ベスター『ローグとデミ:はちゃメタ♡恋のだましあいっ!』訳了。邦題変えてやったぜ激おこプンプン丸

オッケー、やりかけベスター終わったぜ。

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終わったんだが……

ワタクシいま、なんとも言えない喪失感と怒りの混在するワナワナ感にうちふるえておりますわよ、まったくちょっとアルフレッドくん、これ一体何ですのん?

というわけで、中身にあわせて邦題かえました。

アルフレッド・ベスター『ローグとデミ:はちゃメタ♡恋のだましあいっ!』(pdf 1.8MB)

だってホントにそういう話なんですもん。プンプン。訳し終わっての脱力感、ちょっとわかっていただけます? おいベスター、てめえ、これが遺作でいいのかよ! いまからでも生き返って、最後にドーンと力を見せてくれよ(涙)

失望と絶望と恐怖にうちふるえたい人は……あ、でも内部利用のみのファイルだから読んではいけませんよ。なお、読まずにこの邦題が不当だと思ったら、好きに変えてくれていいよ。ワードのファイルが以下にあるから。

https://cruel.org/books/BesterDeceivers/Bester_Deceivers_j.docx

そしてこんな邦題になり山形がワナワナしている理由をてっとり早く知りたい方は、以下の訳者解説お読みアレ。訳す前に知ってたんじゃないの、と言う方、もう読んだのが前世紀で、最後にデミがコンピュータから出てくるところしか覚えてなかったのよねー。でもなんかお蔵入りにした理由を思い出したような気がする。


訳者解説

本書は Alfred Bester, The Deceivers (1981) 全訳である。翻訳には昔持っていたどこかのソフトカバー版と、Kindle版を使っている。邦題は、直訳すると『詐欺師たち』『騙す者たち』となるが、それでは題名としてあまりにすわりが悪いのと、以下で述べる訳者の不満から、勝手に変えた。別に商業出版ってわけじゃありませんから、好きにさせてもらいますね。読み通した方は、ご自分なりの好きなものにしてくださって結構。

アルフレッド・ベスターと言えば、かの名作『虎よ、虎よ!』の作者であり、また晩年にはあの怪作『ゴーレム100』を執筆したことでも知られ、ワイドスクリーン・バロックの筆頭格。次々に放出されるきらめくようなイメージとアイデアの数々、そこに散りばめられた、俗悪さと文学的なイメージの混在、それをつなげる古典的な英雄譚じみた軽薄きわまるストーリー。ベスターのこの作風は生涯変わらず、余人の追随を許すものではない。

ゴーレム 100 (未来の文学)

本書はそのベスターの遺作となる。そこには上にあげた要素がすべてつめこまれている。

そして……本書はとんでもない愚作である。

お話は……ネタバレ注意ではあるが、正直いってそんな、すごい(良い意味で)驚きのネタがあったりはしないので、ネタバレ上等。

ときはすでに人類が宇宙進出を果たしたいつやらの時代。新規に発見された反エントロピー触媒メタのおかげで地球の各種民族は、太陽系各地にドームを作り、いまの民族構成を維持してそれぞれナショナリズム/エスニシティに基づくドームで暮らしている。主人公ローグ・ウィンターは、何やら能力開発実験を受けつつ事故でマオリ族のドームに引き取られ、その王族の養子として育てられたが、すべての隠れたパターンを感知する能力により金も女もウハウハで、お気楽ジャーナリストとして暮らしている。

それが何やらですな、王位継承をめぐる暗殺未遂にあったと思ったら、いきなり何の伏線も前置きもなしに、天王星のチタニアで生まれた、何にでも姿を変えられる異星人デミに惚れられて、その日のうちにくっつき、故郷に帰るとマオリ王位を継承する。ところが戻ってみると、デミが誘拐された模様。実はそこには、メタを独占するジャップとチャンコロどものあいのこであるジンクどもが、そのメタの密売の主力たるマオリ・マフィアを潰そうとする陰謀があったらしい!

そこでウィンターは彼女を取り返すべく、ジンクどもの本拠タイタンに乗り込み、その親分たるフー・マンチュー (仮名)と対決。つかまったふりをしつつ、悪者が最後に本拠に意味もなく案内してあらゆる陰謀をペラペラしゃべってくれるというトホホな定石を経て、偶然が百個重ならないと実施不可能な裏の作戦のおかげで逆転して相手を捕まえるが、実はそいつらはデミの身柄を確保していなかった。実は彼女はバイオコンピュータの一部となって、ウィンターの家のマシンにずっと隠れていたのだ! そのパターンを見分けたウィンターがキーボードを叩くと、マシンの中でコードが細胞分裂を起こして、ジャジャーン! デミがスクリーンを破って飛びだして復活し、子どもも生まれました〜! めでたし、めでたし。

 ……なにがめでたしだよ。なんかここまでいい加減な話を読まされると頭に頭痛がしてくる。ラスボス対決のあまりにご都合主義、さらにそのための設定は実はまったく意味がなく、ガールフレンドは実は何の危機にもさらされておらず、最後にあっさり出てきておしまい。じゃあこの物語すべて、何も意味ないだろう! なんなんだよ!

