Executive Summary
トマス・ピンチョンのオーウェル『1984年』序文は、まったく構造化されず、思いつきを羅列しただけ。何の脈絡も論理の筋もない。しかもその思いつきもつまらないものばかり。唯一見るべきは、「補遺;ニュースピークの原理」が過去形で書かれていることにこめられた希望だけ。だが、考えて見れば、ピンチョンはすべて雑然とした羅列しかできない人ではある。それを複雑な世界の反映となる豊穣な猥雑さだと思ってみんなもてはやしてきた。だが実はそれは、読者側の深読みにすぎないのかもしれない。そしてその深読みが匂わせる陰謀論が意味ありげだった時代——つまり大きな世界構造がしっかりあって、裏の世界が意味をもった60-80年代——にはそれで通ったのに、1990年代以降はもっと露骨な陰謀論が表に出てきてしまい、ピンチョン的な匂わせるだけの陰謀論は無意味になった。それがかれの最近の作品に見られるつまらなさ、無意味さの原因となっている。
はじめに:オーウェル『1984年』へのピンチョン序文
2023年11月になって、今年の年頭の誓いを片方でもあげようと思って、オーウェル『1984年』の翻訳をガシガシ進めている。
今年はオーウェル『一九八四年』とバロウズ『爆発した切符』の翻訳は仕上げよう。
— Hiroo Yamagata (@hiyori13) 2023年1月1日
翻訳自体はかなり前に始めていたが、特にハヤカワ文庫から高橋和久の新訳が出て、まあそれなら急いでやんないでもいいか、と思って寝かしてあったんだよね。そのときは、高橋訳を特にわざわざ読もうとは思わなかった。もうすでに何度か読んだ本だし。が、当然以前の新庄訳に比べて改善されているものと思っていた。ならば別にさらに新訳がなくてもいいか、とも思った。
でも今回訳する中で見てみたが、訳しなおす価値はあると思う。高橋訳は、高橋和久の訳すべてがそうだけれど、やたらに固く、漢字まみれで、かなり古くさい。全体としては、以前の新庄哲夫訳のほうがずっと読みやすい。一方、角川から別の訳も出ているけれど、こちらもあまりに平板。もうちょっと、オーウェルのこだわりとかは出してあげたい。ジュリアちゃんももう少し生気を持たせてあげたい。
が、それはさておき、その高橋和久の新訳版には、トマス・ピンチョンの序文が含まれている。
これは文庫版だけに収録されており、なぜかKindle版には含まれていないので注意してほしい (巻末に明記されている)
最初、これを見てぼくはちょっとむかついた。何か権利上の都合なのかもしれないけれど、せっかくのピンチョン序文を削除するなんて、あり得ないだろう! というわけで、もちろんその序文を読むべえと思ってググりました。出てきたのがこれ。
実際に本に収録された序文と比べてみると、この文はかなり削られている。あるいは、これが草稿みたいなもので (といっても『ガーディアン』に掲載されたらしいが)、それをふくらませて実際の序文にしたのかもしれない。が、論旨としては大差はない。
さてどうだろう。ピンチョンならではの慧眼があるすばらしい文章だろうか。早川書房がこれをKindle版から落としたのは、許しがたいことだろうか。
うーん。それがねえ。そうでもないんだよ。本当にこれ、大したことない文章、というよりむしろ、積極的に散漫でつまらない文章なのだ。
ピンチョン序文の中身は…… 構造化されない思いつきの羅列。
まあ、まずは読んでみてほしい。全訳してあげたから。上のやつだけでなく、ちゃんと書籍版とも照らし合わせて異同もわかるようにした。
トマス・ピンチョン「『1984年』への道:オーウェル『1984年』序文」(pdf, 550kb)
……と書いてもどうせみんな読まないだろう。中身を要約するとこうなる。(茶色の文字は書籍版のみ)
- 『1984年』は、アメリカのマッカーシズムの影響もあり、単純な反ソ反共文書と読まれたが、必ずしもそうではない。
- オーウェル自身は筋金入りの左派。だが当時のスターリン礼賛教条体制派左翼に失望し、その連中の二枚舌を批判したのが本書。
- また社会主義のみならず、 マッキンダー地政学的な戦後の列強による世界の分割相談も本書で戯画化されている。
- オーウェルの予言は現代にあてはまる部分もあればそうでない部分もある。技術面の粗雑さは大目に見よう。
- 一方で宗教狂信主義を重視していないのは大はずれ。また人種差別も重視されていないのもはずれ。
- オーウェルを反ユダヤ主義者呼ばわりする人もいるが、実際にはそういう要素はほとんどない。ナショナリズムもない。
