またラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』の続きです。第3講。第2講で異世界性とこの世性/存在の連鎖の発端を説明し、4講でそれが天文学でいろいろ応用されたので、その二つの間の中世の話で、何かその天文学の前段にあたるひねりがあるかも、というのが期待だった。
が、残念ながらそんなおもしろい章ではなかった。第2章で説明された、人間には及びもつかない自足した完全な神様という話(異世界性) が中世神学の基本教義だったんだけれど、じゃあなぜこの世はこんなダメなの、もっといい世界を神様は作れなかったの、神様無能やーいやーい、という批判に対して、「そんなことないやい、この世は最高の完璧なんだい!」という話をこじつけるには、充満の原理を持ち出さざるを得なくなり、トマス・アクィナスなどえらい人も右往左往して屁理屈こねてた、という話。
訳文は以下にあります。
例によって、パワポも作っておきました。中身は薄いんだけれど、これはこの章がつまらないせい。えらい神学者たちの屁理屈と言い逃れを見たりするのは、楽しいとはいえ、毎回話は同じなんで飽きる。ラヴジョイもネタがなくなったようで、途中からはずっと後世の詩人や神学者の発言の話ばかりしている。
そこにも書いたけれど、最後にさりげなく出てくる、なぜ中世キリスト教神学はこんな露骨な矛盾を放置したのか、というのはおもしろい問題ではある。ある意味でそれこそが、科学の発展などの後押しにもなったわけで、それを怪我の功名とすることもできるし、もっと強い主張をすればヴェーバー『プロ倫』みたいな話もできるんじゃないか。「現代科学と充満の原理」みたいな。
ただ、最終講の話でも書いたけれど、ラヴジョイはそこらへん、非常に禁欲的。充満の原理自体は破綻したもので、それが科学の後押しになったのは、あくまで副作用にすぎない、というのを強く述べている。
そこらへんは、なんでもうわっつらの類似やつながりを見て喜んでる人たち (ぼくもそうだが、でももっと慎重であるべき学者どもの中にもこの手の連中はいろいろいる) が反省すべきところではある。