ラヴジョイは「冷笑系」:非ビリーバーの優位性

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』を勝手に翻訳している話をした。

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で、引き続きやっていて、第2講もいまのところ、なかなかおもしろい。まだ前半だけだけれど、言われていることはやはり単純だ。

 

  • 頻出する観念として「異世界性」と「この世性」みたいなのがある。
  • 異世界性は、来世の天国で処女が17人!とか、この世が気に食わんから異世界転生するなろう小説みたいなもの欲しげな話とはちがう。そういう異世界転生って、この世の価値観のまま自分の都合のいい世界になるってことで、「この世性」の権化。
  • 本当の異世界性というのは、この現実は現実ではなく、永遠不変の絶対的な善の世界があるのよ〜みたいな話。
  • この手の論者はみんなインチキ。なんだけれど、西洋思想では圧倒的にこの異世界性が大きな影響を持つ。宗教なんてみんな神さまだのといったありもしないものを押しつけるという理屈で、この異世界性のゴリゴリの影響下にある。 そしてインチキであってもそれが哲学や宗教のありかたに大きな影響を与えたことで、社会的価値観も変わってしまったのよ。

  • さてそんな発想の根源はプラトンなんだが (ここでプラトン著作は本当にプラトンの哲学かという問題にえらく深入りする)

 

それで非常に興味深いのは、ラヴジョイが(それを研究しているのも関わらず) ここに挙げられている「観念」にまるで心酔なんかしておらず、むしろ徹底的にバカにしていること。特にこの「異世界性」論者のいろんな議論をあれやこれや羅列してみせて、おまえらの手口なんかすべてわかってるんだよ、と示して見せる。

「現実性」や価値の否定を生み出しかねない、いくつかのちがう特徴やカテゴリーがあります。現実は、はかなく永遠に不完全だというだけで形而上学的に糾弾されるものなのかもしれません。あるいはその構成要素すべてが一見すると相対的に思えたり、そのそれぞれについて思考が折り合いをつけられるような、自足したわかりやすさがないせいもあるでしょう。あるいは現実なんてつまらない存在の単なるごった煮にしか思えず、そのすべてが断片的で不完全で、明確かつ必然的な存在理由を持たないから、ということもあります。あるいは現実に対する我々の把握が、感覚という欺きに満ちた器官を通じてのものでしかなく、その感覚自体どころかそれに基づきそれが提示する条件に基づいて定義できる推論による構築物ですら、主観性の疑惑からは逃れられないという話もありますね。さらにその単なる複数性、思索的な理性を覆う一体性への満たされぬ渇望への反抗が許せなかったりします。あるいは——一部の推論下手な精神の場合は——現実感覚を喪失するような、間歇的な体験があるから、というだけのこともあります (中略) このためそうした精神にとっては、真の存在、魂が安住できる世界は、何やらとにかく「卑近なすべて」以外のものでなくてはならないという確信が圧倒的に思えてしまうのです。

(中略)

また価値の面では、「この」世界は、異世界派の道徳家や宗教教師たちのページを満たす、お馴染みの不満のどれか一つ、いやすべてに基づけば、邪悪または無価値として一蹴できます。世界プロセスは、それを全体として把握しようとすると、想像力に対して一貫性のない面倒なドラマを提示するだけで、喧噪には満ちていても何も意味しないせいもあるでしょう——同じエピソードの無意味な反復だったり、始まりのない果てしない変化の物語だったり、延々と果てしなく続いているくせにそれに見合う仕上がりに達しておらず、理解可能な目標にまるで向かわなかったりするせいもあります。あるいは時間の中で登場して時間の中にある目標にこだわる欲望はすべて、経験的に果てしない不満の刷新を生み出すだけで、ふりかえって見ればそれが埋没しているプロセスの呆れたはかなさを必然的に共有していることがわかったから、というのもあります。あるいは少なからぬ人々——それも自分では真の神秘主義的恍惚を得る能力のない人々さえいます——の間には、事物の相互的な外部性や、自分自身の存在が持つ閉塞した分離性に反発する感情的な反逆があり、自意識の重荷から逃れたいという渇望があり「自分が自分だということを忘れたい」気持ちがあり、あらゆる分断の感覚とあらゆる他者性の意識が超越されるような一体性の中で己を失いたいという願いがあるのです。

