レム『SFと未来学』訳者解説

"「SFと未来学」第1巻・第2巻の表紙が並んだ画像。左側は第1巻「構造と社会」で、機械的で幾何学的なオレンジ・青の円形アートワーク。右側は第2巻「テーマ別分析」で、青とオレンジの可愛らしいロボットが両手を上げたイラスト。どちらも作者スタニスワフ・レムの名前が記載され、日本語訳は山形浩生+Grokと記されている。
SFと未来学 上下巻
"

しばらく前にあげたレム『SFと未来学』全訳、訳者解説があがったのでアップ。

レム『SFと未来学』訳者解説

実際のレムの翻訳は以下にあるが、これは委員会の諸賢しか読んではいけません。

スタニスワフ・レム『SFと未来学 I』

スタニスワフ・レム『SFと未来学 II』

だが訳者あとがきはだれでも好きに読んでくれてかまわない……と言ったところで、どうせダウンロードして読む人もいないだろうから、長文だけれど以下に貼り付けておきましょう。

レム『SFと未来学』訳者解説

1. はじめに

本書はStanisław Lem Fantastyka i Futurologiaの全訳となる。ベアテ・ゾルガー&ヴィクトル・ツアッキ(上巻)、エッダ・ヴェルフェル(下巻)によるInsel/Suhrkamp社刊独訳 (1977/1980, 1984)からの重訳である。ポーランド語の原著は1970年に刊行されているが、最後の「あとがき」ですでに出たものに対する反応への弁明が出ていることや、1969年に出たル・グウィン『闇の左手』についての記述の付け足し感などから見て、初版の訳ではなくその後の改訂版の独訳だろう。山形が翻訳の底本としたのは、Suhrkamp版 (1984)のペーパーバックだが、どの版をもとにしたか明記されていない。1972年あたりの版だろうか? 著作権ページでは原著が1964年刊になっていて、明らかにまちがいだし、書誌的な情報ははっきりしない。

"木製デスクに乗った Lem "Phantastik und Futurologie I/II" ドイツ語ペーパーバック版、I巻が薄い紫、II巻が濃い紫、どちらも表紙の下1/3にレムの斜め前からの顔の白黒版がついている。"
使った原著 Lem "Phantastik und Futurologie I/II" ドイツ語

2. この翻訳の経緯

さて本書は、一部では名のみ高い伝説的な本ではある。独訳ペーパーバックの上下巻あわせて1200ページのサイコロ本というか鈍器本だ。スタニスワフ・レムが、既存の(当時)SFを徹底的に読み込んだうえ、壮大な理論体系を構築し、それに基づいて特に欧米SFが、SFの可能性をほとんど無駄にしているゴミクズのかたまりだと罵倒しまくり、さらにはその理論分析の果てにSFが向かうべき道筋をすべて分析し尽くしてしまったため、もはや創作をする必要もないという境地に陥り、一部のシリーズ短編を除くと1987年の『大失敗』まで創作からほぼ手をひく原因になったらしい。  そう聞かされると、いったいそこに何が書いてあるのか、と好奇心がそそられるのは人情だろう。欧米SFがまったく活用していないというSFの真の可能性っていったい何? そんなものを解明できる、SFすべてを網羅する理論体系って、いったいどんなもの? そして活用されていない可能性に気がついたなら、それを使っていっぱい作品を書いてくれればいいのに、と思うんだけれどそれでほぼ絶筆してしまうってどういうこと?

 ところが……これまで日本では、その中身に何が書いてあるかについては、一切紹介がない。いやホント。上で述べた周辺情報は繰り返し聞かされるが、いったい何が書かれていて何がすごいのかについては、ほぼ何も紹介がない。本書の最終章の「メタファンタジア」邦訳はあったが、あの部分は後で説明するように、本書のまとめにも紹介にもまったくなっていない。あれだけ読んでも何もわからない代物だ。そして、日本でのレム紹介の集大成になると思われたレム・コレクションにも、ろくな内容説明すら含まれないというていたらく。

 ええい、もういいよ。待ちくたびれたよ。自分でやるよ。もう30年前に買ったドイツ語版、ずっと本棚の肥やしになっていたが、おりしもAI翻訳が実用レベルに達してきたことだし、やったろうじゃないの。すでに『技術大全』で、英語からの重訳ではそれが十分に可能であることは確認した。ドイツ語だってできないはずがない。

 

 ということでできあがったのがこれだ。

 

ではお読みアレ……と言いたいところだが、こんな大著、手に取るだけでも勇気がいる。中身について多少の示唆が欲しいだろう。また、読まずにお手軽なアンチョコがほしい人もいるだろう。そこで段階を追って本書の中身についてまとめよう。

3. 本書の大きなポイント

本書を読もうなどという人は、たいがい上のような評判をどこかで聞きかじったんだろう。そしてその好奇心の大きなポイントは次のようなあたりじゃないだろうか。

  • 本書は本当に、SFについての総合的な究極理論を構築しているの?
  • その理論とはどんなものなの?
  • ところでこのタイトル「SFと未来学」ってどういうこと?

これまでの紹介を読んできた人なら、まず知りたいのはそもそも本書が本当にSFについてのすごい理論体系を構築しているのだろうか、という点だろう。そしてこんな疑問を思いつく人々のほとんどは、その答えは当然YESだと思っているはずだ。だってあんた、1200ページ使って壮大な理論体系ができていないなら、何してるのよ。

そしてもちろん、YESであるなら、そのすごい理論をかいつまんで教えてくださいよ、と思うのは人情だ。厳密な理論体系そのものはおっかなそうだけれど、その大枠くらいは教えてほしいよね。そして知ったかぶりくらいはできるようになりたいところ。

そしてもう一つ、たぶん多くの人が気になるのはこの題名だろう。『SF——その理論と実践』とか『SF批判序説:ポスト構造主義の立場から』といった題名であれば、なんとなく中身もわかりそうだけれど、未来学? ほとんどの人は未来学なんて忘れた……という以前にそもそも聞いた事がないだろう。未来についての学問? つまり未来予測? でもなぜそんなものがわざわざ題名に入っているの? だってSFを未来予測の一種だと思うなんて、SF読んでない素人だけだよね? 『スター・ウォーズ』や『機動戦士ガンダム』(ましてジークアクス)が未来予測だとか思う人はいないよね? まさかあの『ソラリス』の名手、東欧から来た男レムが、そんな幼稚なSF観を持っているはずはないよね? そう思うでしょ?

ところが恐ろしいことに、まさにレムはそういうSF観を(も?)持っている。少なくとも本書の理論は、それをベースにしている。そして本書の理論は、それをベースにした非常に幼稚で偏狭なものなのだ。理論はある。だが、それは一般に期待されるような総合的、体系的なものではない。未来予測(または未来についての考察)の手段としてのSFという非常に偏狭な見方に基づいた、偏狭な理論が構築されているだけだ。

といってもにわかには信じられないだろう。だから本邦初の、本書の中身のきちんとした紹介をここで行おうではないの。

4. 本書の好意的なあらすじ

では本書を章ごとに概説しよう……と思ったが、それは少し後回しにしよう。というのも、本書はレムの常として構成が劣悪で、やたらに長いこともあって章ごとのまとめだけでは結局これが何の本なのかさっぱりわからないからだ。 そこでまず、本書の基本的な主張を整理し直し、レムの主張の骨格を把握してもらおう。

本書は偏狭な見方に基づいた偏狭な理論が構築されているだけ、と述べた。だがレムには、レムなりにそういう偏狭な理論を延々と展開してみせる理由がある。まずは、彼の理論を最大限に好意的にとらえて説明しよう。

レムの考え方では、現代は科学技術の発展によりこれまでの文学の前提が変わってしまった時代だ。これまでの文学は、人間の死すべき運命を前提にして物語が構築されていた。人は必ず老いて死ぬ。異性と出会い、快楽を餌にセックスして子供を作る——これは生物学的な人類の使命であり、そしてそれにあわせて各種文化が構築されてきた。文化は人間の生物学的な衝動と集団生活のバランスを構築するために宗教的、社会的な規範(これはしばしば、何の根拠もない恣意的なものだった)を作り、それを通じて人々の生活を律し、それが価値観を決め、それに反抗したり従ったりするのが人間活動の本質だった。文学はそれを様々な視点で描くのが仕事だった。

ところが現代はそれが科学技術と実証主義のせいで変わった。セックスしなくても人は快楽を得られる (ポルノなどで)。子供も人工授精で培養できる。セックスを取り巻く文化規範、その他あらゆる文化や社会・宗教の規範は、すでに実証的な根拠がないことが次々に示されている。その中で、いまや価値観の基盤が次々に揺らぎはじめている。それに代わるものも生まれていない。すると、それを前提としていた (それを受け入れるにせよ反抗するにせよ)文学も、もはや立場がなくなり、やることがなくなってフリーセックスだのドラッグだの言語実験だのに走るしかなくなっている。

そこへ飛び出た救いの星がSF……のはずだった。

SFは唯一、そうした科学技術の発達による、文化社会の前提の変化を射程に入れられる未来の文学なのだ、というのがレムの主張だ。でも別にそれをやってもいいけど、やんなくてもいいんじゃないですか? いいや、そんなことではダメだ、とレムは怒る。なぜかといえば、科学技術の進歩はますます加速しているから。そして科学や各種学問の専門特化とともに、それが持つ社会文化・人間的な影響の考察も専門特化している。それが未来学で、各種未来予測をやるハーマン・カーンやアルヴィン・トフラーみたいな連中がでかいツラをして大量予算を獲得し、ランド研究所だのハドソン研究所だので未来予測をしている。が、そんな連中の予測はことごとくはずれている。それなのに、そいつらが未来の方向性を決めてしまおうとしている! そんなエリート主義、しかも当たりもしないエリートどもの手に人類の未来を任せてはならないのだ! ハインラインの未来史のほうが、実はずっと原子力や戦争の未来を当てている。つまり未来考察——そして構築——の民主化のツールとしてSFは存在しているのだ! それをくだらんスペースオペラだの意匠を変えただけのメロドラマだの、ましてもはやお先真っ暗のブンガクのまねした言語実験のニューウェーブだので浪費している暇はないのだ!

そして本の残りは、こうした重要な役割をまったく果たしていないのんきなアメリカSFの罵倒、そしてその原因として、商業主義に走るメディア、それに迎合する作家たち、粗造乱造を余儀なくする経済条件、そして批判力なしにそれを喜んで受け入れる馬鹿なSFファンどもへの罵倒がひたすら繰り返される。おしまい……

いや、おしまいではない。実は上巻の半分くらいは、もう一つの話に費やされる。それは、SFの構造分析だ。まず、レムはSF、ファンタジー、おとぎ話などの類型論に入る。さらに、既存の物語構造をどのように変形させるとSFになるか、という分析を行う。SFの多くは、おとぎ話の焼き直しにすぎないのだ! あるいは、ファンタジーに逃げて真面目な考察をしないですませている! SFは構造も、その焼き直しのやり方もあまりに単純すぎる!……でもそういう構造分析では、中身の話はまったくできないし、くだらない作品も名作文学も同じ構造を持っている。作品の優劣には構造がまったく影響しないのだ、よって構造主義に基づく分析は役に立たないからやめる、と宣言し、構造の話はすっかり消え、あとは各種テーマについてアメリカSFがいかにバカかが語られる。

……と思っていたら忘れた頃、いちばん最後の最後になって、この構造の話がちょろっと復活する。現代は科学技術で変化する社会を描くための、新しい物語構造を必要としているのだ、と述べる。だがSFはそれを探していないとのこと。おしまい。

これが本書のあらすじとなる。

5. 本書の困難

まず上のあらすじを見て、本書の頭の痛いところがすでに出ているのがわかるはず。主張に賛成するかはさておき、本書が2種類のちがった本を無理矢理いっしょくたにしているうえ、その片方——SFの構造分析の話——は、「やったけど役に立たなかった」と何百ページもあれこれ論じたあげくに放棄される、という点だ。

もちろん失敗を正直に語ってくれるのは、正直といえば正直だが、やはりそれを延々と読まされる読者としては徒労感をおぼえずにはいられない。しかも「やっぱダメでしたー」というのは第3章の最後の最後でテヘペロ状態で出されるんですよ。期待だけさせておいてそれはないでしょう。

ところがそう言っておきながら、最後の最後で結論になって、現代は新しい物語構造を必要としている、という主張が唐突に出てくる。が、物語構造と中身とは関係ないと言っていたのでは? ならなぜ新しい物語構造が必要だといえるの?

さらに構造分析が多少なりとも意味があったとしても、それと未来学的な知見 (レムはそれを「認識論的な価値」と表現するが、こんな表現をする意味はまったくない)との関係というのはどういうものなわけ? 宇宙旅行とウラシマ効果の社会的側面を検討するにあたっては、一人称の談話形式を使い、話の終わりから遡る物語構造が最適なのだ、といった話ができるなら、1200ページかけて大量のSF作品を(罵倒しつつ)検討してきた意味もあるだろう。だが、そんなものはまったく示されない。ならば、レムの言う「新しい物語構造」とはどんなもの? 本書ではその方向性や大枠すら示されない。ステープルドンやジュワフスキー、ボルヘスは誉められるが、その分析は構造ではなく物語の中身に留まる。コードウェイナー・スミスやベスター『虎よ、虎よ』は絶賛されるが、「これはSFじゃなくてファンタジーだよね」ということで、認識論的な価値とは関係ないことにされる。するとその新しい構造とは何? 結局、その「認識論的な価値」、つまり未来学的な話と、物語構造の話との関係は何も示されずに終わる。

だったらそれは別々の本にしたほうがいいのでは? 無理に一冊にしないほうが万人のためだったのでは?

