Executive Summary
ピーター・ホール『都市と文明 III』は、突然イノベーションの話をはずれて、インフラの話をはじめる。だがそのインフラがこれまで重視してきた創造性とどう関わるかはまったく触れない。それぞれのインフラの事例として挙がる都市の記述も、あれこれ詰め込んで整理されず、論点がぼやけてばかりだし、また事例も一大都市から、ドックランズという地区開発をごちゃまぜにして、政策も都市のレベルと国のレベルが混同し、要領を得ない。
さらに最後はITが都市に与える影響だが、1990年代末のWIRED受け売りばかりで、20年たったいまは無惨に古びてしまい、読むだけで恥ずかしいほど。そして来るべき都市の黄金時代と称するまとめは、いろいろ問題を羅列するだけで、これまでの長い二千ページ近くから得られる将来への指針や視点、重視すべきポイントなどが一切ない。結局、全巻通じてこれだけの長さを読んでそれに見合う知見は得られず、徒労感のみが大きい。
はじめに
やっと出ました、ホール『都市と文明』の最終巻。これまでは、もうひたすら罵倒になっておりました。
が、満を持しての最終巻。これまでの二巻分の、支離滅裂な惨状を挽回してくれる逆転満塁ホームランを期待していたんですが (いやまあ、その可能性はないと思ってはいたが、期待はしていたんだよ)。で、1日半かけて目を通しました。
しかし、期待は (予想通りとはいえ) かなわなかった。というより、これまでの二巻にも増して混乱しており、最後は収拾つかなくなって何を言っているのかもわからなくなっていると言わざるを得ない。
これまではイノベーションとか創造性とかいうのが主題だった。それが都市の本質だという。そしてそれは、ある種のオープン性で、異質な要素が集まり自由が許されたことから生まれてきたものだ、というのが、混乱しつつも打ち出してきたメッセージだ。大ざっぱな方向性は、最近訳されたノルベリ『OPEN』と同じだ (とすかさず宣伝)。
ところがこの最終巻では、それが一切消えてしまうのだ。
インフラの話が創造性の話とまったくつながらない。
この最終巻の話は、都市秩序。都市を支えるインフラの話だ。上水道とか鉄道とか住宅とか高速道路。あと、財政なんてのも入ってる。
さて、イノベーションこそが大事、都市の創造性こそが大事、というのが主題であれば、こうしたインフラのあり方がどのように創造性を支えたのか、という話になるんだろう、とぼくなら期待したいところ。たとえば、住宅政策のおかげで従来は都市から排除されてきた層が流入して新しい文化を作りましたとか、鉄道が新しい結節点を可能にしてそれが文化の拠点となりましたとか (渋谷とかそういう例だと言っていいと思う)。
ところが、本書はそれがほとんどない。普通のインフラの話。創造性とは何の関係もない。
著者もヤバいと思ったらしく「いやでもこうしたインフラそのものに創造性がいっぱいこめられている」とのこと。もちろん大規模インフラづくりには、いろいろ創意工夫が必要になるのは確かなんだけどさあ…… でもそれは、何か異質な要素がぶつかりあい、刺激し合うことで出てきたような形のイノベーションではありませんよね? つまりこれまでの話と「イノベーションです」と言って連続性を持たせられるものではありませんよね?
事例の粒度がめちゃくちゃで、記述が整理されずに論点が不明。
そして採りあげられているローマ、ロンドン、ニューヨーク、パリ、ロサンゼルス、ストックホルム……そして次にくるのがロンドンのドックランド開発? 都市全体の話をしているんだと思っていたときに、いきなり都市内の一地区の再開発の話で丸一章というのはなんですの? 話の粒度も何もめちゃくちゃ。
そのそれぞれの都市についての記述も、あれもある、これもあるの雑然とした寄せ集め。ローマは、二千年前の水道の話がしたいというので、そのための行政機構の話や資金調達の話が出てくるのはいい。でも食料輸送がダメだったとかやり方が強権的だったとか、二千年前の都市を今日の基準であれこれ言ってどうする? その後の都市の話もすべて、だれそれがこう提案したのを別の人がこんな反対してこんな問題があって格差もあり人種問題もありもっといい解決策があったのに云々。そんな、完璧でなかったといって揚げ足とってどうするの? そんなケチつけるんなら、もっといい解決ができた都市をもってきて事例にすればよかったのでは?
