ぼくは「モンティ・ホール問題」がよくわからない。

10月24日に、Change to Hopeというイベントがあって、スティーブン・ピンカーが来日して基調講演をする……予定だったのがコロナで来れずオンラインになってしまったんだが、ぼくがその司会役、というか質問係をおおせつかったのでした。

www.change-to-hope.com

で、これは新著『人はどこまで合理的か』をベースに最近のネタを散りばめる講演で、ぼくも付け焼き刃でざっと読んでみました。基本は、人はいろいろ数学パズルみたいなものにごまかされて合理性を発揮しにくくなる部分があるのだ、という話や経済学的な合理性の話などで、あとは合理性がいかにしてこれまでの人類の発展を率いてきたか、これからも理性をちゃんと使ってがんばらないといけないよ、というもの。一般向けの講義をまとめたものだそうで、人によっては知ってる話ばかりでつまらないかもしれない。まったく知らなかった目新しい話はない。類書も多く、その中でピンカーの本が傑出しているわけではない。それを人類の発展や『21世紀の啓蒙』につなげたところが売りものかな?

ちなみに、中で人間はすぐに陰謀論にだまされるという例として、コロナが中国の研究所から流出したなんて説を信じているヤツがいる、と嘲笑されているんだけど、最近これは可能性としては十分にあり得る (ただし厳密なところは中国の秘密主義もあってわからん) という、立派な仮説に昇格していて、陰謀論フェイクニュースってのがみんなの思うほど簡単ではないのを、身を以て示してくれているのはご愛敬。

 

モンティ・ホール問題

が、それはさておき、採りあげられている話の中に、あの有名なモンティ・ホール問題があるのだ。みんな知ってると思うけど、基本はドアが三つあって、一つは当たり。二つははずれだ。参加者はどれかドアを選んで、当たりなら賞品がもらえる。でも、そこにひねりがある。

モンティ・ホール問題

さて、あなたは選択を変えるべきか? みんなご存じだと思うけれど、答は、選択を変えるのが正解。これについてはいろんな通俗解説書がある。そこの説明はわかる。Wikipediaを見てもいい。

en.wikipedia.org

ここには、キース・デブリンによる解説が紹介されている。当然、ぼくもそれは理解できる。だって翻訳してますもの。

が、この本のあと書きにも書いたように、ぼくは賦に落ちない部分があるのだ。もう一人別に参加者がいたらどうなる?

二人がモンティ・ホール問題をやったらどうなるだろう?

山形がこのゲームをやって、Aのドアを選びました。司会者ルは、Cのドアを開けて、そこに賞品がないことを教えてくれました。

すると頭のいいみなさんはぼくに対して「それは乗り換えたほうがいいよ、Bのドアを選びなさい」とアドバイスをくれる。オッケー。それはわかりました。

では。

もう一人、このゲームに参加していたとしよう。それがこのハギーワギーくんだとする。

ハギーワギーくんは最初、Bのドアを選んでいた。もちろん、場合によっては司会者がBのドアを「ハズレでした」と開けてしまう場合もある。でもそうでない場合は? 司会者がCを開けて、自分のが当たりかもしれないと思ってワクワク。さらにぼくの話だと自分の選んでいたドアのほうが確率が高いと言われて大喜びだ。が……あなたは、このハギーワギーくんには何と助言するだろうか?

(現実問題としてモンティ・ホール問題はテレビ番組だから、視聴者はみんな「Aだろ」「いやBだ」と勝手なことを思っていたわけだ。だから必ず、ぼくが選んだドアでもなく司会者がハズレドアとして開けたドアでもないものを選んでいた人はどこかには必ずいる)

理屈はまったく同じだ。あなたは当然、ハギーワギーくんにも選択を変えろと助言する。つまり、BのドアよりもAのドアのほうが確率が高いぞ、と言うわけだ。それは……ぼくが最初に選んでいたやつだ。

もちろんぼくとハギーワギーくんはそこで顔を見合わせて、どっちなんだ、はっきりしろとあなたに詰め寄るだろう。さて、あなたはこの二人が納得するような説明ができるだろうか?

ぼくの場合とハギーワギーの場合とは独立していていっしょにしてはいけないのか?

昔、だれかにこの話をしたら、おまえの選択とハギーワギーくんの選択はまったく独立したものであり、それをごっちゃにするのがおかしいんじゃないか、みたいなことを言われた。でも……実際問題として、独立ではないだろう。ハギーワギーはぼくの隣にいて、ぼくとこの子は同じ三つのドアを見ている。それを見ている野次馬たちも同様だ。

そして多くの解説では、実際にこれは変えた方が確率が高くなるのだ、というのをシミュレーションやケース分けで示している。でもそのまったく同じシミュレーションやケース分類は、ハギーワギーくんについても言える。

司会者が外れドアを開けたことが、なぜぼくの選んだドアには影響しないの?

さらにモンティ・ホール問題の説明の大半では、モンティ・ホールが開けたドアはランダムではなく、背後に賞品のないハズレのドアだけを選んで開けているので、それが新しい情報を追加した、よってそれは選択に影響するのだ、ということになる。でも……この説明だとハズレドアを一枚あけるという行為、あるいはそれがもたらす情報は、ぼくの選ばなかったカードにだけ影響するようだ。なぜ?

