スタニスワフ・レム『SFと未来学』8章「宇宙とSF」:散漫だなあ

はじめに

はい続き。スタニスワフ・レム『SFと未来学』第8章「宇宙とSF」。

スタニスワフ・レム『SFと未来学 II』

あらすじ

これまでの章と同じく、何か体系だった考察が行われているわけではなく、いろいろ読んで思いつきを並べるだけ、という感じ。

8.1 はじめに

宇宙は、これまで文学でまともに扱われることがなかった。そもそも人類史において、宇宙というのが具体的な場所だ、という認識が出てきたのもごく最近だし、そこに人類が、農機具のような道具の延長にある乗り物で行ける、という発想自体もきわめて最近のものにすぎない。そして実証的な科学が出てきてその中で宇宙を捉えるようになったのも、ごく最近のことだ。

文学というのは人間的なものを扱うのがこれまでの常で、宇宙とか星とかいう、非人間的、非人格的なものは扱えない。だからそれを全部科学に背負いこませた。そして、宇宙を扱うSFは、文学の扱う話を扱っていないとして排除され、二流扱いされるようになってきた。

それがスプートニク打ち上げで、急に先見の明があったとしてもてはやされるようになったのがSF。ただしそのSFも、宇宙の持つ可能性をまともに考えていないし、ファンタジーは寓話の一種となって現実からの逃避になっている。

8.2 宇宙SF

宇宙SFでも、ブラッドベリはただの寓話的なおとぎ話の焼き直しだ。他の宇宙小説は、科学っぽいジャーゴンを多用してそれっぽい雰囲気を作るが既存のお話の使い回しか、あるいはA・C・クラーク作品のような単なる頭の体操パズルのようなもの。別に舞台が宇宙である必然性はまったくないし、ハインライン『人形つかい』のように、設定に説得力がないものも多い。

8.3 宇宙論ファンタジー

ステープルドン『スターメイカー』はむちゃくちゃだし、説明調でほぼ小説とは呼べない。失敗作なのはまちがいないが、そこに詰め込まれたアイデアはすごい。唯物論的な科学に対し、汎心論/汎神論みたいなところにまでぶっとんでいる。全能の神がなぜ不完全な世界を作るかという点での矛盾はある。そうした内部矛盾がこうした作品の欠点。でもオレ様は「かくて世界は破滅を免れた」で内的矛盾のない形でそういうアイデアを小説化してるのよねー。

8.4 宇宙SFと物語の構造

多くのSFはできあいのパターンを取ってそこにSFっぽい意匠を加えるだけ。ファンタジーやおとぎ話はそれに乗りやすい。吸血鬼を、どうしても血がいる病気とか、インチキな理由で人間の血からタンパク質をとる宇宙人とか言い換えればいいだけ。この意味で、SFとファンタジーは境界線が引けるものではない。あ、でも第2章とかでやった分類は、あくまで存在論的な話だからオッケーね。

その拝借されたお話の構造がSFの内部でどこまで改変されるかで、そのSFの善し悪しも決まる。宇宙小説は、かつてある種の職能を持つ職業人を扱った小説の生き残りでもある。船員が宇宙船乗りとなったり。現代小説は、人間の内面にこだわるので、職業を軽視し、職業が人を規定するとは考えない。SFは、そういう空白を補うものでもある。ベスター『虎よ、虎よ!』は『モンテ・クリスト伯』の焼き直しだが、絢爛豪華だし、独自の工夫もある。二流通俗小説ではあるが、その中では一流だ。

こう、ダメなものにもこうやってきちんと価値を見つけ出そうとするオレって偉くね?

感想

この章は、おもしろい指摘はいくつかある。冒頭の、宇宙が舞台となること自体が人間の歴史において目新しいことで、内面ばかりを重視したがる従来の人文学や文学はそれを自分たちの扱う範囲外としてしまい、SFはそれを補うものだとか、現代小説は職能とか職業人をきちんと扱わないという指摘とか。

しかし、全体として何か体系立ったことを言っているわけではない。非情に散漫な思いつきでしかない。途中で、ジャンルSFがよくやりたがる宇宙SFの分類のような試みを馬鹿にして見せるところがあるが、うーんそれで? 『虎よ、虎よ!』が絢爛豪華なワイドスクリーンバロックで、既存の下敷き話の焼き直しだけどおもしろいよ、というのは事実なんだが、なぜそのために十ページにわたり『虎よ、虎よ!』を引用し、あらすじ解説をしなければならなかったの? 必要だったと言うんだが、さっぱりわからない。

結局言っていることは

  • SFは人文学や文学が排除してきた、宇宙というものを描いているのでそれなりにえらい。

  • ブラッドベリは、うまく書いているけれどあまり中身はない。その他SFは自閉しているし、百万年たっても人間はいまと同じ価値観だったりしてステープルドンの足下にも及ばない。

  • そのステープルドンはめちゃくちゃだがすごい。でも神の完全性と不完全な世界という問題を抱えている。

  • SFは既存の話の焼き直しが多いが、それを徹底するとベスター『虎よ、虎よ!』みたいな、二流通俗小説ながらもその中で第一級のものができる。

ほぼこれだけなのだ。

そこでの主張に賛成しないわけじゃないけど、『宇宙とSF』という章題の下で、数十ページにわたりページをかけて、言っていることがこれだけというのは、いささかがっくりすると言わざるを得ない。なんかもうちょっと、構築的な議論とか、新しい視点とか出してもらえないのだろうか。

ステープルドンも、ほめたと思ったら、冒頭1/3だけで、あとは彼の汎神論の話が整合性がないという脱線を得意げに延々と続ける。そこの主旨は、神の全能性とこの世の不完全性という、ラヴジョイの話でやったようなことで、それをどうやら自分で思いついて書いていたりするのは大したものかもしれないが、ここでの話にはあまり関係ないうえ、自分の思いつきを語るために結局ステープルドン下げに終始しているのはどうよ。

cruel.hatenablog.com

結局のところ、レムとしては読者がこれを読んで何を理解してくれる/理解してほしいと思っていたのか、ぼくにはよくわからない。いまのアメリカSFは、他の可能性もあるのにもっとガンバレ、というくらいの話しかまとまった主張は引き出せないと思うんだが。

もうちょっと構成をきちんと考えて、きっちりした論旨を作れると思うんだよね。

  • SFは人文学や文学が排除してきた、宇宙というものを描いているのでそれなりにえらい。

  • また宇宙飛行士を筆頭に、現代文学で無視されている職業/職能的な人間描写の可能性も追求している。そういう作品としてはこんなのがある。決してうまくないが、新しい可能性追求は評価すべき。

  • ただし、多くの作品は安易に既存の話の置き換えに終わっている。おとぎ話の「おばけ」や「吸血鬼」に宇宙からきたナントカと称して合理的な説明を与えたり。それがSFの持つ可能性を生かしきれていないのは残念。

  • そうしたやり方でも、徹底してSFという枠組み内で変形を加えることで非常におもしろいものも作れる。ベスター『虎よ、虎よ!』はそれを見事にやっている!

