ニコローゾ「建築家ムッソリーニ」

建築家ムッソリーニ―独裁者が夢見たファシズムの都市

建築家ムッソリーニ―独裁者が夢見たファシズムの都市

ファシズム建築は、独裁者のメガロマニアックな建築として、スターリン建築や将軍様建築みたいなものと共に、でかいだけの俗悪で個人を無視したシンボリックな目立つ醜い建築だと言われることが多いんだけれど、シュペアーのベルリン計画なんかもそうだったように、ファシズム建築は実はそんなに悪くない。テラーニなんか、評価されるのはよくわかる。

著者はあんまり教条的にファシズム建築を見ないで、ちゃんとそれ自体として見る一方で、そこにムッソリーニが自分でもかなり深く首をつっこんであれこれ様式に口だししたりコンペの審査をやったりしていることも示し、それとファシズム思想(およびそのプロパガンダ)との結びつきも見る。デ・フェリーチェの伝記についてもかなり肯定的で(デ・フェリーチェは、ファシズムを少し肯定的に見る歴史修正主義の筆頭みたいな学者で、ものすごく長いムッソリーニ伝を書いている)。一方的なイデオロギーの見地だけでものを言っているわけではないのがわかる。

またディテールも豊富。ムッソリーニがどこの竣工式に出たとか、あるいはル=コルビュジェがエチオピアの首都計画をやらせてもらおうとでかけていったのに、肘鉄をくらわせたとか。ムッソリーニはル=コルビュジェの何たるかをちゃんと知っていたそうな。とはいえ、良いものと悪いものを見分けるほどの目はなくて、モダニズムは嫌いとかそんなレベル(でもモダニズム展に自腹で出資したりもしたそうな)。でも、一部では自らスケッチを描いたりして、ずいぶん入れ込んでいたんだって。

訳者は結構、反ファシズム的な立場で解説を書いている。でも著者は、ムッソリーニのおまぬけな部分も書きつつ、少なくとも建築分野においてムッソリーニがそこそこの見識と熱意をもって取り組んでいたことを描く。それがもちろん政治的演出と結びつくことはわかっているし、またムッソリーニがそういう応用を考えて、最後にだんだん古典派的な表現に頼るようになったのも指摘の通り。でも一方で、建築がファシズムのある理念を非常によく表現していたが故にムッソリーニがあれほど入れ込んだのだ、というのも事実。そのあたりの柔軟さを、修正主義の手先と考えるか、それとも思想の自由さ加減とみるかは読者次第だけれど、ぼくは後者のほうを強く感じた。

最後の部分で、著者はファシズムが建築を利用したことを指摘し、そうしたファシスト建築が未だに残っていることについてちょっと批判的なことを言う。この書評は、その皮肉を重視しているけれど、でもぼくは建築から善を引き出して共同体意識を高めようなんていう著者の主張そのものが、まさにムッソリーニのやろうとしていたことと同じだと思うし、そういう立場からではムッソリーニの建築利用を批判なんかできないと思う。著者の意図した皮肉は、はからずも著者自身に向いているんじゃないかな。でもそれもまた考えさせられておもしろい部分。



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