- 作者: 佐倉統
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2013/05/24
- メディア: 単行本
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題名を見た瞬間にどんな本かわかると思う。便利すぎるのはよくないんだって。生活に不便を取り戻さなくてはならないんだって。消費社会というのは無理矢理、便利を生み出し続けなくてはならず、それがよくないんだって。
ここにある発想は、人々は便利なんか求めていないんだけれど、産業社会とか資本家とか電通とか悪いやつらが、無理矢理便利さを人々に押しつけていて不幸になっているという図式。人々はバカで、自分にとって何が幸せかわかっていなくて、したがっておえらい学者様(佐倉みたいな)が適正な不便さを決めてそれを人々に強制しなければ、社会の価値観なるものを無理矢理ひっくり返してやらなければ、というわけ*1。
でも実際は、便利なものを求めるのは一般の人々だ。だれも人に便利さを強制してはいない。コピーは便利だけれど、それがいやなら手書きで資料を写してもぜんぜんかまわない。消費社会だって別に無理に便利さを生み出しているわけではない。人々がほしいものをうみだそうととし、いろんなものがもう少し使い勝手がよくならないかという工夫の結果でしかない。
それがよくないと思うなら、ご自分がやめるのは勝手だ。ご自分が不便さの中で生きるのはまったくおすきなように。でもこういう人々は、自分は安楽な立場において、電気も使い、パソコンもコピーもエアコンも使い、その上で他人にはそれをあきらめろと説教する。この本もその範疇を一歩も出ない。で、どの便利をあきらめるの? それに関わるどのシステムをなくすの? 掃除機や洗濯機禁止例でも出しますか。なんか最後は地産地消で小さな技術で云々という話。それで世の中ちゃんとまわるの? そういう検討なし。それじゃただの妄想だ。
ちなみに技術の様相についても、今後世界中の電気や上下水道がなにやら国際機関に管理運営されることになるとかいうんだが、何いってんですか? 民営化とかきいたことないんですか? あらゆる技術はビッグシステムに向かい原発みたいになると言って、反原発をてこにあらゆる技術を否定しようとするためのレトリックなんだけれど、あまりに技術認識としてひどすぎ。
この本は、ぼくが冒頭に出てくる。ぼくはどんどん便利にするのは結構なことだと思っているし、それを進めるべきだと思っている。だから本書では悪役として使われているというべきか。それは非常に光栄なんだけれど、同じ悪役でもこういう中途半端な使われ方をするとねえ。インタビューされたとき、ここに書いたようなことは言ったと思うんだが、言わなかったかな? どうせならこの本全部を否定できる程度には徹底した悪役にしてほしいなあ。
ちなみに本書の帯には「のび太はドラエモンのおかげで、本当に幸せになれたのか?」と書いてある(文中にはドラエモンは出てこなかったように思う。流し読みしかしていないが)。これは反語と見るべきだろう。のび太は幸せじゃなかった、ドラエモンがいろいろ便利なものを与えてくれたのはよくなかった、と言いたいんだろう。でも、ドラエモンというのが、のび太の生活を未来グッズでひたすら便利にするというものではなかったのは、実際に見た人なら知っているはずだけどね。たいがい、怠け者ののび太はそういう手抜きをしようとして、でもまわりまわってしっぺ返しがきて、のび太くんは多少は人間的に成長する――それがドラエモンの基本的なテーマだったはず。そして、その中でのび太は成長し、未来に夢を持ちつつそれに依存しない自律した子になる――ドラエモンって、そういう話だったと思うし、ドラエモンが人気をはくしたのは、そのようすがぼくたち一般の子どもたちから見てとても幸せで楽しそうだったからだ。便利は、すごいけれど新しい悩みも生むよ――本書は、このドラエモンのテーマを小難しく言っただけだけれど、藤子不二男は、だからドラエモンを破壊しろとは言わなかった。ドラエモンは(新しい悩みをもたらしつつも)共に暮らす存在だった。ぼくはそれが正解だと思う。それは幸せの姿だと思う。そのジタバタや新しい悩みも含めてのび太は幸せだったとぼくは本気で思う。
で、佐倉的(あるいはこの帯を考えた編集者的)には、のび太は不幸だったんですか。へーえ。いや、ぼくはそういう人に他人の幸不幸を語ってもらいたくない。それと、ぼくは他人の幸せを重視する優しい人なので、もう今後、佐倉統からは電子メールがきても返事しません。手書きの封書を歩いて持参しなさい。不便がいいんでしょ。それが幸せなんでしょ。まったく。
山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.
*1:こう書くと、佐倉をはじめとするこの手の論者は「いや自分が決めて強制しろなんて言ってない、もっとみんなで考えるべきだと言いたいだけだ」とかいう。おなじことだ。それはつまり、みんなはまだ考えていないと見下しているに等しいのに、それについて自分で責任を取る覚悟がないだけ、かえって悪質だわ。