ホール『都市と文明』II-1:工業技術イノベーション都市の理論なんだが、何も言ってないに等しい。

Executive Summary

ピーター・ホール『都市と文明 II』は、産業イノベーション都市の理論のはずだが、まず冒頭にある産業イノベーションや都市立地の理論のまとめがあまりに雑でいい加減であり、したがってその後の各種都市の記述にとってのフレームワークを提供できていない。おかげでその後の長ったらしい都市紹介は、長いだけであまり整理されないまま。

さらに記述は都市そのものと関係なしに、蒸気機関の話だったり各種文化産業の話だったり。そして結論も、イノベーションは周縁部で起きて、そこにある自由と周縁的な人びとや移民がチャンスを与えられたときに生じる、といった非常に一般的なものとなっていて、長々とした都市の歴史記述の意義はなおさらはっきりしない。結局、これだけの長さを読んであまりそれに見合う知見が得られたとは言いがたく、本として成功しているとは思えない。


前回の続きです。

ピーター・ホール『都市と文明』IIの最初の7割は、都市における技術革新の話となる。が、I巻で挙げた欠点はさらにひどくなる。ものすごい飛ばし読みになったが、こんな分厚い本をキューバに持っていく気はしないので、とにかく備忘録的にまとめておく。

こう、そもそもI巻を「文化」と称して高踏芸術の話だけにして、その次を工業や技術革新の話にするという分け方自体がかなり問題が多く、この人のお高くとまった価値観を示したものではある。文化というと、少なくともぼくの感覚では旧石器文化とか縄文文化とか、ある種の生産手段を中心とした社会のあり方があって、高踏文化なんてそこに咲くあだ花だ。

が、それはまあ趣味の問題として、工業の話だ。それこそ集積やインフラなどの交換その他に基づく様々な話が、経済学でも地理学でも社会学でもたくさんある。それをまずはきっちり見てくれるんですよね!

ところが。

見てくれないの。

ここでも、まず彼が中見出しをたてている項目を挙げよう。

  • 新古典派経済学:経済地理は静態的だからダメ。アラン・スコットは輸送費用だけでなく革新についての動的な記述を入れたのでエライ。内生的な集積要因があるのだ。

  • シュンペーター:発展や集積をもたらすコンドラチェフ波動に注目したのでエライ

  • ペローの成長概念:寡占的企業が経済成長を生み出すのに注目してエライ

  • エダロの革新的環境理論:各種要素の相乗効果を重視したのでエライ

  • カステルの情報都市:情報のフローが革新を生み出すから地理にとらわれないと主張

  • ポーター、クルーグマン、パットナム:近接性が情報集積を生み出すことに注目したのでエライ

これだけ。

これだけ???!! 都市の産業発展についての理論がこれだけ??!!

正直いって、都市の産業集積と経済発展の理論のまとめとしてこんなものしか挙がらないなら、ぼくはホールって何もわかってなかったのではと思わざるを得ない。

フォン・チューネンやクリスターラーやアロンゾみたいな、初期 (1950年代まで) の経済地理や産業立地論が輸送費に注目した静態的な話しかなかったのは事実ではある。でもそのの不十分さは当人たちがいちばん知っていて、かなりがんばっていろいろ試みていたし、それを受けてクルーグマンとかも自分の空間経済学を構築していったのになあ……

ちなみにクルーグマンの空間経済系の参考文献で挙がっているのは「経済発展と産業立地の理論」だけ (!!!!)。あれだけをもとにクルーグマンの空間経済学理論を語ろうとするのは、あまりに無謀というか、それで語れるわけないじゃん。付け焼き刃を疑わざるを得ない。

cruel.hatenablog.com

シュンペーターの話も、景気循環がイノベーションの原因なのだという捉え方をするのは逆さまじゃないの? イノベーションが起きて、前のが行き詰まって停滞する中で新しいものが受容されて前のものを破壊するプロセスにより、景気循環が生じる、というのが彼の理論じゃなかったっけ?

また経済学も、産業立地論しか見ていないというのはどうなのよ。

しかし新古典派のよく知られた限界は、ここにおいても、そしてより一般的にも静態的であることである。それは、異なる時代に、異なる場所で、産業の消長をもたらす動態的な力への関心がない。同一の産業において、ある企業がある地域またはある国において衰退あるいは消滅する可能性があり、また他の企業は別の場所で堅実に成長し(中略) それらがどのように起こるかについて説明しない。(p. 668)

ちがうと思うなあ。少なくとも国レベルの話では、これはまさにアダム・スミスが考えてきた古典派/新古典派の核で、リカードもサミュエルソンも全部この手の話をしてると思うんですが……

さらに彼は「英系アメリカ人のアラン・スコット」がつくりあげた生産複合体と呼ぶところの理論の話をする。「彼はこれら古い理論と、1980年代に非常に流行したマルクス経済学による全く新しいアプローチとを結合させることによって」その理論を構築したんだそうな。

アラン・スコットってだれ? この人の理論についての話が5ページにわたって続くんだが、まったく要領を得ない。そして1980年代にマルクス経済学が流行った?

ぼくは一応、この手の話はそこそこ知っているつもりだったので、マル経方面で経済地理や産業立地的な話が1980年代に流行ったと聞いて焦っていろいろ調べてしまいましたよ。その結果……

まず、この人物は「アラン」スコットではなく、「アレン」スコット。これ、翻訳のミスなの、それとも原著? (その後確認しました。もちろん原著は正しく、翻訳のまちがいです) UCLAの人ね。この人なら知ってる。でも彼がマル経の影響受けてるってホント?