言い方を変えると、ぼくが最初に選んだドアAは、確率1/3のドア、ということになる。それ以外のドア二つ (BとC)は、合わせて確率2/3だ。そして外れドアを一枚除外したら、その2/3の確率が、ぼくの選ばなかったドアBに積み上がることになる。よって、確率の高いBを選ぶのが賢い、というわけだ。

これを強調するために、ドアが3つではなく100個だったと思え、という解説もある。ぼくは1枚選ぶ。それは確率1/100だ。そこで司会者は、残り99枚のうち、車のない98枚を開けてみせる。すると、その98枚分の確率は全部、ぼくの選ばなかった1枚に集中するよ、というわけだ。1/100より99/100が大きいのは当然ですよねえ?

はい、この説明もわかる。わかるんだが、やっぱわからない。

だってなぜそこで、ぼくの選んだドアは確率1/3 (または1/00) のままなの? 外れドアを開けたら、当然ぼくの選んだドアの当選確率だって高まるんじゃないの?

これを強調するため、逆にドアを減らそう。ドアが2つしかなかったとしよう。ぼくが片方を選んだ。当選確率は1/2だ。司会者は残り1つを開け、それが外れだということを示した。さて、ぼくが選んだドアの当選確率は?

当然ながら、100%だ。

でもモンティ・ホール問題の解説の議論では、ぼくのドアの当選確率は相変わらず1/2だということになりそうだ。ぼくが選んだときの確率1/2が残り、それは最終的に自分のドアをめくるまで確定しない……でもそんなはずがあるか? シュレーディンガーのネコじゃあるまいし。これは明らかに変だ。外れドアを一枚開くことで、新しい情報が加わり、確率は変わる。それはわかる。でもその変化が、ぼくの選ばなかったカードにだけ影響するのは変だろう。ぼくの選んだカードにもその変化は当然波及するのでは?選ばなかった部分について新しい情報が得られたことで、ぼくが選んだドアをめぐる条件も変わるはずでは?

なぜ問題の言い方を変えただけで話が変わるの?

あるいは問題の設定を変えてみよう。

「選んだカードを変えますか?」という問題ではなく「最初の選択をご破算にして、どっちか選びなおしてください」という問題設定にしよう。そうなったら、どっちかのドアの後ろに賞品があって、それは等確率だから、どっちを選んでも確率は1/2だ。それが、最初にぼくが選んだドアか、そうでないか、というのはまったく問題にならない。そうだよね? (上にあげたWikipediaページにもそう書いてある)。

でも何がちがうの? やっていることはまったく同じだ。二つ残ったドアのどれを選ぶか聞いているだけだ。でも「選択を変えるか?」と尋ねられた場合と「新たに選び直すか?」と言われた場合とで、質問の形がちょっと変わっただけで、二つのドアの確率分布が変わるの? なぜ?

選ぶという「想い」で世界は変わるの?

どうもこの一連の話では、ぼくが最初に「Aの扉を選んだ」というのがずいぶんご大層な意味合いを持ってしまうようだ。でも、「選ぶ」と言ったって何かを変えたわけじゃない。「こっちかなー」と思っただけだ。なぜそれで話が変わってしまうのか? ぼくが「こっちかなー」と漠然と思っただけで、現実世界の確率分布を変えた、ということになる。ぼくが何も考えなければ、残ったドアの当選確率は半々だ。ところが、ぼくがうっかり見て、何の根拠もなくふと勝手なことを思っただけで、それが世界を変える? あるいは、ぼくが最初の選択をご破算にして、改めて残った扉の中から選ぼうかなー、と思った瞬間に、また世界は変わるの?

そしてまた最初の、ぼくとハギーワギーくんの両方がいる場合に戻ろう。両者が頭の中でたまたまちがうことを考えただけで、両者にとって同じ物理世界の確率分布がちがうのだ、ということになる。同じ世界を見て、同じ物理現象を見ているのに。なんだか「わたしたちの思いがあれば世界は変わるの!」って、あんたプリキュアさんですか、という感じだ。さて、それでいいのか?

おわりに

というわけで、ぼくがわからないのはそういうことなのだ。

たぶん実際には、そんな大げさな話ではなく、ぼくが何か非常に基本的なことを見落としているだけなんだろう、とは思う。が、正直いってぼくはそこそこ頭がいいので、一般的な話はだいたい理解できるつもりではある。これだけいろいろ読んだぼくが見落としているなら——ぼくに理解できないなら——たぶんかなり多くの人も、これをわかっていないはずなのだ。

ただ、いまだとピンカーの本にもあるように、これって人が合理的な思考ができない事例として挙げられるようになっている。

つまり、これが理解できないというのを認めたら、それは自分が不合理なバカで反ワクチンと地球平面説の信奉者だと思われかねないようなふいんき(<--なぜか変換できない) がある。たぶんみんな、それを恐れて内心首を傾げていても、それを表に出せない部分もあると思う。だからワタクシが人身御供になりましょう。教えて、えらい人! ハギーワギーくんとぼくとが二人とも納得するような説明をしてみてくれないだろうか?*1

*1:ホントは、ピンカーが来日したら帰国までの一時間ほどのアテンドもやってくれと言われていて、そのときにこれを尋ねてみようと楽しみにしていたんだけれど、その機会はなくなってしまったもので……

フォーゲル他『十字架の時』全部終わったー

やりかけていたこれ、本編は全部終わったー。

cruel.hatenablog.com

本体はこれです。

https://genpaku.org/TimeontheCross/timeonthecross_j.pdf

なんだかこないだから、Word--> pdfで目次のリンクが全部ずれる。またしおりもちゃんと作ってくれなくなった。だからpdfにちょっと不具合はあるけど、大目に見てくださいな。

