オーウェル「バーナム再考:現状追認知識人の権力崇拝とその弊害」(1946)

Executive Summary

ジョージ・オーウェルが、第二次世界大戦中および大戦後に人気を博した通俗評論家バーナム『管理職革命』『マキャベリ主義者たち』を徹底的に批判した書評的エッセイ。バーナムは、マキャベリを引き合いに出して、政治は常にエリートのだましあいの権力奪取で大衆は奴隷、イデオロギーなんて大衆動員の口実、パワーこそ正義、と冷徹なリアリストを気取ってみせた。この見立てを元に、バーナムはドイツが勝っているときはナチスこそ新世界秩序の盟主、ソ連なんか一撃でおしまい、抵抗するな、受け入れよと説いたくせに、数年後にドイツが負け始めたら、ソ連最強でスターリン社会主義が世界を支配する、と手のひら返しを演じて見せた。だがこれは「知識人」にきわめてありがちな態度で、彼らに蔓延する敗北主義の根底でもある。「リアリズム」と称しつつ、臆病な現状追認の権力すりより行動でしかないのだ。根底にある社会のありかた、歴史の流れ、人間の欲望についてまったく見えておらず、短期トレンドを先に延ばしただけ。そしてこの考え方が、バーナムをはじめ知識人たちの現実そのものの見方すら歪めてしまっている。

ここでまとめられている、バーナム『管理職革命』のあらすじがオーウェル『1984年』に登場するゴールドスタイン『寡頭制集産主義の理論と実践』およびそれを解説するオブライエンとまったく同じであることに注目。本稿ではそれが徹底的に批判されている。これを見るとオーウェルの『1984年』は、「こうなる」という予言や警告ではなく、むしろそうした見方に反発した戯画なのだと考えたほうが妥当かもしれない。

またときどき引用される「戦争を終える最もすばやい方法は敗北すること」というのは、さっさと負けて戦争やめろという意味ではないことにも注意。これは知識人のダメな議論の例として挙げられているだけ。現状トレンドの追認しかしなければ、ナチスもスターリンもそのときは無敵に思えるから白旗も魅力的になる。それは強者盲従の敗北主義でしかない。抵抗せよ、戦え、というのが本意。



ジョージ・オーウェル「ジェイムズ・バーナム再考:現状追認知識人の権力盲従とその弊害」(1946)

Second Thoughts on James Burnham

By George Orwell 山形浩生訳

(初出『ポレミック』1946年5月号、および1946年のパンフレット「James Burnham and the Managerial Revolution」)

ジェームズ・バーナム著『管理職革命』(The Managerial Revolution) (訳注:邦訳は何度か出ており『 経営者革命 (1965年)』という邦題になっているが、内容的に「経営者」とはちょっとちがうためあわせていない。)は、アメリカでもイギリスでも出版時 (訳注:1942年) にかなりの波紋を引き起こしたし、その主な主張はすでに議論され尽くしているため、ここで詳述するまでもないだろう。できるだけ手短にまとめると、その主張とは次のようなものだ。

資本主義は消滅しつつあるが、社会主義がそれに取って代わろうとはしていない。いま台頭しているのは、新種の中央集権的な計画社会であり、資本主義でもなければ、一般に認められた意味での民主的な社会でもない。この新社会の支配者たちは、いまや実質的に生産手段を牛耳る人々である:つまり企業の重役、技術者、官僚や兵士たちで、バーナムはこれらをまとめて「管理職/マネージャー」と呼んでいる。こうした人々は、古い資本家階級を排除し、労働者階級を押し潰し、あらゆる権力と経済特権が自分たちだけの手に残るように社会を構築するのだ。私有財産権は廃止されるが、公有制が確立されることはない。新しい「管理職」的な社会派、小さな独立国家のつぎはぎで構成されるのではなく、ヨーロッパ、アジア、米国という主要な工業センターを中心としてグループ化された超大国で構成されることになる。こうした超国家は、世界でまた捕捉されていない、残った部分の所有をめぐって争うが、おそらくはお互いを完全に制圧することはできないだろう。国内では、それぞれの社会は階層的なものとなり、才能を持つ貴族がてっぺんに位置し、大量の半奴隷が底辺に位置することになる。

バーナムはその次著『マキャベリ主義者たち』(The Machiavellians) で、最初の主張を展開するとともに変更している。この本の大部分は、マキャベリとその現代の使徒たるモスカ、ミヒェルス、パレートの理論解説に費やされている。そして怪しげな理由をつけて、バーナムはここのサンディカリスト論者ジョルジュ・ソレルも加えている。バーナムがここで主に示したいと考えているのは、民主社会などこれまで存在したことはないし、我々に見える限り、今後も決して存在しないということなのだ。社会はその本質からして寡頭支配的なものであり、寡頭制の権力は常に武力と詐欺に基づくものとなる。バーナムは私生活では「よい」動機が作用することもあるのは否定しない。だが彼は、政治というのが、ひたすら権力を求めての闘争でしかないのだと固執する。あらゆる歴史的な変化は、最終的にはある支配階層が別の支配階層に置き換わる話に行き着く。民主主義、自由、平等、博愛、あらゆる革命運動、あらゆるユートピアのビジョン、「階級なき社会」の夢、「この世の天国」の夢は、権力の座へとゴリ押しで入り込もうとしている新階級の野心を覆い隠す、おためごかし (必ずしもおためごかしと意識されているわけではないが) でしかない。イギリス清教徒、ジャコバン派、ボリシェヴィキはどれも、それぞれただの権力を求める連中でしかなく、自分が特権的な地位を勝ち取るために、大衆の希望を利用しただけなのだ。権力はときには暴力なしで勝ち取られたり維持されたりはできる。だが詐欺なしにはいじできない。なぜなら、大衆を利用しなければならないからで、大衆は自分たちが少数派の目的に奉仕しているだけだと知ったら、協力してくれないからだ。あらゆる偉大な革命闘争においては、大衆は人間の同朋精神という漠然とした夢に先導され、そして新たな支配階級がしっかり権力を掌握したら、奴隷状態へと投げ戻される。バーナム的には、これこそ政治史のすべてと言ってよいことになる。

