- 作者: エリック・ブリニョルフソン,アンドリュー・マカフィー,村井章子
- 出版社/メーカー: 日経BP社
- 発売日: 2013/02/07
- メディア: 単行本
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まずこの本を採り上げるなら、一応お約束なのでこれを……
原題は一応意識してるみたいなので、言及してあげるのが筋ってもんでしょー。
で、本の内容はつまらない。機械が発達しているので、単純作業はどんどん置き換えられ、それを使える高技能でスーパースターな超高給取りと、もはやクソの役にも立たない機械以下の仕事に甘んじるしかない低技能職との二極分化が起きつつあるそうな。いま失業者がたくさんいるのはそのせいなんだって。景気が回復しても失業が減らないのも、所得格差が広がっているのも、そのせいなんだって。
そういう議論があり得ることは認めよう。機械は確かに頭がよくなっているし、いろんな仕事を代替できるようになった。機械化が進んでも新規雇用が別の部門で生じるとは言われるけれど、それが起こるまでに時間がかかるのも事実だ。
でも、著者たちは本書の冒頭で、こうしたものについて別の説明があることも述べている。クルーグマンらが主張している説だ、というんだが、その説は「景気循環説」でかたづけられている。循環するんだからほっときゃいいよ、という説みたいに見えるんだけれど、でもクルーグマンも(そしてスティグリッツも)、そんなことを言っているわけではない。悪質な歪曲だと思うな。かれらの主張はむしろ、失業や格差が生じたのは富裕層が自分に有利なシステムを作り上げて、所得分配をゆがめた部分、同じく高所得者への減税、弱者保護の各種政策が打ち切られたせいが大きい、というものだ。
すると、ぼくたちとして気になるのは、いまの失業や格差というのは、どこまでがその機械の性能向上のおかげで、どこまでがその景気循環とやらか、あるいは制度要因によるものなのか、ということだ。
ところが本書は、冒頭で機械の性能向上も原因なんじゃないかと述べると、あとはもうひたすらそれだけ。そして最後は、だから学校教育に力を入れろと述べる。あと、起業しやすくしろ。雇用保護や解雇規制は撤廃しろ。それから知的財産保護は人間が得意とするアイデアの組み合わせをやりにくくするから、もっと弱めるように。
でもこの政策(そしてそれら自体は、雇用保護の撤廃以外は特に悪くはないだろう)を採用すべきかは、機械に人間が負けているために生じている失業が、いま(またはこの先)どのくらい拡大するかによるよね。それをきちんとどころか、まったく見ていないというのはかなりひどいんじゃないか。
さらにもう一つ。機械のせいで所得格差が広がっているかもしれない。でもそうしたら、当然考えるべき別の手があるでしょ。所得再分配を強化すれば? 著者たちは、学校の先生にもっと給料を、という。でもそれ以外のところにだって再分配はできるはずだ。それができれば機械と競争する必要なんかないじゃん! 機械の活躍によるあがりを、うまくみんなにわけるようにすればいいんでしょ? 金持ちが金持ちになったのは、本人の努力よりは機械のおかげなんだったら、努力に見合わない分を召し上げる説明もつくんじゃないかな。
そして、この政策が目指しているのは、つまりあらゆる人間が博士号を持っているような世界だけれど、そうしたらみんなの所得がそのスーパースター的な水準になるんだろうか? 何かが豊富になれば、それは安くなるというのは経済学の基本だと思う。いま大卒の給料が高いから、みんな大卒にすればみんな給料が上がる、というのは基本的な議論として変だろう。
ITバブル華やかなりしアメリカでは、新興成金が女中や執事を雇うのが流行った。このため、女中や執事の給料がはねあがり、中には掛け持ちでご主人さま方より高給取りの執事なんかも登場したとか。給料は能力だけで決まるわけじゃなくて、需給で決まる。とにかく大卒を増やせというだけではダメだろう。エジプトやチュニジアの若者どもは大卒が増えたけれど、所得は上がらないし変にプライドばかりあがって失業も増えるばかりだ。