補遺に関しては、もともとは全部やるつもりだったが、手法解説の部分はとてもテクニカルになっちまうんだよなー。それをやるのはあまりに手間なので、研究の心得を書いた補遺Aだけは、訳して本文に加えた。その他、手法や統計処理その他に関するテクニカルな補遺は、原文を見てくださいな。ここにある。

https://genpaku.org/TimeontheCross/TIME%20ON%20THE%20CROSSsupplement.pdf

全体の主張は、アメリカ南部の奴隷制は見事な生産システムとなっていた、というもの。奴隷がひたすら鎖につながれ、鞭打たれ、虐待されまくったというイメージは正しくないし、また奴隷制はすべて悪いという思いこみで、奴隷制は効率悪い、生産性が低い、放っておいても絶滅寸前だった、などと論じるのは正しくない、と述べる。むしろ奴隷制はきわめて効率が高く、現在の工場のような、見事な分業と労働管理システムと、MBAでも通用しそうな、見事なインセンティブ管理を行っていた。

ただし、それは別に奴隷制がすばらしいということではない。奴隷制は映画ほどバカみたいに暴力は使わなかったけれど、でもその生産性の高さは、暴力なしにはあり得なかった、というのも本書は明らかにする。

そして、南北戦争時代もその後も、奴隷解放論者たちですら実はものすごい人種差別の権化だった。黒人は無能だから鞭で叩かないと働かないのだ、というのが彼らの基本的な立場。

そして奴隷解放後は、実は黒人の社会経済的地位はかえって下がった。でも奴隷制悪い、奴隷解放はいい、というイデオロギーに凝り固まっていた関係者たちは、奴隷解放を礼賛するあまり、そうした黒人の実際の状況や生活水準に目を向けなかった……

その他、おもしろい話だらけなので、是非ご一読を。

ノーベル経済学賞 2023−2028年トトカルチョ

2022年ノーベル経済学賞は、バーナンキ、ダイアモンド、ダイブヴィグ (ディブヴィグ? 字面でしか見たことないので読みをよく知らない) に決定した。金融・銀行系ね。

そういえば、むかしの自分の予想でもバーナンキは入れていたなあ、と思って昔のエントリーを見ると、ほうほう、なかなかよいではないの。2020年でバーナンキは次点扱い。2017年についての表を見ると、その後六年で3人は含まれている。まあ15人もあげてるから、ヘタな鉄砲もナントやらだろう、と言われればそれまでなんだけどね。が、そんなに悪くもないんじゃないか。ジャンル的にはかなり当てていると一応は自画自賛

cruel.hatenablog.com

でも表を見ると、もう他界した人も結構いる。ジョルゲンソンは今年他界してるのか……2020年にお目にかかったときにはシャキシャキだったのになあ。その他、すでに取った人、すでに他界した人、いろいろいるし……

ということで、お遊びで更新してみましょう。そろそろ、順番待ちの歳寄りの消化試合、みたいな選出からは次第に離れる感じがでてきたと思う。だから落ち穂拾いはもうやめて (少しはやるけど)、なんか新しい分野、みたいな形で注目していいんじゃないだろうか。そんなことを考えて作ってみました。

ノーベル経済学賞2023−2028予想

今後5-6年で、またこの中から3人、うまくいけば4人くらい? 今後10年なら、もっといく (フィッシャー門下のマクロ屋さんたちが、取るのか取らないのかがよくわからないんだよね)

ぼくはまあ素人なので、少しはメディアに出てくる人や、F&Dとか The Economist の記事で採りあげられるような人しか知らないんだよね。ゲーム理論系の人とかは、ノーマーク。手法系とか企業組織、経済史とかの系列もまったくぼくにはわからない。ゴリゴリの実証系も不明。為替とか国際マクロで、エレーヌ・レイとかあるけど、まあ当分先でしょう。経済地理とか制度系とかもっと政治よりとかも欲しいところだが、名前が思いつかない。でもそういうのが半分くらいは取るでしょう。Rやgrtl開発者というのは、やってほしいが、まずない。

企業ファイナンス系はもう一区切りついた感じなのかな。

この中で、もういつ他界するかわからんからそれまでに何とか……という人はほとんどいない。唯一、トダロくらいかな。開発援助屋としての偏見はあるが、取ってほしいなあ。あとはかつて親切にメールに返事をくれたロバート・ゴードン先生には取ってほしい。受賞演説でIS-LMの偉大さを訴えてほしい感じ。

あと、そろそろギンタス/ボウルズのような、生物学とか進化とのつながりを掘ってる人はほしい。ビッグデータとかナウキャストみたいな話も、いつかは触れざるを得ないよなあ……てなことを考えているうちに、10年くらいはすぐたってしまうはず。

ここの、ウィキペディアの受賞候補者と比べると、幸福の経済学はたぶんないと思う。てっぺんの環境がらみの話は、うーんどうだろうね (名前が出ている人は知らないが、もう90歳だとつらいんじゃない?)。重なるのはアセモグルだけか。

en.wikipedia.org

あと、女性枠とか非白人枠とか、ポリコレな基準を入れようとすると、だれがいるかなあ。バーナンキがとっちゃうと、イェレンはないし (テイラーとセット?)、コロナがらみでギータ・ゴピナス……いや、当分ないなあ。クローディア・ゴールディンあたり? まあ、どうなりますことやら。いずれにしても、ワイツマンみたいにノーベル賞取れなかったのを悲観して自殺しちゃうとか、そういう陰惨な話はなし! みんなあまり深読みせずに楽しいお遊びとして続いてほしいなあ。