この二冊目が前著から進んでいるのは、この事実にもっと率直に直面すれば、全プロセスがいささか道徳的に進められると主張しているところだ。『マキャベリ主義者たち』には『自由の擁護者』という副題がついている。マキャベリとその追随者たちは、政治においては品位などというものはまったく存在しないと教え、それにより政治的な事柄をもっと知的かつあまり抑圧的でない形で実施できるようになった、とバーナムは主張する。自分たちの真の狙いが権力の座にとどまることだと認識した支配階級は、社会全体の善に奉仕したほうが成功しやすいことも認識して、世襲貴族制へと硬直化するのを避けることも考えられる。バーナムは、「エリート循環」というパレート理論を大いに強調する。支配階級は、権力の座にとどまるためには、絶えず適切な新人を下層からリクルートするようにして、最も有能な人間が常にトップにとどまり、権力に飢えた新たな不満階級が生まれないようにしなければならない。これが最も起こり易いのは、民主的な習慣を維持した社会だ、とバーナムは考える。つまり、反対論が許容され、マスコミや労働組合といった一部の組織が自律性を保てる社会ということだ。ここでバーナムは、まちがいなく自分の以前の意見は逆のことを述べている。1940年に書かれた『管理職革命』では、「管理職」的なドイツがあらゆる面で、フランスやイギリスのような資本主義的民主主義社会よりも効率的なのは当然のこととされている。だが1942年に書かれた次著では、バーナムはドイツが言論の自由を許容していれば、深刻な戦略ミスのいくつかを避けられたかもしれないと認めている。だが主要な主張は放棄されていない。資本主義は滅びる運命にあり、社会主義は夢でしかないというものだ。何が問題になっているかを把握すれば、管理職革命の方向性をある程度は導けるかもしれないが、その革命自体は、好き嫌いにかかわらず起きているのだ。いずれの本でもそうだが、中でも最初の本では、論じられているプロセスの残酷さと邪悪さについて、まごうかたなき大喜びぶりがうかがえる。自分が事実を述べているだけで、自分自身の選好を述べているのではないと繰り返してはいるが、バーナムが権力のスペクタクルに魅了されているのは明らかで、ドイツに共感しているのも明らかだ——ドイツが戦争に勝っているように見えている間は、もっと最近の1945年初頭になって『パルチザン・レビュー』に発表された「レーニンの後継者」という論説では、彼の共感はソヴィエト連邦に鞍替えしたように見受けられる。「レーニンの後継者」はアメリカ左翼メディアで激論を引き起こしたが、イギリスではまだ発表されておらず、また後で論じねばならない。

バーナムの理論は、厳密にいえば目新しいものでないことは明らかだ。これまで多くの著者たちが、資本主義でも社会主義でもない、おそらくは奴隷制に基づく新しい種類の社会の台頭を予見してきた。とはいえ、そのほとんどは、この展開が不可避とは想定しなかった点でバーナムと袂を分かつ。その好例がヒレア・ベロック『奴隷の国家』(1911) だ。『奴隷の国家』は退屈な文体で書かれており、提案されている対処法 (小規模自作農土地所有への回帰) は多くの理由から不可能ではある。それでも、1930年以降のできごとについて、驚くほどの洞察をもって予見している。チェスタートンは、これほど系統的ではないが、民主主義と私有財産の消滅を予言し、資本主義的とも共産主義的ともいえる奴隷社会の台頭を予想している。ジャック・ロンドンは『鉄の踵』 (1909) で、ファシズムの重要な特徴をいくつか予見したし、ウェルズ『睡眠者が目覚めるとき』 (1900)、ザミャーチン『われら (光文社古典新訳文庫)』 (1923)、オルダス・ハックスリー『すばらしい新世界〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)』 (1930) はどれも、資本主義の特別な問題が解決されても、自由、平等、真の幸福が一向に近づかないような空想世界を描いている。もっと最近では、ピーター・ドラッカーや F. A. ヴォイトのような著作家が、ファシズムと共産主義は本質的に同じものだと論じている。そして確かに、中央集権の計画社会は、寡頭政治や独裁制に発展しかねないのは昔から明らかではあった。正統保守派たちはこれが目に入らなかった。というのも彼らとしては社会主義など「うまく行かない」し資本主義の消滅は混乱と無政府状態を招くと想定するほうが心地よかったからだ。正統社会主義者たちもこれが目に入らなかった。というのも彼らは、自分たちが間もなく権力を握ると考えたかったし、したがって資本主義が消滅したら、社会主義が取って代わると想定したからだ。結果として彼らはファシズムの台頭を予見できず、またそれが登場してからも正しい予想ができなかった。さらに後になると、ロシア独裁制を正当化し、共産主義とナチズムとの明らかな類似性について言い逃れる必要が生じたため、この問題がさらにあやふやにされた。だが工業化が独占に終わるしかなく、独占は必然的に圧政を意味するはずだ、という考え方は、別に驚くようなものではない。

他の思想家のほとんどとバーナムが一線を画すのは、「管理職革命」の道筋を世界規模で描き出そうとするところであり、全体主義への移行が抵抗しがたいものだから、それと戦ってはいけないが、それを導くことはできるかもしれない、と想定したところだ。1940年のバーナムによると、「管理主義」はソヴィエト連邦においてその最大の発展段階に到達したが、ドイツでもそれにかなり近いところにまで発達しており、アメリカでも登場してきたという。彼はニューディール政策を「原始的な管理主義」だとして描く。だがトレンドはどこでも、あるいはほとんどどこでも同じだ。常に自由放任資本主義は、計画と国家介入に道を譲り、単なる所有者は、技術者や官僚に比べて力を失うが、それでも社会主義——というか、かつて社会主義と呼ばれていたもの——はまったく登場する様子がない。

一部の弁明者は、マルクス主義が「機会を与えられなかった」といって言い逃れようとする。これはまったくもって事実ではない。マルクス主義もマルクス主義正統も、何十回も機会は与えられた。ロシアではマルクス主義正統が権力を握った。そして一瞬にして社会主義を放棄した。言葉の上では放棄しなくても、その行動は社会主義とはほど遠いものだ。ほとんどのヨーロッパ諸国では、第一次世界大戦の最後の数ヶ月と、その直後数年に社会危機が生じて、マルクス主義にまたとない機会が開かれた。そして例外なしに、権力を握ることも維持することもできなかった。多くの国——ドイツ、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、オーストリア、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、スペイン、フランス——では、改革主義マルクス主義政党が政権を握ったのに、一つとして社会主義を導入できなかったし、社会主義に向けたまともな歩みも何一つ採れなかった。(中略) こうした政党は、実際にはあらゆる歴史的な試験において——しかもそれは実に何度も行われた——社会主義に失敗したかそれを放棄した。これは、社会主義の最も手厳しい敵だろうと、最も熱狂的な友人だろうと消し去ることのできない事実である。この事実は、一部の人の考えとはちがい、社会主義理念が持つ道徳的な性質について何一つ証明するものではない。しかし、その道徳的な性質がどうあろうと社会主義などやってきはしないという、目を背けがたい証拠にはなっているのだ。

バーナムはもちろん、新しい「管理職」レジームは、ロシアやナチスドイツの政権のように、社会主義とよばれていることを否定はしない。彼は単に、それがマルクスやレーニン、キア・ハーディー、ウィリアム・モリス、いや1930年頃以前の社会主義のどんな代表者でも受け入れないような意味でしか社会主義ではないのだ、と述べているにすぎない。社会主義はごく最近まで、政治的には民主主義、社会平等、国際主義を意味することになっていた。こうしたもののどれ一つとして、どこでもあれ確立されつつあるという様子はかけらも見あたらない。そして、プロレタリア革命と呼べるようなものが起きた唯一の大国、つまりソヴィエト連邦は、普遍的な人間の同朋精神を目指す自由で平等な社会という古い概念から、着実に離れつつある。革命初期からほとんどたゆみないほど着実に、自由は削り取られ、人々を代表する制度機関は潰され、格差は開き、ナショナリズムと軍事主義は強まってきた。だが同時に、資本主義に戻ろうという傾向もない、とバーナムは固執する。起きているのは単に「管理主義」なるものの成長であり、これはバーナムによると到るところで進んでいるそうだ。ただしそれが導入されるやり方は国ごとにちがう。

