昔話:ティモシー・リアリーの想い出など

ぼくが初めて訳した商業出版は、H・R・ギーガーの画集だったんだけれど、それを出したトレヴィルという西武系の出版社の編集者川合さん (というか彼一人しかいなかった) が「じゃあ是非これもやってください!」と言って翻訳させられたのが、ティモシー・リアリーの『神経政治学』だった。

ドラッグやったら脳の回路が活性化して新しい世界が見えるぜ、それでみんなニュータイプになって宇宙にさいくだ! という、まあまぬけもいいところな本だったが、一応張り切ってやって、ついでにこれで大学院の学費は自分で稼げるぜ、親の世話にはならないぜ、と大見得を切ったんだが、なんと大学院に入る前に仕上げたのに、実際に本が出てお金が入ってくるまでに2年以上かかった。別に訳文にはぜんぜん文句はつかなかったんだけれど、なんでも川井さんみずから各ページの版下にロットリングで線を引いてデザインして、無用に凝りまくった結果、らしい。学費を払うどころではなく、親に恥をしのんで頭を下げるはめになると同時に、こんな不安定では翻訳家なんかになったら死んでしまうなあ、と思い別の道を考えるようになった、ある意味で恩のある本ではある。

当時はまだ、電子メールなどという便利なものもなく、著者に質問があるときはファックスで送っていたんだが、リアリーは本当にダメな人で、質問したらその該当箇所を開いて見るくらいの手間はかけてもいいんじゃないかと思うんだけれど (だってアンタが書いた本でしょうに)、ぜんぜん勝手な思いこみでデタラメ送ってくる。たとえば、進化論を教えてクビになったか裁判沙汰になったかで有名な、スコープスという人がいる。いまならググれば一発でわかるが、当時はそんなこともできず、調べてもわからなかったので当人に聞いたら……

スコープというのはね、テレスコープとか、マイクロスコープとか、こんな覗く筒みたいなやつだよー

というまぬけな返事がきた。いやちがうよ、お前あきらかにこれ人名だよ、自分の本くらい見てよ、と書いたら、「こないだ返事しただろう、お前はあれがわからんのか、それで翻訳できるのか」というファックスが帰ってきて、こちらも怒って、その頃には自分でも調べがついていたので、「この進化論のヤツだろ、他に考えられないからそう訳すが、どうしても望遠鏡にしてほしければそうする」とファックスしたら、やっと見てくれたらしく、「ヒロオ、お前は天才だ、お前の指摘通りであり、私のまぬけな答を許して欲しい」としおらしく謝ってくれたっけ。そんなことが何度かあった。

その訳書に、武邑光広と伊藤俊二が、本当に無内容な序文を書いていて、リアリーが「何が書いてあるのか読みたいから訳せ」というので訳して送ったら、特に武邑の文章はいつもながらまともな日本語ですらなく、無意味なカタカナを並べてもったいつける手法が、英語にすると一切通用しなくなることもあって、「意味がわからないがこれは本当に正しい翻訳なのか」と問い合わせがきましたよ。いやはや、これ以上はないというくらい厳密で正確な翻訳だったんですよ。

彼の自伝も訳した。

これも原著がかなりひどい編集で、何カ所か囲みのコラムが入っているんだが、それが原文の上にそのまま貼ってあって、原文がブチ切れている。で、「ここがぬけてるから文ください」と連絡したところ

そんなはずはない。私の編集者は優秀だ、それにこの本はスペイン語とXX語にもなったがだれもそんなことは指摘していない

とのファックス。そいつらいい加減なだけだよ、頼むから自分の本見てよ! これも何度かのやりとりの結果、以前にも増して頑固になっているのにいい加減うんざりして、最後はこっちで他の本に収録されている文で補ったんだっけな?

んでもって、これで縁が切れたかな、と思ったら、インターネットでアメリカのWIRED以上に軽薄なネットアングラカルチャー誌みたいなのが、一瞬だけ幅を利かせるようになり、それを受けて日本で出たのが、CAPE-Xという雑誌だった。

で、これにティモシー・リアリーが連載するというので、翻訳してくれという話になり、ぼくは仕事を断らないのでホイホイ引き受けたら……

まあとにかく、どうしようもない無内容なひどい原稿ばかり。が、それはまだいい。その無内容名原稿が、とにかく遅い。締め切り破るどころか、入稿直前まで原稿がこない。で、毎回、編集の鈴木陽子さん (姓は仮名) がさんざん催促して、もらったらぼくが (たいがい会社でコッソリと) 1時間もかけずに翻訳して印刷所にぶちこむ、というのがルーチンになっていた。中身も支離滅裂。こんなものを、この短時間で少しでも読めるものにして出せるなんて、ワタクシくらいしかできませんわ、という自負はあったが、あまり訳にたつ自負ではない。もうリアリーも、もともとダメだったが焼きがまわりきったか、というような話を鈴木さんとよく電話で話していたんだが……

あるとき、その鈴木陽子さんが、原稿がまだきてないけれど、きたら今日中に訳ができますか、という相談の電話のついでに「リアリーは本当にボケてるんじゃないでしょうか……」と言いにくそうに言う。どうしたんですかと尋ねると話してくれたのが……

原稿の催促の電話をしたところ「おお、もうすぐだ大丈夫大丈夫」と例によって、まったくあてにならない太鼓判を押してウダウダしゃべっくったんだとか。

「でもそこで突然リアリーが『そういえばジョンは元気か?』って聞いてきたんです」

ふーん……ジョンってだれ? どなたかお知り合いですか?

