ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第4講:充満の原理と新しい宇宙観

はいはい、やめようかなと思っていたラヴジョイですが、第2講で舞台設定ができて、第11講でいきなり結論になってしまうのは、ちょっとつまらない。その途中でどんな具合で論が進むかをみるために、多少は土地勘のある (他の部分よりは:スピノザやライプニッツは、そんなに読んでないよー) 宇宙論のところをやってみました……がその前に少しおさらいから。

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前置き:「異世界性」と「この世性」のおさらい

第2講では、本書で扱う主な観念の源である、「異世界性」と「この世性」というのが示された。これはどっちも、神さまの位置づけの話。

異世界性ってのは、神さまの世界はぼくたちなんかの及びもつかないまったくの別世界だ、という話だった。神さまはスーパーえらいし、人間なんかの想像力なんかとても及ばないパワーもあるし能力もあるし神さまですから、もちろん善の親玉。その世界は隔絶し、完璧で完全無欠。ぼくたちなんか、それに触れるはおろか、見るだけでも目がとけ頭が破裂する。

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人間なんてのは、まあ洞窟でせいぜいその影を見るくらいで満足してなさいってことで。

でも、じゃあなんでそんな完全無欠な神さまが作った世界に悪があり、死があるの? つーか完全無欠なら、わざわざぼくたちみたいな卑しいダメな人間/世界作らなくていいじゃん。神さま何考えてんの?

そこで出てきたのが、この世性。神さまは、この世のいろんなもののトップなんだよ。神さまからパワーや光や叡智や善がジュワーッと湧いてきて、それがすべてを作ったんだよ。神さまは無限大すぎて、必然的にそうなってしまうんだよ。ぼくたち必然なんだよ!

さて、なんかわかったような気になるが、よく考えるとこれは、なんで悪があるのか、なぜ世の人はワタクシのような聖人君子ばかりではないのか、といった質問にまったく答えてくれない。そんなこんなもあって、「この世性」は中世にはイマイチポピュラーではなく、弾圧されていた。

第4講:充満の原理と新しい宇宙観——地動説の受容と「この世性」の復活

で、第4講。これは、コペルニクスの地動説により宇宙観が変わり、そしてそれをきっかけとして「この世性」が復活をとげる、というお話になる。

翻訳はこれだ。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第4講:充満の原理と新しい宇宙観——地動説の受容と「この世性」の復活

そして例によって、読まない人のためのパワポまとめも作りました。

さて、ぼくはこの章を読んで、なるほどと思った部分と、納得しない部分がある。

ラヴジョイ的には、この講義の論調だと、おめーら科学とかいい気になるな、という雰囲気がプンプン漂っている。まず、コペルニクスもケプラーも、科学の元祖みたいに言われるが、すげー変な宇宙論信じてたじゃないの。それに昔の人だって、運動の相対性くらいわかってたし。そしてその後の連中も、別に実証で納得したわけじゃないぜ。えらい哲学者だって、地動説を受容してったのは、それにくっついてきた充満の原理との整合性で、世界は無限だぜ、ウチュージンがいるはずだぜ、というような話を通じて地動説を受け入れていったんだぜ、というのが主旨となる。

それはおもしろい。でも……実際に各人の文章を見ると、その「充満の原理」使い方だって人によってちがうし、なんか充満の原理や世界の複数性やウチュージンがすべてでした、みたいな感じではないんだよね。地動説が広まる中で、「充満の原理」に基づいた各種議論が使われたのは本当。それはおもしろい。でも、じゃあ科学的な論証とかは何の意味もなかったのかというと、そうでもない。わかんないところは、まあそういう考え方しても文句はいいませんよ、というきわめて理性的な考え方も多く、さらにこの話がただの方便になってる人もいる。

だから充満の原理が重要だった、充満の原理こそすべてを律していたすごい思考の枠組みなんだ、と言う気はせず、そしてそれがないとなると、この章はある種のトリビアにとどまる。はっはっは、宇宙人の有無が重要だっとはおもしろいですなー、きみたちもSF読みましょう、というくらい。そして観念史というのも、ある程度まで進むと、おもしろいけれど一歩ひいてみれば、なんか決定的なものではないよな、という感じになってしまうのだ。その変遷をたどるのが観念史の醍醐味、なのかもしれないけど、少なくともこの第4講ではそういう意識は薄い。

本書は最後に、この存在の大いなる連鎖という発想が破綻したのは、異世界性とこの世性の矛盾が維持できなくなったからだ、という結論にもっていく。

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でも、この第4講見ると、その観念自体の重要性も変わりつつあり、この時代にすでに、一部の人はそんなものはお愛想のネタ程度に考えるようになっていたような感じ。すると、表の世界の裏で戦われていた壮絶な観念の戦いガー、みたいな理解はどうよ、というのはどうしても思ってしまう。そこらへん、この観念史という枠組み自体の限界というのは、考える必要もあるように思うんだけどね。