中で昔から使われてきた各種の仕組みを使うべきだ。中でも最も重要なのは、分野を絞った融資と税制優遇、政府保証のついた各種の優遇措置だ。

3.3. 合理的な構造政策の導入。ロシア政府は、他の先進工業国と同様に、ロシア経済にも金融産業グループ、企業、中小企業が混在できると信じている。一部の発展を抑えたり、特定の経営形態の発展を人工的に奨励しようとしたりする試みはすべて、国の経済成長の足を引っ張るだけだ。政府の方針は、あらゆる経営形態の最適バランスを確保するような構造を構築するよう目指すものとなる。 もう一つ大きな方向性は、自然独占の活動を合理的に規制することだ。これは重要な問題だ。というのもそれが生産と消費者物価の構造すべてにかなり影響するからだ。つまりそれは、経済と金融のプロセスの両方や、人々の所得力学に」も影響するということになる。

3.4. 有効な金融システムを創る。これは困難な課題で、以下の方向性を含む:

  • 国の経済政策の主要な道具として予算が持つ有効性を高める
  • 税制改革を行う
  • 非支払い、物々交換などの非金銭的な決済手段をなくす
  • インフレ率を抑えてルーブルの安定性を維持
  • 文明化された金融市場や証券市場を作り出し、それを投資リソース蓄積の道具にする
  • 銀行システムを再編する

3.5. 経済と金融信用分野における裏の経済や組織犯罪と戦う。裏経済はどこにでもある。だが先進工業国では、そのシェアはGDPの15-20% 程度なのに、ロシアではそれが40%だ。この痛ましい問題を解決するには、法執行機関の有効性を高めるとともに、許認可、税制、外貨、輸出統制を強化すべきだ。

3.6. ロシア経済を一貫して世界経済構造に統合する。さもないと、工業化国が実現した高い経済社会的な進歩に追いつけない。この作業の主要な方向は以下の通り:

  • ロシア企業、事業や会社の外国における経済活動に対する国の積極支援を確保する。特に、輸出促進の連邦機関を作る頃合いだ。これはロシア生産者の輸出契約に保証を提供するものとなる。
  • 商品、サービス、投資におけるロシアの軽視に決然と対処し、全国的な反ダンピング法を可決施行する。
  • ロシアを国際的な外国経済協力規制システム、特にWTOに組み込む

3.7. 近代的な農業政策の追求。ロシア復興は、地方部と農業の復興なくしてあり得ない。我々は国家支援の手段と国家規制を、地方部の市場改革と土地所有関係の改革と有機的に組み合わせる農業政策を必要としている。

  1. ロシアにおいては、人々の生活水準下落を伴うようなあらゆる変化や手段はほぼすべて許されないことを認めねばならない。我々は、踏み越えてはならない一線まですでにきてしまっているのだ。

ロシアでは、貧困が壮絶な規模に到達している。1998年初頭、平均的な加重世界1人当たり所得は年額5000ドルほどだったが、ロシアはわずか2200ドルだ。そしてそれが1998年8月危機でさらに下がった。GDPの賃金シェアは改革開始時に50%だったのが30%に下がった。

これが最も熾烈な社会問題だ。政府は国民の実質可処分所得増大に基づく、安定した繁栄成長を確保するよう設計された新しい所得政策を練っている。

こうした困難にもかかわらず、政府は科学、教育、文化、保健を支える新しい手段を講じる決意を固めている。人々が心身共に健康ではなく、教育水準が低く文盲である国は、決して世界文明の頂点には上がれないのだ。

ロシアは歴史上で最も困難な時期の一つのただ中にある。過去200-300年で初めて、ロシアは本当に世界国家の二流、ヘタをすると三流グループにすべり落ちちかねない危険に直面している。この脅威を取りのぞくために残された時間はなくなりつつある。我々は国民のあらゆる知的、物理的、道徳的な力を動員しなければならない。我々は協調した創造的な仕事を必要としている。それを肩代わりしてくれる人は他にだれもいない。

すべては我々次第であり、我々だけにかかっている。脅威に直面する我々の能力、力をためて、つらく長い仕事に専念する我々の能力にかかっているのだ。

*1:原文、翻訳、写真ともにクリエイティブコモンズライセンスCC BY 4.0国際ライセンス。ネット上にある英訳は意味の取れないところが多すぎ、ロシア語からグーグル翻訳経由で訳した。

プーチン「ミュンヘン安全保障政策会議での演説」(2007)

Executive Summary

2007年のミュンヘン安全保障政策会議でウラジーミル・プーチンが、それまでの西側への順応的な態度をかなぐりすてて、アメリカをおおっぴらに罵倒し、もうおまえらの一極世界は終わりで、アメリカなんかもうオワコン、オレはもう好きにするぜ、と宣言した有名な演説。プーチン&ロシアの一つの転回点とも言われる。

「冷戦後の世界はアメリカ中⼼の⼀極世界に向かっていたが、これはアメリカが⾃分の勝 ⼿な要求を、しばしば武⼒により世界に押しつけるものとなっている。だがGDPでもそ の他の⾯でも今後は多極世界へと向かう。アメリカはNATO拡大やミサイルで一方的にロシアをいじめるばかりで許せん。もっと対等に扱え。宇宙軍拡禁⽌や核不拡散の徹底、⺠⽣⽤原⼦⼒の核燃料 サイクル確⽴、市場開放と平等な経済関係などで協⼒をすすめ、オレたちに発言力を認めろ」との論旨。


ウラジーミル・プーチンが、それまでいい子にしようとしていたのに欧米の度重なる裏切り、ハブ、いじめに耐えかねて (と本人は主張している)、「オメーらの偽善にはもうつきあってられねえ、だいたいもうアメリカなんてオワコンだろ、ロシアは自分の道をいくもんね」という爆弾発言をして、当時は新たな冷戦の始まりかとさえ言われた有名な演説。見方によっては、それまで隠していた侵略攻撃的な意図をもう抑えるつもりはないとおおっぴらに宣言した出発点で、2014年や2022年のウクライナ侵略の出発点とも言える。

ミュンヘン安保会議 (2007) で演説するプーチン。最前列のメルケルのこわばった表情がみもの

検索してみてもなぜかちゃんとした翻訳がどこにもなく、つまみ食いのしたり顔の (いい加減な) 解説記事しか見あたらないので、座興に翻訳してみました。

論旨としては簡単。

冷戦後の世界はアメリカ中⼼の⼀極世界に向かっていたが、これはアメリカが⾃分の勝 ⼿な要求を、しばしば武⼒により世界に押しつけるものとなっている。だがGDPでもそ の他の⾯でも今後は多極世界へと向かう。それに応じたグローバル安全保障アーキテクチ ャ再編が必要だ。核も含め、ロシアは軍縮してるのに、アメリカはごまかしの気配がある し、スターウォーズ計画なんか始めてるしNATOは拡⼤してるし、OSCEはNGOなど を使って内政⼲渉しようとする。宇宙軍拡禁⽌や核不拡散の徹底、⺠⽣⽤原⼦⼒の核燃料 サイクル確⽴などで対等な協⼒をすすめよう。また市場などの透明性やオープン性など、 こっちには要求するくせに、⾃分たちは農作物保護その他を維持する偽善も許しがたい。 対等な関係を⽬指したい (=ロシアにもっと発⾔権を与えろ)

正直、現在のプーチンの蛮行を見たあとでは、テメーどの口でそれを言ってやがる、と思わされる一方で、内容としてはむしろおとなしく文明的で、新冷戦とか何を騒いでいるの、このくらい言わせておけばいいじゃん、当時のカダフィよりはるかにおとなしいよ、と思ってしまうが、それは当時の雰囲気を勘案して読んでほしい。

演説の実際の様子は以下のビデオをどうぞ。


www.youtube.com

質疑応答 (質問はずいぶんレベルが低いんだが、それを完全に打ち返しつつ自分の言いたいことをたっぷり盛り込むプーチンの巧者ぶりはなかなかおもしろいよ) も含めた完全版は以下のpdfをお読みあれ。

ミュンヘン安全保障政策会議での演説、およびその後の議論 (pdf, 560kb)

原文はこちら。

en.kremlin.ru

演説部分だけを以下に:


ミュンヘン安全保障政策会議での演説、およびその後の議論

2007年2月10日

ウラジーミル・プーチン  翻訳:山形浩生 hiyori13@alum.mit.edu

 

親愛なる連邦首相 (訳注:アンゲラ・メルケル)、テルチクさん、紳士淑女の皆様、ありがとうございます!

40ヶ国以上もの政治家、軍関係者、実業家、専門家を集めたこのような代表会議に招かれたのを心より感謝しております。

この会議の構造のおかげで、過剰な礼儀正しさは避けられますし、もってまわった、聞こえはいいが空疎な外交表現で語る必要もないでしょう。この会議の形式のため、国際安全保障問題についての私の本当の考えを述べられます。そして私の発言が同僚のみなさんから見て無用に論争的だったり、手厳しすぎたり、不正確だったりするように思えても、怒らないでいただきたい。結局のところ、これはただの会議なのですから。そして演説の最初の二、三分で、テルチクさんがあそこの赤ランプを点灯させないことを希望するものではあります。

さて。国際安全保障は、軍事・政治安定性に関連したものよりずっと多くのもので構成されているのは周知のことです。それは世界経済の安定性、貧困克服、経済的安全保障、文明の間の対話育成も関わってきます。

安全保障が持つこの普遍的で不可分な性質は、「一人のための安全保障は万人のための安全保障」という基本原理として表明されています。フランクリン D・ルーズベルト第二次世界大戦勃発の最初の数日で述べたように「どこかで平和が破られたら、あらゆる場所の万国の平和が危機にさらされているのだ」

この言葉は今日でも重要なものです。ちなみにこの会議のテーマ——グローバルな危機、グローバルな責任——はその見本となっています。

わずか20年前に、世界はイデオロギー的にも経済的にも分裂しており、グローバルな安全保障を確保していたのは、超大国二ヶ国間の巨大な戦略的能力でした。

このグローバルなにらみあいは、最も先鋭的な経済社会問題を、国際社会と世界のアジェンダの周辺部に押しやってしまいました。そして戦争の常として、冷戦はたとえていうなら、実弾をたくさん残していきました。ここで言っているのはイデオロギー的なステレオタイプダブルスタンダードなど、冷戦ブロック思考に典型的に見られる側面のことです。

冷戦後に提案された一極世界も実現しませんでした。

人類史は確かに一極の時代を何度か経たし、世界の至高の地位を目指す動きもありました。世界史では、いろいろなことが起きるものです。

しかし一極世界とは何なのでしょうか? どうごまかそうとも、結局のところそれはたった一つの状況を指すものです。つまり、権威の中心が一つ、武力の中心が一つ、意志決定の中心が一つ、ということです。

それは主人が一人、主権国が一つの世界です。そして結局のところ、これはその仕組みの中のみんなだけでなく、その唯一の主権国自身にとっても危険なものです。というのもそれは、その主権国を内側から破壊するものだからです。

そしてそれはまちがいなく、民主主義とはまったく相容れないものです。というのもご存じのとおり、民主主義は少数派の利益や意見を考慮しつつ多数派が権力を持つということだからです。

ちなみにロシア——我々——は絶えず民主主義についてお説教を受けています。しかしそのお説教をしたがる人々は、なぜだかそれを自分では学びたくないようです。

私は、一極モデルは容認できないだけでなく、今日の世界では不可能だと考えます。そしてこれは、もし今日の——そしてまさに今日の——世界において単一のリーダーシップがあるなら、軍事、政治、経済リソースが足りないから、というだけではありません。もっと重要なのは、このモデル自体が破綻しているということです。というのもその根底には現代文明の道徳的基盤がないし、またあり得ないからなのです。

これに伴い、現代世界で起こっていること——そしてこれについてはまさに議論が始まったところです——は国際関係にまさにこの概念、つまり一極世界の概念を持ち込むという試みです。

そしてその結果は?

一極的 (一方的) でしばしば非正当な行動は問題をまったく解決していません。それどころか、新たな人間悲劇を引き起こし、新しい緊張の中心を作り出しています。ご自分で判断してください。戦争も、地域的、局所的な紛争は減っていません。テルチクさんはこれをきわめて穏健に述べられました。そしてこうした紛争で消える人々も減っていません——以前よりむしろ多くの人々が死んでいます。はるかに多く、ずっと多くの人々です!

今日、我々はほとんど抑えが効かないほどの武力行使を目撃しています——国際関係において、世界を永続紛争の深淵に叩き込んでいる武力です。結果として、こうした紛争のどれ一つに対しても包括的な解決策を見出すに足る強さを我々は持っていないのです。政治的な解決を見出すのも不可能になります。

国際法の基本原理に対する軽視がますます高まっています。そして独自の法的規範が、実際のところますますある一つの国の法体系に近づきつつあります。その一つの国とはもちろん、まずどこよりもアメリカ合衆国で、彼らはあらゆる形で自国の国境から踏み出ています。これはアメリカが他国に押しつける経済、政治、文化、教育政策にはっきり見られます。で、だれがそれを気に入っているのでしょうか。だれがそれで喜んでいるのでしょうか?

国際関係では、ますますどんな問題でも、現在の政治的雰囲気に基づいて、政治的な緊急性と称されるものに従って解決したがる様子が見られます。

そしてもちろん、これはきわめて危険です。それは我々のだれも安全に感じられないという事実をもたらします。これは強調しておきたい——だれも安全に感じられないのです! というのも国際法が自分たちを守ってくれる石の壁のようなものだとはだれも感じられないからです。もちろんそうした政策は軍拡競争をもたらします。

武力の支配性のためどうしても、多くの国が大量破壊兵器を獲得したがることになります。さらに、顕著な新しい脅威——とはいえ、これらも以前からよく知られたものではありました——が搭乗しており、今日ではテロリズムのような脅威がグローバルな性格のものとなっています。

私は、グローバル安全保障のアーキテクチャについて真剣に考えるべき決定的な瞬間がやってきたと確信しています。

そしてそれを進めるには、国際対話におけるあらゆる参加者の利益について、まともなバランスを探さねばなりません。特に国際的な風景は実に多様で実に急変するからです——そうした変化は、きわめて多数の国や地域におけるダイナミックな発展を反映したものです。

ドイツ連邦首相殿がすでに述べた通りです。インドや中国の購買力平価に基づくGDPをあわせると、すでにアメリカよりも多いのです。そしてBRIC諸国——ブラジル、ロシア、インド、中国のGDPで同じ計算をすると、EUGDP合計を超えます。そして専門家によればこのギャップは今後開く一方です。

グローバルな経済成長の新しい中心が、必然的に政治的影響力に変換されて、多極性を強化するというのは疑問の余地がないことです。

これとの関連で多極外交の役割がますます高まっています。政治におけるオープン性、透明性、予測可能性の原理が必要だというのは不可侵であり、武力行使は本当に例外的な手段で、一部の国の司法における死刑の利用に相当するものになるべきなのです。

しかし今日見られるのはその正反対の傾向で、殺人者など危険な犯罪者に対してすら死刑を禁止した国々が、正当とはとても考えられない軍事作戦に平然と参加しているのです。そして実際のところ、こうした紛争は人を殺しています——何百、何千もの民間人の命を奪うのです!

しかし同時に、各国の様々な内紛に対して無関心で超然としているべきなのか、という問題が生じます。専制的な政権や圧政者や、大量破壊兵器拡散などはどうしましょうか? 実のところ、これまた我らが親愛なる同僚リーバーマン氏が連邦首相殿に尋ねた質問の核心でもありました。あなたの質問を私が正しく理解しているなら (とリーバーマン氏に向かい)、もちろんこれは深刻な問題です! 現在起きていることから見て、それに対する無関心なオブザーバーを決め込めるでしょうか? 私もあなたの質問に答えて見ましょう。もちろんそんなことはできません。

しかしそうした脅威に対抗する手段は持っているでしょうか? もちろんあります。最近の歴史を見るだけで十分です。我が国は民主主義への平和的移行を実現しなかったでしょうか? 実のところ、我々はソヴィエト政権の平和的な移行を目撃しました——平和的な移行です!すさまじい政権ですよ! なんという大量の兵器、しかも核兵器まであるのです! なぜ今になって、何かというと手当たり次第爆撃や砲撃を始めねばならないのでしょうか? 相互破壊の脅しがなければ、政治的な文化や民主的価値観および法の尊重が不十分だという話なのでしょうか?