さて、現在起きていることの解釈としては、バーナム理論はどう控えめに言っても、きわめて妥当性がある。少なくとも過去15年のソ連での動きは、他のどんな理論よりもバーナムの理論のほうがはるかに容易に説明できる。明らかにソ連は社会主義ではなく、それを社会主義と呼ぶには、他の文脈とはまったくちがう意味を社会主義という言葉に与えるしかない。その一方で、ロシア政権が資本主義に逆戻りするという予言は常に外れ続け、いまや実現の見通しはこれまでないほど低いようだ。そのプロセスがナチスドイツでもほとんど同じくらいの進捗を見せているとの主張は誇張だろうが、旧式の資本主義から離れて、計画経済に向かっていて、それを養子的な寡頭支配者が牛耳るという動きが見られたのはまちがいない。ロシアでは、まず資本家たちが破壊されて、次に労働者たちが潰された。ドイツでは、まず労働者たちが潰されたが、資本家たちの排除も結局は始まり、ナチズムが「ただの資本主義」だという想定に基づく計算は、常に実際のできごとにより否定されてきた。バーナムが最も勇み足をしているように見えるのは、「管理主義」がアメリカでも行われつつあると主張している部分だ。アメリカは自由資本主義がいまだに画期を持つ、唯一の大国なのだから。だが世界の動き全体を見るなら、彼の結論は抵抗しがたい。そしてアメリカですら、自由放任に対する全面的な信念は、大経済危機がもう一度起きれば生き延びられないかもしれない。バーナムへの反対論として、彼が狭い意味での「管理職」——工場長、計画者や技術者など——をあまりにも重要視しすぎているというものがある。バーナムはソ連においてすら、共産党の親玉たちよりもこうした人々のほうが、本当の権力保持者なのだと主張するのだから。だがこれは二次的なまちがいであり、『マキャベリ主義者たち』では個別に修正されている。本当の疑問は、今後50年でこちらを足蹴にする連中を管理職と呼ぶべきか、官僚と呼ぶべきか、政治家なのか、ということではない。問題は、いまや明らかに滅びる運命に見える資本主義が、寡頭制と真の民主主義のどちらに道を譲るか、ということなのである。

だが不思議なことに、バーナムがその一般理論の根拠とした予想を検討してみると、検証可能なものについてはほぼすべてまちがっていたことがわかる。これは多くの人がすでに指摘している。だが、バーナムの予言を詳しく追跡してみる価値はある。なぜならそれは、ある種のパターンを示しており、それが現代のできごとと関係していて、思うに今日の政治思想におけるきわめて重要な弱点を明らかにしていると思うからだ。

手始めに、1940年のバーナムは、ドイツの勝利がおおむね確実だとしている。イギリスは「溶解」しつつあり「過去の歴史的推移における頽廃文化を特徴づけるあらゆる特性」を示しているが、1940年にドイツが達成したヨーロッパの征服と統合は「不可逆」とされる。バーナムによると「イギリスはどんな非ヨーロッパ同盟国と手を組もうとも、ヨーロッパ大陸を征服するなどとは到底望み得ない」。ドイツは、なにやら戦争に負けることがあったとしても、解体されたり、ワイマール共和国の地位に貶められたりすることはなく、統一ヨーロッパの核として残るのはまちがいない。将来の世界地図は、三つの巨大な超国家を持つようになり、どのみちその概略はすでに決まっている。そしてその三つの超国家の核となるのは、その将来の名前がどうなるにせよ、以前存在していた日本、ドイツ、米国の三国となるのだ」

バーナムはまた、ドイツはイギリスを倒すまではソ連を攻撃しないと断言してみせる。『パルチザン・レビュー』1941年5-6月号に発表された、次著の要約記事 (おそらくは本より後に書かれたもの) で、彼はこう述べる。

ロシアの場合と同様に、ドイツでも、管理問題の3つ目の部分——管理職社会の多の部門との支配をめぐる紛争——が将来的には残る。まずは、資本主義的世界秩序転覆を確実にする、死の一撃が起こらねばならなかった。これは何よりも、大英帝国 (資本主義世界秩序の要石) の基盤を、ヨーロッパの政治構造破壊を通じて直接的に破壊するということである。ヨーロッパの政治構造は、大英帝国にとって必要となる大道具だったのだ。これがナチス=ソ連不可侵条約の基本的な説明である。この協定は、他の根拠に基づけば理解不能でしかない。ドイツとロシアの将来の紛争は、本当の意味での管理的紛争となる。大いなる世界管理戦闘に先立ち、資本主義秩序の終焉が確実に起こらねばならない。ナチズムが「頽廃資本主義」だという信念は (中略) ナチス=ソ連不可侵条約をまともに説明できなくしてしまう。こんな信念があるからこそ、いつも予想として独ソ戦争が持ち出されてくるのであり、ドイツと大英帝国との間に起こる実戦の死闘は出てこないのだ。だがドイツとロシアの間に起こる戦争は、未来の管理戦争であり、過去と現在の反資本主義戦争ではないのだ。

それでも、いずれはロシアへの攻撃が起こり、ロシアはおおむねまちがいなく破られるのだという。「あらゆる理由から見て (中略) ロシアは分裂し、西半分はヨーロッパの拠点へと引き寄せられ、西側はアジア地方へと惹きつけられる」。この引用は『管理職社会』からのものだ。上で引用した論説は、おそらくその6ヶ月ほど後に書かれたものだが。もっと強い形で述べられている。「ロシアの弱さから見て、おそらくは持ちこたえられず、結果としてロシアは割れてしまい、西と東へと転落する」。そしてイギリス版 (ペリカン版) に追加された補遺 (1941年末に書かれたらしい) で、バーナムはまるで「割れてしまう」プロセスがすでに起こり始めたかのような口ぶりだ。彼によれば、戦争は「ロシアの西半分がヨーロッパ超国家に統合される手段の一部なのである」

こうした各種の主張を整理すると、以下のような予言が得られる。

・ドイツは戦争に勝つだろう。

・ドイツと日本はまちがいなく生き残って大国となり、それぞれの地域におけるパワーの核となる。

・ドイツはイギリスが敗北するまでソ連を攻撃しない。

・ソ連はまちがいなく敗北する。

だがバーナムは、これら以外にも予言をしている。『パルチザン・レビュー』1944年夏号に発表された短い論説で、彼はソヴィエト連邦が日本と結託することで日本の完全敗北は阻止され、一方でアメリカの共産党員たちが戦争の東端について妨害工作を行うという意見を述べている。そして最後に、同誌の1944-45年冬号で彼は、ほんのわずか前には「割れてしまう」運命だとされていたロシアが、ユーラシア全体を征服する目前だと主張する。この論説は、アメリカ知識人の間で激しい論争の種となったが、イギリスでは発表されていない。ここではそれについて少し考えないわけにはいかない。というのも、そのアプローチ方法と情緒的な書きぶりは異様なものであり、それを検討することで、バーナム理論の真のルーツに近づけるからだ。