さらに、上のあらすじは、まあ明快だ(と我ながら思う)。だが、この本を読んで、この主張の流れを抽出するのは至難の業だ。なぜかというと、レムの本の中でも、この『SFと未来学』はとんでもなく長いし、枝葉がやたらに多く、「認識論的な価値」をSFが追求すべきだという議論はバラバラになってその中に埋もれているからだ。

まず、SFにおいては認識論的な価値 (つまりは未来についての知見)こそが重要なのだ、というのは、第1章で出てくる。

だが、いずれ未来学的に利用されると期待して我々がSFに求めるアイデアや概念構造は、見せかけのようなものであってはならない。またそれは、ある特定の読み方で引き起こされた、単なる一時的幻影のかけらであってはならない。それは読了後も、読者の不可侵かつ不変の財産でなければならない。SFには本物の情報が求められる。(上p.17)

が、なぜそれが求められるのか、というのはまったく説明がない。レムがそう勝手に断定するだけだ。いやそれどころか、それが単なるレム個人の独断と偏見(←死語)でしかないことを、レム自身が堂々と述べる。

SFで求められる情報オリジナリティは、コミュニケーションの表現構造にはない。表現中でオリジナルと受け取られるが、後に平凡さが明らかになる情報は、SFでは失格だ。だがここで一つ但し書きをつけよう。私は「平均的読者」としてではなく、真の認識論的価値を求める者としてこう述べる。だから本書は、言わば今日の支配的な美的慣習に逆らうことになる。(上p.16、強調引用者)

つまり、SFに本物の情報や知見が求められるというのは別に一般性のある話ではなく、レムが個人的にそれを望んでいるだけだ、というわけだ。あんたが認識論的価値を求めている人間だから、すべてのSFをそれに基づいて評価する、ということですか。

いやそんな個人の嗜好を押しつけられましても……

そう思って、読み進むうちに、ほとんど最後近くの第13章になって、なぜSFにそんな「認識論的な価値」=科学などの知見を求めねばならないのか、という話がやっと登場する。

我々の時代には、現象を理解し評価し判断することが他の歴史的時代以上に適切で必要だと私は確信している。(中略)すでに述べたように、人間がこれまで未来を純粋に自発的に作ってきたのであれば、そして常にあらゆる職業は現在に捧げられたか過去に向けられたかのどちらかで、来るべきものに向けられた職業的方向はなかったとするなら、そして今選ばれた決定が未来を決定し、しかも不可逆的に決定してしまうことが確実なら、未来に向けられた戦線に投じられるすべての力が文化の主な予備軍となる。それを考えると、この専門分野を未来学者のようなしばしば簒奪的な専門家に任せるのは許されない。誰でも機会と能力があれば、発展変種の探求の仕事に参加すべきであり、そこで文学が果たせる役割は大きい。文学がそれに(SF のような形であっても)取り組まなければ、二重の損失を生む。文学自身の損失と、一般文化的な、あるいは文明的な損失だ。(下p.194)

ぼくのまとめたあらすじ冒頭、この本すべてを支える問題意識が、ここでやっと明確に説明される。いま、科学技術のせいで様々な変化があるから、未来を真面目に考えて決めねばならず、それを未来学者なんかに任せておけない、だからこそSFが未来考察の民主化手段として重要なんだ、よってSFは現実逃避なんかしてちゃダメだ、というわけ。そしてやっとこれで、本書の題名が「SFと未来学」というものになっている理由もわかる。まず、人類はこれから未来を考えねばならない、というでかい命題がある。そしてそれを行えるのは、人々の集合知を活かせるSFか、あるいはエリート主義でインチキな未来学のどちらかなのだ、というわけだ。その両者の対比こそが本書の主題なのだ。

それを冒頭できっちり言ってくれよ。そしたら本全体の見通しが百倍よくなっただろうに。あなた一人の偏狭なひねくれ視点ではないというのもわかり、もっと我が身や現代社会に引きつけて理解できただろうに。それが出てくるのが、原著の1000ページ目あたりになってから、ではねえ。

その他の細かい部分も、本書のあちこちに脈絡なくばらまかれているのを、なんとか拾い集めるしかない。結局捨てられる(が最後に蒸し返される)構造の話も、どうもレムは構造がその物語のジャンル——SF/ファンタジー/おとぎ話/神話——を決め、そしてそのジャンル認識が読者の受容を左右する、つまりそこに「認識論的な価値」=知見を読み取ろうとするかどうかを左右する、というような図式を考えているらしい。ファンタジーは、魔法などあり得ない設定を使う。そこを認識論的に追求しても無意味だと読者はわかる。よってそこから知見を得ようなどとは思わない、というわけだ。

ぼくはこの見方自体がナンセンスだと思う。『葬送のフリーレン』を見ることで、長命種と短命種の共存について考察はできる。『風の谷のナウシカ』は、ファンタジーだ。でもそこから生態系とその再生についての考察を読み取ることは十分に可能だ。だが、その内容についての賛否以前の問題として、レムのこの見方を把握するまでがそもそも四苦八苦。切れ切れの内容があちこちに散らばっているので、それを再構成して多少なりとも筋の通った理屈に仕立てるだけで一苦労だ。どうも、最初に結論の構想があってそれに従って書いているのではない。成り行き任せで書いているうちに、思惑とちがっちゃったのでそのまま投げ出す——そんな感じの部分ばかり。そしてその間に、本筋とはまったく関係ない余談や思いつきがあれやこれやとぶち込まれる。ぼくは訳すために一言一句読んでいったので、なんとか関連部分を拾えた。でも一般読者が普通に読んでいって、彼の主張の筋道をきちんと追えるかといえば……無理だよ。

 

レムの評論の脱線ぶりについては『技術大全』の訳者解説でも述べた。あらゆる部分で、本筋とまったく関係ない話が、その場の思いつきで書き殴っているとしか思えない書きぶりでバランスも何も考えずにぶちこまれる。 だが『技術大全』では、そうした脱線がおもしろさの一助にもなっていた。なんでここでそんな話が出てくるんだよ、と思いつつも変な宗教論が登場するのはそれなりに面白かった。ところがこの『SFと未来学』では、その脱線もつまらない。ポルノSFはくだらないという話をするときに、何やら最近の小説は扇情的でけしからんという話を延々聞かされましてもねえ。

6. 章ごとの概要

では大筋を理解していただいたところで、章別の概要をまとめよう。それぞれの部分についての細かい概要は、訳しながらブログで逐次まとめているので、そちらを参照してほしい。https://cruel.hatenablog.com/archive/category/SF%E3%81%A8%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E5%AD%A6

はじめに

  • 空想的なものにもいろいろある。
  • 文学は少なくとも3 つの機能を発揮する。情報提供機能、教訓機能、娯楽機能である。SF 文学は、さらに追加のサービスも提供する。予言機能だ。

第I 部 構造

第1 章 文学作品の言語

  • 1.1 序論:言語は、現実を見る/描き出すための道具だ。でもその道具自体が描く現実と不可分になっており、その道具のほうが重要なことさえある。
  • 1.2 空想文学の言語的問題:SFはいろんな造語を作り出す。ただそれはそれっぽい雰囲気を出すためのものだけだったりする。その作品構造とか関係なくて安易。
  • 1.3 表現の構造と表現されるものの構造: 文学作品は表現自体も重要だが、SFは、未来についてのアイデアを伝えるのが仕事。余計な表現のお遊びは無用で有害。
  • 1.4 表現の内在的構造:内容と表現は不可分で、曖昧さが常に残る。その曖昧さを無視する構造主義批評は無力。
  • 1.5 文学作品の4 つの構造:表象構造 (どう書かれているか)、表現されたモノの構造、執筆時に作用した環境構造 (ジャンルの規範とか)、読者の受容環境の4つがある。これは外的要因も大きい。本書はおもに、表現されたモノの構造を中心に扱う。
  • 1.6 小説世界の字義的機能と信号的機能:描かれたものと表現したいものはちがう。カフカの変身はカブトムシを描くが、表現したい内容はカブトムシではない。

第2 章文学作品の世界

  • 2.1 SF の比較存在論:おとぎ話、ファンタジー、SF、ホラー、神話は超自然性とこの世の秩序についてのお約束ごとによりジャンルとして区分される。
  • 2.2 SF の認識論:SFは未来学に近いところがあるが、いまの未来学は無力。当たることより、枠組みを提示して見方を示すのが重要。

第3章 文学的創造の構造

  • 3.1 はじめに:経験と文化:技術が自然と社会を変えつつあるが、SFはそうした重要問題を扱い切れていない。
  • 3.2 SF の生成構造:SFは既存物語パターンの部分的置換、反転、衝突、結合といった構造変換で作られるが、構造だけをいじると空虚なゲームに堕す。
  • 3.3 世界構造と作品構造I:作者/話者の位置づけが構造主義で問題視されるが、大した話ではなく騒ぐだけ無駄。
  • 3.4 世界構造と作品構造II:空想/SF:主題が構造を決める例はある。タイムトラベルものは、繰り返し型、元の木阿弥型、結局無駄だった型などパターンがある。だがSFはそれを考え抜かずにメロドラマなどに落としてしまう。
  • 3.5 SF の構造的分類基準.:構造を見るとSFがいかに単純かがわかる。でも構造だけでは中身のよしあしはわからないので構造分析は無力。だからもうヤメ。

第4章 構造主義から伝統主義へ

  • 作品理解には、その作品ジャンルの見極めが重要。そして使う構造パターンは、だまって借用、借用を公言、自分で考案という3種類ある。だがSFは願望充足に堕しがち。

第II部 SF の作家と読者

第5章 SF の社会学

  • SFはクズばかり。それは出版社が商業主義にはしり、志の低い作家が手軽なクズを量産し、ファンどもはそれをほめそやすバカばかりで、しかも主流文学みたいな内部批評の構造がないから。
  • ただし、ヴォークトやベスター作品はくだらないが妙に魅力的でおもしろい。これは構造分析ではまったくとらえられない。

第III部 SF の問題分野

  • 第6章 大災厄:破滅物をSFは実に安易に扱い茶化すこともあって許せない。このジャンルの人気はある意味で既存秩序の破壊を喜ぶ幼稚な心性のせいだ。
  • 第7章 ロボットと人間:『未来のイヴ』はロボットだけでなく社会的影響や人間にとっての哲学的意味まで考えたが、いまのSFは社会的影響を考えず一貫性もないお遊び。
  • 第8章 宇宙とSF :宇宙旅行はごく最近の発想。スプートニクで脚光を浴びたが、深い考察はなく意匠だけ。
  • 第9章 SF の形而上学と信仰の未来学:ミラー『黙示録3174年』はがんばっている。いま試験管ベビーや人工知能が宗教の前提を脅かしているが、それを扱ったSFはない。
  • 第10章 エロスとセックス:セックスは特殊な文化的位置づけを持つ。それを科学が崩し、セックスがお手軽になると宇宙人との乱交みたいなSFが出る。バカだな。ル=グウィン『闇の左手』はセックスが深掘りされていない。
  • 第11章 人間と超人/スーパーマン:まともな超人SFはステープルドン『オッド・ジョン』くらい。それでも結構穴がある。SFは人間の能力向上をまるで扱わない。
  • 第12章 棚卸し:冷凍睡眠SFは多いがこの技術の社会的影響を完全に無視。また宇宙SFの異星人はきわめて独創性に欠ける。
  • 第13章 SF の実験:ブラッドベリから「ニュー・ウェーブ」まで:ブラッドベリはSFで唯一、書きぶりで成功した作家。ニューウェーブは規制のお約束を破壊しようとするが破壊だけ。ヌーヴォーロマンと同じ。読者が勝手なものを読み取るに任せているだけ。だがいまは未来を考えて構築しなくてはならず、いまはそれを無能な未来学者が独占しようとしている。SFでそれを万人にやらせるべき。
  • 第14章ユートピアと未来学:ボルヘスは架空の完結した世界を描くユートピア。ステープルドンは荒唐無稽だが未来を真剣に考えた。SF作家は何も真剣に考えていない。

第IV部 おわりに

第15章 メタ未来学的結び

  • 人間は本能を失って文化を創ったが、それは虚構で不合理。
  • 科学はその不合理性を暴いたが、代わりのものは提示できず、文化の社会的意義の設定を切ってしまった。

第16章 メタSF 的結びの言葉/メタファンタジア

  • 従来の文学構造は古くからの文化的価値観が前提 (それを破壊するときでも)
  • いまその構造が科学の発展で崩れている。
  • SFは物語構造の選択も、その変形も、新たな構造の構築もダメだ。もっとがんばれ

あとがき

  • SFをこんなタコ殴りにするつもりはなかった。でもいまのSFは、最低の低俗小説に堕している。話は幼稚、設定は天国と地獄の両極端だけ、お手軽なカタルシスに走りたがる安易さ。自己批判もない内輪ぼめの自己満足と、商業主義への安住。絶望的だね。

7. 本書の難点

さてこうして章ごとの流れを見ると、冒頭で述べたことがご理解いただけると思う。

7.1 構築性のなさ/理論体系の不在

まず、ここには「理論体系」はまったくないことは明らかだ。

これまでの紹介、特に本書第16章「メタファンタジア」の紹介では、レムが何やら構造主義批判理論の大家のような書かれ方になっていた。しかし構造分析は、第1-3章で考察されるものの、大した深みはなく、ざっとした紹介にとどまるうえ、「こういう構造(またはその捉え方)がある」と述べつつ、その構造があるとどうなのか、というのは一切述べられず、あげくにそのほとんどはてその最後で完全に放棄される。それなのに最後になって、構造分析は無駄だったはずなのに、SFは構造的にダメだ、新しい物語構造を、と蒸し返される。なぜそんな物語構造がいるの? 何も説明はない。

何か議論を構築的に組み立てるような意識も一切見られない。普通、1200ページもあれば、何か前提があり、それを例証や演繹によって深め、展開してこれまでだれも指摘しなかった主張を行うのが常道だ。だがここにはそれはない。レムの立場は、最初と最後でまったく同じだ。レムは自分の独善的に見える主張を最初にうちたて、その後それを正当化するような議論を一切しない。「認知論的価値」=科学的知見に基づくべし、という、最初に掲げた勝手な価値観でひたすら突っ走るだけだ。そしてその大半は、英米SFはとにかくダメと言いまくるだけ。

7.2 英米SF&SF業界への異様な敵意

そして本書で度肝を抜かれるのは、その既存の英米SFに対する異様な罵倒ぶりだ。それも作品に対してだけではない。業界そのもの、作家たちやファンたち自体への人格攻撃に等しい口汚い罵倒がさんざんに展開される。その最たるものは本書の第5章のこんな部分だ。

この「狂信者」の年次大会と米国での最高SF作品のコンテストを外部の観察者が見ると、みんながお互いをヨイショしあっている、苛立たしいほどバカな家族の集いを連想してしまうこともある。悪意ある観察者なら、これが時に、せむしとびっこしか出ない美人コンテストを思わせるとさえ言うだろう。そこには醜悪さが満ち満ちているのに、みんな精神的留保を保つことで、そのカケラすら見て見ぬふりをしているのだ。アンドレイ・キヨフスキは、L・ティルマンドの著作に捧げられた批評的エッセイで、「鼻くそ坊やの天才」および「白痴の賢者と哲学者」という用語を考案した。(中略) 高位の創造的努力は低位の領域とは独立して活動する。このような関連は芸術外の領域、つまり科学的領域でも見られる。この領域では、科学の存在――属性なしの、通常の普通の研究作業として――は頑固な擬似科学を伴う。それは「平らな地球」などの協会の存在、今日アインシュタイン理論を倒そうとする宗派、昨日なら円を四角にしたり角の三等分に取り組んだりした連中などにあらわれている。実際、芸術的・認識論的に本物の価値を作成する精神的能力はないのに、偶然ある程度の才能――必ずしも狂気的ではない――で目立つ人々がいる。彼らは本物の宇宙論、物理学、哲学、または文学を営めないため、お手軽な手の届く代理物と片手間の創作で、自分の創造的不安を解消するのだ。(上p.179、強調引用者)