追記

開発経済学は、バナジー&デュフロ他が2019年に取ってるだろ、との指摘あり。うーんそうだなあ。個人的には彼らはRCTでもらったような印象だったんだが、言われて見れば開発経済学か。でももっと古くさい感じの、ビッグプッシュ型というかそういうのを再評価してほしいんだよなー。

昔話:ティモシー・リアリーの想い出など

ぼくが初めて訳した商業出版は、H・R・ギーガーの画集だったんだけれど、それを出したトレヴィルという西武系の出版社の編集者川合さん (というか彼一人しかいなかった) が「じゃあ是非これもやってください!」と言って翻訳させられたのが、ティモシー・リアリーの『神経政治学』だった。

ドラッグやったら脳の回路が活性化して新しい世界が見えるぜ、それでみんなニュータイプになって宇宙にさいくだ! という、まあまぬけもいいところな本だったが、一応張り切ってやって、ついでにこれで大学院の学費は自分で稼げるぜ、親の世話にはならないぜ、と大見得を切ったんだが、なんと大学院に入る前に仕上げたのに、実際に本が出てお金が入ってくるまでに2年以上かかった。別に訳文にはぜんぜん文句はつかなかったんだけれど、なんでも川井さんみずから各ページの版下にロットリングで線を引いてデザインして、無用に凝りまくった結果、らしい。学費を払うどころではなく、親に恥をしのんで頭を下げるはめになると同時に、こんな不安定では翻訳家なんかになったら死んでしまうなあ、と思い別の道を考えるようになった、ある意味で恩のある本ではある。

当時はまだ、電子メールなどという便利なものもなく、著者に質問があるときはファックスで送っていたんだが、リアリーは本当にダメな人で、質問したらその該当箇所を開いて見るくらいの手間はかけてもいいんじゃないかと思うんだけれど (だってアンタが書いた本でしょうに)、ぜんぜん勝手な思いこみでデタラメ送ってくる。たとえば、進化論を教えてクビになったか裁判沙汰になったかで有名な、スコープスという人がいる。いまならググれば一発でわかるが、当時はそんなこともできず、調べてもわからなかったので当人に聞いたら……

スコープというのはね、テレスコープとか、マイクロスコープとか、こんな覗く筒みたいなやつだよー

というまぬけな返事がきた。いやちがうよ、お前あきらかにこれ人名だよ、自分の本くらい見てよ、と書いたら、「こないだ返事しただろう、お前はあれがわからんのか、それで翻訳できるのか」というファックスが帰ってきて、こちらも怒って、その頃には自分でも調べがついていたので、「この進化論のヤツだろ、他に考えられないからそう訳すが、どうしても望遠鏡にしてほしければそうする」とファックスしたら、やっと見てくれたらしく、「ヒロオ、お前は天才だ、お前の指摘通りであり、私のまぬけな答を許して欲しい」としおらしく謝ってくれたっけ。そんなことが何度かあった。

その訳書に、武邑光広と伊藤俊二が、本当に無内容な序文を書いていて、リアリーが「何が書いてあるのか読みたいから訳せ」というので訳して送ったら、特に武邑の文章はいつもながらまともな日本語ですらなく、無意味なカタカナを並べてもったいつける手法が、英語にすると一切通用しなくなることもあって、「意味がわからないがこれは本当に正しい翻訳なのか」と問い合わせがきましたよ。いやはや、これ以上はないというくらい厳密で正確な翻訳だったんですよ。

彼の自伝も訳した。

これも原著がかなりひどい編集で、何カ所か囲みのコラムが入っているんだが、それが原文の上にそのまま貼ってあって、原文がブチ切れている。で、「ここがぬけてるから文ください」と連絡したところ

そんなはずはない。私の編集者は優秀だ、それにこの本はスペイン語とXX語にもなったがだれもそんなことは指摘していない

とのファックス。そいつらいい加減なだけだよ、頼むから自分の本見てよ! これも何度かのやりとりの結果、以前にも増して頑固になっているのにいい加減うんざりして、最後はこっちで他の本に収録されている文で補ったんだっけな?

んでもって、これで縁が切れたかな、と思ったら、インターネットでアメリカのWIRED以上に軽薄なネットアングラカルチャー誌みたいなのが、一瞬だけ幅を利かせるようになり、それを受けて日本で出たのが、CAPE-Xという雑誌だった。

で、これにティモシー・リアリーが連載するというので、翻訳してくれという話になり、ぼくは仕事を断らないのでホイホイ引き受けたら……

まあとにかく、どうしようもない無内容なひどい原稿ばかり。が、それはまだいい。その無内容名原稿が、とにかく遅い。締め切り破るどころか、入稿直前まで原稿がこない。で、毎回、編集の鈴木陽子さん (姓は仮名) がさんざん催促して、もらったらぼくが (たいがい会社でコッソリと) 1時間もかけずに翻訳して印刷所にぶちこむ、というのがルーチンになっていた。中身も支離滅裂。こんなものを、この短時間で少しでも読めるものにして出せるなんて、ワタクシくらいしかできませんわ、という自負はあったが、あまり訳にたつ自負ではない。もうリアリーも、もともとダメだったが焼きがまわりきったか、というような話を鈴木さんとよく電話で話していたんだが……

あるとき、その鈴木陽子さんが、原稿がまだきてないけれど、きたら今日中に訳ができますか、という相談の電話のついでに「リアリーは本当にボケてるんじゃないでしょうか……」と言いにくそうに言う。どうしたんですかと尋ねると話してくれたのが……

原稿の催促の電話をしたところ「おお、もうすぐだ大丈夫大丈夫」と例によって、まったくあてにならない太鼓判を押してウダウダしゃべっくったんだとか。

「でもそこで突然リアリーが『そういえばジョンは元気か?』って聞いてきたんです」

ふーん……ジョンってだれ? どなたかお知り合いですか?