この論説は「レーニンの後継者」と題され、スターリンこそはロシア革命の真の正統守護者なのであると示そうとする。スターリンはロシア革命をいかなる意味でも「裏切」ってなどおらず、単に最初から暗黙のうちに示されていた路線を推進したにすぎないのだという。これ自体としては、スターリンなど革命を自分の目的のために歪めた単なる小悪党にすぎず、レーニンが長生きしたりトロツキーが権力の座に留まったりしていれば、何やら事態はちがっていたはずだという、お決まりのトロツキー主義者の主張よりはもっともらしい意見ではある。実際のところ、主要な展開の道筋が大きく変わったはずだと考えるべき強い理由などまったくない。1923年のはるか以前から、全体主義社会の種子はかなり露骨に存在していた。実際、レーニンは夭逝したことで、不当なほどの評判を勝ち得ている政治家たちの一人なのだ。*1。死んでいなければ、おそらくトロツキーのように追放されたか、あるいはスターリンに負けず劣らずの野蛮な手法によって権力の座に留まり続けただろう。したがってバーナムの論説は一理ありそうで、彼がそれを事実に訴えることで裏付けてくれるのだろうと期待したくもなる。

ところがこの論説は、そこで述べられているはずの対象にはほとんど触れないのだ。レーニンとスターリンとの間に政策の連続性があることを本気で示したいなら、まずはレーニンの政策の概説から初めて、それからスターリンの政策がどの様な点でそれに似ているかを説明するだろう。バーナムはこれをやらない。一、二文で軽く触れる以外は、レーニンの政策について何も述べず、レーニンの名前は12ページの論説で5回しか登場しない。最初の7ページでは、題名を除けば一度も登場しない。この論説の真の狙いは、スターリンをそびえたつ超人的な人物として描き出し、まさに一種の半神的な存在にしたて、ボリシェヴィズムを世界すべてにあふれ出して覆いつくす、抵抗しがたい力として描き、それがユーラシアの最果ての境界に到達するまで止められはしないのだと示すことなのだ。自分の主張を多少なりとも証明しようとするとき、バーナムはスターリンが「大人物」だとひたすら繰り返すだけだ——これはたぶん本当ではあるだろうが、ほぼ完全に関係ない話だ。さらに、スターリンの天才ぶりを信じることについて、いくつかしっかりした議論を提示はするものの、彼の頭の中で「偉大さ」という概念は、残虐性と不正直さという概念と分かちがたく混ざり合っているのも明らかだ。スターリンは、果てしない苦しみを引き起こしたからこそ崇拝されるべきなのだと示唆しているように見える、奇妙な下りがある。

スターリンは壮大な様式での「大人物」であることを証明して見せた。ソ連来賓たちのためにモスクワで催される晩餐会の話が、その象徴的な調子を示している。チョウザメ、ロースト、ニワトリ、デザートの壮大なメニュー、果てしない酒、その末尾を飾る大量の乾杯、それぞれの来賓の背後にいる、物言わずじっと動かぬ秘密警察。そのすべての背景となっているのは、包囲された冬のレニングラードでの飢えた無慮大衆、前線で死につつある何百万人、すし詰めの強制収容所、生存ギリギリの乏しい配給で生きながらえる都市の群集だ。退屈な凡庸さやセコい商人根性などはかけらもない。むしろツァーリや、メディア王国やペルシャ王国の大王たち、金帳汗国のカーンたちなどの伝統を我々はそこに見る。それはあまりに大規模な尊大さ、無関心、残虐性のため、人間的な水準を超えた存在に彼らを引き上げてしまい、英雄時代の神々の晩餐を思わせてしまうようなものなのだ。(中略) スターリンの政治技法は、因習的な制約からの自由を示しており、凡庸さとは相容れないものとなっている。凡庸な人間は因習に縛られている。しばしばこの両者をわけるのは、彼らの活動のスケールなのである。たとえば実務生活で活躍する人間であれば、たまに陰謀に手を染めるのは普通のことである。だがその陰謀を何万人も、社会の階層丸ごとの相当部分に対して、自分の同志たちを含む形で仕掛けるのは、あまりに常軌を逸しており、長期的な大衆の結論は、その陰謀が事実にちがいない——あるいは「少なくとも幾ばくかの真実を含む」——か、あるいはこれほど強大な権力には従うしかない——インテリなら「歴史的必然なのである」ということだろう——というものになってしまうのだ。(中略) 国家的な理由のために数人を餓死させるのは、まるで意外なことではない。だが意図的な決断により数百万人を餓死させるのは、通常は神々だけのものとされる種類の行動なのである。

これなどの類似の下りには、ちょっとしたアイロニーの響きが見られるとはいえ、ある種の魅了と崇拝を感じずにはいられないのも人情だろう。論説の終わりでバーナムは、スターリンをモーゼやアショカ王のような半分神話的な英雄と比肩する存在だとしている。こうした人々は丸々一時代を体現する存在であり、当人が実際にはやらなかった偉業も、当然のように彼らのものとされるのだ。ソ連の外交政策とその目的と称するものについて書くとき、バーナムはさらに神秘的な論調となる。

ユーラシアの中軸地帯の磁力を持つ核から出発したソヴィエト勢力は、新プラトン主義における「一者」が次々にあふれて流出の階層を順次下るように、外側へと広がる。西はヨーロッパへ、南は近東へ、東は中国へ、そしてすでに大西洋、黄海とシナ海、地中海、ペルシャ湾の岸辺をなめつつあるのだ。分化されていない「一者」がその流出において、精神、魂、物質の段階を次第に下り、そしてその宿命的な回帰で己へと戻るのと同様に、ソヴィエト勢力も。統合的に全体主義の中心から発し、併合 (バルト諸国、ベッサラビア (訳注:欧州南東のモルドバあたり)、ブコビナ (訳注:ルーマニアとウクライナにまたがるあたり)、東ポーランド)、征服 (フィンランド、バルカン諸国、モンゴル、中国北部、そして明日にはドイツ)、影響力行使 (イタリア、フランス、トルコ、イラン、中国中央および南部……) を通じて外へと広がり、ユーラシアの境界を越えたMH ON、つまり外縁の物質圏へと消散し、一時的な宥和潜入へと向かう (イギリス、アメリカ)。

