トマス・ピンチョン「『1984年』への道:オーウェル『1984年』序文」

Executive Summary

トマス・ピンチョンによるオーウェル『1984年』への2003序文。本書が単なる反ソ反共小説ではない。オーウェル自身、立派な左派社会主義者ではあった。だが彼は、制度化された社会主義が己の権力にばかりこだわり、スターリニズムに目を閉ざし、むしろ肯定するのに絶望していた。本書の批判は、そうした社会主義が己の権力温存のために使う手段の戯画化である。世界分割はヴェルサイユ講和会議や第二次大戦後の戦後体制の戯画化でもある。本書の批判はもちろん、現在のネット監視社会の予兆めいた部分もある。その一方で、宗教的な狂信は登場せず、反ユダヤ主義的な面もほとんどない。オーウェルは、本書で底辺労働者に希望を寄せている。そして最後に、ニュースピークについての過去形の論説を載せることで、ビッグ・ブラザー支配がいずれ倒れることを予見しているのかもしれない。彼は一般人の人間性、親子愛などが決して否定できないと考え、それがすべてを変えられる能力に希望を寄せていたのだ。(要約は訳者による)

凡例

茶色の文字は、書籍版だけに登場する部分。黒字は、The Guardian 2003年5月3日号に掲載されたもの。新聞版が書かれてそれに加筆して書籍版になったのか、書籍版を抜粋して新聞版にしたのかは不明 (たぶん後者)。ただし新聞版は、きわめて筆足らずになっていて、書籍版よりさらに論旨が不明瞭となっている。

『1984年』への道

トマス・ピンチョン

訳:山形浩生

 

ジョージ・オーウェルは、1903年6月25日にエリック・アーサー・ブレアとして、ネパール国境近くのベンガルにあり、きわめて生産的なアヘン地帯の真ん中の小さな町モティハリで生まれた。父親はそこで、イギリス阿片局の官吏として働いており、その育成者を逮捕するのではなく、その製品の品質管理を監督していた。この製品をイギリスは長きにわたり独占してきたのだ。一年後に若きエリックは、母親と妹と共にイギリスに戻り、1922年まで生まれた地域には戻らなかった。そのときにはインド帝国警察の下士官としてビルマに赴いたのだった。この仕事は高報酬だったが、1927年に休暇で故国に戻ると、父親が大いにがっかりしたことだが、その仕事を投げ打つことにした。というのも彼が人生でやりたいのは作家になることだったからだ。そして、彼はそれを実現させた。1933年に処女作『パリ・ロンドン放浪記』で、彼はジョージ・オーウェルという筆名を採用し、その後はこの名前で知られるようになる。オーウェルは、イギリスを放浪するときに彼が使った名前の一つで、サッフォークにある同名の川からとったのかもしれない。

『1984年』はオーウェルの最後の本だった——それが刊行された1949年までに、彼はすでに12冊を刊行しており、そこにはきわめて評価が高く人気のあった『動物農場』も含まれていた。1946年の夏に書かれた「なぜ私は書くのか」というエッセイで彼はこう回想している。「『動物農場』は私が、完全に自分のやっていることを自覚しつつ、政治的な狙いと芸術的な狙いを一つの全体にまとめようとした最初の本だった。7年にわたり私は長編小説を書いていないが、かなり近いうちに書くつもりだ。これは失敗作になるはずだ。あらゆる本は失敗作なのだが、自分が書きたいのがどんな本か、私はかなり明瞭にわかっているのだ」。その後間もなく、彼は『1984年』に取りかかっていた。

ある意味でこの長編は、『動物農場』成功の犠牲となってきた。ほとんどの人は『動物農場』を、ロシア革命の悲しい運命に関するストレートな寓話として呼んで満足してきた。『1984年』の第2段落目で、ビッグ・ブラザーの口ひげが登場したとたん、多くの読者はすぐスターリンを連想し、前作からのあらゆる点についてのアナロジーを読み取る習慣を持ち込むのが常だった。確かにビッグ・ブラザーの顔はスターリンだし、嫌悪される党の異端者エマニュエル・ゴールドスタインの顔はトロツキーだが、この両者は『動物農場』のナポレオンとスノーボールほどは、そのモデルときれいに整合していない。それでもこの本は、何の不都合もなくアメリカで一種の反共文書として売り出された。1949年に出た本書はマッカーシー時代に登場した。「共産主義」が公式に、一枚岩の世界的な脅威として糾弾され、スターリンとトロツキーを区別する手間など、羊飼いがヒツジたちにオオカミを細かく見分ける方法を教えるのと同じくらいの無駄と考えられた時代だったのだ。

朝鮮紛争 (1950-53) もまた、「洗脳」を通じたイデオロギー強制という、共産主義の手口と称するものに脚光を浴びせることになる。これはI・P・パブロフの研究に基づくとされる一連の技法だ。彼は合図を聞かせることでイヌが唾を出すように訓練したのだった。『1984年』に洗脳ときわめて似たものが、長々しく恐ろしいほど詳しく、その主人公ウィンストン・スミスに起こっているという事実は、この小説を単純なスターリン主義の残虐行為糾弾とみなそうと確信しきった読者にとっては、驚くようなものではなかった。