「ええ、私もそう聞いたんです。そしたらいきなり、ものすごい怒り始めたんです。ジョン・レノンだよ! あたりまえだろう! ヨーコ、おまえは自分の旦那を忘れるとは何事だ!』って……」

ジョン・レノン???!!?? え、ひょっとしてそれってまさか……

「ええ、どうも私のことを、オノ・ヨーコだと思ってるらしいんです!! ネタじゃなくて本気で!」

どっひゃー。いやまあ、ヨーコにはちがいないけど……

ついでに言うなら、その時点でジョン・レノンは20年近く前に死んでおりました。

それはかなりヤバいし原稿的にもアレだし、そろそろ切る算段をしてもよいのでは、という話をしていたら、リアリーを切る前に雑誌そのものが潰れたのかな。いや、なんか断捨離の中でリアリーの訳書が出てきたもんでつい思い出してしまいましたよ。

フォーゲル他『十字架の時:アメリカ奴隷制の経済学』:おもろいでー。

ポランニーで、ダホメの輸出側の奴隷事情を見ました。

cruel.hatenablog.com

それで奴隷に興味が出てフォーゲルの『十字架の時:アメリ奴隷制の経済学』を読み始め、訳し始めてしまいました。まだ前半だけ。もちろん、フォーゲルはずいぶん長生きしたし、翻訳権は当分フリーにならないので、みなさんは読んではいけません。以下にあるけれど、見ないように。

フォーゲル&エンガーマン『十字架の時:アメリカ黒人奴隷制の経済学』(まだ前半だけ、pdf18MB)

なぜか知らないが、目次のハイパーリンクがずれていて、きちんと当該の章にジャンプしなくなっている。もちろん、みなさんはご覧にならないでしょうから関係ないけれど。あと、Excelで作り直したグラフの相当分は、目分量で原著のグラフから数字を読み取って再現したものなので、完全に厳密ではありません。プラマイ3%くらいの誤差はあるはず。

著作権を遵守する良い子たちは、すでに邦訳はあるので、こちらを読みましょう。中古で15000円もするので、ぼくはどのくらいのできかは見ておりません。

結局、奴隷はアメリカ南部においてはとても高価な耐久資産で生産財だったので、農園主はそれを気安く壊したり、蹂躙したり、シバいたり、粗末に扱ったりはしなかった、という話に尽きる。

奴隷制というとどこもいっしょくたにしがちだけれど、ジャマイカ奴隷制と、アメリカ南部の奴隷制はまったくちがった。ジャマイカでは農園主が奴隷娘を次々に手込めにし、ろくに飯もあてがわず鞭打って働かせ、病気になったら放置で死ぬに任せたりしていた。これは通俗的奴隷制のイメージでもある。

でも、アメリカ南部では、基本的にそういういうことはなかった。そういうケースが皆無、というのではない。でもそれが到るところで横行してみんなやってました、などということはあり得ないし、また実際にもなかったことが各種統計データをもとにしっかり解説されている。

そしてその地域的な差の理由、経済的な背景までが、実に見事に解説されている。奴隷について、「ルーツ」や「ジャンゴ」で描かれているような非道な話を、みんな真に受けてしまっている。でも実際はかなりちがったらしい。

鞭だけでは奴隷は働かないし、むしろ福利厚生を手篤くし、家庭をもたせて各種ご褒美や温情により、自らやる気を出させるほうがいいのだ、という現代の企業における労働マネジメントとまったく同じ話がここでも展開される。ないのは、農園のミッションステートメントを! とかパーパスを打ちだそう! とかいうくだらないご託くらい。

そして、現代の日本への示唆も当然ある。奴隷の中でも奴隷制が苦しいと思うのは、トップの優秀な人だけ。他の人はむしろ、衣食住完全確保で言われた通りのことをやってれば到れりつくせり。むしろ楽だったかもしれない。そしてアメリカの奴隷は自然増で維持されていたけれど、生まれたときから衣食住や医療をきちんと出してあげて奴隷を育てると、最初は農園主の持ち出しがずっと大きくなり、その累損解消はやっと26歳になってから、というのはすごいなあ (第4章)。16歳くらいからきっちり働かせてもこれだ。いまの日本だと、死亡率はずっと下がっているから無駄になる部分が少ないので、その分累損解消ははやくなるだろう。でも学費その他が高くついて、親の累損解消は奴隷と同じくらいか、ヘタをすると子供が30歳くらいになっても終わらないのでは? すると少子化解消への道は、とかいろいろ現代への示唆も大きい。

いくつか、甘いなー、と思うところはある。特に奴隷制廃止でも農園主はあまり損をしなかったといったあたりは、ちょっとアレだと思って訳者加筆をしておいた。その他の部分は、特にコメントしていない。おそらく、その後の研究で否定されたりした部分はあるんだろう。その一方で、ピケティ『21世紀の資本』においても、奴隷に関するデータのほとんどは、この本に頼っている。データ的にはいまも十分に生きていると思うべきなんだろう。

後半と、補遺の別巻もいずれやります。補巻の、これをやったときに、冒涜だとか敬意がないとか奴隷制を正当化しているとか品がないとか言われたけれど、そんなの関係ねーよ、下品でも口が悪くても、事実をきちんと突き詰めることだけが重要なんだよ、という文章はぼくはすばらしいと思っている。が、おそらくポリコレに染まった多くの人は、そうは思わないだろうね。