この一節を埋め尽くす無意味な強調文字 (訳注:原文では大文字。原文では強調部分以外も固有名詞はすべて大文字で始まるのでもっと極端) が、読者に対して催眠術的な効果を持つよう意図しているのだといっても、うがち過ぎではないだろう。バーナムは、恐ろしく抵抗しがたいパワーという図式を作り上げようとしており、潜入というごくふつうの政治的な動きを潜入と書いてみせることで、全体の尊大な調子が強まっている。この論説は全文を読むべきだ。平均的な親露派が容認可能だと思うような種類のトリビュートではないし、バーナム自身もおそらく、自分は厳密に客観性を保っていると主張するだろうが、彼は実質的にオマージュ行為をしているのであり、果てはケツなめまでしてみせているのだ。一方、この論説は一覧に加えるべき新たな予言もしている。ソヴィエト連邦がユーラシアすべてを征服し、おそらくはそれよりさらに広い地域を支配する、というのだ。そしてバーナムの基本理論は、独立に検証すべき予言を含んでいるのだということはお忘れなく——つまり他に何が起こるにせよ、「管理職」的な社会形態が必ずや主流となる、というものだ。

バーナムの以前の予言、つまりドイツの戦勝とドイツを核にしたヨーロッパ統合という予言は、その主要な方向性でもまちがっていたことが示されたし、さらにはいくつか重要な細部でもまちがっていたことがわかった。バーナムは最初から最後まで、「管理主義」が資本主義民主主義やマルクス主義社会主義よりも効率的だし、さらには大衆に受け入れやすいものなのだと固執している。民主主義や国の民族自決というスローガンは、もはや大衆的な訴求力をまったく持っていない、と彼は言う。それに対して「管理主義」は熱気を引き起こし、わかりやすい戦争目的を生み出し、そこらじゅうに第五列 (スパイ部隊) をつくり出し、兵士たちに熱狂的な士気をもたらせるという。ドイツ人の「熱狂性」とイギリスやフランス党の「しらけぶり」「無関心」との対比は大いに強調され、ナチズムはヨーロッパを席巻する革命勢力であり、その哲学を「感染」により伝えているのだと述べられる。ナチの第五列は「一掃することはできない」し、民主主義国は、ドイツ人やその他ヨーロッパの大衆がこの新秩序よりも好むような仕組みを提示することはまったく不可能なのだそうだ。いずれにしても、民主主義国がドイツを倒すには「ドイツのはるか先までこの管理職の道を進む」しかないのだ。

こうした主張には一抹の真実が含まれている。ヨーロッパの小規模国家は、戦前の混乱と停滞でやる気を失ってしまい、必要以上に急速に崩壊してしまい、ドイツ人たちが当初の約束を守っていれば、ナチスの新秩序を受け入れたことも十分考えられるからだ。だがドイツ支配の実際の体験は、ほぼ即座に世界が見たこともないほどの極度の憎悪と糾弾の怒りを引き起こした。1941年初頭あたりから先、積極的な戦争の目的などほとんど示すまでもなかった。ドイツ人たちを追い払うというだけで十分な目標になったからだ。士気の問題と、その国民連帯との関係はとらえどころのないもので、証拠をいじればほとんどどんなことでも証明できてしまう。だが各種の死傷者に占める捕虜の割合や売国行為の量を見ると、全体主義国家は民主主義社会よりもひどい成績を示している。戦争中に何十万ものロシア人がドイツにわたったし、同じくらいのドイツ人やイタリア人たちは、開戦前に連合国に逃げ出している。これに対応するアメリカ人やイギリス人のドイツやロシアへの逃亡者は数十人規模にとどまる。「資本主義イデオロギー」が支援を集められない実例として、バーナムは「イングランド (さらには大英帝国全体) やアメリカにおける志願兵募集の完全な失敗」を挙げる。これを見ると、全体主義国家の軍は志願兵だけで構成されているのだろうと思いたくもなる。だが実は、全体主義国ではどんな目的だろうと志願兵など検討されたことすらなく、歴史上どの時点でも志願制により大軍を動員したこともない*2。バーナムが提示している似たり寄ったりの各種議論を羅列するまでもない。要するに彼は、ドイツは軍事戦争だけでなくプロパガンダ戦争にも勝つはずだと想定していた。そして、その想定は、少なくともヨーロッパでは事実により裏付けられることはなかったのである。

バーナムの予言は、検証できる場合には単にまちがっていたというだけにとどまらない。ときには、それはとんでもない形で相互に矛盾し合っているのだ。この最後の事実は重要だ。政治的予想がまちがえるのは、通常はないものねだりの願望充足思考に基づいているからだが、それには症例としての価値はある。特にそれが急激に変わった場合にはなおさらだ。しばしば、馬脚を露わにする要因は、それらの予言が行われた日付となる。バーナムの各種著作の執筆時点を内部証拠に基づきなるべく正確に見極め、それと同時期にどんな事件が起きていたかを見ると、以下のような関係が見いだせる。

  • この本のイギリス版補遺で、バーナムはソ連がすでに敗北しており、分離プロセスが始まりつつあると想定しているようだ。これは1942年春に刊行されたので、書かれたのはおそらく1941年末、つまりドイツがモスクワ近郊に迫っていたときだ。

  • ロシアが日本と手を組んでアメリカを攻めるという予想が書かれたのは1944年、新しい日ソ条約締結の直後である。

  • ロシアによる世界征服の予言が書かれたのは1944年冬、ロシア軍が東欧で急速に進軍し、西側の連合国はまだイタリアとフランス北部で足止めをくらっていた頃だ。

いずれの場合も、それぞれの時点でバーナムは、そのときに起きていることを先に延ばしただけの予測をしていることがわかる。さて、これをやりたがる傾向は、不正確さや誇張のような、単に悪いだけの習慣ではない。不正確さや誇張は、よく考えれば修正できるからだ。現状を先に延ばすだけというのは、大きな精神の病気であり、その根っこの一部は臆病さ、一部は権力崇拝 (これは臆病さと完全に分離はできない) にある。

仮に1940年にイギリスで、ギャラップ世論調査を行って「ドイツはこの戦争に勝つか?」と尋ねたとしよう。奇妙なことだが、「負ける」と答えた集団よりも、「勝つ」と答えた人のほうが、知識人——IQ120以上とでもしようか——の割合がはるかに高いことがわかったはずだ。同じことが1942年半ばでも言えただろう。この場合には数字はそれほど極端にちがわなかっただろうが、「ドイツはアレクサンドリアを制圧するか?」「日本は占領地域を維持し続けられるか?」という質問だったら、ここでも知能の高い人々が「はい」の集団に集中する傾向が見られたはずだ。このすべての場合に、あまり知能のない人々のほうが正解する可能性が高かった。

