- 作者: 岩田規久男
- 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
- 発売日: 2001/12
- メディア: 単行本
- 購入: 4人 クリック: 131回
- この商品を含むブログ (22件) を見る
はじめに
今日(というのは2/16)、「岩田規久男先生の学恩をなんとか」というシンポジウムに呼ばれたので、ちょっと行ってきた。ぼくは岩田規久男に直接教わったことはないけれど、もちろん彼の研究業績にはたくさん世話になっているし、また来客リストを見ると日本リフレ派オールスターみたいな感じで野次馬根性が出たのもある。もちろんぼく以外の来場者はみんな、経済学の先生や経済政策の重鎮たちで(除く道端カレンだが彼女は別枠)、ぼくなんぞホントに末席を汚すという感じではあったんだけれど。
さて、シンポジウムは、岩田規久男のこれまでの業績をふりかえる、というもの。四人の人が、岩田規久男の活動した主要分野について概略を述べた。その分野とは
来ていた人の大半は、もちろん岩田規久男の業績なんか熟知しているはずなので、単なるおさらい程度だったんじゃないかと思うけれど、ぼくは知らないことも多かったのでそれなりにおもしろかった。特に聞いていておもしろかったのが、いくつか共通するようなテーマというかアプローチがあるように思えたこと。
都市の経済学:容積率移転
都市とか土地の経済学において岩田の大きな業績は、(我が家の活用している定借権につながる提案に加えて)開発権移転/容積率移転みたいな話なんだそうな。漠然としか知らなかった。保存したい建物や自然の土地がある。さて、そこを「保存するのが重要です、文化は大事、開発反対」と言ったところで役に立たない。ぶっつぶして開発すれば儲かる、という理屈には勝てないし、またそこの所有者の私権を無用に制限するのもよくない。でも、そういうところが開発されるのは、その上に床をつくる権利、つまり容積率が余っているからだ。では、それを売れるようにしよう。古典的な例は、ニューヨークのグランドセントラル駅。あの上空の開発権は、隣の建物に売られている。隣の建物は、その分自分の高層ビルをもっと高くできる。すると、駅の持ち主はそこをぶちこわして開発しなくてもお金が手に入る。すると、そこを壊す理由もなくなるわけだ。グランドセントラル駅は古典事例だけれど、最近ではあの東京駅もそれをやっている。都市や地域全体としての開発量は同じ。でも市場取引によりそれを有効に使えるようになる。
環境経済学:排出権取引
環境経済学については、排出権取引のような仕組みを1990年の時点で述べていた、ということ。これまた発想は同じだ。炭酸ガスを排出したければ、排出権を買う。それを売買できることで、省エネすれば排出権を買わずにすませたり、余った分を売りに出せるようになり、省エネのインセンティブができる。世界全体としての排出量は同じ。でも、市場取引によりそれが有効に使われるようになる。
というわけで、両者には一つ、市場取引によるリソースの有効活用、みたいなアプローチがある。経済学なんてすべてそうだといえばそれまでだ。でも、この二つにはもう一つ共通点がある。
排出権や容積率の総量を決める存在がどっかにある、ということだ。排出権ならどこぞの委員会、容積率なら都市計画局。この枠組みは人工的に決められてしまうのだ。そしてそれは、政策的にいろいろ変える余地がある。そしてこれが、いまの岩田規久男の大きなテーマであるマクロ経済政策/日銀問題とも大きく関連してくる。
マクロ経済学と排出権・容積率
日銀、つまり中央銀行というのは、そのお金の総量を左右する存在だ。そしてそれが、経済全体の活動を規定することになる。これは、排出権の話や容積率の話と同じなのだ。
排出権はある意味で経済活動にとってのお金みたいなものだ。GDPと炭酸ガス排出量はだいたい比例する。炭酸ガスをあまり出すなと言うことは、その国の経済成長を抑えるということになる。いまは省エネとか自然エネルギーに対する盲信や変な幻想があって、そういう関連があることを多くの人は認めない。でもこれは否定しがたい事実だ。すると……排出権取引を導入した場合、その総量をどうするかによって、世界経済の活動規模は完全に決まってしまうということだ。
すると、カーボンクレジットの総量というのはつまり、ある経済にとってのお金の供給(マネーサプライ)に相当するものとなる。もし世界の経済を押さえたいと思えば、カーボンクレジット総量(またはその成長率)を減らせばいい。
そして容積率移転。これも似たような構造が指摘できる。かなり流動的な容積率市場というものが成立した場合、容積率は都市全体の建築活動その他の総量を決めることになる。地価や物件価格が上がりすぎると、容積率緩和して供給を増やせという議論が当然出る。でも通常、これはかなり場当たり的だ。それをもっと系統的にやる手段もあるかもしれない。
排出権・容積率政策の高度化?