これは必ずしもオーウェルの正確な意図ではなかった。『1984年』は、当人たちがパブロフ的な反応の問題を抱えている何世代にもわたる反共イデオローグに、支援と安心感をもたらしてはきた。だがオーウェルの政治は単なる左派ではなく、左派の中の左派なのだった。彼は1937年にスペインにでかけて、フランコとそのナチ支援のファシストに対する鷹飼に参加し、そこですぐに本物の反ファシズムとインチキな反ファシズムのちがいを学んだ。彼は十年後にこう書いた。「スペイン戦争など1936−37年のできごとが事態をはっきりさせ、その後私は自分の立ち位置を知った。1936年以来書いてきた真面目な仕事は一行残らず、直接間接を問わず、全体主義に反対し、私の知る形での民主的社会主義のために書かれてきたのだ」

オーウェルは「公式左派」ではなく「異論左派」の一員を自認していた。公式左派とは要するにイギリス労働党であり、そのほとんどをオーウェルは第二次世界大戦のはるか以前に、潜在的、いや顕在的にも、ファシストだと考えるようになっていた。大なり小なり、イギリス労働党とスターリン配下のソ連共産党との間には類似性があると見ていた——どちらも、労働階級のために資本主義と戦うと称しつつ、実際には自分自身の権力を確立して永続させることしか考えていない、と彼は考えていた。大衆は、その理想主義、階級的な恨み、喜んで安く働き、何度でも繰り返し売り渡される意欲を利用されるだけの存在だ。

さて、ファシスト的な傾向を持つ人々——あるいは単に、正しくてもまちがっていてもあらゆる政府の行動を、あまりに平然と正当化したがる人々——は即座に、これが戦前の考え方であり、敵の爆弾が故国に落とされはじめ、風景がかわり友人やご近所に死傷者が出始めたとたんに、こうしたすべては本当にどうでもよくなり、それどころか破壊的なものになるのだ、と即座に指摘するだろう。故国が危険にさらされたら、強いリーダーシップと実効性ある対応が不可欠となり、それをファシズムと呼びたければ、仕方ない、好きに呼べばいい、たぶんだれも聞きやしないだろう、それが空襲を終わらせてすべて安全だという発表をもたらすものでない限り。だがある議論——まして予言——が何か後の非常事態の中で不適切に聞こえるからといって、必ずしもそれがまちがっていることにはならない。チャーチルの戦時内閣は、ときにファシスト政権とまったく同じ動きを見せたという主張は十分にできる。かれらもニュースを検閲し、賃金や物価を統制し、旅行を制限し、市民の自由をお手盛りで決めた戦時中の必要性に従属させたのだから。

イギリスの公式左派に対するオーウェルの批判は、1945年7月に多少の変更をとげる。このとき、イギリスの有権者はこの最初の機会をとらえて、戦時中の支配者たちを地滑り的に追い出して、労働党政権を実現したのだ。これが1951年まで政権にとどまる——オーウェルの余命を上回る長さだ。その間に労働党はついに、イギリス社会を「社会主義」路線に沿って作り替えるチャンスを得た。オーウェルは、永遠の異論者だったので、党が己の矛盾に直面するのを大喜びで助けたことだろう。特に、同党が戦時中に抑圧的なトーリー党主導の政府に従属し、一時は連合までしたことから生じる矛盾を何とかしたいと考えたはずだ。いったんそうした権力を享受し行使したら、労働党はその勢力を当然のように広げ始めた。その創立者たちの理想に固執し、抑圧された者たちの側に立って戦い続けるはずもなかったのだ。この権力への意志を40年先に投影すれば、イングソック、オセアニア、ビッグ・ブラザーは容易に登場するだろう。

『1984年』を書いていた頃の書簡や論説から明らかなのは、オーウェルが戦後の「社会主義」の状態に絶望していたということだ。キーア・ハーディー (訳注:イギリス労働党創設者) の時代には、資本主義を儲けのために使う人々の議論の余地なき犯罪行為に対する栄誉ある闘争だったものが、オーウェルの頃には恥ずかしいほど制度化され、売買され、あまりに多くの場合に自分の権力維持しか考えなくなっていた。英国だけでもそんな状況だ——外国では、その衝動はさらに腐敗させられて、しかも計り知れないほど邪悪な形で、果てはスターリンの強制収容所やナチスの絶滅収容所に続くことになる。

オーウェルはどうやら、左派に見られたスターリニズムに対する広範な忠誠に特に苛立っていたようだ。その頃には、スターリン政権の邪悪な性質について圧倒的な証拠が積み上がっていたのだから。1948年3月、『1984年』初稿の改訂作業の早い時期に、彼はこう書いている。「いささか複雑な理由のため、イギリス左派のほとんどすべては、ロシアの政権を『社会主義』として受け入れつつ、その精神や実践がこの国で言う『社会主義』で意味されるものとはまったく異質だということを、暗黙のうちに認識している。したがって、何やら分裂症的な考え方が生じており、そこでは『民主主義』といった言葉が二つの相容れない意味を持ち、強制収容所や大量強制移住といったものは、同時に正しくてまちがっていることが可能となる」