こうした事例だけを元にするなら、高い知能とダメな軍事判断が常に手を携えているとも思いたくなる。だがそれほど単純ではない。イギリス知識人は全体として、人民大衆より敗北主義的だった——そしてその一部は、戦争にはっきり勝ったときにすら、敗北主義を押し通した——今後待ち受ける、戦争の陰惨な年月を思い描く能力が高かったせいもある。彼らの士気が低かったのは、想像力が豊かだったからだ。戦争を終える最もすばやい方法は敗北することであり (強調訳者)、長期戦の見通しが耐えがたいと思うなら、勝利の可能性を信じたがらないのも無理はない。だが話はそれだけにとどまらない。大量の知識人の間には不満があり、このため彼らはイギリスに敵対的な国すべてに、つい肩入れしてくなってしまったのだった。そして何より根深いのはナチス政権のパワー、エネルギー、残虐さに対する崇拝があったことだ——とはいえそれが意識的な崇拝だった例はごくわずかしかないのだが。左派メディアをすべて調べて、1935-45年におけるナチズム批判の言及をすべてかぞえあげると、面倒ながら有益な活動になるだろう。それが絶頂に達したのは1937-38年と1944-45年だったのがわかるはずだと私は確信している。そして1939-42年には激減しているはずだ——つまりドイツが勝っているように見えた時期ということだ。 また、1940年に妥協して講和を結べと言っていた人々が、1945年にはドイツ解体を主張していたのもわかるはずだ。そして、イギリス知識人のそれにに対する反応を研究したら、そこでも本当に進歩的な衝動が、権力と残酷さへの崇拝と混ざり合っているのがわかる。権力崇拝が、親露的感情の唯一の動機だといったらひどく不公平になってしまうが、動機の一つにはちがいないし、知識人の間ではおそらくそれが最強の動機だっただろう。

権力崇拝は政治判断をぼやかしてしまう。というのもそれは、ほぼ不可避的に、現在のトレンドが続くという信念につながってしまうからだ。いつでもその瞬間に勝っている側は常に無敵に思えてしまう。日本が南アジアを征服したら、南アジアを永遠に持ち続けるだろう。ドイツがトブルク (訳注:リビアの一部) を捕獲したら、まちがいなくカイロも制圧するだろう。ロシアがベルリンに入ったら、ロンドンにも間もなく進軍するはずだ、等々。こうした頭の習慣はまた、ものごとが実際よりもはるかにすばやく、完全に、壮絶に起こるという信念にもつながってしまう。帝国の興亡や、文化・宗教の消失が、地震のように一瞬で起こると思われてしまい、ほとんど始まったばかりのプロセスが、すでに終わりを迎えたかのように論じられる。バーナムの著作は、終末論的なビジョンだらけだ。国民、政府、階級、社会システムが、絶えず拡大、縮小、衰退、解体、転覆、衝突、崩壊、結晶化しているとか言われ、全般に不安定でメロドラマ的な動きを見せていることにされる。歴史的変化ののろさ、どんな時代でも、その前の時代の相当部分を含んでいるという事実はが十分に考慮されることは決してない。こうした思考形態は、まちがいなくまちがった予言につながってしまう。というのも、それができごとの方向性を正しく見極めたとしても、そのテンポを誤算してしまうからだ。わずか5年の間に、バーナムはドイツがロシアを制圧すると予言し、次にロシアがドイツを制圧すると述べた。いずれの場合にも、彼は同じ直感に従っていたのだ。その時点の征服者に平伏して、既存トレンドを不可逆なものとして受け入れるという直感である。これを念頭におくと、彼の理論をもっと広い形で批判できるようになる。

私が指摘したまちがいは、バーナムの理論を反証するものではないが、彼がそんな理論を抱くようになった理由とおぼしきものに光を当ててくれる。この関連では、バーナムがアメリカ人だという事実は無視できない。あらゆる政治理論は、ある種の地域的な風味を備えているものだし、あらゆる国民、あらゆる文化は独自の特徴的な偏見や無知な部分を持っているものだ。一部の問題は、自分が見ている地理的な状況にともなう観点とちがう視点から見る必要が絶対にあるのだ。さてバーナムが採用している態度は、共産主義とファシズムをほぼ同じものに分類し、同時にその両方を受け入れる——少なくとも、そのどちらも激しく反対闘争を行うべきものだとは想定しない——というものである。これは基本的にはアメリカ的態度であり、イギリス人やその他の西欧人にとってはほとんどあり得ないものである。共産主義とファシズムが同じものだと考えるイギリス人作家は、まちがいなくそのどちらも化け物じみた邪悪であり、死んでも戦うべき相手だと確信している。これに対して、共産主義とファシズムが正反対のものだと考えるイギリス人はすべて、そのどちらかに肩入れすべきだと感じるだろう*3。この見通しのちがいの理由はごく単純で、いつもながら、ないものねだりに絡み取られている。全体主義が勝利して、地政学屋の夢が実現すれば、世界の列強としてのイギリスは消滅し、西洋全体がある一つの大国家に飲み込まれる。これはイギリス人が他人事として考察しやすいような展望ではない。イギリス人は、イギリスに消えて欲しいとは思わない——その場合には、彼は自分の求めるものを証明する理論を構築する方向に向かうだろう——あるいは少数派の知識人のように、自分の国はもうおしまいで、何か外国勢力に忠誠心を鞍替えしようとするだろう。何が起ころうともアメリカは超大国として生き残るし、アメリカの観点からすれば、ヨーロッパがロシアに支配されようとドイツに支配されようと、大したちがいはない。ほとんどのアメリカ人は、そもそもこんな問題を考えるにしても、世界が2つか3つの怪物国家に分割された状態のほうを望むだろう。それぞれの国は自然な境界にまで拡大してしまい、イデオロギー的な差に囚われることなく、お互いに経済問題について交渉できればいいというわけだ。こうした世界像は、大きさをそれ自体として崇拝したがり、成功は正当化してくれると感じるアメリカの傾向には適合しているし、全体に広がる反英感情にも合っている。実際には、イギリスとアメリカは二度にわたり、ドイツに対抗して連合を強いられ、おそらく近いうちに、ロシアに対して連合を強いられるだろう。だが主観的には、アメリカ人の大半はイギリスよりはロシアかドイツのほうを好むだろうし、そしてロシアかドイツかと言われたら、どちらでもその時点で強い側を好むはずだ*4。したがって、バーナムの世界観というのが、一方ではアメリカ帝国主義者と露骨に近いものとなり、そうでないときには孤立主義者の見方に近くなるのも、驚くべきことではない。アメリカ的な願望充足思考にあてはまる、「タフ」で「リアリスト的」な世界観なのだ。前著でバーナムが示す、ナチス手法へのほとんど公然とした崇拝ぶりは、ほぼあらゆるイギリス人読者にはショッキングに思えるだろうが、最終的には大西洋が英仏海峡よりも広いという事実に依存しているのだ。

すでに述べたように、バーナムはおそらく現在と直近の過去については、まちがっているよりも正しい部分が多いだろう。ここ50年ほどの間に、全般的な方向性はほぼまちがいなく寡頭政治に向けてのものだった。ますます工業と金融権力が集中している。個人資本家や株主の重要性が低下している。科学者、技術者、官僚という新しい「管理職」階級が成長している。中央集権化した国家に対してプロレタリアは弱い立場になっている。小国は大国にますます抵抗できなくなっている。人々を代表する制度機関が衰退し、警察テロやインチキな国民投票などに基づく一党政権が登場している。こうしたものはすべて同じ方向性を示しているように見える。バーナムはこのトレンドを見て、それが抵抗しがたいものだと思い込んでいる。まるで大蛇ににらまれたウサギが、大蛇こそ世界最強の存在だと思い込むようなものだ。だがちょっと深く見てみれば、彼のアイデアすべてが、たった二つの公理に基づいているのがわかる。この公理は前著では当然のものとされていたし、次著では部分的に明示されていた。その公理とは:

