任期の切れた朝日新聞の書評委員だけれど、役得といえば本がたくさんもらえて読めることとお弁当に加えて、えらい委員たちの雑談が聞ける、というのがあった。
で、ある日、横尾忠則がたいへん憤っていた。仕掛かりのまま手放した作品があって、それがある美術館に展示されているんだけれど、そろそろそれを完成させたいと思ってその美術館に連絡したら、そんなことをされては困ると言われたんだって。美術館としては、その状態の作品としてお金を払って購入したんだし、それを改変するのはダメというわけ。
憤るといっても別に激怒ではなく、委員会席上のお笑い半分として横尾さんが披露した話しで、聞いていたぼくたちも、わっはっは、それは融通が利かないですねえ、と笑っておしまいだったんだが、いまやっている別の仕事でふとこの話を思い出したことですよ。
これは何なんだ、所有権の問題なのか、あるいは著作人格権みたいなものの話ってことになるわけ? コモンズの話でもあるわけだよな。横尾忠則の言い分もとってもわかる一方で、その美術館の言い分もたいへんにわかってしまう。
たぶん、この手の話がツイッターとかにあがると、偉大な作家様の創作意欲を否定するとは美術館なにさまのつもりだ、作家様にとって作品は自分の一部、それが未完の醜い姿をさらしているなんて耐えられないでしょう、おかわいそうに、みたいな意見が主流を占めることになると思うんだ。
でもぼくはむしろ、いったん手離れしたものはもう手離れしてるんだし未練たらしいこと言うな、とも思う。作家がどう言おうと、見る側はその途中の状態こそが作品、と思って享受しているわけだし、さらには作家にとって「これぞ完成」というすがたが本当にいまよりよいものになるのかは、何とも言えない。いまダヴィンチが復活して、「モナリザには実は猫耳つけるつもりだったんで加筆するね」と言ったらほとんどの人は阻止しようとすると思うんだ。長ったらしいだけの無意味なディレクターズファイナルアルティメットカット最終完全版というのもよく見かけて、当初の劇場版のほうがずっとよかったという場合はままあるわけだし。
その一方で、作家としてその作品についてどんな最終イメージを思い描いているのかも、やはり見る側としては興味あるところ。さてさて、なんとか折り合いをつけられないものか。複製時代の芸術であればそんな心配はない……と言いたいところだが、アウラはどうなってしまうのかとか、いろいろ、あれこれ考えてしまうよ。でもいまにして思えば、それがどの作品の話しで、それをどうしたかったのかという構想くらい聞いておけばよかった。
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