「ええ、私もそう聞いたんです。そしたらいきなり、ものすごい怒り始めたんです。ジョン・レノンだよ! あたりまえだろう! ヨーコ、おまえは自分の旦那を忘れるとは何事だ!』って……」

ジョン・レノン???!!?? え、ひょっとしてそれってまさか……

「ええ、どうも私のことを、オノ・ヨーコだと思ってるらしいんです!! ネタじゃなくて本気で!」

どっひゃー。いやまあ、ヨーコにはちがいないけど……

ついでに言うなら、その時点でジョン・レノンは20年近く前に死んでおりました。

それはかなりヤバいし原稿的にもアレだし、そろそろ切る算段をしてもよいのでは、という話をしていたら、リアリーを切る前に雑誌そのものが潰れたのかな。いや、なんか断捨離の中でリアリーの訳書が出てきたもんでつい思い出してしまいましたよ。

フォーゲル他『十字架の時:アメリカ奴隷制の経済学』:おもろいでー。

ポランニーで、ダホメの輸出側の奴隷事情を見ました。

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それで奴隷に興味が出てフォーゲルの『十字架の時:アメリ奴隷制の経済学』を読み始め、訳し始めてしまいました。まだ前半だけ。もちろん、フォーゲルはずいぶん長生きしたし、翻訳権は当分フリーにならないので、みなさんは読んではいけません。以下にあるけれど、見ないように。

フォーゲル&エンガーマン『十字架の時:アメリカ黒人奴隷制の経済学』(まだ前半だけ、pdf18MB)

なぜか知らないが、目次のハイパーリンクがずれていて、きちんと当該の章にジャンプしなくなっている。もちろん、みなさんはご覧にならないでしょうから関係ないけれど。あと、Excelで作り直したグラフの相当分は、目分量で原著のグラフから数字を読み取って再現したものなので、完全に厳密ではありません。プラマイ3%くらいの誤差はあるはず。

著作権を遵守する良い子たちは、すでに邦訳はあるので、こちらを読みましょう。中古で15000円もするので、ぼくはどのくらいのできかは見ておりません。

結局、奴隷はアメリカ南部においてはとても高価な耐久資産で生産財だったので、農園主はそれを気安く壊したり、蹂躙したり、シバいたり、粗末に扱ったりはしなかった、という話に尽きる。

奴隷制というとどこもいっしょくたにしがちだけれど、ジャマイカ奴隷制と、アメリカ南部の奴隷制はまったくちがった。ジャマイカでは農園主が奴隷娘を次々に手込めにし、ろくに飯もあてがわず鞭打って働かせ、病気になったら放置で死ぬに任せたりしていた。これは通俗的奴隷制のイメージでもある。

でも、アメリカ南部では、基本的にそいういうことはなかった。そういうケースが皆無、というのではない。でもそれが到るところで横行してみんなやってました、などということはあり得ないし、また実際にもなかったことが各種統計データをもとにしっかり解説されている。

そしてその地域的な差の理由、経済的な背景までが、実に見事に解説されている。奴隷について、「ルーツ」や「ジャンゴ」で描かれているような非道な話を、みんな真に受けてしまっている。でも実際はかなりちがったらしい。

鞭だけでは奴隷は働かないし、むしろ福利厚生を手篤くし、家庭をもたせて各種ご褒美や温情により、自らやる気を出させるほうがいいのだ、という現代の企業における労働マネジメントとまったく同じ話がここでも展開される。ないのは、農園のミッションステートメントを! とかパーパスを打ちだそう! とかいうくだらないご託くらい。

そして、現代の日本への示唆も当然ある。奴隷制が苦しいのは、トップの優秀な人だけ。他の人はむしろ、衣食住完全確保で言われた通りのことをやってれば到れりつくせり。むしろ楽だったかもしれない。そしてアメリカの奴隷は自然増で維持されていたけれど、生まれたときから衣食住や医療をきちんと出してあげて奴隷を育てると、最初は農園主の持ち出しがずっと大きくなり、その累損解消はやっと26歳になってから、というのはすごいなあ (第4章)。16歳くらいからきっちり働かせてもこれだ。いまの日本だと、死亡率はずっと下がっているから無駄になる部分が少ないので、その分累損解消ははやくなるだろう。でも学費その他が高くついて、親の累損解消は奴隷と同じくらいか、ヘタをすると子供が30歳くらいになっても終わらないのでは? すると少子化解消への道は、とかいろいろ現代への示唆も大きい。

