オールディス『ヘリコニアの冬』訳者あとがき

ヘリコニア地図

しばらく前からやっていた『ヘリコニアの冬』のAI支援翻訳が終わった。

ブライアン・オールディス『ヘリコニアの冬』 (pdf, 4.1MB)

何度か書いているけれど、かなりがっかりしたと言わざるを得ないね。それも含めて、訳者あとがきをつけました。以下にそれだけを挙げておく。

オールディス『ヘリコニアの冬』訳者あとがき

 本書はBrian Aldiss, Helliconia Winter (1985) 全訳である。底本としてはヘリコニア三部作合冊本(Gollancz, 2010) のKindle版、およびネットに転がっていたスキャンを活用している。また、合冊本に含まれていた補遺および序文もおまけとしてつけた。

 

 さて、本書はイギリスSFの重鎮ブライアン・オールディスの、畢生の大作として知られる三部作の最終巻となる。第1巻『ヘリコニアの春』はすでに訳し終えている。登場したときには、その壮大なスケール、異世界の構想力にだれもが舌を巻いた。

1. シリーズ全体の舞台

 本シリーズの舞台は、へびつかい座のほうに千光年ほど離れた二重星系にある惑星ヘリコニア。巨大な恒星フレイヤのまわりを扁平な楕円軌道で巡る、別の小さな恒星バタリクス。そのバタリクスをめぐる惑星がヘリコニアとなる。その普通の一年は、バタリクスのまわりの公転で定められている。しかしそれはさらに、フレイヤのまわりの大きな公転に支配される。フレイヤに近づくと、ヘリコニアは極度に温暖化し、常夏の砂漠に近い気候にまで達し、それが数世紀続く。しかしフレイヤから離れると、そこは完全な冬の惑星となり、厳寒の氷河と雪の世界だ。

 その惑星ヘリコニアに住む人類は、その大きな夏と冬ごとに、文明の興亡を繰り返す。彼ら自身は、己の才覚、仲間内の争い、そして惑星にすむもう一つの人間的生き物ファゴルとの戦いにより生きているつもりだ。だがそのすべては、フレイヤとの距離に応じた惑星の熱収支、そしてそれに伴う生態系変化に左右されているのだ。暖かくなれば、人間がヘリコニアを支配する。各種の民族移動も、それに伴う民族衝突も、戦争も文化発展も、本人たちが何を考えていようとも、その熱収支に伴う環境変化がもたらす結果にすぎず、幾度となく繰り返されてきたものでしかない。そして冬には、そのすべてが衰退する。そうなると毛皮を持ち内分泌系でも耐寒性を持つファゴルたちが世界を支配する。人間がどうがんばろうとも、この基本的なエネルギー収支と生物学的な現実には勝てないのだ。

 我らが地球人は、この惑星をめぐる人工衛星アヴェルナスを送りこみ、そうした惑星でのできごとを緻密に観測し続けている。

 

 これがこのシリーズの構想だ。この巧妙さ、そして文明の様々な動きも、しょせんは惑星の熱収支の副産物でしかないという、ある意味で冷徹な見方、さらにその熱収支がもたらす環境変化と人間活動の複雑なからみあいは実に見事。中でも、惑星の冬の主であり、人類の宿敵であるファゴルたちが、実はダニとウイルスを通じて人間の気候変動に対する適応力を左右し、敵対しつつも実は共生関係にある、という設定の妙にはみんなうならされた。

2. これまでの各巻の概要

 『ヘリコニアの春』は、こうした作品全体の舞台を簡潔に説明しつつ、地下で地熱に頼って細々と暮らす人類が、地上に出てきて文明を築き上げる様子を描き、真の名作に値する。長い冬をくぐりぬけた人類が、急激に改善する気候の中で新たな発見を繰り返す。やがて戦いに明け暮れる男ではなく、女たちがケプラーとコペルニクスとニュートンを兼ねた役割を果たし、自分のいる惑星の真の姿を見出す様子は本当に感動的だった。

 それに続く『ヘリコニアの夏』では、人間文明の爛熟期が描かれる。もはやファゴルたちは、奴隷にすぎない。その中で人間たちは自分の争いにばかりかまける。そしてやがて、人類とファゴルの季節的な覇権を見出した知識人が、この優位の夏にファゴルどもを皆殺しにせよと叫ぶところで同書は終わる。

 

 実は訳者は、30年前にそこまで読んだきり、放ってあった。なぜ『ヘリコニアの冬』に手を出さなかったかはよく覚えていない。壮大な物語が終わってしまうのが惜しかったから、かもしれない。このあとは、これまでの流れを考えれば、人類が没落し、文明が失われて衰退する物語が描かれるはずだ。それが何となく暗そうに思えたからかもしれない。