持ち味としては、あの『コンピューター・コネクション』に似ていなくもない。主人公は悠々自適、あるときできた友人を不死人に仕立てようとする事故をきっかけに、新たな身内の騒動に巻き込まれることになる。不死人たちのつくる衒学的なソサエティ、その中での争いと、コンピュータとの新たな共生。無数のアイデアがほとんど行きがけの駄賃のように投げ散らかされる。だが『コンピューター・コネクション』は、多少は人間とコンピュータ知性体との関係をめぐって、少しは考えた形跡があった。一応、話の主要な要素がきちんとからみあい、そこにダジャレもまぜこんでまとまりを見せていた。

ところが本書は、アイデアとすら言えない思いつきがその場限りで投げ出され、それが何にも貢献しない。ずいぶんページを割いて一時的にストーリーの中心となっていた部分すらそうだ。王族の後継者争いの殺し屋対決はどうなった? 何も。本書の狂言まわし役の諜報部員オデッサが、女子大生時代にフー・マンチューの仮の姿だった質屋から教えを受ける章があるが、そのからみもその後、一切意味を持たない。つーか、そのオデッサ・パートリッジもほとんど何の役も果たさず、途中で『クリスマスの12日』の仕掛けで最後に「梨の木のパートリッジ」というダジャレを出すためだけにいるようなもの。ローグが感応しているとされる宇宙意志ことアニマ・ムンディとやらも、結局何も意味をもたない。あれも、これも、何の意味もない。

いやベスターはそういうもんだろ、という異論は認める。もともとベスターは、上述のワイドスクリーン・バロックの旗手で、緻密に構築された話を書く人間ではない。目先のやりすぎなくらいの派手派手さぶりが身上とすら言える。『虎よ、虎よ!』で出てくる、へんな上流階級パーティーのまったく無意味な豪勢ぶりとか。

だけれど、一応そうではない部分もある。メインのストーリーは、雑でいい加減とはいえ、ある種の強さがあった。『虎よ、虎よ!』は、ガリー・フォイルの絶望と怒り、社会的格差に対する不満、そしてそこから最後の人民への信頼に到る軋轢と葛藤に、いかに雑とはいえ読者の共感があった。『破壊された男』は、やはり管理社会とそれに対する反発がベースにあり、それが読者の中二病精神をいやがうえにもそそる。『ゴーレム100』は、スラム化した社会と超ハイソの有閑マダム群、そいつらの生み出すイドの怪物という設定自体が迫力を持っていた。

それがこの作品はなんだい。主人公さん、勝手な能力もらってお金持ちで王族、いいご身分ですねえ。そして女の子は勝手に向こうから告白して股を開く。なろう系のラノベでも、ここまで安易な設定はなかなかないぞ。自分の属するマオリ族がマフィア商売をやっていて、それがジンクどものメタ資源独占と衝突——で、そのメタ商売をめぐる対立はどう解消されるのかというと……解消されないんだよ。フー・マンチュー捕まえたら、そっちの話は全部消え、「協議中です」の一言で片づけられる。別にベスターの小説に社会問題への洞察を求めるつもりはないんだが、話の決着くらいはつけてほしいと思うのは人情ではないの? 表向きだけでも資源配分の新たな方向性くらい、あってもいいんじゃないの?太陽系の命運を左右する資源の支配力を得たら、少しはそういうこと考えないの? ところが何もないんだよなー。主人公は徹頭徹尾、自分のことしか考えない。ガールフレンド回収だけ。それでいいんですか?

また書きぶりについても、華やかさはまったくない。それこそ『虎よ、虎よ!』がブレイクを持ち出したように、文学的に華やかな表現や言及はベスターの身上の一つであり、ディレーニを始めインテリがベスターを誉める理由にもなっていた。それは本書でも、決して不在ではないんだが……だれも気がつかないというか気にもしないだろうけれど、文学的な仕掛けとしてウィリアム・S・バロウズの影響は明らかだ。だがバロウズのいいところではなく、悪いところばかりを持ってきている。デミがめぐる夜の町での、へんなおかまショーまがいの裁判や殺し合い、ウィンターがやけ酒をあおる中で出てくる下品な酒場とドリンクの数々、ジンクの (人種ステレオタイプてんこ盛りの) ドームで展開される首つりゲームにお下劣な群集……そんなところをバロウズからもってきてどうする! かつてベスターはインタビューでバロウズについて「こんな霊感に満ちた文章が、と思ったらすぐにこんなゴミクズがなぜ? あの子の編集者は何をしてたんだい」という感想を述べていたそうだが、まさか彼が霊感に満ちたと思っている部分が、ぼくにとってのゴミクズの部分だったとは、まったくの予想外ではあった。