文中でも、思いこみと妄想と善意だけの奴隷制廃止論者の説がいかに矛盾していて、むしろ人種偏見がむき出しにされているかが、さんざんに批判されていて楽しいけれど、おそらく現代では出せない本だとは思う。即座にキャンセルされてBLMの標的にされるレベル。

教養とは:漁父の辞と水処理

Executive Summary

 教養というと、実学に関係ないステータス財なのか、それとも実学にも役立つべきベースなのか、みたいな議論が起こる。だがその区別がない場合もあるし、それが理想かもしれないという気もする。大学の上水道学の講義で、屈原の「漁父の辞」に水処理の基本原理が描かれていると、まさに我田引水 (水処理だけに) で強引に読み取ってしまった教授は、なんかそれに近いことをやっていたようにも思う。そこから、直接実学と関係なくても、それと関係あるものを引き出す契機、みたいな教養の捉え方はできないものか?


今日、イベントで教養について話せといわれてあれこれ駄弁ったのですよ。

lms.gacco.org

その中で、教養の役割とかいう話になる。こう、教養というと、実学とは離れた古典知ってます、みたいな、ボリス・ジョンソンホメロスギリシャ語で暗唱できますとか、日本なら四書五経だの漢詩だのを暗唱できますとか、もっと最近だとジョイスユリシーズ』読んでますとかレンブラント好きですとか、プラトン読んでますとか安藤昌益読みましたとか、なんかのほほーんとした余計な話、みたいな印象はあって、でも最近ではむしろ進化論知ってるとか利己的遺伝子や、意識や知能のモジュール性や、コンピュータ的情報処理にシカゴ学派的な経済学の考え方知ってますとか、そっちのほうかな、とか思う感じもある。

ぼくはなんとなく、まあ「そっち」のほうを重視したい気分はある一方で、実学離れた話もあらまほし、と思ったりもする。考えのベースなのか、あるいはそのベースがあることで存在が許される枝葉なのか、とか。

が、個人的には、その両者がつながる道もあるんじゃないか、という気がしていて、なんかそういうつながりがあると最強だなあ、みたいなことを考えないでもない。

そんなことを考える理由の一つが、大学のときの上下水道学の講義だった。ぼくは全然興味なかったんだけど、必修科目だからしかたない。で、その講義で教授が、開講にあたって己の学問の来歴みたいな、ありがちな話をしていた。そしてそこで、自分が水処理の研究をする中で、屈原の楚辞にある有名な「漁父の辞」を読んで、衝撃を受けてそれが自分の研究に大きな影響を与えたのです、という話をした。

 

さて読者諸賢は、無教養なサルがほとんどだろうから、漁父の辞の何たるかを知らないでしょう。9割の人は、漁夫の利とまちがえてただろー。実物は以下をみなさい。

ja.wikibooks.org

そういって見る人はほとんどいないのは知っているので、かいつまんであらすじを。


楚 (というのは秦のライバルの一つ、BC300年頃) に立派で有能で高潔な、屈原という大臣がいて、いろいろ楚の王様にいつもあれこれ正しい提言をしていたのに、王様はバカで言うこときかないし、また他の家臣どもは汚職とおべっかつかいの無能のアンポンタンだらけで、正しいけど面倒なことを言う屈原はやがてうとましがられ、讒言されて、王様にクビにされて追放されてしまうのだ。

で、屈原はもう尾羽打ち枯らしたボロボロの格好で、荒れた川の横を歩き、世の中くさってる、オレだけが清く正しいので追放されちゃったぜ、畜生め、とグチっている。

それを見かけた老漁父が、「何ブーたれてんだよ、世の中が汚いなら少しはそれにあわせろ、空気読めよ、お高くとまってるから追放されちゃうんだよ」と諫める。

屈原答えて曰く「なんでおれがバカで薄汚い他人にあわせなきゃいかんのだ、オレが汚れるだろが。死んだ方がマシだ」

すると漁師あざ笑い「水がキレイなら顔 (正確には冠の紐)を洗えばいい。でも水が汚いなら足を洗えばいいじゃん」とだけ詠んで立ち去りましたとさ。

漁父莞爾而笑、鼓枻而去。乃歌曰、

 滄浪之水清兮  可以濯吾纓
 滄浪之水濁兮  可以濯吾足

遂去、不復与言。

まあ、どんなものにも使いようもあればやりようもあるのに、甘いよアンタ、ということですな。


 

横山大観の描いた屈原さん

さてこれを聞いて当然ぼくは、「ああ、どうせ何か、迫害されても正しい信念を持ち続けねばならないとかなんとか、そんな説教くさい話をするんだろうなあ、はやく終わんねえかな」と思っていた。

そして教授曰く

わたしはこれを読んで、頭を殴られるような衝撃を受けた! というのも、ここにこそわが学問の本質の一つが端的に描かれているからです!

はいはい、きましたねー。手短にたのんますよ〜。

ところが、その後にきたのはまったく予想を裏切る話だった。

この漁父の言葉。水がきれいなら顔を洗え。水が汚ければ、足を洗え。つまり、汚い水でも、もっと汚いものを洗うのに使える。これが水処理の本質です! なんでも無理に飲める水準まで浄化する必要はない!むしろ汚い水でもそれにあわせた用途に使うことで、有効利用ができる! 水の再処理、中水利用 、その他あらゆる場面で、基準と用途にあわせた浄水手法が求められる! 上水道学の基本思想がここに描かれているのです!!!