いくつか、甘いなー、と思うところはある。特に奴隷制廃止でも農園主はあまり損をしなかったといったあたりは、ちょっとアレだと思って訳者加筆をしておいた。その他の部分は、特にコメントしていない。おそらく、その後の研究で否定されたりした部分はあるんだろう。その一方で、ピケティ『21世紀の資本』においても、奴隷に関するデータのほとんどは、この本に頼っている。データ的にはいまも十分に生きていると思うべきなんだろう。

後半と、補遺の別巻もいずれやります。補巻の、これをやったときに、冒涜だとか敬意がないとか奴隷制を正当化しているとか品がないとか言われたけれど、そんなの関係ねーよ、下品でも口が悪くても、事実をきちんと突き詰めることだけが重要なんだよ、という文章はぼくはすばらしいと思っている。が、おそらくポリコレに染まった多くの人は、そうは思わないだろうね。

文中でも、思いこみと妄想と善意だけの奴隷制廃止論者の説がいかに矛盾していて、むしろ人種偏見がむき出しにされているかが、さんざんに批判されていて楽しいけれど、おそらく現代では出せない本だとは思う。即座にキャンセルされてBLMの標的にされるレベル。

教養とは:漁父の辞と水処理

Executive Summary

 教養というと、実学に関係ないステータス財なのか、それとも実学にも役立つべきベースなのか、みたいな議論が起こる。だがその区別がない場合もあるし、それが理想かもしれないという気もする。大学の上水道学の講義で、屈原の「漁父の辞」に水処理の基本原理が描かれていると、まさに我田引水 (水処理だけに) で強引に読み取ってしまった教授は、なんかそれに近いことをやっていたようにも思う。そこから、直接実学と関係なくても、それと関係あるものを引き出す契機、みたいな教養の捉え方はできないものか?


今日、イベントで教養について話せといわれてあれこれ駄弁ったのですよ。

lms.gacco.org

その中で、教養の役割とかいう話になる。こう、教養というと、実学とは離れた古典知ってます、みたいな、ボリス・ジョンソンホメロスギリシャ語で暗唱できますとか、日本なら四書五経だの漢詩だのを暗唱できますとか、もっと最近だとジョイスユリシーズ』読んでますとかレンブラント好きですとか、プラトン読んでますとか安藤昌益読みましたとか、なんかのほほーんとした余計な話、みたいな印象はあって、でも最近ではむしろ進化論知ってるとか利己的遺伝子や、意識や知能のモジュール性や、コンピュータ的情報処理にシカゴ学派的な経済学の考え方知ってますとか、そっちのほうかな、とか思う感じもある。

ぼくはなんとなく、まあ「そっち」のほうを重視したい気分はある一方で、実学離れた話もあらまほし、と思ったりもする。考えのベースなのか、あるいはそのベースがあることで存在が許される枝葉なのか、とか。

が、個人的には、その両者がつながる道もあるんじゃないか、という気がしていて、なんかそういうつながりがあると最強だなあ、みたいなことを考えないでもない。

そんなことを考える理由の一つが、大学のときの上下水道学の講義だった。ぼくは全然興味なかったんだけど、必修科目だからしかたない。で、その講義で教授が、開講にあたって己の学問の来歴みたいな、ありがちな話をしていた。そしてそこで、自分が水処理の研究をする中で、屈原の楚辞にある有名な「漁父の辞」を読んで、衝撃を受けてそれが自分の研究に大きな影響を与えたのです、という話をした。

 

さて読者諸賢は、無教養なサルがほとんどだろうから、漁父の辞の何たるかを知らないでしょう。9割の人は、漁夫の利とまちがえてただろー。実物は以下をみなさい。

ja.wikibooks.org

そういって見る人はほとんどいないのは知っているので、かいつまんであらすじを。


楚 (というのは秦のライバルの一つ、BC300年頃) に立派で有能で高潔な、屈原という大臣がいて、いろいろ楚の王様にいつもあれこれ正しい提言をしていたのに、王様はバカで言うこときかないし、また他の家臣どもは汚職とおべっかつかいの無能のアンポンタンだらけで、正しいけど面倒なことを言う屈原はやがてうとましがられ、讒言されて、王様にクビにされて追放されてしまうのだ。

で、屈原はもう尾羽打ち枯らしたボロボロの格好で、荒れた川の横を歩き、世の中くさってる、オレだけが清く正しいので追放されちゃったぜ、畜生め、とグチっている。

それを見かけた老漁父が、「何ブーたれてんだよ、世の中が汚いなら少しはそれにあわせろ、空気読めよ、お高くとまってるから追放されちゃうんだよ」と諫める。

屈原答えて曰く「なんでおれがバカで薄汚い他人にあわせなきゃいかんのだ、オレが汚れるだろが。死んだ方がマシだ」

すると漁師あざ笑い「水がキレイなら顔 (正確には冠の紐)を洗えばいい。でも水が汚いなら足を洗えばいいじゃん」とだけ詠んで立ち去りましたとさ。

漁父莞爾而笑、鼓枻而去。乃歌曰、

 滄浪之水清兮  可以濯吾纓
 滄浪之水濁兮  可以濯吾足

遂去、不復与言。

まあ、どんなものにも使いようもあればやりようもあるのに、甘いよアンタ、ということですな。


 

横山大観の描いた屈原さん

さてこれを聞いて当然ぼくは、「ああ、どうせ何か、迫害されても正しい信念を持ち続けねばならないとかなんとか、そんな説教くさい話をするんだろうなあ、はやく終わんねえかな」と思っていた。

そして教授曰く

わたしはこれを読んで、頭を殴られるような衝撃を受けた! というのも、ここにこそわが学問の本質の一つが端的に描かれているからです!