いやそれどころか、実は大卒とか知識階級とか言われる人々の仕事こそ、本当は最もコンピュータに向いているんじゃないか、という説すらある。そして、それにより肉体労働の価値が上がり、高等教育の価値なんか下がるかもしれない。本書でも肉体労働が人間の優位性かもというくらいは指摘されているけれど、そうしたら今後は肉体労働こそ(たとえば掃除とか狭い厨房でのハンバーガー作りとか)は給料が高くなるってことになるはずなのに、なぜかそれはスルーされる。肉体労働が評価されて高等教育なんて意味なくなるというのはクルーグマンが書いていたことで、だからぼくは彼って本当にえらいと思うのだ。ぼくが初めて訳したクルーグマンの雑文がまさにこれだった。
「ホワイトカラー真っ青」(White Collars Turn Blue)
これと、「良い経済学、悪い経済学」に入っている「機械のナントカ」いう文章。正確な題名忘れたけれど、ヴォネガットのプレイヤーピアノの話から始まってるやつ。(コメント欄によれば「技術の復讐」だそうな。ありがとうございます)
- 作者: ポールクルーグマン
- 出版社/メーカー: 日本経済新聞社
- 発売日: 2000/11/07
- メディア: 文庫
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そしてもう一つ、機械/技術は技術の論理で動き、人間は技術にとっての大腸菌やビフィズス菌みたいなものだという考え方がある。すると機械様に取り入って人間の暮らしやすい環境を作るにはどうしたらいいか、というアプローチもたぶんあると思う。これはSFの昔ながらのテーマだし、ブライアン・アーサーなんかがその手前みたいな話をしていると思う。
- 作者: W・ブライアン・アーサー,有賀裕二,日暮雅通
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2011/09/23
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こういう本から受ける刺激みたいなものは、本書からは得られないし、またこの説の妥当性や重要度についての知見も得られない。主張自体は昔からよくあるものだし、また因果関係のきちんとした説明がないため、食い足りない気分と退屈さ加減は否めないと思う。
また小峰隆夫の解説は、感想文にとどまっており存在意義がないし、小峰の不勉強ぶりを露呈させていて嘆かわしい。本書ではリーマンショック以後の景気停滞を、大不況という用語で表現する。これについて小峰曰く
私の常識では「大不況」といえば、1929年十月のニューヨーク証券取引所での株価の大暴落後の世界的大不況なのだが、この常識はもはや古いのかもしれない。現代の人々にとては、リーマンショック後こそが最も大不況と呼ぶのにふさわしい出来事になっているのかもしれない。そんなことを感じた。
……あのー、1930 年代のやつは「大恐慌」(Great Depression) と呼ぶのが普通です。これに対して、いまのはあれほどひどくはないという意味をこめていまの世界金融不況を Great Recession (大不況)と呼ぶのは、ごく一般的な用法だ。ぼくですらすでにこの用語を使う本を二冊(三冊かな)訳しているほど。小峰は最近の本をまるっきり読んでいないのかな?日経BPも、指摘してあげればいいのに。
また、翻訳は村井章子のいつもの平板な訳で、可もなく不可もない。が、本書の造本はすごい。表紙/カバーのデザインは、やたらにお金をかけて力の入ったしろもので、帯で隠すのが惜しいほど。「機械との競争」の、まるで表現主義やフォルマリズムっぽいタイポロジーなんだけど、実に見事(上の書影では「機械」まで出ていて「との競争」は背表紙になっている。わかるかな?)。そしてエンボス加工で手触りもいい感じ。せっかくだから、デザイナーの名前を挙げて讃えておこう。佐藤亜沙美@cozfish だって。本文の紙もえらく凝っている(でもちょっとめくりにくい)。が……内容的には、これこそ新書で出すべきでは、とは思う。
付記
cozfish ってこれか。
http://yoicomic.blog24.fc2.com/blog-entry-166.html
いいデザインの本いっぱい作ってるなあ。
山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.