  • さらに宇宙と人類の関わりについて、従来の文学じゃ扱えない壮大な取り組みをすることもできる。ステープルドンはめちゃくちゃで、汎神論に陥っているけれど、でも従来の小説にはまったくできないことをやっているのはすごい。それに刺激を受けたような意識進化の話とか、一部の作家が萌芽的に触れてはいるし、もっと頑張れ。ということで、形而上学の話を次の章でやろうぜ!

といった具合にすれば、宇宙SFに何が期待できて、どこがレム的に不満だと思っているのかが、もっと明確に出ると思うんだが。そしてこれを整理すれば、いまの1/4のページでおさまると思うよ。

レムの(本書の) 違和感について

なんか、だんだんこの本についての違和感がわかってきたような気がする。

あらゆる評論・論説は、「他人の気がついていないところに自分は気がついた」「他人の思いこみを自分は裏付けた/否定した」がないと成立しない。そこには絶対に「どうだっ!」という自負はある。それがなきゃ、手間掛けて研究だの評論だの論文だの書かないだろう。つーか、書かないでくれ。「いろいろ見てみたけど、なんかおもしろい結果出ませんでした、いろいろですね、ハッハッハ、やったことに意義がある」とかいうのは本当にうんざりするので。ひがみっぽい人はそれを見て「上から目線」だの「押しつけ」だの被害者意識に浸りたがる。そういうバカは相手にする必要はない。その自負が強すぎてカチンとくることはある。でもそれは、そいつが見出した論点とのバランス次第ではある。恐れ入りました、と言わざるを得ないこともあれば、くだらんことを何威張ってやがる、と思うこともある。

でもレムは、頭良いのはわかるんだが、あらゆるところでそれを前面に出したくてたまらない。だからステープルドンの宇宙SFとしての特質を論じるはずのところで、それをまったくそっちのけにして、ステープルドンの汎神論についてあれこれケチをつける。形而上学の話は次の章でやると述べてるんだから、ここでその話をしなくてもいいじゃん。でも彼は、ステープルドンすごい (でもオレのほうが頭良いぜ) と言いたいのだ。そしてその脱線が終わったら、結局ステープルドンのすごさについてはろくに語らずに終わってしまう。

ベスターだってそうだ。『虎よ、虎よ!』がすげえと思った。わかるよ、それは。十ページ以上もあらすじを丸写ししたいくらい好きだ。うんうん、むちゃくちゃだけどおもろいよねー。ナカーマ。でもさ、この章は宇宙SFの話ではありませんか。そうしたベスターのワイドスクリーン・バロックとしての価値が実現されるにあたって、宇宙というモチーフがどう有効に作用しているか、というのを論じないといけないんじゃありませんか? ところがそれがほとんどない。『モンテ・クリスト伯』を、宇宙モチーフ付け加えて換骨奪胎しました——うん、それはわかる。でもその換骨奪胎のために宇宙は不可欠だった、という話が少しでもないと、宇宙SFの章でそれを論じる意味があるの? ミクロの決死圏で人体内で換骨奪胎もできるんじゃない?

ところがレムは、そこで行われている換骨奪胎を細かく論じるんだけど、その宇宙との関わりは何も語らない。そして挙げ句の果てに、この章の最後では

しかし批評家の仕事は、価値がほとんどないか、アポロ的、ディオニュソス的な価値の貧しい親戚となる価値しかない場所でも、価値を探すことなのだ。

アポロ的な価値は、学問的、芸術的な価値ってことで、ディオニュソス的な価値ってのはつまり享楽的な価値ということ。つまり、『虎よ、虎よ!』は芸術的にも無価値で娯楽としても大したことないと言っているに等しい。だからベスターについての賞賛は、「こういうクズの中にもオレ様は価値を見出してやったぜ、批評家はつらいねー」という話にですよ、という自慢だ。

そんな無理して価値を探し出していただく必要もないんじゃないの? 積極的におもしろいぜと認めて、そこから出発できませんか? あらゆるところに「でもオレのほうが頭良いしすごいんだけどね」「クズだけどサルベージしてやったからありがたく思え」と言わないといけませんか? そこらへんが、この本のうんざり感の大きな源泉の一つだとは思う。

一読者、視聴者として「ぐわーっ、ろくでもないもの読まされちゃったぜ、なんだこれわー!」という怒りの評論は当然あっていいよ。ダメなところを冷静に指摘するのは当然ありだ。でもそれが自分の小才を誇示する手段になってしまうと、見られたものじゃない。

オールディス他『一兆年の宴』でのレム評はこうだ:

スタニスワフ・レムは、この作家の真価を歪めかねない一種の強烈な仲間褒めに浴する一方で、自作に対する本人の声高な擁護が、おおぜいに不快感を与えた。(中略) レムの作品はめったに退屈におちいらず、しばしば滑稽であり、賞賛すべき多くの要素がある。しかし、公平な視点からすれば、彼は(ダルコ・スーヴィンがくりかえし主張しているような)「今世紀で最も重要な作家のひとり」ではない。レムの反SF 的な姿勢に賛成するSF 界外部の知識人たちが、いかに彼を礼賛しようとも。(pp.204-5)

ホントなら、もっとストレートにほめられてしかるべき作家なのに、こんな言われ方をされちゃうのも、そういうことではある。ちなみに、注には多少の同情をこめつつこうある:

七〇年代中期には、レムに関する論争が荒れ狂った。アーシュラ・ル・グィンは、〈ヴェククー〉73(一九七六年三月号)でレムの二冊の著書を書評するにあたって、こう述べている——「最近、アメリカSF 界でレムの名が話題にのぽるときには、苦々しい口ぶりと、ときには憎しみをこめた冷笑がつきまとう。その理由 のごく一部は純粋な羨望にあり、また一部は無理からぬ反感にある。なぜなら、レムは不器用で論争好きな批評家であるからだ。そして、あとの大部分はフランツ・ロッテンシュタイナー(ウィーンに住むレムの代理人)が、熱心にレムを賞賛するあまり、この巨匠に比べればほかのすべてのSF 作家は無能なクズだ、と しばしば主張したことにあるー|この主張は事実でもないし、好感も持てない。しかし、羨望や、反感や、ロッテンシュタイナー氏を差し引いても、依然としてレムを(だれも本人に会っていないのに)酷評しようとする謎めいた根強い偏見がある。彼の著書は無視されている。彼は汚名を着せられている」(p.218)