でもその上でラヴジョイは、それが全部ウソで、言ってる連中自身だってこんなことを信じているはずはないと断言する。

ほとんどの人が、こんな考えを受け入れると口ではいくら言ってみても、そしてその主張者の理由づけやレトリックに、ほんわかした感動的な種類の形而上学的な情感 (これは部分的には説明できないものの情感でもあります) すら感じてしまったとしても、それを本気で完全に信じたことなどないというのは、何よりも明らかです。というのもそういう人たちですら、感覚が明らかにするものに対して、本物で圧倒的できわめて重要な種類の現実性を否定することは決してできず、実は異世界性が差し伸べる目的を本当に自分自身のために望んだことなどはないのは明らかなのです。

でも、その影響は大きく、宗教なんてほとんどが、この手の「異世界性」を持ち出して、ありもしないものを信じさせようとする活動だったのだという。

偉大な哲学者や神学者が、非実在物の崇拝を教えることにこだわっていたという奇妙な真実 (中略) 人間がそもそも考えられる具体的なモノを特徴づける、個別の欠陥や制約——その相対性、内的論理性の矛盾、思考や欲望にとっての最終性欠如——から逃れていると強調することで、彼らは非実在物をもっと「リアル」でもっと情緒的に満足できるものに思わせてきたわけではあります。

彼はここで、神さまなんてのがありもしないもので、宗教その他は、それをこの「異世界性」使って押しつけようとする活動なんだよ、とまで断言してくれているわけだ。彼は、その検討対象である西洋思想の大きな一部である宗教——キリスト教含む——そのものを、眉ツバもののガマの油売りだと嘲笑してしまっている。

だがそれでも彼は、それを研究してきたし、それについてこんな400ページ近くある講義までしてしまう。

 

ぼくはしばしば書評なんかで、その対象となる本や論説を茶化し、バカにしてみせることが多い。すると「冷笑系」とか「嫌味」とか「皮肉っぽい」はては「不真面目」とか言われる。そこには、それが何か意地の悪い不当な読み方をしているという含意があり、その対象に真剣に取り組んでおらず、したがってそこでの論評はなにやらまちがっているというほのめかしがある。

その一方で、世の中の特に哲学っぽい本に顕著だけれど、ある哲学や哲学者の研究者というのは、その心酔者であることが多い。やたらに心酔し、教祖様の言うことを何から何まで真に受けて非常に生真面目にコチャコチャ調べ、「ここに深い真理があるのです!」とやってみせて、その一見すると矛盾や明らかなおかしいところまで、変な論理のアクロバットをしてこじつけてみせると、「渾身の力作」とか言われて評価される例もときどき見かける。ビリーバー本が評価されるわけだ。

でも、生真面目にやっている信者著作こそ、まさにそのためにダメになっている場合が多々ある。真面目ならいいわけじゃない。むしろ、遊び半分に不真面目に取り組むことこそがその本質に到達できることも多い。それはクルーグマンが (いまのような生真面目になる前には) しつこく言っていたことだ。むしろ茶化せる、バカにできるというのは、ある意味でその議論のエッセンスを把握できているということでもある場合が多い、とぼくは思う。そして、それが本当の興味につながっている場合も多い。

この講演の中で、上に引用したラヴジョイによる、異世界派の浅はかな議論の各種変種を羅列した部分。この長さ。彼はそれをバカにしていたけれど、でもそのバカにすべきくだらなさをおもしろいと思っていたからこそ、その手口をこうやって延々と解説できた。実際の演台で彼がどんな顔でこれを語っていたか想像してみよう。「あいつら、こーんなバカなこと言ってんの!」と嬉々とした顔だったはずだし、また聞く側の半分くらいは「あるある!」とニヤニヤしながらうなずいていたはず (一方で「冷笑系」「ふまじめ」「対象への敬意がない」とかいって、陰口たたいていた人もいただろうけど)

その意味で、ぼくはこのラヴジョイに対する評価が、いまかなり上がりつつある。高山宏による議論などを読むと、ラヴジョイや観念史一派は、その彼らの「観念」なるものにある種の物神崇拝みたいなものを抱いていたような印象まで受けることがある。イェイツとか読むと、その「観念」というのが、裏の隠された真理のような扱いを受けていて、つまりは観念史一派が、秘教的、オカルト的な一派だったような印象がある (そして、一部の人はまちがいなくそうだったと思う) でもここでのラヴジョイは明らかにちがう。

というわけで、先に進むか迷っていたけれど、もう少し先までやってみようかな、などと思うわけではある。

ところでいまふと名前がでたクルーグマンだけど……という話はまたこんどね。