私は、最後の手段としての軍事力使用に関する決定を下せる唯一の仕組みは、国連憲章だと確信しています。そしてこれとの関連で言えば、我らが同僚たるイタリア国防大臣がついさっき述べたことを、私が理解できなかったのか、あるいは彼の発言が不正確だったのか。いずれにしても、私は武力行使NATOEUか国連が行った決断の場合でしか武力行使は正当ではあり得ないという話だと理解しました。もし本気でそう思っているなら、私たちの間には見解の相違があります。あるいは私がちゃんと聞き取れなかったのかもしれない。私の理解では、武力行使が正当と考えられるのは国連が認めた場合だけです。そして国連を、NATOEUで置きかえる必要はない。国産が本当に国際社会の力をあわせて、本当に各国における出来事に対応できるなら、我々が国際法の軽視を捨て去れるなら、状況は変われます。そうでなければ、状況は単に行き詰まりに終わり、深刻なまちがいの数は何倍にも増えます。これに伴い、国際法がその起草においても規範の適用においても、いずれも普遍的な性格を確実に持つようにすることが必要です。

そして民主的な政治行動は必然的に議論と面倒な意志決定プロセスを伴うのを忘れてはいけません。

親愛なる紳士淑女の皆様!

国際関係の不安定化が持つ潜在的な危険性は、軍縮問題に見られる明らかな停滞とも結びついています。

ロシアはこの重要な問題についての対話刷新を支持します。

兵器破壊に関連した国際法の枠組みを維持し、したがって核兵器削減プロセスの継続を確保するのが重要なのです。

アメリカ合衆国と共同で、我々は戦略核ミサイル能力を、2012年12月31日までに1700-2000核弾頭にまで減らすことに合意しました。我々のパートナーも透明性ある形で行動して、何かあったときのために、数百くらいの余分な核弾頭をどこかに寝かしておいたりしないよう期待したいものです。そして今日、新任のアメリカ国防長官が、アメリカがそうした余分な兵器を倉庫や、あるいは言うなれば枕の下や毛布の下に隠したりしないと宣言してくれるなら、みんなで立ち上がり、この宣言を直立して歓迎しようではありませんか。これはきわめて重要な宣言となります。

ロシアは核兵器不拡散条約や、ミサイル技術の多国間監視レジームを厳格に遵守しており、今後も遵守するつもりです。こうした文書に含まれた原則は普遍的なものです。

これとの関連で、1980年代にソ連と米国が各種の短距離および中距離ミサイル破壊の合意に署名したのに、こうした文書は普遍的な性質を持たないことは改めて想起したい。

今日では、他の多くの国がこうしたミサイルをもっています。朝鮮民主主義人民共和国大韓民国、インド、イラン、パキスタンイスラエルなどです。多くの国はこうしたシステムの開発を進め、それを兵器庫の一部に組み込もうとしています。そしてそうした兵器システムを創り出さない責任を負っているのはアメリカとロシアだけです。

こうした条件下では、我々が自分自身の安全保障確保を考えねばならないのは当然です。

同時に、新しい不安定化を招くハイテク兵器の登場を禁止するのも不可能です。言うまでもなく、これは新時代の対立、特に外宇宙での対立を防ぐ手段の話です。スターウォーズはもはやファンタジーではありません——現実です。1980年代の半ばに、我らがアメリカの相方はすでに自分自身の人工衛星を迎撃できました。

ロシアの意見としては外宇宙の軍事化は国際社会にとって予想外の影響を持ちかねず、各時代の到来そのものを引き起こしかねません。そして我々は外宇宙での兵器利用を防ぐためのイニシアチブには、複数回にわたりお目にかかっているのです。

今日私は、外宇宙での兵器配備を防ぐ合意のためのプロジェクトを用意したことをお告げしたい。そして近未来には、それは公式提案として我々のパートナーたちにも送付されます。いっしょにこれに取り組みましょう。

ミサイル防衛システムのある一部をヨーロッパに拡張しようという計画には、不安を感じざるを得ません。この場合ですと不可避な軍拡競争となるものの次のステップなど、だれが要りましょうか? 当のヨーロッパ人たち自身ですら、そんなものを求めているか大いに疑わしいものです。

通称問題国のどれ一つとして、ヨーロッパに本当に脅威をもたらす5000-8000kmの射程を持つミサイル兵器など持っていません。そして近未来とその先においてもそんな事態はやってこないし、当分の間はそんな事態は起こらないでしょう。そして仮想的にそんな発射があったとしても、北朝鮮のロケットがアメリカ領に向かうときにヨーロッパを通るというのは、弾道の法則に矛盾しています。ロシアの格言にあるように、左の耳に触れるのに右手を使うようなものです。

そしてここドイツにいる以上、ヨーロッパ通常戦力条約 (CFE条約) の哀れむべき状態についてはどうしても触れずにはいられません。

1999年にCFE適合条約が調印されました。これは新しい地政学的な現実、つまりワルシャワブロックの廃止を考慮してものでした。それから七年たって、この文書を批准したのはロシア連邦を含めたった四ヶ国だけです。

NATO諸国は公然と、ロシアがジョージアモルドバから軍の基地を引き揚げない限り、側面制約の条項 (側面地域に一定数の軍を配備することへの制限) を含めこの条約を批准しないと宣言しました。我が軍はジョージアから撤退中ですし、そのスケジュールを前倒しにさえしています。ジョージアの相方と抱えていた問題を我々が解決したのは周知の事実です。平和維持活動を行い、ソ連時代からの弾薬が残っている倉庫を保護するために兵員1500人は残っています。この問題については絶えずソラナさん (訳注:当時のNATO事務総長) と議論して、彼も我々の立場を知っています。我々はこの方向でさらに作業を進める用意があります。

しかし同時にどんなことが起こるでしょうか? 同時に、柔軟前線とか称するアメリカの基地が、それぞれ最大五千人も配備されてあちこちにできています。実はNATOは我が国の国境に沿って前線軍を設置しているのに、我々のほうは条約の義務を遵守して、こうした行動には一切反応せずにいるのです。

NATO拡大はこの同盟の近代化だの、ヨーロッパの安全保障確保だのとは一切関係がないのは明らかでしょう。それどころか、これは相互信頼の水準を引き下げる、深刻な挑発を示すものです。そして我々には尋ねる見理がある。この拡大はだれに対して意図されたものですか? そしてワルシャワ条約機構解体後に、西側パートナーたちが行った保証はどうなったのでしょうか? そのときの宣言はいまどこにあるのでしょうか? だれもそんなものを覚えてすらいません。でも私は敢えて聴衆のみなさんに、何が言われたかを思い出させてあげましょう。NATO拡大はNATO事務総長ヴェルナーさんが、1990年5月17日にブリュッセルで行った演説を引用しましょう。彼は当時「我々がNATO軍をドイツ領の外に置く用意がないという事実は、ソヴィエト連邦にしっかりした安全保障上の保証を提供するものだ」と述べました。そうした保証はどこへいったのでしょうか?

ベルリンの壁の石やコンクリートブロックは、おみやげとして配られてしまって久しい。しかし、ベルリンの壁崩壊が可能だったのは、歴史的な選択のおかげだったというのを忘れないようにしましょう——その選択は、我々の国民、ロシアの人民も行ったものなのです——民主主義、自由、オープン性、大ヨーロッパ一家に属する国々との誠実なパートナーシップを支持する選択です。

それがいまや、彼らは新しい分割線や壁を我々に押しつけようとしている——そうした壁はバーチャルかもしれないが、それでも分割はするし、大陸を分断するものです。そしてこうした新しい壁を解体して取り壊すには、またもや何年も、何十年も、さらに何世代もの政治家たちを必要としたりするなどということもあり得るのでは?

親愛なる紳士淑女の皆さん!

我々は、不拡散レジーム強化については文句なく賛成です。現在の国際法原理は、平和目的で核燃料を製造する技術開発を可能にしています。そして多くの国はきわめて正当な理由から自国のエネルギー自立の基盤として独自の原子力を作り出したい。でも我々は、こうした技術がすぐに核兵器に転用できることも理解しています。

これは深刻な国際的緊張を作り出します。イラン核プログラムを取り巻く状況がはっきりした例となります。そして国際社会がこの利害対立を解決するための、まともな解決策を見いだせなければ、世界は同様の不安定化する危機に苦しみ続けることになります。境界線上にいる国はイランだけではないからです。我々はどちらもこれを知っています。我々は絶えず、大量破壊兵器拡散の脅威に対して戦い続けることになります。

去年、ロシアはウラン濃縮国際センターを作ろうというイニシアチブを提案しました。我々はそうしたセンターがロシアに作られるだけでなく、民生原子力エネルギーを使う正当な根拠のある他国にも作る可能性にはオープンです。自国の原子力エネルギーを開発したい国々は、そうしたセンターへの直接参加を通じて燃料供給の保証を受けられます。そうしたセンターは、もちろん、厳しいIAEA監督下で運用されます。

アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュが提案した最新のイニシアチブは、ロシアの提案にも沿うものです。私はロシアと米国が客観的に等しく、大量破壊兵器の不拡散レジームとその配備 (訳注:を阻止する) レジーム強化に関心があると考えています。新しいもっと厳格な不拡散手法を発達させるリーダーとして行動しなければならないのは、主要な原理力とミサイル能力を持つ、まさにこの両国なのです。ロシアはそうした作業の用意があります。我々はアメリカの友人たちとの相談に取り組んでいます。

一般に、自前の核燃料サイクル確立するのが個別国の利益にはならないが、それでも原子力エネルギーを開発してエネルギー能力を強化する機会は得られるような、政治インセンティブと経済インセンティブの総合的なシステム開発について相談すべきです。

それとの関連で、国際エネルギー協力についてもっと詳しく話しましょう。ドイツ連邦首相殿も、これについてちょっと述べています——この問題に言及、触れたのです。エネルギー部門でロシアはすべての国にとって均一な市場原理と透明な条件を作り出そうとしています。エネルギー価格は政治的な投機や経済的圧力や恫喝にさらされるのではなく、市場で決められるべきだというのは当然です。

我々は協力にはオープンです。我が国の主要なエネルギープロジェクトすべてには、外国企業が参加しています。推計にもよりますが、ロシアでの原油採掘の最大26%——是非ともこの数字を考えてください——最大26%のロシア原油採掘は、外国資本で行われているのです。ロシア企業が西側諸国の主要経済部門で大規模に参加しているような、類似の例があれば是非とも教えてください。そんな例はありません! そんな例はないのです。

またロシアへの外国投資と、ロシアが外国に行う投資とのバランスも指摘したい。その比率は15対1です。そしてここには、ロシア経済のオープン性と安定性の明らかな例があります。

経済安全保障は、全員が均質な原理に準拠すべき部門です。我々は完全に公平である用意があります。

この理由から、ますます多くの機会がロシア経済に登場しています。専門家と西側パートナーたちは客観的にこうした変化を評価しています。このためロシアのOECDソブリン信用格付けは改善し、ロシアは第四グループから第三グループに昇格しました。そして今日ミュンヘンにいるので、この機会にこの決定についてはドイツの同僚たちに感謝を述べておきたいと思います。

さらにご存じの通り、ロシアのWTO加盟プロセスは最終段階まできています。長い困難な議論の間に、言論の自由自由貿易、対等な機会についての発言を一度ならず耳にしましたが、なぜだかそうした発言はロシア市場についてのみ行われていました。

そしてグローバル安全保障に直接影響する重要な主題が、まだもう一つ残っています。今日では、多くの人々が貧困に対する闘争について語ります。この分野では実際に何が起きているのでしょうか? 一方では、金融リソースが世界最貧国支援のために割り当てられています——そしてときにはそれがかなり巨額の金融リソースです。しかし正直言って——そしてここにいらっしゃる多くの方はご存じのことですが——その同じドナー国の発展と紐付いているのです。そしてその一方で、先進国は同時に農業補助金を維持して、一部の国がハイテク製品にアクセスするのを制限しています。

そしてありのままに語りましょう——片手で慈善に満ちた支援を配りつつ、反対の点では経済的後進性を温存するだけでなく、そこからの利益をピンハネするのです。停滞地域における社会的緊張増大はどうしても、急進主義、極端主義の発展をもたらし、テロリズムと地域紛争を後押しします。そしてこうしたすべてが、たとえばですよ、ますます世界全体が不公平だという感覚を抱くようになっている中東のような地域で起これば、グローバルな不安定化の危険が生じます。

世界の先進国がこの脅威を見るべきだというのは明らかです。そして、だから彼らがグローバルな経済関係におけるもっと民主的で公平なシステムを構築すべきだというのも明らかです。万人にチャンスが与えられ、発展の機会が与えられるシステムです。

親愛なる紳士淑女の皆さん、安全保障政策会議で話をするからには、ヨーロッパ安全保障協力機構 (OSCE) について言及しないわけにはいきません。ご存じの通り、この組織は安全保障のあらゆる——そしてこの「あらゆる」は強調したい——側面を検討するために作り出されました。軍事、政治、経済、人道、そして特にこれらの領域の間の関係です。

今日、何が起きているのが見られるでしょうか? このバランスが明らかに破壊されているのが見られます。人々はOSCEを、ある一つの国、または国々の外交利益促進用に設計された粗野な道具に変換しようとしています。そしてこの作業はまた、各国の創建者たちとは絶対につながりのない、OSCEの官僚的な仕組みによっても実現されています。意志決定の手順と、非政府組織 (NGO) と称するものの関与はこの作業のために仕組まれています。こうした組織は形式的には独立していますが、魂胆を持って資金提供され、したがって牛耳られているのです。

創建文書によると、人道領域でOSCEは各国の要請に基づき国際人権規範遵守について加盟国を支援するよう設計されています。これは重要な作業です。我々はこれを支持します。したかしこれは、他国の国内問題に干渉するということではないし、特にそうした国々が生きて発展するやり方を決めるレジームを押しつけるということではないのです。

そうした干渉が民主国家の発展を促進しないのは明らかです。それどころか、そんな干渉はそうした国の依存性を高めて、結果として政治的かつ経済的に不安定にしてしまうのです。

OSCEはその主要な任務に則り、独立国とは尊敬、信頼、透明性に基づいて関係構築をするよう期待します。

親愛なる紳士淑女のみなさん!

終えるにあたり、私は以下の点を述べたい。我々はあまりにしばしば——そして個人的には私自身があまりにしばしば——ヨーロッパを含む各種パートナーたちから、ロシアは世界問題においてますます活発な役割を果たすべきだといった訴えを耳にします。

これとの関連で、一つちょっとした所感を述べさせてもらうことにします。そんなことを我々に対して煽る必要などないも同然です。ロシアは千年以上の歴史を持つ国であり、ほぼ常に独立の外交政策を実施する特権を利用してきました。

今日になってこの伝統を変えたりはしません。同時に、世界がどう変わったかについては十分に認識しているし、自分自身の機会と潜在能力については現実的な感覚を持っています。そしてもちろん、我々は責任ある独立したパートナーたちとやりとりを続けたい。共に働いて、公平で民主的な世界秩序を構築し、それにより選ばれた少数だけでなく万人にとって安全保障と繁栄を確保するようにしたいのです。

ご静聴、ありがとうございます。

ケインズ『繁栄の手段』(1933) やっちゃった。

ケインズ『戦費調達の方法』(1940) をやったついでに、全集でセット販売されてる『繁栄の手段』(1933) もやってしまったけど、全部書いてあるじゃん。これだけ読んで理解すればもう十分でしょう。「金融緩和だけで云々」「波及経路が」とか聞いた風な口きくまでもなく終わりじゃん。すべて書いてあるではないの。

ケインズ『繁栄の手段』 (1933) pdf 470kB

能書きはまた後で書くが。

飛行機の搭乗直前に急いであげてアップしたので まちがいや誤変換あると思うので、気がついたらご教示ください!