この「何やら分裂症的な考え方」こそ、この小説の偉大な成果の一つの源だろう。これは政治的言説の日常用語にすら入り込んでいる——二重思考の同定と分析だ。エマヌエル・ゴールドスタイン『専制的集産主義の理論』——オセアニアでは非合法とされ、「あの本」とだけ呼ばれる危険なまでに転覆的な書物——において、二重思考は一種の精神的な規律であり、その目的は、あらゆる党員にとって望ましく必要とされるものだが、二つの矛盾する真実を同時に信じる能力なのだ。これはもちろん、何も目新しいことではない。私たちみんなやっている。社会心理学では、これは昔から「認知不協和」と呼ばれてきた。また人によっては「コンパートメント化」と呼びたがる。一部は、特にF・スコット・フィッツジェラルドが名高いが、これを天才の証拠と考えた。ウォルト・ホイットマンにとって (「私は自己矛盾しているだろうか? よろしい、自己矛盾しよう」)、これは巨大となって多種多様なものを含むということで、アメリカのアフォリズム作者ヨギ・ベラにとっては、これは分岐点にやってきて分岐するということであり、シュレーディンガーのネコにとっては、それは同時に生きて死ぬという量子パラドックスなのだった。

この発想は、オーウェル自身のジレンマを当人に突きつけたらしい。一種のメタ二重思考だ——それが果てしない害をもたらす可能性にはゾッとしたが、同時にそれが反対物を超越する手法として有望なので魅了されたのだ——なにやら禅の逸脱した形のようなもので、その根本的な公案は党の三つのスローガン、「戦争は平和」「自由は隷属」「無知は強さ」であり、それが邪悪な目的につかわれるのだ。

この小説における二重思考の見事な体現者は、党中心の高官オブライエン、ウィンストンの誘惑者にして裏切り者、保護者にして破壊者だ。彼はまったくの誠実さをもって己が奉仕するレジームを信じており、それでありながら、その打倒に献身する熱心な革命家を完璧に演じることができる。彼は自分が、より大きな国家組織の単なる細胞だと考えているが、私たちが記憶するのは、説得力があるのに自己矛盾している彼の個性だ。全体主義の未来のための、平静にして雄弁なスポークスマンでありながら、オブライエンは次第にバランスの取れない側面、現実との遊離をあらわにして、それが愛情省として知られる苦痛と絶望の場において、ウィンストン・スミスの再教育の間に、その不愉快さを全開にして姿をあらわす。

二重思考はまた、オセアニアで社会を運営するスーパー省庁の名前の背後にもある——平和省は戦争を遂行し、真実省はウソをつき、愛情省は脅威と見なした存在をすべて拷問してやがて殺す。これがあまりに倒錯的に思えるなら、今日のアメリカでも、戦争をしかける機関が「国防省」と呼ばれてもだれも疑問視しないし、「司法省 (正義省)」と真顔で言いつつ、その最も有力な機関であるFBIが人権や憲法上の権利を侵害しているのがしっかり記録されているのを知っていても平然としているではないか。名目上は自由なはずのニュースメディアは、「バランスの取れた」報道を求められているが、そこではあらゆる「真実」が即座に、同じくらいの正反対の見解によってつぶされる。日々の世論は書き直される歴史、公式の健忘症と平然としたウソの標的となり、そのすべてが優しげに「スピン」と呼ばれ、回転木馬で一周する程度の有害さしかないかのようだ。聞かされることを鵜呑みにするほど愚かではないのに、鵜呑みにしたくなってしまう。私たちは同時に信じつつ疑う——現代の超国家における政治思考は、ほとんどの問題について永続的に相反する考えの中にいるのが通例のようだ。言うまでもなく、これは権力を握り、そこにできれば永遠にとどまりたいと思う者たちにとっては、計り知れないほど便利なのだ。

ソ連の現実に関する左派の曖昧さだけでなく、第二次世界大戦後には二重思考が活動する他の機会も生じた。その多幸症の瞬間に、勝っている側は、オーウェルから見れば、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約で行われたのと同じくらいの致命的なまちがいを犯しつつあった。きわめて名誉ある意図にもかかわらず、実際には旧連合国の間での戦利品山分けは、致命的な愚行の可能性を抱えていた。「平和」に対するオーウェルの不安は、実のところ『1984年』の大きな伏線となっている。 オーウェルは出版者に1948年末——この小説の改訂で私たちにわかる限り最も早い時期だ——にこう書いた。「本当にそれが意図しているのは、世界を『影響圏』の分割する意味を論じることなのです (これについてはテヘラン会議の結果、1944年に思いつきました)」