はいはい、きましたねー。手短にたのんますよ〜。

ところが、その後にきたのはまったく予想を裏切る話だった。

この漁父の言葉。水がきれいなら顔を洗え。水が汚ければ、足を洗え。つまり、汚い水でも、もっと汚いものを洗うのに使える。これが水処理の本質です! なんでも無理に飲める水準まで浄化する必要はない!むしろ汚い水でもそれにあわせた用途に使うことで、有効利用ができる! 水の再処理、中水利用 、その他あらゆる場面で、基準と用途にあわせた浄水手法が求められる! 上水道学の基本思想がここに描かれているのです!!!

ぽかーん。

いやそれちがうから! 描かれてませんから! それはあくまで例えだから! いや、まあ描かれてはいるけど、ネタにマジレスっつーか (という表現は当時なかったが) 先生、あんた、どういう古典漢文の読み方してるんですか! まさか屈原も、2300年の時を経て自分が水処理のネタにされるとは思ってもいなかっただろうよ!

が、外野が何と言おうとこの先生は、漢文読んで、まさに水処理の原理を感得してしまったわけだし、確かにその通りのこと書いてあるし、うーん。これって、あくまで余計な非実学的な知識たる漢文がまさにまともな工学原理につながってしまったわけで、するとこの先生にとって漢文って、教養ではあるけどどういうもんなのよ、というのはいちがいには言えなくて……

 

もちろん、だからみんな漢文を勉強しなさい、現代の工学につながる原理が出ております、なんてことはもちろん言えないんだけど、でも「何の役にもたたない漢文、古文」とかいう話がでてくるたびに、ぼくはこの40年近く前の話を想いだしたりするわけです。いやあ、意外と役にたっちゃったりするみたいですよ。なんか、ここに教養というものを考えるうえでのヒントがあるような気が……いや、ないか。

(でも、ちょっとはあると思う。アルキメデスユリイカしたとき、「だから風呂桶重要です、イノベーションのために風呂環境充実させましょう」といったらアホだし、ニュートンのリンゴ話で、じゃあ物理学発展のためにリンゴの木をもっと植えろというやつは何かかんちがいしていて、彼らがそうしたヒントからあるアイデアにとびついたのは、その人たちがそれをずっと考えていて、それが出てくる契機がたまたまそこにあった、という話。それはこの屈原から上水道の原理を引き出した先生も同じで、たぶん風呂桶やリンゴや屈原である必然性はなかったんだけど、でも何かは必要だった。そうした契機となるいろんなものがまわりにある状況、みたいなものは考えてもいいのかな、とは思うんだ。すると環境の多様性とかそんな話につながるとは思う)

   

付記:ウヒヒヒ、漁父を漁夫とまちがえてたぜ、付け焼き刃教養がバレますな。

ポランニー/イモータン・ジョー/コルナイ:不足の経済と社会権力

Executive Summary

 ポランニー『ダホメ王国奴隷貿易』は、ダホメでは経済が社会に埋め込まれており、各種交換は社会関係の一環として行われる儀礼でしかない、権力関係の結果として行われるお歳暮やお中元みたいなもの、という描き方をする。だがその見方は片手オチではないか? 各種交換や配布は人々の生存に直結するものであり、その中では、そうした贈与にせよ交換にせよ、そうした行為自体が権力を創り出す。これはコルナイ・ヤーノシュ「不足の政治経済学」の指摘でもある。つまり、そうした経済関係がむしろ社会関係とその権力関係を創り出しているのでは? ニワトリと卵的な面もあるが、社会関係を先に置くのは倒錯ではないのか?


昨日、ポランニー『ダホメ王国奴隷貿易』の全訳終わった。

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この本は、小さく見れば17-19世紀ギニア海岸での経済システムと、特に奴隷貿易に伴うその変化を扱っている*1

が、そのダホメだけの話を超えて、あの本にはいまの西側資本主義=市場経済システム批判、という大きなテーマがある。いまの西洋では、あらゆるものが市場関係で決まってしまっている。自由も、平等も、人権も市場の要請から決められた価値観だ、という指摘はとても重要。そして、多くの人は、自由や平等が市場に形作られた社会組織でしかない、ということにすら気がつかないくらい、市場システムにどっぷり浸かり、それに囚われきっている。ポランニーはそれを批判する。

これに対してポランニーの描くダホメ経済は、社会に埋め込まれている。社会関係の一部として、経済関係があるのだ。そこでの経済は、取引や、まして収益のためのものでは必ずしもない。広い意味での経済、モノのやりとりは、社会的なつきあいであり、儀礼だ。