が、本書を見ると、これはロッテンシュタイナーのせいではなく、レム自身の身から出た錆びだというのははっきりわかる。

つづく

これで、SFと未来学下巻の三分の一ほど。次の章は、形而上学とSF。SFと宗教とか神様とか。やっぱり、整理されない思いつきの書き殴りが続くみたい。ウォルター・ミラーJr『黙示録31xx年』が引き合いに出されるみたいだけど、すごく啓発的な視点や総合的な議論が展開される希望はいまやほぼない。

Khruangbin ”Maria Tambien"

全然関係なくYouTubeのおすすめで出てきたが、なんか気に入ってしまった。


www.youtube.com

仕事で行ったアジアの地方都市で、夜中にふとビールでも飲もうかと外に出て店に入ると、なんかボロボロのでっかい体育館みたいなところで、もう客が泥酔者五組くらいしかいなくて、バンドがその妙にでかいステージで弾いていて、だれも聞いていなくて、曲の終わりごとになんかパラパラと気のない拍手が起きるくらい。でもでもそれが妙に上手でなんか聞き入ってしまう。でも五曲目くらいで演奏終わって、もう撤収が始まり欠けて、だからステージにいってちょっと多めのチップおいてこっちも帰ろうとしたら、なんか喜んでくれてもう一曲やってくれて、それでこちらもちょっと幸せな気分で帰るけど、泥酔者どもはまだ、何をするわけでもなく残ってる、みたいな感じの雰囲気。

付記:

あれがおすすめで出てきたのは、この曲のオフィシャルPVがイランのイスラム革命批判になってるから、なのかな?


www.youtube.com

付記:

その後あちこち見ていたら、この人たち、本当に東南アジアのファンクっぽいのが源流みたいなのね。そういう印象になるわけだ。

レイモンド・チャンドラー『プレイバック』(1958) 全訳

長ったらしくていつまでも終わらないレム『SFと未来学』にちょっと疲れてきて、お手軽なものを。

レイモンド・チャンドラー『プレイバック』(1958) pdf 2.1MB

2026年1月6日に全訳あがりました。お年玉がわりに。既訳と比べてどのくらい改善されているかは、また注を見ればわかるはず。

これは翻訳権がちゃんと切れているのでご安心を。これについては、訳者解説 (だいたいできてる) で説明しておいたので、興味ある向きはご参照を。なお、最初に書いたときはアメリカの著作権更新の仕組みと本書の献辞についての理解が不足していて、まちがった記述をしてしまったので2026年になってから更新した分では修正してある。

なお、もしコメントをいただける場合、以下のadobeのサイトにあるやつにオンラインでコメントしていただいてもオッケー。

レイモンド・チャンドラー『プレイバック』(1958) acrobatサイト、オンラインコメント可能

なお多くの変換ミスを指摘してもらい、1/11時点でバージョン1.03にあがっています。ついでにGrokにダサい表紙を作らせました。(が、意外といいできだなあ)

スタニスワフ・レム『SFと未来学』7章「ロボットSF」:掘り下げが浅いというだけだなあ

はじめに

はい続き。スタニスワフ・レム『SFと未来学』第7章「ロボットSF」。

スタニスワフ・レム『SFと未来学 II』

あらすじ

前章もそうだが、何かこう体系だった考察が行われているわけではなく、いろいろ読んで思いつきを並べるだけ、という感じ。

冒頭、『未来のイヴ』の話がさんざん続く。ヴィリエ・ド・リラダンは、当時の技術的な範囲の中で、ハードウェアの考察も十分に展開し、そして完全に自分にベタ惚れする人間とまったく同じだが人間でない存在というものがもたらす矛盾と混乱についてもしっかり考えていた、と褒める。

それに対していまのSFは、それをまともに考えようとせず、ハードウェアのほうはいろいろ流行を取り入れて見るけれど、「人間とまったく同じ」というものがそのご主人様にどう影響を与えるか、「人間と同じ」というのがどういう意味かもまともに考えず、なんか都合のいいダッチワイフみたいな話にしてしまい、つまらんお笑いとネタに走ってテーマの可能性をまったく無駄にしているよ、との指摘。

それはロボットでなくても、電子頭脳とかの場合でも同じ。勝手なときには万能にして、一方でまったく融通の利かないアホな存在にしてしまう。自由意志もどきを与えるはずなのに、「悪いことできません」みたいな抽象的な条件つけて平気。アシモフのロボット三原則とかもまったく現実味ない。

アシモフはアイデアおもしろいのに、それを詰めないで話が面倒になるとつまらないオチで逃げて、しかも自分でそれをわかってやっている。作家たるもの、主題に真摯に向き合え! 逃げるな!

でもまあ、ダメではあってもそういう主題を扱うだけましかも。でももっと頑張ろうな。  

感想

十分に深掘りされていない、浅いところで終わっている——そういう批判はあるだろう。でもすべての話があらゆる可能性を深く掘り下げなくてはならないという妙な思い込みはなんで?

一つ一つの話は浅くても、多方面から浅い掘り下げをすることで、いろんな問題がジャンルとしては集合的に深く掘り下げられます、ということもあるのではないか、とぼくなんかは思う。フリーソフト業界で言うように「目玉が多ければどんなバグも浅はか」ってね。

だから次のような生真面目なものいいも、まったく共感できない。

なぜなら我々の見解では――芸術の伝統に倣って――文学創作者は、自分の優れた知識を敢えて隠す道徳的権利などないからである——絶対に。作品には、自分の全知性をもって奉仕しなければならないのだ。知性の一部を創作過程から排除してはならない。(p.44)

いや、ぼくはそんなこと思いませんから。勝手に「我々は」とか言って思ってもいないこと言わせないでください。そもそも多くの作家サマは「優れた知識」なんかお持ちとはとても思えんわ。それがTwitterでますますあらわになってきている。ま、だからこそ出し惜しみしてる場合じゃねえぞとは言えるかもね。

そして泰平ヨンのシリーズは、彼はこうした深いロボットや人工知能についての考察を妥協なく追求したものだと思っているらしくて、どんな話でも「おれの『泰平ヨン』ではこのテーマを見事に追求してやったぜ」というのが出てくる。うーん、そうかねえ。

というわけで、言われていること自体は、まあ別にまちがってはいないと思うけれど、そこまでドグマチックになる必要もないと思うよ。確かにあなたの言うような可能性はある。もっと探究すべきテーマも残っている。うん。でもそれを追求してないからって、ダメだ三流だクズだということにはならないでしょう。が、なんだかんだで「でもそういう問題扱うのはえらい」と褒められているので、比較的ほめているほうの章ではある。