もちろん、個別作品についての罵倒も同じくらいひどい。レムはアメリカSF協会の名誉会員に選ばれたが、彼の英米SFに対する罵倒を見てジェリー・パーネルかだれかから物言いがつき、激論の末に名誉会員資格を剥奪されるという事件があった。ただしその激論なるものは、レムの発言内容をめぐるものではなく、レムに名誉会員となる規定上の資格があるのかという手続き論に終始して、まったく見る価値のない代物ではある。が、こんな罵倒をされてアメリカのSF作家たちがおもしろくないのはよくわかる。ちなみに、この部分の後でレムは、キャンベルやハバードがインチキ科学やエセオカルトに入り込んだのをあげつらい、SF作家がいかにバカかを嘲笑してみせる。だがこのしばらく後に、彼が天体物理学教授のグレゴリー・ベンフォードに対し、おまえは天体物理学をわかってないとイキってみせて哀れまれたのも有名な話ではある。レムの嘲笑はそういうレベルのものでしかない。

 そしてこの異様な敵意は、ちょっと不思議ではある。というのも1959年に彼は論説集『軌道に乗る』に収録されたSF論で、ずっとバランスの取れた主張をしているからだ 。そこでのレムの分析では、SFはアメリカ特有の状況から誕生して盛り上がったもので、個々の作品はダメでも全体としてアメリカの抱えている問題や関心事を考察しようとする集団的な活動という側面を持ち、同時に20世紀アメリカの神話形成でもあることが指摘されている。個別作品より全体を見なくてはならない、と当時のレムは言う。

cruel.hatenablog.com

 うん、それがわかっているならなおさら、本書のように個別作品をあげつらい、だめな作品ばっかだ、とけなしてみても仕方ないことくらいわかりそうなものなんだが。なぜそれが1960年代を通じて変わったのか?

 その一方でレムは、その同じ第5章で、ヴォークトやベスターの作品が構造的にも未来学的にもろくでもないのに、それでもやたらにおもしろいことを認めざるを得ない。つまりレムは、自分の見方が一面的であり、他にもその作品を評価すべきポイントがあることを十分に知っている。それなのに、あらゆる作品をひたすら全否定し、無価値のクズだと罵倒してまわる——それは理屈としてもあまりに変だろう。

7.3 あるべき未来学とは?

そして本書で非常に不思議なのは、題名にすら含まれる未来学の扱いだ。2.2節でレムは、現在(つまり執筆当時の1960年代末)のハーマン・カーンらに代表される未来学がいかにダメかを論じる。あらすじで述べたとおり、SFがそれに変わる民衆の未来学となるべきだ、と本書は主張する。が、SFを使った未来学的考察の優位性をきちんと指摘する部分はまったくない。このため、SFが未来学に対抗できるのだ、という本書の題名にすら明示された主張が、まったく詰められていない。かろうじて、SFはフィクションだから未来学のような事実に囚われずにスペキュレーションを行う余地がある、と最後近くで述べられるだけだ。

実際のSFの分析では、未来学的な考察ができていない、と罵倒はするけれど、ではその可能性を本当に示すSF作品とはどんなものか、という点についてはほぼ指摘がない。ステープルドン『最後にして最初の人間』の数百億年にわたる人類史は、常に新たなカタストロフで人類が新段階を迎えるというのが見事な知見らしい。が、あれは興味深いながら、思いつき以上のものではないでは? はっきり言って整合性も何もないトンデモだよね? だがレムは、千年先の科学はいまの常識から見ればトンデモに見えるのは当然だから、むしろそれはよいことだ、とうそぶく。他の作品については、整合性がないなんてありえないと罵倒するくせに……結局、SFが果たすべき優れたよい未来学的な考察というのが何であり、それにより何が実現できるのかについてはまったく語られない。

これについては、おもしろいポイントがある。この『SFと未来学』発表の少し前の1968年、スタニスワフ・レムはポーランド共産党の機関紙の一面に「ウェルズ、レーニン、世界の未来」なる論説を寄稿し、SFは未来学的考察を行うものだが、その開祖たるH・G・ウェルズは『霧のなかのロシア』でレーニンと対話して未来についてピントはずれな主張をしている、なぜなら元祖未来学とも言うべきものは、マルクスの史的唯物論だからだ、それに従ったレーニンのほうが鋭いのは当然なのだ、というとんでもない主張をしているのだ。つまり、レムの考える正しい未来学は、史的唯物論である、ということになる 。

cruel.hatenablog.com

この文章がどういう事情で書かれたものなのかはわからない。これがレムの本心なのか、あるいは何らかの政治的事情で仕方なくでっちあげたものなのか。だがこの論説が本気だったなら、多少は欧米の読者を意識する中で『SFと未来学』で史的唯物論こそ未来学の理想とは言えなかったかもしれないし、もしこの論説が苦肉の作だったら、それに露骨に反する理想の未来学を語るわけにはいかなかったのかもしれない。

が、いずれにしても、『SFと未来学』に、あるべき未来学的SFの姿が明記されていないのは事実であり、そしてそれが本書の大きな主張のポイントを完全に理解不能にしているのも確かだ。おかげで本書はさらにわけのわからないものとなっている。

8. 『SFと未来学』の現代的価値

ではSFと未来学に現代的価値はないのか?

1200ページすべて精読して訳した人間として言わせてもらうと……ない。全体としての価値はまったくない。本書の主張に多少なりとも価値を認めるためには、レムがおいた前提に多少なりとも賛同しなくてはならない。SFは、そこらの文学とはちがって、人類の未来シナリオを考えるという重要な仕事を担っているので、お遊びSF、楽しいだけのSF、既存のお話の設定を入れ換えて、現代の人間の価値観を相対化してみせるようなSFは全部だめ——この主張に賛同する人は、当時ですら一人もいなかっただろう。いわんやこの21世紀においてをや。これはSFの理論としても評価の枠組みとしても、あまりに偏狭だ。

 そしてその理由が、SFは商業主義に侵されて、馬鹿な作家と馬鹿な読者がはびこり、まとも批評も存在しないからだ——こんなものがSFの社会学的分析として通用するはずもない。SFのおもしろさにも一切触れられず、かつてレム自身が述べていた集団的な課題検討や神話構築の働きにも触れられない。これはSFについての総合的理論はおろか、限られた理論としてすら成立しないだろう。

 さらに何も理論面での構築もない。ちょっとやった構造分析は「やっぱ役にたちませんでした」と放り投げる。それはないでしょう。

 では、まったく無価値かといえば……そうでもない。レムは、調子がいいと、見事な筆の冴えを見せる。そうした個別部分は、実にすばらしい。

その最たるものは第13章「SF の実験:ブラッドベリから「ニュー・ウェーブ」まで」だ。ここで展開されるレイ・ブラッドベリ論は、他で類を見ないレベルの高さだ。そしてそれに伴うフランスのヌーヴォーロマン批判。これはアメリカSFに対する罵倒とはまったくちがう。冷静で公平な読み、それが持つおもしろさの源泉、文章へのノイズの導入という手法面の分析、さらにはまさにそのおもしろさの源泉のためにヌーヴォーロマンが抱える限界の指摘。これは実に見事なものだ。途中であまり脈絡なく出てくるサド論やドストエフスキー論、ボルヘス論なども、こうした著者について書かれたどんな論説にもひけをとらないすばらしいものとなっている。

 また本から離れてレム自身の抱える、ある種の矛盾も非常によくあらわれている本でもある。それがよく出ているのは第15章だ。レムはもちろん、科学の進歩をよいことだと思っている。その一方で彼は、科学により人間社会の価値観の基礎、価値観そのものが破壊されるのを大いに懸念している。人間は本能がなくなったので、文化的なお話を創って価値観を維持し、それにより生物学的な衝動を抑えつつも再生産可能なくらいには維持するのに成功してきた。だがいまや、セックスしなくても子供ができる、不老不死も夢ではない、各種の宗教規範も欺瞞が暴かれたとなると、そうした社会の根幹となる価値観が消えてしまい、人間はそれに対処できずにいる。科学は、従来の文化規範の根拠を破壊はするが、それにかわるものを提供できない。これは社会の全面崩壊にすらつながりかねない——

この、科学に対するアンビバレントな態度がしばしば本書の非常にどっちつかずの混乱した物言いに影響している。そしてそれとほぼ同じことだが、レムは言わば自由の増えすぎを懸念している。本書では明記はされていないけれど、彼はある種のサイバネティクス的な管理と社会統制を何となく求めている。「アルジャーノンに花束を」みたいにみんなの知能が高まったら、ブルーカラー職がいなくなるから問題だ、なんか職業統制がいる、というわけだ。彼はそこで、市場原理に基づく価格での調整を考えない。ある種の中央集権的な管理を彼は求める。そしてそれに基づいて、優生学も支持する。彼のそうした側面は、本書のそこかしこに断片的な形で登場する。これはレムという作家そのものの理解において、とても重要なものだ。

そうした様々な断片的な情報や記述は、特にスタニスワフ・レムという作家&人物を理解するうえで重要だし、それが本書に価値を与えているのは事実だ。この技術の発展と価値観の関係は、普遍的な重要性を持つ。

ただ……それであるなら、1959年のSF論でレムが挙げていた、アメリカSFが全体として20世紀の神話を構築しようとしているという機能についてもう少し重視してもよかったのではと思う。もちろんSFに表明される多くの価値観は、何やら古くさい単純化された価値観の焼き直しだ。それでも、全体として何かちがうものが生まれる可能性にもう少し注目できなかったのか——そうしたことを考えつつ本書を読むのは、必ずしも無駄なことではないだろう。とはいえ、それをもうちょっと整理した明確な形で論じてくれれば、と思ってしまうのは人情だろう——特にそのために1200ページもの翻訳をした人物の気持ちにもなってくれよ、とは思う。

9. 日本での本書の紹介

冒頭で述べたように、これまでの本書の紹介はひどいものだった。中身に一切ふれることなく、周辺的なゴシップでお茶を濁すだけ。紹介した人(というと沼野充義くらい) は、これを実際に通読はおろか、流し読みすらしたのか??  その沼野充義が、おそらくは長年にわたるレムとの取り組みの集大成、国書刊行会のレム・コレクション『高い城・文学エッセイ』に書いた、本書の紹介は以下の通り:

『SFと未来学』Fantastyka i futurologia(一九七〇年) ——全二巻、原著で計千ページを越える大著。現代SFを理論的に扱った研究書。方法論としては『偶然の哲学』で練り上げたものを発展させ、読破した数万ページの現代欧米SFにそれを具体的に適用する。その分析の結果はきわめてネガテイヴで、現代SFの九十パーセント以上はSF本来の可能性をまったく無駄にしているくだらないものだ、ということになる。こうしてSF理論を体系化したレムは、その一方では自分自身も「作家としての成長過程でSFというジャンルそのものの進化の大筋を繰り返してしまった」ことに気づき、創作の面では一種の行き詰まりの状態に陥る。それを打開する―つの道が『完全な『虚数』といったメタフィクション系列の作品だった。(p.439)

本書のあらすじを読んだ方なら、この紹介がいかにピント外れかはわかるだろう。ここにはそんな系統だった方法論など一切ないからだ。ちなみにここで「方法論としては『偶然の哲学』で練り上げたものを発展させ」とあるので、『偶然の哲学』については具体的な方法論が説明されているのかな、と思う人もいるかもしれない。が、もちろんそんなことはないのです。『偶然の哲学』については、同じ紹介で「文学研究者に強い(必ずしも肯定的ではない)反応を引き起こした著作でレムは構造主義の文学理論に論争を挑み、それに対して「読者の受容を前提条件とするようなある種の伝達過程としての文学作品」というテーゼを提出」(p.439)としか書かれていない。これ、何を言ってるのかわかります? 普通はわかんないと思う。書いた人もわかってるのかな。

 実のところ、『偶然の哲学』は、平たくいうと文学のアイデア→文章→読者というプロセスのそれぞれの段階が、確実な情報伝達ではなく、不確実な確率=偶然に左右されますよ、というだけの話を延々と書いたものだ。彼はこれがマルコフ過程であり云々と、得意げに語るのだけれど、マルコフ過程になっているかどうかは怪しいし、さらにマルコフ過程だったらどうなるのか、というのはまったく説明がない。ついでに、アイデアと文章の関係を、生物学の遺伝における遺伝子型と表現型の関係になぞらえ、生物学の知見を延々と披露してみせるんだけれど、それがどうしたの? そういう理解をすることで、創作過程についてどんな理解が深まるの? 何もなし。

そして『偶然の哲学』たまにみせる見事な分析、たとえばエーコ『薔薇の名前』論に続いて出てくるのは、なぜその作品がベストセラーになったか、エーコはベストセラーを意図していたか、というくだらない物欲しげな勘ぐり。レムとしては、読者の受容というのを、売れたかどうか、というので判断しているわけですな。つまり、優れた作品はそのマルコフ過程の結果として読者に受容され、売れねばならない……そんなわけないでしょう。そんな「分析」がまともなものにならないことくらい、言うまでもないと思うんだが。

 ただ確かにその意味で、この『SFと未来学』では、いま述べた『偶然の哲学』の理論が応用されてはいる。が、それはむしろ、SFがオレの理論通りになっていないという苛立ちだ。レベルの高いものは、売れるべきだ、というのが『偶然の哲学』の理論だが、それに対してアメリカSFはクズみたいなものが売れていて、レベルの高いものが一向に出てこない。彼が当たり散らしているのは、どうもSFが自分の思うような、内容のレベルの高さと売れ行きとの相関を見せていないという苛立ちのせいなのかもしれない。正直いって、ぼくはレムがほめそやす他の文芸ジャンル、たとえば純文学ですら、別に中身が優れていれば売れる、というような幸せな状態にはなっていないと思うんだが。

 が、閑話休題。

結局のところ、『SFと未来学』は『偶然の哲学』の理論を具体のSF作品に適用して分析したなどとはまったく言えない。SF理論を体系化なんかしていないのも、すでに見たとおり。つまりここで沼野充義が書いていることは、実際に『SFと未来学』を読んだとは思えない。やっぱ紹介するなら、一応は中身を読んで把握してからのほうがいいんじゃないかと思うんだ。

蛇足ながら「作家としての成長過程でSFというジャンルそのものの進化の大筋を繰り返してしまった」ことに気づき、創作の面では一種の行き詰まりの状態に陥る。」というのもかなり疑問ではある。SFというジャンルの進化、というのがそもそもよくわからないし、『SFと未来学』にそんなものは書かれていない。だが『SFと未来学』がレムの創作行き詰まりの原因になったというのはありそうなことだ。第14章に、さんざん他の作品を罵倒してきたレムが「それではオレ様が模範演技を見せよう」とSFのアイデアを得意げに語るところがある (下p.269以降)。だが、アイデアを語っただけで結局仕上げられずに投げ出している。要するに、自分だって他人に要求するような作品を書けなかったわけだ。そしてとてもおもしろいことだが、そこに挙げられた物語の設定は、かの『大失敗』に使われている。つまり彼は20年近く、『SFと未来学』で自分で勝手に上げてしまったハードルに見合う作品を書こうとして悪あがきをした挙げ句、できたのはあの愚作『大失敗』でした、というわけだ。『大失敗』はつまり『SFと未来学』の答合わせであり、その結果がでっかいバツでした、という情けない代物という解釈もできる。

cruel.hatenablog.com

「作家としての成長過程でSFというジャンルそのものの進化の大筋を繰り返してしまった」というのはカッコに入っているので、レム自身がどっかでこう言ったんだろうが、まあ彼はプライドが高い人で自分のヘマを認めるわけもない。が、苦しいねえ。

もう一つ本書の紹介めいたものが出たのは、『SFの本』5号レム特集に、本書の第16章が「メタファンタジア」なる題名で紹介されたときであり、それが20年後にレム・コレクション『高い城・文学エッセイ』に収録されたときだ。おお、最終章ってことはこの本全体のまとめになっているんですよね? やっと本書の理論がわかるんですね?