そしてそれ故に、収益だけのために勝手に取引が起こり、全然知らないやつがいきなり取引して、なんてことはあり得ない。社会の中で、関係の維持のために、決まった形で決まったもの同士の交換が起こる。市場での価格交渉に見えるものも、実は価格交渉ではない。決まったモノ同士の交換が起こるときに、そこで交換されている「モノ」が、ちゃんと「決まったモノ」の決まり通りになっているか、つまり品質が基準を満たしているか、つまり交換という儀礼のお作法を守っているか、という話だ。

ポランニーは、もちろん冒頭で、ダホメ美化しちゃいけないよ、王様がでかいツラして捕虜を先祖への生け贄として大量にぶち殺す野蛮なところだよ、という注意書きはする。が……彼がその仕組みに魅了されているのは、読めばかなり明らかだとは思う。もちろん、冒頭での市場システム嫌いとあいまって、その印象はなおさら強まる。

 

その主張はわかる。何でも市場化しないやり方もある、社会に埋め込まれた経済のあり方が存在する——それはわかる。が、その一方で、ぼくはちょっと賦に落ちないものを感じている。

社会関係、つまり権力関係とその儀礼の仕組みやお作法が最初にあって、その中で従属的に経済が動いています、経済はただの握手とか、結婚とか、お世辞とか、成人式とか、そういうのと同じで、その社会関係と人々のつきあいの一形態なのです、というのは本当なのか? 社会とその人間関係が主であり、経済は従であるというのは本当なのか?

ぼくは、なんか逆のような気がする。このダホメの社会においても、経済が主であり、社会制度はその結果でしかない。なぜか?

いきなり、あらかじめ社会と権力関係が不変の形であります、というのが変だと思うからだ。王様が食べ物をでっかいお祭りの中で、税金としてとりたてたものすべてをみんなに贈り物としてくれてやる、という。でも、まさにその、みんなに贈り物として食べ物だのなんだのをくれてやる、ということ自体が権力関係を創り出している。社会の一部として経済がある、というのは変だ。経済の結果として——その流通配分システムにより、社会を構成する権力関係が作られている。

だって、それってまさにこのマッドマックスの世界だもの。

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イモータン・ジョーとこの乞食のような民草との関係 (ついでにウォーボーイズも) は、社会があって、権力関係があって、そのなかで儀礼として水をまいているのではない。まさに水を撒くことが、イモータン・ジョーの権力の源であり、それがこの社会を作っている。

そしてここで出てくるのが、コルナイ・ヤーノシュ。彼の「不足の経済学」だ。

この人の理論もいろいろ含蓄があってすばらしいんだけれど、その大きなポイントの一つは、ものが不足している状態だと、単純な需給と価格調整による市場とはちがうものが作用しはじめる、ということだ。

不足状態では、持っている人は、持たない人に対して権力行使できるようになる。足りないものを誰が得るのか? いちばん高いお金を払った人、という仕組みもあり得る。でももう一つ、持っている人が、だれがそれを獲得できるのか、という選択権を行使できるようになる。そして逆に、その権力を行使できるようにするために、様々なものを出し惜しみし、不足を人工的に作り出すことさえやるようになる。

コルナイは、これを数理モデルにまでして (ごめん、その部分は読み飛ばしてるのではっきり説明できない) もとにして、社会主義の経済/社会が陥っている状況を見事に描き出す。

おそらく、ポランニーが描いたようなダホメ経済が成り立ったのは、経済の生産力が限られていたため、あらゆるものが軽い不足状態に置かれていたことがある。そしてそれ故に、それを(おそらく最初は暴力か血族関係により) 集めてみんなに配る、という配給システム/贈り物システムみたいなものが出てきて、そしてそれが社会の権力関係を確立していった。いったんそれがまわりはじめると、経済は確かに社会に埋め込まれ、権力構造の結果としてモノがやりとりされるだけに見えてしまう。

特に、ポランニーはすべて文書記録をもとにあれこれ記述をしている。すると、社会関係があって、その中でお歳暮やお中元や季節の贈り物をしているうちに、なんとなくあらゆる人が過不足なく物が行き渡る、みたいな印象が得られやすいのかも知れない。

でも、そのモノのやりとりが、まさに権力をかためて社会を作る——たぶんそっちのほうが重要なんじゃないか。

というのも、そこで交換されている食べ物その他は、なければ死んじゃうものだからだ。単なる儀礼的なおつきあいだけでいろいろ交換しています、というのはたぶんあり得ない。それぞれのケースでそれぞれの人が、そういう意識で贈答をしている可能性も十分にある。でも、たぶん実際はちがう。ポランニーは、その現場を見ていない。もちろん、彼は20世紀のひとだから。でもその贈答の現場——イモータン・ジョーのこの儀式を実際に見れば、そんな平和なお歳暮のやりとりでないのは、たぶんすぐにわかるはずだ。

ある社会が一定期間存続した、ということは、その社会の物質収支がなんとかトントンでまわっています、という証拠だ。そしてそこで生産力の上昇がなければ、何か配分のシステムができた場合、そこからちょっとでも逸脱したらだれかが死ぬ。したがって、そこから逸脱しないような必死の努力が社会参加者のすべてによって行われる。それがまさに、ポランニーの見ていた、「先にある社会」の安定性=硬直性の源だ。それを支えているのは、(不足気味な)物の分配流通の仕組みとしての経済と、その不足の経済から生まれる権力、なのだ。