ケインズ『戦費調達の方法』(1940) に取りかかった→終わった

表題の通り、ケインズ『戦費調達の方法』(これまでの訳題は「戦費調達論」だが、だれがお金くれるわけでもなし、趣味でやってるんだから題名も趣味で決める) の翻訳。

以前、ケインズの『説得論集』をやった。

cruel.hatenablog.com

ケインズ全集では、この説得論集の巻に戦費調達論も含まれているので、そのときについでにやろうかと思って手をつけていたのだ。が、急ぐこともあるまいと思って他のものに目移りして放置してあった。

それがちょうど戦争も始まったことで、日本もお金を出すつもりが、増税で対応するとかバカなこと言ってる政府が出てきたし、ツイッターで何か話題にした人も出たし、やっちゃいましょう、ということで。

J. M. ケインズ『戦費調達の方法』(1940)(pdf, 700kBほど. 仕掛かり中、本文は完了。2023年1月中には終わるはず)

考えて見れば、エドワード・サイードなんかやってるよりは勉強になるし、ためになるよな。短いし。長さ的に、たぶん「オリエンタリズム」1995年あとがきと大差ないはず。

cruel.hatenablog.com

三日ほどで終わった。毎回、LaTeXの表組みは面倒だなー、と思う一方で、Excelとかでやっていると、結局最終的な統一とか配置とかで、一回やったら終わりのLaTeXのほうがいいよなー、と思うこともあり。あと、またEPUBにしろとかいう人が出てくるわけ? そうなんだよなー。その際はMSWordでやったほうが変換楽なんだっけ? まあこれは短いからなんとでもなるけれど。

基本的な主張はある意味でシンプル。戦争のときは、生産増やしてもすべて戦争にまわるから、民間に残る消費分は増やせない。みんなが自分の消費を増やそうとして働いたり賃上げ要求したりしても、買えるものが変わらないから、賃上げ分は全部、物価上昇に持ってかれるだけで、食い合いにしかならない。

だったら、その消費できる量に相当する現在の所得だけを人々の手に残して、残りの分は消費できない強制貯蓄という形で政府に預からせてもらおうよ、という話。そしてそれを戦費にまわせばいい。強制的だから全体主義的に思えるかもしれないけど、でもさっき述べたように、その分がみんなの手元にあっても、買えるものは増えないので、物価が上がり、資本家に持ってかれるだけでまったく意味はない。その分を戦争に使って、戦争後はそれが国債みたいな形で貯金になってみんなの手元に残る。いまは、国債出すと金持ちしか買えないから金持ちの懐が肥えるだけだが、この仕組みなら資産もみんなに行き渡るから格差も減るよ、という話だ。

社会主義だなんだ、自由の侵害だという批判は出たけれど、彼も第10章で述べているように、第二次大戦でフランスやドイツがやったこと (そしてその後イギリスもやったこと) に比べても、その後のインフレ進行を見ても、ここの提案よりはかなり厳しく、なんならこれをやっておけばよかったんじゃないの、と思わなくもない。その一方で、この直後にドイツはフランスを占領し、イギリスへの空爆も始まって、こんな仕組みどころではない状況になったので、どこまで効いただろうか、というのをだれか検証していないものだろうか。

というわけで、まあ週一くらいで見に来るといろいろ進展もあるのではと思う。ではお楽しみに。いろいろそのうちおまけも出すので。

ちなみに、ぼくの持っている「戦費調達の方法」原著とケインズの直サイン入りお手紙は以下のようなもの。ロバート・オーウェンの若かりし日のポートレートを送ってくれた、とのこと。ケインズ、どっかでオーウェンの話はしてたかな。いずれ余裕があれば調べて見よう。

「戦費調達の方法」原著とケインズお手紙
「戦費調達の方法」原著とケインズお手紙

サイード『オリエンタリズム』1995年あとがき

訳者注:邦訳は、文庫版も1993年に出ており、この後書きは含まれていない。どっかの雑誌のサイード特集や独自編集の雑文集とかで訳されたことがあるかもしれないが、そこまで調べていない。が、あまりに長いので、これが全文そのまま雑誌などで出る可能性はあまりないと思う。『オリエンタリズム』が今後、何かの機会で新装版などが出たら可能性はあるかな。もとにしたのは原著のKindle版 (をスクショしてOCRしたものだがKindle版自体も見ている)

なおウェブで読むのはいやという人のために

https://cruel.org/books/SaidOrientalism/orientalism1995postnote.pdf (460 KB)

イードオリエンタリズム』1995年あとがき

エドワード・サイード

山形浩生

I

オリエンタリズム』は1977年後半に書き上げられ、その一年後に出版された。これは当時 (そしていまだに) 一息に連続して書いた唯一の本だ。調査、いくつかの草稿から最終版へと、それぞれが途切れたり大幅な中断を経たりすることなしに続いた。スタンフォード大学行動科学先進研究センターでの、すばらしく文明的で比較的負担のない一年 (1975-6) を除けば、外部の世界からは支援も関心もきわめて少なかった。友人一人か二人と、直接の家族からは応援してもらったが、欧米が中東、アラブ、イスラムをどのように見てきたかという200年の伝統における権力、学術研究、想像力のあり方についてのこんな研究が、一般読者の興味を惹くかどうかはまったくわからなかった。たとえば思い出すのが、本書についてまともな出版社に興味を持ってもらうのがとてもむずかしかったことだ。特にある学術出版社は、ずっと小規模なモノグラフについての慎ましい契約を、本当に仮の案としてのみ示唆してくれただけだった。その企画すべては、端っからあまりに見込みがないし薄すぎるように思えた。だが幸運なことに (『オリエンタリズム』の元の謝辞ページで最初の出版社との幸運について述べた通り)、脱稿してから事態はきわめて急速に良い方向に変わったのだった。

アメリカとイギリスの両方で (イギリスでは1979年に別のイギリス版が登場した)、この本は大きな関心を集めた。その一部は (予想はしていたが) かなり手厳しいもので、一部は無理解に基づくものだが、ほとんどは肯定的で熱烈なものだった。1980年のフランス語版を皮切りに、大量の翻訳が登場し、その数は今日も増え続け、その多くは論争や議論を、私が理解できない言語で引き起こしている。才能あるシリアの詩人で批評家カマル・アブ・ディーブによる、見事で未だに議論の絶えないアラビア語翻訳がある。その後『オリエンタリズム』は日本語、ドイツ語、ポルトガル語、イタリア語、ポーランド語、スペイン語、カタラン語、トルコ語セルビアクロアチア語スウェーデン語に翻訳された (1993年にスウェーデンでベストセラーになったため、地元の出版社も私と同じくらい面食らった)。現在進行形か出版直前の翻訳もいくつかある (ギリシャ語、ロシア語、ノルウェー語、中国語)。他のヨーロッパ語翻訳の噂もあるし、いくつかの報告によればイスラエル語版も出る可能性があるとか。イランとパキスタンでは海賊版の抄訳が出ている。私が直接知っている多くの翻訳 (特に日本語) は複数の版を経ている。すべて絶版になっておらず、ときには執筆時に私が考えていたどんな内容をもはるかに凌駕する各地での議論を引き起こしているらしい。

こうしたすべての結果として『オリエンタリズム』は、ほとんどボルへス的な形で、いくつかちがった本になった。そして私がこうしたその後のバージョンを追跡して理解できた限りでは、ここで私が論じたいのは、あの奇妙で、しばしば不穏で、まちがいなく予想もしなかった多形性だ。私が書いた本の中に、私自身が『オリエンタリズム』以後に書いたもの (8、9冊の本と多くの論説) のみならず、他の人の発言を読み戻すということだ。当然ながら、誤読や、少数の例では意図的な歪曲については修正を試みよう。

だが私はまた、当時の自分がきわめて部分的にしか予想しなかった形で『オリエンタリズム』を有益な本だと認めてくれた議論や知的展開を繰り返すことにしよう。こうしたことの狙いは、恨みを晴らすことではなく、自画自賛を積み重ねることでもなく、自分がある作品に取り組むときの孤立した存在としてのエゴイズムをはるかに超えたところにある、ずっと拡大した著者性の感覚を描きだして記録することだ。というのも実に様々な形で、『オリエンタリズム』はいまや集合的な本となり、書いたときの予想をはるかに上回る形で私を超越したものとなっていると思うからだ。

まずは、本書の受容において私が最も残念に思い、今や (1994年) 克服しようと最大限の努力を払っている側面から始めよう。それは、この本が反西洋主義と称されるものだ。これは敵対的な人も好意的な人も含めあらゆる評論家が、誤解を招くかたちで、いささかあまりに声高に本書について語られてきたことだ。この概念には二つの部分があり、ときにはそれがいっしょに論じられ、ときには別々に論じられる。最初のものは、オリエンタリズムという現象が西洋すべての提喩法、あるいはミニチュアの象徴だと私が主張しているのだ、というもので、つまりそれが西洋全体を表していると理解すべきなのだ、と述べる。そうである以上、西洋すべてはアラブやイスラム的なもの、あるいはそれを言うなら西洋植民地主義と偏見に苦しんだイラン、中国、インド、その他非ヨーロッパ人の敵なのだ、とこの主張は続ける。

私の主張だとされている議論の第二部も、同じくらい遠大なものだ。それは、収奪的な西洋とオリエンタリズムイスラムとアラブを侵犯した、という主張だ (「オリエンタリズム」「西洋」という用語がここでお互いの上に倒れ込んでいることに注意しよう)。そうである以上、オリエンタリズムとオリエンタリストの存在そのものが、その正反対を主張するために利用される。つまりイスラムは完璧であり、それが唯一の道 (アル=ハル アル=ワヒード) であり等々、というわけだ。私が本書でやったように、オリエンタリズムを批判するというのは、実質的にイスラム主義やイスラム原理主義の支持者となることなのだ、とこの議論は述べる。

著者も、本の中の議論も、反本質主義なのだとはっきり述べ、オリエント/東洋や西洋といったあらゆる分類的な呼称すべてについて急進的なほど懐疑的で、東洋やイスラムについて「擁護」はおろか議論すらしないように、細心の注意を払ってきた書物の、戯画化された変容についてどう理解すべきなのか、戸惑うばかりではある。だが『オリエンタリズム』は実のところ、本の中で私がはっきりと、オリエント/東洋やイスラムが本当はどういうものかなどに興味はないし、ましてそれを示す能力も持ち合わせていないと書いているにもかかわらず、アラブ世界ではイスラムとアラブ人の系統的な擁護として読まれ、そのように言及されてきた。 実は私はそれよりはるかに議論をすすめており、本のかなり最初のほうで、「オリエント/東洋」「西洋」といった言葉が、自然な事実として存在する安定した現実に対応するものではないということを述べているのだ。さらに、そうした地理的な呼称はすべて、実証的なものと創造的なものの奇妙な組み合わせだ。イギリス、フランス、アメリカで流通している概念としてのオリエント/東洋の場合、この思想は相当部分が、単に表現しようという衝動からではなく、支配して何やらそれに対して防御するような衝動から生じている。私が示そうとしたように、これはイスラムを、オリエント/東洋の極度に危険な体現として言及する場合に強力な形で成立している。

だがこうしたすべてにおける中心的なポイントは、ヴィーコが教えてくれたように、人類の歴史は人間が作っているということだ。領土の支配をめぐる戦いはその歴史の一部だから、歴史や社会的意味をめぐる戦いも歴史の一部なのだ。批判的な学者の役割は、ある闘争と別の闘争を区別することではなく、それらをつなぐことだ。前者の圧倒的な物質性と、後者の一見すると浮世離れした洗練ぶりにもかかわらず、両者はつながっているのだから。私がそれをやる方法は、あらゆる文化の発展と維持は、別のちがった競合するアルターエゴの存在を必要とする、というのを示すことだった。アイデンティティの構築は——というのもアイデンティティは、東洋だろうと西洋だろうと、フランスだろうとイギリスだろうと、明らかに明確に集合的な体験の貯蔵所ではあるが、最終的には構築物だと私は考えているからだ——反対の存在や「他者」の構築を伴うものであり、そうした存在の実体性は「我々」との差についての絶え間ない解釈と再解釈に曝されているのだ。それぞれの時代と社会は独自の「他者」を作り出す。つまり自己や「他者」のアイデンティティは、まったく静的なものなどではなく、大いに工夫され続けている歴史的、社会的、知的、政治的なプロセスであり、あらゆる社会の個人や制度機関が関与するコンテストとして展開されるものなのだ。今日のフランスらしさやイギリスらしさをめぐる論争や、エジプトやパキスタンといった国におけるイスラムについての論争は、同じ解釈プロセスの一部であり、それはちがった「他者」のアイデンティティが関与するものだ。その「他者」は部外者だったり難民だったり、背教者だったり異教徒たちだったりする。あらゆる場合において、こうしたプロセスはただの頭の体操などではなく、移民法や個人行動の法制化、正統教義の構築、暴力や蜂起の正当化、教育の特性と内容、しばしば公式な敵の指定と関連した外交政策の方向といった具体的な政策問題にかかわる緊急の社会的な対立なのだ。要するに、アイデンティティ構築は各社会において権力と無力の性質に絡め取られており、従ってただの学術的な妄想どはほど遠い代物なのだ。

こうした流動的で驚異的に豊かな現実性を受け入れにくくしているのは、ほとんどの人がその根底にある考えに抵抗するということだ。その考えとは、人間のアイデンティティが自然で安定ではないというだけではなく、構築されたものであり、ときには完全なでっちあげであることさえある、というものだ。『オリエンタリズム』や、その後の『創られた伝統』『ブラックアテナ/黒いアテナ』*1のような本が生み出す抵抗や敵意の一部は、それがある文化や自己、民族的アイデンティティの積極的に不変な歴史性についての無邪気な信念を否定するようにお見えることから来ている。『オリエンタリズム』は、私の議論の半分を無視しなければイスラムの擁護には読めない。その半分で私が述べているのは (その後の著書『イスラム報道 増補版・新装版』でも述べたことだが) 出自によって属している原始的なコミュニティですら、解釈による反論を逃れられるわけではないし、西洋から見ればイスラムの台頭、回帰、復権に見えるものは、実はイスラム社会におけるイスラムの定義をめぐる闘争なのだ。その定義について、どんな個人、権威、制度機関も完全な統制力を持ってはいない。原理主義の認識論的なまちがいは、「原理」が非歴史的なカテゴリーで、したがって本物の信徒たちの批判的な検討の対象とはならず、したがってそこから逃れていて、信徒たちはそれを信仰により受け入れるべきだと考えることだ。初期イスラム復権または再興されたバージョンを信奉する人々にとって、オリエンタリストは (サルマン・ラシュディのように) そのバージョンを侵犯し、疑問視し、それをインチキで神聖ではないと示すから危険と思われてい。したがって彼らにとっては、私の本の美徳は、オリエンタリストたちの悪意ある危険性を指摘し、その掌握からイスラムを何やら救い出したことにある。

さて、これは私自身がやるつもりだったことではまったくないが、その見方はそれでもしつこく続いている。その理由は二つある。まず、人間の現実が絶えず創られては解体され、安定した本質のようなものはすべて絶えず脅かされているという理論に基づき文句も言わず恐れもなく生きるのが簡単だと思う人はだれもいないからだ。愛国主義、極度の排外主義的なナショナリズム、まったくもって不愉快な排外主義はこの恐怖へのありがちな反応なのだ。だれしも、依って立つ基盤が必要だ。問題は、その基盤についての我々の構築がどれほど極端で不変か、ということだ。私の立場は、本質的なイスラムやオリエント/東洋について言うなら、こうしたイメージはイメージでしかなく、敬虔なイスラム教徒と (この対応は重要なものだが) オリエンタリストのコミュニティの両方によりそれが報じられているというものだ。オリエンタリズムと呼んだものに対する私の反対は、それが単なる懐古的な東洋の言語、社会、人々の研究ではなく、オリエンタリズムという思考体系が異質性を持ち動的で複雑な人間の現実に対して無批判な本質主義的立場からアプローチしているということだ。これは持続的な東洋の現実と、それに対するが同じくらい持続的な西洋の本質の両方があると示唆している。その西洋はオリエントを遠くから、そして言わば上から観察しているということになる。この偽の立場は歴史的な変化を隠す。私の立場からしてもっと重要なことは、それがオリエンタリストの利害を隠すということだ。これらは、無垢な学術探究としてのオリエンタリズムを、帝国の幇助役としてのオリエンタリズムの微妙なちがいを隠そうという試みにもかかわらず、決して一方的に、1798年のナポレオン侵略からグローバル期に入った全般的な帝国の文脈から切り離すことはできない。

私が念頭に置いているのは、ヨーロッパと、それがオリエント/東洋と呼ぶものとの遭遇の当初から明らかだった、弱い側と強い側との衝撃的な対照性だ。ナポレオン『エジプト誌』——その巨大な何巻にも及ぶ大著は野蛮人の大群丸ごとの系統的な労働が、植民地征服の近代的軍に支援されていることを裏付けている—— が持つしっかりした荘厳さと壮大な身ぶりは、アブダル=ラフマーン・アル=ジャバルティのような個人の証言 (彼は3巻にわたり、侵略された側からの観点でフランスの侵略を描いている) を矮小化してしまう。『エジプト誌』は単なる科学的、つまりは客観的な19世紀初頭エジプトの記述なのだと主張する人もいるだろうが、ジャバルティのような人物の存在はそうではないことを示す。ナポレオンのものは、エジプトをフランスの帝国主義的な軌道に抑え込むだけの権力を持った人物の観点からは「客観的」な記述だ。ジャバルティのものは、その代償を払わされ、言わば囚われて打倒された側の記述だ。