 そしてもちろん、地球観測ステーションand/or 地球との関わりもある。『夏』まで、それはひたすら傍観者ではあった。観測ステーションはデータを送り、地球はそれを観察する。だが、『夏』ではそのステーションの一部が死を覚悟して地上に降り立ち (地球人はヘリコニアのウイルスに耐えられないので、上陸すなわち死なのだ)、ヘリコニア人と交流する。『冬』では当然ながら、ステーション、ひいては地球とヘリコニアのさらなるからみあいが描かれるはずだった。それはそれで楽しみだったのだが、なぜかそのまま放置し……

3. 翻訳の経緯

 『ヘリコニアの春』は30年前、かのサンリオSF文庫で予告されつつ、出ることのなかった作品だ。その顧問だった山野浩一の遺志をついで、というわけでもないが、この傑作とされる作品を日本語で読めないのはあまりに惜しい。ぼくも大学院生くらいのとき、それに応えるべく最初の五ページほどを訳した (イェルクの舌を食うあたり) が、そのノートがどこかにいってしまい、やりなおすのもしゃくで放置してあった。

 だが時代は流れる。人工知能様の発達により、翻訳のハードルはぐっと下がった。凝ったところのない優等生的な文章は、人工知能が簡単にこなしてくれる時代がやってきた。オールディスは、まさにそうした奇をてらわない普通の優等生的な文章を書く人だ。言っては悪いけれど、すばらしいレトリックの華があるわけでもない。イギリスのニューウェーブにおいて、ときにはJ・G・バラードと並んで語られる人物ではあるが、バラード (少なくとも中期まで) のような世界の歪みはない。まさにAI翻訳にうってつけの作品を書く。

 そこで、あの名作『ヘリコニアの春』を紹介しようではないの、と思いついた。そしてそれはすいすい進んだ。作品もすばらしい。見事な世界観。初めて読んだときの興奮がよみがえってくる。

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 それに気をよくして、続きもやりましょうと思い、とりかかったのがこの『冬』だった。『夏』はおもしろかったけれど、この惑星ヘリコニアの天文学的な観点は比較的浅かったような記憶がある。だが冬はそうはいかないだろう。未読のものを読むついでに訳しちまおう、というわけだ。その結果がこれだ。

 

 そして、ぼくはいま、唖然としているというか、失望しているというか。

4. あらすじ

 ヘリコニアは、夏の人類の最盛期をすぎて次第に冬に向かっている。それに対し、人類は強権専制主義で対応しようとする。五世紀にわたり雪に封じ込められて生きるために、完全な秩序を維持し、人類の敵であるファゴルをそれまでに抹殺しようというのがその計画だ。そして冬に向かって人間が適応するために必要な体型変化をもたらすが、その過程で人類の半分を殺すウイルス感染も、彼らにとっての秩序への脅威として保菌者をすべて殺すことで対応しようとするのだ。『冬』の大半は、その専制君主の息子ルテリン・ショケランディトが、戦場での裏切りによる虐殺をからくも逃れ、迫り来るウイルスの猛威と専制国家の弾圧を逃れつつ生き延びる様子を描いた物語となる。ヘリコニア側はそれだけだ。

 が……

 それと並行して、これまでまったくなおざりにされていた、地球観測ステーションと、そして地球そのものの物語が、何やら実に拙速に展開されるようになるのが、この『冬』の大きな特徴だ。

 まず、観測ステーションの住民たちは、世代を重ねるうちにシータも言うように地面から離れては生きられないことが明らかとなり、当初の目的も見失い、次第に退廃に陥り、本来の狙いも忘れて野蛮な蛮族へと退行してしまう。

 そして地球も、惑星探査を繰り広げる中で、植民惑星との間で核戦争が起こり、核の冬が生じて千年にわたり人類も地球も滅亡寸前となる。だが生き残った人類は、かつてのような所有と利己性にばかりこだわる誤った生き方を捨てる。そして共感と共有に基づく愛の文明を築く。その共感力は、前地球の生物圏の母、かのガイアの精神と共感しているのだ。そしてそのガイアは人類の共感を通じて、ヘリコニアの地母霊である「原初の観察者」に時空を超えた共感のメッセージを伝える(ヘリコニアは千光年離れているので、地球人がヘリコニアの映像を見る頃にはヘリコニアはとっくに次の段階に移っているのだが、共感は時空を超えるので千年前のできごとにも影響できるんだって)。そしてガイアは、優しいエネルギー源となるジオノートという変な生き物を地球に生み出し、人類はそのエネルギーを使って、もうだれも働かずにすみ……(いや、働かないんじゃないんだって。かれらの労働というのは正しい生き方についてみんなで考えるという学級会もどきなんだって。農業とか生活必需品は、各人が楽しくできるところだけやることで作られるんだって)、フリーセックスのヒッピーコミューンのような生活を送る…… おしまい。