つまりは下部構造が上部構造を規定する。マルクスさま♥

これはニワトリか卵かの議論ではある。だから当然、ポランニーがまちがっているとかいうのではない。でも、彼があまりきちんと述べていない逆の面もあるのはまちがいない、とは思う。そしてコルナイの見方をとるなら、社会主義(の一形態)がダホメに似ている、というよりダホメが社会主義に似ているというべきか (まあこれは言葉遊びに堕しているが)

ついでながら、ポランニーも、コルナイも、ハンガリーの人なのね。この両者が、別の形とはいえ、いまの一般均衡的な市場システムのあり方に疑問を抱き、不足をベースにした経済システムと社会との関わりみたいな話を展開しているのは、単なる暗合かもしれないけれど、なにかハンガリー的な視点というのもあるのかもしれない、という気はしなくもない。

というわけで、みんなポランニー読まなくていいから、マッドマックス/怒りのデスロードを見なさい! それでわかるから! V8!V8!

……というオチでいいのかな?

*1:栗本慎一郎は確か『パンツをはいたサル』で、ダホメの奴隷取引は、西洋がいやがる奴隷を無理矢理買っていったのではなく、ダホメ人たちのほうが積極的に販売していて、常にダホメ人たちのペースで話は進み、白人たちは翻弄されていただけだった、と述べていたけれど、記述を見るとそんなことはない。ヨーロッパ人たちがダホメのやり方にあわせてあげていたのは事実。でも、そこに詰め合わせ方式を導入し、独自の変な通貨単位をでっちあげ、利潤確保をしていたヨーロッパ人どもの巧みさは、やっぱ肉食ってる連中はちがうぜ、という感じではある。

ポランニー『ダホメ王国と奴隷貿易』全訳終わった

Executive Summary

 タイトル通り、ポランニー『ダホメ王国奴隷貿易』の全訳がおわりました。


先日、半分まで終わったポランニー『ダホメ王国奴隷貿易

cruel.hatenablog.com

全部終わった。

カール・ポランニー『ダホメ王国と奴隷貿易』(全訳、pdf 4.8MB)

まあ、こうさ、訳してもさ、どうせだれも読みはしないんだよね。「スゲー」とか「感謝」とかコメントはつくんだけどさ。まあ君たちのためにやってるわけじゃないのでいいんだけど、ときどききょむかんはあるよな。でも、おもしろいよ。

書き方は下手クソで、おんなじ事何回も言っててアレだ。もう少し長生きしていればきちんと手直しできたのかも、でもなかなかおもしろいし、しょせんこの仕組みが一過性ではあったことは、ポランニーも認識しているんだね。現代世界でこんな仕組みが成り立たないのは、彼も知っている。その一方で彼は市場経済がそんなに好きではないのも伝わってきて、そこらへんのアンビバレントな感じは非常に楽しいし、いろんな意味で現代的。もちろん、中身は実に楽しい。決まった交換レートで、物と物の交換が基本で、そのために商品詰め合わせを作って、それを奴隷と交換したとか、ひょえーという感じ。

一切読み返していないので、まちがいはあるはず。またいくつか、調べてもわからない用語とかあった。old sheetって何だろう? 誤字脱字とか、お気づきの点とかあればご一報くだされ。解説は途中まで書いたが、残りは気が向けば書くかも。

追記:

グチくさくなってしまった。この本の中身について考えたことなどは、この次のエントリをご覧あれ。

cruel.hatenablog.com

プーチン本その5−7:木村『プーチン』3巻セット:冗長な記述に埋没するが中身は悪くないし、最終巻は優秀。

Executive Summary

 木村汎プーチン』三部作 (藤原書店、2015-2018) は、書きぶりはあまりにひどい無内容な水増しぶり。だがその中身はかなりきちんとしている。プーチンの自伝的エピソードのごまかしも述べ、また変な柔道談義で舞い上がることもなく、北方領土返す気がないことも指摘。特に最終刊の「外交的省察」は、最初の二つのうんざりする書きぶりがかなり薄れ、北方領土に浮かれたりせず、変な親ロシアのイデオロギーに流されることもなく、きわめてポイントを押さえた冷静なよい記述になっていて、2022年のウクライナ侵攻に繋がる動きもまとめられている。最終刊だけは読むべき。前の二巻は……ウザい書きぶりに耐えられれば。


だいたい何かについて勉強したいときには、一番薄い本を見て大枠つかみ、一番分厚い本を見てそのテーマで出てくるネタを一通りおさえるのが通例。すると他の本については、各種情報がどう取捨選択されて、大きな枠組みとどう関連づけられているか、というのが見やすくなる。

プーチンがらみでは、大枠はまあニュースその他で大ざっぱにわかっていたので、分厚い本を見ましょうということで、かなり最初のほうで図書館にでかけて手にとったのが、この木村汎プーチン』三部作。