なぜこんなものが出たのか、ベスターも出版社もこれをボツにしなかったのか、というのは謎ではある。欧米では、晩年の諸作については罵倒が多く、本書については『ゴーレム100』がペーパーバックになるのにあわせて、話題作りのプロモ用に出しただけろう、という邪推が述べられていたが、結構そんなところなのかもしれない。またベスターは、本書が出てしばらくしてから妻を失い、その後自分もかなり体調を崩し、特に目をやられてあまり執筆できない状態だったようで、これが最後になるという予感もあったのかもしれない。

そしていつかこの邦訳が商業的に出版される可能性は……ほぼないだろう。小説としてのできの悪さに加えて、特に第10章で展開される、ジャップとチンク (どっちもいまは発禁ものの差別用語)の合体したジンクたちを筆頭に、あまりに人種ステレオタイプに満ち満ちた、どこかで聞きかじってきた誤解だらけの野蛮な風習の羅列は、人種ネタの悪口が好きなぼくですらちょっと唖然としてしまう。これが許されたのはペリーの時代まででしょー。ベスターは長いこと、パルプ小説のテレビ版脚本などをやっていたけれど、その感覚がほぼそのまま。いまはよほど他の部分での価値がない限り、どこも出す気にはならないでしょ。

あ、でもね、バイオコンピュータのアイデアとか、バイオコンピュータの暗黙のネットワークとその上のSNSみたいなコンピュータ同士のゴシップ網とか、最後のコンピュータから彼女が飛びだしてくるところとか、ラノベ風のサイバーパンク先取りみたいで、ベスターの先駆性が遺憾なく発揮……されてねえよ! ある意味で、『コンピューター・コネクション』に登場した、人間とつながるコンピュータのイメージをさらに先に進めたと言えなくもないけど、言ってどうする。

ちなみにその『コンピューター・コネクション』の訳者あとがきを見ると、野口幸夫はどうも本書の翻訳に取りかかっていたらしい。本書そのものにとどまらず、そこに出てくるダジャレにまでいくつか触れたりしているからだ。確か本書もサンリオSF文庫の近刊予告に出ていたように思う。それが出なかったのは、よかったのか悪かったのか。だが、それを残念と思い、本書がまだ見ぬ傑作ではと夢見ていたベスターファンのあなた (ぼくもそうだった)、夢を壊すのは気が進まないながら、彼の遺作はこういう小説だったのです。Now you know. 知らぬが仏ということばの意味を、みなさんも是非噛みしめていただきたい。

なお、第10章のへんな中国語もどきの漢字復元は、高口康太氏、乙井研二氏およびChatGPTさんにお世話になった。なんせ1980年代初頭なんで、表記もピンインではなくウェード式、しかも元の中国語がかなり怪しい状態。みなさんのご協力なくしては、それっぽく直すのは不可能だった。ありがとうございます!!

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2025年1月12日

山形浩生 hiyori13@alum.mit.edu

ベスター本の中国語 (ウェード式) 推定の応援求む!(募集終了!)

いま、ベスターの遺作 Decieversの翻訳を進めているのはすでにご報告の通り。

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正直、かなり完成度は低いと言わざるを得ない。7割くらい終わっているので、読んでもらえればわかる。ベスターのかつての、パルプ小説やコミック脚本をやっていた頃の雑な話の作りに、ウィリアム・バロウズのお下劣部分を足して放り投げたような感じ。アイデアはいろいろあるが、まったく整理されず書き殴り感はすごい。『虎よ、虎よ!』もそんなもんだと言えばそうなんだけど、まだ一応カタルシスも主人公の苦悶もあったでしょう。それがまったくなし。さらに、現在のポリコレ環境なら絶対に出せない人種ステレオタイプテンコ盛り。が、ここまでやったんで、やるだけやりましょう、という感じ。

その人種ステレオタイプの最たるものが、日本&中国人。太陽系に地球人が進出して各地に地球と同じコミュニティを作っており、海王星の衛星トリトンには、日本人と中国人の末裔である、ジャップとチンク (どっちも今は使えない差別用語です) をあわせたジンクどもが暮らし、そこで産出される反エントロピー触媒のメタを独占してる。

で、この本のヒーローは諸般の事情でそこに出かけて潜入を図るんだが、向こうは中国語+日本語でしゃべる。それをベスターはローマ字で書くが、ピンインではなく、ウェード式。さらに何かを調べて書いたのはわかるし、ある程度は推定できるんだが、もとの中国語がかなりいい加減そう。こんな具合。

ちなみに、このいちばん最後のところに「Hito no aida」というのが出てくる。「人の間」ですな。日本語を混ぜるのがエリート、なんだそうで。

で、一応なんとかこれを翻訳するにあたり、漢字に戻そうか、ということになるんだが、かなり苦しい。最初の行のTsen-ma ch'eng-hu t'a-ti chih-jenは、意味は「何と言う肩書きでお呼びすればよろしいか」という意味とのことで、「怎么称号他的ナントカ」ということなんだろうが、ちょっとそのナントカの部分が見当つかない。

次の「Shang-wei men-k'ou」ってのは地位の名前らしく、訳は「ワタシは主門の所長だ」とのことなんだが、「上位門口」ってこと?