以前書いたことだけれど、歴史は一回限りのものではある。だから細かく見れば見るほど「このときこいつが出てこなければこれは起きなかった」「このときたまたま地震が起きなければこれはあり得なかった」というのが山ほど出てくる。でも、それをやりすぎると、歴史から学ぶことは一切できない。あらゆる事象は、何やらたまたま偶然に条件が揃ったことで、可能になっただけ、ということになる。本書はすべてその調子になってしまう。所得再分配や財政に関しては、都市政策というより国の施策だった面も大きいのに、そういう切り分けもなしで、もうごちゃごちゃだ。
ドックランズ開発の話が出てくるのは、何か不動産開発が主導する都市開発のあり方という話がしたいから。書かれた当時は、これをやった開発業者オリンピア&ヨークが倒産してえらい話題になっていて、そういう話をしなきゃいけないと思ったのかもしれないね。でも今にして思えば、いつでもどこにでもある話だ。不動産業者主導なら三菱地所とか、東急の田園都市の話をするほうが、ずっとよかったのでは?
そしてドックランズは、グローバリゼーションの影響なんだという話だけれど、そこでのグローバリゼーションって、ロンドン、NY、東京の都市間競争、くらいの意味でしかない。1999年の本で、それはないんじゃないか。第一巻の冒頭で、都市の事例が欧米だけなのはごめんね、とは言っているけれど、事例はさておきその背景理解として、あまりに不十分じゃないかと思う。
経済の話はすべて景気波動にこじつけようとするが無意味。
そしてインフラや不動産開発の話は、景気とは切り離せない部分はある。が、景気/経済の話でこの人が出してくるのが、景気循環の波動理論。コンドラチェフだジュグラーだ、というアレ。
でもそもそも、景気は上がったり下がったりするけれど、それを無理に何か法則性のある波動にあてはめる必要はまったくない。それが何年周期か、なんてことを詮索しても仕方ない。これは経済理論としてもそうだし、さらに都市開発の話をするにあっては、何か知らないけれど景気がよくてそれが不動産開発とも連動しました、というのが前提としてあればすむ。その景気のよさが何とか波動の影響だったという話はまったく何の役にもたたない。ところがホールは、このコンドラチェフ波動が〜と言うのが何か重要だと思っているらしくて、要領を得ない議論をあれこれ。前の巻についての話で触れたけれど、本当にレギュラシオン学派に頭をやられていたみたい。でも、その何とか波動って、実体的にあるものじゃないから。この本には一切貢献してませんから!
で、最悪なのが最終章。
IT話は当時のWIREDの聞きかじりもどきで最悪
ここは、IT革命と都市、みたいな話をしたい部分。1999年でみんなITで浮かれ、おじいちゃんも「インターネッツっつーもんをやってみたいんじゃが」みたいに思っていたのはわかる。WIRED必死で読んでバズワード漁っていたのはわかる。
が、自分がどういう本を書いているかわかってないの? そういう目先の流行りにおたついているような話ではなく、千年、せめて百年レベルの話でしょうに。それが、ネグロポンテ〜、情報スーパーハイウエイ、キラーアプリ〜。マルチメディア〜。いろいろ聞いた風なことを言うんだけれど、たぶん自分でもよくわかってないと思う。なんで『ジュラシック・パーク』のSFXやった企業が云々なんていう話が得意げに出てるんだ? MosaicはMacとUNIXだけにしか提供されなかったことになってるし。ああそうそう、翻訳は、同じページでbpsのbがビットなのかバイトなのか混乱していてアレだし (p.1899)。
また何かテッキーなことを言おうとして「これらすべての鍵は、一対の電極に挟まれた特定の種類の重合体ポリマーがスクリーンとして機能するという発見である」(p.1862) とか。これって何のことだと思う? ぼくもしばらく考えちゃったよ。液晶の話ね!! いや、1999年でもこんなもったいつけるほどのものではなかったと思う。そうそう、考えて見ればすでに1990年代初頭には、ケチなぼくですらPowerbook180持ってたし、液晶はそこそこ普通の存在だったよね。カラーはDSTNとか、最初の頃はまだ発展途上だったけれど、それも急速に改善されて前世紀末には普通だったはず。いや待て、1993年くらいには、DEC Hinote Ultra買ったし、TNTカラー液晶もだいぶ普及してきてたぞ。この本が出た1999年とかの時点では、そんな特筆するものではまったくなかったはず。だれか止めてやれよ。
すべてこんな具合。現時点ですべてが完全に古びてしまっているのは当然どころか、当時としてもかなりはずしていたんじゃないかな。そしてそういうのを羅列した挙げ句に、最後に都市への含意として出てくるのが、距離の死と言われるけれどレストランでの食事とか完全に代替できないものはあるよね、という話。
いやそんな話であれば、ムーアの法則もILMがどうしたいう話も何もいらなかったのでは?