人間的考察、内省的考察、外交的考察の三部にわかれ、そのそれぞれが600-700ページの分厚さ。もともとはこれに加えてもう一冊加える予定だったとのこと。これだけあれば、豊かな情報、深い考察と分析がたっぷり提供されているものと思うでしょう。

ところが。

スカスカなんだ、これが。それぞれの巻の冒頭に、本の構成とそれぞれの章の概要をまとめた30ページほどの「はじめに」がある。基本的な話はそこで出尽くしている。あとは手当たり次第の記事だの発言だのや変な伝聞を並べ、そこに要領を得ないレトリックで同じことを5回も6回も繰り返した間延びした文をはさんで水増し。

惜しいなあ。というのも、書いてある中身は結構いいから、なのだ。

間延びした無内容なレトリックは最悪なんだが……

たとえば、こんな部分。

木村汎プーチン:外交的考察』pp.19-20

本論と各論を書き、そのそれぞれで5W1Hを書きます、というだけのことを言うのに、丸一ページ以上。あたりまえすぎて、むしろ全部削除すべき内容だ。ところが、木村はあらゆる部分でこれをやってくれる。

また実際の中に入ったときにも、仮にそれっぽいものを再構築してみると

ではここでプーチンは何を考えていたのであろうか。それを理解するためにはプーチンの頭の中で起きていたことを理解しなくてはならない。というのも頭の中で起きていたことこそがプーチンの考えを左右し、最終的には彼の行動を決めるからである。そしてそれを左右していたのは、様々な外部の圧力とともに彼の過去の蓄積であろうが、そうしたもののそれぞれについて慎重な考察を加える必要がある。

という感じの、言わずもがなの前置きがあらゆる部分にくっつく。(上は引用ではないので念のため)。

あるいはこんなの。

木村汎プーチン:内政的考察』p.68

途中の「保守主義とは」とかいう話はまったく無意味。最初のほうの無意味なetwasとかのドイツ語披露はなんですの? これもせいぜい3行ですませていいものを、一ページに引き伸ばす。

もちろん、これは書き方の趣味ではあり、これを雄大な含蓄ある文体と思って感動する人もいるのかもしれない。ぼくは要領を得ないダラダラした駄文だと思う。

とにかくすべてこの調子なんで、読みつつずっとイライラし続けていて、それが1500ページ続く。内容の書き方も、「だれはこう言った、誰の発言はこうだった、だれはこう評している、あそこの雑誌ではこう書かれていた、こういう見方もある云々」といった羅列が果てしなく続くばかり。で、結局何が言いたいの、というのが実に要領得ない。

……と、ここまでこの三冊の罵倒を書いてやろうと思って下書き準備していたのよ。でも、通読してその評価を変えざるを得なくなってしまった。

本当に、このレトリックのひどさ、書きぶりのひどさはあまりに残念なことではある。というのも、そういう全体の8割に及ぶ、どうでもいい詰め物やら尾ひれはひれやらをとっぱらうと、かなりきちんとしたことが書いてあるからだ。

実は中身的には決して悪くなく、政府見解にへつらうこともなくポイントは押さえている。

たとえば、プーチンKGBドレスデン勤務後に恩師に請われてサンクトペテルブルクの副市長になる。で、そのとき声をかけてくれた恩師に「でもぼくは真実を言わねばならない! 実はKGBなんです!」と言って、恩師が「それがどうした!」と受け容れてくれました、という猿芝居みたいなエピソードが『プーチン、自らを語る』では述べられている。それをそのまま鵜呑みにしている本も多い。

でもこれはデタラメで、プーチンKGBだなんてのは周知の事実だった。むしろKGBとのコネが欲しくて恩師はプーチンを引き入れたらしい。木村は、そういう話をしっかり書いて、プーチンの演出に注意を促している。

また、以下などででっかく採りあげられてきた、暴徒単独撃退エピソードも無視している模様。見識ですな。

cruel.hatenablog.com

さらに、同じくこの朝日本の話など、ヒキワケで二島返還、みたいな妄想を展開したがる日本の本が多いという話はした。

ところが木村は、そんなのただの日本を喜ばせるための口先の小細工でしかない、というのをきちんと指摘する。それに際して、ヒキワケが面積のことならどうで、島の数のことならどうで、とさんざん書き立ててページを水増ししているのは、本当にウザイ。うざいんだが、それが延々続いた後で結局は棄却される (なら延々と続けなくてもいいでショーにとは思うが、棄却したのはえらい)。そして日ロ平和条約に関して、通常は自分からあれこれ提案して相手に迫るのを常とするプーチンが、いつまでたっても外務省の提案待ちになっていることを彼は指摘する。結論は次の通り。

そもそも大統領自身は、日本との平和条約交渉を推進しようとする積極的な意図などまったく有していない。したがって、同交渉を推進しようとする日本側の要請を常にその場しのぎの口実を設けて何とか逃避し、先送りにしようと目論んでいる。(『人間的省察』p.129)

おお、そうだよな。普通そう思うよな。2015年の本でこれをきちんと書けたのはえらいじゃん。二島返還なんかなさそうだ、と言えるのは立派。ジャーナリストの黒井文太郎は、プーチンがもともと一島たりとも返す気なんかねえよ、というのを書いていたメディアも研究者もない、とこぼしているけれど、この部分での木村の記述はそれをはっきり述べていると言って良いんじゃないかと思う。

そして、最終巻の『外交的考察』。これだけ新宿区の図書館になくて、わざわざ買ったんだけど……

ヘタなレトリックがかなり薄れ、書き方にまとまりが出てくるし、クリミア併合までの動きやその後の軍事的野心に関する記述なんかもしっかりしている。三つの中でいちばん良い巻。ちゃんと読める!