- オーウェルは自分の政治的怒りを重視して現状に甘んじるのを拒否した。
- オーウェルは労働者階級や貧困者をずっと重視した。これは本書のプロレ重視にもあらわれている。
- 最近では真実や過去を政府が書き換えるのはよくある現象となった。
- ジュリアのキャラが立っているので通俗メロドラマに堕さずにすむが、おかげで結末はさらにつらい。
- 最後の補遺「ニュースピークの原理」は過去形で書かれている。ビッグ・ブラザー体制の消滅を暗示する、一抹の希望かもしれない。
- オーウェルは、養子を取ったこともありそういう希望を捨てなかった。親の愛といった人間らしさと世界の善に対する信頼を持ち続け、パンピーの力を信じ、それを決して裏切るまいとした。
どう思う? これは本当に登場する順番通りにまとめているんだけれど……一見して、全然整理されていないと思わない? それぞれの項目間にも、論理的な論旨のつながりというものが一切見られない。話もあっち飛び、コッチ飛び。どの話も、その後の論旨にまったくつながらない。とにかくすべて、脈絡が全然ないのだ。
その内容も、鋭いというよりつまらないし、むしろ首を傾げるものが多い。単純な反ソ反共ではないけど、一部の偽善的な左派批判ではあるなら、別に世間的な読みがそんなにちがってるわけじゃないよね。反ユダヤ主義が見られない——それで? 『1984年』がホロコースト無き世界を描く試みだというのは、何を言っているのかさっぱりわからん。ナショナリズムがあまり出てこないというのも、よくわからない。そこで言っている「ナショナリズム」ってどういう意味? 通俗的な用法では、ナショナリズムと愛国心は似たようなものと思われている (頼むからここで変な学者の重箱の隅つつきやめてね)。イングソックに対する愛国心はすごく強調されていると思うんだが。そして、ナショナリズムがなければどうだと? 現代との対比はあまりマジにやるなと言いつつ、政府が過去を書き換えるのが云々と、最後に唐突に出てくる。ユーラシア、イースタシア、オセアニアは、特にイースタシアは明確に人種区分されていて、人種の話はしっかり出てると思うなあ。そして人間らしさへの信頼という最後の部分は、これまで全然出てこなくて、いきなり投げ出される。
普通、こうした要約を作る時、ぼくは最後の結論から始めて、それを支える材料がそれ以前にどういう風に出てきて全体が構築されているか、という構造を捕らえようとする。でもこの文章では、そのやり方がまったくできなかった。全然構造化されていないんだもの。パンピーの変革能力をオーウェルが重視していたという最後の話を出したいなら、それまで一般人や労働者階級の話はどう登場したか? ほとんどない。最初の、本書を単純な反共文書と見るのはまちがいというなら、どう見るべきか? それも書かれない。
小学生が書く、まとまらない読書感想文みたいだ。あっちの部分についてこう思った。こっちのほうではこんな話題もあった。そういう羅列をしてなんとか文字数は埋めるけれど、それがまったく構造化されない。何が言いたいのかさっぱりわからないのだ。
しかも羅列とはいえ、何か刮目すべき慧眼の論点は何かあるだろうか? ぼくはないと思う。ピントはずれに思える部分も多いし、それ以外のところもありきたりの、だれでも言えるような話ばかり。
唯一鋭いのは、最後の「補遺:ニュースピークの原理」が過去形で書かれていて、それが暗い『1984年』にこめられたかすかな希望かも、という部分だけ。この指摘は、『1984年』の見方を変えてくれた。そして、書籍版で加筆されたジュリアのキャラ立ちについての議論のおかげで、やっと最後のところだけ「ジュリアいいよね→だからこそ最後は残酷だよね→補遺が実はかすかな希望のあらわれかもね→養子もあってそういう希望を捨てない人だったよね、オーウェルは」という、多少の脈絡らしきものができている。でも補遺の話から、すぐに最後の写真の話で希望につなげればいいのに、バーナム本の書評の話が間にはさまっていて、その段落が話の流れを悪くしてしまっている。バーナム本の話は、前にバーナム地政学の話が出てくるところでやればよかったのに。
ついでに言うなら、1984年にICができて10年たってないとか、脚注で「補遺参照」と書いたからハイパーテキストだとか、シュレーディンガーの猫が二重思考の実例だとか、あんた一応、かの名作「エントロピー」で理系作家と呼ばれて世に出てきたんじゃん! もうちょっと何とかならないのかよ!!