まあもちろん、小説家は自分の霊感源について、完全に信頼できるわけではない。だが創造的な手順は見ておく価値がある。テヘラン会議は、第二次世界大戦における初の連合軍頂上会談で、1943年に開かれ、ルーズベルト、チャーチル、スターリンが出席した。そこで議論された話題の一つは、ナチスドイツが倒されたら、連合国がそれをどんな占領地域に切り分けるか、ということだった。だれがポーランドのどれだけを手に入れるかは別問題だ。オセアニア、ユーラシア、イースタシアを想像するにあたり、オーウェルはテヘラン会談の規模を飛躍させ、敗戦国の占領を、敗北した世界の占領へと投影したのだった。中国はまだ含まれてはいなかったし、1948年の中国革命はまだ進行中だったが、オーウェルは極東にいたこともあるし、自分の影響圏の仕組みを作り上げるときに、イースタシアの重さを無視しないだけの知恵はあった。当時の地政学的な思想は、イギリスの地理学者ハルフォード・マッキンダーによる「世界島」のアイデア、つまりヨーロッパ、アジア、アフリカを、水で囲まれた単一の陸のかたまりと見なし、「歴史の核心」として、その中軸地帯が『1984年』の「ユーラシア」だとしたのだ。「この中軸地帯を支配する者が世界島を支配する」とマッキンダーは述べ、「世界島を支配する者が世界を統べる」と述べた。この宣言は、ヒトラーなどリアルポリティークの理論家たちも心に留めたものだった。

諜報業界とつながりのあったマッキンダー主義者の一人がジェームズ・バーナムだった。彼はアメリカ人の元トロツキー主義者で、1942年に当時の世界危機に関する挑発的な分析『管理職革命』 (Manegerial Revolution) を発表した。これについてオーウェルは、1946年の長い論説で後に論じている。バーナムは当時、イギリスがまだナチスの攻撃に怯えており、ドイツ軍がモスクワの目前まで迫っている状況で、ロシア制圧と世界の中軸地帯支配が避けられないのだから、未来はヒトラーのものだと論じた。戦争の末期になって、OSS勤務中にナチスが敗北に向かうと、バーナムは「レーニンの後継者」という長ったらしい後知恵論説で心変わりを見せて、アメリカが何とかしないと、未来はヒトラーのものではなく実はスターリンやソヴィエト体制のものになるぞと論じた。この頃には、バーナムを真面目に扱ってはいたが無批判だったわけではないオーウェルは、この人物の思考が何やら場当たり的なものでしかないと感じたかもしれない——それでも、バーナムの地政学の痕跡は、『1984年』の三頭権力均衡に見られる。バーナムの、戦勝した日本はイースタシアとなり、ロシアは重要な中軸地帯としてユーラシアの大陸を支配し、英米同盟は変形してオセアニアになるわけだ。そしてこれが『1984年』の舞台となる。

この英米を単一ブロックにまとめるというやり方は、予言として見事に的中し、イギリスがユーラシアの大陸統合を拒否するのも予見し、さらにイギリスがヤンキーの利害に従属し続けるのも見通していた——たとえばオセアニアの通貨単位はドルだ。ロンドンは相変わらず明らかに、戦後緊縮期のロンドンなのがわかる。冒頭から、ウィンストン・スミスがその決定的な非服従行為を行う陰気な四月の日にいきなり冷たく叩き込まれ、ディストピア生活の細部は容赦ないものとなっている——言うことをきかない下水菅、煙草の葉を落とし続ける紙巻きタバコ、ひどい食事——だが戦後の物不足を強制された者にとっては、これは大した想像力の飛躍では無かっただろう。

予言と予測は必ずしも同じではなく、オーウェルについてこの両者を混同するのは、作家にとっても読者にとっても利益とはならない。一部の批評家にお好みのゲームがあって、オーウェルが「当てた」ことと「外した」ことの一覧表を作るのだ。たとえば現在のアメリカであたりを見回せば、「法執行」のリソースとしてヘリコプターは人気があるし、それは無数の「犯罪ドラマ」テレビ番組でお馴染みだ。そしてこの犯罪ドラマ自体も社会統制の一形態だ——それを言うならテレビ自体の遍在ぶりも。双方向テレスクリーンは、2003年現在には「インタラクティブ」ケーブルテレビとつながった、フラットプラズマ画面と十分な類似性を示している。ニュースは政府の言いなりだし、一般市民の監視は警察活動の主流になってきたし、合法的な捜査や押収などもはや冗談でしかない。等々。「わおう、政府はビッグ・ブラザーになっちゃったぜ、 オーウェルの予想通り ! たいしたもんだぜ、え?」「オーウェル的だぜ、おい!」

うーん、イエスでもありノーでもある。結局のところ、具体的な予測は細部でしかないのだから。おそらくもっと重要、いやまともな預言者にとって不可欠なものは、ほとんどの人間よりも人間の魂を深くのぞきこめるということだ。1948年のオーウェルは、枢軸国の敗北にもかかわらず、ファシズムへの意志は消えておらず、その絶頂期は過ぎたどころか、いまだに全面開花すらしていないということを理解していた——精神の腐敗、権力への抵抗しがたい人間の中毒はすでにとっくに存在していた。第三帝国にもスターリンのソヴィエト連邦にも、イギリスの労働党にすら見られた——恐ろしい未来の初稿のように。同じ事がイギリスやアメリカに起こるのを何が防いでくれるというのか? 道徳的な優位性か? 善意? 純潔な生き様?