原著刊行から四半世紀たってから、そういうのをあざ笑うのは、まあフェアではないんだけどさ。別にスマホの話がないからといってケチつける気もない。いや、がんばってはいるんだけどね。でも次の一節を読むと、脱力してしまうのは人情でしょう。
1995年6月に日本で画期的な出来事があった。「簡易型携帯電話システム (PHS)」は、小型の低電力ベースステーションを使用して、待機時間400時間と通話時間5時間の化粧コンパクトの大きさの電話を提供した。帯域幅を非常に経済的に使用して、画像と音声を送信し、携帯電話を介して通信でき、パーソナルステレオまたはノートブックパソコン、一種の「ワイヤレス・マルチメディア」に接続できる。(p.1861)
やはり2022年にピッチ絶賛の本を読むと、遠い目になってしまう。もちろん、後のスマホやモバイルにつながる話ではあるし、目のつけどころはよかった、とほめることはできなくもない。が、それが都市をどう変えるのか、都市にとってどんな意味を持つのか? WIRED的なうわっついた一過性の話を見通して、これまでの都市についての知見をもとに何か見通しを出せるのが、歳寄りの存在意義ってもんだろ? 「都市計画の大家」っていうんだから、その大家の矜持ってもんだろ?
そして原著刊行から四半世紀後にそれを翻訳出版しようと思った人、たとえば監訳者の佐々木雅幸は、これに現代的な価値があると思ったんでしょう? それはどこにあるんだろうか? 監訳者あとがきは情報量がないも同然で、目次を読んでいたほうが話がわかるくらい。もう少し弁明なりなんなりがあってしかるべきでは?
あれもある、これもあるで結局結論は……何もなし!
そして最後に、エッジシティってどうよ、とか自動車中心の都市から云々とか、あるいは貧富の差が都市内格差になってしまってとか、交通機関の発達がそれを煽るかも、あーこれから技術失業が出てくるかも云々という話がまったくまとまりなく続いて、教育投資したほうがいいよね、格差を解消することは考えた方が良いよね云々、といった都市レベルとは関係ない話があれこれ羅列され、そして結論は:
以前と同じように、技術の進歩は逆説的に悪役でもあり英雄でもある。一方では、雇用、企業、産業全体そして生活様式を破壊するが、他方では、広大な新しい経済的機会を創出し、都市社会の手に負えない問題を解決する。しかし、われわれがそれをどのように利用するかはわれわれ次第だ。それが都市の歴史の次の世紀、そして次の時代へのメッセージである。(p.1926)
……全三巻、二千ページ近く読まされてきて、これがまとめだ。
これだけ。
いやあ、これを深みのある何かだと思う人も、いるのかもしれないねえ。でもぼくは、ふざけるなと思う。これまで読んできた時間を返せと思う (ついでにこれ全三巻買ったお金を返せと思う。さっさと転売してしまおう、まったく)。
こう、都市の歴史、いろんな都市のいろんな成功や失敗の事例をみてきた結果として、少しは引き出せる一般論ってないの? 最初のほうでは、都市は創造性がだいじだ、という話だったよね? それを実現するための都市政策とかインフラ作りとか、何かしら示唆はあっていいんじゃない? マンフォードの「都市はネクロポリスになるのだ」みたいな見通しを批判して、いや都市は活気にあふれてこれからも文明の基盤になるんだ! というのが冒頭での宣言だったように記憶してるんだけど、最後は「こんな問題も、あんな問題も、未来はわかんないし、不透明だしうだうだ、でもそれをどうするかはわれわれ次第だ!」って、なんか都市の可能性がまったく見えない終わり方なんですけど! このITがらみの話から続く章の題名は「来るべき黄金時代の都市」なんだけれど、黄金時代の話が一切ない!