あと、レムの守備範囲が広いのもよくわかる。アローの不可能性定理とかちゃんと押さえているのはすごいねえ。

つづく

次の章は、宇宙SF。またこういう、整理されない思いつきの書き殴りが続くみたい。ベスター『虎よ、虎よ!』のすごく長い引用とかあるみたいだなあ。

追記

あと、表現的にイマイチぴんと来ない部分があるんだよね。

SF は、根が広く張り巡らされた樫の木から、輝く優雅 な家具を作る者のようだ。それをやるには、まずすべての枝を切り払い、その切断部分に 慎重にやすりをかけねばならない。文学は伝統的に別のやり方で進む。それは過度に広く 広がる主題、かけ離れた問題と神秘的に絡み合ったものを恐れたりはしない。むしろそう したすべての絡み合い、すべての複雑さを頑張って引き出そうとする。そのためにお手軽 な成功を犠牲にすることも厭わないのだ。(p.51)

この文学とSFの対比、どうもSFが枝や根を払ってやすりをかけるのが、何かよくないことの比喩としてあげられているみたいなんだが、なんでそれがいけないのかさっぱりわからん。次の文学の話から考えると、枝を払ってそこにやすりをかけるというのは、面倒な部分をばっさり捨ててしまい、しかもそこにヤスリをかけてごまかしまですることである、許せーん、ということらしいんだが、輝く優雅な家具を作るためなら、それが正しい方法じゃん。なぜいけないの? 文学ははりめぐらせた枝も有効利用するよ、と言いたいようだけど、それでは家具はできないと思うので、比喩として何の対比にもなってないと思うんだけどね。

スタニスワフ・レム『SFと未来学』6章「災厄テーマ」:サドやドストエフスキーに劣るといって責められましても……

はじめに

はい続き。スタニスワフ・レム『SFと未来学』第6章「災厄SF」。

スタニスワフ・レム『SFと未来学 II』

下巻は、SFの主要テーマ別の論説となる。

ちなみに、本書の構成は変で、最初に予定されていた構造/社会/テーマというパートわけが途中でうやむやになるんだけど、わかりにくいしだらだらするので、その予定通りのパートわけをこちらで導入している。

さてこの第6章は、これまでの構造主義の話なんか一切忘れて、SFの大きなテーマの大災厄、地球滅亡の話になる。レム的にはもちろん、SFはクズばかり。ウェルズ、ステープルドンは人類の滅亡を描いてそれがもたらす様々な問題について考察して見せてえらかったけれど、その後の連中はバカばかりで、地球を破滅、人類滅亡の話をくだらないギャグのネタに使ってみたり、人類破滅なんか必要ないような安易なお話をするのに、単なるおどろおどろしさを加えるのに使っていて、嘆かわしいねえ、という話。

 

でもレムはそこで、なんか不思議な倫理観をみんなに押しつけようとする。なんか、おふざけで「人類滅亡しちゃいましたー」みたいなギャグは許せんのだそうな。それはやってはならないことなんだって、どうも、当時核戦争の危機が目前に迫っている状況で、それについて考察すべきこと、言うべき事がたくさんあるはずなのに、ネタに使うとは何事か、ということらしい。

そしてその後、大災厄においては人類の極限状況を描かねばならないということで、突然、サド (それとドストエフスキー) の話が延々と展開される。その分析自体は見事なんだけれど、なんでそんなものが出てくる? SFが(それも具体的にどれかわからず、レムが見かけたたった一つの作品)、そういう極限状況での道徳の転覆みたいな話を安易に扱っているのがけしからん、という話から、サドを見ろ、ドストエフスキーを見ろ、という話が出てくる。

 

でもさあ、そんな一作だけの話を元に「SFは〜」とでかい主語で言われてもなあ。さらに、サドやドストエフスキーに劣ると言われましても。だそうですよ、藤井さん! ドストエフスキーに勝るものを書かないとダメじゃないですか!!

そうでないと無価値の偽物のインチキのセコいショックバリューだけのくだらないウンコだそうですよ!

いやそんなこと言われてもねえ、そりゃサドやドストエフスキーには負けるだろうよ。でもさあ、だからって全否定されるべきってことにはならんだろー。

本章のあらすじ

あらすじと言ってもねえ、何かこう、明確な結論に向けた、構築的な理論展開があるわけではないのだ。例によって、レムがその場の思いつきをひたすらタイプして話を発散させるだけ。だからあらすじと言っても、上で書いたこととほぼ同じ。まあ細部を少し足す感じであらすじを作ると……

 

昔から人類破滅や世界の終わりはあったけど、いま (=1960年代) は冷戦の核戦争の危機のため、世界滅亡がずっとリアルになってるぜ! だから世界の滅亡を描くSFがでかいツラするようになってるけど、いい気になんなよな!

みんな破滅モノSFって、まず実際の核戦争とかに到る道筋をきちんと書けないし、また各戦争後に人類が昔と同じ歴史的な道筋をたどるようなくだらん話ばっかだよな! 『博士の異常な愛情』とか『渚にて』はちょっといいとこもあるけど、凡庸だわな。

さらに人類滅亡をネタにしたギャグSFみたいなのもいっぱい出ていて、嘆かわしい。ネタにしていいような話じゃないだろ。

核戦争以外の終末ものも、くだらない。話の本質には関係なくてショックバリューを挙げるために、派手な滅亡が持ち出されるだけ。

破滅が読者を惹きつけるのは、精神分析的な説明もときどき聞かされるけど、あの手の説明ってすべて後付のインチキな疑似理論でしかなくて有害無益。

破壊テーマが人気あるのは、ある意味でサディズムの表現みたいなもので、既存秩序の破壊を喜ぶみたいな話だ。でもサドは、破壊するだけで事足れりとはしなかった。知的な文化的秩序を破壊することで人間を貶めるという、理知的な歓びをベースにした高度な話がサドだ。ドストエフスキー『地下室の手記』にもそれが見事に出ている。SFはダメね。カミュ『ペスト』の足下にも及ばないわ。

訳者の感想

サドの分析とか、非常に鋭利で感心する……んだけれど、読み返してみても、そんなものがここに入る必然性が何も感じられない。途中に入る精神分析的な芸術理論への批判もごもっともなんだけど、ここにそれを書く必要は何もない。

確かに世界の終末を使ってもっとすごくシリアスな人類文明についての考察を行うことはできるだろう。それは大いにやってほしい。でも、そんなのを目指さない小説もある。さっきも言ったけれど、ドストエフスキーに負けてるといって、だからSFはすべて無価値です、ということにはならないのだ。志が低い、という指摘はその通りかもしれない。でもあらゆる作品が文明や人類の難問をグリグリ追求する超問題作である必要はない。サドがいいなら、サドを読めばいいのではないだろうか。でもサドとか、読んでて疲れるじゃん。

多くのSFが、同じ構造で設定を変えただけ、という指摘は正しい。でもね、だからダメとか二番煎じとかは言えない。設定変えたことで、それにより表現されるポイントが伝わりやすくなることだってある。

人類滅亡をSFのギャグねたにしてはいけないというけれど、その理屈もよくわからない。『銀河ヒッチハイクガイド』で地球はバイパス建設で一瞬でつぶされるけど、それが何か非難されるべきものだとは思わない。

ここも例によって、レムの変な生真面目というか純潔主義的な価値観が露骨に顔を出している。

ましてそれを、いま冷戦で核戦争勃発前夜だあ、ナチスのホロコーストがあったばかりだろう、それを茶化すことはまかりならぬ、みたいな議論というのは、それ自体が抑圧的なものいいじゃないの? むしろそのほうが、そのナチスその他に通じる道ではないの?