 ところが……それを読んでみると、中身はあっち飛びこっち飛びの、要領を得ない迷走した書き殴りで、話としても全然まとまっていない。しかもSFの話は最後にとってつけたように数ページあるだけ。なんだこれは。さらに訳者の巽孝之の説明は例によって、名前とキャッチワードを並べるだけで何一つまともなことを言っていない。構造主義だポスト構造主義だ、その概念を縦横に駆使しているというだけ。だから、それを駆使して何がわかったわけ? ポスト構造主義を導入することで、レムはSFの、あるいは文学の何を指摘したの? それを説明すべきじゃないのかな。

そもそもこの章は、本全体の中でとっくに棄却されたはずの「物語構造」なるものがいきなり蒸し返される変な章ではある。何か本書の主張を総括するものではないし、その結論を何か述べるものですらない。これまでの文学が、既存の人間の生物・社会的なあり方を前提として成立してきたが、それが技術で変わりつつあるという主張は書かれており、レムがSFに対して求める、技術で破壊された規範や価値観の再建という役割について一応述べられてはいるが、決して明解ではない。この章だけでは何もわからないのだ。訳者もわからなかったようだし、またそれを読んだ人々もおそらくわからなかっただろう。つまりあまり意味のある紹介ではなかった。ホント、ここでも沼野充義が『SFと未来学』を実際に読んで、この最終章の位置づけをきちんと説明してくれていれば……

10. 個人的な思い出

 さてここまでお読みの方は、山形はこんなに罵倒してるくせに、なんだって全訳なんていう面倒きわまることをやったんだろう、と思うかもしれない。

 いやその通り。我ながら物好きだとは思う。が、人生にはいつかケリをつけねばならないことというのがあって、これもその一つだったのだ。ということで、ちょっと思い出話を。

 ときは1980年代。ひねくれたSFファンとしてNW-SFなんかに出入りしていた身としては、SF評論が重要だなんてことを思っていた。山野浩一がそういう主張をしていたことでもあるし。

だからサンリオSF文庫の刊行予告にこれが、レムの他のサイコロ評論本といっしょに挙がっていたときには興奮した。なんかすげえ本らしいぞ! だが……その後まったくなしのつぶて。だがドイツ語訳があることを知ってそれを苦労して入手し(当時は洋書の購入は大変だったのだ)、第二外国語で学んだ知識ではりきって読み始めると、おお、空想的なものの種類と階層の話がはじまって、本当にSFのすべてについての理論を基礎から構築しようとしているらしい……と思ったが、あまりに面倒くさく、5ページで挫折。

当時、沼野充義の研究室に一度話をききにいったときそれを見せたら「あれは絶対に訳さないといけないんだが、とても手がまわらない。ドイツ語からの重訳でもあれば、それをもとに完成させられると思うんだがなあ(チラッ)」と言われて、それならばとその後さらに5ページほどがんばったが、それが限界だった。

そうこうするうちに、『SFと未来学』を出すはずだったサンリオSF文庫が廃刊になってしまい、本書の邦訳が出る希望も消えてしまった。あーあ。

だが「ドイツ語からでも下訳があれば、それをもとに仕上げられる」と言われたことで、この本の邦訳が出ない責任の1%くらいは自分にもあるような、少し後ろめたい想いをずっと抱いてきた部分もある。ブツブツ言いつつも本書を全訳してしまったのは、ある意味でその後ろめたさを解消したかったせいもあるのだ。沼野充義もおそらく、忙しい合間をぬいつつ本書を少しずつでも訳していたはずだし、ぼくがもうちょっと頑張っていればサンリオ廃刊までに間に合ったかも……

 いま、こうしてドイツ語から全訳を終えて、あの駒場の沼野研究室で言われたことをやっと果たせたような感じがする。30年もかかったし、別に約束したわけでも何でもないけど、でもやりましたからね……

 と思っていたら。こんな文章に出くわしたんだよ。

いまからほとんど三十年ほども前、サンリオという会社がSF文庫を大々的に立ち上げることになり(中略)、レムの理論的業績における主著というべき『SFと未来学』(1970)という巨大な本も入っており、私がその訳者として山野氏に指名されたのだ。当時まだ二十歳そこそこの若造にしてみれば、有頂天にさせられるほどの大抜擢である。この著作がどれほど踏破しがたい難物かということもろくに認識しないまま、私は張り切って引き受けたのだが、その後、この本を一ページも訳せないままついに今日まできてしまった。(沼野充義「レムにおける人生と批評と創作」、レム『高い城・文学エッセイ』p.432, 執筆は2004年、強調引用者)

 ……なんだい、全然やってなかったのかよ。じゃあぼくはずっと、ありもしない枯れススキ相手に後ろめたさを抱いていたのかよ。サイテー。

が、牛に引かれて善光寺参り。なんだかんだで、できてしまったので委員会諸賢はお楽しみください。これを元に沼野充義やその周辺の人々が、ポーランド語とつきあわせて決定版ポーランド語直接訳を仕上げる——なんてことはあり得ないが(あり得ないでほしいよ。そんな体力があればもっと有効なものに使ってほしい。これをポーランド語から直接訳したところで内容的に大きな差が出るはずがない)、ぼくとしては自分の心にわだかまっていた疑問、知りたかった内容がやっと(いささか失望をこめて)わかったことで、十分満足だ。他にもそういう方が少しでもいれば幸甚。

11. 翻訳について

 本書は、ドイツ語からのGrokによるAI翻訳をベースに、山形が全文をチェックして完成させた。AI翻訳なんか信用できないという人もいるだろう。だが、この種のノンフィクションであればいまやほとんど問題のない水準となっており、特にレムのややこしい晦渋で要領を得ない文章には大いに実力を発揮してくれた。また山形のドイツ語も久方ぶりでかなりさび付いてはいるが、チェックくらいはこなせる。大きくまちがえているところはないはずだが、何かお気づきの点があればご指摘ください。

ドイツ語版には、ドイツ語編者がまとめた、文中で言及されている作品の一覧索引がついているが特に必要ないと思ってこれは訳していない。言及された作品は、邦訳のあるものは邦題を雨宮孝氏の労作「ameqlist翻訳作品集成」https://ameqlist.com/ に基づいて採用し、ないものはそのまま訳して原題を併記した。こうしたインフラを整備してくれている雨宮氏には伏して感謝する。

 

2026年5月 レイゴス(ラゴスじゃなくてこう発音するそうな)にて

山形浩生 hiyori13@alum.mit.edu

レム『主の変容病院・挑発』:どちらも凡作

はいはい、どんどんレムの積み残しを消化しましょう。

で、これはレムの処女作の純文学作品『主の変容病院』と、晩年というほどではないが1980年代末、前回の『大失敗』と同じ頃に書かれた短編小説もどきをいっしょにしたもの。

主の変容病院:ナチ支配時代の精神病院を舞台にした連作短編集的な作品だが凡作

まずは処女作の『主の変容病院』。新人医師が精神病院にやってくるが、そこで患者なのに偉そうな詩人とかがいて、それと文学論や文明論を戦わせたり友人や同僚と政治や神学議論するうちに、何か裏がありそうな変電所に迷い混んだりして、それが反ナチ集団らしいことがわかり、時代が迫ってくるなか、ある日突然ナチスがやってきて、病院からも兵を出せ、それと精神病者は処分しちまえということになる。患者の一部に白衣を着せてごまかそうとするが、偉そうだった詩人が浅はかな考えでそれを垂れ込んだら真っ先にバレて銃殺されてしまい、医師たちもてんでに逃亡するしかなくなった、という話。

レムの処女作だというから我慢して読んだが、つまらない。SF作家としてのレムに関心ある人にはまったくといっていいほど読みどころがない。解説などによると、最近ではレムをおブンガク的にあれこれ解釈して、ナチス配下やホロコーストの影響をあちこちにこじつけたりというのがはやってるそうで、そういうお遊びをしたい人は、まあストレートに出てくるので読めばいいけど、それだけですねえ。

「挑発」「21世紀叢書」:架空書の書評スタイルだが形式を活かしきれずまとまりもない

挑発1:「ジェノサイド」書評:ジェノサイドを論じたければ普通に書けば?

「ジェノサイド」という架空の本の書評という形式をとっている。ジェノサイドは昔から存在し云々という本だとのことなんだが、結局ナチスのホロコーストのことをあれこれ言いたくて、それを歴史的に位置づけました、という本らしい。その本ではこう論じられ、ああ論じられ、と語るんだが、なぜそれを架空の本の書評として書かねばならないのか、よくわからない。ジェノサイドは、何らかの集団に悪のレッテルを貼り、それを殲滅することを正当化するとか、普通に書けばよいのでは? ナチスは悪の倫理学とキッチュの美学のあわせ技だという主張は、ちょっとおもしろいかもしれない。ならそれをそのまま書けば? そして結局、ジェノサイドやナチスについて、あーもある、こーもあると思いつきを書き散らして、その本は「これからどんなジェノサイドが出てくるでしょうねー」という疑問で終わっています、と書いておしまい。つまり結局あれこれ書いたけれど、何かまとまった結論があるわけではなく、思いつきの羅列に終わっている。技術が発達したことで、死の位置づけが変わりつつあるとか

挑発1:「人類の一分間」書評:世界の一分間に起こる現象の統計データ集だそうだが……それで?

世界で一分間に起こる現象をあれこれ統計で示した本の書評で、出生数、死亡数、その分類、犯罪、交通、その他あれやこれやが出ているそうなんだが……それで? 死因では感電死が多いけど電線にしっこかけて感電死するのは少ないとか、それが何か? いわば「世界が百人の村だったら」の時間版みたいな話だけれど、あの程度の知見も特に得られなさそう。

雰囲気として、前に紹介したつまらないジジエッセイ集と同じで、思いつき書きなぐってまとまらずに放り出した、という感じ。

21世紀叢書:「創造的絶滅原理;ホロコーストとしての世界」:宇宙はカタストロフの連続により進歩するというお話。

いやホント、それだけ。地球はたとえば、恐竜が安泰の王者だったのが、隕石だかプルームだかで地球がカタストロフに陥り哺乳類の時代が来て人間が栄えた。生物進化でもそういうのが繰り返されるし、あと宇宙論でもそうなるよね、というだけの話。宇宙でも、様々な大きなショックが起こることで生命が生まれ、文明が生まれて発展するのだ、というわけだ。SETIで宇宙人が見つからない理由を考えたのを敷衍させて、星雲の物質密度から見た生命や文明発生条件をあれこれ考察するが、知ったかぶりは多いわりに、ほぼすべてが憶測と思いつきの域を出ない。内容的にも、これまでレムの他の科学っぽい論説を読んでいれば何度も繰り返されていた同じ話の蒸し返しだが、まあそういうのがあまり紹介されていないので、この文章をレム・コレクションに入れておいても、バチは当たらないかも。単に大惨事の繰り返しで進歩するというのに、「ホロコースト」と入れる理由はまったくもって不明。

21世紀叢書:「21世紀の兵器システム」:兵器自動化でインテリジェント化に逆行する動きが出る

この表題の通り。だんだん「砂漠の惑星」みたいな群生システムになり、さらに機密システムが発達して兵器かどうかもわからないものがだんだん主流になるのではとのこと。これ、読んで思い出したが、昔ドイツ語から頑張って訳して東大SF研の会誌に載せた!

翻訳について:この異様な訳注は何?

