
はじめに
これはスタニスワフ・レム『SF: 絶望的な事例——例外あり』(1972) の全訳に、SF Commentary で受けた批判に対してレムが書いた反論、というか逆ギレの手紙を加えたものの全訳をお届けする。
原文は Science-fiction: Ein hoffnungsloser Fall mit Ausnahmen: Essays. Band 3 (suhrkamp taschenbuch 1439) Suhrkamp, 1987, pp.44-86 所収のものを使用。また英訳 “Science Fiction: A Hopeless Case --- With Exceptions” (SF Commentary 35-37合併号 1973, pp.7-36, Werner Koopmann英訳) も参照した。付録は単行本のドイツ語テキストに含まれていないので、英訳を元にした。また「おまけ:レム、批判にキレる」はSF Commentary 41-42合併号 1975, pp.90-92を使用。なお章題は訳者が読者の便宜をはかってつけたもの。原著は番号のみ。またレムの反論書簡ももちろんタイトルなどはなく、これも訳者がつけたもの。
1. 概要
長い論説だし、レムの書きぶりも無用に晦渋なので、なかなか読む気にならない人も多いだろう(そして途中でうんざりする人も多いだろう)。だが、実際に言っていることは実に単純きわまりない。以下に簡単に概要を。
前半は、英米SF界の罵倒だ。主流文学では著者は商業的圧力など気にせず書けるし、立派な批評が作品を選別してよい作品が評価され、きちんと残る。それに比べSFは商業主義にとらわれ、よい作家や作品を選別する批評がまったく機能していない。読者もバカばかりなのでクズがはびこる、という。
そして後半はいきなり、ディック論となる。タイトルの「例外」はディックだ。英米クズSFの中でディックはすばらしい。彼はクズから傑作をつくり出す。特に『ユービック』は存在論的な問いを見事に作品化している。だがディックはSF界でまともな評価や批評を受けていない。そしてすべてが傑作ではなく、『ユービック』はいいが『アンドロ羊』はダメなのに、その選別を批評が行わないから作家も成長しない。よってSFはダメなんだ、と論じる。
これだけ読むと、まあそういう見方もあるかもね、と思うだろう。SFは大衆小説でもあるし、そんなレベルの高いものばかりではない。読み捨ての娯楽作品も多いし、気張って評論するようなものにはなっていない。これはディッシュなどもよく言うことだ。もう少しレベルの高いところを目指すべきだと思う人もいて当然だ。そしてディックは確かにむらがあるけれどもおもしろい。だからそれをほめるレムの鑑識眼はなかなか高いね、と思ってしまう。
だがレムが主張している内容と論理展開を具体的に見てやると、実はこの文章の議論はかなり怪しい。そして批判に対するレムの反論では、そもそもの話の前提からひっくり返ってしまうのだ。
2. 前半:文芸パラダイスの純文学と下層の卑しい「日雇い」SF?
前半でレムは、SFはダメだという話をする。純文学の上層世界とSFの下層世界を対比させる。純文学の世界は作品が尊重され作家が自分のペースで書いて営業上のプレッシャーなど一切なく一作書くのに14年かかってもオッケーでという作家の極楽だ。そこでは一流文芸誌が立派な評論家によるフェアで客観的で高度な論説をのせて選別が行われることで、質の高いものだけが残るのだという。
SFがひどいというのは、その文芸パラダイスの純文学の世界に比べて、ということだ。下層のゲットーの奴隷根性まみれのSFは売れ行きだけに支配され、作品は編集者の気まぐれでぶった切られ、批評がなくて読者もバカでみんなSF大会とかでなれあってるから作品の選別がなく、ゴミクズまみれが永遠に続く。
が……
純文学って、そんなご立派な世界でしたっけ?