だから全体としては、確かに人類滅亡をもっとまじめに考察することはできるだろう、でもそれしかやっちゃいけないんですか? というだけの話で、このテーマについての考察として本当に意味があるんですかねえ。全体に、結局何なんですかという感じで、きちんとした理論がまとまっているとはとても言えない。レムの独善的な視点を開陳しているだけ、としか思えない。

次はロボットなんだが

次の章はロボットで、『未来のイヴ』の長い引用から始まっている。まあ同じような独善理論の開陳に終わるのは見えているんだが…… ま、お楽しみに

スタニスワフ・レム『SFと未来学』上巻完訳:5章はただの罵詈雑言だが一つ面白い点

はじめに

はい続き。スタニスワフ・レム『SFと未来学』第5章「SFの社会学」。

スタニスワフ・レム『SFと未来学 I』

これで『SFと未来学』上下巻の上巻は全訳完了!いやあ、よく頑張ったなあ、オレ。まともにきちんと読むやつがいるとは思えないんだけどね。

さてこの第5章、SFはクズばかりだとさんざん罵倒してきたこれまでの章を受けて、なぜそうなるのか、という話。出版社が商業主義にはしり、志の低い作家が手軽なクズを量産し、ファンどもはそれをほめそやすバカばかりで、しかも主流文学みたいな内部批評の構造がないから」というだけのことを、つまらない罵詈雑言と、現代ならキャンセル確実な差別用語まみれで何十ページもわめきたてるという、どうしようもない代物。だからAI翻訳でも面倒なところはなくて、チェックもすいすい。すばやくできました。やれやれ。なんだが……

最後にひとつ、ちょっとおもしろい論点が出てくる。それはレム自身のこれまでの罵詈雑言だのいかにも分析めいた鈍重な試みをすべて自ら否定しかねない点。でもそれを書いてしまうのが、レムのおもしろいところというかバカ正直なところというか。

本章の中身

中身は上に書いただけのことで、それ以上まとめるまでもないが、その書き方ときたら。こんな具合。

この「狂信者」の年次大会と米国での最高SF作品のコンテストを外部の観察者が見ると、みんながお互いをヨイショしあっている、苛立たしいほどバカな家族の集いを連想してしまうこともある。悪意ある観察者なら、これが時に、せむしとびっこしか出ない美人コンテストを思わせるとさえ言うだろう。そこには醜悪さが満ち満ちているのに、みんな精神的留保を保つことで、そのカケラすら見て見ぬふりをしているのだ。アンドレイ・キヨフスキは、L・ティルマンドの著作に捧げられた批評的エッセイで、「鼻くそ坊やの天才」および「白痴の賢者と哲学者」という用語を考案した。(中略) 高位の創造的努力は低位の領域とは独立して活動する。このような関連は芸術外の領域、つまり科学的領域でも見られる。この領域では、科学の存在――属性なしの、通常の普通の研究作業として――は頑固な擬似科学を伴う。それは「平らな地球」などの協会の存在、今日アインシュタイン理論を倒そうとする宗派、昨日なら円を四角にしたり角の三等分に取り組んだりした連中などにあらわれている。実際、芸術的・認識論的に本物の価値を作成する精神的能力はないのに、偶然ある程度の才能――必ずしも狂気的ではない――で目立つ人々がいる。彼らは本物の宇宙論、物理学、哲学、または文学を営めないため、お手軽な手の届く代理物と片手間の創作で、自分の創造的不安を解消するのだ。(p.179、強調引用者)

で、SFは完全なゲットーを作って内輪だけでヨイショしあってる閉鎖的な集団で、すべてが安きに流れている、という話。他の分野だってそうなんじゃないですか? それにあんた、なぜ主流文学ばかりを引き合いに出すんです? 推理小説、ウェスタン小説、ロマンス小説、そうした分野との比較はないの? ないんだよね。それははからずしも、レム自身のコンプレックスの露呈でもある。

さらにもう罵倒をひたすら重ねたいだけで、SFは疑似科学寸前だといってキャンベルのサイオニクスやヴァン・ヴォークトの支持するハバードのダイアネティクスの妄言を持ち出して見せる。そしてマーチン・ガードナーの疑似科学批判を、SF批判に我田引水。

 

そして、非SFの評論家がSFについて理解しようとした、なかなかよい文章が紹介されている。グリーン「科学と感性」という論説で、理系と文系では世界のとらえかたがちがうよね、という話をして、SFは理系的なとらえかたをして、個人よりも人類全体みたいな単位で話をしたがるのだ、と指摘。SFに対する主流文学読者の拒否感は、そのキャラが平板でパターン化されている点が大きいけれど、それはまさにSFのやろうとしているところから出ている話で、いずれそうした感性が文学にも新しい方向性をもたらすかも、というものだ。おおむね、うなずける話ではある。(pp.180-1)

ところがレムはそれに噛みつく。キャラが立ってるとか古くさいこと言ってる、いまの文学はそんなんじゃねえんだ、そんなことも知らないのか、ボルヘスを見よ、カフカはどうだ、そんなピントはずれの擁護しなきゃならんとは嘆かわしいぜ、しかも理系はSFっぽいのがいいというなら、理系は文学鑑賞能力がないってことか、ふざけんなと。

だれもそんなこと言ってないよ、大きな傾向の話をしてるんじゃん。キャラについてだって、あんたこれまでヴァン・ヴォークトの登場人物は科学者も警官もまるで同じだとかケチつけてただろうに。目先の相手に噛みつくためなら、自分の主張の整合性までつぶしちゃうって、ADHDの典型だよな、レムは。

 

SFは1970年代とかは強い文学コンプレックスがあって、本章で批判されてるみたいな「SFは未来の文学だ!」みたいな、変な強がりはあった。『ユリイカ』だの『カイエ』だのがSF特集すると「おれたちもそろそろ認められたぜ」みたいな雰囲気が漂ったりはしたらしい。また酸っぱいブドウで、「お高くとまった文学なんざもう古いぜ、SFこそ大衆の文学なんだ」みたいなことを言う人もいた。大学SF研まわりでも「わーれらが/国民の文学SFは〜」みたいな歌を先輩たちが歌っていた。そういう時代なら、こういう文章も響く面はあったのかもしれない。そしてそういうコンプレックスがあればこそ、『ニュー・ワールズ』のニューウェーブSFという運動も出てきたわけだ。