 

え、おしまいって……なにこれ。

5. 感想

 本書の行き倒れ感というのは、なかなか比類がない。60歳にもなった作家が、結局あこがれていたのはヒッピーのフリーセックスのコミューン暮らしだったという情けなさ。生活を支える物資がどのように作られ管理運営されているかについて、理解も想像力もかけらもないという社会の仕組み自体への無知。所有もなくすべてを共有といったくだらないお題目にからめとられ、人類すべてが共感を送るとそれが時空を超えて千年前の千光年離れた星に作用するという妄想以下のヨタを、何の衒いもなく目をキラキラさせて垂れ流す年甲斐のなさ。万人が同じ考えで共感する理想世界というのが、ヘリコニアで批判したつもりの全体主義と大差ないことにも気がつかないおめでたさ。それを60年代にやるならまだわかる。が、1985年にそれを恥ずかしげもなく作中でお説教してみせるというのは、あんたそれまでの20年ほどで何を見てきて、何を学んできたんですか。結局その程度ですか。

 本書はジェイムズ・ラブロックのガイア仮説を元にしている (と本人も明記している)。地球全体を一つの生命体と見なす、というガイア仮説は、かつてポール・クルーグマンが述べたようにトンデモでしかないが (『経済政策を売り歩く人たち』参照)、まあ比喩的なイメージとしてはありえるだろう。地球全体がある種の恒常性を持つシステムを構成していること自体は、まあまちがいがない。だがそれが地母神として人格のようなものを持ち、共感と愛で動き云々というのを真面目に言い出すと、これはオカルト以外の何物でもない。ちなみに、地球 (そしてこの小説内設定ではヘリコニア) 以外に知的生命体が発展しないのは、それ以外の惑星にはガイアのような守護霊がいないから、なんだって。じゃあ、そのガイアさんってどっからきたんですか、という当然の疑問が出てくるはずなんだけど、そんなのは微塵も考慮されない。

冷徹なエネルギー収支に基づく環境変化と、その環境と人類を含む生物との複雑なからみあいという、きわめて緻密に思えた『春』の構想が、この『冬』でいきなり科学もクソもないオカルト信仰告白に堕してしまう……なんですの、これは。ラブロック自身ですら、こんなあられもないオカルト解釈を見てどう思ったのやら……ってあの人もオカルト屋だから、かえって喜んだかもしれないけど。

 

 個人的には、この最終巻はひょっとすると、当初の構想からずれたのではないか、とぼくは思っている。ヘリコニアのガイアにあたる存在は、『春』では「原初の大石」になっていたのが、最終巻で突然『原初の観察者』に変えられている。そしてこのヒッピー説教じみた部分はあまりに全体から浮いている。Wikipediaによれば、この最終巻で大騒ぎされる「核の冬」という概念は、1983年にカール・セーガンらが広めたのだという。『春』が出たのは1982年、『夏』は1983年だ。すると最終巻を書いているときに、彼はこの概念を聞きかじって作品に未消化のままぶちこんだのだろう。そしてそのときに、地球のガイア様とヘリコニアの原初の観察者が人間の共感力で交流する、というアイデアを思いつき、「原初の大岩」を人格的な「原初の観察者」にあっさり改変した上、それにともなうヒッピー妄想をちりばめたのではないか。そうした改稿で、『冬』は間があいて1985年に出ることになったのかもしれない。まあ、これは憶測にすぎないけれど……

6. オールディスの評価

 そして言いたくはないが、本書の惨状は、作家としてのオールディスの評価にも確実に影響するだろう。ある意味で本書は、オールディスが昔から持っていた、軽薄な流行を安易においかけるだけの器用貧乏なところのあらわれでもあるからだ。

 フランス式アンチロマンがはやれば、彼は『世界Aの報告書』を書く。ドラッグ小説のような流行があれば、彼は『頭の中の裸足』を書いてみせる。そこそこ器用にまとまってはいる。が、それだけだ。本書でも彼は、核の冬がはやればそれをそのままぶちこむ。ガイア仮説がはやれば、それをまったく脚色することなくそのままぶちこみ、そこに最もだらしないオカルト解釈まで交える。所有がいけない、攻撃性を持つのがいけない、共感に基づく社会を——そうしたお題目を、彼はまったく咀嚼することなくあからさまに提示する。これを見ると、彼は実はかなり浅はかな作家でしかなかったことがうかがえるように思う。ニューウェーブに名前を連ねていたのも、実は単なる流行にのっかっただけではないか、とすら勘ぐってしまう。