それ以来、着実かつ静かに改善してきて、人文主義的な議論をほとんどどうでもよくしてしまったのは、もちろん技術だ。ウィンストン・スミスの時代に活躍している監視手法のポンコツぶりに、あまり気を取られてはならない。「私たちの」1984年でも、結局のところ集積回路チップはまだ生まれて十年もたっておらず、2003年頃のコンピュータ技術の驚異に比べれば、ほとんど恥ずかしいくらい原始的なものだったのだから。特にインターネットは、あの風変わりで古くさい、ヘンテコな口ひげをはやした二十世紀の専制支配者たちが、夢見るしかできなかった規模での社会統制を可能にしているのだ。

その一方で、オーウェルは私たちにはあまりにお馴染みになった、各種の原理主義のからむ宗教戦争といった異様な展開は予見しなかった。宗教的狂信主義は、実のところオセアニアには奇妙なほど欠けており、党への献身という形で存在するだけだ。ビッグ・ブラザーの政権は、ファシズムのあらゆる要素を示している——単一のカリスマ的な独裁者、行動の完全統制、個人の全体に対する絶対的な従属——だが人種的な敵意、特に反ユダヤ主義はない、これはオーウェルの知っているファシズムで実に強力な特徴だったというのに。これはどうしても、現代の読者にとって不思議に思えるはずだ。小説の中で唯一のユダヤ人登場人物は、エマヌエル・ゴールドスタインであり、それも単に、そのモデルとなったレオン・トロツキーがユダヤ人だったからというだけかもしれない。そして彼は表舞台には最後まで登場せず、『1984年』での本当の機能は、『専制的集産主義の理論と実践』の作者として説明の声を提供するだけなのだ。

最近では、オーウェル自身のユダヤ人に対する態度についていろいろ論じられており、一部の評論家はそれを反ユダヤ主義的だとすら述べるに到っている。もし当時の彼の著作でこの話題についての明示的な言及を探すなら、ほとんど見あたらない——ユダヤ人問題はあまり彼の関心をひかなかったらしい。実際に刊行されている証拠を見ると、収容所で起きたことのすさまじさに対する一種の麻痺か、どこかの水準でその全容を理解し損ねている様子だ。まるで、心配すべき深い問題があまりに多いので、オーウェルはホロコーストについて考えすぎるという追加の不都合が世界に提示されないのを望んだような、ある種の寡黙さが感じられる。この小説は、ホロコーストが起きなかった世界を定義し直そうという彼なりの試みだったのかもしれない。

『1984年』が反ユダヤに最も近づくのは、かなり最初の方に出てくる二分間憎悪という儀式的な慣行の中でのことだ。これはジュリアとオブライエンという人物を導入するための、物語上の仕掛けとすら言える。だがここで描かれる反ゴールドスタイン主義は、実に有害な即時性を持って描かれてはいるが、何か人種的なものに一般化されることは決してない。エマヌエル・ゴールドスタイン自身が著書で述べているように「またそこには何か人種差別もまったくない。ユダヤ人、黒人、純粋インディアンの血を持つ南米人は、党の最高位にもいる (後略)」。わかる限りでは、オーウェルは反ユダヤ主義を「ナショナリズムという現代の大病の一変種」と考えており、特にイギリスの反ユダヤ主義はイギリス的愚かさの別形態として見ていたようだ。『1984年』で彼が想像した三勢力合体の頃には、彼にとってお馴染みのヨーロッパナショナリズムは、なぜかもはや存在しなくなると思っていたらしい。というのも国民、ひいては国籍は廃止され、もっと集合的なアイデンティティに吸収されると思っていたせいかもしれない。この小説の全般的な悲観論の中で、現代の状況を知っている私たちからすれば、異様なまでに軽薄な分析に思えてしまうかもしれない。オーウェルが、ただのばかばかしい話より大してひどいものと思わなかった憎悪が、1945年以来の歴史のあまりに多くを左右してきたので、そう簡単に一蹴するわけにはいかない。

オセアニアにおける予想外の人種的寛容の存在だけでなく、階級構造もいささか奇妙ではある。階級のない社会のはずなのに、そうではない。党中心、党外周、プロレに別れている。だが物語は、党外周に属するウィンストン・スミスの立場から語られているので、プロレはほぼ無視されている。これは政権に無視されているのと同様だ。救世の勢力として彼らを崇拝し、やがて彼らが勝利すると確信はしていても、ウィンストン・スミス自身はまったくプロレの知り合いがいあいようだ——唯一の個人的な接触、しかも間接的なものは、彼とジュリアが恋人の隠れ家を見出した古物商の裏にある部屋の外で歌っている女性だけだ。「この曲はロンドンを過去何週間も席巻していた。それは音楽部の下部局がプロレのために発表し続けている、無数の似たり寄ったりの曲の一つなのだった」。ウィンストンの党中心の詩的な基準からすると、この曲は「たわごとめいた」「ろくでもないゴミクズ」だ。だがオーウェルはそれを、ほとんど省略もなしに、三回も繰り返す。何か別のことが起きているのだろうか? 確信はできない——オーウェルは、隠れ作詞家で、韻を踏むビートのある歌詞を書くのが大好きなので、この歌詞につけるメロディも実際に考案して、『1984年』執筆中にそれをハミングしたり口笛を吹いたりしていた、と考えたくもなる。ヘタをすると一日中それを続けて、まわりの人をうんざりさせたかもしれない。彼自身の芸術的な判断は、ウィンストン・スミスとは別物だ。ウィンストンは四〇代末のブルジョワを未来に投影した存在なのだ。オーウェルは私たちがいまではポップカルチャーと呼ぶものを愛好していた——彼が忠誠を示すのは、政治のみならず音楽でも、人民に対してなのだった。

