
はじめに
はい続き。スタニスワフ・レム『SFと未来学』第7章「ロボットSF」。
あらすじ
前章もそうだが、何かこう体系だった考察が行われているわけではなく、いろいろ読んで思いつきを並べるだけ、という感じ。
冒頭、『未来のイヴ』の話がさんざん続く。ヴィリエ・ド・リラダンは、当時の技術的な範囲の中で、ハードウェアの考察も十分に展開し、そして完全に自分にベタ惚れする人間とまったく同じだが人間でない存在というものがもたらす矛盾と混乱についてもしっかり考えていた、と褒める。
それに対していまのSFは、それをまともに考えようとせず、ハードウェアのほうはいろいろ流行を取り入れて見るけれど、「人間とまったく同じ」というものがそのご主人様にどう影響を与えるか、「人間と同じ」というのがどういう意味かもまともに考えず、なんか都合のいいダッチワイフみたいな話にしてしまい、つまらんお笑いとネタに走ってテーマの可能性をまったく無駄にしているよ、との指摘。
それはロボットでなくても、電子頭脳とかの場合でも同じ。勝手なときには万能にして、一方でまったく融通の利かないアホな存在にしてしまう。自由意志もどきを与えるはずなのに、「悪いことできません」みたいな抽象的な条件つけて平気。アシモフのロボット三原則とかもまったく現実味ない。
アシモフはアイデアおもしろいのに、それを詰めないで話が面倒になるとつまらないオチで逃げて、しかも自分でそれをわかってやっている。作家たるもの、主題に真摯に向き合え! 逃げるな!
でもまあ、ダメではあってもそういう主題を扱うだけましかも。でももっと頑張ろうな。
感想
十分に深掘りされていない、浅いところで終わっている——そういう批判はあるだろう。でもすべての話があらゆる可能性を深く掘り下げなくてはならないという妙な思い込みはなんで?
一つ一つの話は浅くても、多方面から浅い掘り下げをすることで、いろんな問題がジャンルとしては集合的に深く掘り下げられます、ということもあるのではないか、とぼくなんかは思う。フリーソフト業界で言うように「目玉が多ければどんなバグも浅はか」ってね。
だから次のような生真面目なものいいも、まったく共感できない。
なぜなら我々の見解では――芸術の伝統に倣って――文学創作者は、自分の優れた知識を敢えて隠す道徳的権利などないからである——絶対に。作品には、自分の全知性をもって奉仕しなければならないのだ。知性の一部を創作過程から排除してはならない。(p.44)
いや、ぼくはそんなこと思いませんから。勝手に「我々は」とか言って思ってもいないこと言わせないでください。そもそも多くの作家サマは「優れた知識」なんかお持ちとはとても思えんわ。それがTwitterでますますあらわになってきている。ま、だからこそ出し惜しみしてる場合じゃねえぞとは言えるかもね。
そして泰平ヨンのシリーズは、彼はこうした深いロボットや人工知能についての考察を妥協なく追求したものだと思っているらしくて、どんな話でも「おれの『泰平ヨン』ではこのテーマを見事に追求してやったぜ」というのが出てくる。うーん、そうかねえ。
というわけで、言われていること自体は、まあ別にまちがってはいないと思うけれど、そこまでドグマチックになる必要もないと思うよ。確かにあなたの言うような可能性はある。もっと探究すべきテーマも残っている。うん。でもそれを追求してないからって、ダメだ三流だクズだということにはならないでしょう。が、なんだかんだで「でもそういう問題扱うのはえらい」と褒められているので、比較的ほめているほうの章ではある。
あと、レムの守備範囲が広いのもよくわかる。アローの不可能性定理とかちゃんと押さえているのはすごいねえ。
つづく
次の章は、宇宙SF。またこういう、整理されない思いつきの書き殴りが続くみたい。ベスター『虎よ、虎よ!』のすごく長い引用とかあるみたいだなあ。
追記
あと、表現的にイマイチぴんと来ない部分があるんだよね。
SF は、根が広く張り巡らされた樫の木から、輝く優雅 な家具を作る者のようだ。それをやるには、まずすべての枝を切り払い、その切断部分に 慎重にやすりをかけねばならない。文学は伝統的に別のやり方で進む。それは過度に広く 広がる主題、かけ離れた問題と神秘的に絡み合ったものを恐れたりはしない。むしろそう したすべての絡み合い、すべての複雑さを頑張って引き出そうとする。そのためにお手軽 な成功を犠牲にすることも厭わないのだ。(p.51)
この文学とSFの対比、どうもSFが枝や根を払ってやすりをかけるのが、何かよくないことの比喩としてあげられているみたいなんだが、なんでそれがいけないのかさっぱりわからん。次の文学の話から考えると、枝を払ってそこにやすりをかけるというのは、面倒な部分をばっさり捨ててしまい、しかもそこにヤスリをかけてごまかしまですることである、許せーん、ということらしいんだが、輝く優雅な家具を作るためなら、それが正しい方法じゃん。なぜいけないの? 文学ははりめぐらせた枝も有効利用するよ、と言いたいようだけど、それでは家具はできないと思うので、比喩として何の対比にもなってないと思うんだけどね。

