ガーナにでかけようとして成田空港でウェブにつないでみると、前回書いた物について池田信夫くんからご批判をいただいていた。ぼくの経済学は我流で付け焼き刃だから、ありゃまた失敗したかな、と冷や汗かきながら読んでみたんだが……困ったなあ、とぼくは機中でポリポリ頭をかいているのだ。だって、どこに文句があるのかよくわからないんだもの。
というのも、結局池田くんはぼくと同じことを言い換えているだけだからだ。物事にはいろんな要因があるので、その説明の順番はちがっているけれど、結局は同じことでしかないんだ。そして、池田くんの説明は、ぼくから見るとちょっとへたくそだ。というのも、明らかな循環論法に陥っちゃっているからだ。
同じことの言い換え
まず、ぼくと池田くんが同じことを言っている、というのを示そう。池田くんはこう書いている。
コーヒーの価格は他の財・サービス(たとえばパン)との相対価格で決まるから、たとえ日中でコーヒーとパンの相対価格が同じでも、日本の所得水準が高いぶんだけ、絶対価格は中国よりも高くなる。
いやまさにおっしゃるとおり。ほらね。まさに山形の書いた説明そのまんまだ。賃金(労働の価格)はその社会(たとえば日本)の中のほかの財やサービスとの相対価格で決まる。そして、その絶対水準は日本の所得水準できまる。ぼくの書いたものを読み直してごらん。「所得水準」というのを「平均的な生産性」というのに置き換えればまったく同じでしょう。(これが置き換え可能だという点はもうチト下にある)。
ただし……これでは十分な説明にならないんだよ。少なくとも素人さんには。上の説明だと、ちゃんと物の読める人なら必ず循環論法に気がつく。賃金が高いのは、日本の財やサービスの価格が高いからだ(これは当然、労働の価格である賃金も入るのでこの時点ですでに循環だ)けれど、財やサービスの絶対水準が高いのは、日本の所得水準が高いから――でも所得水準って賃金のことでしょ。結局これでは何の説明にもなってない。堂々巡りになっちゃってるでしょう。
堂々巡りの循環論法
もう一段前のところまで含めると、循環ぶりはもっとはっきりする。
日本では、ウェイトレスを 1 人雇うことによって増える売り上げは 800 円だが、中国では 80 円しか増えないかもしれない。この場合には、時給も限界生産性に均等化されるので、80 円になる。では、なぜ1杯のコーヒーが日本では 400 円なのに、中国では 40 円なのだろうか? それはサービス業では国際競争が不完全だからである(ここでは簡単のためにサービスの価格だけを考え、豆の価格は無視する)。コーヒーの価格は他の財・サービス(たとえばパン)との相対価格で決まるから、たとえ日中でコーヒーとパンの相対価格が同じでも、日本の所得水準が高いぶんだけ、絶対価格は中国よりも高くなる。
えーと、つまり日本の喫茶店員が(たぶん時給で)800 円の給料をもらえるのは、日本のコーヒーの値段が一杯 400 円という中国に比べればとっても高い水準にあるからだ、と。で、なぜ日本のコーヒーの値段がそのくらいかというと、日本の所得水準のおかげで喫茶店員の給料が時給 800 円相当くらいだからだ、というわけですか。池田くん、きみは何を説明しようとしているわけ?
結局これをきちんと理解してもらうには、日本の所得水準がなぜ高いのかをちゃんと説明しないとダメだ。サービス業は貿易できないから、というのはその通り。労働サービスを輸出入できるようになれば国際的に賃金も横並びになる――これも……まあそういうことにしておこう。池田くんはこれでこと足れりとしている。確かに、これだとなぜ差があるのか、ということは説明できるだろう。でもこれでは不足だ。差があるだけなら、中国のほうが高くなったっていいはずでしょう。ついでに、サービス業以外は? 貿易がどんどんできる産業では、賃金はすべて同じになってるかな? なってないよ(下の注を見てね)。
現状では、サービス労働が貿易できない――または貿易しにくいことは否定できない。でも、その条件を前提にしたら、なぜ日本の所得水準は中国より高いの? そもそも知りたかったのはそういうことだ。それにちゃんと答えないとダメでしょう。
そしてそれを説明しようとしたら、ぼくのやった説明が絶対必要になる。ぼくはそれが、その職業の個別生産性とは関係ないんだよ、ということを述べたわけだ。これ自体には異論はないと思う。じゃあ何で決まるのか? 繰り返すけど、国全体の所得水準は、国全体の平均的な生産性で決まってくるんだ。それが池田くんの言うとおり絶対価格の水準を決めて、その中で各種の労働や財の市場における相対的な需給バランスに基づいて相対価格が決まる――まさにぼくの説明通り。池田くんの説明は、専門用語は使っているけれど、でも実は中身はまったく同じだ。
そしてこれは経済学者にはちゃんと理解できると思うよ。だってぼくは、えらい経済学者の議論を焼き直して薄めて展開しているだけなんだもん。アメリカの職が、低賃金なのに西側並の高生産性を持つ中国アジアの労働で脅かされるという議論に対して、クルーグマンやソローは確かうんざりしたように繰り返していた。うろ覚えだけど;
If you achieve western productivity, you will get western wages.