ぽかーん。

いやそれちがうから! 描かれてませんから! それはあくまで例えだから! いや、まあ描かれてはいるけど、ネタにマジレスっつーか (という表現は当時なかったが) 先生、あんた、どういう古典漢文の読み方してるんですか! まさか屈原も、2300年の時を経て自分が水処理のネタにされるとは思ってもいなかっただろうよ!

が、外野が何と言おうとこの先生は、漢文読んで、まさに水処理の原理を感得してしまったわけだし、確かにその通りのこと書いてあるし、うーん。これって、あくまで余計な非実学的な知識たる漢文がまさにまともな工学原理につながってしまったわけで、するとこの先生にとって漢文って、教養ではあるけどどういうもんなのよ、というのはいちがいには言えなくて……

 

もちろん、だからみんな漢文を勉強しなさい、現代の工学につながる原理が出ております、なんてことはもちろん言えないんだけど、でも「何の役にもたたない漢文、古文」とかいう話がでてくるたびに、ぼくはこの40年近く前の話を想いだしたりするわけです。いやあ、意外と役にたっちゃったりするみたいですよ。なんか、ここに教養というものを考えるうえでのヒントがあるような気が……いや、ないか。

(でも、ちょっとはあると思う。アルキメデスユリイカしたとき、「だから風呂桶重要です、イノベーションのために風呂環境充実させましょう」といったらアホだし、ニュートンのリンゴ話で、じゃあ物理学発展のためにリンゴの木をもっと植えろというやつは何かかんちがいしていて、彼らがそうしたヒントからあるアイデアにとびついたのは、その人たちがそれをずっと考えていて、それが出てくる契機がたまたまそこにあった、という話。それはこの屈原から上水道の原理を引き出した先生も同じで、たぶん風呂桶やリンゴや屈原である必然性はなかったんだけど、でも何かは必要だった。そうした契機となるいろんなものがまわりにある状況、みたいなものは考えてもいいのかな、とは思うんだ。すると環境の多様性とかそんな話につながるとは思う)

   

付記:ウヒヒヒ、漁父を漁夫とまちがえてたぜ、付け焼き刃教養がバレますな。

ポランニー/イモータン・ジョー/コルナイ:不足の経済と社会権力

Executive Summary

 ポランニー『ダホメ王国奴隷貿易』は、ダホメでは経済が社会に埋め込まれており、各種交換は社会関係の一環として行われる儀礼でしかない、権力関係の結果として行われるお歳暮やお中元みたいなもの、という描き方をする。だがその見方は片手オチではないか? 各種交換や配布は人々の生存に直結するものであり、その中では、そうした贈与にせよ交換にせよ、そうした行為自体が権力を創り出す。これはコルナイ・ヤーノシュ「不足の政治経済学」の指摘でもある。つまり、そうした経済関係がむしろ社会関係とその権力関係を創り出しているのでは? ニワトリと卵的な面もあるが、社会関係を先に置くのは倒錯ではないのか?


昨日、ポランニー『ダホメ王国奴隷貿易』の全訳終わった。

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この本は、小さく見れば17-19世紀ギニア海岸での経済システムと、特に奴隷貿易に伴うその変化を扱っている*1

が、そのダホメだけの話を超えて、あの本にはいまの西側資本主義=市場経済システム批判、という大きなテーマがある。いまの西洋では、あらゆるものが市場関係で決まってしまっている。自由も、平等も、人権も市場の要請から決められた価値観だ、という指摘はとても重要。そして、多くの人は、自由や平等が市場に形作られた社会組織でしかない、ということにすら気がつかないくらい、市場システムにどっぷり浸かり、それに囚われきっている。ポランニーはそれを批判する。

これに対してポランニーの描くダホメ経済は、社会に埋め込まれている。社会関係の一部として、経済関係があるのだ。そこでの経済は、取引や、まして収益のためのものでは必ずしもない。広い意味での経済、モノのやりとりは、社会的なつきあいであり、儀礼だ。

そしてそれ故に、収益だけのために勝手に取引が起こり、全然知らないやつがいきなり取引して、なんてことはあり得ない。社会の中で、関係の維持のために、決まった形で決まったもの同士の交換が起こる。市場での価格交渉に見えるものも、実は価格交渉ではない。決まったモノ同士の交換が起こるときに、そこで交換されている「モノ」が、ちゃんと「決まったモノ」の決まり通りになっているか、つまり品質が基準を満たしているか、つまり交換という儀礼のお作法を守っているか、という話だ。

ポランニーは、もちろん冒頭で、ダホメ美化しちゃいけないよ、王様がでかいツラして捕虜を先祖への生け贄として大量にぶち殺す野蛮なところだよ、という注意書きはする。が……彼がその仕組みに魅了されているのは、読めばかなり明らかだとは思う。もちろん、冒頭での市場システム嫌いとあいまって、その印象はなおさら強まる。

 

その主張はわかる。何でも市場化しないやり方もある、社会に埋め込まれた経済のあり方が存在する——それはわかる。が、その一方で、ぼくはちょっと賦に落ちないものを感じている。

社会関係、つまり権力関係とその儀礼の仕組みやお作法が最初にあって、その中で従属的に経済が動いています、経済はただの握手とか、結婚とか、お世辞とか、成人式とか、そういうのと同じで、その社会関係と人々のつきあいの一形態なのです、というのは本当なのか? 社会とその人間関係が主であり、経済は従であるというのは本当なのか?

ぼくは、なんか逆のような気がする。このダホメの社会においても、経済が主であり、社会制度はその結果でしかない。なぜか?