翻訳は、この一冊同じ人がやっているけれど、愚直。そして訳注の入れ方が異様。割り注と脚注の使い分けとかまったくわからないし、訳者としてだまって自分で判断すればいいことをいちいちいいわけするし、さらに本文とほとんど同じ訳注がわざわざ入るし。

後半の特に科学っぽいのが出てくるのは大野典宏とかがやったほうがよかったんじゃないかな、とは思う。

レム『大失敗』:残り物をぶちこんだ支離滅裂なゴミため小説

以前、ずっと本棚に鎮座していたカルロス・フエンテスやトマス・ピンチョンやウィリアム・ギブスンにある日一気にケリをつけたように、いま自分がスタニスワフ・レムに一気にケリをつける時期にさしかかっているのは明らかだと思う。そしてずっと本棚にあったドイツ語訳の各種論説にだんだん目鼻がついてきた。『技術大全』は、ぶっ飛んでいて頭おかしいレムの面目躍如。『対話』は非常に明快で、レムの明晰な理解がわかるけど、『SFと未来学』に『偶然の哲学』はずいぶんとおかしくなってる。これについてはきちんとまとめないと。

そしてその一環として、これまで読んでいなかったレムの最後の長編小説『大失敗』をやっと読んだ。腐ってもレムの最後の小説だし、心して読まねばと身構えていたけれど、そろそろそんな身構えも解けてきたこともある。

そして、かなりがっかりしたと言わざるを得ない。話として破綻しているうえ、読み物としてもまったくつまらないし、自分がこれまでの評論で他人を罵倒してきたことが、自分でもまったくできていないからだ。

まず、本書はえらく読みにくい。というのもレムが、彼のいう「認知論的価値」を提供しようとしてなのか、あらゆるものに下手な説明をつけようとする。とってつけたような疑似科学的説明で、言わばハードSF的な雰囲気を出そうとしているんだが、そこにさらにあまりうまくない文芸的な比喩も取り混ぜてまったく要領を得ない。そして科学工学的な素養のまったくない翻訳も、それに拍車をかけている。また登場人物は一言半句に、ここぞとばかり大演説による背景説明を繰り返す。そのため話にメリハリがなくて、いったい何がメインで何が副次的な話なのかがきわめてわかりにくい。一方で、東西冷戦と軍拡競争への懸念(少なくとも人間が持つそうした思いこみ)みたいな、非常に紋切り型な背景があまりに透けて見えて、かなり浅はかだ。

で、お話は?

あらすじ

詳しいあらすじは、こちらを読んでほしい。よくぞあんな読みにくい小説のあらすじを、ここまで適確にまとめてくれました。すばらしい。

ブックレビュー:レム追悼ブックレビュー『大失敗』編その1

ブックレビュー:レム追悼ブックレビュー『大失敗』編その2

が、これはちょっとていねいすぎる。もう一段簡単にしよう。

まず冒頭、どこかの星にちょっとした手違いで着陸したある人物が、その星の地下洞窟ネットワークの探索に行って戻らない人の中にかつての教官ピルクスがいるのを知って、自分もその探索に乗り出したが二次遭難、間際に己を結晶化することで仮死状態になる。

それから200年後、その洞窟の遭難者が発見されて復活されるが、そいつは自分がだれか覚えていない。ちょうど、これまで何の成果もなかったSETIが初めて何やら知的生命の痕跡をつきとめて、その惑星クウィンタに向けて探検隊が出発し、その復活した遭難者もそこに乗り込む。

そのクウィンタについて、いっしょうけんめい大量の放送を浴びせて平和使節だとアピールするけど、何もない。そこで無人探査プローブをたくさん発射したら、うち二つが破壊された。そして本船もシールドを突破されて攻撃される。

そこで人間様たちは、「平和アピールしたのに攻撃してくるとはけしからん、おれたちの力を見せてやる」と言って、惑星クウィンタの月を破壊する。

え? いま何て言った? 相手の月を破壊???!!

……相手のところにいきなり乗りこんで、プロトコルも何もわからずに勝手な思いこみの変調で自分勝手なメッセージいっぱい送って、さあこっちの意図は伝えたぞ、プローブ送りこむぜと一方的に領空侵犯やっといて、反撃受けたら、おおてめえらやんのか、といって、相手の月を破壊する???!!

これはただこちらの力を見せるためであって攻撃の意図はないことはわかるだろうって、わかるかよ、そんなの。月を破壊したらどんな口実つけようと、立派な攻撃だよ。

その後、探検隊は、こいつらは二大勢力が戦争しててそれが機械完全防衛システムとなって、外部からのものは否応なく攻撃されることになってるんじゃないかとか、何も根拠のない邪推と憶測を展開する。呑気ですねえ。

それでまた何度か攻撃されて、今度はさらにクウィンタ星の防衛シールド (海の一部を衛星軌道に挙げて凍らせて氷のバリヤーにしてる)を破壊したりする。

んでもって、「あー、電波でメッセージ送ったのが伝わってないんじゃないですかねえ、うちらの進化プロセスや文明プロセスを示す、紙芝居を向こうの上空に表示したら、お互いの共通性を理解してもらえて話し合いになるんじゃないですかねえ」という、小学生みたいなトホホなアイデアが真面目に検討される。レムさん、あんた本気? 自分で書いててバカ臭いと思わなかった?

……と思っていると、これまで一切コミュニケーションの取れなかった相手が、いきなり人間の言語で高度な外交メッセージを送って寄越す。こう、コミュニケーションの基盤となる共通理解を一切確立しないまま、なんでそんなメッセージがくるの? ご都合主義すぎない? 安全を保証するとか中立の云々とか。人間同士でもなかなかむずかしい代物。さらにおめーらが月を破壊したから都市が1個壊滅したプンプン、と言われても人間は平然としてる。そして着陸許可が出たけど用心のため囮を派遣したら、案の定破壊された。ほら信用ならネエ、さあ報復だってんで地球人は一斉攻撃に出ようとする。冒頭の、復活遭難者がクウィンタ星の地上におりて、相手の本体らしきものを見つけて、あーこれは、と思ったとき一斉攻撃が始まり、彼も死んでしまいました。おしまい。

 

なんなの、これ。

つっこみ

まずさあ、冒頭では、かの宇宙飛行士ピルクスを助けなきゃと勇んででかけるパイロットの話が何章か続く。でもこの挿話に何か意味あるのか? 200年後にそいつが再生されて、このクウィンタ星の探索と最後の地上探検にでかけるけど、そいつが200年前からの復活者だということは、話の展開に何か関係するのか? 繊細になりすぎた未来人に比べ、過去の価値観を持つ復活人間が何かちがう視点を出すとかそういうのは?

何もないんだ。

つまり、冒頭の遭難と復活にいたるいろんな話は、このストーリー展開の中で何の役目も果たさない。

じゃあ、そこで何章もかけるのやめようよ。そいつは最後で、クウィンタ星人の姿をどうしても見たいと暴走するんだけど、それが何か冒頭のエピソードと有機的につながるかといえば、そうでもない。

そしてこの本は、何やら『ソラリス』のような、理解不能な相手に遭遇したときのファーストコンタクトの失敗がテーマ、といった話だと聞いていた。が、上のストーリーを読めば分かる通り、そういう悲劇的な相互理解の失敗とかいう話じゃないんだよ。人間が勝手なことして、クウィンタ星の領域に入り込んであれこれちょっかい出して、向こうが普通に防衛したら、いきなり月を破壊するという暴挙に出る。

ひたすら人間がバカなだけじゃん。レムはそれを半分AIのせいにしつつ、AIは人間を学習データにしていたから人間の攻撃性を相手に読み取ってしまって過剰反応を引き起こした、と主張するんだが、それでも人間バカすぎ。いきなり月を破壊するだ? 相手に本土爆撃くらわしたあとで、お空にでっかく紙芝居見せましょうだと? AI使おうと軍人だろうと、それはそいつがバカなだけだ。

レムは『SFと未来学』でさんざん、アメリカSFは登場人物がバカな行動とバカな選択しかしないと嘲笑して見せる。でもあんたのこの作品は何よ。人が何らかの力関係でバカな選択に追い込まれるとか言うんじゃないんだよ。「攻撃されちゃったよ〜」「よし、月を破壊してやろうぜ。報復と力の誇示としか思わないだろう、攻撃とは思わないだろう」って、思うよバカ。

なんとなく米ソ冷戦構造と軍拡競争についての危機感を反映して、誤解に基づくエスカレーションみたいなのを描きたかったのはあまりに露骨ですぐわかる。でもそのエスカレーションだって、お互い誇示はしたけれど、そこから先は必死で抑えただろうに。月を破壊って、これはキューバのミサイル危機でアメリカがいきなりキューバに原爆10発くらいぶち込むに等しい暴挙だろう。

その後に「あ、うちらの文明についての映画を無理矢理見せましょう」って、それで双方矛がおさまると思うわけ?

そして、いきなり相手が中立地帯だの安全保障だのと長文のメッセージを寄越す。バカ映画「グレート・ウォール」で古代中国人がいきなり英語しゃべるよりひでえわ。どんなアメリカのクズSFだろうと、ファーストコンタクトではまずコミュニケーションのプロトコル確立から入って「ミー、ターザン、ユー、ジェーン」だが、そういうの一切なし。それが許されるのはスタートレックくらいだろう (ちなみにレムはスタートレックもTNGも見ている)。相互理解の不能/失敗が十八番のSF作家がやっていいことじゃないだろ。

そしてラスト、その最初に出てきた復活パイロットが地上におりて、クウィンタ星人の「歓迎」を勝手に突破して何やら蟲の巣みたいなクウィンタ星人を暴いて……すると地球人が攻撃始めましたって、味方が地上にいるのに攻撃すんの?? 地球人、ホントどうしようもなくない?

いやあ、その理屈がまったくわかりませんです。軍事的な心根で宇宙に進出したことが誤解につながる、というのがテーマの一つのはずなんだけれど、軍事とかあまり関係ない。そういう選択をしなきゃいけない背景とか、全然見えてこない。

本作はレムのごみため

実は本作は、レムの論説とか読んでいると、彼の言わばゴミためだというのがわかる。いろんなところに描かれた思いつきを、あれやこれやと詰め込んだだけなのだ。

さっき、無駄だと言った冒頭のパイロット遭難と復活の話。あれは半分くらいは、レムが人格復活再生の問題についてあれこれ語って見せたいという理由だけのために存在している。

クウィンタ星は、海の一部を衛星軌道まで上げて氷のバリヤーを作っている。さて、この設定というのは、ぼくのこのブログを真面目に読んでいる人なら、実はすでにご存じだ。『SFと未来学』第2巻14章「ユートピアと反ユートピア」の章最後に出てくる、レムの模範演技……のはずが設定だけで逃げた代物の使い回しだ (pp.269-272)

あちこちで登場人物が滔々と語る理論や背景も、おおむねかつての論説の焼き直しだ。宇宙人と出会えないかもしれない、という話は、彼が『技術大全』その他で述べていたSETIの失敗の説明の蒸し返しだ。

もちろんぼくはエコロジストなので、こうした廃物利用自体は歓迎だ。でもそのためには、そうした廃物が集まって、ある種の一貫性ある全体を作る必要がある。『SFと未来学』で、やるといってやらなかった技術の社会的影響は? 高度技術を持ち恒星間飛行までできると社会がかわる、とレムは言っていた。でも、地球人側の宇宙船の組織、その背後にある軍や地球の社会はどうも相変わらずらしい。それでいいの? クウィンタ星の状況についての推定は、冷戦対立をそのまま安易に伸ばしただけ。それでいいの? よくないって『SFと未来学』でさんざん言ってませんでした? 地球人が勝手にそのパターンを妄想しているだけだよ、という逃げ口上も可能だけれど、

そしてそれぞれの要素は、その一回だけの登場でおしまい。二度と登場しない。つまりはお話と有機的に関連していないってことだ。

本書は、英訳でカットされた部分がある。乗組員の一人が、宇宙開発への男女共同参画とか言った世迷い言に怒る、という場面だ。それがそのキャラの人格描写貢献するのであれば、それについて一ページにわたって描く意味があっただろう。でも、まったく意味はない。彼が古い価値観の持ち主だったとか、なんかそれで表現したいことがあるなら——そしてそれがストーリーに関係するなら——それを入れる意味はある。でも何もない。レムが気まぐれで入れただけ。

AIの判断を信用していいのか、と登場人物が思案する部分では、レム的なAI史が延々と展開されてAI論みたいなのを出してくるが、その細かい歴史はストーリーに何も関係しない。まったくなくていい。以前どこかでAIとかについて彼が論じたものを流用しただけだ。

そういうのをいちいちありがたがることはできる。ぼく以外の日本人はレムの評論とかほとんど読んでいないので初見でそれぞれが新鮮に見える部分もあるのかもしれない。が、やはりそういうご高説がストーリーやキャラ描写に何も関係ないというのは、たぶんだれが読んでもあまりありがたいものではないはずだとは思う。

翻訳の下手さ

翻訳はかなりひどい。これは出た当初もあちこちで言われたのを目にしたように思う。

まずレムは一応がんばって「認知的な価値のあるもの」、つまり実際の科学的知見っぽいものを入れようとしている。つまりは、もっともらしいハードSF的なものにしようとしている。でも翻訳では、それをほとんどはずす。それは、訳がまちがっている、ということじゃない。が、「ああ、わからないで字面だけで訳しているな」というのが露骨に透けて見える訳語や注ばかりなのだ。そしてそのために、レムががんばってハードSF調にしているのがほぼ死んでいる。

たとえばレムの翻訳で、サイバネティクスを「人工頭脳学」と訳していいの? ダメでしょ。でも訳者はそれをやる。ガントリークレーンを、門形起重機、と訳されたら港湾/物流関係者は失笑するだろう。作中のAIコンピュータは第16世代コンピュータなんだそうだ。そこに訳者は「当時は第5世代コンピュータが開発中だった」と注をつける。日本の第5世代コンピュータってのは、それまでの使った素子に基づく世代とは関係ないインチキなイメージ命名なので、それをいちいち注で言われてもねえ。インダクタンスには注をつけるが、リアクタンスは抵抗に「リアクタンス」とルビをふるだけ。ああ、たぶんなんだかわかってないなあ、という感じ。確率的に有意な、というのは確率的に「有意味な」なる訳語。リーゼ・マイトナーがいなくても原爆は実現した、という部分で、著者はマイトナーに「ドイツの女性科学者」とだけ注をつける。ここで注をつけるなら、マイトナーが原爆実現にどんな貢献したか、というのじゃないかなあ。

それ以外の注の付け方もイースターエッグには注をつけるが、シュヴァルツシルト半径は注がない。ついている訳も、ことごとくピントはずれ。

そしてさらに、continental breakfastは原文のままにして(大陸式朝食)なる訳をカッコに入れてつけて、そこにそれがどんな朝食であるかの注が出ている。が……

まさに全編、そういうやり方になる。表面的な言葉の意味だけ説明するけど、その文が持つ意味はについては何も説明がない。ここは、AIが発達して、いずれ人間と子供を作ったり、いっしょに朝ご飯を食べたりするようになれば、といった思索のところで出てくる。いっしょに朝ご飯を食べたら、というのはつまり、夜をともにする、セックスするという意味だ。それを無視して「大陸式朝食」そのものの説明してどうすんの? 「なぜ消防士は赤いズボン吊りを使うのか」というナゾナゾと同じで、どうでもいいところに意識が行ってしまっている。おそらく訳者自身、わかってないんだと思う。あるいは、周知の事実、とでも言えばいいところが「だれにとっても秘密ではない」。原文の完全な直訳だ。

arbitraryということばがある。「恣意的な」と訳されることが多いけれど、文脈によってちがう。恣意的=おまえが勝手に決めた=任意の=どうでもいい=好きに選んだ、などいろんな意味合いになる。それをきちんと読み分けて訳し分ける必要がある。