その次の Lao-chia. 「ありがとうございます」の意味だそうだが、まったく見当がつかない。

次の「Shih. Chao shui?」は「はい。御用は/要求は?」なので「是。要求?」かな?

「Ch'ing-pien」が「ご安心を」だそうで「清平」かなんかのつもり?

Pu-hsieh が「どういたしまして」なのは不客气なのか?

最後のほうも、Ti-ch'iu は地球だってのはわかる。だが「あなたの貴いお名前は?」が「Kuei-Hsing?」というのは「貴姓」かな。

次のS、誕生日おめでとうが「Hsin-hsi! Hsin-hsi!」というのはまったくわからん。「心喜! 心喜!」かな? 誕生日ってのはどっから出てきたんだ?

てな具合で、HSK3級ではこんな推定ゲームはとても無理なので、なんかこれをそれっぽい中国語にでっちあげてくれる人、いませんか? お礼は、次に出るぼくの本/訳書を1冊あげます (あるいはこれまでのでもご希望があれば考慮はします)。分量は、上にあげた部分だけ。

山形がほぼ推定でやったファイルが以下にある。この___の部分を適当に埋めていただければ幸甚。山形のやった見当違いなところもどんどん直しちゃってください。編集履歴残しといてください。絶対にワードのファイルなんかいやという方は、是非にというならテキスト版も作ります。

https://cruel.org/books/BesterDeceivers/BesterChinese.docx

なお、先着2名様まで! よろしくお願いいたします〜!

なんか来ちゃったのでうちどめっす!ありがとうございました!

『おぼえていないときもある』の余白:浅倉=大谷の不思議と日本SF業界

お年玉企画で、バロウズ『おぼえていないときもある』のファイルを作っていてふと思い出したこと。

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ここに収録されている浅倉久志の名訳「おぼえていないときもある」は、創元推理文庫のジュディス・メリル編『年刊SF傑作選7』に収録されている。でもこの本の訳者は、大谷圭二となっている (同じく5巻も)。もちろんこれは、浅倉久志なのだ。

さて、なぜだろう。

ぼくは意地が悪いので、これは浅倉久志が、東京創元社で翻訳をすることに、何らかの不都合があったからだろう、と思ってしまう。もちろん浅倉久志が気まぐれか、何かの思惑で別の筆名を使った可能性はゼロではないが、「久霧亜子」のようなネタでもなさそうだし、営業的に見ても浅倉久志の名前で出したほうがいいはずだし、わざわざそんなことをする理由はなかなか思いつかない。

そしてその不都合というのは、おそらく早川書房で作家/翻訳者の囲い込みみたいなことをしていて、創元で仕事をするなという、明示的または暗黙の脅しがあったんだろうね。たぶん浅倉久志はかなりのビッグネームだから、「じゃあせめて名前は出さないでくださいよ」くらいの話ですんだんだろう。でももっと下々の訳者たち (そしておそらく作家たち) は、もっと強い圧力を受けたんじゃないかと邪推してしまう。1960-70年代には、たぶん早川と創元でかなり険悪な部分があったんだろう。

そういうのをちゃんと調べている/記録している人はいるのかな。

 

日本のSF業界は、狭くて、それゆえにかなり陰湿なところもあった。だから新規参入には、きわめて意地が悪かった。1979年に徳間が『SFアドベンチャー』を創刊したときにも、いろいろ悪口があった。徳間がSFに出てきたのは、確か平井和正『幻魔大戦』がヒットしてこれは儲かると踏んだからだったはず。『幻魔大戦』はそれこそ、その後『ムー』を真に受けた聖戦士の転生のはしりみたいなブームの火付け役ではあって、その意味でキワモノという見方もできなくはなくて、「正統」SFファンからは「ゲンマー」と言われて見下されていた面はあった。なんで徳間がからんできたんだっけ……と検索したら、そうか、『真幻魔大戦』がSFA連載だったのね。するとSFA創刊が幻魔によるものではないのかな? まあその創刊と幻魔の前後関係はさておき『SFアドベンチャー』は金回りがよく、札びら切って云々といった陰口も当時はしょっちゅうきかれていた。

その片鱗が、以下の『別冊奇想天外 びっくりユーモアSF大全集』にある。

ここに、徳間を揶揄したページがあって「徳間がきたりて笛をふく」といったコピーが並び、徳間がやってきて作家をかっさらう、そして連中は必ず契約書を持ってくるのだ〜とか書いてあった。以下の目次にある「SFアホベンチャー」なる部分だ(これだけでもかなり酷い)

いまにして思えば、契約書あたりまえじゃん、なんだが、当時のSF業界 (おそらく出版業界全般) はそんなの水くさいといってやらなかったんだろうね。だから、徳間の契約書は、つめたい冷徹なビジネスだけでやってる証拠、と思われたんだろう。