言い換えると、『エジプト誌』とジャバルティの記述は、永遠に対立する東洋と西洋を証明する不活性な文書にとどまるどころか、この両者は歴史的な体験を構成し、そこから他者が発達し、他者が存在する前の体験を示しているのだ。こうした体験の集合における歴史的な力学を研究するのは、「東洋と西洋の紛争」といったステレオタイプに対抗するよりも手間がかかる。だからこそ『オリエンタリズム』は、秘かに反西洋を唱える研究なのだと誤読されてしまい、そしてこの読解は (安定した二項対立と称されるものに基づくあらゆる読解と同様に) 何の根拠もなく意図的ですらある遡及的な供与によって、無垢なのに侵犯されたイスラムというイメージを称揚することになる。

私の議論における反本質主義がなかなか受け入れられない二番目の理由は、政治的で緊急性を持つイデオロギー的なものだ。この本が出て一年後に、イランがとんでもなく遠大なイスラム革命の現場となるなどというのは、私がまったく知るよしもなかったことだ。またイスラエルパレスチナ人の戦いがあれほど残虐で長期化した形を採り、1982年のレバノン侵略から1987年インティファーダまで続くなどとは思いも寄らなかった。冷戦の終わりは、一方のアラブやイスラムと、反対側のキリスト教西洋との一見果てしないように見える紛争を終わらせることはおろか、抑えることさせできなかった。もっと最近ながら、切迫度ではひけをとらないものとして、ソ連アフガニスタン侵略の結果として対立が生じた。またアルジェリア、ヨルダン、レバノン、エジプト、占領地域といった多様な地域におけるイスラム集団が示した、1980年代と1990年代の現状に対する挑戦と、それに対する欧米の対応もある。パキスタンの拠点からロシアと戦うイスラム旅団が結成されたこと、湾岸戦争イスラエルの支持継続。警鐘に満ちた、必ずしも正確とも情報豊かとも言えないジャーナリズムや学術研究の主題としての「イスラム」の台頭。こうしたすべては、自分が西洋人か東洋人かをほとんど毎日のように宣言強制されている人々の感じる糾弾の感覚を煽るものとなった。だれも「我々」「ヤツら」との対立からは逃れられないようで、これは強化され、深められ、硬直化したアイデンティティの感覚をもたらしたが、それは決して有益なものではなかった。

こうした波乱含みの文脈で『オリエンタリズム』の運命は、幸運でもあり不運でもあった。アラブとイスラム世界で、西洋がじわじわ入り込んで来るのを不安とストレスを持って感じていた人々にとって、これは東洋的であることについて東洋に耳を貸したり許したりすることは一度もなかった西洋に対する、初の真剣な反駁のように見えた。本書について初期のアラビア語書評では、その著者がアラブ主義の支持者とされ、虐げられ迫害された者たちの擁護者とされ、その使命は西洋の当局に対してロマン主義的な一対一対決を迫ることなのだ、と述べられていたのを思い出す。その誇張にもかかわらず、それはアラブが感じる西側の持続的な敵意の感覚をある程度伝えるもので、また多くの教育水準の高いアラブたちが適切と考える対応をも伝えるものとなっていた。

執筆時点で自分が、本のエピグラフで引用したマルクスの小文でほのめかされている主観的な真実 (「彼らは自分を代表できない。だれかに代表してもらわねばならない」) を認識していたことは否定しない。つまり、自分が言い分を語る機会を否定されてきたなら、その機会を手に入れようと極度にがんばる、ということだ。たとえば二十世紀の解放運動の歴史が雄弁に示すように、サバルタンは語れる。だが私はそれが、自分が記述してそのひどい影響を減らそうとしている負たっつの競合する政治的、文化的な一枚岩のブロック間の敵対を永続化させているのだと感じたことはなかった。それどころかすでに述べたように、東洋対西洋の対立は、誤解のもとだしきわめて望ましくないものだ。それが解釈と対立する利害のおもしろい歴史以外のものを表現していると認められる度合いが小さければ小さいほどよいのだ。欧米の多くの読者や、アフリカ、アジア、オーストラリア、カリブ海の英語話者たちの多くは、本書を排外主義や攻撃的な人種的ナショナリズムよりも後に多文化主義と呼ばれるものの現実を強調しているのだと見てくれたとここに書けるのは嬉しいことだ。

それでも『オリエンタリズム』は、権力が知識を使って己を強化していることに対する多文化的な批判よりは、むしろサバルタン的地位の証言——この世の虐げられた者たちの反駁——と思われてきた。だからその著者として、私は与えられた役割を演じているものと見られてきた。つまり、かつては東洋人だけでなく他の西洋人も読むもように明確に設計された言説の学術文献において、これまで抑圧され歪曲されてきたものの自己表現的な良心の役割、というものだ。これは重要な点で、私の本がかなり明確に捨てているのに、パラドックス的な話だがそれが前提として依存している、永続的な分断をはさんで固定されたアイデンティティが戦っているという感覚を強めることになっている。私が描いているオリエンタリストはだれ一人として、東洋人を読者として意図することはなかったようだ。オリエンタリズムの言説やその内的整合性と厳密な手順はすべて、都会的な西洋の読者や消費者に向けて設計されていた。これは、私が心底崇拝する、エジプトに魅了されていたエドワード・レーンやギュスターヴ・フローベール にもあてはまるし、謹厳な植民地行政官のクロマー卿や、アーンスト・ルナンといった見事な学者や、アーサー・バルフォアなどご立派な貴族にもあてはまる。その全員が、自分の支配したり研究したりする東洋人を見下して嫌っていた。彼らの各種の宣言やオリエンタリスト同士の議論に、招かれざる形で聞き耳をたてたてるのにある種の招かれざる喜びを感じたこと、そして自分の発見をヨーロッパ人と非ヨーロッパ人の両方に報せることにも同じ位の喜びを感じたことは告白せねばならない。これが可能になったのは、私が帝国の東西分断を横断し、西洋での生活に入りつつも、自分がもともと生まれ出た場所とのある種の有機的なつながりを維持できたおかげだという点を、私はまったく疑っていない。これがまさに障壁を維持するのではなく横断する手順なのだということは繰り返しておく。私は本としての『オリエンタリズム』がそれを示していると思う。特に人文研究が、恫喝的な制限を超えて、非支配的で非本質主義的な学習を目指すのが理想なのだと語る瞬間にはそれが示されているはずだ。

こうした配慮は確かに私の本に対する、傷の証言や苦しみの記録を代弁しろという圧力を増した。それを繰り返すのは、西洋に対するとっくに行われるべき反撃だというわけだ。私は各種の人々や各種の時代、各種のオリエンタリズム様式について——ここで遠慮ぶって見せるつもりはない——きわめて繊細かつ細やかに発言している作品を、これほど単純に描いて見せるやり方は遺憾だ。私の分析はすべてがオリエンタリズムに関わるとはいえ、それぞれが様相を変え、違いや差別を増し、著者や時代をお互いに引き離すのだ。シャトーブリアンフローベールの分析、あるいはバートンやレーンの分析を、まったく同じ力点の置き方で読んで、同じ「西洋文明への攻撃」という凡庸な定式からの同じ還元主義的なメッセージを導くのは、単純主義に陥って誤ることだと私は信じる。だが最近のオリエンタリスト権威、たとえばほとんどコミカルなまでに一貫したバーナード・ルイスは、その愛想のよい語り口や、説得力のない学習のひけらかしが隠そうとはするが、政治的に動機づけられて敵対的な承認として読むのはまったく正しいことだと考える。

するとここでも、本書の政治的、歴史的な文脈に話は戻ってくる。それがその中身と無関係だというふりをするつもりはない。この一派の最も好意的な洞察を持ち知的に傑出した主張を述べたのが、バシム・ムサラームの書評 (MERIP, 1979) だった、彼はまず、私の本をレバノン学者ミカエル・ルスタムの1895年著書 (キターブ・アル=ガリーブ フラル ガルブ) におけるもっと前のオリエンタリズム解明と比較するところから始めるが、両者の主要な差は私の本が喪失についてのものだがルスタムの本はちがう、と指摘する:

ルスタムは自由社会に属する自由人として書く。シリア人で、言語的にはアラブで、まだ独立していたオスマン国家の市民だったミカエル・ルスタムとちがってエドワード・サイードは一般に受け入れられるアイデンティティはなく、その民族自体が紛争の対象となっている。エドワード・サイードとその世代はときに、自分がミカエル・ルスタムのシリアの破壊された社会の残骸程度の確実性しかないものに立っているだけで、それもその記憶だけの上に立っているという気分になるのかもしれない。アジアやアフリカの他の人々はこの民族解放の時代にあってそれなりに成功してきた。ここでは、痛々しくも対照的に、圧倒的な不利の中での絶望的な抵抗ばかりで、しかもいままで敗北しかない。これを書いたのはそこらの「アラブ」ではなく、特定の背景と体験を持ったアラブなのだ。(22)

ムサラームは、アルジェリア人はこのような全般的に悲観的な本を書かなかっただろうし、特に拙著のように北アフリカ、特にアルジェリアとフランスの関係をほとんど扱わなかったりすることはなかっただろうと正しく指摘する。だから『オリエンタリズム』が個人的な喪失と国民的解体という極度に具体的な歴史から書かれたという全体的な印象は受け入れるものの——『オリエンタリズム』を書いたほんの数年前にゴルダ・マイアはパレスチナ人などいないという悪名高く根深いまでにオリエンタリスト的なコメントを行った——本書でも、あるいはそれにすぐ続く二冊『パレスチナ問題』(1980)『イスラム報道 増補版・新装版』(1981) でも、アイデンティティ回復とナショナリズム再興の政治プログラムを示唆したいだけではなかったことは付け加えておきたい。もちろん、後の二冊には『オリエンタリズム』で欠けていたものを供給しようという試みはあった。つまり、オリエントの一部——『パレスチナ問題』ではパレスチナ、『イスラム報道』ではイスラム——があり得た別の形がどんなものだったかを、個人的な観点で描くことだ。

だが私はすべての作品において根本的に、自画自賛の無批判なナショナリズムに対しては批判的だ。私が代弁するイスラムの図式は、押しつけるような言説やドグマ的な正統教義のものではなく、むしろイスラム世界の内外に解釈のコミュニティが存在し、それが対等な対話関係として相互にやりとりしているというものだ。私のパレスチナ観は、もともと『パレスチナ問題』でまとめたものだが、今も変わっていない。ナショナリスト的なコンセンサスの呑気な土着主義や武闘派的な軍事主義については各種の留保を表明している。むしろ私が示唆したのは、アラブ環境、パレスチナ史、イスラエルの現実についての批判的な見方であり、明示的な結論は、苦しんでいる二つのコミュニティ、アラブとユダヤとの交渉に基づく解決だけが、果てしない戦争からの猶予を与えてくれるというものだ (ついでに言っておくと、パレスチナについての著書は1980年代にイスラエルの出版社ミフラスにより見事なヘブライ語翻訳が出たが、いまだにアラビア語翻訳はない。この本に関心を持ったあらゆるアラビア語出版社は、各種のアラブ政権 (PLOを含む) を公然と批判した部分を変更または削除してくれと求めたが、私は一切応じてこなかった)。

残念ながら『オリエンタリズム』のアラブでの受容は、カマル・アブ=デーブの見事な翻訳にもかかわらず、私のオリエンタリズム批判から一部の人が読み取ったようなナショナリスト的な熱狂を抑えるような側面を無視しおおせている。私はそうした熱狂を、帝国主義にも見られる支配と統制の衝動と関連づけているのだ。アブ=デーブの苦労に満ちた翻訳は、アラビア語化された西洋表現をほぼ完全に避けていた。言説、シミュラクラ、パラダイム、コードといった専門用語は、アラブ伝統の古典的レトリックから構築されていた。彼の発想は、私の作品をある完全に形成された伝統の中に置くことだった。まるでそれが、文化的な適切性と平等性の観点から別の伝統に語りかけているかのようにしたのだ。こうすることで、認識論的な批判を西側の伝統の中から行えるのと同様に、アラビアの伝統の中からも行えるのだと示せる、と彼はその理由を述べている。

だがしばしば情緒的に定義されたアラブ世界と、それ以上に情緒的に経験された西洋世界との重たい対立の感覚のため、『オリエンタリズム』が批評の研究を意図したものであって、争いあい絶望的なほど対照的なアイデンティティの追認ではないという事実が覆い隠されてしまう。さらに、同書の末尾で私が描きだした現実性、ある強力な広範囲のシステムが別のシステムに対する覇権を維持しているという現実性は、アラブの読者や批判者を刺激してもっと決然とオリエンタリズムの仕組みにと陸ませるような、論争の皮切りとして意図されていたのだ。私は、思考体系が彼自身の明らかな偏見を超越した存在となったとされるマルクスにもっと注意を払わなかったと吊し上げられるか——たとえばマルクス自身のオリエンタリズムをめぐる一節は、アラブ世界とインドにおける教条主義的な批判者たちにもっともあげつらわれた部分だった——あるいはオリエンタリズム、西洋等々のもっと大きな成果を認めていないと批判される。イスラムの擁護の場合と同じく、一貫性ある総合的なシステムとしてのマルクス主義や「西洋」への依拠は、私から見ると、ある正統教義を使って別の正統教義を打破しようとする例に見える。

アラブと他の地域での『オリエンタリズム』に対する反応のちがいは、たぶん何十年にもわたる喪失、苛立ち、民主主義不在がアラブ地域の知識人や文化生活に影響したかを正確に示すものだと思う。私は拙著を既存の思想の一部として意図し、知識人たちをオリエンタリズムのような体系の軛から解放するのを狙いとしていた。読者には私の作品を使って、アラブや他の人々の歴史体験を、鷹揚でエネーブリングな様式で明らかにする新たな研究を生み出したりしてほしいと思っていた。そしてまさにそういうことが、ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリア、インド亜大陸カリブ海アイルランド、南米、アフリカの一部では起こった。アフリカ主義やインド学言説の研究は活性化した。サバルタン史の分析、ポストコロニアル人類学や政治学、美術史、文芸批評、音楽学の再定式化、さらにフェミニスト言説やマイノリティ言説の莫大な新しい発展などがみられる——こうしたすべてについて、私は『オリエンタリズム』がちがいを生み出したことが多いのを嬉しく思うし、名誉に感じる。どうやら (少なくとも私に判断できる限りでは) アラブ世界ではそうならなかったようだ。そこでは、一部は私の研究が正しくそのテクストにおいてヨーロッパ中心主義と受けとられていること、そして一部はムッサラームが述べるように、文化サバイバルの戦いはあまりに負担が大きく、拙著のような本は生産的に言えば、あまり有用な形では解釈されず、むしろ「西洋」に賛成または反対の擁護的な身ぶりとして解釈されるからだ

だが明確に厳密で妥協無き英米の学者たちの間では『オリエンタリズム』や、それどころか私の他の研究すべては、そこに「残余している」人文主義や、理論的な不整合や、主体性の不十分で感傷的とすら言える扱いのために、不満だと攻撃されることになった。こうした攻撃はありがたい! 『オリエンタリズム』はゲリラ的な本であり、理論的な機械ではないのだ。個別の努力が何か深遠に教えがたい水準において、エキセントリックでもあり、ジェラルド・マンレー・ホプキンスの言う意味で独創的でもあることはできないなどということを説得力ある形で示せた者はだれもいない。これは思考体系、言説、覇権が存在してもそうなのだ (とはいえそのどれ一つとして実はシームレスで完璧で不可避だったりはしないのだが)。私が文化現象としてのオリエンタリズムに脅威を抱いたのは (1993年の続編となる拙著『文化と帝国主義1』で語った帝国主義のように) その可塑性と予測不可能性から来ているのであり、このどちらの性質もマシニョンやバートンのような作家に、その驚くべき力と、魅力すら与えるものだ。オリエンタリズムについての私の分析で保存しようとしたのは、その整合性と不整合性の組み合わせ、言わばその戯れであり、それは作家兼批評家としての自分自身に、ある種の情緒的な力や、感動し、怒り、驚き、喜ぶ権利を温存することによってのみ描き出せる。だからこそ、一方ではガヤン・プラカシュと、他方ではロザリンド・オハンロン&デヴィッド・ウェストブルックの論争において、プラカシュのもっと可動性を持つポスト構造主義的な主張に軍配を挙げねばならないと思うのだ *2。同じ主旨からして、ホーミ・バーバやガヤトリ・スピヴァック、アシス・ナンディの研究は、植民地が生み出すときにはめまいがするような主観的関係に根差していて、オリエンタリズムのような仕組みが敷いた人文主義的な罠の理解への貢献として否定できないのだ。

