反知性主義1: ホフスタッター『アメリカの反知性主義』 知識人とは何かを切実に考えた名著

はじめに

 反知性主義をめぐる本を3冊読んだので、その話をちょっと書こう。なぜそんなものを読もうと思ったかというと、『現代思想』の「反知性主義特集」に対するアマゾンのレビューがぼくのツイッターでちょっと話題になっていたからだ。

「彼らは反知性主義だ」と規定する知性は知性主義的なのか?

ぼくはこの特集を読んでいないし、読むつもりもない。が、このレビューの主張はよくわかると同時に、この特集のスタンスについて疑問が湧いてきた。

というのも、このレビューを信じるなら、この特集での「反知性主義」というのは、「自分とちがう考え」のことらしく(たとえば原発推進とか安部政権評価とか)、そしてそれを「反知性主義」と呼ぶのは、要するに「バーカ」というのをご立派に言い換えているだけらしいからだ。

さて、まずぼくはこの手の言い換えが嫌いだ。ぼくはしばしば、バカをバカとはっきり言うので、性格が悪いとか下品とか言われる。でもぼくは、変な言い換えやほのめかしで上品ぶっている連中のほうが、よっぽど性根が下品だし性格も陰湿だと思う。

が、それ以上にこれを見て、なんだかここで言われている「反知性主義」というのが、ぼくの(その時点で)知っていたものとはちがうので、違和感をおぼえた。

というのも、ぼくの知っている「反知性主義」というのは、決して悪いものではないからだ。「バカ」の言い換えなどではない。もっと積極的な価値観だ。それはむしろ「反インテリ主義」とも言うべきものだったはずだ。大学いって勉強した博士様や学士様がえらいわけじゃない、いやむしろ、そういう人たちは象牙の塔に閉じこもり、現実との接点を失った空理空論にはしり、それなのに下々の連中を見下す。でもそんなのには価値はない。一般の人々にだって、いやかれらのほうがずっと知恵を持っている、という考え方だ。

これはもちろん、フリーソフトの発想であり、インターネットの発想でもある。

そしてそれは、ベトナム戦争の頃に体制擁護に堕した「知識人」に対する草の根的な反発の根拠でもあったはずだ。スーザン・ソンタグが『反解釈』なんてのを出したのもその文脈だったはず。

そしてそれはもっともっと広い、反エリート思想の流れでもある。ぼくは、エリート主義者ではある。そしてちゃんとした知性に深い敬意を抱いている。その一方で、ぼくはこういう反知性主義的な嗜好も持っている。知識も技能もエリートが独占する必要はないし、また独占させればエリートは堕落するし、そこらの素人がそれを蹴倒す可能性だってある。矛盾するようだけれど、ぼくはそれを信じている。『アメリカ大都市の死と生』解説でジェイコブズについて述べた、素人の強みは、ぼくは重要だと思っている。またインターネットの各種動きは、集合知的なものを通じてそれを実現した面もあると思っている。知性主義というべきものと、反知性主義とのバランスはどうあるべきか、というのが、ぼくにとっては重要な課題だ。

それが「バカ」の言い換えに使われているというのは、ぼくには変に感じられた。だいたい、バカは主義じゃないもの。多くのバカはのほほーんとバカに甘んじているだけで、それを主義として持っているわけじゃない。

でも、このときには漠然とそういう違和感を感じただけで、それをどうしようとは思わなかった。でもその後、フリン『なぜ人類のIQは上がり続けているのか? --人種、性別、老化と知能指数』を読んだとき、その解説で斉藤環が「知能と知性とはちがって日本では反知性主義がはびこり云々」という話を書いていて、そのときの違和感がよみがえってきた。