ちなみに、この本でレムが言っていることは、山野浩一がNW-SFで書いているようなSF批判とまったく同じ。それはそれで懐かしいものではあった。

でもなあ。もうそれから50年近くたった今となっては、あんた何言ってるの、という感じのほうが強い。そしてそれが、SFが上手くなってきたこと以上に、レムがこの文章でやたらに評価している、商業主義に毒されずきちんとした批評機能が機能して適切な選別が行われているはずの、主流文学の凋落で起きたというのは、たぶんレムが予想だにしなかったことだとは思う。

ひとつ面白いところ:レムの敗北宣言

が……本章には、ちょっとおもしろいところが一つある。以下の部分だ。

しかしヴァン・ヴォークトは優れた物語もいろいろ、特に短編を多く書いている。それに加え、すでに言及した『宇宙船ビーグル号の冒険』のような長編は、魅惑的な断片を含む。だがその理由はずばり何だろうか? (中略) この作家は時々インスピレーションのひらめきを持っていて、それによって最も奇妙な組み合わせの混合物に生命を吹き込み、読者を架空世界へと連れて行けるのだ。ここで本書の理論のかなり微妙な点に触れることになる。一部の作者は、素晴らしい技術の押しつけがましい山だの、怪物、銀河戦争で用いられた原子爆弾とロケットを大量に並べ立てるが、退屈しか生み出せない。だが一部の作者は、表面的に非常に似たガラクタを結合し、そこから示唆的なビジョンを構築するのだ。これは――すでに述べたように――理論にとって難しい点である。なぜなら、二つのこのようなテキストの違いがどこにあるか、誰も知らないからである。構造主義のメスを使えば、本質的な区別を摘出できたように見せかけることはできるが、それでは方法的誠実さを小手先のごまかしで置き換えただけになってしまう。なぜなら、このようなテキスト間に一般的な違いはないからである。(p.188, 強調ママ)

あんだけ悪口を並べておいて、レムはヴァン・ヴォークトの小説がおもしろいし、なんか不思議な魅力があることを認めざるを得ない。そしてそれが、これまでの「分析」なるものでまったくとらえられないことを認めざるを得ない。

ここでカート・ヴォネガット『タイタンの妖女』の内容を正確に再現したら、A・ベスターの『虎よ、虎よ!』と筋書きでは似たものになり、どちらもつまらない話に見えるだろう。しかし、ベスターの小説は、スペースオペラの一種という点では『タイタンの妖女』と親縁性を持つが、魅力的である。一方『タイタンの妖女』はかなり退屈な読み物だ。『タイタンの妖女』の作者は、知性の面ではベスターを上回る可能性すらある。才能が知性の支援なしでも文学で時々感動を生むことはあるが、才能のない知性は文学作品においては、残念ながら読者をうんざりさせるだけだ。しかし「才能」と呼ばれる奇妙な存在に頼るのは不適切だ。なぜならすでに恐ろしく研ぎ澄まされた構造主義の道具があるのだから。しかし、どうすればいいのか? メスがどれほど鋭くても、凡庸なテキストと優れたテキストの秘密の違いは捕らえられない。すると残るのは、恥ずかしい印象批評だけとなってしまう。それは通常は理性的な論理に基づくものではなく、読者の言質に基づくしかないのだ。ヴァン・ヴォークトも、時々読者に魔法をかける作者に属するのだ。(pp.188-9, 強調ママ)

ベスターについても同じ評価。彼の書きぶりは魅力的だ。それはどんな分析でもとらえられない。もちろん、あんた『タイタンの妖女』のおもしろさがわかんないのか、というのはおいておこう。そしてこれに続いて、魔法にかけられた読者についての嫌味があれこれ並ぶのは、悔し紛れのアレだ。それでも、彼はそういう魅力があることを知っている。うん、レムくん、わかってんじゃん。

これはほぼ、レムの敗北宣言ではある。500ページもある本の最後の最後で、ちょろっとこういう敗北宣言でお茶をにごすのはどうよ、とは思う一方で、それをわざわざ書いてしまうというのは、レムのADHDっぽさではある。SFがジャンルとして、下手な小説ばかりでも成立しているのは、そうした変な魅力を引き出しやすい面があるから、というのは否定できないことだとは思う。それが何なのかはわからないんだけれどね。

ちなみにその昔、以下のインタビューを川又千秋が読んで、どこかに感想文をのせていた。

sfwj.fanbox.cc

見つけた。川又千秋「スタニスワフ・レムの冒険」(レム『宇宙飛行士ピルクス物語』(1980)解説)『夢意識の時代』(中央公論社、1987) pp.156-7 だ。

川又が注目したのは、この中の「スター・ウォーズ」に関する部分。例によってレムは、幼稚だウェスタンだ可能性が全部つぶれてるろくでもないくだらないと全否定の罵倒をしている。でも……

それでも彼は、「スター・ウォーズ」を二回も見たのだ、というところを川又は採りあげていた。この罵倒のドグマ性と、それに抗おうとするSFの指向との間でレムが板挟みになっていることを川又は述べている。二回も見たのはその矛盾と折り合いをつけるためだった、と川又は匂わせる。

だけれどそれ以上に、二回も見たことをもっとストレートに捕らえてもいいだろう。レムは「スター・ウォーズ」の魅力に何かしら反応しているのだ。やっぱなんだかんだでおもしろいのよ、あれは。

そしてその反応は、ここでヴァン・ヴォークトやベスターに反応しているのと同じ部分においてだ。でも、それを表立って認められないのか、理論化できないのに苛立っているのか、全否定して見せなくてはならない。それを、レムのストイックな部分と見るか、頭でっかちのやせ我慢の強がりとみるか (いやこの二つは同じことか)。

 

おしいねえ。それを「理論化できない」と投げ捨てるのではなく、もうちょっと大事にする手もあったのでは、とは思わなくもない。そうしたら本書も、もう少し広がりが出てこんな無惨に価値を失うこともなかったのではないかな……

まあこれは後知恵もいいところの、岡目八目ではある。

この先

で、これで上巻は終わり。下巻は……やんのぉ? まあ乗りかかった船ではある。そしてこの最後の、なんだかわからないけど生まれる魅力、という気づきが、今後の分析で多少なりとも活きてくるのか、というのは興味あるところなので、ぼちぼちやっては行こう。

ついでに、本書下巻の最後の章は「メタファンタジア」なる邦題で翻訳がある

そこに訳者がつけた解説が、いつもながら何言ってるか意味不明の要領を得ないものだったし、これまでの流れから見ると、たぶん実際の文章もかなりこけおどしで、大したこと言ってないと思う。それも一応確認したいところではあるので、一応はやるでしょう。しかしなあ。

 

でも下巻の大半は、テーマ別分析となる。たぶんどれもすべて「この作品は十分に考察がない、未来の宗教やセックスについて突き詰めて考えていない、安易だバカだくずだ」という罵倒が並ぶのはだいたいみえてるんだよねー。まあいいか。

スタニスワフ・レム『SFと未来学』4章:結論ありきの独善的な決めつけばかり。

はじめに

はい続き。スタニスワフ・レム『SFと未来学』第4章「構造主義から伝統主義へ」。

スタニスワフ・レム『SFと未来学 I』

前章では、構造主義は役にたたない、という結論になった。この章の冒頭では、作品の中に見られるいろんな対立構造とかを増やしても作品の本質には迫れない、という話が繰り返される。作品の意味を見なくてはならないんだって。

cruel.hatenablog.com

オッケー。で?

