ぼくは「モンティ・ホール問題」がよくわからない。

10月24日に、Change to Hopeというイベントがあって、スティーブン・ピンカーが来日して基調講演をする……予定だったのがコロナで来れずオンラインになってしまったんだが、ぼくがその司会役、というか質問係をおおせつかったのでした。

www.change-to-hope.com

で、これは新著『人はどこまで合理的か』をベースに最近のネタを散りばめる講演で、ぼくも付け焼き刃でざっと読んでみました。基本は、人はいろいろ数学パズルみたいなものにごまかされて合理性を発揮しにくくなる部分があるのだ、という話や経済学的な合理性の話などで、あとは合理性がいかにしてこれまでの人類の発展を率いてきたか、これからも理性をちゃんと使ってがんばらないといけないよ、というもの。一般向けの講義をまとめたものだそうで、人によっては知ってる話ばかりでつまらないかもしれない。まったく知らなかった目新しい話はない。類書も多く、その中でピンカーの本が傑出しているわけではない。それを人類の発展や『21世紀の啓蒙』につなげたところが売りものかな?

ちなみに、中で人間はすぐに陰謀論にだまされるという例として、コロナが中国の研究所から流出したなんて説を信じているヤツがいる、と嘲笑されているんだけど、最近これは可能性としては十分にあり得る (ただし厳密なところは中国の秘密主義もあってわからん) という、立派な仮説に昇格していて、陰謀論フェイクニュースってのがみんなの思うほど簡単ではないのを、身を以て示してくれているのはご愛敬。

 

モンティ・ホール問題

が、それはさておき、採りあげられている話の中に、あの有名なモンティ・ホール問題があるのだ。みんな知ってると思うけど、基本はドアが三つあって、一つは当たり。二つははずれだ。参加者はどれかドアを選んで、当たりなら賞品がもらえる。でも、そこにひねりがある。

モンティ・ホール問題

さて、あなたは選択を変えるべきか? みんなご存じだと思うけれど、答は、選択を変えるのが正解。これについてはいろんな通俗解説書がある。そこの説明はわかる。Wikipediaを見てもいい。

en.wikipedia.org

ここには、キース・デブリンによる解説が紹介されている。当然、ぼくもそれは理解できる。だって翻訳してますもの。

が、この本のあと書きにも書いたように、ぼくは賦に落ちない部分があるのだ。もう一人別に参加者がいたらどうなる?

二人がモンティ・ホール問題をやったらどうなるだろう?

山形がこのゲームをやって、Aのドアを選びました。司会者ルは、Cのドアを開けて、そこに賞品がないことを教えてくれました。

すると頭のいいみなさんはぼくに対して「それは乗り換えたほうがいいよ、Bのドアを選びなさい」とアドバイスをくれる。オッケー。それはわかりました。

では。

もう一人、このゲームに参加していたとしよう。それがこのハギーワギーくんだとする。

ハギーワギーくんは最初、Bのドアを選んでいた。もちろん、場合によっては司会者がBのドアを「ハズレでした」と開けてしまう場合もある。でもそうでない場合は? 司会者がCを開けて、自分のが当たりかもしれないと思ってワクワク。さらにぼくの話だと自分の選んでいたドアのほうが確率が高いと言われて大喜びだ。が……あなたは、このハギーワギーくんには何と助言するだろうか?

(現実問題としてモンティ・ホール問題はテレビ番組だから、視聴者はみんな「Aだろ」「いやBだ」と勝手なことを思っていたわけだ。だから必ず、ぼくが選んだドアでもなく司会者がハズレドアとして開けたドアでもないものを選んでいた人はどこかには必ずいる)

理屈はまったく同じだ。あなたは当然、ハギーワギーくんにも選択を変えろと助言する。つまり、BのドアよりもAのドアのほうが確率が高いぞ、と言うわけだ。それは……ぼくが最初に選んでいたやつだ。

もちろんぼくとハギーワギーくんはそこで顔を見合わせて、どっちなんだ、はっきりしろとあなたに詰め寄るだろう。さて、あなたはこの二人が納得するような説明ができるだろうか?

ぼくの場合とハギーワギーの場合とは独立していていっしょにしてはいけないのか?

昔、だれかにこの話をしたら、おまえの選択とハギーワギーくんの選択はまったく独立したものであり、それをごっちゃにするのがおかしいんじゃないか、みたいなことを言われた。でも……実際問題として、独立ではないだろう。ハギーワギーはぼくの隣にいて、ぼくとこの子は同じ三つのドアを見ている。それを見ている野次馬たちも同様だ。

そして多くの解説では、実際にこれは変えた方が確率が高くなるのだ、というのをシミュレーションやケース分けで示している。でもそのまったく同じシミュレーションやケース分類は、ハギーワギーくんについても言える。

司会者が外れドアを開けたことが、なぜぼくの選んだドアには影響しないの?

さらにモンティ・ホール問題の説明の大半では、モンティ・ホールが開けたドアはランダムではなく、背後に賞品のないハズレのドアだけを選んで開けているので、それが新しい情報を追加した、よってそれは選択に影響するのだ、ということになる。でも……この説明だとハズレドアを一枚あけるという行為、あるいはそれがもたらす情報は、ぼくの選ばなかったカードにだけ影響するようだ。なぜ?

