カルペンティエール『春の祭典』:文化と革命共存という妄想を異様に図式的に描く残念な作品

はじめに

そこそこ長いこと棚に並んでいた、カルペンティエールも片づける時期にきた。で、読んだのが晩年の大作『春の祭典』だった。

が、正直、後味の悪い作品だったと言わざるを得ない。かつて読んだ、コルタサルの『かくも激しく甘きニカラグア』と同じ、芸術と革命のたいへんにおめでたい野合を歌い上げる作品で、すでにこの時期に老成した大作家だったカルペンティエールが、本気でこれを書いたのか、あるいは訳者解説にあるように、何やらキューバ政府から「もっとキューバ翼賛しないとは何事か」とつきあげをくらって、仕方なく書いたのか、というのはなかなかむずかしいところ。

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あらすじ

話としては、バクーからロシア革命のあおりをくらって逃げてきたバレリーナのベラがいる。そして彼女が出会って愛したた男がスペイン内戦にでかけて戦死してしまう。その後、パリで彼女は本書のもう一人の主人公エンリケと会う。この人は建築家でシュルレアリズムと出会ってあれやこれや、つまりはカルペンティエール自身ですな。かれは、恋人がドイツでナチスにつかまり収容所送りになったのをきっかけに、文化の無力と実戦の重要性を悟り、スペイン内戦に参加して負傷しながら帰還し、ベラと出会って二人でキューバに渡る。

ベラはそこでバレエ教室を開くんだけれど、バレエがブルジョワ社会における白人娘の習い事にすぎないのにがっかりし、さらにバレエに理解あるような顔をする連中はみんな、軽薄な広告代理店の資本主義軽薄文化の手先でしかないことに失望する。だが地元の土着の黒人音楽と踊りに新しい可能性を見出し、それを使ってそれまで実現していなかった「春の祭典」を実現しようとする。

が、そこでバティスタ政権下の、白人と黒人の完全に分断された社会構造と文化水準の低さという障害にぶちあたる。そしてそれをなんとか克服する中で、反バティスタ政権の運動が強まり、カストロたちのモンカダ兵舎襲撃、グランマ号での上陸、反政府活動の拡大が起こり、一方でアメリカのマッカーシズムで反共が強まり、アメリカ公演が不可能となる。共産主義支持のエンリケもキューバ国内での活動が不可能になり (さらに建築の仕事がすべてバティスタとのコネで決まってしまうこともあり) 外国に逃げ、二人は離ればなれとなる。

さらにフランスでの公演が実現しそうなまさにそのとき、バティスタ政権の反政府活動弾圧で、バレエ団の若者たちが殺され、すべてが水泡に帰す。だけど、そこでキューバ革命が成功する! もはや人種差別もない! ブルジョワ資本主義の下で幅をきかせていた、下品なCM文化もなくなり、高尚な文化が人民すべてに支持されるようになる!ベラは、ロシア革命で国を追われ、スペイン内戦で恋人を殺され、これまで革命や政治を敬遠し、革命や政治の対極にあるものとしてバレエを追求してきた。だがついに彼女も、革命の持つ意義に目覚めるのだ。革命万歳! 革命はバレエ=文化の対極ではなく、それをアウフヘーベンするものなのだ! そしてそこでエンリケの浮気が発覚するんだが、アメリカのヒロン湾攻撃が起こり、エンリケもそのために従軍するが、負傷して罪を許される。さあ「春の祭典」を邪魔するものはない。バレエを再開しよう!

感想

全体をかっちりと音楽的に構築し、主題があり、それが展開して、間奏が入り、そしてクライマックスへ、というのはいつもながらのカルペンティエール。その過不足ない感じが、かれの長所でもあり短所でもある。そして、そのかっちりした書きかたのおかげで、上のあらすじの最後の部分に見られる、あまりにおめでたい革命と文化の共存という図式がなおさらきわだってくる。

上にあげた、コルタサルの革命万歳が1980年頃。この『春の祭典』が1978年でほぼ同時期か。そういう、作家が革命を応援しなくては、みたいなのがひょっとしたら流行った時期だったのかもしれない。あるいはキューバ当局から「おまえはキューバ革命を賞賛してないぞ!」と脅されて、仕方なく書いたのかもしれない。すでにキューバ政府がいろんな文化人を弾圧し、革命が高踏文化を積極的に支援するなんてのがウソだというのは、カルペンティエールだっていやというほど知っていたはずだから。が、それならなおさらこの最後の脳天気ぶりには、ちょっと唖然とさせられる。

二人がそれまでずっと経てきた苦労や挫折、その中での文化と政治的変動との関わりをめぐる様々なお話は、それなりにわかる。そしてその中でのバレエなど高踏文化の存在意義があれこれ考察されていて、そのむずかしさ——結局高踏文化は、貴族や資本主義のあだ花でしかない——とその中での苦闘もリアルなものではある。それだけにねえ。

カルペンティエールは、「バロック協奏曲」の自由自在な時間も空間も乗り越える感覚がすごく好きで読んでいた。『この世の王国』もすごかった。が、他の作品はそこまで好きではなかった。代表作とされる『失われた足跡』を読んだのはごく最近なんだけれど、時をさかのぼり神話と化す作品の構造はすごいんだけれど、その描き方の知的な構築性=図式性みたいなのが、不満でもあった。うーん、この『春の祭典』もそんな感じで、非常に見事に構築された作品なんだけれど、それが特に主題の図式性までをあらわにしてしまって、せっかく積み上げてきたものが最後で台無しになる。

ラストも、革命が成就して革命万歳を叫び、それからエンリケの浮気がばれて危機が生じるんだけれど、それがヒロン湾侵攻の撃退を経て再び成就するという、革命と実生活と芸術の危機と復活という図式。訳者はヒロン湾侵攻で終わっているので革命の安易な翼賛ではないかも、と言いたがるが、そこまで頑張って擁護する必要もないのでは? 非常に露骨で単純な図式でしょう。うーん、ちょっと徒労感。読んでいる間はなかなか楽しく読めたのになあ。