西側並の生産性を実現したら、西側並みの賃金になっちゃいますから心配するな、というのがかれらの議論だった。つまり生産性の水準があがればその分賃金は上がる。ぼくはこれをくどくどと長ったらしく説明しているだけだ。これはホントに経済学の常識的な話だと思うよ。『クルーグマン教授の経済入門』の最初の章を読んでよ。
ミクロとマクロ:限界か平均か
なんですって? 「日本全国のすべての部門の労働生産性の平均ということらしいが、そんなもので賃金が決まるメカニズムは存在しない」ですって? じゃあ池田くんの言う「所得水準」はどうよ? 所得水準が絶対価格を決めるメカニズムはあるんだよねえ? それと同じメカニズムじゃダメかしら?
国は国民経済統計を集計して、総生産を発表していますわな。労働者人口もそこそこの精度で発表しています。総生産を労働者の数で割ったら、日本社会全体でならした平均生産性は計算できるじゃありませんか。一人頭の GDP ってやつですわな。そしてもちろん、国民総生産は国民総所得でもある、なんてことは言うまでもありませんよねえ。
つまりまさに平均的な生産性が平均的な所得を決めてるんじゃありませんか。そしてそれは池田説でも賃金の絶対水準を決めるんでしょ。どこに問題があるのかなあ。
池田くんは、個別の労働者が仕事を選ぶときにそんなものをいちいち参照したりしない、と言いたいのかもしれない。かわりに池田くんは、限界的な生産性で賃金が決まるんだとおっしゃる。はい、ミクロにはだいたいそうです(これも池田くん式にケチをつけようと思えばつけられるけど、やめとく*1
)。でも社会全体の賃金水準とか所得水準の話をするんなら、各人の限界生産性を足しあわせて平均することになりますな。はやい話が、日本経済に一人しかいなかったら、その人の限界生産性=平均生産性=稼ぎ=消費で、何のちがいもないでしょう。ミクロな話と、それをマクロに展開した話をごっちゃにしないでほしいなあ。
そしてそれで賃金が決まるメカニズム、少なくともそれが賃金に反映されるメカニズムは確実に存在する。それは「相場感」ってやつだ。日本の高校生が、時給800 円でカフェの女給の仕事に応募するときに、その子は相対価格と絶対価格のごたまぜとして、だいたいこんなもんかなあ、という感覚で応募している。なぜ彼女はそんな感覚を持っているか? それは経済の中でいろんな物を売ったり買ったりする中で、自分の労働のお値段を漠然とながら理解しているからだ。「中国では時給 80 円だから」と言っても、だまされる高校生はいない。平均的な生産性=平均的な所得水準が、彼女の相場感を通じ、その行動に影響して賃金水準を(ある程度)決める。これを立派なメカニズムと言わずして何と言いましょうか。一方、彼女は自分の仕事の限界生産性をちゃんと検討するかな? たぶんしないよ。ま、この話は本題からずれるのでこのくらいで。
まとめ
というわけで、両者の議論が実はまったく同じなんだ、というのはわかってもらえただろうか。反応を見ていると、一部の人は「どこがちがうかわからない」と書いている。あなたたちは正しい。あなたたちはちゃんと理解できている。えらい。はてなブックマークにも知性のきらめきはあるみたい。この点は前言撤回。ごめんなさいね。
一部の人は、山形の説明より池田くんの説明のほうがよくわかったらしい。うーん、その人たちが上の循環部分をどういうふうに理解したのかは興味あるところだけれど、まあそういうこともあるだろう。人によってどんな説明がわかりやすいかはちがうんだから。それでも、きちんと理解してくれたんなら、これに勝る喜びはない。
でも一部の人は、なんか山形がまちがってて池田くんが正しいのか、というような反応をしている。さすが本物の経済学者、エンジニアあがりのコンサルだのブンヤあがりだのテレビ屋くずれとはちがいますなあ、というわけだ。かわいそうに。あなたたち、まるっきりわかってないから気をつけてね。もちろん当の池田くんが、ちがうだの誤解だとか言っちゃってるので、いたいけな読者が誤解するのも仕方ないかな、とは思うけど。
もちろん、ぼくが何か見落としをしている可能性はある。でも、それならそれをきちんと指摘してほしいとは思う。ぼくは粗忽者ではあるけれど、頭が悪いわけじゃないんだよ。ぼくにわかるように説明できないのは、よっぽど説明がへたくそか、あるいはそもそもの批判がまちがっているかのどっちかだ。ぼくは今回の場合、残念ながら後者だと思うのだけれどいかが?