 以前、CUTでこのヘリコニアシリーズ (の『夏』まで) の書評を書いたとき、オールディス作品すべてに共通する、ある種の印象の薄さについて触れた。彼の作品の多くは、読み終わるとすぐに忘れてしまい、そのときは面白くても、不思議と印象に残らないのだ。それは一つには、オールディスが決して有機的にがっちり構築された作品を書くのが得意ではないせいもある。オールディスはそういうところがある。本書でも、カルナバールの山中に作られた、十年で回転する大輪は、すごい構造でエンジニアリング的にもあり得ない代物なのに、最後になってほとんど説明もなく突然出てきて、小説の中でまったく有機的に使われていない。そのときの印象のためだけの代物でしかないのだ。その中で十年を過ごす主人公も、その十年の重みが何も感じられず、老いも成熟もない。せいぜい二週間しか入っていない印象だ。言葉だけの「十年」なのだ。彼の作品が持つ、こうした軽々しさ、表層的な軽薄さ (悪い意味で) がその印象の薄さに貢献しているのはまちがないところだ。彼は、アイテムを並べるような形でしか小説を構築しないのだ。

 彼の作品で『地球の長い午後』はそのアイデアも含め名作だ。『ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド』は本当にすごい本だが、これはオールディスの力というより、その絵を描いたイアン・ポロックのおかげだろう。個人的には『手で育てられた少年』のシリーズは結構好きではある。そして彼のSF史『十億年の宴』はSF史の一つのスタンダードとして意義を持つ (『一兆年の宴』はいらなかったんじゃないかと思う)。だが、彼のきわめて多くの作品の中で、後に残るものが他にあるだろうか。

 この『ヘリコニア』シリーズは、『春』の勢いが続けば、本当に後世に残るオールディス作品になっただろう。本シリーズをめぐっては一時は研究書や考察もいろいろ出ていたように記憶している。だがそれがあるとき一気に消えたのは、この最終刊を読んで、そのオカルトぶりとおめでたいヒッピー幻想に多くの人がドン引きしたせいもあるのではないか。せっかくの可能性が本書ですべて台無しなってしまったのは、惜しいことだとは思う。

7. 蛇足

 さて本書の最後で、主人公ルテリンは戦争捕虜にして奴隷ながらも苦楽を共にしてきたトーレス・ラハルと、まだ見ぬ息子の待つ礼拝堂へと向かう。だがどの道中で己を翻弄してきた寡政府の生き残り、かつての許嫁の父を打倒しようかと思案する。そして最後に村を一瞥し、トーレス・ラハルを待つことなく、反抗の呪詛を唱えつつ駆け出す。物語はそこで終わる。

 ネットのあらすじ解説の一部では、この最後はルテリンがトーレスと息子を最後の最後に見捨てた、という解釈になっている。彼は新たな自由へと駆け出したのだ、というわけだ。だが、文章を読むと、ここで彼は礼拝堂に向かう斜面を下る速度をはやめている。つまりは息子の待つ礼拝堂に急いでいるという解釈のほうが自然だ、と訳者は思う。最後に村をふりかえったときに、彼はそれまでの寡政府とのしがらみ (そしてかつての許嫁への未練も) を捨てた。それまでの優柔不断をふりすて、家族との暮らしに飛び込む道を選んだ、と考えるほうが筋が通っていると思う。

 が、それは読者の解釈次第。訳者は登場人物の中で、トーレス・ラハルちゃんがいちばん気に入っているので、そういう解釈にしたいと思って歪めているのかもしれない。また主人公ルテリンが、ラスト直前で未練たらしく昔の許嫁に迫ったりして、最後の最後までふらふらしている。小説の様々なできごとで、次第に彼がこの世界についての見方を変え、決意に到るようなプロセスがきちんと描かれていないので、なんだか深読みもできてしまう面もある。これはさっきも述べた、オールディスにありがちな小説として未消化な点であり、印象の薄さをもたらす原因でもあるのだが。もし本書をマジで読む人がいれば、まあそんなことを考えて見てもおもしろいかもしれない。

 

 なお、三部作のうち、春と冬を訳しおわったので、残る夏はやんないのか、と思うのが人情かもしれない。が、たぶん(無料では)やらない。この最終巻で、このシリーズに対する期待値がだだ下がりになったというのがある。そしてもう一つ、『ヘリコニアの夏』は、王朝ロマンスみたいな意味ではまあまあ読めるし、三部作の中で最も分厚いが、このヘリコニアの構想ではあまり大きな役割を占めていないのだ。まあ、三部作まとめて商業出版したい、みたいな話でもあればね。

 

2025年9月28日 山形浩生