言い方を変えると、ぼくが最初に選んだドアAは、確率1/3のドア、ということになる。それ以外のドア二つ (BとC)は、合わせて確率2/3だ。そして外れドアを一枚除外したら、その2/3の確率が、ぼくの選ばなかったドアBに積み上がることになる。よって、確率の高いBを選ぶのが賢い、というわけだ。

これを強調するために、ドアが3つではなく100個だったと思え、という解説もある。ぼくは1枚選ぶ。それは確率1/100だ。そこで司会者は、残り99枚のうち、車のない98枚を開けてみせる。すると、その98枚分の確率は全部、ぼくの選ばなかった1枚に集中するよ、というわけだ。1/100より99/100が大きいのは当然ですよねえ?

はい、この説明もわかる。わかるんだが、やっぱわからない。

だってなぜそこで、ぼくの選んだドアは確率1/3 (または1/00) のままなの? 外れドアを開けたら、当然ぼくの選んだドアの当選確率だって高まるんじゃないの?

これを強調するため、逆にドアを減らそう。ドアが2つしかなかったとしよう。ぼくが片方を選んだ。当選確率は1/2だ。司会者は残り1つを開け、それが外れだということを示した。さて、ぼくが選んだドアの当選確率は?

当然ながら、100%だ。

でもモンティ・ホール問題の解説の議論では、ぼくのドアの当選確率は相変わらず1/2だということになりそうだ。ぼくが選んだときの確率1/2が残り、それは最終的に自分のドアをめくるまで確定しない……でもそんなはずがあるか? シュレーディンガーのネコじゃあるまいし。これは明らかに変だ。外れドアを一枚開くことで、新しい情報が加わり、確率は変わる。それはわかる。でもその変化が、ぼくの選ばなかったカードにだけ影響するのは変だろう。ぼくの選んだカードにもその変化は当然波及するのでは?選ばなかった部分について新しい情報が得られたことで、ぼくが選んだドアをめぐる条件も変わるはずでは?

なぜ問題の言い方を変えただけで話が変わるの?

あるいは問題の設定を変えてみよう。

「選んだカードを変えますか?」という問題ではなく「最初の選択をご破算にして、どっちか選びなおしてください」という問題設定にしよう。そうなったら、どっちかのドアの後ろに賞品があって、それは等確率だから、どっちを選んでも確率は1/2だ。それが、最初にぼくが選んだドアか、そうでないか、というのはまったく問題にならない。そうだよね? (上にあげたWikipediaページにもそう書いてある)。

でも何がちがうの? やっていることはまったく同じだ。二つ残ったドアのどれを選ぶか聞いているだけだ。でも「選択を変えるか?」と尋ねられた場合と「新たに選び直すか?」と言われた場合とで、質問の形がちょっと変わっただけで、二つのドアの確率分布が変わるの? なぜ?

選ぶという「想い」で世界は変わるの?

どうもこの一連の話では、ぼくが最初に「Aの扉を選んだ」というのがずいぶんご大層な意味合いを持ってしまうようだ。でも、「選ぶ」と言ったって何かを変えたわけじゃない。「こっちかなー」と思っただけだ。なぜそれで話が変わってしまうのか? ぼくが「こっちかなー」と漠然と思っただけで、現実世界の確率分布を変えた、ということになる。ぼくが何も考えなければ、残ったドアの当選確率は半々だ。ところが、ぼくがうっかり見て、何の根拠もなくふと勝手なことを思っただけで、それが世界を変える? あるいは、ぼくが最初の選択をご破算にして、改めて残った扉の中から選ぼうかなー、と思った瞬間に、また世界は変わるの?

そしてまた最初の、ぼくとハギーワギーくんの両方がいる場合に戻ろう。両者が頭の中でたまたまちがうことを考えただけで、両者にとって同じ物理世界の確率分布がちがうのだ、ということになる。同じ世界を見て、同じ物理現象を見ているのに。なんだか「わたしたちの思いがあれば世界は変わるの!」って、あんたプリキュアさんですか、という感じだ。さて、それでいいのか?

おわりに

というわけで、ぼくがわからないのはそういうことなのだ。

たぶん実際には、そんな大げさな話ではなく、ぼくが何か非常に基本的なことを見落としているだけなんだろう、とは思う。が、正直いってぼくはそこそこ頭がいいので、一般的な話はだいたい理解できるつもりではある。これだけいろいろ読んだぼくが見落としているなら——ぼくに理解できないなら——たぶんかなり多くの人も、これをわかっていないはずなのだ。

ただ、いまだとピンカーの本にもあるように、これって人が合理的な思考ができない事例として挙げられるようになっている。

つまり、これが理解できないというのを認めたら、それは自分が不合理なバカで反ワクチンと地球平面説の信奉者だと思われかねないようなふいんき(<--なぜか変換できない) がある。たぶんみんな、それを恐れて内心首を傾げていても、それを表に出せない部分もあると思う。だからワタクシが人身御供になりましょう。教えて、えらい人! ハギーワギーくんとぼくとが二人とも納得するような説明をしてみてくれないだろうか?*1


追記 (2022.12.27)

このエントリーにみんながいろいろコメントをくれて、自分の混乱していたところが理解できたように思う。みんなありがとう! それについてはこに書いておきました。しかし、ピンカーにこんな話を尋ねなくてよかった……

cruel.hatenablog.com

*1:ホントは、ピンカーが来日したら帰国までの一時間ほどのアテンドもやってくれと言われていて、そのときにこれを尋ねてみようと楽しみにしていたんだけれど、その機会はなくなってしまったもので……