反知性主義2:森本『反知性主義』:ホフスタッターの当事者意識や切実さはないが概説書としてはOK

おちゃらけ

(承前)

まずは少しおちゃらけから。

前回の反知性主義話を書いた直後に、斉藤環が次のようなツイートをした。

さて、8月21日にこのツイートが出てきて、しかもその中で「僕が「反知性主義」と呼んでいるのは「バカ」の上品な言い換えとかじゃなく」と述べているのは、おそらくぼくの前回 (8月20日)の記述を意識したものだと思う。そうであるにせよないにせよ、ぼくはこういう参照先を明記しないでほのめかしで済ませるやり方は、とても低級な知的堕落だと思っている。

斉藤のこのツイートはつまり、「自分は『反知性主義』というのを誤用なんかしてないぞ」と言いたいわけだ。

が、「地アタマだけは良い連中の実学志向&人文知軽視」は、まず前回のぼくの記述で述べている本来の「反知性主義」、つまり知性(または知識人)を積極的に否定し、むしろ知識がないことこそ正しいのだ、という思想に合致しているだろうか? ぼくは合致していないと思う。つまり、このツイートは「自分は『反知性主義』を正しい本来の意味で使っています」という主張にはまったくなっていない。

そしてもちろん、ことばの用法は変わるので、反知性主義という言葉をそういう意味で使わなくてもいいだろう、という主張はあり得る。では少なくとも「反知性主義をバカという意味では使ってない」という主張くらいは、少なくともこのツイートの中ではきちんと整合性を持って言えているだろうか? ぼくはそれすら無惨に失敗していると思う。

というのも、「バカ」というのはとても広い概念だからだ。単なる無知とか論理能力や概念操作力の低さを指すものではない。そして「地アタマだけは良い連中の実学志向&人文知軽視」というのは、「バカ」の一サブカテゴリーでしかない。「実学ばっかで、人文知の重要性を理解できないバカ」と言い換えても同じことだもの。

つまり、この斉藤のツイートは、やっぱり自分は反知性主義をバカという意味で使ってます、と認めてしまっているわけで、しかも慌てて否定して見せたために、自分がそれを恥ずかしい誤用だと思っていることもあらわにしてしまっている。

森本『反知性主義』:ホフスタッターの当事者意識や切実さはないが概説書としてはOK

さて、前回「そこで最初に手に取ったのが、まずは基本文献。ホフスタッター『アメリカの反知性主義』だ。」と述べたけれど、これは厳密には事実ではない、というかウソだ。最初に手に取ったのは、実は今回上げる森本あんり『反知性主義』だ。いきなりあの分厚い、五千円超の本に手を出すのはビビったせいもある。で、森本本を途中まで読んで、これはまずホフスタッター本を読んだほうがいいなと思って乗り換えた。というわけで、今回はこの森本本をめぐって。

さて、この本は基本的にはホフスタッター本のあんちょこ的なもの、プラスアルファではある。そして、少なくとも「反知性主義」を理解するにあたり悪い本ではないと思う。簡単に整理すると

  • アンチョコとしてはまあまあ。おもしろいエピソードを採りあげて読者の興味を維持する工夫も吉。ホフスタッターの分厚い本を読まずに簡便な理解が手に入るという点でそれなりに有用。
  • プラスアルファ分は、例えば最近のテレビエバンジェリストとかの運動や自己啓発ビジネスっぽい動きにもこの反知性主義のあらわれを見ているところ。ホフスタッター本からのアップデートという意味でも評価できる。
  • 題名を見ると、反知性主義バッシングみたいに思われかねないが、そこまで不用意ではない。反知性主義にはよいところもある、というのは明記し、むしろそれを積極的に評価するべきというのは一貫して述べている。
  • 強いて欠点を挙げるなら、知識人のあり方というホフスタッターの大きなテーマは触れていない。まして、かれの持っていた切実さはない。自分の問題としては理解しておらず、他人事。ただし「反知性主義」の解説書としては、別に知識人のあり方に深入りする必要もないのは確か。

さて最後の部分。この本がなぜ反知性主義を他人事として見ているかというと、ここでは反知性主義というのが、アメリカで生まれ、アメリカ固有のものだという立場に立っているから。ついでに、耶蘇なのでキリスト教的な枠組みでしか考えない。そして日本では知性が生半可だから、反知性主義もなまくらだよ、という竹内洋が述べていたという立場。よって、世間的に広がる反知性主義という概念の誤用を論難しつつ、あまり切実な問題としては理解していない。

森本のこの本の最終章では、反知性主義というものを積極的に評価しようとして、それが知性の濫用や行きすぎに対するチェック機能だとさえ述べる。ホフスタッターの本は、そんなに甘い立場は採らない。そういう側面はないわけではないが、実際の反知性主義の動きを見ると、反知性主義は別に知性主義が過剰になることで出てくるようなものではない。本当に誠実なインテリが善政を敷いていようがおかまいなしに、反知性主義は噴出してくる。

ただ、ここらへんはかなり細かい重箱の隅つつきではある。理念の説明としてはよいんじゃないか。

反知性主義は、アメリカ固有なのか?