 

そしてもちろん、新参者いじめといえばサンリオSF文庫だ。サンリオSF文庫の初期は『SFアドベンチャー』と同時期だが、かなり執拗な攻撃があった。ぼくが当時『NW-SF』に出入りしていて、監修者山野浩一のグチを聞かされていたこともあるんだろう。そしてもちろん、本当にひどい代物があったのも事実 (正直、バロウズ『ノヴァ急報』なんか、一応はその分野ではえらいはずの諏訪優がやって、ホントはひどくないはずだったのが、実はとんでもない代物だった、という……) サンリオSF文庫自体が版権獲得にお金を使ってしまい、本の製作にお金がかけられなかったのもその原因として大きいという話も、以下の「サンリオ出版大全」に出ている。また、あげあしを取られても仕方のないミスも山ほどあった。「川本三郎誤訳」とかね。しかし初期から名作も大量にあった。その川本三郎「誤」訳『万華鏡』は本当によかった*1。さらに『ナボコフの一ダース』とかル=グインとか、大瀧啓裕が本名でやっていたライバーとか (ライバーは最初の『ビッグ・タイム』がねえ……ミソつけちゃったよね)。それなのに、執拗に誤訳誤訳と言いつのられ、さらに当時の『SFマガジン』か『SFアドベンチャー』の新刊SF評では、表紙のデザインがダサい、いつも同じところに同じフォントで題名入れるだけの芸のない代物、あんなのはブックデザインと呼べない、という罵倒まで書かれていた。そんなことないと思うけれどねえ。

小平、井原他『サンリオ出版大全』*2で引用されている『週刊ポスト』記事では、版権料を高騰させた、翻訳家への翻訳料を引き上げたという実務的な恨み辛みも紹介されている。だがそれは基本、既得権益者のひがみでしかない。前出の、徳間への文句と同じですな。要は業界慣行破壊、業界秩序を乱した、というわけ。

それよりサンリオはえらい大御所翻訳家たちが抱え込んでいた優秀な下訳者 (大御所さんは、そういう下訳者/お弟子さんに仕事をさせて、自分は名義貸ししてそれをそのまま流し、上前を全部自分の懐に入れていたのだ) にどんどん声をかけて独立させた。サンリオSF文庫でデビューした友枝康子がその筆頭だ (ディッシュ『歌の翼』再刊以来amazonで検索しても出てこないけれど、どうしてるんだろう)。それでサンリオは、奴隷を奪われた大御所翻訳者たちからは結構恨みをかったという話も山野浩一からきいた。翻訳料なんてのは、それに比べれば些細な話だった可能性も高い。

その山野浩一自体も、自分からけんかを売った面も大きいとはいえ、日本SF業界からかなり冷や飯を喰わされていて、サンリオに対するいじめも、それが貢献した部分も結構あるはず。

 

だから創元と早川の間にも、かつてはかなりの確執があったはずで、大谷圭二はその痕跡であるはず。いまはもう、そんな半世紀以上も前の話なんてみんな笑い話だけれど、でもそういうのがあったというのは、まだ存命中の当事者たちが残っているうちに記録しておいたほうがいいんじゃないかとは思うんだ。

もちろん、すべて山形の邪推であれば失礼。

 

*1:あとサンリオは、予告倒れではあったけれど、従来の翻訳家ではなく小説家に翻訳を頼むことで夢を広げてくれた。川本三郎もそうだけれど、寺山修司訳のピンチョンとか、池沢夏樹訳のキース・ロバーツとか、片岡義男訳のプリーストとか、読んでみたかったよねー。あれはどこまで本当に依頼されてたんだろうか。

*2:この本、まあまあ調べてあるんだが、サンリオの出版ではSF文庫の派生とはいえ、それ以外の文学系の翻訳についてもふれてほしかったなあ、とは思う。ジョン・ファウルズをたくさん出してくれたのはほんとうにありがたかった。まあ、点数も10点に満たないくらいだったのかな? だからマイナーで仕方ない面はあるんだけど。

お年玉:バロウズ『ワイルドボーイズ』『おぼえていないときもある』

お年玉第2段。ペヨトル工房のバロウズ二冊。

W・S・バロウズ『おぼえていないときもある』 (pdf, 1.8MB)

W・S・バロウズ『ワイルド・ボーイズ [猛者]——死者の書』(pdf, 2.1MB)

pdfのOCR機能も優秀になりました。昔やったら、特に日本語と外国語の部分の判別がまったくできず、こんな具合になってしまった。

外套を身近にかきよせて、石のような嫌悪で男をねめつける。

「い・CO●”∽0円”∽∽のコ〇【い一”・」

「﹈∪①のの” ”】”O”」

「∽口‥n´【】げ“●①‥日´『¨ぴC●①>【o①【【0”●〇‥・」

黙って唇を結んだまま、女はヘラルド・トリビューン紙をたたんで渡す。女がその目で何をしてい

これを全部手で直すのはいやだーと思って放置したが、いまはほとんど一発。ありがたいありがたい。

完璧ではなく、濁点と半濁点はよくまちがえる。その他細かいミスはいろいろあると思うので、もし何かお気づきの点があればご指摘ください。正直、『おぼえていないときもある』はどっか再刊してくれないかなー、と思うんだが、まあつらいだろうね。ではお楽しみあれ。