ジョン・ゴールズワージーの小説に対する、『ニュー・ステーツマン』掲載の1938年書評で、オーウェルはほとんどついでのようにこうコメントしている。「ゴールズワージーはダメな作家であり、内面の戸惑いが、その敏感さを磨いて、ほとんど彼をよい作家にするところだった。その不満がおさまってしまい、彼は型に戻ってしまった。この種のことが自分自身にもどんな形で起こっているのか、立ち止まって考えて見る価値はある」

オーウェルは、左派仲間たちがブルジョワ呼ばわりされるのにビクビクして暮らしているのを面白がった。だが彼自身が恐れているものの中には、自分がゴールズワージーのように、いつの日か政治的な怒りを失い、ありがちな現状肯定の弁明者に成りはてる可能性があったのかもしれない。あえて言うなら、彼は自分の怒りを貴重なものと見ていた。彼はその人生を通じてその立場に到達したのだ——ビルマでもパリでもロンドンでもウィガン波止場への道でもスペインでも、ファシストたちに撃たれ、やがて負傷させられ——彼はその怒りを勝ち取るために血と苦痛と辛い労働を投資したのであり、資本にこだわる資本家と同じように、それにこだわっていたのだった。あまりに安住してしまうことへの恐れ、買収されてしまうことへの恐れは、他の職業よりも作家に特有の病理かもしれない。執筆で生計を立てているものにとっては、確かにリスクの一つではあるが、あらゆる作家がそれに反対するわけではない。支配分子が異論を丸め込む能力は、常に危険として存在していた——実はそれは、『1984年』の党が絶えず底のほうから己を永遠に刷新するプロセスと大差あるものではない。

オーウェルは1930年代の大恐慌の間に、労働者階級と失業貧困層の中で暮らし、その過程で彼らの不滅の価値を学んだので、ウィンストン・スミスにプロレというその1984年の相当物に対する類似の信念を与えている。彼らこそがオセアニアというディストピア的な地獄からの脱出をもたらす唯一の希望だとしたのだ。この小説の最も美しい瞬間——リルケの定義した意味での美しさ、いままさに生まれようとする恐怖の到来——ウィンストンとジュリアは、自分たちが安全だと思って、窓から中庭で歌う女性を眺め、そしてウィンストンは空を見ながら、その下に暮らす何百万人もの人々について、ほとんど神秘的なビジョンを体験する。「考えることなど決して学んだことはないが、その心と臓腑と筋肉に、いつの日か世界を転覆する力を貯め込みつつある。希望があるとすれば、それはプロレにある!」これは彼とジュリアが逮捕される直前、本の冷酷で恐ろしいクライマックスが始まる直前なのだ。

戦前のオーウェルは、小説における暴力の赤裸々な描写を、一時的に軽蔑していた。特にパルプ雑誌に登場するアメリカのハードボイルド犯罪小説のものは嫌った。1936年に彼は、探偵小説の書評で、暴力的で徹底した殴打の描写を引用する。それは愛情省の中でのウィンストン・スミスの体験を、不気味なまでに前触れしているものだった。何が起きたのか? スペインと第二次世界大戦らしい。もっと保護されていた時代には「胸が悪くなるゴミクズ」だったものが、戦後には、政治教育の一般用語の一部となり、1984年のオセアニアでは、それが制度化されることになる。だがオーウェルは、そこらのパルプ作家とはちがい、どんな人物であれ肉体や精神への侮辱を、何の考えもなしに享受するようなぜいたくは得られなかった。彼の描写はときに、正視に耐えないものだ。まるでオーウェル自身が、ウィンストンの苦悶のあらゆる瞬間を感じているかのようだ。

だが探偵小説においては、その動機は——作家にとっても登場人物にとっても——通常は金銭的なものだし、それも通常ははした金だ。レイモンド・チャンドラーはかつてこう書いた。「人が殺されるのは可笑しくはない。だがあまりにつまらないことで殺されるのはときに可笑しいこともあるし、またその死が我々の文明と呼ぶものの通貨だというのも、笑えることもある」。だがまったく笑えないのは、その金銭的な動機がまったくないときだ。わいろを受け取るオマワリは信用できるが、受け取ろうとしない、法と秩序に狂信的なほど忠実なオマワリにでくわしたらどうしようか? オセアニアの政権は、富の誘惑にはまったく反応しないらしい。オセアニアにおける政権の関心は、権力のための権力の行使、記憶、欲望、思考伝達の道具としての言語に対するたゆまぬ戦争にある。