いきなり、あらかじめ社会と権力関係が不変の形であります、というのが変だと思うからだ。王様が食べ物をでっかいお祭りの中で、税金としてとりたてたものすべてをみんなに贈り物としてくれてやる、という。でも、まさにその、みんなに贈り物として食べ物だのなんだのをくれてやる、ということ自体が権力関係を創り出している。社会の一部として経済がある、というのは変だ。経済の結果として——その流通配分システムにより、社会を構成する権力関係が作られている。

だって、それってまさにこのマッドマックスの世界だもの。

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イモータン・ジョーとこの乞食のような民草との関係 (ついでにウォーボーイズも) は、社会があって、権力関係があって、そのなかで儀礼として水をまいているのではない。まさに水を撒くことが、イモータン・ジョーの権力の源であり、それがこの社会を作っている。

そしてここで出てくるのが、コルナイ・ヤーノシュ。彼の「不足の経済学」だ。

この人の理論もいろいろ含蓄があってすばらしいんだけれど、その大きなポイントの一つは、ものが不足している状態だと、単純な需給と価格調整による市場とはちがうものが作用しはじめる、ということだ。

不足状態では、持っている人は、持たない人に対して権力行使できるようになる。足りないものを誰が得るのか? いちばん高いお金を払った人、という仕組みもあり得る。でももう一つ、持っている人が、だれがそれを獲得できるのか、という選択権を行使できるようになる。そして逆に、その権力を行使できるようにするために、様々なものを出し惜しみし、不足を人工的に作り出すことさえやるようになる。

コルナイは、これを数理モデルにまでして (ごめん、その部分は読み飛ばしてるのではっきり説明できない) もとにして、社会主義の経済/社会が陥っている状況を見事に描き出す。

おそらく、ポランニーが描いたようなダホメ経済が成り立ったのは、経済の生産力が限られていたため、あらゆるものが軽い不足状態に置かれていたことがある。そしてそれ故に、それを(おそらく最初は暴力か血族関係により) 集めてみんなに配る、という配給システム/贈り物システムみたいなものが出てきて、そしてそれが社会の権力関係を確立していった。いったんそれがまわりはじめると、経済は確かに社会に埋め込まれ、権力構造の結果としてモノがやりとりされるだけに見えてしまう。

特に、ポランニーはすべて文書記録をもとにあれこれ記述をしている。すると、社会関係があって、その中でお歳暮やお中元や季節の贈り物をしているうちに、なんとなくあらゆる人が過不足なく物が行き渡る、みたいな印象が得られやすいのかも知れない。

でも、そのモノのやりとりが、まさに権力をかためて社会を作る——たぶんそっちのほうが重要なんじゃないか。

というのも、そこで交換されている食べ物その他は、なければ死んじゃうものだからだ。単なる儀礼的なおつきあいだけでいろいろ交換しています、というのはたぶんあり得ない。それぞれのケースでそれぞれの人が、そういう意識で贈答をしている可能性も十分にある。でも、たぶん実際はちがう。ポランニーは、その現場を見ていない。もちろん、彼は20世紀のひとだから。でもその贈答の現場——イモータン・ジョーのこの儀式を実際に見れば、そんな平和なお歳暮のやりとりでないのは、たぶんすぐにわかるはずだ。

ある社会が一定期間存続した、ということは、その社会の物質収支がなんとかトントンでまわっています、という証拠だ。そしてそこで生産力の上昇がなければ、何か配分のシステムができた場合、そこからちょっとでも逸脱したらだれかが死ぬ。したがって、そこから逸脱しないような必死の努力が社会参加者のすべてによって行われる。それがまさに、ポランニーの見ていた、「先にある社会」の安定性=硬直性の源だ。それを支えているのは、(不足気味な)物の分配流通の仕組みとしての経済と、その不足の経済から生まれる権力、なのだ。

つまりは下部構造が上部構造を規定する。マルクスさま♥

これはニワトリか卵かの議論ではある。だから当然、ポランニーがまちがっているとかいうのではない。でも、彼があまりきちんと述べていない逆の面もあるのはまちがいない、とは思う。そしてコルナイの見方をとるなら、社会主義(の一形態)がダホメに似ている、というよりダホメが社会主義に似ているというべきか (まあこれは言葉遊びに堕しているが)

ついでながら、ポランニーも、コルナイも、ハンガリーの人なのね。この両者が、別の形とはいえ、いまの一般均衡的な市場システムのあり方に疑問を抱き、不足をベースにした経済システムと社会との関わりみたいな話を展開しているのは、単なる暗合かもしれないけれど、なにかハンガリー的な視点というのもあるのかもしれない、という気はしなくもない。

というわけで、みんなポランニー読まなくていいから、マッドマックス/怒りのデスロードを見なさい! それでわかるから! V8!V8!

……というオチでいいのかな?

*1:栗本慎一郎は確か『パンツをはいたサル』で、ダホメの奴隷取引は、西洋がいやがる奴隷を無理矢理買っていったのではなく、ダホメ人たちのほうが積極的に販売していて、常にダホメ人たちのペースで話は進み、白人たちは翻弄されていただけだった、と述べていたけれど、記述を見るとそんなことはない。ヨーロッパ人たちがダホメのやり方にあわせてあげていたのは事実。でも、そこに詰め合わせ方式を導入し、独自の変な通貨単位をでっちあげ、利潤確保をしていたヨーロッパ人どもの巧みさは、やっぱ肉食ってる連中はちがうぜ、という感じではある。