あと、『おぼえていないときもある』の歴史的な意義としてもう一つ。確か本人もどこかに書いていたけれど、かの鬼畜作家として有名な故村崎百郎は、そのペンネーム「村崎百郎」を、この本に収録された「紫イイヤツやってくる」から取っている。かれは、この本を担当した編集者でもある。

なお共訳者の皆様で、出すなという要求があれば対応しますのでご一報を。

お年玉:バージェス『ジョイスプリック』全訳

というわけで、あけましておめでとうございます。去年年末に突然思い立ったバージェス『ジョイスプリック』の全訳が、仕上がりました。

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お年玉です。もちろん完全な海賊訳。気にしない人は読みなさい。気にする人は読むな。

アントニイ・バージェス『ジョイスプリック:ジェイムズ・ジョイスのことば入門』

この本の何がおもしろいかは、解説で書いたけれど、かなり書き足りないので加筆するかも。それと、これからLaTeXの練習で索引つけるかもしれない。つけないかもしれない。本質的なところではない。

たいへんにいい本なんだけれど、なぜ訳されないかは、見ればわかると思う。話の重点が『ユリシーズ』に置かれている前半はまだいいけれど、『フィネガンズ・ウェイク』に力点が移る10章とか11章とか、ジョイスの原文を訳すわけにはいかない (柳瀬訳をもってきてもいいが、当然ながらそれだとバージェスの説明とまったくあわなくなる) ので、原文ずらずら並べるしかない。さらに、ジョイス、ひいてはバージェスが当然の前提知識としているいろいろな流行歌の話なども、説明しはじめるときりがない。だからあまり翻訳にならないのだ。それはこの訳者とて同じ。11章の最後に出てくる、流行歌の話とかでぼくが唯一知っているのは、バナナの歌だけだ。


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さらに、『フィネガンズ・ウェイク』は夢の言語なので、意味わかんないがなんとなく雰囲気は伝わる、みたいな部分が多々あり、バージェスの説明も、その雰囲気を多少なりとも理解可能にする、という部分が多い。が、日本人はその雰囲気がそもそもわかんない、というハンデがある。

が、それをいっしょうけんめいバージェスが説明しようとして、あれもあるよ、これもあるよ、ほら、こんな見方もあるんだよ、と次々に語ってくれるその語り口に、この本の醍醐味はあるとぼくは思っている。ジョイス読むのはたいへんだし、『ユリシーズ』(まして『フィネガンズ・ウェイク』)の訳を読んで「おおすばらしい文学」と悦に入ってる連中はたいがいインチキ、というとかわいそうだな、たいがい無理してるか、見栄張ってわかんないのに言ってるだけだと思うけれど、でもそれが評価されるポイントはどこにあるのか、特にそれを学者的な視点ではなく、異様に博識な読者として教えてくれるあたり、ジョイスを読む楽しさをこの本は伝えてくれる。それがとってもいいのだ、とぼくは思っている。

同時に、訳者あとがきにも書いたけれど、本書のいいのはジョイスがすべっているところ、必ずしも成功していないところについても正直に教えてくれるところ。『ユリシーズ』14章で、古い英語からだんだん新しい英語へと移行するのは、超絶技法ですげえ。ついでに、それをむりやり日本語化した丸谷才一らは同じくらいすげえ。が、じゃあその技法が小説として成功しているか、というとまた別の問題ではある。バージェスはそこで、それがジョイスのひとりよがり的な面があり、小説として読むにはちょっとねー、というのを言ってくれる。あれを前に「これに感心できないとブンガクわかんねーのかー」と萎縮していた人たちも、すごく安心できると思うんだ。学者ではなく、読者としての本だ、というのはそういうところ。

これが終わったので、バージェスの Here Comes EverybodyとかA Shorter Finnegans Wakeのあらすじ解説部分とかもやっちゃおうか、と思っているけれど、どんなもんだろうね。どっちも、上と同じ理由でぜったい翻訳されることはないと思うし。

が、それよりも仕掛かり中のアルフレッド・ベスターをまずはやっちゃいますかね。

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あるいは去年宣言していた、『一九八四』以外のもう一つのしかかり、バロウズ『爆発した切符』をしあげようか。てなわけで、今年もよろしくお願いいたします。

カルペンティエール『春の祭典』:文化と革命共存という妄想を異様に図式的に描く残念な作品

はじめに

そこそこ長いこと棚に並んでいた、カルペンティエールも片づける時期にきた。で、読んだのが晩年の大作『春の祭典』だった。

が、正直、後味の悪い作品だったと言わざるを得ない。かつて読んだ、コルタサルの『かくも激しく甘きニカラグア』と同じ、芸術と革命のたいへんにおめでたい野合を歌い上げる作品で、すでにこの時期に老成した大作家だったカルペンティエールが、本気でこれを書いたのか、あるいは訳者解説にあるように、何やらキューバ政府から「もっとキューバ翼賛しないとは何事か」とつきあげをくらって、仕方なく書いたのか、というのはなかなかむずかしいところ。