さらにこの最終巻で日本の対ロ外交話にありがちな「北方領土返還のためには〜」みたいな話ばっかりになったらいやだなー、と思っていたんだけれど、その手の話はほとんどない。メドヴェージェフがどんなふうに利用されているかという話の事例として彼の北方領土上陸が登場するのがいちばん多いくらい。東方の重視についての見方も非常に冷静で、プーチンの場当たり主義と機会主義を指摘して、変な期待を煽るようなものにはなっていない。

NATOが約束破って東に拡大しててけしからん、みたいな書きぶりもない。国際法の秩序が踏みにじられている点についての指摘も明確。ウクライナの位置づけ、プーチンのこだわりについても、標準的ながらしっかりした書かれ方で、クリミア併合についても住民投票なんかインチキでそれ以前から侵攻/併合は決まっていた話も出し、同時に目先の戦術でクリミアを盗って、結果的にウクライナを失ったという戦略的な近視眼ぶりもちゃんと書いている。まとも。最初の頃のウダウダが信じられないくらい。買ってよかった!(高いけど)

まとめ:中身的には決して悪くないが、このすごい水増し文体を我慢する価値があるかは、あなた次第。

ということで、この間延びした水増しの文体さえなければ、決して悪い本ではない。ホント、最初はこの書きぶりのひどさとそれに伴う内容的な希釈ぶりに頭にきて、悪口言うためだけに最後まで読んだんだけれど、いやはや、見限らないでよかった。最終巻のできのよさで、一通り読んで意外なくらい評価が変わったのには自分でも驚いた。

プーチンについて、まったくだれも知らなかった新しい話が出てくるわけではない。が、限られた情報源の中で、それは期待するほうが無理だ。一応、論点はきちんとカバーし(まったく整理されていないが)、さらには変な外務省/政府公式見解への忖度はなく、冷静ではある。それぞれの本の冒頭には、内容についてまとめた概要のようなものもあり、またあらゆるものを何度も繰り返すので、各章の冒頭にも要約っぽいものがついているので、そこだけ読むという手はあるし、またしばらくするうちに、どうでもいいくだらないレトリックを目と脳がスルーできるようになってくる部分はある。そして最終の「外交的省察」では、それも必要ない。

ということで、最終巻はきちんと読む価値あり。他の二巻はいらないとは思う。

それにしてももっと編集者が叱りつけて、余計な部分を全部刈り込んで、この三冊を1巻にまとめさせていたら、ものすごくいい本になったんじゃないか。まあそれは言ってもしかたない。たぶんこれをまとめて新書で〜みたいな企画があったと思うし、それが実現していたらよかったのにね。

ポランニー『ダホメ王国と奴隷貿易』半分まで → 全訳

Executive Summary

 ポランニー『ダホメ王国奴隷貿易』の既存翻訳がダメときいて訳し直しました。


昨日のエントリで、ダホメ経済の話をしたけど、そのときに読んだ『経済と文明』こと『ダホメ王国奴隷貿易』。

cruel.hatenablog.com

翻訳が半分まで終わったので、とりあえず公開。楽しい奴隷取引の部分はこれからだけれど、ここまでの話でも、17−19世紀のダホメ経済のおもしろさはわかる。

カール・ポランニー『ダホメ王国と奴隷貿易』(全訳、pdf 4.8MB)

すでに栗本慎一郎他の邦訳があって、あまり評判がよくないことは述べた通り。ただ訳してみると、結構晦渋な英語を使っていて、未完成で終わったこともあり、論理的におかしかったり推敲が足りなかったり凡ミスっぽかったりする部分もあるのは事実なので、少し難しめではある。現代の普通の英語の感覚でやると、ちょっとつらかったかも。

訳しつつ、一切読み直していないけれど、それでも既訳よりはよいはず。残り半分も、近々終わるが、それまで何かまちがいとかご指摘があれば、是非ともご一報いただきたい。特にこの文化人類学系の専門用語とかで、誤解している部分があればご指摘たもれ。それ以外でも、誤変換、文が途中で切れてる、訳語や表記のブレ等いろいろあると思うので、よろしくお願いします!

なお、栗本訳の問題点を指摘したという論文めいたものがネットにあって、致命的な誤訳は指摘されている。pepperをコショウと訳していたとかね。ここではとんがらしのことだ。その一方で、マリノフスキーがトローブリアン諸島の親族互助方式について述べているところで「家族の対称的な部分」と言っているものに説明がない、と論難されていたけれど、もとの文も説明なんかなくて普通の読者にはわかりにくいし、それに説明つけなかったとケチつけられるのは栗本慎一郎がかわいそうだとは思う。