本章の中身

これまでのところは、まず全体の概要を説明してから、細かい要約をしていった。でもこの章は短いので、それができない。だからいきなり中身を順番に解説していこう。

まず、作品の意味を最大限に理解するためには、それがどんな作品か、何を指しているのかについて読者は判断しなくてはならない。文中で「意味論的アドレス」なるものがやたらに出てくるのはそういうところだ。

これはどういうことか? その作品が、おとぎ話なのか、寓話なのか、比喩なのか、アイロニーなのか、リアリズムなのかについて読者が判断しなくてはならないということだ。そして、それはそこで採用されているお話の構造から判断するのだ、というようなことをレムは、非常に要領を得ない形で述べる。カフカ「変身」を文字通りの昆虫人間の話だと思うのは「テキストの意味の社会的に安定した構造から見て馬鹿げている」(p.155) とのこと。

まあそういう判断はするかもしれないねえ。で?

で、使っている構造的パターンと作品との間には、3種類の関係があるんだって。「作品の誕生に立会った構造的パターンと作品自身との間には、三種類の関係があり得る」(p.156)

 

  1. パターンを拝借しつつ、それを明言しない。
  2. パターンを拝借したことを公言してみせる
  3. そして三つ目は……自律的世界 (パターン) の構築。

 

ただしレムの言っているのがこの三つだということは、普通に読んでいたら決してわからない。この2つめのパターンの例としてコードウェイナー・スミスについて延々と書いているうちに、レムは自分が何を書いているか忘れて、話がどんどん流れてしまい、いつまでたっても三つ目が出てこないのだ。

話は構造と関係ない方向に進む。コードウェイナー・スミス「シェイヨルという名の星」では狼の脳を宿した番犬ロボットが出てくる、という本筋とは関係ないエピソードについて、これはおとぎ話的な狼のイメージをロボットという科学的な装いに接ぎ木しようとする意味論的なアレコレなんだ、という話が続き、自分もそれを『ロボット物語』でやってそれによりユーモアの効果が得られ云々、という自慢がまた5ページ続く。

 

8ページにわたり、全然関係ない脱線をしたところで、話はやっと構造に戻ってくる。お話作りで、その下敷きになった構造/パターンが透けて見えると興ざめなので、自分が引用拝借しているのを公言してパロディ化してみせたほうがいいね、だからオールディスの作品は下手で自分の作品はえらいんだ、とのこと。そしてようやく、三つ目の、自律的世界/パターン構築にやってくる (p.164)。でもこの頃には、これが「3種類の関係があり得る」の一つだ、なんてことは読者はすっかり忘れている。ぼくも後から三つ目はどこにあるのか探そうとしてやっと見つけ出したくらい。

自律的世界の構築は、自律的世界なのでこの世界とは独立に存在し、したがってこの世界に対する意味は持たない。だからその世界自体が整合性を持っているかどうか、正確かどうかで判断される。その例としてファーマー『恋人たち』がある。人間女性に擬態して人間男の精子をもらい子供を残す異星人を描いているが、そんな進化はナンセンスであり得ないので、まったくダメダメの笑止千万。

自分も『泰平ヨン』で変な進化を描いたけれど、あれは明らかな戯画化だからいいのだ。

ただしジェイムズ・ブリッシュ「我らが時球」(This Earth of Hours) はうまく書けている (p.170)。地球人が不時着した星は、イモムシ星人たちが住んでいるが、そのイモムシ全員がテレパシーでつながり一つの知性体となっていて、人間の脳はがんのような異常物とされているという話。これは話が風刺的な雰囲気を持っているから、科学的な正確さは問題にしてはいけない。余計な説明文をあまり書かなかったことで作り物めいた感じも薄れている。

ディレーニ『バベル17』(p.171)はこれに対し、地球が戦っている敵がだれで何を求めているか説明がなく、地球の状況について詳しい説明がないため、文明批評の役割を果たさず、言語兵器バベル17が精神操作手法への洞察にもなっていないので、扇情的なスパイ小説でしかない。異世界ものはこの世界とは関係を持たないので意義を出しにくい。

例外がSF自身の内部構造に向けられた批評 (p.173)[読者の心の叫び: ここ、話の流れがまったく見えない。何の例外なんだ?]。その例としてベスター「The Starcomber」がある。[読者の心の叫び: これも延々と引用されているけれど何を示したいのか不明。狂った画家が異世界転生的な夢を次々に見るが最後には自分で自分の道を選び取らねばと悟る、という小説だが引用部分ではそれがまるでわからない]。SFは人々を本当の未来に直面させるより、願望充足的なおとぎ話に堕する方が多い。次章ではなぜそんなふうになってしまったかを分析する。

 

(ベスター作品は珍しく未訳。以下で読める。

https://nyc3.digitaloceanspaces.com/sffaudio-usa/mp3s/5271009ByAlfredBester.pdf

感想:支離滅裂ではありませんか。

例によって本章の書きぶりもやたらに要領を得ない。話はあっちとび、こっちとび、まったく構成も考えられていない。そしてすべて「〜でなければならない」と、理由も示さない断定ばかり。でもほとんどは、それはあんたが思ってるだけでしょ、としか思えない。

本章でおおざっぱに提示されている「正しい」読み方は以下の通り。

 

  • まずその話の様々な要素と社会的な認知に基づき、それがリアリズムか、寓話か、おとぎ話か、パロディか、風刺か等々を読み取ろう。

  • 次にその話の構造を見て取ろう。

1 既存構造を拝借して隠しているか?

2 拝借してそれを公然と顕示し、パロディ化しているか?

3 新しい構造を作ろうとしているか?

  • 新しい構造の場合、その世界に整合性はあるか=科学的に正しくて細部を詰められているか?

 

そんなふうに検討をすべきだ、というのがこの章の主張らしきものとなる。が……

まず途中の、既存構造パターンを使っているかどうかの部分。使っていたらどうなの? 何かそれを拝借するときには、それを隠すのはだめでそれを公然と述べてむしろパロディ化するくらいでないとダメだという。どうして?