マルクス主義者による分析によれば(中略)資本主義体制は周期的な危機の中にあり、競争は激化している。そしてグローバリゼーションは生産の海外移転を容易にする。(中略) このように、かつて産業が発達した地域や国では産業の空洞化が生じ、残された企業は労働力を必要としない生産方式を発展させた。

1998年で? 大中庸時代で資本主義かなり安定と思われていた時代に? どうもここでの書きぶり、レギュラシオンの連中とかウォーラースティン一派とかが念頭にあるようなんだけど、うーん。そんな大した思想潮流だったとは思えないんだよね。

そしてその他のペロー(知りません)とかエダロ (同じく知りません) とか、カステルとか (つまんないと思う)、たまたま自分がちょっと考えていたような概念を挙げたというだけで入れているけれど、都市の理論として大きく採り上げるべき存在だとは思わない。というか、まあぼくの認識不足もあるだろうし、そしてぼくが知らない偉大な論者も当然いるだろうし、そういうのをきちんと挙げてくれるなら、とてもありがたい話ではある。ただ、ぼくも決して完全にこの分野に無知なわけではない。その人間に「なるほどこの人は重要なんですねえ」と思わせる程度の説明がないとなると、一体これを読んでだれが納得するの? これ、だれにどう読んでほしいの?

だれかの理論や視点が優れているというなら、それは何なの? 地域の中で情報集積やスピルオーバーがあったとか、文化的なつながりがとか、いろんな要素はあるけれど、結局都市は複雑なので、いろんなことが言えるのは当然だ。そこで考えるべき「都市」というのがどんな規模なのか? 彼等の理論で何が言えて何が言えないのか? そして何より、そうした理論の展開によりどんな枠組みが生まれ、この本ではそうした知見を得てどんな視点から各都市を見ていくのか? それをきちんとまとめてほしいんだが。でも、まったくなし。

こうした、理論的な枠組みや視点がきわめて不安定なので、各都市の記述もすべて、あれもあるこれもあるの総花記述になって、結局何が言いたいのかはまったく見えない。

でもいろいろ見た結果として何かすべてに通じる考え方が出てくるんだろうか? いいや。何もないんだよ、それが。第2部最後のまとめを見ても、こうした工業技術イノベーションによる都市発展みたいなものについての新しい知見はまったく得られない。周縁的な都市が最初は中心で、最初の連中は落ちこぼればかりで、中小企業からはじまりました、地元ネットワークが強く、自由があったので発展しました。でも新しい変化についていけないと落ちぶれます。そんな話。こんなに延々とあれこれ読まされてきた挙げ句、出てきたのがこの程度の一般論だと、腹がたちませんか? ぼくはふざけんなと言いたくなったわ。何も言っていないに等しいではないの。

そして日本の東京圏はすばらしい他とまったくちがう国家主導の長期的ビジョンを持った選択と集中による発展モデルであり、といった話は、いま読むと鼻白む。1998年時点でも、日本の没落は見えていたと思うけどなあ。

この第2巻では、第三部の大衆文化の冒頭も出てくる。でも、この時点でこの本が、いったい都市の話をしたいのか、何やらそのあたりで発達した文化産業現象の話をしたいのかまったくわからなくなってくる。読んでいて、都市というある物理的な実体に根付いた記述という感じが、これまでの部分でも全然しないのだ。文化の話だと、文化の話ばかりになる。マンチェスターの話ではワットの蒸気機関の話がいろいろ出てくる。でもそれがなぜここなのか? それが地元の風土なり環境なりインフラなりにどう関連していたのか?

産業そのものの話にしても、シリコンバレーの解説はサクセニアン『現代の二都物語』の引き写しにしか見えない。他の都市の説明に関してもそうなんじゃないか、という疑念はぬぐえない。すべて孫引きだというのはホール自身が冒頭で認めているけれど、でも材料は他から持ってくるにしても、彼なりの咀嚼はあるべきだと思うけれど、咀嚼のない羅列に終わっていると思う。

(あと、参考文献の邦訳資料の上げ方の雑さはちょっとすごい。『現代の二都物語』は大前訳が上がってるとかポラニー『大転換』も古い訳だとかケインズが何一つ挙がってないとか、さんざん時間がかかっているのでもう少しなんとかできたんじゃないかと思うんだが。ついでに、翻訳も最初は大目に見ていたが、だんだん中身への苛立ちもあり、直訳ぶりがカンに障るようになってきた。あと、agglomerationを凝集と訳すのはやめてほしい。ふつう、集積でしょう)

これから第3巻がでてきて、そこに入っているはずの第四部は見所があるらしいんだけれど(とマイケル・バティが述べていた)、いまやぼくは何も期待していない。が、一応ケリをつけるために目は通します。ではそのときにまた。

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付記

でもさあ、一応はイギリス都市計画の大家たるピーター・ホールの本だし、ぼくもそろそろマンフォードに代わる古典として翻訳したほうがいいんじゃないかとか、どっかで書いた覚えがあるし、責任感じてこんな税込み7000円超の本を二冊も自分で買ったんだよー。もっと費用対効果とか、それなりに得るものほしいよう。