少しでも文芸出版の世界を知っている人なら、レムの描く純文学世界がデタラメなのはすぐわかる。そんな作家に都合のいい世界がどこにあるね。寝言は村上春樹になってから言え。純文学の世界だって売れ行きに追われ、作品は出版社都合でぶった切られるどころか、そもそも出してもらうだけでも一苦労。さらに批評なんて内輪の狭い世界だ。ボルヘスやダレルや石川淳なら、何年かかってどんな愚作を書こうと出してもらえるかもしれない。だが純文学業界全体としてみれば、そんなうまい話はない。もちろん、この論説が書かれた1970年代初頭は、日本でも文学全集全盛だし、たぶんずっと状況はよかっただろう。それでも、レムの描くほどのお花畑世界だったわけがない。
そしてこれが掲載された「SFコメンタリー」にも、同様の指摘でレムを嘲笑する読者の手紙が殺到した。SF業界にも多少は純文学業界と接点のある読者も作者もいるのだ。
ところがそれに対するレムの返事は信じられないものだった。要約すると「いや純文学もひどいのは知ってる。でもSFのダメさを示すためにそれを理想化したんだ」。つまりここに描かれた上層なんて単なる理想化された妄想で、実在しないのだ、と自分でも認めちゃったんですか。じゃあそもそもこの上層/下層という対比自体成り立たないじゃないの。だったらSFがダメだというこの論説の主張すべてが崩れ去るでしょう。いやそれでも純文学のほうがマシに見える、というけれど、もしそう言いたいなら、その現実に根差した比較をしないと、何の意味もないでしょう。
さらにレムは、「おまえらの言ってるのは例外だ、例外があっても全体評価は変わらない」と反論する。それも明らかにウソだ。そんなパラダイス状態を享受できる純文学作家こそ、ごく少数の例外だ。それを理想としてまつりあげるのは悪質きわまる。
そしてこの点が崩れると、この長ったらしい論説で残った議論は何もない。何一つ。そしてそれを指摘されると逆ギレして「おまえら、クズが好きなら勝手にしろ」と捨て台詞に終始するレムはひたすら見苦しいばかりだ。
ついでながら、そのレムが妄想したお花畑の「上層」純文学世界は、きわめて権威主義的な世界だ。「文化の頂点」と認知された少数の高踏的な評論家や文芸誌が、業界のご意見番として高い道徳性をもって品質の維持と選別を行い、下々の者は「重要な誰かが何か言うべきことを持っているということをあらかじめ認識していなければならない」(p.11 注4)。その人たちの信頼性はどうやって担保された/されるのか? 説明はまったくない。えらいからえらい。下々は、そいつらがえらいというのを盲目的に受け入れねばならない。その上層では、えらい作家様は偉大な作品を書くのに何年かかってもよくて、その間ずっと喰わせてもらえるらしい。その金はだれがどこから出すの?これ、ソ連とか共産圏のお抱え文芸作家協会とか芸術アカデミーの発想だよねえ。確かに、ユーリー・ノルシュテインは数年に一本アニメを作ればよかったとされる。うらやましい。でもそれ以外の連中は? これは『対話』に描かれた社会主義2.0の世界と同じだ。少数の上層エリートが計画をたてて、下々はそれを黙ってこなす。これは選別でも階級でもなく、「適材適所」なんだそうだ。文学の世界も上意下達であるべきだ、とレムは述べているわけだ。
ちなみにこの前半は、レムの長編SF論『SFと未来学』の「SFの社会学」の章を先鋭化させたものだ、と脚注にある(p.2 注2)。これも必ずしも正しくはない。同書には確かに該当する章はある。だがこの論はむしろ、それを穏健にしたとすら言える。『SFと未来学』の該当章の罵倒ぶりは前に説明した。それに比べると、この論説はまだおとなしいほうだとも言える。それでも、確かに主張としては同じだ。そしてSFファンやSF作家を下層民呼ばわりし、奴隷だの売春宿あがりだの日雇いだのと明らかに貶めようとしている点も同じ。屈折した愛情表現、にしてはあまりにひどい。愛の鞭ともとうてい言えない。具体的に改善に向けた提言があるわけでもない。単純に、おまえらはバカだ、鑑識眼のある権威 (明示はしないがレム自身はもちろん自分こそ鑑識眼のご意見番と思っている) にひれふして言うことをきけ、と高圧的に言うだけ。
レムが英米SFをクソミソに罵倒するのは、これに限ったことではない。だがレムの批判がまったくの虚構を基準にしているというのが、ファンジンのお便り欄ごときであらわにされてしまうと、レムのそうした批判すべての妥当性に、かなりのミソがつくのは当然だろう。
3.後半: 歪んだディック論
では、後半のディック論はどうだろうか?