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あらすじ

話としては、バクーからロシア革命のあおりをくらって逃げてきたバレリーナのベラがいる。そして彼女が出会って愛したた男がスペイン内戦にでかけて戦死してしまう。その後、パリで彼女は本書のもう一人の主人公エンリケと会う。この人は建築家でシュルレアリズムと出会ってあれやこれや、つまりはカルペンティエール自身ですな。かれは、恋人がドイツでナチスにつかまり収容所送りになったのをきっかけに、文化の無力と実戦の重要性を悟り、スペイン内戦に参加して負傷しながら帰還し、ベラと出会って二人でキューバに渡る。

ベラはそこでバレエ教室を開くんだけれど、バレエがブルジョワ社会における白人娘の習い事にすぎないのにがっかりし、さらにバレエに理解あるような顔をする連中はみんな、軽薄な広告代理店の資本主義軽薄文化の手先でしかないことに失望する。だが地元の土着の黒人音楽と踊りに新しい可能性を見出し、それを使ってそれまで実現していなかった「春の祭典」を実現しようとする。

が、そこでバティスタ政権下の、白人と黒人の完全に分断された社会構造と文化水準の低さという障害にぶちあたる。そしてそれをなんとか克服する中で、反バティスタ政権の運動が強まり、カストロたちのモンカダ兵舎襲撃、グランマ号での上陸、反政府活動の拡大が起こり、一方でアメリカのマッカーシズムで反共が強まり、アメリカ公演が不可能となる。共産主義支持のエンリケもキューバ国内での活動が不可能になり (さらに建築の仕事がすべてバティスタとのコネで決まってしまうこともあり) 外国に逃げ、二人は離ればなれとなる。

さらにフランスでの公演が実現しそうなまさにそのとき、バティスタ政権の反政府活動弾圧で、バレエ団の若者たちが殺され、すべてが水泡に帰す。だけど、そこでキューバ革命が成功する! もはや人種差別もない! ブルジョワ資本主義の下で幅をきかせていた、下品なCM文化もなくなり、高尚な文化が人民すべてに支持されるようになる!ベラは、ロシア革命で国を追われ、スペイン内戦で恋人を殺され、これまで革命や政治を敬遠し、革命や政治の対極にあるものとしてバレエを追求してきた。だがついに彼女も、革命の持つ意義に目覚めるのだ。革命万歳! 革命はバレエ=文化の対極ではなく、それをアウフヘーベンするものなのだ! そしてそこでエンリケの浮気が発覚するんだが、アメリカのヒロン湾攻撃が起こり、エンリケもそのために従軍するが、負傷して罪を許される。さあ「春の祭典」を邪魔するものはない。バレエを再開しよう!

感想

全体をかっちりと音楽的に構築し、主題があり、それが展開して、間奏が入り、そしてクライマックスへ、というのはいつもながらのカルペンティエール。その過不足ない感じが、かれの長所でもあり短所でもある。そして、そのかっちりした書きかたのおかげで、上のあらすじの最後の部分に見られる、あまりにおめでたい革命と文化の共存という図式がなおさらきわだってくる。

上にあげた、コルタサルの革命万歳が1980年頃。この『春の祭典』が1978年でほぼ同時期か。そういう、作家が革命を応援しなくては、みたいなのがひょっとしたら流行った時期だったのかもしれない。あるいはキューバ当局から「おまえはキューバ革命を賞賛してないぞ!」と脅されて、仕方なく書いたのかもしれない。すでにキューバ政府がいろんな文化人を弾圧し、革命が高踏文化を積極的に支援するなんてのがウソだというのは、カルペンティエールだっていやというほど知っていたはずだから。が、それならなおさらこの最後の脳天気ぶりには、ちょっと唖然とさせられる。

二人がそれまでずっと経てきた苦労や挫折、その中での文化と政治的変動との関わりをめぐる様々なお話は、それなりにわかる。そしてその中でのバレエなど高踏文化の存在意義があれこれ考察されていて、そのむずかしさ——結局高踏文化は、貴族や資本主義のあだ花でしかない——とその中での苦闘もリアルなものではある。それだけにねえ。

カルペンティエールは、「バロック協奏曲」の自由自在な時間も空間も乗り越える感覚がすごく好きで読んでいた。『この世の王国』もすごかった。が、他の作品はそこまで好きではなかった。代表作とされる『失われた足跡』を読んだのはごく最近なんだけれど、時をさかのぼり神話と化す作品の構造はすごいんだけれど、その描き方の知的な構築性=図式性みたいなのが、不満でもあった。うーん、この『春の祭典』もそんな感じで、非常に見事に構築された作品なんだけれど、それが特に主題の図式性までをあらわにしてしまって、せっかく積み上げてきたものが最後で台無しになる。