さて、ここからは余談めいてくる。本書では、反知性主義というのはアメリカで生まれ、アメリカ固有なものだという立場がとられている。ぼくが最初にこの本を読んでめんくらったのもその点だ。いつまでたってもアメリカの話しか出てこないので、なんだかずいぶん偏ってるように思えたのだ。

ぼくは反知性主義というのは世界において普遍的なものだと思っている。そうした動きは、どんな宗教にも、いやどんな文化文明にも存在する。たとえば浄土宗や浄土真宗は、真言密教を筆頭に「中国でお勉強してきました」エリート仏教に対する一つの反動だ。これはまさに、反知性主義的な動きではある。

大室幹雄は、それがたとえば中国文明の歴史を貫く対立だと指摘している。小邑複合と大同複合。複合とは、英語でいえばコンプレックス。小邑は、秩序と体系に基づく統治の原理だ。その筆頭が孔子だ。孔子は礼節とか言うけれど、それは新聞に投書したがる説教じじいが思ってるような、みんなが礼儀正しくしましょう、マナーを守りましょう、というようなあまっちょろい話ではない。儀式の体系を通じて人間の身体をおさえこみ、為政者が人民を支配するための原理だ。そして西洋でいえば、それはユートピア原理だ。一般に、ユートピアはほんわかした理想の世界と思われているけれど、実際にトマス・モア『ユートピア』を読んだ人なら、それがまったくちがうものだというのを知っているはず。法律、規制、規律、階級、費用便益に基づく、ガチガチの軍事管理社会が「ユートピア」だ。

劇場都市―古代中国の世界像

劇場都市―古代中国の世界像

  • 作者:大室幹雄
  • 発売日: 1981/06/01
  • メディア: 単行本

そしてそれに対するのは、大同複合。老子に代表される、何の決まりもなくほわーんと人が自然の懐に抱かれて暮らしていることで、何も知らないでも大いなる道の叡智が導いてくれる。小賢しい人為的な礼節とか決まりとか知識とかいらないよ、という立場。

ちなみに加地伸行こと二畳庵主人は、こういうほわーんとした道教理解をけなして、老子荘子の「道」も、「そういう原理があるんだからおめーらその通りに動け!」という高圧的な統治原理なのである、と述べていた。確かZ会の漢文教科書でのことだった。ポルノ漢文が〜、という話はここでは割愛。たぶん、そういう面はあるんだろう。ただここは厳密な老子解釈よりは、思想的な類型の話なのでとりあえずおいといてや。

母性原理的な これは西洋では、アルカディア原理となる。これはまさに、反知性主義の依って立つ考え方となる。ぼくは世界のどの文明にも、多かれ少なかれこうした知性と秩序の立場と、それに反発する反知性主義の動きはあると思っている。アメリカは、それが非常におもしろい形で噴出した事例ではある。でもそこだけに話を限るのは、とらえ方として狭いとは思う。

閑話休題、まとめ

が、ちょっと話が脱線した。それに、なんでも話をでかくすればいいってもんじゃない(限られた話をするにしても、一応はもう少し大きな枠組みを見せるくらいはしてもいいとは思うが、必修科目ではない)。

ちょっと触れた欠点めいた部分をちょっとふりかえっておくと、ホフスタッターは、「アメリカでは、反知性主義ってのはこういうあらわれかたをした、そしてそれが今の知識人のあり方にも大きく影響していて、ひいてはオレ自身にも大きな課題になってる」と述べる。それがあの本の感動的な部分だ。

森本本はそれに対して「反知性主義とはかくかくしかじか、アメリカさんはたいへんだねえ、でもそういうのが出てこない日本も情けないねえ」で終わってしまう。

ぼくとしてはホフスタッターの切実さに触れずに、うわべをかすめて終わるのは惜しいな、とは思う。そして、日本には本当の知性主義がない、ダメだねえ、と他人事のように言ってるのは(森本のこの本も竹内洋のものとされる発言も)、何を他人事めいた口をきいてやがる、とは思う。あんたら知識人だろうが! 知性主義が根付かないのは、あんたらが十分に仕事をしてこなかったからだろうが! そういうだらしない自覚のなさは、本書の腹立たしい部分ではある。

その一方で、いまさら日本の知識人なんかにだれも期待してないだろうし、うわべ上等、反知性主義とやらをさくっと知りたいだけ、という層はいるだろう。そういうニーズには十分応えられるし、悪くない本だと思う。


さて、反知性主義を「バカ」の意味で使ってる連中は、どう見てもこの本も読んでないだろうと思った。まあそれは仕方ない。本書が出たのは2015年2月だもの。前回挙げた現代思想とかが出たのは、2014年末あたりか。ただ、そうした誤用は、単に知らなかっただけで、決して意図的に歪曲したわけではないと思っていた。その後はこうした本を読んで(だって、知性に依拠しているつもりの人たちなんでしょ)多少は反省もしてるんだろうと思った。

でもぼくはまちがっているのかもしれない。

(つづく)