『ギャルと不思議ちゃん』の続き

ギャルと不思議ちゃん論―女の子たちの三十年戦争

ギャルと不思議ちゃん論―女の子たちの三十年戦争

先日、松谷『ギャルと不思議ちゃん』について、批判的な書評を書いたところ、はてブでこんなコメントがついた。

結論やメッセージがあったらどうだって言うんだ?地図や年表には意図があるのか? ある一定ジャンルの期間をそれなりに客観的に俯瞰して眺められる体験は、それなりに有益だと思うが?関係を示唆するのも十分に主張

さて……この人はぼくと意見がちがうつもりで、おそらくはあまり変わらない。ぼくは上のコメントで「それなりに」が繰り返されているのがおもしろいと思う。「それなりに」有益だとは思う一方で、この人はやっぱり、それなりの有益さでしかないと思っている。これはぼくが昨日の書評で述べている、「労作」「それはそれでおもしろい」に相当する部分だ。うん、ぼくもその意味では、「それなりに」おもしろいし、この分野に何らかの理由でもともと関心がある人にとっては、「それなりに」有益だとは思うんだ。

そして、それでいいのかもしれない。ぼくは、このブログは朝日新聞の書評対象として採り上げるかどうかという視点で書いている。だからある種の一般性を本に求める。でも、別に一般性がなくてもよい本はたくさんある。たとえば以下の本についてここでコメントをするとしたら、「要領よくまとまっていて、工事士受験にはこれだけでいい。特にオームの法則程度の電気知識があればこの本と過去問集で十分。ただし実技は手を動かして練習しないとダメだからこれだけで安心しないこと。2.0mmの電線が入ったときのスリーブ選びは気をつけて、圧着ペンチは黄色、ループを作るときにはぼくはラジオペンチがいちばんいいと思う。そしてやはりこの特定領域に閉じていて、誌面で紹介する価値はない」と述べるだろう。でもそれは、この本がダメということではない。ちなみになんでアマゾンの星がこんなにすくないんだろう??

2012年版 第二種電気工事士テキスト (LICENCE BOOKS)

2012年版 第二種電気工事士テキスト (LICENCE BOOKS)

そして松谷の本も、SPA!とか最近のサイゾーとかで見かける、「肉食女子と草食男子の2012年最新オフィス力学総力分析」とかその手の記事の発展系としてはいいだろう。おもしろい分析と、巧みな分類があり、それを代表/リードする存在も示され、その相互の力学もある。流し読みの記事なら、「ああ、あるある、おもしろいねー、なかなか気が利いてるよなー」でいいと思う。松谷は、その手のメディアのその手の記事のとっても上手な書き手だし、その才覚はうまく発揮されている。

そしてそれがまさに本書のダメなところにつながっている。彼はそういうのがうまくなりすぎて、それ以上のことができなくなっていると思う。さらにそれは、本書だけでなく、いまの日本の論壇なのかメディアなのか、その手のものすべてに共通するダメな部分なのだ。

というのも、あの本がやっているのは、基本的にこの手の「政局図」とかいうものとまったく同じなのだ。

いろんな丸を書いて、あれやこれやで相関があるので矢印で結びました。そしてこんな全体の見取り図ができると、なんか一仕事したような気になって安心します、というやつ。新聞やテレビの時事ナントカでも、この手の代物をだして識者がしたり顔をする。でも、これを見たところで、テレビや新聞からこの手の情報を得ているような人はどうしようもないし、何もできない。へえそうなんですかー。それで? こんなものを見ていたところで、明日になったら仙石と桝添が手を組んで、そこに大きい矢印ができるかもしれない。なんかわかったようで、これだけ見ても何も実はわからない。