専制主義の観点からすると、記憶は比較的対処しやすい。いつの時代も真理省のような機関は何かしら存在し、他人の記憶を否定して過去を書き換えている。2003年頃には、政府の従業員がほとんどの人よりも多くの報酬をもらって歴史を転覆させ、真実を矮小化し、過去を日常的に殲滅するのが通例となった。歴史を学ばないものは、かつてはそれを繰り返すはめになったが、それは権力を握ったものが、その歴史が一度も起きなかった、あるいはお手盛りの目的に奉仕する形で起きたのだとみんなを (自分自身を含む) 納得させられる手口を見つけるまでのことだった——いや何よりいいのは、そんな歴史なんかどうでもいい、一時間ほどの娯楽を提供するための、薄めたテレビドキュメンタリーにするくらいの意味しかないと思わせることだ。

だが欲望をコントロールするのは、もっと面倒だ。ヒトラーは、何やら非伝統的な性的嗜好で知られる。スターリンが何を好んだかは神のみぞ知る。ファシストたちですらニーズはあるし、無限の力を享受できたらそれに耽溺することも可能だ。少なくとも当人たちはそう夢見る。だから自分たちをおびやかす者たちの心理および性的プロフィールは攻撃しても、それを実行するに先立って、しばしのためらいはあるかもしれない。もちろん法執行の仕組みがすべてコンピュータに任されれば、コンピュータは少なくとも現在の設計では、私たちが魅力を感じるような形では欲望を感じないので、おお、するとまったくちがう話になるではないか。だが1984年にはそれはまだ起きていない。欲望そのものは必ずしも簡単に利用できないので、党は仕方なく、最終的な目標として、オルガズムの廃止を採用するしかない。

性欲が、それ自体として見れば本質的に転覆的だという論点を主張するのが、ここでは人生に対する快活な情欲を持つジュリアだという論点 (訳注:この文章はきちんと終わっておらず、文法的におかしい。こういうのがこの序文ではいくつかある。校閲が見逃したとも考えにくいし、あえてやっているとしか考えられないが、目的は理解不能。)。もしこれが本当に、小説のふりをしたただの政治論説であるなら、ジュリアはおそらくは何かを象徴させられてしまったことだろう——快楽原理や中産階級の常識とかいった代物だ。だがこれは何よりもまず小説なので、彼女の人格は必ずしもオーウェルの完全な統制下にはない。小説家たちは、最悪の全体主義的な気まぐれを、登場人物の自由に対して押しつけたいと願うかもしれない。だが実にありがちながら、その企みは無駄に終わる。というのも登場人物はいつも、作者の全能の目を逃れ、プロットだけしかなかったら決して思いつかなかったようなことを考え、台詞を口走るのだ。本書を読む多くの歓びの一つは、ジュリアが強烈な誘惑婦から、愛おしい若い女性に変化するのを目撃できるという点にある。その愛が解体され破壊されるのを見るときこそ、本書の大きな悲しみの一つなのだ。

ウィンストンとジュリアの物語は、他の作家が書いたなら、ありがちな恋人たちの幼き夢といったゴミクズへと崩れていったかもしれない——真実賞の小説書き装置が生み出すような代物だ。なんといってもフィクション部で働くジュリアは、おそらくゴミクズと現実のちがいを知っており、彼女のおかげで、『1984年』のラブストーリーは、大人の現実世界的な鋭さを保ち続けているのだ。一見するとこれは、お定まりの型どおりに進んでいるように見える。男が女を嫌い、男と女がかわいげな遭遇をして、あっというまに二人は恋におち、それから別れるが、最後には再びくっつくというわけだ。確かに、そんなようなものは出てくる……ある程度は。だがハッピーエンドはない。最後近く、愛情省がお互いを裏切るように強制した後で、ウィンストンとジュリアが再会する場面は、どんな小説で見られるものにも負けないほど心乱れるものだ。そして最悪なことに、私たちはそれが理解できてしまう。かわいそうだし恐ろしいとは思うが、この事態の展開について、ウィンストン・スミス自身と同じくらい、私たちも本当は驚きはしない。彼が違法な白紙の本を開いて書き始めた瞬間から、彼は己の破滅を抱えている。意識的に思考犯罪を犯しており、当局が追いつくのを待つばかりなのだ。ジュリアが予想外に人生に登場してくれたもの、ちがう結末を彼が信じるほど奇跡的なできごとではない。最大の幸福時、中庭の窓から見下ろして、突然気がついたことの果てしない広がりをのぞきながらも、彼が彼女に言える最も希望に満ちた言葉は「私たちは死者」なのだ。そして思考警察は数秒後に、それを嬉々として繰り返す。

ウィンストンの運命は驚きではないが、私たちが心配してしまうのは、ジュリアの運命だ。彼女は最後の瞬間まで、自分がどうにかして政権の裏をかける、自分の快活なアナキズムが、あいつらの投げつけるあらゆるものに対する防御になると信じている。彼女はウィンストンにこう告げる。「そう悪い方に考えなさんなって。あたしは生き続けるのが結構うまいんだから」。彼女は自白と裏切りとのちがいを知っている。「あいつらは、どんなことでもこっちに言わせることはできる——どんなことでも——でも、それを信じさせることはできないよ。こっちの内面には入ってこれない」。かわいそうな子。ひっつかんで揺さぶってやりたくなる。まさにそれが、あいつらのやることだからだ——内面に入ってきて、魂の問題すべて、自己の内部の不可侵な中核だと信じているものを、残酷で終末的な疑念に附すのだ。愛情省を離れる頃には、ウィンストンとジュリアは永続的に二重思考/ダブルシンクの状態に陥る。殲滅の控えの間とでも言うべき状態で、愛し合ってはおらず、ビッグ・ブラザーを同時に憎悪しつつ愛せるようになっている。考えられる限り暗い結末だ。