ところが訳者はこれを「任意」と全部訳す。恣意的な選択、としてほしいところで「任意的な選択」と訳す。トランプの家は好き勝手な高さにはできず、自ずと上限がある、好き勝手にいくらでも高くはできませんよ、という部分で、任意の高さにできないと訳す。

訳者は巻末で、本書の成立事情をいっしょうけんめい年譜にしてみせる。そして何やら文芸的な解釈をあれこれ加えてみせるんだが、そういう分析をする以前に、この訳者がこのお話を字面を追う以上に理解できているかどうか、ぼくはこの訳文からはあまりうかがえない。途中の注で、「この単語はピンチョン『重力の虹』に出てきて云々とか、それはレムと関係ない。でも訳者は、そういうおブンガクの知ったかぶりが読者になにか意味があるものと思っているらしい。

まったくありませんから。

まとめ

本書はこのように、長いけれど実はこれまでのいろんな書き損じの寄せ集め。無理矢理お話を創ろうとしたけれど、支離滅裂で話として有機的にきちんと構築されず、肝心なところで人間がどう見てもバカなことをやるだけ。それも、そうしたバカな選択をせざるを得ない理由もない。ある種の力学の作用でそういう選択肢かなかった、というわけでもない。どうもレムは、その選択が明らかに馬鹿げているとすら思っていないふしがある。

記述はいっしょうけんめい凝ってみせる。でも、通路を出て偵察機に乗るプロセスの説明と(手を伸ばして手すりをつかんで脚をあげて敷居を超えてブーツで踏み出して云々)、本当に重要な部分とがまったく差別化できていない。つまり記述にまるでメリハリがなく、無駄に細かいだけ。

ストーリーも必然性がなく、レムが重視していた「認識論的意味」もあまりない。それを出そうとして、あまり意味のない細かい背景の説明ネームが続くが、しょせん架空なので読者にとって意味もない。新技術がもたらす社会的な考察もない。

よってぼくは、これはどうしようもない愚作だと思う。ネットにある感想文を読むと、レムだから深読みして感激しなきゃいけないという義務感にかられている人が多い。無駄にあれもこれもぶちこんでいるから、一つくらいは琴線に触れるものもあるかもしれない。

が、ぼくにはなかった。

ちょっと最近、レムのノンフィクションいっぱい読んで呆れることがあまりに多くて、それが本書の評価にも悪影響を及ぼしている可能性はある。が、それを確認するために2度目を読むことは……たぶんないだろう。

ロッテンシュタイナー「スタニスワフ・レム:影をこする男」

長いことスタニスワフ・レムの西側世界への代弁者を務め、レム普及に尽力し、エージェントも務めたフランツ・ロッテンシュタイナーのレム評。SFマガジン2004年のレム特集に出た彼のインタビューと当然重なるところは多いはず (そっちは見損ねているのではっきりとはわからないけれど)。

レムがロッテンシュタイナーを訴えたのは1995年のこと。昨日紹介した「SEX WARS」収録の1994年エッセイでは彼を「魂の友」とまで呼んでいるのに、急転直下で何があったのやら。が、レムの変なかんしゃく持ちの部分はいろんな人が証言しているので、たぶんロッテンシュタイナーはそんなにウソは言っていないはず。当然ながら彼は、いまやレムの名前も聞きたくないとのこと。仕方ないよなあ。

しかし最後のエピソードは楽しい。他のエッセイでは、パソコンを買って三日後に壊して店だかなんだかに怒鳴り込んだとかいろいろ言われていて、『高い城』で子供時代に触ったものすべてこわした、と書いているのは、大人になっても直らなかったのね、という感じではある。そしてここの最後のエピソードは、その理由がよくうかがえるなあ。

 

スタニスワフ・レム:影をこする男

フランツ・ロッテンシュタイナー VICE (TV Magazine), 2012年11⽉21⽇号

眼鏡をかけた高齢の男性が屋外の木々の前で立ち、右腕を高く上げて人差し指を天に向かって真っ直ぐに指差している。左手に薄い上着を持ち、吊りズボンを着用した白黒写真。
スタニスワフ・レム

1970年代、フランツ・ロッテンシュタイナー博⼠は、⾃らの叢書『世界のSF』(Insel Verlag)で、フィリップ・K・ディックや安部公房、コードウェイナー・スミスといった 作家を紹介し、多くの作品をドイツ語圏で初めて刊⾏しました。その後、彼はニューヨー クでアンソロジー『異邦からの眺め』(邦訳早川書房) を出版し、欧州のSFをアメリカの 読者に近づける試みを⾏い、特にスタニスワフ・レムをアメリカで初めて本格的に紹介し ました。ロッテンシュタイナー博⼠は⻑年にわたりレムのエージェントを務め、両者は親 密でありながら必ずしも友好的とは⾔えない関係を続けていましたが、1995年にレムがオ ーストリアの裁判所でロッテンシュタイナー博⼠を相⼿取り、10万ドイツマルクの訴訟を 起こしたことで、不和のうちに終わりました。今回の特集では、ロッテンシュタイナー博 ⼠にレムとの共同作業について、そして現代でもっとも論争を呼んだ哲学者・作家の⼀⼈ の⼈⽣と思想に対するきわめて個⼈的な洞察を語っていただくよう依頼しました。これが 彼の証⾔です。(編者:トム・リトルウッド)

 

ルキアノスの『真実の物語』以来周知のこととして、⾃分が真実を語っていると強調す るのは、嘘つきにありがちな⽂学的技巧だ。そしてポーランドのSF作家スタニスワフ・ レムの愛⽤句の⼀つが「プラトンは友である、しかし真理はもっと友である(Amicus Plato, sed magis amica veritas)」だったことで、もっと警戒⼼を抱くべきではあった。だ が当時レムがアメリカ⼈翻訳者マイケル・カンデルへの⼿紙で書いたように、私は「ろく でもない単細胞」で、彼を真理を愛する⼈物だと信じていた。彼が他⼈を中傷した いときにこの句を好んで使っていたのも知っていたというのに。周知のように、嘘がもっ とも多く語られるのは恋愛と戦争——そして法廷だ。これは、私たちの関係の末期にレム がウィーン商事裁判所で私を訴えたときに、⾝をもって思い知らされた。

眼鏡をかけた中年男性が低アングルから見上げ、大きく目を見開いた真剣な表情で、薄暗いピンボケした本棚を背後にこちらを見つめているクローズアップ写真。

レムと初めて接触した当時、私は熱⼼なSF愛好者で、主にアメリカ作品を読んでいた が、世界中のSFにも強い関⼼を持っていた。東ドイツ(GDR)版の各種レム作品を読ん だ後、『砂漠の惑星/インヴィンシブル』がドイツ語で刊⾏されたときに、彼に書評を送っ た。それがきっかけでレムから⼿紙が届き、活発な⽂通が始まった。当時レムは⻄側 のSFについての本を書きたがっていたが、情報源にアクセスできなかった。どうやら私 を便利な供給源と⾒たのだろう。彼に⼤量のSF本を送り続けたのだが、彼はそれを返さ なかった。「当時のポーランドでは、その本の購⼊に貴重な外貨が使われたと判断するの で、返送は禁じられていた」というのが説明だった。レムはそうやって送られた本を、ポ ーランドの古書店で売却していたのだった。1970年頃、私はドイツのインゼル出版でSF を出版する機会を得た。後にズーアカンプ社でもそれをやり、私の理想とするSFに最も 近い作家としてレムを刊⾏してもらった。その本は最初から⼤成功を収めた。そのうち に、レムの⽂学エージェントになればもっとレムの役にたてると考え、1995年頃まで⻄側 諸国での彼の契約⼀切(ドイツを除く)を約300件扱った。ドイツでは私は⼀度も彼のエ ージェントになったことはない。ズーアカンプ社はレムにとって幸運だった。彼のSFは いずれ刊⾏されただろうが、『SFと未来学』や『偶然の哲学』のような⼤部の評論・随筆 作品はほとんど反響もなく、膨⼤な翻訳費⽤を正当化できるほどのものではなかったから だ。[訳注:インゼル社もズーアカンプも、レムの⻑⼤な論説を次々に出している。]インゼルやズー アカンプから本が出たことが、ドイツ語圏でのレムの注⽬度を⼤きく⾼めたのはまちがい ない。

ドイツでの成功は、裏⽬に出た⾯もあった。レムは世界中で同じくらい成功できると思 い込んでしまったのだ。だがまったくそうはいかなかった。彼がドイツで稼いだ額は、他 の⻄側諸国すべての合計額を上回っている。アメリカでの書籍刊⾏をきっかけに多くのレ ム作品が出たが、売上は控えめで、印税はもともと低い前渡し⾦をほとんど超えることは なかった。唯⼀『ソラリス』だけが、特にタルコフスキーの映画化のおかげで、控えめな がら成功を収めた。時折、ポーランドのファンがレムの「アメリカでのベストセラー状 況」を尋ねてきたが、実際の売上は⾮常に少なく、⾼い翻訳費⽤を考えると出版社ハーコ ート社が儲かったはずはない。ハードカバー版はせいぜい3000〜4000部、ペーパ ーバックも⼤してマシではなかった。

ついに決裂したとき、レムはアメリカに新しいエージェントを置きたがっていた (だが 私が⼿を引いて以来、新しいレムの書籍が⼀冊たりともアメリカで刊⾏されることはなか った) [訳注:2012年の執筆当時この後、『技術⼤全』が2014年に英訳され、その後いろいろ 出るようになった]。もっと「ダイナミックな」出版社を望むと⾔うのだ。だがアメリカで は、成功していない作家を積極的に売り込むことは稀で、ほとんどの出版社なら彼の本な どとっくに廃棄していただろう。彼はハーコート社にますます侮辱的になる⼀連の⼿紙を 送りつけて、同社との関係を断ち切った。短編集の権利を取り戻したかったからだ。翻訳 済みの短編を別の出版社に売れると考えていたようだが、今⽇に⾄るまで刊⾏されていな い。

私は⻑年にわたり何度かレムを訪ね、会っている。クラクフでは、彼は質素な⼾建て住 宅に住んでいたが、とても気配りの⾏き届いた、慇懃なホストだった。唯⼀の贅沢はメル セデスと、農夫の妻が裏の畑からこっそり定期的に運んでくるハムだけだった。後に彼は 外国からの収⼊で巨⼤なヴィラを建て、地元の⼈々の憧れの的となり、参観客が絶えない 名所となった。共産主義時代、ポーランドの裏通貨であるドルがあれば、ポーランドにな いどんなものでも⼿に⼊った。バスルームはイタリア産の⼤理⽯で造られ(ワヴェル城の 改修⼯事の余り物)、屋根のトタンは農村協同組合の余剰在庫からきたし、それを建てる 建設作業員たちは、ときどき公式の⼯事現場から「休暇」を取って機械ごとやってきてレ ムの家を建てたのだった。

白黒写真。サングラスと半袖シャツ、短パン姿の男性が巨大な岩の頂上に腰を下ろしている。低角度から撮影され、空を背景に男性がカメラを首にかけ、片足を曲げて座る姿が力強く捉えられている。岩肌の質感が詳細に写った登山・探検的な雰囲気。
1955年、ザコパネ近くのタトラ⼭脈の⼭頂のレム

私は彼の著書⾒本が積まれた地下室で寝た。クラクフで初めて本気で怒るレムを⾒た。 だれか役⼈が電話をかけてきて、彼はただ「No, no!」と叫んでいた。その後、彼の奥 さんがいつもみんなをなだめようとしていた。ウィーン滞在の前、レムは何度かオースト リアで休暇を過ごしたが、旅⾏は好きではなく、「不動産」と⾃称していた。ポーランド⼈ のローマ法皇が初めて祖国を訪れたときも彼はオーストリアにおり、奥さんが敬虔なキリ スト教徒だったため、私は彼⼥が教皇のウィーン訪問を⾒られるようにするためだけにテ レビを買ってあげた。

レムとの関係で私が犯した最⼤のまちがいは、おそらくレムが戒厳令のポーランド[1981- 83]を離れたとき、オーストリアに招いたことだろう。彼は表向きは、科学知識だけに興味 を持つ優れた知性であるかのように振る舞いたがる。初期の『シュピーゲル』誌のエッセ イでは、「論理の奴隷」を名乗り、論理的にしか考えられないと述べていた。そして 必要とあれば、彼は⾮常に魅⼒的に振る舞えた。だが1980年代にウィーンで数年間暮ら し、ほぼ毎週会って⾝近で観察したときのレムは、⼤⼈物ではなく、⾮常に不安まみれ で、疑⼼暗⻤に苛まれ、それを傲慢な態度で覆い隠そうとする⼈物で、気まぐれと偏⾒ま みれだった。会話は繰り返しばかりのモノローグだらけで、反論されるとますます⽀離滅 裂になる。

⽭盾に満ちた⼈物ではあって、ある⾯では気前が良いのに、別のときには死ぬほどセコ く、知らない⼈でも盲⽬的に信頼するかと思えば妄想的なほど疑り深い。⾦には執着する が、合理的な計算⾼さはない。ウィーンでの⼝癖は「⽖に⽕を点すような暮らし」だっ た。ズーアカンプ社出版⼈のウンゼルト博⼠は、必要ならウィーンの弁護⼠を紹介すると申し出た。レム は弁護⼠など必要なかったのに、わざわざ⾃⼰紹介にでかけ、数年後にそれで⾼額の請求 書が来た。相⼿の弁護⼠は挨拶しただけだったのだが。

時には⾦などまったく気にしない ⼤作家を装ったかと思えば、⼩銭単位まで値切る。そしてこの両者の間で逡巡があれば、 マンモン(富の神)が芸術家に勝つ。 要求を通したいときは「国交断絶」で脅す。交渉を始める際にはまず、こんな⽬に あわされたと蒸し返して激怒してみせ、要求が通ると徐々に落ち着くという⼿⼝が好みだった。