というより、本当であれば識者の「識」というのはこの相関図から何を引き出すか、ということであるはずなのだけれど、実際にはこんなのが書けますというだけのことが「事情通」と称して幅をきかせる。それが日本の情報メディアの堕落だし、また日本では情報にはお金を人が払わないといわれるけれど、それはその「情報」なるものがこの手のわけしり顔のゴシップとりまとめでしかないからだったりする。そんなの、ネットで代替できるんだよね。それで終わっては、金は払えない。

でも、三流ブロガーも一流(と思われている)メディアも、こんなのを見せることが政治に関する考察であり分析だと思っている。でもそこで停まっているから、何もできずにその時々の世間のノイズを拾うだけの存在になりはてている。そうそう、ちなみにアキバ48ってのは、メディアとその受け手がそんなことしかしない/できないというのを利用しつつできている。そのときどきで、A組だのB組だのがあってその親玉がだれで、だれとだれは仲がよくてこっちであれとこれが競演して云々。それがニュースだと思ってる。そして松谷本もそこで停まっている。

さてこういう言い方をすると、上のコメントに出てくるもう一つの物言いが出てくる。いや、そうしたものをとりあえず俯瞰的に見せるだけでも価値がある、と。

これは非常に悩むところではあるし、否定できない話ではある。地道なデータを積み重ねるような努力も評価されるべきだ、というわけね。そして確かにぼくも、それを評価しないわけじゃない。でもそれは冒頭に書いた通り「それなりに」評価する、というものでしかないと思う。そしてそうした地道なデータ蓄積努力が評価されるのは、いずれそれがそのデータを元に何か大きなブレークスルーが実現した、あるいは少なくとも、ブレークスルーが実現しそうな場合に限られると思う。ぼくが鼻くそをほじる回数と時間と出てきた鼻くその大きさや質をたんねんに記録したデータを作ることはできる。でも、だれもそんな地道な努力を評価したりはしない。なぜそのデータが重要なのか? なぜそれを調べる必要があるのか? そこからどんな知見が得られるはずだと思うのか? それを提示せずに「いっしょうけんめいやりました」「心をこめてやりました」でなんか評価してもらえると思うのは、ぼくはクズだと思う。

そしてそっから次の

地図や年表には意図があるのか?


もちろんありますとも。この人のこの記述は、明らかに反語だ。この人は、地図や年表に意図がないと思っている。でも、そこに意図はある。ぼくの目の前に電話機がある。でもその受話器の材質、ボタンの色、すべてに意図がある。何か自分でものを作ったり、あるいは家を建てたりした人は知っている。洗面台をどれにしますか、便器を何色にしますか、と言われて、人は戸惑う。そんなものに意図があるとは思っていないから、そこに何か意図を求められるとうろたえる。でも、あらゆる人工物は、すべて何らかの意図を経てそこにある。だれかがそれを能動的に選んだからそれがそんなものとしてそこにある。年表の一行、地図の記述一個や点一つにはすべて意図がこめられている。

それを理解せずに、なんか中立的に何の意図もなく存在している人工物があるという変な幻想が、多くのネット上の連中にははびこっている。だからそういう連中は、意図があるとかきくと、すぐにバカみたいな過剰反応を示す。電通の陰謀ガーとか放射脳がーとかロスチャイルドがーとか。何かにこめられた意図を理解するというのが、くだらん下衆の勘ぐりをすることだと勘違いする。

でも、そこで言っている「意図」というのはそういう話じゃない。受話器の材質にこめられた意図は「安くて成形しやすい材質がいいなー」ということだけかもしれない。便器の色を選ぶのは、汚れたらすぐわかるような色がいいなとか、手持ちのタオルにマッチした色がいいな、とかそんな意図の反映だったりする。

一方でぼくは年表とか相関図とか作ったこともあるけれど、その際に「あまり政治的な意図をこめずに客観的に」と言われたりする。でも意図をこめるな、というのも意図だ。それは一方で、それをある特定の形で政治的に利用しようとする人々を阻止しようという、これまた政治的な意図の反映だ。(昼休み終わっちった。書きかけ。つづく)



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