オリエンタリズム』の批判的変容のサーベイの最後に、拙著に対して最も血気流行った攻撃的な形で反応を示したある人々の集団、まあ予想できないことではないが、当のオリエンタリストたちについて言及しておこう。彼らは私が意図した主要な聴衆ではまったくなかった。私の念頭にあったのは、彼らの手口に少し光を当てて、他の人文学者たちにある分野の得意な手順と一般化を認識してもらうことだった。「オリエンタリズム」という言葉自体が、あまりに長いことある特殊な専門分野に押し込められてきた。私が示そうとしたのは、その応用と存在が政治的態度だけでなく文学、イデオロギー、社会文化全般に見られるということだ。オリエンタリストたちがやったように、だれかを東洋人だというのは、単にその人物が、言語や地理や歴史が学術論考の対象になっっているというのを示すだけではない。それはしばしば、人間として劣った血筋を示す侮蔑的な表現を意図されている。これはネルヴァルやセガレンのような芸術家たちにとって、「オリエント/東洋」という言葉がすばらしく、見事にエキゾチズムや魅惑、謎、約束と結びついていたのを否定するものではない。だがそれはまた、粗雑な歴史的一般化でもあった。こうしたオリエント、オリエンタル、オリエンタリズムといった用語の使用に加えて、オリエンタリストという言葉は東洋の言語や歴史についての博識で、学者的で、主に学術的な専門家をあらわすようになった。だが1992年3月にアルバート・ホウラニが、その速すぎたあまりに惜しまれた死の数ヶ月前に私に手紙で書いたように、私の議論の力 (これについて私をとがめるわけにはいかないと彼は述べた) のため、拙著は中立的な意味で「オリエンタリズム」という用語を使うのをほぼ不可能にしてしまうという不幸な影響ももたらした。それがあまりに濫用される用語になってしまったからだ。彼は最後に、それでもこの単語を「限られた、いささか退屈ながらも有効な学術研究文化」をあらわすために温存したいと述べている。

その全体としてバランスのとれた1979年の『オリエンタリズム』書評で、ホウラニは私がオリエンタリストたちの著作の多くに見られる誇張、人種差別、敵意を特だししている一方で、その無数の学術的、人文学的な成果について言及していないという示唆により、反論の一つを構築している。そこで挙げられた名前としてはマーシャル・ホジソン、クロード・コーエン、アンドレ・レイモンなどがある。彼ら (さらに死後に挙げられたドイツ人著者たちも) の成果は、人類の知識への真の貢献として認知されるべきだ。だがこれは、私が『オリエンタリズム』で述べていることと対立するものではない。そのちがいはと言えば、私は言説そのものの中に、単純に一蹴したり軽視したりできない態度の構造が広まっているのだと固執するという点にある。また私は、オリエンタリズムがあらゆるオリエンタリストの研究すべてにおいて、邪悪だとか、粗雑だとか、すべて同じだとか論じたことは一度もない。だがオリエンタリストの軍団たちが、帝国権力と共謀してきたという固有の歴史を持っていたとは主張しているし、それがどうでもいいと述べるのはひいきの引き倒しだ。

だからホウラニの訴えに共感はするものの、適切に理解されたオリエンタリズムの概念が、実のところ完全にそのいささか複雑で必ずしもご立派ではない状況と完全に切り離せるのか、私は深刻な疑念を抱いている。たぶん極端な話としては、オスマン時代やファーティマ朝の文献の専門家はホウラニの言う意味でのオリエンタリストなのかもしれない。だがそうした研究が今日において、いつ、どこで、どんな支援制度機関や主体においてそれが行われるのかをまだ問わねばならないのだろうか? 拙著の登場後に執筆した実に多くの人々は、極度に難解で浮世離れした学者についてすらまさにこの質問をして、とくにはひどい結果を引き起こしたのだった。

それでも、オリエンタリズム (特に私のもの) を批判するのは無意味であり、距離をおいた学術研究という発想そのものをなにやら侵犯するものだと論じる議論を持ち出そうとする、継続的な試みが一つあった。それを試みたのはバーナード・ルイスで、私が拙著で批判的な数ページを割いた人物ではある。『オリエンタリズム』刊行から15年後、ルイスは一部が著書 Islam and the West (English Edition) に収録された一連の論説を発表した。そしてその主要な部分は私に対する攻撃であり、それをとりまく形で粗雑かつ典型的なまでにオリエンタリスト的な定式化——イスラムは近代化に怒っている、イスラムは教会と国家の区別を一度も行わなかった等々——を動員する論説が配置されている。そのすべては極度の一般化で宣言されており、個別イスラム教徒とイスラム社会ごと、イスラムの伝統や時代ごとの差についてはほとんど言及がない。ルイスはある意味で、もともと私の批判が向けられていたオリエンタリストのギルド代弁者を自認するようになったので、その手口についてもう少し紙幅を割く価値はあるだろう。彼の思想はやんぬるかな、その追従者や模倣者の間でかなり流行しているのだ。そうした連中の仕事はどうやら、西洋の消費者に対して怒り狂った、例外なく非民主的で暴力的なイスラム世界の脅威を警告することらしいのだ。

ルイスの冗漫性は彼の立場のイデオロギー的な裏打ちと、ほぼあらゆることをまちがって理解するという驚異的な能力をほとんど覆い隠せていない。もちろんこれらはオリエンタリストお馴染みの常套手段であり、そうした人々の一部はイスラムおよび非ヨーロッパの人々に対する積極的な侮蔑について正直になるだけの勇気を少なくとも持ち合わせていた。だがルイスはちがう。彼は真実を歪め、まちがったアナロジーを使い、ほのめかしを使うことで話を進める。そこに彼は、自分が学者の語り口だと思い込んでいる、全知の平静な権威という上辺をつけくわえてみせるのだ。典型的な例として、彼が私のオリエンタリズム批判と、古典的古代研究への仮想的な攻撃との間にあると論じるアナロジーを見てみよう。そんな攻撃はバカげた活動だ、と彼は断じる。もちろんその通りだ。だがオリエンタリズムとヘレニズムはまったく比較できない。前者は世界の地域丸ごと描き出そうとする、その地域の植民地征服の付属物であり、後者は19世紀や20世紀のギリシャの直接的な植民地征服についての話ではまったくない。加えて、オリエンタリズムイスラムへの反発を示すものだが、ヘレニズムは古典ギリシャへの共感を示すものだ。

さらに現在の政治的瞬間は、人種差別的な反アラブ、反ムスリムステレオタイプを煽るものだ (が古典ギリシャへの攻撃はない)。そのおかげでルイスは非歴史的で身勝手な政治主張を学術的な議論の形で行えるのだ。これはまさに古くさい植民地主義的なオリエンタリズムの最も信用できない側面を完全に温存する手口だ*3。したがってルイスの作品は、純粋に知的環境の一部というより、現在の政治環境の一部なのだ。

彼のように、イスラムやアラブを扱うオリエンタリズムの一派が、古典文献学と比較できるような学問分野だとほのめかすのは、ヨルダン川西岸地区やガザの占領当局のために働いているイスラエルのアラブ学者やオリエンタリストたちを、ウィラモウィッツやモムゼンのような学者と比較するのと同じくらい不適切なことだ。一方ではルイスは、イスラムオリエンタリズムを、無垢で熱意ある学術部局の地位に還元したがる。その一方で彼は、オリエンタリズムがあまりに複雑で多様で専門的だから、非オリエンタリスト (たとえば私をはじめ多くの人々) が批判するのは無理だというふりをしたがる。ここでのルイスの戦術は、大量の歴史を弾圧することだ。私が示唆するように、イスラムに対するヨーロッパの関心は、好奇心ではなく、一神教の文化的・軍事的に侮れないキリスト教の強豪に対する恐れという形で生まれてきた。イスラムについての最初期のヨーロッパでの学者たちは、無数の歴史家たちが示したように、イスラムの軍団や異教の脅威を防ごうとする中世の煽動者たちだった。あれやこれやの経緯で、その恐怖と敵意の組み合わせは今日まで、イスラムに対する学術的、非学術的な関心の中に居残り、イスラムは、想像的にも地理的にも歴史的にも、ヨーロッパと西洋に対立するものと思われた世界の一部——オリエント——に属していると見られるようになったのだった。

イスラムあるいはアラブのオリエンタリズムをめぐる最も興味深い問題は、まず中世的な痕跡の形態がこれほど執念深く残っていることと、第二にオリエンタリズムとそれを生み出した社会との間のつながりに歴史と社会学だ。オリエンタリズムと文芸的な想像力の間には強い親和性があるし、また帝国意識の間にも親和性があるのだ。ヨーロッパ史の多くの時期で驚異的なのは、学者や専門かたちが書いたことと、詩人、小説家、政治家、ジャーナリストがイスラムについて語ったこととの交流なのだ。それに加えて——そしてこれはルイスが決して扱おうとしない決定的な論点だが——現代のオリエンタリスト学術研究台頭と、英仏による莫大な東洋帝国の獲得との間には驚くべき (だがそれでもはっきり理解できる) 並置があるのだ。

定型的なイギリス古典教育と大英帝国拡張とのつながりは、ルイスが想定するよりも複雑なものだが、現代文献学の歴史においてen力と知識の間にオリエンタリズムの場合ほど露骨な並列が存在する例はない。イスラムとオリエントについての情報の相当部分は、植民地権力によって植民地主義を正当化するのに使われたが、それをもたらしたのはオリエンタリスト的な学術研究だった。多くの著者による最近の研究、カール・A・ブレッケンリッジとピーター・ファンデルフェール編 Orientalism and the Postcolonial Predicament: Perspectives on South Asia (South Asia Seminar) *4は、オリエンタリスト的知識が南アジアの植民地行政に使われた様子を大量の記録で実証している。地域学者の間では、オリエンタリスト、外務系政府部局などの地域学者の間では、かなり一貫したやりとりが未だに行われてる。さらに、イスラムやアラブの感性をめぐるステレオタイプ、たとえば怠惰、宿命主義、残虐さ、堕落、ひけらかしといった、ジョン・ブキャンからV・S・ナイポールまで多くの作家に見られるものは、学術オリエンタリズムの分野でも根底にある思いこみとなっていた。これに対しインド学や中国学と一般文化との間でのクリシェのやりとりは、指摘すべき関係や拝借は見られても、これほど華々しいものではない。また西側における中国学やインド学の専門家の慣行と、欧米で将来にわたりイスラムを研究してきたくせに、それを崇拝するどころか、どうしても好きになれない地域や宗教や文化だと考える多くの専門学者との間には、ほとんど類似性はないのだ。

ルイスやその模倣者たちが述べるように、こうした指摘が単に「流行の大義」を掲げようとしているだけだというのは、たとえばなぜ実に多くのイスラム専門家たちが、当時もいまもしょっちゅう、イスラム世界を経済的に収奪し、支配し、露骨に攻撃しようとする政府に相談を受け、積極的にそこで働くかという問題や、なぜ実に多くのイスラム学者——たとえばルイス自身——が自発的に現代のアラブやイスラムの人々に攻撃をしかけつつ、「古典的」イスラム文化はそれでも距離をおいた学術検討の対象になれるのだというふりをするのか、といった問題に十分に取り組んだことにはならない。中世イスラムギルドの歴史についての専門家が国務省のミッションに派遣されて、地域のアメリカ大使館にペルシャ湾の安全保障面の利害の説明を行うといった光景は、古典文献学といった同質な分野と称するものにルイスが割り振るヘラスへの愛に似たものを一切自発的に示唆するものではない。

だからイスラムとアラブのオリエンタリズム分野は、常に国家権力との野合を否定しつつ、ごく最近まで私がいま描いてきたつながりについて内的な批判を生み出すことはなく、ルイスがオリエンタリズムの批判は「無意味」だという驚くべき発言ができるというのは、驚くべきことではない。またごく少数の例外を除いて、私の作品に対して引き出された「専門家」の否定的な批判が、ルイスのもののように、粗雑な不法侵入者によって侵犯された王国の退屈な記述以上のものではなかったのも驚くべきことではない。私が論じているもの——これはオリエンタリズムの中身だけでなく、その関係性、提携、整形高、世界観を含む——に取り組もうとした唯一の専門家たち (ここでも少数の例外はいるが) は、中国学者、インド学者、中東学者の若い世代だった。彼らは新しい影響を受けやすく、またオリエンタリズム批判が持つ政治的な議論にも影響されやすいからだ。その一例はハーバード大学のベンジャミン・シュウォーツで、1982年のアジア研究学会の会長演説で私の批判の一部に異論を唱えると同時に、私の議論を知的に歓迎したのだった。

多くの年配のアラブ学者やイスラム学者は、不満たらたらの怒りで応えたが。これは彼らにとっては自己反省の代替物なのだ。その多くは「悪意」「不名誉」「訴訟的」といった言葉を使い、批判そのものが彼らの聖別された学術的保存地区に対する容認しがたい 侵害だとでも言うようだ。ルイスの場合、提出された擁護論は明白な詐術行為だ。というのもオリエンタリストのほぼ全員が、アラブ (その他) の大義に対して情熱的な政治的敵対の党派性を、アメリカ議会、コメントなどで示してきたからだ。従って、彼に対する適切な対応には、彼がその分野の「名誉」を擁護しているというふりをするときに、彼が政治的かつ社会学的にどんな存在なのかという記述を含めざるを得ない。その擁護は、十分に明らかとなることだが、イデオロギー的な半分だけの真実で非専門家読者を誤解させるように設計された入念なでっちあげでしかないのだ。

要するに、イスラムやアラブのオリエンタリズムと現代ヨーロッパ文明との関係を研究するためには、別にこの世に存在したあらゆるオリエンタリストやあらゆるオリエンタリストの伝統や、オリエンタリストの書いたものすべてをカタログ一覧にして、それらをひとくくりにろくでもない無価値な帝国主義だと断じる必要はないのだ。私はそもそもそんなことをしていない。『オリエンタリズム』が陰謀だとか、「西洋」が野蛮だとか示唆するのは無知蒙昧の行いだ。どちらもルイスやそのエピゴーネンの一人、イラク報道官K・マキヤが厚顔にも私になすりつけたとんでもない愚言だ。その一方で、人々がオリエントについて書き、考え、語ってきた文化、政治、イデオロギー、制度的な文脈を抑圧するのは、学者であろうとなかろうと偽善的だ。そしてすでに述べたように、『オリエンタリズム』が実に多くの思慮深い非西洋人に反対される理由が、現代の言説が植民地時代に起源を持つ権力の言説だと正しく認識されているからだと理解するのはきわめて重要だ。これは最近のきわめて優秀なニコラス・B・ダークス編のシンポジウムColonialism and Culture (The Comparative Studies In Society And History Book Series) の主題となっている*5。この種の言説は、主にイスラムが一枚岩で変化せず、したがって強力な国内利害のために「専門家」によってマーケティングできるのだという想定に基づいているが、そこではイスラム教徒もアラブもその他の非人間化された劣った人々のだれも、自分を人間として認識できず、その観察者を単なる学者としては認識できないのである。最大でも彼らはその現代オリエンタリズムの言説やそれに対応したアメリカ先住民やアフリカについて構築された類似の知について、学術的な客観性というフィクションを維持するために、そうした思考体系の文化的な文脈を否定し、抑圧し、歪曲する慢性的な傾向を見出すのである。

II

だが、ルイスのような見方が主流とはいえ、それが過去15年で登場したり強化されたりした唯一のものだと示唆したくはない。だがソ連崩壊以来、アメリカの一部学者やジャーナリストたちの間には、オリエンタル化されたイスラムに新しい邪悪の帝国を見つけようとするせっかちな動きが見られるというのも事実だ。結果として、電子メディアも印刷メディアも、イスラムテロリズムをいっしょくたにしたり、アラブと暴力をひとくくりにしたり、オリエントと圧政を同一視したりする悪意あるステレオタイプだらけとなっている。そして中東や極東の多くの部分では自国主義的な宗教や原始的ナショナリズムへの帰還が見られ、中でも特に不名誉な側面は、サルマン・ラシュディに対するファトワの継続だ。だがこれがすべてではないし、この論説の残りでやりたいのは、学術研究、批評、解釈における新しいトレンドをについて語ることだ。それらは拙著の基本的な主張は受け入れるものの、ある面でそのはるか先に進み、思うに歴史的体験の複雑性の感覚を豊かにしてくれるのだ。