(1) 政治は基本的にあらゆる時代で同じ。

(2) 政治行動は他の行動とはちがう。

二番目の点から見よう。『マキャベリ主義者たち』でバーナムは、政治とはひたすら権力闘争にすぎないと固執する。あらゆる大きな社会運動、あらゆる戦争、あらゆる革命、あらゆる政治綱領は、いかに啓発的でユートピア主義的ではあっても、実は権力を奪取しようと企む派閥の野心をその背後に隠しているのだ。権力は、倫理的、宗教的なコードで抑えることは決してできず、他の権力で抑えるしかない。愛他的行動に最も近いアプローチとしては、支配集団がまっとうなふるまいをしたほうが権力の座に長居できるという認識くらいしかない。だが不思議なことに、こうした一般化は政治行動だけに適用され、その他の行動には向けられない。日常生活では、バーナム自身が目撃して認めているように、あらゆる人間行動を「だれが得をするか?」と問うことで説明することはできない。人間は明らかに、利己的ではない衝動を持っている。したがって人間は、個人として行動するときには道徳的にふるまえるのに集合的に行動するときには不道徳になる動物、ということになってしまう。大衆はどうやら、自由と人間の同朋精神を漠然と求めてはいるらしいが、これは権力に受けた個人や少数派たちにやすやすと利用されてしまう。だから歴史は一連の詐欺で構成されるのであり、そこでは大衆が、まずはユートピアの約束で反乱へとおびき出され、そして仕事を終えたら新たなご主人様たちに再び奴隷にされるというわけだ。

したがって、政治活動は特別な種類の行動ということになる。その特徴は完全な恥知らずぶりであり、人口のごく一部でのみ生じるもので、特に既存の社会形態で才能を自由に活かせない、不満を抱いた集団の中でそれが発生しやすい。人民の大半を占める大衆——そしてこれが (2)と(1) の接点となる——は常に非政治的であり続ける。だから実質的に、人類は二つの階級に分かれている。利己的で偽善的な少数派と、頭のない大群衆だ。その群集どもの運命とは、そのときのニーズ次第で、ブタが小屋に戻るようにケツを蹴飛ばされたりバケツをガチャガチャ鳴らしたりするのと同様に導かれたり追いやられたりすることとなる。そしてこの美しいパターンは永遠に続くことになっている。個人は、ある区分から別の区分へと移行することもあるし、またある階級が丸ごと他の階級を殲滅させて支配的な地位に上ることもある。だが人間が支配者と被支配者に別れるのは決して変わらない。人間は、能力面でも、欲望やニーズの面と同様に、平等ではない。「寡頭政治の鉄則」が存在するのであり、これは機械のおかげで民主主義が不可能ではなくなっても、作用し続けるのである、ということになる。

実に不思議なことだが、権力闘争についてやたらに話すのに、バーナムはそもそもなぜ人々が権力を求めるのかについて、立ち止まって考えようとしない。権力に対する飢えは、比較的少数の人の間でしか支配的なものではないが、食べ物への欲望と同じ自然の本能であり、説明するまでもないと想定しているらしい。また社会の階級区分は、あらゆる時代に同じ目的を果たすものだという想定もある。これは実質的に、何百年もの歴史を無視するに等しい。バーナムのご主人様たるマキャベリが執筆していた頃には、階級区分は不可避だったばかりか、望ましいものでもあった。生産手段が原始的である限り、人々の相当部分は必然的に、退屈で消耗する肉体労働に縛り付けられることになる。そして少数の人がその労働から解放されねばならない。そうでないと文明が維持できないし、進歩など望みようもない。だが機械の到来によりこのパターンがすべて変わった。階級区分を正当化する理由は、そんなものがあるとするなら、もはや同じではいられない。平均的な人間がこき使われ続けねばならない機械的な理由などないからだ。確かに厳しい肉体労働は続いている。階級区分は、新しい形で再確立されつつあり、個人の自由は虐げられつつある。だがこうした発展がいまや技術的には避けられるのだから、そこには何か心理的な原因があるにちがいない。バーナムはそれをまったく見つけようとしない。彼が尋ねるべきなのに、一度たりとも尋ねない疑問とは次の通り:なぜむきだしの権力に対する欲望が、人間に対する人間の支配など不必要になりつつあるまさにこの瞬間に、大きな人間的動機となっているのか?「人間の本性」だのあれやこれやの「不可侵な法則」が社会主義を不可能にするという主張は、単に過去を未来に投影しただけだ。要するにバーナムは、自由で平等な人間社会などこれまで存在したことがないから、今後も決して存在できないと言っているだけだ。この議論を使えば、1900年には飛行機など不可能だと証明できるし、1850年には自動車など不可能だと証明できてしまう。

機械が人間関係を変え、結果としてマキャベリはすでに時代遅れになったという概念は、きわめて自明なものだ。バーナムがそれに対処できないなら、それは彼自身の権力願望が、武力と詐術と圧政のマキャベリ的世界が終わるかも知れないという示唆をすべて一蹴するように仕向けているからとしか思えない。私がさっき述べたことを是非とも念頭においてほしい。バーナムの理論は知識人の間でいまやえらく広まっている、権力崇拝の一変種でしかないということだ——それもアメリカ的な変種であり、それが興味深いのはえらく大風呂敷を広げているからだ。そのもっと一般的な変種は、少なくともイギリスでは、共産主義と呼ばれる。ロシアの現政権がどんなものかについて多少なりとも理解しつつ、強い親露派となっている人々を検討してみると、全体として彼らがバーナムのいう「管理」階級に所属していることがわかる。つまり狭い意味での管理職ではなく、科学者、技術者、教師、ジャーナリスト、放送者、官僚、専門政治家なのである。一般に、まだ部分的に貴族主義的であるシステムに制約されていると感じている中流の人々で、さらなる権力と名声に飢えている人々なのだ。こうした人々はソ連を見て、上流階級を排除し、労働者階級に分をわきまえさせて、自分とよく似た人々に無限の力を委ねている社会をそこに見て取る、あるいは見て取ったつもりになる。イギリスの知識人たちが、大挙してソヴィエト政権に関心を示すようになったのは、ソ連が露骨なまでに全体主義的になってからだったのだ。イギリスの親露派知識人たちはバーナムを糾弾するだろうが、彼は実はその親露派たちの秘密の願望を代弁してあげているのだ。古い平等主義的な社会主義を破壊し、知識人がついに鞭を握れるような、階級社会を実現したいという願望だ。バーナムは少なくとも、社会主義など到来しないと言うだけの正直さは持っていた。他の連中は単に、社会主義がやってくると口にしつつ、実は「社会主義」という言葉に新しい意味を持たせて、古い意味を否定しようとするだけだ。だがバーナムの理論は、客観性の見かけを採ろうとはするが、単に願望を合理化してみせたにすぎない。彼の議論が未来について何かを教えてくれると考えるべき大した理由はない。ほんの目先のことがわかるくらいだろう。彼の議論は単に、「管理」階級自身、少なくともその階級で意識的かつ野心的な人々が、住みたいと思っている世界がどんなものかを教えてくれるにすぎないのだ。