だが奇妙なことに、そこで終わりではないのだ。ページをめくるとその補遺として、何やら批評論説『ニュースピークの原理』が出てくる。冒頭で、脚注により、巻末に移ってそれを読む選択肢を与えられていたのを思い出す。そうする読者もいるし、しない読者もいる——最近ではハイパーテキストの初期の例だと考えてもいいだろう。1948年には、この最後の部分はどうやらアメリカのブック・オブ・ザ・マンスクラブのお気に召さず、そこと、エマヌエル・ゴールドスタインの本から引用している章を削除しないと、クラブの推薦図書に入れないと要求した。これでアメリカでの売上4万ポンドを失うことになるのに、オーウェルは変更を拒否してエージェントにこう告げた。「本は、バランスの取れた構造物として構築されているので、全体を丸ごと作り直す覚悟でもない限り、あちこちからでかい固まりを単純に取りのぞいたりはできません。(中略) 自分の作品がある程度以上いじくりまわされるのは、本当に認められませんし、それが長期的に見返りがあるとさえ思えないのです」。三週間後、ブッククラブ側が折れたが、疑問は残る。なぜこれほど熱っぽく、暴力的で暗い本を、学術的な補遺らしきもので終えるのだろうか?

その答は、単純な文法にあるのかもしれない。「ニュースピークの原理」はその最初の一文から一貫して過去形で書かれており、何かもっと後の、ポスト1984年の歴史の一時期、ニュースピークが文字通り過去のものとなった時代を示唆しているかのようだ——まるで何やらこの論説の匿名著者が、いまやニュースピークを本質としていた時代の政治体制について、批判的かつ客観的に、自由に議論できるとでもいうようなのだ。さらに、この論説を書くのに使われているのは、私たち自身のニュースピーク以前の英語だ。ニュースピークは2050年には普通になっているはずだったが、どうもそれほど長続きはせず、まして勝利などおさめず、標準英語に内在する古代の人文主義的な考え方が滅びず、生き残り、最終的には勝利して、ひょっとするとそれが体現している社会道徳秩序さえも、どうにかして復活したらしいのだ。

元トロツキストのアメリカ人ジェームズ・バーナム著『管理職革命』(Manegerial Revolution) についての1946年論説で、オーウェルはこう書いた。「バーナムが夢見ているらしき、巨大で無敵の永続的な奴隷帝国は、確立されることはないし、確立されても長続きはしない。なぜなら奴隷制はもはや、人間社会の安定した基盤ではないからだ」。昔の秩序回復と救済を匂わせる「ニュースピークの原理」は、そのままでは陰気なまでに暗い結末を明るくするものなのかもしれない——それにより、自分自身のディストピアの街頭に送り戻される私たちは、物語自体の結末がもたらすよりも、少しばかり明るい曲を口笛で吹けるようになるのだ。

オーウェルとその養子、イズリントンにて、1946年

1946年のイズリントンで撮られた写真がある。オーウェルとその養子リチャード・ホレーショ・ブレアが写った写真だ。男の子はその頃2歳だったはずで、何の遠慮もない歓びにあふれている。オーウェルは両手で彼を優しく抱いて、にっこりして喜んではいるが、そこに気取りはない——もっと複雑で、まるで怒りよりもっと価値があるかもしれないものを見つけたとでもいうような表情なのだ。頭は少し傾げられ、慎重な目つきをしているが、それは映画好きならロバート・デュヴァル的な人物が、バックストーリーの中で意図したよりもちょっと多くを暴露してしまったときのような目つきだ。ウィンストン・スミスは「自分が1944年か1945年に生まれたと思っていた」。リチャード・ブレアは1944年5月14日生まれだ。オーウェルが『1984年』で息子の世代のための未来を想像していたと、つい思いたくもなる。その世界は彼が子供たちのために望んでいたものではなく、警告していた世界ではあった。彼は何かが不可避だという予測を嫌い、一般人がその気にさえなれば何でも変えられるという能力をずっと確信し続けた。いずれにしても、私たちが戻ってくるのはこの少年の微笑なのだ。それは直接的で輝くようで、結局のところこの世界はよいものであり、人間のまともさは、親の愛と同じく、常に当然のものとして受け取っていいのだ、という何のためらいもない信念から出ているのだ——その信念はあまりに立派なものなので、オーウェルですら、そして私たち自身ですら、一瞬のこととはいえ、それが決して裏切られないようにするためには、何でもするぞと誓いたい気持になると思ってしまえるのだ。


早川書房の新訳版に収録のもとの同じはず。なお、これについての (かなり批判的な) コメントについては以下を参照:

cruel.hatenablog.com