こんなものをピンチョンが書くとは??!! と思った一方で、ふと考えて見ると、まさにピンチョンというのはこういう作家、ではあるのだ。そしてそれに気がつくことで、ピンチョンの近作に感じていたつまらなさについてもわかったように思う。それは単なる羅列でしかないのだ。
ピンチョンって実はすべて、構造化されない思いつきの羅列ではある。
一応ぼくは、ピンチョンのそれなりに真面目な読者ではある。一通りピンチョンの小説は読んできた。でも、だんだん新しくなるにつれ、つまらなくなってきた。『V』や『重力の虹』は、なんかすげえと思った。『競売ナンバー49』は、ピンチョン的な世界構築が非常に明快だった。でも……
『ヴァインランド』はなんか妙に手すさびっぽい軽い感じがした。その後、『メイソン&ディクソン』『逆光』が出たときには、キターッ!と思ったんだけれど、こう、ウロウロするだけで終わり。そこに何かすごい世界観があるのか、と期待したんだけれど、ないんだよね。
そして『LAヴァイス』はなんか趣味にあわなかったし、そして先日『ブリーディングエッジ』を再読して、ちょっと見放した。ぐちゃぐちゃいろいろ書くんだけれど、それがまったく構造化されず、羅列に終わるだけなんだもの。
これまでは、その羅列が大量なので、ぼくは——そしてたぶん多くの人は——そこに実際には何かあるんだろうと思っていた。ぼくがちゃんと注意していないだけで、見落としているだけで、それを解明すれば何かすごい世界像が浮かびあがるんだと期待していた。
だけれど、『ブリーディングエッジ』を見ると、実は何もないのがわかる。これまでの本は、いろいろぼくの知らないネタが出てきて、知らないからわからない部分もあるのかと思っていた。でも『ブリーディングエッジ』はニューヨークの風景と、90年代アメリカポップ文化と音楽シーンとIT業界の話で、少なくともあの本に出てくるネタは、ぼくは大半がわかる。そしてそれらは別に相互につながっているわけでもない。深い意味があるわけでもない。むしろとっちらかっているだけ。何もそこにはない。
それはこの、『1984年』序文と同じだ。いろいろ言っているけれど、そこで言われていることはすべて思いつきの雑学レベル。そしてそれらが構造化されて何かが出てくるわけでもない。実は彼は、言いたいことをあまり明確に持っているわけではなさそうなのだ。
ピンチョンについて、確か荒俣宏『理科系の文学誌』とかで言われていたのは、当時もてはやされていたバースとかバーセルミみたいな知的に構築された小説に比べて、それが「猥雑だ」ということだった。でも猥雑というのは、まさにそれが雑然とした羅列だということだ。
そんなピンチョンがこれまで大きな扱いをされていたのは、まさにその脈絡のない無意味な羅列に、実は何か意味があるんじゃないかと読者が深読みして、こじつけしてくれるからだった。そしてそれはまさに、陰謀論者の読み方なのだ。ピンチョンの小説にしばしば登場するテーマは、この世の裏に何か隠された陰謀があり、それがこの現実を操っている、というものだ。登場人物は、その陰謀に気がつき、それを読み解こうとする。
でもピンチョンはそれなりに頭がいいからなのか、それとも単にアイデア構築力がないからなのか、最終的にその陰謀が決定的に暴かれることはない。チラ見せしつつ、最後まであいまいなままで終わり、最後に何か宴会でもしたり(重力の虹とか)、続きは後のおたのしみとばかり放り出されたり (競売ナンバー49とか)。結局、何もわからないのだ。そして読者はそれを追いつつ、自分もまたピンチョン作品に隠された陰謀を読もうとする。
これはまあ、お馴染みの読み方ではある。いまさらトニー・タナーでもないけれど、彼のアメリカ現代文学についてのまとめはいまもやっぱ優れているし、まさにそれが主題だった。