こちらも、首を傾げる前提がある。ディックはSF界でまったく評価されていない、という主張だ。ナイトが評論でちょっと触れただけだ、とレムは言う。でも実際には、そもそも粗造濫造とはいえ長編を継続的に出版できること自体が、作家としての評価の高さを示すものでもある。それなりに売れるということなんだから。それがまさにレムの忌み嫌う商業主義ということだ。
さらにディックは1963年に『高い城の男』でヒューゴー賞を受賞している。ヒューゴー賞は読者の人気投票だが、ちゃんと高い評価を得ているのだ。さらに、SF作家協会、つまりは専門家によるネビュラ賞では、1965年に「ブラッドマネー博士」と「パーマー・エルドリッチ」、1968年には『アンドロ羊』、1974年には『流れよ我が涙』と、ほとんど常連だ。たぶん1972年にはみんなそのくらい知っていただろう。だからディックがSF界で評価されていないという主張にそもそもみんな首を傾げる。
ディックはゴミを使ってすごいものを作る、というのはその通り。ジュディス・メリルもそれを指摘する。また『ユービック』はすごい、存在論的な問題を見事に小説化している、というのもおっしゃる通り。この分析はなかなか鋭い。
だがそこで、レムは『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』をディスりはじめる。そしてこれが、まったくピントはずれ。まずレムはそもそも、なぜアンドロイドが狩られるのか、という設定が十分に理解できていない。その誤解に基づいて、レムは設定のくだらない不整合をあげつらう。アンドロイドの迫害はナチスによるユダヤ人狩りの隠喩か、などというトンチンカンきわまる考察。彼が問題にするのは、その設定部分だけなのだ。そしてその挙げ句、『アンドロ羊』は警官とアンドロイドの追いかけっこが中心主題だ、と言ってのける。
その追いかけっこの中で出てくる、人間とアンドロイド、何が本物で何がにせものか、人間を人間たらしめるのは何か、といった主題こそがあの小説の核心テーマで、アンドロイド狩りなんてのは、単にストーリーを進めるための設定だと思うんだが、レムはそれには一切触れない。
つまりレムは『アンドロ羊』がまったく読めていない。彼は小説の設定にしか目がいかない。「付録:SFとしての『ユービック』」でも、彼が『ユービック』を評価しているのは、その設定が冷凍睡眠やVR的な仕掛けで実現可能性があるからだ、ということがわかる。ここでも彼は設定しか見ていない。そしてその偏狭な見方とトンチンカンな解釈に基づいてレムは「『ユービック』が金貨であり『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』がインチキ硬貨だ」(p.27) と断言する。『アンドロ羊』は単なる愚作よりひどいのだ、とまで言う。そして批評家がそれを区別できない、きちんと仕分けしていないと言って罵倒するのだ。
むろん、レムがそういう読み方をしたいなら、それは勝手だ。でもこれを読んでしまうと、レムのディックに対する評価そのものが、ずいぶん怪しげなもので信用できないと訳者は思ってしまう。ましてそんなヘンテコな読み方に従わないからといって罵倒されたら、さすがにSF批評がかわいそうだ。
ちなみに、レムはF&SF誌を購読していた。そこにはジュディス・メリルの書評がずっと載っていて、レムのお気に召しそうな批評が出ているのだが、一切触れていないのはとても不思議ではある。
4. 設定にしか目がいかないレム
確かにSFはときに、設定だけの小説と呼ばれる。どんな小説でも背景の書き割りを変えるだけでSFになってしまうのだ、と。『嵐が丘』の舞台をガニメデに移したらSFになる。鴨長明が宇宙船にこもって『方丈記』を書けばSFになる。そういう安易な部分は確実にある。
ただし、そこで小説の出来として重要なのは、その背景となる設定が、前景となるドラマとうまく絡み合っているか、その設定がドラマで重要なシチュエーションを生み出すのに貢献しているか、ということだろう。別に、小説の設定だけに注目する読み方だってあっていいだろう。最近、SF未来予測みたいなインチキが流行っていて、それはそれでかまわない。が、それはその小説としての評価とはまた別の話だ。
だがそれを無視して、設定だけに注目し、さらにはその設定すら読み違えるとなると、小説の評価としてまともなものとは言えまい。なぜ『アンドロ羊』はダメなの? それはですね、重要なテーマを扱っているのに、それをレプリカントと警官の追跡ドラマの添え物にしてしまっているから——そう言われて目が点になるのは、訳者だけではあるまい。そういうストーリーを背景として様々なシチュエーションをつくり出すことで、人間とは何か、アンドロイドとのちがいはどこにあるのか、というテーマが様々な形で登場するのがあの作品じゃなかったっけ?
もちろん、ディック自身がどういうつもりで書いたのかはわからない。なんか警官のレプリカント追跡劇を書くぞ、と思っているうちに、いろいろ足していまの形になったのかもしれない。でも読者としては、あれがメインの話とは思っていない。映画しか見ていない人はさておき、小説を読んだ人は、レプリカントの非人間性、それに対して、インチキでもマーサー教を信じ、偽のヒキガエルでも大切にしようという人間の決意のラストを印象に残すんじゃないの? それがメインテーマではないの?