共産主義は⼤嫌いで、私的な場ではそれを隠さなかったが、「殉教者」になる気はない と強調していた。公の場では、政治的に微妙な問題に直⾯したら⾔葉巧みにかわした。彼 の共産主義嫌悪は、私の⾒たところ、政治的信念からというより、主に共産主義の幹部た ちがバカだと思っていたせいだと思う。それにレムは、⾃分の意志より上の権威など認め なかったのだ。国家指導部に抗議の⼿紙を送りはしたが、それは純粋なポーズでしかなか った。それらの⼿紙は棚上げされるだけで、公然とそれを表明しなければ、⾃分に害が及 ばないことを彼は⼗分に承知していたはずだ。そのくせ、彼は体制が⾃分を⽀援するのは当然だと考えていた。政治局員のシュラフツィ ツが⼀度彼を訪ね、ノーベル賞候補に推薦するなど便宜をはかりたいと約束した。だが実 現する前に失脚してしまった。レムは⾝の危険を感じると沈黙したが、強い⽴場にあると思 えばかなり攻撃的になった。たとえば構造主義に対する論争では価値判断を排除する構造 主義に反発し、「⽂化」の擁護者として論争の渦中に⾶び込んでいった。ただの⽇和⾒主義 だ。

彼は他⼈を、⾃分の役に⽴つかだけで判断した。ヴェルナー・ベルテルはレ ムが本当に感謝すべき編集者で、ウンゼルトにレムとの契約 を奨めた⼈物だ。ベルテルがインゼル社を辞めて編集⻑としてS.フィッシャー社に移る と、レムはベルリン科学コロギウム滞在中に⼩説『⼤失敗』を95,000マルクで彼に売っ た。ウンゼルト博⼠にはかなりの恩義があるわけで、お礼の電話⼀本くらいはあってしか るべきだろう。だがレムはこれを⾃分の「独⽴の証」と⾒なした。「⾦がウンゼルト博⼠の 懐から出たものではない」からであり、ウンゼルド博⼠の60歳誕⽣⽇を祝った「おべっか使いのズーアカンプ社の作家たち」とは⼀線を画したいからだとのこと。だが実際にはな んともけち臭いだけだ。だが、ドイツのペーパーバック出版社の編集⻑となったベルテル は、バルトシェフスキの本へのレムの序⽂を不適切だと判断したことで、レムの不興を買 った。出版社はベルテルの判断を覆してレムの序⽂を採⽤したが、それ以来レムはベルテ ルの名前を出すだけで顔をしかめるようになった。彼は敵となったのだ。

白黒写真。二人の男性が木製のベンチに腰掛けている。右側の男性は眼鏡をかけ、髪が薄くサスペンダー姿で腕を組み、横を向いている。左側の男性はサングラスをかけ、白いシャツ姿でカメラを持っている。背景は木々や街の風景が見える屋外の桟橋やデッキのような場所。
シェーンブルン宮庭園の著者とレム

レムが私に対して10万ドイツマルクの訴訟を起こしたのは、私がその費⽤を負担できな いと思い(『泰平ヨンの現地検証』には、裕福な⼈物が相⼿を訴訟で死ぬまで追い詰める 場⾯がある)、私が彼を怖がっていると思ったせいだろう。以前にも彼は弁護⼠を通じて⼿ 紙を寄越し、「何らかの形で」彼を侮辱した場合(およびその他奇妙な条項いくつか)、⽰談 なしに約7万マルクを⽀払うことに合意せよ、と⾔ってきた。彼は敗訴したが、その裁判 は何ら意味のあるものについてではなく、単に私に費⽤をかけさせるためでしかなかっ た。レムは控訴もしなかった。

だが、私が仲介した契約については「当然」合意した⼿数料を引き続き受け取れると保 証しておきながら(彼は当然のことを強調したがり、そしてすぐにそれを破るのだった。 私は真に受けたことはなかった)、その後すぐに出版者に対して契約の更新を要求し、⾃分 に直接⽀払いをしろとか、その他⼿数料を免れるためだけの⼯作を仕組んだ。当然、⼿数 料の精算は⼀切しなかった。おそらくそんな少額について訴訟する意味はないし、ポーラ ンドの裁判所で「ポーランド最⾼の息⼦」に対して勝訴する可能性は低く、英語書類をポ ーランド語に翻訳する費⽤も⾼額になると踏んでいたのだろう。

レムは⾃分の⾔葉は真実であり、少なくともそれを他⼈が疑問視してはならないと思っ ていたらしい。だが、「⾃然の法則」がいつも彼のしばしば気前の良い約束を守るのを妨 げた。私はかつてレムを「クラクフの弁証法的賢者」と呼んだが、これは⼤まち がいだった。レムは確かにきわめて頭がよかった(南ポーランドで最も賢い⼦供だったと ⾃慢したがった)。とはいえ数学⾳痴という⽋点も抱えてはいたが。しかし頭はよくても 「賢者」ではなかった。ある意味でいつまでも⼦供のままで、しかもかなり意地の悪い⼦ 供だ。⼈間性についての理解は極めて浅く、社会性も未熟だった。彼の最も親しい(おそ らく唯⼀の)友⼈である⽂学理論家のヤン・ブウォンスキと作家のヤン・ユゼフ・シェパ ンスキが、彼の作品に全く興味を⽰さなかったことは、彼にとって⼤きな打撃だったろう。シェパンスキは短い⽂章で「想像⼒がある」と認めただけ、ブウォンスキ はSFに関する論説を一本書いただけで、いかにそれになじめなかったかがはっき り述べられていた。

SFにおけるレムの業績は確かに傑出していたが、彼は背伸びをしたがった。「科学⽂献 なしでは⽣きられない」という主張もその⼀つだ。実際には『サイエンティフィック・ア メリカン』ですら流し読みする程度のくせに、それを「SF屋ども」向けのゴミクズ呼ばわ りしていた。⽴派な物理学教授でエドワード・テラーらと共同研究もした著名なSF作家 グレゴリー・ベンフォードに対してさえ、宇宙論の問題について書く資格がないと⾔い放 つ始末だ。本物の科学者で⼤衆科学誌に頼らなくても書けるSF作家は⼤勢いるのだが。 彼は⼥性を蔑視していた。アーシュラ・K・ル・グウィンが、『ニューヨーカー』誌に載っ たレムの⾃伝的エッセイ[邦訳「偶然と必然の間で」『⾼い城・⽂学エッセイ』所収]で⾃分に触れ なかったと不満を述べたとき、彼は「私の作家としての成⻑にあなたは何の役割を果たし ていない」と(正当にも)答えた。だがその際に彼は私相⼿に、⼥は想像⼒が ⼆流だから男性ほど上⼿く書けないとご託宣を垂れた。『⼤失敗』では、⼥性は出産する 存在だから宇宙にくるなと書いた(アメリカ版ではこの部分は削除された[邦訳には入っていて解説で説明あり])。

作家としては驚くべき創意⼯夫に満ちたレムだが、観察⼒の完全な⽋如を⽰すエピソー ドとして、ヤツェク・ジェショトニクが掘り起こした話がある。クリスティアン・グラー フ・フォン・クロコウが『三つの世界の客』の中で、このクラクフの作家仲間について次 の短い逸話を語っているのだ。

1982年から1983年にかけて、私は彼と⼀緒にベルリンの科学コロギウムで⼀年を 過ごした。到着して間もなく、彼が私のところに来た。

「フォン・クロコウさん、申し訳ないが、ここをすぐ去らなければなりません」

「いったいどうしてですか、レムさん?」

「私の前に泊まった奴がブタだったんですよ。ええ、ブタ野郎です。浴槽がないとやっていけない。そのことで頭がいっぱいだ。でもそれが使えないんです」

「何で使えないんですか?」

「浴槽の中の⿊い丸い汚れです。前の野郎がきれいにしていか なかったので、それがもう完全に染みついてしまっている。この三⽇というもの、街 で⼿に⼊る最も強⼒な洗剤でこすり続けているのに、全く落ちないんです」

私はすぐに処理すると約束し、管理⼈を呼んだ。そしていっしょに浴室に向かった。

「ほら、あの⿊い縁——あのブタ野郎め!」とレムは再び憤慨した。

管理⼈と私は顔を⾒合わせ、私は こう⾔った。「レムさん、失礼ですが、照明具を動かしてもいいですか?」

照明具は動いた——そして同時にその影、つまりその浴槽の⿊い輪も。かの⾼名なSF作家は 三⽇にわたり、影をこすり続けていたのだった。

 

(“Der Mann, der den Schatten scheuerte” by Dr. Franz Rottensteiner ⼭形浩⽣訳)

レム『セックス・ウォーズ』(1996/2006): 散漫な連載時事コラム集

レムの未訳書で、ポーランドの電子書籍で安く出ていたのでまとめて買った。レムがおセックスについて書くとなると、まあエロいわけはないんだけど、一応まあ見るだけみておくか、という感じ。

publio.pl

まず最初の2章分、SEX WARSはどこに出たのかよくわからない。1992年に書かれている。あと『高い城・文学エッセイ』の巻末のリストを見ると、1996年に本として出たらしい。がその中身は実にくだらない。「いまや人口爆発が切実な問題になっているので、人口抑制をしなくてはならない。地球温暖化も資源枯渇もすべては人口問題の副産物にすぎない! だから21世紀はスター・ウォーズならぬ、セックス・ウォーズが起こるだろう!」

……自分で言っていてダサいと思わないのか、という以上に、何の何に対する戦争なのかよくわからん。これは反出生主義だというんだが、哲学的意味での反出生主義じゃなくて、むしろ反出産主義ですな。そしてそこで提案されているのは、みんなが期待しているような、DMM同人のセックス絶倫競争なんかではなくて、むしろセックスさせない競争。つまり:

  • 女性の生殖可能年齢を短縮させるホルモン療法
  • 教会による「埋めよ増やせよ」倫理の改変
  • でも具体的にどうすればいいかはわからないが、この問題を注視しているオレえらい

だそうです。

で、この本はそれにもっといっぱいくっつけて、2006年に出ている。追加された記事は、ポーランドの文芸カルチャー月刊誌 Odraに1993-2003年にわたり連載されたレムのコラム「森林的考察」(Rozważań sylwicznych) のコレクション。まあ大盤振る舞いで85本ほどもつけてある。

たくさんあるのは結構なんだが……内容的にきわめて重複が多い。月刊誌だから、テーマが少し繰り返しになっても問題はないんだが、それぞれの回にもまとまりはぜんぜんなく、思いつきをそのまま垂れ流していて、何かビチっとした考察や分析が行われているわけではない。ちょっとまとまりなさすぎ。

そしてひたすら繰り返されるテーマは

  • 人口爆発はヤバい。そのためにセックスを抑制する政策/薬がいる
  • そのために優生学をマジでやったほうがいい
  • バイオ技術の発達はすごい
  • 情報洪水がひどくなっていて、商業主義のクズばかりが流れてくる
  • VRが普及してきた、オレはそれを『技術大全』で予想したが無視された
  • それはポーランドが辺境だからだ。ポーランドは哀れだよ……
  • カーンやトフラーは英語だから未来学で大儲けしたが、全部予想はずれていいツラの皮だ。
  • 未来予測なんかはずれるに決まってるんだよ。でもオレ当てたりしてるけど。

ここに加えて

  • ポーランド文壇のゴシップ
  • 最近のポーランドを中心とした本や雑誌の記事、およびテレビや映画の話
  • 時事政治についての感想文
  • 特にテロ問題についての懸念
  • 過去のポーランドの思い出

昨日見たいに概要つけようかと思ったけれど、100本近いやつに見出しとあらすじつけるの面倒すぎだし、内容的にそんなことする価値もない。不確定性原理が、測定を厳密にやったら否定されたとか、怪しいこともあれこれ書いているし、大丈夫かなあ。

ポーランド読者だけに向けて書かれていることもあるし、それですらかなりしょぼく、読む価値はほぼない。ただ、ときどき過去のポーランドの思い出、自分の創作のやり方がちょろっと出てきて、まあそういうのを拾ってみてもいいかも、とは思うが、そういうのは研究者とかがやればいいこと。

AI全訳は、一応ここにあるので、見たい人は見てもいいけど。細かくはみてません。

https://cruel.org/books/Lem/LemTech2000/LemSexWars_j.md

レム『まばたき一瞬:科学技術の進歩』(2000) :レム、衰えたり

2000年に出たレムの、ほぼ最後に近い数冊の一つ、Okamgnienie. 『技術大全』『対話』をふり返っているというので、お手並み拝見と思って読んでみた。75ページしかないので、ほとんど一瞬。

"スタニスワフ・レム著『OKAMGNIENIE』のブックカバー。オレンジと黒を基調とした幾何学的で抽象的なデザイン。大きくスタイリッシュに描かれた「LEM」の文字が中央を支配し、左側に縦書きで作者名「STANISŁAW LEM」。上部には月齢を表すような円の並び、下部には出版社「BIBLIOTEKA GAZETY WYBORCZEJ」の文字。モダンでグラフィックな装丁。"
レム「まばたき一瞬」(2000) 電子版カバー
だが……

その中身はかなりトホホ。最近の科学技術の動向をいろいろ得意げに述べて、『技術大全』や『対話』とちょっと重なるところがあると、当たった/当たらないとは言うが、体系だった比較、かつての主張の基本となった考え方の変化などについてのコメントはない。

またその科学技術の動向も、通俗科学解説書レベルのお話を一歩も出ない。かつてはもう少し高度な情報源を持っていたようだが、追いつけていないなあ。仕方ないんだが、それでも衰えたなあという印象はぬぐえない。まあ79歳のときに出た本だから……

そして全体に諦めムードと悲観論。SETIがうまくいかず、ウチュージンが見つからなかったのは、レムにとってかなり大きな挫折だったみたいだ。宇宙旅行もつらそう、遺伝子操作その他もぜんぜん思った通りにいかないし、情報氾濫はどうしようもない、温暖化だのも発生しちゃうし、人口問題もでかいし、変化がはやくて哲学者の思索なんか無意味だし、技術者が現実的にその場で対応するしかないよ……

まあその通りではあるんだが、あの『技術大全』のぶっとんだ話に、あきれながらもちょっと驚愕して感動した身としては、こういうチマチマしたまとまり方になっちゃったか、と思うと少し残念なものがある。

cruel.hatenablog.com

内容的に、全訳するほどのものじゃない (AI翻訳で一応全訳したけど、整形するのも面倒)。以下に要約を作った。全体の要領を得ない様子、同じことが繰り返されるまとまりのなさ、テーマも整理されておらず、その場の思いつきであれこれ言っている感じ、そしてグチっぽい諦め感は読み取れるとは思う。最後の最後、携帯VR環境で云々というのは、スマホにかじりついてYouTubeショート見てるガキどもを予言しているとは……まあ言えなくもないかな。

どこかの連載かとも思ったが、それぞれの章ごとの長さがぜんぜんちがうので、どうもちがうみたい。といって、単行本として一気に出たにしては、あまりにまとまりがない。いろんな内容、もっと整理できるはず。口述筆記っぽい感じ。どういう性質の文なのかはよくわからないが、まあわかったところで、それで何か変わるわけではない。

スタニスワフ・レム『まばたき一瞬:科学技術の進歩』(2000) 要約

序文:技術予測はむずかしい

  • 5年前 (1993) のドイツ『21世紀の技術』という報告書は、インターネットやバイオ技術は素通り。技術予測はむずい
  • 昔、『技術大全』と『対話』は、東欧検閲体制でかなり厳しく取り締まられた。半世紀前の予想の一部はあたり、一部は当たらなかった。

ジレンマ:実際の技術進歩のほうが早い!