現実が何かに操られているという感覚とそれに対する恐怖こそが現代 (というのは1960-1970年代) の米国文学に通底するテーマなんだ、というのがこの分厚い本の主題だ。今さらではあるけれど、慧眼ではある。そしてもちろん、現実が何かに操られているというのはつまり、陰謀論だ。
が、陰謀論というもののあり方は、知っている人は知っている。何もないところに、なんかつながりがあるだろうと勝手に邪推して話を作る——それが陰謀論だ。
トマス・ピンチョンも同じだ。彼の小説そのものが、こうした陰謀論的な構造になっている。それは羅列にすぎない。大した意味はない。でもそこに何か読者は意味を読み取ろうとする——そしてそれは基本的に、そこにないものを読もうとする行為でもあるので、いつまでも果てしなく続く。
でも、ふと気がつけば、そこには何も無いのだ。正体見たり、枯れススキ。
さらに、陰謀論が知的なお遊びとしておもしろいのは、表の現実がそれなりに確固たるもので、だからこそ陰謀がそこにあるのでは、と練る余地があるからだ。陰謀は、みんながあるとは思っていない隠れたものだから陰謀なのだ。そしてその確固たる表面の下に出てくる陰謀の巧妙さが、その醍醐味となる。
ところがいま、陰謀論がやたらに表に出て、あらゆるところにやたらに陰謀論が広まっている。その中で、ピンチョン的な、チラ見で結局何も答が出ない陰謀論(および陰謀論小説)の意味そのものが薄れている。
『ブリーディングエッジ』は、ITバブルの企業の会計を追っていたら、何か中東方面との怪しいお金の流れが判明し、CIAの手先の暗躍が次第に出てきて〜という話ではあるんだけれど、何か決定的なことがわかるわけではない。深読みしても、何もわからない。中東とのつながりが何なのも明示されず、9.11と関係がありそうな匂わせはあるけれどでもはっきりしたつながりは出ない。ビルの屋上にミサイルが置かれて、貿易センターにつっこんだ飛行機が怖じ気づいたら撃墜することになってました——うーん。話そのものが苦しいんじゃない? 以前ならこれでよかっただろう。でも、9.11がらみの陰謀論はすでに死ぬほどある。その中で、この陰謀論の優位性は? ぼくは何もないと思う。
まして『メイソン&ディクソン』や『逆光』では、もはやその陰謀が何かもわからない。そのため、みんな前者では奴隷制批判が重要なんじゃないかと言ってみたり、『逆光』ではどこぞの労働争議にまつわる虐殺が重要だったみたいな話をする。でも、本当にそんなものが小説の主題として重要なのだろうか。確かにピンチョンはそういうネタを探しはした。そしてそれについて尋ねられたら、あれこれいろいろ知識を開陳するかもしれない。だがそれは本当にこの小説の中で重要なのかといえば、別にそういうわけでもない。
かつてはそれでも、雑然としていること、その羅列そのものが断片化した現代の猥雑性を反映しているのだ、なんてことを無理にでも言おうとした。でもぼくはいま、それがウソなんじゃないかと思うようになってきた。猥雑性に見えるものは、実は単にピンチョンに構築力がないだけなんだと思う。それを読む方が勝手に深読みしていただけだったのだろう。それこそが現代における「読み」の本質なのである、とかなんとか賢しらなことを言いたければいってもいい。が、たぶんそれは一般性のない内輪うけだ。
以前、ピンチョンがすっかりローカル作家になってしまった、という話を書いたことがある。たぶんそれは、そういう内輪ウケでだんだんネタがあらわになってきた結果でもあるんだと思う。そういう深読み自体が意味を持った時期があったのはまちがいない。そして、その時代がもう完全に終わってしまったということではあるんだろうね。それはつまり、ピンチョン自体がすでにアナクロな作家になったということではある。