で、ちょっときちんと見ておこうと思ったわけだ。

そこで最初に手に取ったのが、まずは基本文献。ホフスタッター『アメリカの反知性主義』だ。そしてこれは、すばらしい本だった。

ホフスタッター『アメリカの反知性主義』 知識人とは何かを切実に考えた名著

アメリカの反知性主義

アメリカの反知性主義

さて、この本は何についての本でしょうか、と尋ねたら、多くの人は「反知性主義についての本じゃないの?」と思うだろう。竹内洋による本書の帯の惹き句もそういう認識で書かれている。

でも、実はそうであって、そうではない。反知性主義は、実は本書では二次的なテーマだ。本書の本当のテーマは、知識人だ。知識人はどうあるべきか、というのが本書のテーマなのだ。

ホフスタッターはもちろん知識人だ。アメリカの知識人。そしてもちろん、反知性主義の影響でちょっと自分たちの立場が軽視されているという危機感はある。マッカーシズムはその最たるものだけれど、それ以外にも文教予算が軽視されたりとかね。あるいは進化論がまともに教えられなかったりとか。

でもだからといって本書は「いやあ、無学な反知性主義なんてのがアメリカにははびこってて、やだよねー、わしら知識人えらい迷惑なんよねー、みんなもっと知性を尊敬してわしらに地位と予算と名声と敬意をたっぷり貢ぎなさいよ、下郎の愚民どもめが」というようなくだらない話にはなっていない。

なぜか? アメリカにおいては、教会の権威や貴族文化により知性というかインテリの地位が確立していたわけではない。ヨーロッパでは伝統的に、知性や知識・教養は行政的、宗教的な権威と不可分だった。でもアメリカはまさに、そうしたヨーロッパ的な権威への反抗から生まれた、それが嫌な人たちが逃れてきた国だ。むずかしいお勉強しなくても、ご立派な学校にいかなくても、高尚な文化がわからなくても、人生や世界の真理は十分にわかるはずだ、いやむしろそういう余計な知恵を身につけないほうが、本質的な知恵を獲得できるはずだ、という発想がそこには根強くある。役にたたない空理空論より、実践を通じた実学、ビジネス、技術が重要なんだという発想がある。それが反知性主義の基盤だ。

つまり、浮き世離れしたなまっちろいエリートの机上の空論より、現実に根ざした一般庶民の身体感覚に根ざす直観こそが貴いという考え、それこそが反知性主義の基盤だ。しかもそれはアメリカにおいては、建国の理念の一部ですらあり、その後のアメリカの世界支配の足がかりでさえある。

そして、ホフスタッターもアメリカ人として、この発想自体はかなり認めている。それは民主主義の思想だし、トックヴィルを驚愕させた陪審員制の思想だ。かれはそれを、よい衝動と呼ぶ。

それなのに、そのよい衝動から始まった反知性主義は、アメリカの歴史上で常に粗野で偏狭で下品で抑圧的な動きにつながる。マッカーシズムがその典型だ。かれは、清教徒の到来からその歴史をずっと描き出す。エリートが強くなると、反知性の動きが盛り上がり、それが知識人排斥の嵐となって、最低の衆愚がやってくる。

ホフスタッターは、知識人である一方で、この反知性主義の基盤となる発想については大いに認める。しかしそのなれの果ては否定せざるを得ない。本書は、このホフスタッター自身の逡巡であり、アンビバレントな感情のあらわれだ。そしてかれは知識人として、この問題をどう解決すべきかを真摯に考えようとする。この根本的には正当性をもつ基盤に対して、なぜ当時の知識人たちが有効に対決できず、その一方でその正当なはずの立場がなぜ堕落していくのかを、かれは知識人の立場から描き出す。その一連の流れは、ホフスタッター自身の立場を造り上げてきたものでもある。かれ自身も、内面的にも外面的にもその流れの末裔なのだ。

だからかれは、反知性主義を単に「バカ」と呼んで事足れりなどとはしない。それはホッフスタッター自身の問題を解決……まではいかなくても、整理して自分なりの結論を出すためのプロセスだからだ。