ぼくはここで池田くんの経済学理解があやしいと言いたいわけじゃない。かれだって、よく考えればぼくの言いたいことは十分に理解できるはずなんだ。ただ池田くんは経済学がどうこういう以前に、そもそも山形が嫌いだというだけなんじゃないかな、と思う(まあアレとかコレとかいろいろありましたからねえ)。だから何やら脊髄反射的に、山形が書いているというだけであら探しから入ってしまうんじゃないかな。これは邪推かもしれないけれど。
ぼくもそういうことをする場合はないわけじゃないんだけれど、ただ往々にして罵倒批判文を書いているうちに、まったくその罵倒対象と同じ結論にたどりついてしまって困ることがあるんだよ。そうなったときにはちゃんと気がつけたほうがいいし、気がついたら刀をおさめたほうがいいかもしれないよ。そして山形憎しの舌鋒を繰り出さんがために、一知半解なブロガーたちを誤解させて道連れにするような変な書き方はやめてくれないかな。重要なのは、正しい理解を広めることなんだけれど、このやり方はその一番重要な目的をだめにしてしまうものなんだから。とはいえ、池田くんにとってのプライオリティはまたちがうのかもしれないけれど。
こう書いて、池田くんがはっと悟って改心してくれるなんてことがあり得ないのは十分承知のうえではあるんだけれど。それどころか、もっと意固地になって、あれこれ揚げ足をとってくる可能性だってある。まあそこはそれ、炎上とナントカはブログの華とも申しますし、それはそれで効用があることではないかと思いますよ。でも、できれば生産的な形でそれが展開してくれればなあ、とは思う。山形の議論だと説明できないけれど、池田式の理解をしたら説明できるようになる現象を具体的に指摘したうえで、その差がどこから生じるか説明してくれれば、ワタクシにも野次馬ブロガーたちにも勉強になって、正しい知識が広まるのですけれど。
それと池田くんは認めたくないかもしれないけれど、ぼくたちは結構似たところはあるんだよ。たとえばdankogaiくんについての見解。最初は生産的に利用できる誤解をいろいろしてくれていたけれど、いまや論外だというのは池田くんの言うとおりだ。そうやって意見の一致を見ることもあるではございませんか。
……と書いているうちに飛行機ははやくも乗り継ぎ地のアムステルダム。アムスといえばウヒヒヒ――という話はやめておこうね。ではみんないい子にしているように。
山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.
*1:が、ちょっと書いておくと、貿易と限界生産性だけだと議論はまったく不十分でもある。貿易できるものについて考えてみよう。二輪車は貿易できるから国際的な価格差はあんまりなくて、工場は日本でもカンボジアでも自動化されている。だから一人雇うときの限界生産性は日本でもカンボジアでも大差ない(理想化した議論だよ。実際には工場の様子はちょっとちがうからね)。池田理論によれば、限界生産性で賃金は決まるから、日本のスズキの工員とカンボジアのスズキの工員は同じ給料になるはずだ。が、実際にはそんなことはない。この話も追求するとやっかいだから深追いはしないけれど、でもカンボジアのスズキの工員給料が日本のスズキの工員より圧倒的に低いのは、それがカンボジア全体の平均的な生産性にかなり左右されるからなんだよ。