たとえば黄金時代というのは、次のポール・クルーグマンの短い半分ジョークまじりの文章などだ。
ここでクルーグマンは、様々なテクノロジーの発達が実はさらに大都市を巨大にする役割を果たすことを指摘する。ホールが言いたがった創造性の話も、それがどんな展開を見せるかについて一定の知見を示す。そして、それは当たっていたようだ。いや、短期的には当たらなくても、そこできっちりした視点、見方、都市の捉え方さえ出ていれば……でも、ホールの本にそれはない。結果的に、この二千ページの本よりも、このクルーグマンの小文のほうが、都市や創造性の未来についてずっと明解な知見を出しているという悲しい状態。うーん。もちろんこの頃のクルーグマンは、いろいろな意味で天才的なひらめきを見せていた。それと比較するのは可哀想かもしれない。が、天才のひらめきでも、凡人の二千ページの鈍重ながらも生真面目な作業が少しは超えてほしいと思うんだが……
結論:読むだけ無駄な本だと思う。
結局…… これだけの長い重い高い本を買って読んで、ぼくはとても激しい徒労感にうちひしがれている。第四部はいいよ、というマイケル・バティの書評を信じていたんだけどなあ……何がよかったんだろうか。
そのバティの書評によると、ピーター・ホール自身は、この本がかなり自信作だったそうな。本当に決定版の新しいスタンダードになると思っていた。ところが、実際にはほぼ完全といっていいくらい無視されて、まともな書評もほとんど出なかったとか。ホールにとって、それはかなりショックだったらしい。うーん。
ぼくは最初この話を読んで、読み手にがそれを受け止めるだけの度量がなかったのかもしれない、とは思った。ピーター・ホールだし、まあそんなに外すとは思わなかったし。でも、いま自分で通読してみて、これが無視された理由はよくわかる。それは受け取る側の責任ではない。読んだ人たちがバカだったとかいうことではない。正直、書評を書く人間としては、あのピーター・ホール (いや、業界ではかなりえらい人ではあるんです) 畢生の大作となれば、ほめるほうが簡単だ。でも、それすらできなかったということだ。整理されず、論点もまとまらずに、都市の未来についての知見も指針も希望も出せない——それで誉めるのはむずかしい。
しかしピーター・ホール自身にとってはこれが自信作だったということは、本当にこれでいいと思っていたんだろうか? うーん。どこらへんを見所だと思っていたのか、訊いてみたかったような気はしなくもないが……まあ、訊いてどうする。それで評価が変わることはないと思う。
なんというか……全体にこの人、この第3巻で顕著だけれど、あまりに目先の話にとらわれすぎる。ドックランズの話もそうだ。ITの話もそうだ。PHSで大騒ぎしてみせる話もそうだ。レギュラシオンや景気循環の話もそうだ。全体的な話に関係ないでしょうに。そしてそれは逆に、大局的な視点がないということ。長い歴史の中で、何が重要かを抽出する能力がない。そうなると、都市の創造性が大事ですとかイノベーションが大事です、といった話も、当人の都市観察や実務から出た知見なのかどうか怪しい。ちょうど、いろんなところでイノベーションとか言われ始めていたのにのっかっただけでは? だからこそ、それが全体を貫徹することもなしに尻すぼみになってしまうのでは? そう勘ぐられても仕方ないだろう。すると最終的に、ピーター・ホールは実務家であって目先の問題を解決するのが得意な人であり、大きなビジョンがある人ではなかった、ということなのかもしれないね。それでもなあ。
あと、翻訳は生硬。著者が無用にもってまわった言い草をしたところが多いせいもあるんだけれど、訳している人が本当にその意味をわかっているんだろうか、というのが疑問に思えるところが多々あって、ただでさえ要領を得ない記述がなおさらわかりにくくなっっている。そういえば、監訳者の名前はあるけれど、実際に翻訳した人の名前が見あたらない。それは仁義にもとるのでは?