もちろんこうしたトレンドはどれ一つとして、いきなり現れてきたものではない。また、どれも完全に確立した知識や慣行の地位を獲得してはいない。現世的な状況は相変わらずめまいがするほど混乱していて、イデオロギー的にややこしく、変わりやすく、緊張していて、変動しやすく、殺人的ですらある。ソ連が解体され東欧諸国が政治的な独立を実現しても、権力と支配のパターンは困惑するほどはっきりしている。かつてはロマンチックかつ情緒的に第三世界と呼ばれていたグローバルサウスは 債務の罠にからめとられ、何十もの分断化されたり理解不能だったりする存在へと解体され、過去10年、15年にわたり増した貧困、病気、低開発の問題に囚われている。脱植民地と独立を実現した、非連合運動やカリスマ的な指導者は消えた。民族紛争と局地戦争の警鐘的なパターンは、ボスニア人の悲劇的な例がしめすようにグローバルサウスにとどまらない形であちこちで登場するようになった。そして中米、中東、アジアのような場所ではアメリカがいまだに支配的な権力となっており、不安かついまだに統一されていないヨーロッパがその背後によたよたと付き従っている。

現在の世界状況の説明と、それを文化的、政治的に理解しようという試みが、いくつか驚くほど劇的な形で登場した。すでに原理主義については述べた。それに世俗的に対応するのはナショナリズムへの回帰と、各種の文明や文化の過激なちがいを強調する理論——すべてを包含するとでも言いたげなニセのものだと私は考える——などだ。たとえば最近ではハーバード大学のサミュエル・ハンチントン教授が、冷戦の二極状態がその後「文明の衝突」と彼が呼ぶものに取って代わられたという、あまり説得力のない議論を提示している。この理論は、西洋、儒教イスラム文明その他いくつかが、水も漏らさぬ地区分類となり、その支持者たちは根っこのところではその他連中を排除するのにだけ関心があるのだ、と述べるものだ*6

これはとんでもない話だ。というのも現代文化理論の大いなる進歩は、文化がハイブリッドで、異質であり、私が『文化と帝国主義1文化と帝国主義〈2〉』で述べたように、文化と文明はあまりに相互関連していて相互依存しているので、その固有性について統一的または単純に仕分けできるような記述はできないというほとんど普遍的な認識だからだ。今日「西側文明」について語るのは、おおむねイデオロギー的なフィクションとして、いくつかの価値観や思想 (そのどれも征服、移民、旅行、人々の混合など現在の西側諸国に入り混じったアイデンティティを与えたものの外側では大した意味を持たない) の現実離れした優位性という以外では不可能ではないか? これは特にアメリカについて言える。それは今日では、ちがった人種や文化の巨大なパリンプセストとして、問題ある征服、絶滅、そしてもちろん大量の文化政治的な業績を共有するものとして以外には間島に記述できない国なのだ。そしてこれは『オリエンタリズム』で含意されたメッセージの一つだ。文化や人々を別々のちがった種類の本質に無理に押し込めようとする試みはすべて、そこから生じるまちがった表象や誤謬を曝露するだけでなく、「オリエント/東洋」「西洋」といったものを生み出す権力と野合した理解を曝露するものなのだ。

ハンチントンや、その背後の意気揚々とした西側伝統の理論家や弁明者たち、たとえばフランシス・フクヤマなどが、世間の意識をかなりしっかり掌握していることを否定するものではない。かつては左派知識人だったのに、いまや社会政治扇動家へと退行したポール・ジョンソンの症例的な例を見ればそれは明らかだ。1993年4月18日号の『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』(決してどうでもいい刊行物ではない) で、ジョンソンは「植民地主義復権:それも一瞬たりとも遅滞なく」と題した論説を発表した。その主要な発想は、「文明化した国家」は「文明化生活の最も基本的な条件が崩壊した」第三世界諸国を再植民地化する仕事を引き受けるべきであり、そのためには信託制度のシステムを課すべきだというものだ。彼自身の発言によれば、このモデルは明示的に19世紀植民地主義的なものだ、そこではヨーロッパ人たちが儲かる形で貿易するために政治的秩序を押しつけねばならなかったのだという。

ジョンソンの議論は、アメリカ政策担当者たちの成果、メディア、そしてもちろんアメリ外交政策そのものと無数の水面下でつながる響きを持つものだ。アメリ外交政策は、中東、ラテンアメリカ、東欧では介入主義的なままで、その他あらゆるところ、特にロシアと旧ソ連共和国に対しての政策についていえば、正直いって伝道的なものとなっている。だが重要な点は、西洋覇権という古い思想 (その一部がオリエンタリズムだ) と、広範な知識人、学者、アーティストたちの広い部分のサバルタン的で恵まれないコミュニティの中で根付いたもっと新しい思想との間に、ほとんど検討されていないが深刻な分断が、世間の意識の中で生じつつあるということだ。いまや、劣った人々——かつて植民地化され、奴隷化され、抑圧された人々——が年配の欧米男性を除けば考慮されないということはもはやないというのは驚くべきことだ。女性、マイノリティ、周縁化された人々の意識には革命が生じ、それがあまりに強力なので世界的な主流の思考にも影響しつつある。1970年代に『オリエンタリズム』の執筆をしていたときには、少しはそれを感じてはいたが、いまやそれがあまりに劇的なまでに明確となっていて、本気で文化の学術理論的な研究に関わる人々はだれしも注意を払わざるを得なくなっているのだ。

二つの広い潮流が区別できる。ポストコロニアリズムポストモダニズムだ。どちらも「ポスト」とついているのは、それを超えるという意味よりはむしろエラ・ショハトがポストコロニアルに関する重要な論説で述べるように「連続性と非連続性を示唆するが、その力点は古い植民地主義的な手口の新しいモデルにあり『超える』ことにあるのではない」*7。ポストコロニアリズムポストモダニズムも、どちらも1980年代に関連した取り組み対象として台頭し、『オリエンタリズム』のような作品などを先例として考慮しているようだ。ここでそれぞれの単語を取り巻く大量の用語をめぐる論争に深入りするのは、その一部はこうした用語で「ポスト」の後にハイフンが入るべきかどうか、といった話に延々とこだわったりしていることもあって、不可能だ。ここでの論点はしたがって、過剰だったりお笑いだったりする専門用語の孤立した事例について語ることではなく、1978年に刊行された本の観点から見て、ある程度までそれが1994年に関わりを持っていると思われる、潮流と活動を見極めることだ。

新しい政治経済的秩序をめぐる最も説得力ある研究の大半は、最近の論衡でハリー・マグドフが「グローバル化」と呼んだものに関連している。これは小規模な金融エリートが全地球にその権力を拡大し、商品やサービスの価格をつり上げ、富を低所得部門 (通常は非西洋世界) から高所得国に再分配するシステムだ*8。これと共に、マサオ・ミヨシとアリフ・ディルリクが厳格な用語で論じているように、国家がもはや国境を持たず、労働と所得はグローバルなマネージャだけに左右され、植民地主義が南の北に対する従属としてあらわれた新しい超国家的な秩序が登場している *9. ミヨシとディルリクはどちらも、多文化主義や「ポストコロニアル性」といった主題における西洋の学者たちの関心が実はグローバル権力の新たな現実からの文化知的な退却かもしれないことをさらに示している。ミヨシ曰く「我々が必要としているのは、厳密な政治経済的な検討であって」、カルチュラルスタディーズや多文化主義といった新分野に含まれる「リベラル派の自己欺瞞」が示すような「衒学的ご都合主義ではない」(751).

だがこうした命令を深刻に受けとるにしても (そして受けとるべきだ)、ポストモダニズムとそのかなりちがった相方たるポストコロニアリズムへの関心が生じたことには、歴史的体験のしっかりした基盤がある。まず前者にはずっとつよいヨーロッパ中心主義的なバイアスがあるし、地元と制約されたもの、さらにはほとんど装飾的な歴史性の軽さ、パスティーシュ、そして何よりも消費者主義を強調する理論的かつ審美的な強調の過多がある。

ポストコロニアルの最初期の研究は、アンワール・アブデル・マレク、サミール・アミン、C・L・R・ジェイムズといった立派な思想家によるもので、そのほとんどすべては完成した政治的独立や、不完全な解放主義者的プロジェクトの観点から行われた支配と統制の研究に基づいていた。だが、ポストモダニズムはその最も有名なプログラム的表現 (ジャン=フランソワ・リオタールのもの) が解放と啓蒙の大きな物語消失を強調しているとはいえ、第1世代のポストコロニアルアーティストや学者たちが行った研究の背後にある力点は、その正反対だ。大きな物語は残っているが、その実装と実現は現在は中断、先送り、または迂回されている、というものだ。この、ポストコロニアリズムの緊急の歴史的、政治的な課題意識と、ポストモダニズムのかなりの超然ぶりとの決定的な違いは、両者の間にある程度の重なり合い (たとえば「魔術的リアリズム」の技法) などの共通点はあるものの、まったくちがったアプローチと結果を生み出している。

1980年代初頭から実に劇的に繁殖してきた最高のポストコロニアル研究の大半においては、極致的、地域的、制約を受けた者たちにあまり力点が置かれていないと示唆するのはまちがっていると私は思う。力点はある。だが私から見ると、それが最も興味深い形でつながっているのは、普遍的な懸念事項群に対する全般的なアプローチにおいてであり、そうした懸念事項のすべては解放、歴史と文化に対する修正主義敵態度、何度も登場する理論的モデルやスタイルの広範な使用と関連している。主導的なモチーフは、ヨーロッパ中心主義と父権主義の一貫した批判だ。1980年代の欧米の大学キャンパスでは、学生と教授陣が共に、中核カリキュラムと呼ばれるものの学術的な焦点を広げて、女性、非ヨーロッパアーティストや思想家、サバルタンたちの作品を含めるように熱心に活動してきた。これに伴い、地域研究のアプローチに重要な変化が生じた。それは長いこと古典的オリエンタリストやそれに相当する人々が掌握していたものなのだ。人類学、政治学、文学、社会学、そして何より歴史学は、情報源の後半な批判、理論の導入、ヨーロッパ中心主義の観点解体の影響を実感した。最も見事な修正主義的研究は、中東研究ではなく、サバルタンスタディーズの台頭に伴いインド学の分野で生じたものかもしれない。ラナジット・グーハ率いる驚異的な学者や研究者の集団が実施したものだ。彼らの狙いは、歴史記録学の革命としか言い様のないものであり、その目先の目標はインド史の記述を、ナショナリスト的エリートの独占から救済して、そこに都市貧困者と地方大衆の重要な役割を回復させるというものだ。こうしたほぼ学術的な研究について、それが簡単に懐柔されて「トランスナショナル」なネオコロニアリズムに奉仕させられるとだけ述べるのはまちがっていると私は思う。後の落とし穴については警告しつつも実績については記録して認めるべきだ。

私にとって特に興味深かったのはポストコロニアル的な懸念を地理の問題に拡張したことだった。結局のところ、オリエンタリズムというのは何世紀にもわたり、東洋と西洋とを分ける、乗り越えられない亀裂と思われていたものの再考に基づく研究なのだ。私の狙いは、すでに述べた通り、ちがいそのものを否定することではない——というのも人間たちの関係における国民的、文化的なちがいの建設的な役割をだれが否定できようか——むしろその差が敵意を含意した、対立した本質の実体化され凍結されたものだと考え、そうしたものから構築される対立的な知識丸ごとに異議を申し立てるのが私の狙いだ。『オリエンタリズム』で主張したのは、何世代もの敵意、戦争、帝国支配を刺激してきた分離や紛争を捕らえる新しい方法だった。そして実際、ポストコロニアル研究における最も興味深い展開は、正典とも言うべき文か作品の再読だ。それらをひきずりおろしたり、汚物を投げつけたりすることではなく、その想定の一部を再検討し、何やら主人と奴隷の二項対立のバージョンがそうした作品をおさえつけている状態を超えることだ。これは驚くほど豊穣な、ラシュディ『真夜中の子供たち』のような小説、C・L・R・ジェイムズのナラティブ、エメ・セゼールやデレク・ウォルコットの詩などに比肩する影響を持っていた。こうした作品においては、大胆な新しい形式面での業績が実質的に植民地主義の歴史的体験の再奪取であり、再活性化されて、共有としばしば超越的な再定式かの新しい美学に変換されているのだ。

そうしたものは、1980年にフィールドデイという集合体を結成した傑出したアイルランド作家たちの作品にも見られる。彼らの作品集の序文は彼らについてこう述べる。

[こうした作家は] フィールドデイが、[アイルランドと北部の] 現在の状況の症状でもあり原因ともなった、確立された意見、ウソやステレオタイプについて分析を提供することで、現在の危機の解決に貢献できるし、そうすべきだと信じていた。憲法的、政治的な取り決めの崩壊と、それらが抑え阻止するよう設計されていたはずの暴力の復活は、これを共和国よりも北部でもっと緊急の要件にした。(中略) したがってこの集団は、一連のパンフレット [それに加えてシームス・ヒーニーの見事な一連の詩、シームス・ディーンの論説、ブライアン・フリエルとトム・パウリンの戯曲] を刊行し、そこでアイルランド問題の性質が検討できるようにして、結果としてこれまでよりももっとうまい形で取り組めるように乗り出すことに決めたのである *10

かつては人々と文化の地理的な分離に基づいていた歴史的体験を再考して再定式化するという発想は、実に大量の学術批評研究の核心にある。たった三つだけ例を挙げると、 Ammiel Alcalayの After Arabs and Jews: Remaking Levantine Culture、Paul Gilroy The Black Atlantic: Modernity and Double-Consciousness, および Moira Ferguson Subject to Others: British Women Writers and Colonial Slavery, 1670-1834*11 などだ。

こうした作品では、かつてある人々、ジェンダー、人種、階級だけのものと思われていた領域が再検討されて、その他の人々が慣用していたことが示された。長きにわたりアラブとユダヤ人の戦場として示されてきたレバントは、アルカレイの本では両方の人々に共通の地中海文化として立ち現れてくる。ギルロイによれば、似たようなプロセスが、これまでは主にヨーロッパの海路と思われてきた大西洋の認知をも変え、それどころか二重化する。そしてイギリスの奴隷所有者とアフリカの黒人との対立関係再検討においてファーガソンは男女を分けるもっと複雑なパターンを突出させ、その結果としてアフリカでは新しい降格や断絶が生じたことを示す。

こうした例はいくらでも挙げられる。ここでは最後に簡潔に、文化政治現象としてのオリエンタリズムに対する私の関心が始まった敵対関係や不平等はいまだに存在するとはいえ、いまや少なくともそれらが永遠の秩序をあらわすものではなく歴史的な体験を示すものでありその終わり、あるいは少なくとも部分的な是正が手の届くところにきている、ということが全般的に受け入れられるようになっているとだけ述べておく。15年にわたる華々しい年月が与えてくれた距離感と、思考や人間関係に対する帝国主義的な軛の影響を減らす、大量の新しい解釈的、学術的な事業が出回るようになったことで、『オリエンタリズム』は少なくとも、おのれを公然とその闘争に参加させるという利点は得られた。その闘争はもちろん「西洋」と「東洋」の両方で継続するものなのだ。

 

E.W. S.

ニューヨーク、1994年3月

*1:Martin Bernal, Black Athena (New Brunswick, NJ: Rutgers University Press, Volume I, 1987; Volume II, 1991) 邦訳マーティン・バナール『ブラック・アテナ―古代ギリシア文明のアフロ・アジア的ルーツ〈1〉古代ギリシアの捏造1785‐1985 (グローバルネットワーク21“人類再生シリーズ”)』(新評論)、『黒いアテナ 2 〔上巻〕―古典文明のアフロ・アジア的ルーツ 考古学と文書にみる証拠 上巻』(藤原書店); Eric J. Hobsbawm and Terence Rangers, eds., The Invention of Tradition (Cambridge: Cambridge University Press, 1984 ) 邦訳ホブスボウム&レンジャー編『創られた伝統 (文化人類学叢書)』(紀伊國屋書店, 1992).

*2:O'Hanlon and Washbrook, "After Orientalism: Culture, Criticism, and Politics in the Third World;" Prakash, "Can the Subaltern Ride? A Reply to O'Hanlon and Washbrook," いずれも Comparative Studies in Society and History, IV, 9 (January 1992), 141-184 所収.

*3:あることさら雄弁な例として、ルイスの悪意ある一般化の習慣は法的トラブルを引き起こしたらしい。Liberation (March 1, 1994) とThe Guardian (March 8, 1994) によると、ルイスはフランスでアルメニア人組織と人権組織の提訴による刑事訴訟と民事訴訟に直面しているとのことだ。彼は、フランスにおいてナチスホロコースト否定を犯罪としているのと同じ法文の下で起訴されており、彼に対する起訴内容は (フランス紙によると) オスマン帝国の下でアルメニアでの大量虐殺が起きたのを否定しているというものだ。

*4:Philadelphia: University of Pennsylvania Press, 1993.