排出権だと、いろんな可能性がある。たぶん温暖化見通しが下方修正されたら、排出をもっとしてもかまわないことになる。すると排出権総量を上げるべきだろう。また途上国が将来の排出権を担保に借り入れ、なんてことも認めると、いろいろおもしろいことができるだろう。たとえば中国は、ここ数年は自分の枠よりかなり高い排出権を借り入れる。それを将来、省エネや低公害設備なんかで自分の本来の枠を下回るようにすることで、利子付きで返していく。そうすることで、短期的な排出権目標よりも長期的なスムージングを図れるようになるかもしれない。
容積率も同様だ。人口やインフラのレベル、経済活動や市況に基づく容積率の細かいコントロールが可能になるかもしれない。建築不況で不動産市場が低迷したら、容積率を引き下げてその回収(取り壊しに対してボーナスとか?)を提供する、なんていう仕組みもできるだろう。
この仕組みは、マクロ経済の仕組みとほとんど同じになる。そしてそれができたときに問題になるのは、その総量のコントロールを行う主体だ。
排出権・容積率政策のデフレ?
そして容積率も排出権も、どちらもいま、デフレ圧力にさらされているのだ(またはそうなる可能性が高い)。そしていずれについても「進歩的」を自称する知識人どもは、デフレ傾向を褒め称えようとする。
容積率に関しては拙訳グレイザー『都市は人類最高の発明である』にあった話が示唆的だ。いま、金持ちが都心部を独占するために、建築保存制度を悪用しているという。都市の多様性を保ち、コンパクトな居住を通じて環境を維持したければ、もっと建設活動を認め、高層化を図って物件価格引き下げを下げるべきだ。でも金持ちは、保存制度(つまり容積率の引き下げ!)を使って新規建設をじゃまする。その結果、持てる者たちの物件価格は上がるし、それにより貧乏人どもの流入が阻止される。そして知識人どもは、あれを保存しろ、これを保存しろと言うほうが進歩的だと思っている。
排出権もそうだ。排出権を作ろうという発想自体が、経済活動を抑えようという話でしかない。いまは市場がまわらなかったりとかで、排出権がかなりグズグズに容認されたりする。途上国も埒外だ。でも話が進んできて全世界をカバーする手段ができたら、排出権支持派がやりたがるのは排出量をどんどん下げ、つまり経済活動を抑えることだ。たぶん温暖化見通しが下げられても、排出量増加を容認したり、といったことはしないだろう。それにより途上国の成長機会が奪われても意に介さないだろう。そしてもちろん、知識人的には、温暖化はダメだから排出権を抑えろ、というほうがかっこいい。
この構造、いまの日銀デフレ理論とその取り巻きの構造とまったく同じでしょ? すでに既得権益や富を持っている連中が、ある活動の大きな枠組みを与えるようなものを出し惜しみして、弱者を弾圧し、そして知識人がその弱者弾圧に(反成長的な物言いで)お墨付きを与える、という仕掛けだ。だからぼくは今世紀半ばくらいで、こうした分野でもいまの日本のデフレと同じような問題が生じるんじゃないかと思うんだ。排出権についてのそうした懸念は、昔こんなエッセイに書いたことがある。
排出権・容積率のマクロ理論の可能性?
たぶんこうした問題を考えるに当たってのヒントは、お金をめぐるマクロ経済とマクロ経済政策や中央銀行運営にあるんじゃないかと思うのだ。だから岩田規久男は、いずれ金融がらみのマクロ経済を一通りやって、日本がいまの危機から脱したら、環境とか都市の経済学に戻ってもらえないかな、と思う。こうした分野でのデフレ経済を避けるにはどうすべきか? そんな問題に取り組んでもらえないかなーと思う。要するに、都市における容積率総量(M3くらいに相当するものになるかな)、あるいは世界全体における排出権総量、といったものを決める根拠みたいなのがあるはずだと思うんだ。それをどうするか、というようなことを追求してくれないものかなあ、とぼくは期待しているんだよ。
それはつまり、容積率や排出権に関するテイラールールみたいなものを作るということだと思う。それができたらすごいよ。
もちろん岩田規久男でなくても、だれか他の人がやってくれてもまったく構わないんだが……
山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.