これは、アーシュラ・K・ル=グイン『闇の左手』に対するレムの難癖と同じだ。そちらでは、惑星<冬>/ゲセンが宇宙連合に加盟するか、というのが物語の中心であり、主人公たちの性を伴う関係性の深まりはその添え物にすぎない、というとんでもない解釈が提示されていた。レムはそれに基づき、最終的にゲセンが連合に加盟するからこれはハッピーエンドと論じ、それが幼稚な読者に迎合しているとル=グインを批判する。
いやあ、そんな異常な読み方をするのは、世界広しといえどレム一人じゃなかろうか。それに対して当のル=グインは、そんな単細胞でまぬけな読み方をする人とは思わなかった、とやんわり嫌味をお手紙で述べている。あの小説も、そうした「ハッピーエンド」後の主人公の虚脱、そんなものよりもエストラーベンとの性的なものも含めた関係のほうが重要だということが、かなりページを割いて描かれている。
だがレムは、そうした部分がまったく読めない。彼は、単なるマクガフィン——話を進めるためのあまり本質的でない設定や小道具——のほうにしか注意がいかない。
『ソラリス』の映画化に対するレムの罵倒でも同じだ。彼はタルコフスキーやソダバーグの映画を、口をきわめて罵る。それは彼らが『ソラリス』を人間ドラマにしてしまったからだ。でも……なんでそれが罵倒されなきゃいけないの?
小説では結局、ソラリスの海が何を考えていたのか、どういう存在なのかはさっぱりわからない。人間の各種研究もすべて無駄に終わり、ソラリスへの関心も次第に薄れる。でもそのジリ貧の中でもケルヴィンはステーションに残ることを決意する。その理由は明確ではない。レム自身は『ソラリスを』を「開かれた」と表現する(というか、ブリッシュによるそうした評を肯定する)。普通の人は、ソラリスの海も謎が解けるわけではないし、それに対するケルヴィンの行動理由もその行く末もはっきりしないんだよね、と思う。
ところがレムにとっては「開かれた」というのはそういう意味ではない。『ソラリス』は、ソラリスをめぐるいろんな理屈こそが主題であり、人間ドラマなんて添え物だ。「開かれている」のはソラリスの海をめぐる様々な解釈だけであり、ケルヴィンが最後に残る決意をするのは「ソラリスって不思議でもっと調べようぜ」と思ったからに決まっている。人間ドラマの可能性に注目するのは、レムにとって許せないトンチンカンな誤読なのだ。
さて一般的な読者にとって、『ソラリス』というのは、ソラリスの謎を背景に人間ドラマが展開する物語なのか、それとも人間ドラマを口実にしてソラリスの謎をきわだたせる小説なのか——常識的には、どっちもある。その両方が相乗効果を発揮することで、あの小説としての深みが生まれている。
だが、レムは後者の解釈しか認めない。つまりはそういうことだ。ここでもレムにとってSFで重要なのは、その設定だけなのだ。レムは、ロシア語訳で (つまりはそれをもとにしたかつての飯田訳でも) 晦渋なソラリス学のうんちく開陳が削除されたのが許しがたいそうだ。多くの人にとっては、それはあくまで背景説明の一部で、そんなに重要ではない。だがレムにとってはそれこそが『ソラリス』のキモだったわけだ。
また、この論説でも「SFとしての『ユービック』」という章でレムがやるのは、『ユービック』の設定が科学的に妥当性を持つか、という検討だけだ。
さて、ほとんどの人は『ユービック』が科学的に正確か、なんてことを心配したりはしない。するだけ無駄だからだ。ディックなんて基本は書き殴り、ご都合主義の成り行きまかせだ。つじつまなんて、最低限でしかあわせておらず、さらに面倒になると幻覚とかでごまかしてしまう。が……レムはそれをやる。彼にとってSFというのは、その設定の妥当性こそが核心だからだ。その最後で、別に科学的な細部は問題じゃないのだ、と逃げは打つけれど……それなら何ページも使ってそれを分析した意味もないでしょうに。
まとめ
するとこの「絶望的な事例」を読む意味は? 訳者は、レムの視点がいささか偏狭で歪んでいることは承知していたけれど、それでも何か英米SFについて、あるいは少なくともディックについてくらい、啓発的な視点が一つや二つは得られるだろうと期待はしていた……が、その予想はいささか裏切られた。だがその一方で、レムがSF罵倒で依拠している基準がいかに歪んだ虚構であるかが、ここまで明確に出るとも思わなかった。レムがここまでひどい純文学コンプレックスを抱いていて、ソ連式の権威主義的な文芸アカデミー方式盲信だということも初めて知った。ファンジンのお便り欄ですら、やはり議論を通じて見えてくるものがあるのだ。議論、大切。
そしてレムの小説の読み方や評価そのものが持つ偏りも、きわめてわかりやすく明確な形で出ているのも収穫といえよう。レムのディック論として邦訳もある『フィリップ・K・ディック——にせ者に囲まれた幻視者』は、ずいぶんと珍重されている。こちらは『ユービック』だけに注目しているので前向き (相対的には) だし、レムの晦渋な表現のおかげで何か立派なことが書かれているものとみんな思いこみ、ありがたがる。だが本論を読んだあとでそっちも読み直してみると、かなりその評価も変わってくるのではないか。その作業は、読者のみなさんにお任せしよう。
2026年9月17日
山形浩生 hiyori13@alum.mit.edu