*5:Ann Arbor: The University of Michigan Press, 1992.

*6:"The Clash of Civilizations," Foreign Affairs 71, 3 (Summer 1993), 22-49.

*7:"Notes on the 'Post-Colonial'," Social Text, 31/32 (1992), 106.

*8:Magdoff, "Globalisation-To What End?," Socialist Register 1992: New World Order?, ed. Ralph Milliband and Leo Panitch (New York: Monthly Review Press, 1992), 132.

*9:Miyoshi, "A Borderless World? From Colonialism to Trans-nationalism and the Decline of the Nation-State," Critical Inquiry, 19, 4 (Summer 1993), 726-51; Dirlik, "The Postcolonial Aura: Third World Criticism in the Age of Global Capitalism," Critical Inquiry, 20, 2 (Winter 1994), 328-56.

*10:Ireland's Field Day (London: Hutchinson, 1985), pp. Vll-Vlll.

*11:Alcalay (Minneapolis: University of Minnesota Press, 1993); Gilroy (Cambridge: Harvard University Press, 1993); Ferguson (London: Routledge, 1992).

サイード『オリエンタリズム』25周年記念版版序文 (2003)

オリエンタリズム』25周年記念版版序文 (2003)

エドワード・サイード

山形浩生

9年前の1994年春、私は『オリエンタリズム』のあとがきを書いた。これは自分で言った/言わなかったつもりのことを明確にしつつ、1978年に本書が出てから生じた多くの議論だけでなく、「オリエント」の表象についての作品が、ますますまちがった紹介や誤解にさらされる各種のやりかたについても強調した文章だった。同じ事が現在も見られるというのを、自分が苛立たしいと思うよりむしろ皮肉だと思ってしまうのは、歳を取ったしるしでもあるし、同時に年配となる道のりを通常は彩る、期待や教育的な熱意の必然的な衰えのしるしでもある。我が知的、政治的、個人的な導師2人、エクバル・アーマッドとイブラヒム・アブ=ルゴッド (この作品を献じた一人だ) が最近他界したことで、悲しみと喪失感がもたらされたが、同時に諦めと、ある種のこのまま進もうという頑固な意志も生まれた。別に楽観的になるという話ではまったくなく、むしろ私見ながら知的な天職を形作り、方向性を与えてくれる、継続的で文字通り果てしない解放と啓蒙のプロセスを信じ続けるということなのだ。

それでも、『オリエンタリズム』がいまだに世界中で議論され、36言語に翻訳され続けているというのは、私にとっては驚異の源ではある。現在はUCLAでかつてはイスラエルのベン・グリオン大学に所属していた親友にして同僚のギャビー・ピーターバーグ教授のおかげで、いまやヘブライ語版もあり、おかげでイスラエルの読者や学生の間にかなりの議論が引き起こされた。さらにベトナム語の翻訳がオーストラリアの支援を受けて登場した。僭越ながら、本書の主張を受けてインドシナの知的空間が開かれたようだと言ってもいいだろう。いずれにしても、自分の作品がこれほど幸せな運命をたどるなどとは夢にも思わなかった著者としては、本書でやろうとしたことが完全に死に絶えたりせず、特に「東洋」そのものの各地で続いていると書けるのは大いなる喜びだ。

その理由の一部はもちろん、中東、アラブ、イスラムはすさまじい変化、闘争、論争に油を注いできたからだし、これを書いている時点では、戦争も煽ってきたからだ。ずっと前に述べた通り、『オリエンタリズム』は根本的に、いやむしろ過激なまでに御しがたい状況の産物だからだ。『遠い場所の記憶 自伝』 (1999) では、自分が育った奇妙で矛盾した社会について述べ、自分と読者にパレスチナ、エジプト、レバノンで私を形成したと思う環境についての詳細な説明を提供した。だがそれは単なるきわめて個人的な記述で、1967年アラブ=イスラエル戦争後に始まった、長年にわたる私自身の政治的取り組み以前の話で終わってしまった。この戦争はいまだに続くその後遺症 (イスラエルはいまだにパレスチナ領土とゴラン高原を軍事的に占領している) が、アラブとアメリカ人の私の世代にとっては決定的だった闘争と思想の条件として続いているようだ。それでも改めて主張しておきたいのは、本書と、それを言うなら私の知的作業全般は、大学の学者としての生活で全体として可能なものとなったということだ。というのもしばしば指摘される各種の欠陥や問題はあれど、アメリカの大学——特に我がコロンビア大学——はアメリカにおいていまでも、思索と研究がほとんどユートピア的な形で行える場所として、残った数少ないところだからだ。私は中東については何も教えたことはない。訓練でも実践でも、主に欧米人文学の教師であり、現代比較文学の専門家だ。大学と、二世代にわたるトップクラスの学生や優れた同僚たちとの教育的な作業は、本書に含まれる意図的に思索的で分析された研究のようなものを可能にしてくれたし、その緊急性の高い現世的な言及はいろいろあれど、やはり文化、思想、歴史、権力についての本であって、単なる中東政治の本ではないのだ。これは当初から私の意図したことだし、今日の私にもそれはきわめて明白で、以前よりずっとはっきりしてきている。

それでも『オリエンタリズム』は、現代史の波瀾に満ちた力学に大いに結びついている本だ。このため本書の中で私はオリエントという用語も西洋の概念も、存在論的な安定性などまったく持っていないと指摘している。どちらも人間の活動で構築されており、一部は追認であり、一部は他者の同定となっているのだ。こうした至高のフィクションが、実に簡単に操作されてしまい、集合的情熱の組織に使われてしまうという点が、現代ほどあらわになった時代はない。恐怖、憎悪、嫌悪、よみがえる自尊心と傲慢——その多くは一方でイスラムとアラブ、反対側では「我々」西洋人に関わるものだ——の動員が、きわめて大規模な事業となっているのだ。『オリエンタリズム』冒頭は、レバノン内戦についての1975年の記述となっている。これは1990年に集結したとはいえ、暴力と醜悪な流血はこの瞬間も続いている。オスロ和平プロセスは破綻し、第二次インティファーダが勃発し、再侵略されたヨルダン川西岸とガザ地区パレスチナ人たちのひどい苦悶が生じた——そこではイスラエルF-16戦闘機やアパッチヘリコプターが、しょっちゅう無防備な文民たちに対し、その集合的な処罰のために使われているのだ。自爆テロ現象が登場して、それに伴う目をそむけたくなる被害も出ているし、それを最も赤裸々で黙示録的に示しているのは、もちろん9.11の出来事と、その後のアフガニスタンとイランに対する戦争だ。本稿の執筆時点で、英米による違法で承認されていないイラク帝国主義的な侵略と占領は続いており、その先に待っている物理的な荒廃、政治的な不穏、さらなる侵略は、まさに考えるだにひどいものだ。これはすべて、文明の衝突とされるものの一部で、果てしなく、終わりもなく、どうしようもないのだとされる。それでも、私はそうは思わない。

だが中東、アラブ、イスラムについての一般的理解が、アメリカでは多少の改善を見たと言いたいところではあるが、残念ながら、実際にはまるで改善していない。さまざまな理由から、ヨーロッパの状況はずっとマシのようだ。アメリカでは、態度の硬化、屈辱的な一般化や勝ち誇ったような常套句の掌握の硬化、粗雑な力の支配が、異論を唱えるものや「他者」に対する単細胞的な侮蔑と組み合わさったものの発達と歩みをあわせて、イラクの図書館や博物館の収奪、簒奪、破壊を引き起こしている。私たちの指導者たちとその知的傀儡たちが理解できないのが、歴史は黒板とはちがってきれいに消し去れないということ、「我々」が自分の未来をそこに書き付けて、私たちの人生のあり方を、その劣った連中に従わせたりはできないほどきれいには消せないのだ、ということだ。ワシントンなどの高官が、中東の地図を書き換えると言うのをよく耳にする。まるで古代社会や無数の人々が、ビンに入ったピーナッツのように振り回せるとでも言うようだ。だがこれは「オリエント」についてしばしば起きたことだ——これはあの半ば神話的な構築物で、18世紀末のナポレオンによるエジプト侵略以来、お手軽な形の知を通じて作用する権力により、これがオリエントの性質であり、それに応じた対応が必要だと主張するために、数え切れないほど何度も再構築されてきたものなのだ。歴史の数え切れない堆積プロセスは、無数の歴史やめまいがするほど多様な人々や言語や体験や文化を含むものだが、そのすべてが脇に押しやられるか無視され、バグダッドの図書館や博物館から奪われた、無意味な断片へと刻まれた宝といっしょに、砂山に投げ込まれてしまったのだ。私の議論は、歴史は男や女によって作られたものであり、同じようにそれをばらして書き換えることもできる、ということで、それは常に各種の沈黙や省略が伴い、形が押しつけられ歪曲が容認されることで、「私たちの」東洋、「私たちの」オリエントが、「私たち」の所有し方向づけられるものとなれるのだ、ということなのだ。

繰り返しておくべきだろうが、「真の」オリエントを私が持っていてそれを支持するというのではない。だがその地域の人々が、自分たちが何であって何になりたいかというビジョンのために闘争する力や才能にはきわめて敬服している。現代のアラブやイスラム社会について、その後進性、民主主義欠如、女性の権利不在をめぐる攻撃があまりに大量で計算高い激しさを見せているので、近代性、啓蒙、民主主義といった概念が、居間に隠されたイースターエッグのように、見つかるか見つからないかの、単純で完全に合意されている概念ではないのだというのを人々はつい忘れてしまう。外交政策を掲げて語り、本当の人々が実際に語る言語について生の概念が欠けた (あるいはそもそも何の知識もない) 、お粗末な広報官たちの息をのむような無頓着ぶりは、アメリカ権力がそこに自由市場「民主主義」のインチキなモデルを構築できるような不毛な風景を作り上げる。そして彼らは、そんなプロジェクトがジョナサン・スウィフトのラガド島大学 (訳注:『ガリバー旅行記』に登場する、空理空論と訳に立たない研究を弄ぶ衒学的な学術機関] 以外には存在しないのではという疑念をかけらほどもみせないのだ。

また私が実際に議論しているのは、他の人々や時代についての、理解や共感や魂胆なしの慎重な研究から得られる知識と、自己追認や対立関係や明確な戦争という全体的なキャンペーンの一部としての知識 (そう呼べるものならば) とにはちがいがある、ということだ。なんといっても、共存と人道的な地平拡大のために理解しようという意志と、統制と外部への拡大のために支配する意志と、統制と外部の支配のために支配する意志との間には、深遠なちがいがあるのだから。選挙で選ばれたわけでもないアメリカの高官小集団 (彼らは臆病タカ派と呼ばれている。だれ1人として従軍経験はないからだ) が引き起こした帝国主義戦争が、世界支配と安全保障統制、希少資源と関連した、まったくのイデオロギー的理由 から、荒廃した第三世界専制主義国に仕掛けられたのに、それが学者としての使命を裏切ったオリエンタリストたちによってその意図を偽装され、煽られ、正当化されたというのは、まちがいなく歴史上の知的危機の一つだろう。ジョージ・W・ブッシュ国防総省国家安全保障会議に大きな影響を与えたのは、バーナード・ルイスやフォアド・アジャミのような人々だ。彼らはアラブやイスラム世界の専門家で、アメリカのタカ派がアラブの精神だの何世紀にもおよぶイスラムの衰退といった傲慢不遜な現象について、アメリカの権勢だけがそれを逆転させらるなどと考えるのを支援してきたのだ。今日、アメリカの書店はイスラムとテロ、イスラムの暴露、アラブの脅威、ムスリムという危険といった見出しをがなりたてる、貧相な書き殴りだらけとなっている。そのどれも、こうした「我々」のわき腹に刺さったひどいトゲである、こうしたひどい風変わりなオリエント人たちの核心を突いたと称する専門家たちに吹き込まれた知識を有するふりをした、政治的な煽り屋たちが書いたものだ。そうした戦争を煽る専門家に伴って、世界のCNNだのFoxニュースだのがいたるところにあり、さらには無数の宣教師や右翼のラジオ司会者たち、さらに無数のゴシップ誌や一般誌までが、すべて同じ裏付けもないでっちあげや、あまりに粗雑な一般化を繰り返しつづけて「アメリカ」を外国の悪魔に対してけしかけている。

あれほど欠点だらけで、ひどすぎる独裁者 (部分的には20年前のアメリカ政策が作り出した存在ではある) がいても、もしイラクが世界最大のバナナやオレンジの輸出国だったなら、まちがいなく戦争はなかっただろうし、忽然と消えた謎の大量破壊兵器をめぐるヒステリーもなかっただろうし、教育水準の高いアメリカ人ですら、ほとんど知らないような11,000kmも離れた国に、莫大な陸海空軍を輸送することもなかっただろう。このすべては「自由」の名の下に行われたのだ。そこにいる連中が「自分たち」とはちがって「我々」の価値観を評価していないという、見事に組織された感覚——本書で私がその生成と流通を記述したオリエンタリスト的ドグマのまさに核心——がなければ、戦争などなかったはずだ。

だからマレーシアとインドネシアを征服したオランダや、インドとメソポタミア、エジプト、西アフリカのイギリス軍、インドシナ北アフリカのフランスが雇った専門学者と同じ部局から、ペンタゴンホワイトハウスへのアメリカの顧問たちがやってきて、同じクリシェや、同じ侮蔑的なステレオタイプや、権力と暴力の同じ正当化 (結局のところ、連中は力しか理解できんのですよ、というのが、大合唱の中身だ) が今回も繰り返された。こうした手合いにいまや、イラクでは民間軍事企業や熱心な起業家どもの大群が加わって、教科書や剣法の執筆から、イラクの政治生活や石油産業の再編まですべてが託されることになるのだ。あらゆる帝国はすべて、その公式発言では自分たちが他の帝国とはまったくちがっていて、自分の状況は特別であり、自分たちは啓蒙し、文明化し、秩序と民主主義ともたらし、武力を使うのは最後の手段としてだけなのだ、と述べてきた。そしてさらに悲しいことだが、常に優し博愛的な帝国について気休めの言葉を語る、忠実な知識人たちの大合唱が常についてきて、最新の文明化ミッションがもたらした破壊と悲惨と死を見ている自分自身の目という証拠を信じるべきではないとでも言うようなのだ。

帝国の言説に対する、まさに米国的な貢献というのは政治技能の専門特化された専門用語だ。アラブ世界には民主主義ドミノ効果こそが必要なのだなどともったいぶって言うためには、アラビア語ペルシャ語も、フランス語すら必要ない。戦闘的で悲しいほど無知な政策専門家たちは、ワシントンDC都市圏内しか世界の経験を持たないくせに、「テロリズム」やリベラリズムについての本を量産したり、イスラム原理主義アメリ外交政策や、歴史の終焉についての本を繰りだしてみたりして、そのすべてがその正しさや考察や本当の知識などまったく意に介さず、注目と影響力をめぐってしのぎを削っている。重要なのは、それがどれだけ効率的で才覚あふれるものに聞こえるか、さらにだれがそれを真に受けそうか、ということでしかない。この「要するに」的本質主義の最悪の面は、あらゆる濃密で苦痛に満ちた人々の苦悶が捨象されてしまうということだ。記憶と、それと共に歴史的な過去は、よくある一蹴するほどの軽蔑をこめたアメリカの表現「You're history」 (訳注:おまえはすでに過去の遺物だ、の意味) で見られるように、消し去られてしまう。

刊行から25年たって『オリエンタリズム』は再び、現代の帝国主義がそもそも終わったのか、それとも二世紀前のナポレオンによるエジプト侵入以来、オリエントでずっと続いていたのか、という問題を提起するものとなった。アラブやイスラム教徒たちは、被害者意識と帝国収奪へのこだわりは、現在の責任を逃れようとする手口にすぎないのだと言われ続けてきた。おまえたちは失敗し、おまえたちは道をまちがえた、と現代のオリエンタリストたちは言う。これはもちろん、V・S・ナイポールの文学における貢献でもある。帝国の被害者たちが悲嘆に暮れ続けている間に、彼らの国はゴミクズとなる、というわけだ。だが、これは帝国の侵略についてなんと浅はかな計算であることか。帝国が「劣った」人々や「従属人種」の人生に、何世代にもわたってもたらしたすさまじい歪曲を、いかにあっさりと軽視することか、帝国が、たとえばパレスチナ人やコンゴ人やアルジェリア人やイラク人の人生に入りこんできた長い年月の連続に直面するのをいかに避けようとすることか。我々は、ホロコーストが現代の意識を永久に変えてしまったことを公正にも容認する。なぜ帝国主義が行ったことやオリエンタリズムが行い続けていることについて、同じ認識論的な変化を認めようとしないのだろうか? ナポレオンで始まり、東洋学の台頭に続き、さらに北アフリカ征服へとつながって、その後ベトナム、エジプト、パレスチナでの似たような活動として続き、さらに20世紀の間に石油と湾岸諸国、イラク、シリア、パレスチナ、アガニスタンの支配権をめぐる紛争となったものを考えよう。そしてその対極として反植民地ナショナリズムの台頭から、短命な自由独立を経て、銀地クーデーター、内紛、内戦、宗教原理主義、不合理な闘争、最新の「現地人」どもに対する妥協無き残虐性を考えよう。こうした段階や時代のそれぞれは、他者に対する独自の歪曲された知識や、独自の還元主義的なイメージ、独自の論争に満ちた難問をつくり出す。