だから本書には切実さがある。他人事として反知性主義をけなしたりするのではなく、それを自分としてどう受け止めるか、そして知識人の役割の中でそれをどう止揚すべきかという当事者としての厳しさがある。

それが、本書を感動的なものにしている。

安易な逃げ道はある。愚民どもにもちゃんと大衆教育をして、ある程度の知識基盤をつけさせましょうよ、という道だ。でも著者はそういう安易な道を採らない。本書の最後近くに、ジョン・デューイについての章がある。ぼくは、本書の中でこの章が最も胸をうつ素晴らしいものだと思う。この章は、ある意味で場違いだ。デューイはもちろん、反知性主義の実践者なんかでは絶対にない。かれは、愚民の教育とそれによる民主主義参加という方法に、ある意味で反知性主義的な暴走への防止策を見出そうとした人物だ。民主主義(これはある意味で反知性的な基盤を持つ発想だ)の実現のために、教育によって知性を獲得させよう、というわけ。そして、決まった権威に基づく教育ではない、自発的な学習をかれは重要視しようとする。が、その目論見は挫折する。完全な挫折とはいえなくても、デューイの理想とはほど遠い代物にしかならない。では、どんな道があるんだろうか?

そしてそれを受けて最後の章がやってくる。普通の本であれば、この結論の最終章は「反知性主義と戦うには」みたいな内容になるだろう。だが驚くべきことに、この結論には「反知性主義」ということばはほとんど出てこない。むしろそこでの主眼(そして章題)は知識人だ。いまや、かつてのように知識人完全役立たず、と言われる時代ではない。でもその中で知識人とはどうあるべきか? 第二次大戦後になって、知識人はかつてほど軽視されなくなったかもしれない。その知識は役にたつことも示された。しかしそれでは、単純に体制順応の知識人になればいいのか?

また、反知性主義的な動きも残る。ヒッピーとか、ビート族とかだ。また左翼的な知識人は、とにかくなんでも体制批判してればいいと思ってる。でもそれもちがうだろう。あーもある。こうもある。本書は簡単に処方箋を書いて終わったりはしない。著者は最後に、多様な知識人のありかたの共存と、それを許す寛容性をもちだす。そこに人類社会の希望があると言って。それはいささか唐突ではあるのだけれど、ある意味で本書の最初の問題意識――知識人と、反知性主義のよい部分とを共存させるにはどうしたらいいか、というのに対する答えでもある。そして、自由な文化はおしまいだとか、高級文化は終わりだとか安易にいいたがる終末論者(というよりその安易さから週末論者くらいでしかないんだけど)は、自己憐憫と絶望感を広める、つまりは非生産的なグチを言ってるだけだとかれはくさす。創造力を最大限に発揮させようという自信がないだけだろう、と。

本書はマッカーシズムを受けて出てきた。そして本書が出るのと前後して、ベトナム反戦運動が高まりを見せ、まさに本書の最終章で言われているような体制順応知識人の役割が批判されるようになって、反知性運動は別の形で高まりをみせる。本書では、左翼知識人はもはやソ連社会主義リベラリズムを似た者として扱ったりできず無力になったと書かれているが、これがまた復活を見せる。本書は、まさにそういう時代に出てきたからこそ、高い評価を得たというのもあるんだろう。でも、いま読んでもその価値は下がっていない。知識人は(そして非知識人も)同じ問題に直面している。そして、それに対して多様性礼賛だけでよいのかどうか、ぼくたちには自信がなくなっている。本書の掲げた問題は、むしろいまのほうが、なおさら切実なのかもしれない。だからこそ、40年たっても本書はまったく古びていない。


さて、本書をまともに読んで、知識人なら(そして知識人でなければこんな本を読もうとは思わないだろう)この切実さに涙せずにはいられないだろう、とぼくは思った。そして、反知性主義を「バカ」の意味で使ってる連中は、どう見てもこの本を読んでないだろうと思った。が……

ぼくはまちがっていた。

(つづく)