  • 『技術大全』と『対話』の時代に比べて技術進歩は加速した。
  • ゲノム解読が起こり、バイオコンピュータが出そう。そろそろシリコンの時代は終わる。
  • ナノテクとあわせてAIが実現する。
  • 現実が哲学思想なんかよりすばやい。

盗作と創造

  • 文明は生物工学に大きく転換する。これは自分が半世紀前に予想した通りだ。
  • 『対話』は実は、サイバネの衣を被った体制批判だった。
  • だがクローンを見てもわかるように、なかなかうまくいかない。事故も多いので注意は必要。

不死をめぐる論争

  • 不老不死はこれまで真面目に扱わなかったが、可能性はあるかもしれない。人工臓器やゲノム解析、新薬が新しい可能性を実現。
  • ただし生命は不可逆で死ぬのは避けられない。脳を若返らせたら人格が消える。まだまだ実現にはほど遠い。

致命的な状況

  • 最近の科学ジャーナリズムはやたら扇情的になっている。未来予測は謙虚にやろう

宇宙文明/地球外文明の統計/N = R* f_p n_e f_l f_i f_c L

  • SETIは完全に失敗。生命に適した星はあっても技術文明構築のハードルは高い。おまけにバクテリアさえ見つからない。
  • 地球でも高度技術を発達させた文明はまれだ。ETはいないかもしれない。

(3章にわたり同じ内容を繰り返している)

宇宙における人間

  • 人間は地上に適応しているので、宇宙は苦手。無重力で筋肉や骨がすぐボロボロ。
  • 人工重力はつらいし、火星までは旅行時間が長すぎて無理。銀河植民もたぶんあり得ない。

建設者の視点から

  • 機械意識の哲学談義は無意味。建設者的に、目的遂行の視点から考えないと。
  • 意識はシステム全体の協働によるもので、局所化できないのだ。

ロボット工学

  • ロボットも急速に進歩。まさかペットロボットなんかが出るとは思っていなかった。
  • 簡単に思える掃除などの作業ほど面倒で費用がかかる。
  • これも哲学談義は無意味。エンジニアの試行錯誤で決まる。

マクロク/ 知能・理性・叡智/意識のパラドックス/知能は偶然か必然か

  • クローンや幹細胞は進歩しているがまだまだ。遺伝子編集も未知が多い。人間を自己進化させるまでは遠い。
  • 知能は機械的に構築可能だが、理性・叡智は人間的・道徳的次元が強い。
  • 意識はよくわからない。『技術大全』での機械意識の扱いはあまりに幼稚だった。
  • 人間の知能は、必然ではなく局所的で偶発的。人工知能もまだまだ 。謙虚さが必要

(4章にわたり似たような話の繰り返し)

危険な概念

  • 生物学に物理学者が入り込んでいるが、これは必然。ただし生命は複雑でむずかしい。
  • 遺伝子操作も困難で、ちょっとした遺伝病の治療くらいで終わりそう

もう一つの進化

  • 『技術大全』は、生物進化と技術進化との対比がテーマだった。
  • 技術進化は生物進化をもっと真似ろ。技術は自然を超えられる!
  • タンパク質を超えた合成人工進化を実現させろ! まだ妄想だがあきらめるな!

困ったこと

  • 科学の進歩がはやすぎて、科学誌ですら古いネタしか出ていない。
  • 地球や火星は、かなり激しい変動を経てできあがったみたいだ。火星に生命の痕跡があるかも

変化

  • 未来だけでなく過去の理解も変化している。スノーボール/アースとかカンブリア爆発とか
  • なぜ人類の頭がでかくなったかもわからない。何か目的的に進化するもんじゃない。

第三千年紀の到来に際して

  • 『技術大全』と『対話』は、当たったところもあるしはずれたところもある。
  • 気候変動は大きな問題、不老不死はむずかしい。意識とロボットもよくわからん。
  • 昔は軍事方面にあまり触れられなかった。あと新技術はいろいろリスクもあるから気をつけないと。

未来は暗い

  • フクヤマ『歴史の終わり』は進歩史観に基づくバカだね。
  • おれは論説では進歩を論じるが小説では人類の幸福のための思考実験をしてる
  • 科学は軍拡とかで悪用、進化もゲノム解読があまし効果ない。
  • 民主主義もお先真っ暗で安定した進歩なんか幻想だね

情報過多

  • 大きな危機は情報洪水。センセーショナルな報道、思いつきの滑稽な予測。
  • 今後は携帯VR環境でみんな幻影の中で生きるようになるんじゃないの。

付記

もったいないから全訳ファイルおいとくわ。

https://cruel.org/books/Lem/LemTech2000/LemTech2000.md

『軌道に乗る:スタニスワフ・レム初期雑文集』 (1962) 概要:現代的価値はないが、資料として。

まだナイジェリアの査証がおりず、再度現地出発が延期。これ以上のびると、もう現地行き中止せざるを得ないが、どうしようか……

と考えていても何もないし、飛行機に乗っていたはずの時間が暇なだけなので、昨日みたレムの初期エッセイ集『軌道に乗る』(1957)をざざっとAIに訳させて眺めておりました。

publio.pl

昨日紹介したSF論はおもしろい。その他いくつか。あの『高い城・文学エッセイ』に載っている「ドストエフスキーについて遠慮なく」も収録されている。

が、その他は1950年代ってこともあって、どうしようもない駄文。あと、初出が出ていないんだが、新聞かなんかに載ったコラムがほとんどみたい。非常に短いものばかりで、そういうのだと、たとえば「SF作品ってくだらないのバッカだぜ、こんなのとか〜。ダメだね、死ねよ」みたいな嫌味な罵倒も、軽く読み流せて気にならない。

いちおう、AIに全訳させたんで、訳文はあるがLaTeXで整形やチェックする手間も惜しいくらいのくだらない代物ばかりなので、中身一行要約してすませよう。そのほとんどは、現代的な価値はまったくない。当時のレムの、ソ連東欧翼賛的な立場 (どこまで本気かはわからない) を確認するための資料としての意義しかない。

昔はこの手のエッセイとか、いろんなSF作家とか書いていたし、あと團伊玖磨の『パイプのけむり』シリーズとか、特に最後の部分の本当にくだらないエッセイとかはそんな雰囲気だなあ。『パイプのけむり』は、母親がおもしろいぞと言っていて、中学の図書館で少し読んだらぬるくて全然おもしろくなかった。ほぼ忘れたが、ファッションについて尋ねられて、聞きかじりで、王特中のデザインがいいと言って、あとでそれがオートクチュールを聞き間違えていたのに気づきましたチャンチャン、というのが、中坊ながらあまりにくだらなくて倒れそうになったのは記憶している。が、閑話休題。

スタニスワフ・レム『軌道に乗る:レム雑文集』要約

第一部:導きの星 (文学芸術について)

SF: (1959)

cruel.hatenablog.com

推理小説について (1960)

推理小説はある種のパターンにはまってしまっている。ヨーロッパ型のえらい探偵型のやつはトリックの奇抜さに頼るしかなく、だんだん荒唐無稽に。チャンドラーの情けないマーロウや、ガードナーのペリー・メイスンなどアメリカで新しい発展をとげているが、こちらも扇情的なアクションと女に頼る。もっと高度になってほしいが商業主義のためその可能性はない。

幽霊がいっぱい (1957)

幽霊ホラーのアンソロジーを読んだが、何とも牧歌的で、この水爆の時代に心がほろりとするくらい。むしろ古きよき時代へのノスタルジー本だ。

つんぼはだぁれ? (1958)

現代音楽をきいてみたがつまらない、こんなのスノビズムの極致で時間の無駄。

新しいアメリカのおとぎ話 (1957)

アメリカのSFアンソロジーを読んだ。疑似科学的な用語で飾った現代版のおとぎ話で、アメリカの読者がおめでたいから成立するみたいだ。

贋作 (1958)

ステファン・テメルソンの小説『教授Mmaaの講義』を読んだ。くだらないという書評を読んで、確認しようと思ったがやっぱくだらなかった。

見過ごされた天才について (1958)

埋もれた天才や名作というのはある。天才や名作は、それを受け容れ広める環境との相互作用なので、そうした環境が整わないと埋もれるのは仕方ない。ポーランドは辺境なので、それが受容されるチャンスも低い。

抽象絵画について (1958)

抽象絵画の展覧会にいくつか行った。偶然の介入で生まれる芸術作品みたいなのがたくさんあった。それは価値基準の根底を否定するようなもので、そのうち機械でもできるし、ヤバいんじゃないの?

統一場理論と詩 (1958)

文芸誌で、統一場理論について騒いでいる人たちがいたが、あんまりわかっておらず無知の告白でしかないし、何もあわてるような話じゃないよ。

臨床医の日記より:サルトル『壁』について (1958)

サルトルって人は医者のようで『壁』という臨床報告書を出版したのを読んだが、臨床報告にしては文学っぽすぎて役立たずで客観的な部分がなくて無価値。

闇の中から語る声: カミュ『ペスト』『転落』について (1958)

カミュ『ペスト』『転落』を読んだ。皮肉なしで、すばらしい。実に見事な作品で、自分の考えている文学理論にも見直しを迫る。その中でカミュは歴史からの自由を目指し、新たな哲学の領域へと踏み込んでいる。

ドストエフスキーについて、遠慮なく (1957)

邦訳あるのでそっち読んで。ドストエフスキーについてではなく、ドストエフスキーを論じた別の人の本について、なんかキャラや内容について現実の人間のモデルにこじつけることにばかりこだわっているのがダメだが、頑張っているよ、という評価。

第2部:連鎖反応 (科学について)

原子力の十年 (1955)

原子力の歴史をおさらいし、マンハッタン計画とナチスの核開発の話をして、戦後に原子力の平和利用が歌われたが、それが核の秘密をもらすなというファシスト的秘密主義に陥ったりしたし、また西側の原発輸出はいつになるかわからん、でもソ連の原子力開発はすばらしくて、これから東欧諸国はソ連からどんどん原発をもらって発展するぜ、すばらしい。

宇宙航行について ― 現実的に (1955)

宇宙旅行は、今後ますます現実的なものとなるだろうが、そのために必要な技術開発も大きい。でも月、惑星、太陽系外、他の恒星へとどんどん発展するぜ!

科学の変貌 (1955)

小学生から「金星探検計画に行きたい!」とお手紙をもらったよ。まだ実現してないけど、そういうのは実現するはずだし永遠に人類は前進するぜ!

対立物の統一 (1954)

寿命延長とか死者復活とかの研究が進んでいるが、あらゆる進歩にはその裏面がある。だがそれと常に取り組み続けて進歩を目指したいものである。それが人類ってもんだぜ!

奇跡の技術 (1954)

各種の技術発展は生物進化と似たところがある。複雑性最小化と理論的知識を統合するところで優れた装置が生まれる。いま、フレッド・ホイルが無から生まれる物質を提唱したりしていて、精神が物質よりも優位にたつという現象が実現し、想像力が刺激されるぜ!

小さな即興 (1954)

一般向けの科学啓蒙書が少なすぎるという苦情がある。原子力についてどんな本ができるか考えて見たけど、こういう本はほしいね。だから出版社はがんばってくれ。

異星からの客人をどう迎えるか (1957)

アメリカの一般向け科学書を読んだら、最後の章は「宇宙人をどう迎えるか」というものだった。これはアメリカ人が触れている知的環境の一部だ。これが新しい神話の土壌になるかもね。

地球外の円盤(1957)

UFOについての本が出た。UFOは本当らしいし、どうもマジで地球を観察しているらしい。これ、マジで書いてるのか皮肉のつもりなのか判断つかない。皮肉だと思いたい。

リモコン子猫(1957)

コンピュータでの作曲の試みがあった。「リモコン子猫」という歌を作った。また人間と会話できるコンピュータもできつつある。すると機械の知的能力を真面目に考えるべきでは?

顔を探す機械 (1958)

最近は流線型がはやっているがすぐに廃れた。他の機能的要請から出たデザインを別の分野に押しつけることはできない。コンピュータはどんな外観を持つべきだろうか?

西暦2000年について (1958)

2000年を予測する、という雑誌特集があったが、昔から人は、いまあるものをそのまままっすぐ延長することしかできない。だから予言には慎重になろう。SFではいろんな予測があるが、それも大したものではない。

科学的予測 (1958)

イギリス人の学者がミサイルや核爆弾の将来について予想したが、すぐに現実に追い越された。みんなが頑張ればいろんな開発が可能になる。惑星飛行だってみんなが力をあわせればすぐ実現するぜ!

技術的進歩の限界について (1958)

科学技術の進歩はどんどん進む。すぐに核融合でエネルギー問題がなくなる。水素から元素変換してあらゆる物質が作れるようになる。すべてがオートメーション化される。すると人間のやることがなくなるが、どうなるかわからない。でも何とかなるよ!

世界よ、どこへ行くのか? (1958)

技術はどんどん進歩する。だが社会面では、人口爆発はどうするのか? そしてオートメーションとあいまって、その人たちの仕事はどうなる? 自由には、それに伴う人類の成長が必要だ!

第3部:有象無象 (その他泣きたいほどつまらないエッセイ群)

輸入のトラブル (1957)

外国に行くというと、まわりの人が、あれ買ってきて、これ買ってきてとお願いがたくさんくるよ。たいへんだねーというユーモアエッセイ(のつもりらしい)

エレガンスの手引き (1958)

エレガンスの手引き書を読んだがくだらないファッション指南が書いてあって笑止だぜ。

冬のタトラ山脈――補足 (1958)

タトラ山にいったら、ロープウェイの職員の対応がひどかったぜ。賄賂と美人じゃないととても使えないな。(というのをガイドブックに加筆すべき条項としておもしろおかしく書いてみせたもの)

自己インタビュー (1957)

レムにレムがインタビューしたら、推理SF構想にエログロナンセンス路線に行くと言っていたという冗談(のつもりだがおもしろくない)架空インタビュー