ラストも、革命が成就して革命万歳を叫び、それからエンリケの浮気がばれて危機が生じるんだけれど、それがヒロン湾侵攻の撃退を経て再び成就するという、革命と実生活と芸術の危機と復活という図式。訳者はヒロン湾侵攻で終わっているので革命の安易な翼賛ではないかも、と言いたがるが、そこまで頑張って擁護する必要もないのでは? 非常に露骨で単純な図式でしょう。うーん、ちょっと徒労感。読んでいる間はなかなか楽しく読めたのになあ。

ジョイス『ユリシーズ』校訂をめぐるゴシップなど

バージェスの、ジェイムズ・ジョイス解説書を訳してるのはご存じの通り(かな?)

cruel.hatenablog.com

で、ときどきバージェスの引用と、ぼくの使っているUlyssesの原著とがちがっていて、なんでかなと思うことがあった。ぼくの使っているのはこれ。

なんでかなと思ったら、Gablerという人がいろいろ原稿とか手紙とか雑誌掲載分とかゲラとかを元にして、それまで出ていたやつを5000ヶ所も直して決定版テキストというのを1984年に作って、いまやそれがスタンダードになっているということらしい。バージェスは、それ以前のバージョンを元にしているので、少しちがってくる。

もちろん『ユリシーズ』なんてあんな本なので「これで完全不動の完成版!」なんてのがあるわけではなく、ジョイスも生きていたら、あとから思いつきで「あ、これも入れよう」「こんなやり方もあるかな」でいくらでもいじり続けられたはず。またゲラの書き込みも、ジョイスがやったのか校正者がやったのかよくわからんのもあるらしく、どれを採用するかはかなり恣意的な判断もまじってくる。

その判断の差で、『ユリシーズ』がまったくちがう本になるかといえば、そんなことはない。たとえば『ジョイスプリック』pdf版p.58にあるけれど、surrounding countryがsurrounding landに改訂されたりしている。これを元にcountryだと国のニュアンスが入りナショナリズムへのなんたらがあるのに対しlandでは土地とのつながりが重視され神話的な性格がいっそう強まり〜なんてことは言えるだろう(たぶん実際にこんな議論をしてる論文もどっかにあると思うよ)。それはそうかもしれないけれど、一般人が読むにあたっては、何ら問題にならない。それが5000ヶ所積み重なると、何か決定的な差になるか? そういうものではない。

いくつか、重要な点はあるだろう。9章の図書館の議論で、「愛、そう。すべての人間が知っていることば」なる一節があり、これが以前は削られていたけれど改訂で復活させられ、その是非についていろいろ議論があるんだって。ジョイスはもっと持って回った言い方をするはずだ、いやこれはウンヌンだとか。いろいろ考えることはできる。

が、もちろん学者的には重要だろうけれど、普通に読むにあたってはあまり変わらないはず。バージェスは古い版で読んでいたからまったく『ユリシーズ』を読み違えていただろうか? そんなはずはない。

そんなわけで、もちろんこのGabler校訂に文句のある人はたくさんいて、その筆頭格がジョン・キッドという人で、Gablerの校閲をぼこぼこにけなして、独自版を出しそうになっていた……ところでいきなり消息を絶ってしまった。で死んだと言われていたけれど実はブラジルにいたんだって。以下はその物語

www.nytimes.com

結局かれの版はなぜか出ることなく葬り去られ、『ユリシーズ』は5000ヶ所も直したってことで改訂版として著作権延長の対象となり収益が続くので、Gabler版を正式版とすることでジョイスの遺産管理財産も合意し云々、と結構卑しい取引があれこれあり、とのお話。大人の世界ってむずかしいのね。

ちなみにそのキッド版は、発行寸前までいっていたのに、その後すでに散逸してキッドの書いた序文もどっかにいってしまったとのこと。やれやれ。ちがう版とかいろいろ出てもいいと思うんだけどねー。いまパブリックドメインで出回っているのは、古い版となる。もちろん、それで読んでも一般人にとっては何らちがいはない。

ちなみにGablerは、キッドに指摘された明らかなまちがいをこっそりその後のバージョンで取り入れているんだけれど、キッドのことなんか聞いた事もないふりをしているのこと。わはは。

このNYTの記事を見ると、キッドも細かいミスを一つ見つけるたびに「このような粗雑な作業がまかり通るとは、文学者としての良心などないのか、校閲者は居眠りでもしていたのだろうか、実在の人物かどうか確認しようとすら思いつかないとはまったくもってゴミクズとしか言いようがない」とか余計な罵倒をいちいちつけて、みんなの神経を逆なでしたというのはあるみたい。文学屋ってホントくだらないところでは繊細で心が狭い人も多いし。もうちょっと仲良くすればいいのに、とは思うんだが、まあそうはいかないんだろうね。やれやれ。