これは一切説明されていない。

オールディス「確信」は既存構造パターンを使っているのを隠そうとしたからダメだ、という( p.164)。でも具体的にどんなパターンを使っているのかは示されない。読んでも、どこを問題にしているのかわからない。レムは、その設定——人類の運命をハッタリに賭けようとするというもの——が荒唐無稽だと非難する。でもそれは構造パターンを隠しているためなの? それが拝借した構造パターンって何? まったくわからない。ジェームズ・ボンドがイギリスの運命を賭けて悪党とポーカーするみたいな話のこと? 自分の泰平ヨン作品はそれをパロディ化したからすごいんだと言うけど、オールディスのものとはずいぶんお話の構造がちがうように思うし、何を言いたいのかわからない。

構造だって色々だ。主人公が敵を倒しました。これは一つのパターンだ。でも五人組の戦隊ヒーローが敵を倒しました——これは既存構造パターンなの、新しいパターンなの? それはどういう粒度で話をするか次第ではないの? 物語のパターンなんてだいたいすでに出尽くしているとも言われる。そのパターンを「隠す」って具体的にどういうこと? 「あたし、このパターン使いますからねー!」と宣伝しなきゃいけないってこと? オールディスだって別に隠してるわけじゃない。いちいち宣言しなかっただけだ。

一方、コードウェイナー・スミスは「酔いどれ船」ではっきりランボーを参照しているから、パターンを公言しているんだという。でもさ、ほとんどの人は「酔いどれ船」なんか読んでない。「シェイヨルという名の星」はダンテ『地獄編』を参照しているというけど、スミスがそれを明記したのは短編集の収録するときの序文での話だ。作品自体に「これ、ダンテのパクリですんで」なんてことは書いてない。本当に参照した構造パターンを公言していると言えるんですか?

コードウェイナー・スミスはおもしろいんで読んでね。

そして構造を拝借しましたと宣言すればそれでいいわけ? 別にそれだけでいい作品になるわけないよね。じゃあ、構造を見ることに何の意味があるの? レムはコードウェイナー・スミスをやたらに誉める。既存構造に何か審美的な要素を詰め込んでいるからいいんだって。でも前の章で、バラードは審美的に構築しているけど死と破滅を美化しているからダメと言ったよね。審美的ならいいってわけじゃなかったんでしょ。それはここでは問題にしないの? そしてスミスはSFじゃなくてファンタジーだから科学的厳密さは追求しなくていいようなごまかしをする。なぜ? その理由はまったく書かれない。

 

冒頭の、作品の性質を読みとって解釈すべきだ、カフカを文字通りの昆虫人間の話と読んではいけないという話も、わからないではない。でも、それってよく考えると、そんな簡単な話だろうか。その作品が風刺か寓話か皮肉か——それってそんなカッチリ読み取れるものなの? それを教えてくれるのが、ブリッシュ作品についてのレムの妙な絶賛だ。

 

レムはブリッシュ「我らが時球」については、そこに風刺的な調子があるから科学的正確さを問題にしなくていいんだ、と述べる。が……この小説、実際に読んでみると、ぼくは別に風刺的な調子はうかがえない。異星に落ちた軍人たちが、惑星全体で一つの知性体を構成する生き物と出会って戸惑う話で、話としてはそれっきり、特にオチもなく書き殴られただけに思える。大した作品じゃない。言っちゃ悪いが、ブリッシュなんてそんな高度なアイロニーだの皮肉だのをちりばめたお話なんか書く作家じゃないよ。

ここにあるから、興味ある人は読んでほしい。

https://s3.us-west-1.wasabisys.com/luminist/EB/B/Blish%20-%20Galactic%20Cluster.pdf

もちろん、ぼくの読みが正しいとは限らないけれど、いったいレムはこれが何を風刺していると思うんだろうか?

ぼくは意地が悪いので、これについては別の勘ぐりをしてしまう。無数のイモムシたちが完全にテレパシーでつながりあい、惑星全体で一つの、人間の理解できないまったく異質の知性を形成し、人間がそれに出会って戸惑う——これって何か連想しない? これ『ソラリス』だよねえ。

レムはこれを見た瞬間、「ソラリス」と同じだと思って親近感を感じたんじゃないの? そして、それを科学的に詰めようとしたら、「ソラリス」についてもきちんと「科学的」に詰めないといけなくなるよねえ。それを直感的に避けようとして、ありもしない「風刺」を後付でそこに読み取って、「いやこれは科学的に考察しなくていいんだ」と逃げたんじゃないの? まあこれは邪推だけれどね。

ただ、何かが風刺かとか寓話か、というのは読む人によっても変わるというのはまちがいないところ。レムはそれを「社会的に安定した構造」に基づいて判断しろというけど、その作品がどんなふうに社会的に理解されているかなんて、どこを見ればわかるといふのかしら? 「構造パターンの拝借」も、その拝借されたオリジナルのパターンを知らない人にとっては意味があるだろうか?

一方、彼はファーマー『恋人たち』やディレーニ『バベル17』にはえらく手厳しい。あれが書いてない、ここが不正確、これが妥当性を欠くといって。でも『恋人たち』『バベル17』に、多少なりとも寓意や風刺を読んではいけませんか? 風刺とか寓話とか、そんなはっきりわかれるものですか? 多少の風刺をこめたリアリズムだってあり得るんじゃないの? リアリズムだって、どのレベルを描きたいかで描写はかわる。完全な整合性なんかあり得ないってご自分でもおっしゃってるじゃありませんか。

リアリズムだって、『恋人たち』は変な進化を遂げた昆虫生物の話を通じて、地球上にいる変な寄生生物の可能性を指摘している面だってあるのでは?「バベル17」は言語と人間行動の関係に思いをはせるきっかけとなることだってできる。荒俣宏は名著『理科系の文学誌』で、そこに描き出される言語の世界の広がりを実に楽しく教えてくれた。心を閉ざして読めば、なんだってこの世とは関係なくなる。まったく異世界を描いているから、それ自体で完結してあらゆる面で整合してなきゃいけない、というのは、レム自身が非常に狭く作品を捕らえて、それに対して自分の偏狭な基準を押しつけているだけ、ですよね。ほんと、『ソラリス』にこの基準を適用してみせてよ。全否定になると思うなあ。

 

ということで、ぼくはここでのレムの主張にほぼ説得力を感じなかった。全部、後付のためにする罵倒ではありませんか。コードウェイナー・スミスの絶賛は、驚いたけれど非常に共感した。そして、ここまで読める人が、他のところであんなトンチンカンな議論を展開して悦にいるというのは、首を傾げざるを得ない。

つづく

次の章では、SFがこんなダメな作品ばかりなのは、SFがゲットー化してバカがバカのためにバカな作品を量産することでまわってるから、という罵倒が、聞くに堪えないようなひどい罵詈雑言でひたすら続くもの……と言っている間に終わりましたー。

cruel.hatenablog.com

まあこんな具合です。