オリエンタリズム』における私のアイデアは、人文学的な批判を使って闘争の領域を広げ、もっと長い思想のシーケンスと分析を導入し、ラベルと敵対的な論争に我々を収監しようと血道をあげて理解と知的交換よりも好戦的な集合アイデンティティを目指る、難問的な思考停止の怒りの短い爆発に置きかえることだった。私は自分のやろうとしていることを「人文主義 (humanism)」と呼んだ。これは高踏的なポストモダン批評家たちによる、侮蔑的な一蹴にもかかわらず、私が頑固に使い続けている用語だ。人文主義というとき、私はまず何よりも精神を縛るブレイクの手錠を解体して、省察的な理解と本当の開示のために精神を歴史的かつ理性的に使えるようにする、ということを意味している。さらに人道主義は他の解釈者や他の社会や他の時期との共同体の感覚に維持されている。つまり厳密に言えば、孤立した人文主義者などというものはいないのだ。

これはつまり、あらゆる分野は他のあらゆる分野とつながっているということで、我々の世界で起こることはどれ一つとして、孤立した外部の影響からすべて逃れたものなどであったためしがないということだ。残念なことだが、文化の批判的研究がこの主張の正しさを示せば示すほど、そうした見方の影響力は減るように見えるし、「イスラムVS西洋」といった領土的に還元主義的な極端主義が支配的となるようだ。

我々の中で、状況の力により実際にイスラムと西洋に関わる形で複数的文化生活を生きる者たちとして、私は昔から自分たちが学者や知識人として行うことに、特別な知的・道徳的責任が伴うと感じてきた。具体的な人間の歴史や体験から心を引き離して、イデオロギー的なフィクションや形而上学的な対立や集合的情熱の領域へと導く、還元主義的な定式化と抽象的だが強力な考え方を複雑化および解体するのは、我々の義務なのだと私は確かに考えている。これは別に、不正や苦しみの問題について語れないということではない。ただそれをやるときには常に、しっかり歴史や文化、社会経済的な現実に根差した文脈の中で行うべきだということだ。我々の役割は議論の領域を広げることであり、そのとき主流の権威に従って制限を設けることではない。私は過去35年の人生の相当部分を、パレスチナ人たちの民族自決権支持に費やしてきたが、そのときも常にユダヤ教とたちの現実にも十分な注意を払い、迫害とジェノサイドの面で彼らがどれだけ苦しんできたかに配慮するよう試みてきた。何よりも重要なのは、パレスチナイスラエルの平等をめぐる闘争は、人道的な目標、つまり共存に向けられるべきであり、さらなる弾圧と否定を目指すべきではないということだ。偶然ではないが、私はオリエンタリズムと現代の反ユダヤ主義が同じルーツを持つと示している。したがって、独立した知識人たちが常に、中東やその他の場所であまりに長いこと幅をきかせてきた相互の敵意に基づく、還元主義的に単純化された制約的なモデルに変わる、別のモデルを提示するのがきわめて必要性の高いことだと私には思える。

今度は、私の研究において極度に重要だった、ちがう別のモデルについて話をさせてもらおう。文学の分野における人文学者として、私は40年前に比較文学の分野で訓練を受けたが、その分野の主導的な発想は18世紀末から19世紀初頭のドイツにさかのぼるものだ。その前に私は、ナポレオンの哲学者で文献学者ジャンバッティスタ・ヴィーコのきわめて創造的な貢献について言及しなければならない。彼の思想はこれから名前を挙げるドイツ思想家を先取りし、後に影響を与えているのだ。そうしたドイツ人学者はヘルダーやヴォルフの時代に属し、後にゲーテフンボルトディルタイニーチェ、ガダマー、そして最後に偉大な20世紀ロマンス語文献学者エーリッヒ・アウエルバッハ、レオ・シュピツァー、エルンスト・ロベルト・クルティスへとつながる。いまの世代の若者たちには、文献学という発想そのものが何かとんでもなく懐古的でカビの生えたものを示唆するが、実は文献学は解釈技芸の中で最も基本的で創造的なものなのだ。私にとってそれがきわめて見事に体現されているのはゲーテイスラム全般、特にハーフェズへの関心で、それが『西東詩集 (岩波文庫)』の著述へとつながり、それがゲーテの後の世界文学、つまり世界のあらゆる文学を交響楽的な全体として研究し、各作品の個別性を温存しつつ全体を見失わない形で理論的に理解できるようにすることについての思想へとつながったのだった。

すると、今日のグローバル化した世界がここで述べてきたような嘆かわしい形の一部でまとまるにつれて、我々がゲーテの思想が明示的に避けるべく構築されていたような、一緒の標準化と均質性に近づいているかもしれないという認識には、かなりのアイロニーが感じられる。1951年に発表された「世界文学の文献学」という論考で、エーリッヒ・アウエルバッハは戦後期の冒頭にまさにこの論点を挙げた。これはまた冷戦の始まりでもあった。彼の偉大な本『ミメーシス――ヨーロッパ文学における現実描写〈上〉 (ちくま学芸文庫 ア-5-1)』は1946年にベルンで刊行されたものだが、アウエルバッハが戦時亡命中に、イスタンブールでロマンス言語を教えていたときに書かれたもので、ホメロスからヴァージニア・ウルフまで西洋文学に表象された現実の多様性と具体性の証言となるよう意図されていた。だが1951年のこの論考を読むと、アウエルバッハにとってこの偉大な著書は、人々がテクストを文献学的に、具体的に、繊細かつ直感的に、ゲーテイスラム文学理解において支持したような理解を支持すべく何カ国語かを見事に操って解釈できた時代へのエレジーだったのだと感じられる。

言語と歴史の能動的な知識は必要ではあったが、決して十分ではない。それは機械的に事実を集めただけでは、たとえばダンテのような作家がどういう存在だったのかを把握する適切な手法にならないのと同じだ。アウエルバッハやその先人たちが語り、実践しようとしていた文献学的な理解にとって最大の要件は、その時代と著者の観点から書かれたテクストの性に共感的かつ主観的に入り込むもの (eingefühling) だった。世界文学に適用された文献学は、別の時代は別のちがった文化に対する疎外と敵意ではなく、懐の広さと、こう言ってよければ歓待をもって使用された深い人文主義的精神を伴うものだ。だから解釈者の精神は積極的に、その中に異質な他者の場を作る。そしてこの、本来は異質で遠い作品の場を創造的につくり出すことこそが、解釈者の文献学的使命の最も重要な側面なのだ。

こうしたすべては、もちろんドイツでは国家社会主義により軽視され破壊された。戦後には思想の標準化、そして知識のますます大きな専門特化は、次第にこの種の彼が代表していた探究的で永続的に探索するような文献学研究の機会は次第に狭められたとアウエルバッハは悲嘆にくれて記しているし、そしてやんぬるかな、1957年のアウエルバッハの死以来、人文学研究の思想も実践も、その視野も中心性も縮小してしまったのだった。文献研究に基づく書籍文化と、かつて人文学を歴史的な分野として維持してきた全般的な精神的原理は、ほぼ消えうせた。本来の意味での読みのかわりに、今日の我々の学徒はインターネットとマスメディア上にある断片化された知識にしばしば気を取られている。

もっとひどいことだが、教育は非歴史的にセンセーショナリスティックな形で遥か遠くの電子戦争に注目し、視聴者に外科手術的な制度の感覚を与えつつ実は現代の「クリーンな」戦争が生み出すひどい苦しみと破壊を隠してしまうマスメディアがしばしばばらまく、ナショナリストや宗教的正統教義に脅かされている。「テロリスト」というレッテルで、人々を煽り怒らせておくという全般的な目的が実現されている未知の敵を悪魔化する中で、メディアのイメージはあまりに多くの関心を集め、ポスト9-11期が生み出したような危機と不安の時期にそれが利用されてしまう。アメリカ人とアラブの双方として私は読者のみなさんに、比較的少数の国防総省にいる文民エリートたちが、アラブとイスラム世界全体についてアメリカ政策のために形成したような単純化された世界観を過小評価しないようにお願いしなければならない。それはテロ、予防的戦争、一方的レジーム変化——そして市場で最も膨れ上がった軍事予算に裏付けられたもの——が、政府の全般的な主張を追認するだけの「専門家」なるものを生み出す役割を己に課したメディアによって、果てしなく貧窮する形で議論される主要な思想となっているような見方だ。

人間は自らの歴史を作り出さねばならないという世俗的な概念に基づく省察、論争、理性的な議論、道徳的な原理は、アメリカや西洋の例外主義を賞賛し、文脈の重要性を軽視し、他の文化を嘲笑的に見下すような抽象的な思想により置きかえられた。読者は、私が一方では人文主義的な解釈と、一方では外交政策との間であまりに多くの唐突な切り替えを行いすぎるというかもしれないし、空前の力を持ち、インターネットやF-16戦闘機を持つ現代技術社会は、ドナルド・ラムスフェルドやリチャード・パールのような侮れない技術政策専門家により指揮されねばならないのだ、と言うかも知れない (このどちらも実際の戦闘はしない。戦闘はそれほど幸運ではない男女に任されるからだ)。だが本当に失われたものは、人間の生の密度と相互依存性の感覚だ。これは方程式に還元できるものではないし、無関係なものとして一蹴できるものでもない。戦争の言語ですら極度に人間性を失わせるものだ。「我々はあそこに乗り込んでサダムを倒し、その軍隊をきれいな外科手術的攻撃で破壊し、みんなそれがすばらしいことだと考える」とある女性議員は全国テレビで語った。チェイニー副大統領が2002年8月26日にイラク攻撃計画について、硬派めいた演説ししてみせたとき、イラクに対する軍事介入を支持した中東「専門家」としてたった一人引用したアラブ学者が、毎夜のようにマスメディアへの有料コンサルタントとして登場し、自分の人民への憎悪と己の出自糾弾を行っている人物だったというのは、我々が生きている危うい時代の明確な症例だと私には思える。さらに彼はその活動において、アメリカの軍やシオニストのロビーから支援を得ている。こうした trahison de clercs (訳注:知識人の裏切りの意味) は、まともな人文主義が国威宣揚主義やニセの愛国主義へと劣化してしまう症例だ。

これは世界的な論争の片側だ。アラブとムスリム諸国でも、状況はまるでマシとは言えない。ロウラ・ハラフが見事な『フィナンシャル・タイムズ』論説 (2002年9月4日) で論じたように、この地域は、アメリカが社会として本当にどんなところかをまるで理解していない安易な反米主義に陥っている。政府は自分たちに対するアメリカ政策にほとんど影響を与えられないため、自分たちの国民を弾圧して抑えるのに注力し、それは人類の歴史や発展についての世俗的な思想が失敗と不満と、暗記だけに基づくイスラム主義、他の競争力を持つ世俗的知識と思われたものの殲滅と、現代的言説の一般的に不協和的な世界において思想を分析してやりとりする能力の欠如に支配されている社会を開くのにまったく貢献しない恨み、怒り、無力な呪詛をもたらすだけだ。イスラム的イジティハードの驚異的な伝統が次第に消えうせたのは、現代における大きな文化的悲劇の一つであり、その結果として批判的な思考と現代世界の問題についての個人的な格闘はあっさり消えうせた。正統教義とドグマがかわりに支配している。

だからといって、文化的な世界は一方では好戦的なネオ=オリエンタリズムへと後退し、一方では全面的な拒絶主義へと退行したと言うのではない。最近のヨハネスブルグにおける国連世界サミットは、いろいろ制約はあれ、実のところ共通の世界的な協調のための広大な領域を明らかにし、その環境、食料不足、先進国と途上国とのギャップ、保健、人権に関連した詳細な作業は、しばしば上辺だけの「一つの世界」という概念に新たな緊急性を与える、新たな集合的支持者たちの歓迎すべき台頭を示している。だがこうしたすべてにおいては、私が当初に述べた通り、世界が本当に相互依存してまともな孤立の機会などどの部分にもないという現実にもかかわらず、だれもこのグローバル化した世界における驚異的なまでに複雑な統合など知り得ないということは認めねばならない。

最後に述べたい論点は、「アメリカ」「西洋」「イスラム」といった、ニセの統合するお題目の下で人々を寄せ集め、実はかなり多様な大量の個人について集合的なアイデンティティを発明しようとする、ひどい還元主義的な紛争は、いまほどの力を持ち続けてはならないし、反対されねばならず、その殺人的な有効性は影響力と動員力を大いに減らされねばならないということだ。我々はいまでも、人文教育の遺産である理性的な解釈能力を使えるのであり、伝統的な価値観や古典に戻るよう促す感傷的な敬虔さではなく、世界的な世俗言説という積極的な行動としてそれを行えるのだ。人間の主体性は探究と分析の下にあり、それは理解し、批判し、影響し、分析し判断するという理解の使命なのだ。何よりも批判的な思考は国家権力や、何やら公認の敵に対して進軍する連中に加われという命令に従属したりはしない。でっちあげられた文明の衝突ではなく、我々は省略されたりまともでなかったりするどんな理解方式が可能にするよりも興味深い形で、重なり合い、お互いに拝借しあい、共存する文化のゆっくりした共同作業に集中する必要がある。だがそうしたもっと広い認知のためには時間と辛抱強く懐疑的な探究が必要であり、それを解釈の共同体により支えねばならいが、これは即時の行動と反応を要求する世界では維持がむずかしい。

人文主義は人間の個人性と主観的な直感の主体性を中心としており、受けとった思想や承認済みの権威に基づくものではない。テクストは私が現世的な形と呼んだ様々なものの歴史的領域で生み出されて生きている。だがこれは決して権力を排除するものではない。というのもその正反対で、私が本書で示そうとしたのは、最も難解な研究にすら権力のほのめかし、覆瓦化が存在するということなのだ。

そして最後に、最も重要な点として、人文主義こそは人類史を歪め破壊する非人道的な手法や不正に対する、唯一の、そして敢えて言うなれば最後の抵抗なのだ。我々は今日、すさまじく勇気づけられる民主的なサイバー空間という場に後押しされている。それは圧政者や正統教義の以前の世代が夢にも思わなかったような形であらゆる利用者に開かれている。イラク戦争開始前の世界的な抗議は、別種のニュース源から情報を得て、この小さな惑星上で我々を結びつける環境敵、人権的、リバータリアン的な衝動を明確に感じている、世界中にまたがる別のコミュニティの存在がなければ不可能だった。啓蒙と解放の人間的、そして人文的な欲望は、この世のラムスフェルドたち、ビン=ラディンたち、シャロンたち、ブッシュたちからやってくるすさまじい反対の力にもかかわらず、そう簡単には先送りにできない。『オリエンタリズム』は、人間の自由への長く、しばしば邪魔される道において居場所を持っていると私は信じたい。

 

E.W.S. ニューヨーク、2003年5月


訳者コメント

某所で言及されていたので、ついでに訳してみました。タイトル通りの代物で、もっと『オリエンタリズム』の総括的な中身かと思ったら、アメリカのイラク侵攻けしからん、もっと多面的な理解を〜という話を延々繰り返すだけの代物になっていたのでがっかり。が、途中までやって無駄にするものいやだったし、最後まで仕上げました。文中に出てくる1995年版のあとがきのほうが中身があるが、この文章の3倍もあるので、まあもう少し暇になればね。今後、平凡社ライブラリーのものが改版されることはないと思うので、公式に訳されることは当分ないと思う。どっかの雑誌のサイード特集などで訳されることはあるかもしれないし、すでに訳されているかもしれないが、ぼくのほうがうまいに決まっているので調べるつもりもない。

cruel.hatenablog.com

なお原文は、冒頭に挙げたPenguin Books版のAmazonにおける試し読みで全文見られます。