ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』の最終講:存在の連鎖は破綻した無意味な思想

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』の翻訳を始めた話はした。

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素直に第2講を初めて、半分くらいはおわっているんだけれど、そもそもこの話がどこへ行くのか知りたくて (はい、推理小説もまず最後を読むタイプです)、最後の第11講をあげてしまいました。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第11講 (最終回)

もちろん、このpdfを読むとそれなりにウダウダしい。だが、そこで言われていることは、第1講と同じでとてもシンプルではある。それはつまり、以下の通り:

 

  • 「存在の連鎖」という観念は最終的に、二千年かけて詰めていったらボロボロでまったく整合性がないことが明らかになった。
  • だから破綻して、すると一気に忘れられてしまった。
  • 思想そのものの現代的な価値はまったくない。
  • ただこういう変なものにハマる精神の働き (すでに蒸し返すバカも出てる) の記録という意味はあるかも。

 

うひー。もう少し詳しく、同じくパワポにまとめてみましたので、ご参照あれ。

個人的には、何よりもアーサー・ラヴジョイの持っている、自分の研究対象に対する恐ろしいほど冷たい視線に驚かされた。

こう、各種の哲学の概説書とかを読んでいると、その著者はしばしばどうしようもない心酔者でビリーバーだ。プラトン研究者でも、シェリングでもベルグソンでもドゥルーズでも。その哲学が持つ現代的意義、新たな可能性、いま読み取るべきポイント等々が、ずーっとウダウダ解説されている。それもしばしば、どう見てもこじつけみたいな話も頻出する。何かそこに秘められた「真理」がある、みたいな。

ところが、上のパワポを見てくれても、あるいは奇特な人は訳文を実際に読んでくれてもいいけれど、ラヴジョイは本書において、自分がずーっと解説している「存在の連鎖」という観念は、基本的にはまったくのナンセンスだと断言する。そして西洋思想は二千年かけてこれに取り組んできたけれど、二千年かけて結局、これがダメだというのがわかって、そして一瞬で忘れ去られたのだ、と述べる。

ある意味で、ラヴジョイは2000年の西洋思想の相当部分が、単なる幻影を追いかけるだけの活動で、つまり西洋思想そのものが結局は破綻したんです、と述べているに等しい。現代人なら、一瞬でそれがわかるはずだ、と。

 

なんと。

 

この兆候はすでに、第2講でも出ていた。本書の基調となる、プラトンにおける「異世界性」「この世性」の解説で、それがかなりばかばかしい話で、でも人々の「形而上学的な情感」に訴えることでこれがえらく受け入れられてしまい、宗教やがインチキなありもしない概念を一般人に売り込むのに使われてきた、という話をする。ほとんどリチャード・ドーキンスのような無神論者だなあ。でも、その非ビリーバー的な視点が、逆にその対象に対する距離感と客観性を担保できている。これについてはすでに書いた。

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しかし、最後でここまでつきはなすとは思っていなかった。たぶんこの本を読む人は、西洋思想の根底に「存在の大いなる連鎖」という未知の基礎概念/観念があり、それを知ることで、西洋思想についての見方が一変し、その流れなり本当の意味なりがずっとよくわかるようになるのだろう、という期待をこめて読むんだと思う。ぼくもある程度はそうだった。だいたい冒頭でも「西洋思想を支配してきたのにいまや忘れられた観念」「これを知らないと西洋思想の動きはぜんぜんわからんぞ」と書かれているじゃないか。そして、その期待は確かに応えられた。だが……

もっと肯定的に応えられると思うのが人情だろう! こんなふうに「いや西洋思想の大半は、スジ悪な妄想を追いかけていただけで、それが二千年かけて破綻しちまったんですよ、ハッハッハ」なんていう見通しをもらえるとは思っていなかった。特に、神学のほとんどがこれで枯れススキに過ぎないって話にされちゃったもんなー。一面焼け野原で、何もなくなりました、という意味では、見通しはよくなったのは確かなんだけど。

さらに「ま、ベルグソンやホワイトヘッドみたいな、このとっくに破綻した話を蒸し返すバカもすぐに出てきてるから、こういうの勉強しておきましょうね」なんていう話も予想外だった。なにこれ、一種の「知の欺瞞」ではありませんか。

日本では、佐藤優が「西洋キリスト教神学が〜」みたいなことを言うと、それだけで高尚な何かを言っているような気がしてだまされる人も多い。我々の知らない恐ろしい深い思想があるのですかー、みたいな。でも実は、そんなものを引き合いに出したがること自体が佐藤優の空疎ぶりを示唆するモノだったりはする。日本だけじゃない。グノーシスがー、とかいうと、フィリップ・K・ディックみたいにそれを真に受けてしまう人もいる。彼がヴァリスで展開していたのは、この「存在の大いなる連鎖」で破綻した理論だと一蹴されているものの蒸し返しでしかない。

一部の哲学好きな人は、こういうのを見て腹をたてるか、あるいはラヴジョイの本書のそうした部分は見ないようにして、本書での話がベルグソンにどう関連するかとかをコチャコチャ考えたりするだろう (昔の話の焼き直しだと看破されてるんだけどね)。頭の中の観念世界に生きようとする人もいるだろう。「私の哲学は厳密なのだ〜」とか言って。でも、この本でいいなあと思ったのは、最後の最後で、ラヴジョイがこれまでずっと扱ってきた観念のくだらない妄想議論に対して、ついに我慢できず自分の世界観を率直に述べるところ。

「具体的な存在物の世界というのは、本質の領域のありのままの転写などではないのです。そして、純粋論理を世俗的な形に翻訳したものでもないのです——それどころかそんな用語自体が、純粋論理の否定なのです」

「存在物の世界は、それがたまたま持っている特性や、内容の広がりや、多様性を持っているのです。それがどんなものになるか、可能な世界のどれだけがそこに含まれるべきか、などということを、はるか永遠の昔から事前に定めてきたような理性的/合理的な根拠など、ありはしません」

そんな世界を抽象的にとらえてどうするね。この世は不完全でいい加減で、先のことはまったくわからないんだよ。それを何か完成された観念世界に押し込めようとするのがダメなんじゃないか。西洋思想は二千年かけて、やっとそこにたどりついたんだよ——この健全な世界観。それを言うのに、こんな分厚い本が要るのかよ、とは思う。でも、そこにたどりつくまでの迷走というのは、すごいものではあるし、それを描いた本書は、バカにしつつの敬意というか、己たちの若き日々の愚行を振り返るような甘酸っぱい郷愁というか、そんなものが感じられる。

そして、完全に役に立たないと自分でもわかっているものを、そうと明言しつつも愛でるように細かくたどってみせる——無駄だからこそやる、というある種の西洋知識人の余裕が漂ういい本ではあるのだ。

 

さてどうしようかな。残りは、第2講は半分やっちゃってるし、仕上げましょうか。その後は、本当に気が向けばというところ。これはクルーグマンとちがって「そう言ってる間にやっちゃいました」ということにはならないでしょう。