ありがたいことに「管理職」はバーナムが信じているほど無敵ではない。『管理職革命』で、バーナムは不思議なほど一貫して、民主国が享受している軍事的および社会的な利点を無視している。あらゆる箇所で、ヒトラーのキチガイ政権の強さ、活力、耐久性を示すために証拠が押し込まれている。ドイツは急速に拡大しており、「急速な領土拡大は常に、頽廃ではなく (中略) 刷新の証拠であった」。ドイツは成功裏に戦争を遂行し、「戦争遂行能力は頽廃のしるしであったことはなく、その反対なのだ」。ドイツはまた「何百万人もの人々に熱狂的な忠誠心を引き起こす。これもまた、頽廃には決してともなうことがないものである」。ナチス政権の残虐性や不正直ぶりさえも、同政権のよい側面だとして挙げられる。というのも「若く、台頭しつつある新社会秩序は、旧秩序に対抗するにあたり、ウソ、テロ、糾弾に大規模に頼る見込みが高い」からなのだという。だがたった五年以内に、この若く、台頭しつつある新社会秩序は己自身を粉砕してしまい、バーナム自身の表現を使うなら、頽廃してしまった。そしてこれが起きたのは相当部分が、バーナムの衰廃する「管理職的」(つまり非民主的) な構造のせいなのだ。ドイツ敗北の直接的な原因は、イギリスがまだ破られておらず、アメリカが明らかに戦闘準備をしているときに、ソ連を攻撃するという前代未聞の愚行だった。こんな規模のまちがいができるのは (少なくとも最もしがちなのは)、世論にまったく力のない諸国に限られる。一般人の声が聞かれる限り、すべての敵と同時に戦うようなことはしないというくらい基本的な原則は侵犯されづらい。

だがいずれにしても、ナチズムのような運動はろくな結果も安定した結果も生み出せるわけがないということは、最初から見て取れるべきだったのだ。だが実はバーナムは、ナチスが勝っている間は彼らの手法にいけないところは何もないと思っていたらしい。そうした手法が邪悪に見えるのは、それが目新しいからにすぎないのだ、と彼は言う。

礼儀正しさだの「正義」だのが支配するという歴史的な法則などない。歴史では常に、だれの礼儀でだれの正義かという問題が生じる。台頭する社会階級と、新しい社会秩序は、古い道徳的なコードを打ち破らねばならない。これは彼らが古い経済的、社会的制度を打ち破らねばならないのと同じである。当然ながら、守旧派の目から見れば、そうした連中は怪物である。そして彼らが勝てば、いずれは彼らが礼儀だの道徳だのを左右することになる。

これだと、そのときの支配階級が願うなら、文字通りどんなものでも正しい/まちがっていることになれるということになる。だがこれは、人間社会が多少なりともまとまりを持つために、ある種の行動規範が遵守されねばならないという事実を無視している。したがってバーナムは、ナチス政権の犯罪や愚行が、いずれ何らかの道筋により、大惨事につながるということを見通せなかった。彼が新たにスターリンに対して見出している崇拝ぶりも、いずれ同じことになるはずだ。ロシア政権がどのような形で自滅するか、いまは正確に予想するには時期尚早ではある。どうしても予言しろというなら、過去15年のロシア政策の継続——そしてもちろん、国内政策と対外政策は、同じもののちがった側面でしかない——は、ヒトラーの侵略ですらままごとに思えるほどの核戦争につながるしかないと言いたい。だがいずれにしても、ロシア政権は民主化するか、あるいは消滅するしかないのだ。バーナムが夢見ているらしき、巨大で無敵の永続的な奴隷帝国は、確立されることはないし、確立されても長続きはしない。なぜなら奴隷制はもはや、人間社会の安定した基盤ではないからだ。

「こうなるだろう」という予言は必ずしも可能とは限らないが、ときに「こうはならない」という予言ができそうなときはある。だれもヴェルサイユ条約の正確な結果を予測することなどできなかったが、何百万もの思索家たちは、その結果がよくないものになるというのは予想できたし、実際に予想している。今回はそれほど多くはないにせよ、ヨーロッパに押しつけられている協定の結果もまた、よくないものになると見通せている人々もたくさんいる。そしてヒトラーやスターリンを崇拝しないようにすること——これまた、そんなにすさまじい知的な努力を必要とするものではないはずだ。だがその一部は、同時的な努力でもあるのだ。バーナムほどの才能を持つ人物が、一時的にせよナチズムがなにか立派なものだと思ってしまい、機能する持続性ある社会秩序を構築できるはずだと思ってしまうというのは、いまや「リアリズム」と呼ばれるものをもてはやすことで、現実感覚にどれほどの被害が生じてしまったかを如実に示しているのである。

 

原文は以下を参照 www.orwellfoundation.com

*1:80歳まで生きながらえても、相変わらず成功者と見なされている政治家はなかなか思いつかない。「偉大な」政治家と人々が呼ぶものは通常、その政策が効果を発揮する暇がある前に死んだ人物なのだ。クロムウェルがあと数年長生きしていたら、おそらくは権力の座から失墜し、そうなれば現在は失敗者と見なされていただろう。ペタン (訳注:軍人でフランスのヴィシー政権首相となり対独協力者として戦後は裏切り者扱いされる) が1930年に死んでいれば、フランスは彼を英雄で愛国者として崇拝していただろう。ナポレオンはかつて、モスクワへの行軍中に大砲の弾に当たって死んでさえいれば、史上最も偉大な人物として歴史に名を残しただろうと語っている。

*2:イギリスは1914-18年戦争の初期に、志願兵100万人を調達した。これは世界記録だろうが、そのためにかけられた圧力はあまりに大きく、この兵の調達が志願制と言えるのかどうかは疑わしい。最も「イデオロギー的」な戦争ですら、おおむね強制動員された兵によって戦われている。イギリス内戦、ナポレオン戦争、アメリカ南北戦争、スペイン内戦などでも、どちら側も徴兵や強制徴兵に頼っている。

*3:唯一思いつく例外はバーナード・ショーだけである。彼は、少なくともしばらくの間は、共産主義とファシズムがほぼ同じものだと宣言し、そしてどちらも支持していたのだった。だがショーは結局のところイギリス人ではないし、おそらく自分がイギリスと運命を共にしているとも感じなかったことだろう。

*4:1945年秋の時点ですら、ドイツ駐留アメリカ兵に対して行われたギャラップ世論調査では、51パーセントが「ヒトラーは1939年以前はかなりいいことをやった」と考えていたことが示されている。5年にわたる反ヒトラープロパガンダの後でもこんな具合だ。引用した評決は、ドイツにあまり強く肩入れしたものとは言えないが、同じくらいイギリスに好意的な評決が、米軍の51パーセントなどという数字の足下にすら及ぶとは信じがたい。